世界の墳丘から441「継体天皇はヤマト王権を征服した?」

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  • Опубліковано 2 тра 2024
  • 以前の動画で継体天皇はヤマト王権からの要請を受けて天皇の座に着いた際の話を紹介しましたが、今回は実は継体天皇はヤマト王権を征服したのではないか?という大胆な仮説を検証してみます。
    #古墳 #古墳時代 #継体天皇 #前方後円墳 #今城塚古墳 #滋賀県 #高島市 #高槻市 #琵琶湖

КОМЕНТАРІ • 56

  • @takedaharuki
    @takedaharuki 3 місяці тому +14

    船の絵。興味深いです。この頃には帆船が存在し、継体天皇は、大陸との交易、日本海交易、琵琶湖交易を制していたような気がします。

    • @gotas1975
      @gotas1975  3 місяці тому +4

      ご視聴いただきありがとうございました。後円部のほとんどの円筒埴輪に船の絵が描かれていたそうなので、継体天皇と水運、船は切り離せない存在であることが今回よくわかりました。もう少し突っ込んで調べてみたいですね。いつもありがとうございます。

    • @user-fw5jy1zf7y
      @user-fw5jy1zf7y 3 місяці тому +2

      日本海交易を掌握した。
      本当の出自は
      元出雲王家の富家(当時は熊野大社の社家宮司家で全国的な秘密情報組織、出雲散家(サンカ)の総元締め)の
      御次男、彦太君。
      が正しい出自。
      若き日、女系親戚である
      北陸の雄。蘇我本家の惣領娘の
      蘇我振姫との縁談が持ち上がり、
      蘇我振姫らははるばる
      熊野大社(松江)の
      春の大祭に参加すると共に
      彦太君との見合いの場が持たれました。
      若い二人は
      直ぐ意気投合、
      お互いにほとんど
      一目惚れ、、、
      と早速縁談は纏まり
      イズメ🙌
      イズメ🙌
      イズメ🙌
      彦太君は蘇我振姫を越前(福井)の蘇我本家に送り届ける
      との建前で
      春の麗らかな山陰路をゆるゆると
      先祖の陵墓を参拝したり名所旧跡を巡り観光したりと
      実質的な婚前、婚約旅行(史上初?)を楽しまれながら
      越前(福井)の蘇我本家に到着。
      富彦太君はそのまま
      蘇我振姫と華燭の典(結婚式)を挙げられて
      蘇我本家の婿養子~
      蘇我本家当主となり、
      名を蘇我オホド王
      と改められました。
      (オホド王の誕生)
      エエトコ
      (元出雲王家)の
      部屋住みのボンボン(次男)の
      アカン奴かと言うと佐に非ず。
      蘇我本家に入って直ぐに寝食を忘れる程に身を粉にして
      良くお働きになり、
      三国港を開港して
      日本海交易ルートの拠点化を計り、
      農地改革~新田開発にも成功して
      農業生産性を飛躍的に向上させる
      など
      所謂、ビジネスセンス、商売感にも優れた才を発揮。
      蘇我本家はあっという間に大繁盛、大繁栄を遂げました。
      北陸(道の国)~関東の豪族や親戚等とのお付き合いも疎かにせず、
      カリスマ性が彌光り
      やがて
      道の国連合(北陸)~関東の豪族(国主)たちから盟主と仰がれる程になった。
      その権勢は大和の平群大王家をも凌ぐ勢いで有ったという。
      一目惚れ😌🌸💕同士の
      振姫(蘇我大刀自)との夫婦仲も大変睦まじく
      二人の男子を設けられて、
      このお二人方は長じると
      父、オホド王を良く助け、補佐して
      蘇我本家をさらに発展させた
      (後にオホド大王(継体天皇)が崩御した後、いきなり大和に現れたお二人方は正当な後継者を声高に唱えた事から一時、年少で即位前のヒロニワ大王(欽明天皇)との二朝並立の様相となり混乱した。
      (蘇我兄弟は
      古事記等では
      継体天皇の後の大王(天皇)扱い))
      もとい。
      片や、大和の平群大王家(王朝)では
      歴代、評判の良くない大王が続いた事や
      大王と成るに相応しい男性後継者が途絶えて
      手白香姫命だけとなった事
      (要するに、
      王朝の重臣たち 
      (大王家とは親戚同士)

