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蜘蛛族をひきいる長髄彦が葛城生駒を越えて大和に入ろうとした神武天皇を阻止し、熊野吉野を超えて大和に入った神武天皇は御所の柏原で即位し大和朝廷が成立。その後、力を付けた大和朝廷は、葛で作った網で蜘蛛族を一網打尽にして焼いたと言うことで、葛城という戦勝地の名が出来たことは有名ですが、4世紀後半の武人を考えると、武内宿禰以降の神功皇后と葛城襲津彦の時代ですね。これほどの大きな古墳は大和朝廷を構成したメンバーが葬られており、戦勝地北部の抑えとして築かれた古墳として予想されます。
ご視聴いただきありがとうございました。またご丁寧に色々なことをご教授いただきありがとうございました。ヤマト王権の構成メンバーが被葬者とのこと、私は逆を予想しているのですが、いずれにしても興味深い時代ですよね!ありがとうございました。
大手メディアの映像よりだいぶわかり易いですね。一般公開だけでこの内容、楽しく拝見できました。
ご視聴いただきありがとうございました。わかりやすいと言っていただき大変うれしいです。これからもよろしくお願いします。
今日、私も見てきました。世紀の発見に立ち会えて感激でした。
ご視聴いただきありがとうございました。正に世紀の発見ですよね!これから先の展開も大いに期待したいと思います。
ワクワクしながら視聴しました。こんな古いものがよく残っているものですね!そして現代の我々がそれを目にする事ができるなんて。素晴らしい動画、ありがとうございます😂
ご視聴いただきありがとうございました。保存状態も良く素晴らしい副葬品でした。どのように作られたのか興味が尽きませんね!
俺も長髄彦のモデルになったような人物の墓では?と思ってました。これだけ大きな古墳なのに付近に他の古墳がなく単独、また盾形銅鏡という後に繋がってない副葬品とかは滅んでいった感じがしますね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り他に類例のない副葬品等を加味すると長髄彦のモデルになった人物にも繋がるように思うのですが、被葬者像は色々ありそれを想像するのもまた楽しみですね。
考察や空想が楽しくもあり、今後の展開や発表が楽しみな話ですよね!素敵な動画の公開ありがとうございます!
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り答えが明確でないだけに色々な空想を巡らせることは本当に楽しいですね!
早速見学に行かれたのですね。被葬者論はともかくも、よくぞこれだけ貴重な出土物が保存されていたことに感激しています。割竹型木棺もここまで残っているのも非常に珍しい事ですし、立った状態で仕切り板が残っていたことも初めてです。いや素晴らしい。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り昨年の蛇行剣もそうですが、保存状態も良く私も感動しました。今後の成果にも大いに期待したいですね!
すばらしい動画👋👋👋
ご視聴いただきありがとうございました。世紀の大発見をぜひご堪能ください!
ワクワクしてきます!
ご視聴いただきありがとうございました。これから先もどんな発見があるのか?本当にワクワクしてきますよね!ぜひ動画をご堪能ください!
お久しぶりです😀大発見ですよね。とても注目してます😊忘れられてる古墳でもちゃんと調査すれば歴史がひっくり返るような発見があるのかも知れません🤗
ご視聴いただきありがとうございました。お久しぶりです。いつも動画を拝見させてもらっています!おっしゃる通りまだまだ新しい発見があることに驚きますね!
@@gotas1975 さん御視聴いただいてるんですね😄ありがとうございますm(_ _)m凄く光栄です。これからもよろしくお願いしますね☺️
@@user-dk7mo6mq6k さん、こちらこそこれからもよろしくお願いします😄
四世紀後半の築造ならば、崇神天皇の数代後となるので、長脛彦の同定は難しい。また古墳の形状から大和朝廷に抵抗した云々ということも、おそらく被葬者は物部連氏のような王権に服属していた立場であると考えられる。以上から、御説はかなり怪しい。ちなみに長脛彦は桜井市のトミが有力だ。
ご視聴いただきありがとうございました。なるほど、おっしゃるように王ではないけれども王権に服属していた人物という説はごもっともだと思います。勉強になります、ありがとうございます。
@@kei.suzuki さん、ご視聴いただきありがとうございました。物部氏との関連はおっしゃる通りですね!大変勉強になります。ありがとうございます。
私は副葬品が特徴的であることからも、ナガスネヒコの可能性も残したいと思います。ふどきさんの古代日本史考 で展開されている多層重複近似構造というご説によると、記紀の年代順は当てにならず、記載されている事は倭の五王の時代からそう離れていないとのこと。いろいろな妄想を膨らましながら、楽しめればと思います。
記紀主体での時代考証自体がナンセンスだと思います。神武が本当に紀元前660年の即位をしたとお考えならそれで良いです。
希望以后有机会到大阪,骑着摩托车挨个慢慢探访这所有的古坟时代的坟丘!
請一定要參觀許多古墓。日本有許多迷人的古墓
さっそくのアップありがとうございます。行ってきました富雄丸山古墳公開!11時頃から1時間くらいいました。お天気もよくて最高でした。さて被葬者?想像するの楽しいですよね!以前によく見る神社のチャンネルで主さんが富雄丸山古墳と長髄彦を関連つけたらコメント欄で否定のするコメントありました。 なんでも年代に無理があるとか…古墳の年代がそんなに正確に比定されてもないうちに…みなさん希望と期待が過大になりがちのようです。今回の作り出しの調査報告でも副葬品の少なさにガッカリするコメントされたり…異例の少なさがまた被