      平群(武内)大王家が愛想つかしされ
      みかぎられた)
      そこで、
      重臣たちによる鳩首会議の末、
      当代随一のカリスマ性と人望共に高く
      さらには平群王朝の大王家や重臣たちにとっては
      女系の本家本宗家筋の元出雲王家の富家の出身の
      蘇我オホド王に白羽の矢を立てて
      蘇我本家が
      大和の交易、営業活動の拠点としていた
      淀川水系の
      蘇我屋敷に
      重臣たちがぞろぞろと連れ立ち
      赴いて
      オホド王の一本釣り(笑)を画策した。
      平群大王家に婿養子~大王招請を持ち掛けると
      オホド王はまんざらでもなく良い感触。
      しかし、話が細目に入り、
      蘇我本家とは完全な離縁(振姫や息子たちとの離婚、離縁)
      があり
      とたんに強い難色を示されて
      オホド王の
      大王招請話は
      あわや破談になりかけましたが、
      大和平群王朝側の重臣たちの夜を徹しての粘り強い説得に
      折れる形で
      承諾。
      但し、
      言われっぱなし
      と言う事ではなく
      いくつかの提案を承諾させました。
      先ず、大和(奈良盆地)には拘らないし行かない。
      交易物流、交通の要衝である淀川水系の
      樟葉に大王宮を置く事。
      出雲王国時代は王家王族が装着を義務付けられていて、
      王国滅亡の後もハイソ階級の身だしなみとして定着化していた
      勾玉等の瓊(宝石宝玉類)を大王家が独占し専売とする事
      (大王商売は大当たりしてボロ大儲け)
      他。
      手白香姫命と結婚、
      大王家の婿養子~
      オホド大王
      (継体天皇)
      が誕生した。
      この時、
      大王は当時としては高齢の
      48歳で在られた。
      樟葉のオホド大王宮には
      従来から盟主と仰ぐ
      北陸~関東の親戚や豪族たちが自ら出向いて
      恰も家臣の如く
      甲斐甲斐しく働き、
      子女を後宮に送り、
      親戚と成る事を争った。
      手白香姫命との一粒種、
      ヒロニワの皇子(欽明天皇)が生まれて、
      欽明天皇~が本当に万世一系の皇室。
      また
      この際、実質的な易姓革命が成されて
      男性血筋は我が国本来の
      出雲王家(出雲神族)に回帰した。
      オホド大王~
      の大和の大王家(皇室)はその出自から
      本家である
      元出雲王家、富家を大変大事にしたし
      出雲地方を重要視した。
      オホド大王の孫世代。
      用明天皇が生前築造したのが
      寿陵の桃源陵墓。
      物部守屋らに大王宮ごと焼き殺された
      用明天皇の亡骸は
      皇子の上宮皇子により
      件の桃源陵に葬られました。が、
      後に表土ほか綺麗さっぱり剥がされ石室だけとなり、
      醜態をさらしているのが
      所謂、石舞台古墳。
      蘇我馬子の墓というのは目眩まし。
      この桃源陵は
      出雲の幸の神信仰(原神道)による
      四隅突きだし方墳を
      省略化した
      方墳だったという。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k 2 місяці тому +1

      @@user-fw5jy1zf7yさん
      北陸に蘇我氏本家あったとしても
      振姫は蘇我ではないよ。
      江沼 三尾氏 だよ。

  • @user-ke8dr2gm9t
    @user-ke8dr2gm9t Місяць тому +2

    初めて拝見しました
    説明、話し方とても分かりやすかったです
    なかなかの仮説…!
    無理やり?後を継がされた継体天皇のイメージが変わりますね👍
    私は福岡に住んでいます
    鮮やかな装飾古墳に浪漫を感じています

    • @gotas1975
      @gotas1975  Місяць тому +2

      ご視聴いただきありがとうございました。
      かなり大胆な仮説を立ててしまいましたが色々な見方があるのではないか?と思っています。九州の装飾古墳、ロマンがありますよね!まだ見たことがないので見てみたいです!

  • @dokuritsu_again
    @dokuritsu_again 3 місяці тому +3

    配信ありがとうございました!いつも解説が実証的かつ良心的で(学問的に)素晴らしいと思います。

    • @gotas1975
      @gotas1975  3 місяці тому +1

      ご視聴いただきありがとうございました。またうれしいお言葉をありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いします。

  • @TOSHIHIROTADA
    @TOSHIHIROTADA 3 місяці тому +4

    貴重な動画をありがとうございます。琵琶湖を拠点にしていたのなら、高度な造船技術や航海技術を持っていたとしてもおかしくありませんね。継体天皇は、即位してから大和に入るまで年数がかかったみたいですし、その間に争いをしていたのかもしれないと思います。

    • @gotas1975
      @gotas1975  3 місяці тому +3

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り高度な航海技術を持っていたと思います。ヤマトに入るまでの期間も気になりますよね。

  • @user-ss6iu3im5w
    @user-ss6iu3im5w 2 місяці тому +3

    いつも楽しく見させていただいてます。高島の三尾が彦主人王の別業ということなので、本拠地は別にあるのかなと、いつも不思議に思ってました。 若野毛二俣王 、大郎子、乎非王も、どこにいたのか気になります。やっぱり大和のどこかでしょうか。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому +2

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り別業ですから本拠地は別かもしれませんね。ヲホドノオウの曽祖父の墓は茨木の太田茶臼山古墳との説もあり、非常に気になります。

  • @giantszero6962
    @giantszero6962 9 днів тому +1

    埴輪の絵はマストのある船なのか?
    船と海運に注目して近江越前の地理的特徴を生かしたとする意見、説得力あるね。

    • @gotas1975
      @gotas1975  9 днів тому +1

      @@giantszero6962 さん、ご視聴いただきありがとうございました。埴輪の絵はマストのある船ですね。日本海側の国々は大陸との交流が盛んであったと想像できますよね!

  • @user-ks8fw4bp4w
    @user-ks8fw4bp4w 2 місяці тому +2

    古代は日本海側が表日本でしたから、朝鮮や中国との交易で隆盛していたはず、仮説として素晴らしい。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому +1

      ご視聴いただきありがとうございました。やはり日本海が表玄関ということはヲホドオウがかなりの力を持っていたことも考えられますよね。海運、物流を押さえていたのでしょうね!

  • @kyupytarou
    @kyupytarou 2 місяці тому +3

    本編でもおじゃまします。
    今年になって湖西を高島辺りから巡りました。 神社お参りが主でしたけれど本編ご紹介のオホドの大王ゆかりの地をまわりました。
    石棺の石が二上山からとは知りませんでした。琵琶湖を北上してきたんですね!
    この辺りは石の文化の重要地域です。穴太衆に代表されます。石山寺や日吉大社に残る石積み技術は目を見張ります。
    地名に残る大陸由来も興味あるところです。蓬莱山など徐福の影響を想像します。 和邇は勢力の痕跡です。
    琵琶湖を取り巻く時代背景に魅せられます。
    ちなみに当方アイコンの画像は安土城天守跡から見た琵琶湖です。
    信長もこの景色を見て野望を抱いたんでしょうね!
    継体天皇との出会いは…かつて樟葉に住んでいました。交野天神社お参りの際にそこが継体天皇が都を置いた地と知りました。謎多き大王と知りました。興味の原点です。
    神社お参りやら古墳を巡って勢力の変遷が見え出した頃にすっかり古代にハマりました。
    UA-camの参考になるチャンネルも増えました。(消えたのもあります)
    今後とも宜しくお願いします。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。琵琶湖の雄大さはおっしゃる通り感動しますよね!古代から戦国時代に至るまで琵琶湖を制した者が天下を制するようなことがあったのではないかと思います。樟葉は継体天皇が最初に宮を設けた地と言われていますが、その辺りも詳しく調べてみたいですね!こちらこそ今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました。

  • @akisuzu55
    @akisuzu55 2 місяці тому +2

    継体天皇の父方の勢力は琵琶湖西方(現在の滋賀県高島市)に居たと特定されて居る様ですよ。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り高島市には継体天皇所縁の地がたくさんありました!

  • @qwerty-td6qt
    @qwerty-td6qt 2 місяці тому +3

    継体天皇の即位は王朝交替説もあるように、謎が深いですね
    父の出身地は近江の三尾だとされていますが、実は三尾は福井にあって後の三国氏ではないかとの説もあるようです。加えて祖父が岐阜県南部の国造だった様です
    つまりは継体天皇は越・近江・美濃・尾張の連合体で、それを河内王朝の物部と大伴が担いで、三輪王朝の残党を征服して飛鳥に新王朝を建てたと
    私は5世紀の倭の五王は河内王朝ではなく、越・近江の王が朝鮮半島南部との交易の権益を新羅・唐から守る為に南朝の宋へ朝貢したのではないかと推察しており、当時の越・近江国の力は畿内を超えていたのではないかと睨んでいます

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому +2

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り王朝交代説も大変興味深いですね。今回は省いてしまいましたが、他の豪族との関係性も考慮すると更に違った側面が見えてくるかもしれませんね。引き続き調べていきたいと思います。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому +1

      父方の祖母が飛騨の国造でなかったっけ?母方は、要は振姫の母は加賀江沼氏 
      継体天皇の奥様は尾張など 凄い
      それが、越前に嫁いできたのが すごいよね、

  • @Ablet96
    @Ablet96 2 місяці тому +1

    新羅を建てたのは倭人である可能性が高い、ということのようなので、北陸地方と新羅の間では盛んに交流があったのではないかと思います…
    仮にヲオドノオウが応神天皇の血筋を受け継いでいるにしても、傍系のまた傍系のような存在で、良くても後世の清和源氏や桓武平氏みたいな扱いになる筈で、5代目といえば、源氏だと源頼義、平氏だと、高見王が実在と仮定するなら平将門に当たることになり、そんな人物が天皇に即位するというのはただならぬことが起きた考えるのが自然だと思います。
    継体天皇、及び彼の息子である安閑、宣化天皇は、ともに仁賢天皇の娘を皇后としているし、欽明天皇が継体天皇と皇后の間の子であることによって、安定的な皇位継承がなされたと考えると、一筋縄では行かない何かがあったのだと思います…

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りやはり日本海側の各地は大陸との繋がりが相当強かったと考えられますね。またヲホドオウの代に何かが起こったことは確実で物語と真実の狭間がちょうどこの時代であったのかもしれませんね。詳細な推察をありがとうございました。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому +1

      この時代 母系が強いと思う。
      手白香皇女の母 祖母見てみたらわかるわ。

  • @user-dz9qn1ru3k
    @user-dz9qn1ru3k Місяць тому +1

    三尾氏 福井の三尾氏忘れてます。

    • @gotas1975
      @gotas1975  Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。
      確かにそうですね。

  • @user-um6zz7ol5b
    @user-um6zz7ol5b 2 місяці тому +1

    ヲホドオウの出身地の越国は記紀の八岐遠呂智にも出てくる由緒正しき古い国。昔の海路は越国、出雲、朝鮮半島東部に向かう海流があり、玄界灘、対馬方面より安全で交易が出来ていた。新羅が出来るまではメインの海路だと考察できる。日本の古い鉄器は新羅周辺の鉄が使われてるので軍事的にも強い。ヲホドオウが征服したか判らないが強い豪族。古代ヤマト政権が連合国家と思われるので権力闘争なのかもしれない。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。
      鉄との関係も軽視できませんよね。おっしゃる通り権力闘争に勝ったということは大いに考えられると思います。

  • @user-qq2ij4ue4c
    @user-qq2ij4ue4c 2 місяці тому +3

    仮に征服だとしたら、記紀に英雄譚として残さない理由があまりないんではないかなあ……
    まあ、物部系のからみで……とかはあるかもしれないけど。
    エピソードがあまりないということは、わりとグダグダ&なし崩しで決まった継承だったんではないかなあ?
    個人的には福井人の知り合いはマイペースな人がやたらと多く、「福井人が征服?」というのに必要以上に違和感があるのかもしれない

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。あくまでも個人的見解ですが記紀の編纂者はヲホドノオウを英雄にしたくなかった、万世一系にこだわる必要があったのではないか?と思っています。ただ他の豪族との絡みは私ももう少し丁寧に説明する必要がありましたね。福井の方お話、おっしゃる通り意外と真実はそういう人間臭い所にあるように思います。ほっこりするコメントをありがとうございました。

    • @user-qq2ij4ue4c
      @user-qq2ij4ue4c 2 місяці тому +1

      ありがとうございます。
      万世一系にこだわるなら、逆に話を盛るところだと思うんですが、なんというか……いざこざがあったようなのに地味ですよね。
      福井から近江ルートといえば、戦国期の朝倉氏と浅井氏を思い出しますが、地政学や軍事行動のモデルケースとしてみると……
      古代の近江の歴史というのは、水運などの民俗まで含めて掘ってみても面白いかもしれませんよね。高穴穂宮の話とかも。
      現代と古代の違いは、山の稜線ルートと河川交通の感覚の違い……と聞きますが、近江も福井も山と水運の土地ですよね

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      @@user-qq2ij4ue4c さん、おっしゃる
      通り地政学や物流の話を絡めるともっと多くのことが見えてくるのではないか?と思います。特に日本海側の諸国は海外との結びつきが強かったはずなので船の航路、構造なども興味深いです。色々な考えが浮かんできます。ヒントをありがとうございます。

  • @yoshitomurai2545
    @yoshitomurai2545 2 місяці тому +2

    船の絵ではないのでは?

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому +2

      ご視聴いただきありがとうございました。今城塚古墳に隣接する今城塚古代歴史館にて船の線刻画であると展示されております。学術的にも船であるとされているようです。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому +2

      船だよ。
      陸つたいに 日本海側など交流して
      まして 大陸と貿易していました。

  • @user-ou4rk6ql7e
    @user-ou4rk6ql7e Місяць тому

    継体天皇って怪しい人物ぢゃ。ホンマに皇統に連なるヒト? 闇の中でしかない。

    • @gotas1975
      @gotas1975  29 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。本当に謎が多い人物だと思います。

  • @user-nz4lw4mm4b
    @user-nz4lw4mm4b 2 місяці тому +1

    継体天皇は中央アジアの遊牧騎馬民族の王であり、東へ移動し日本海を渡って当時の表玄関である日本海側の越に上陸し勢力を築いていたのです。

    • @gotas1975
      @gotas1975  2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そのような説があるのですね。やはり海運とは切り離せない大王だったのかと思います。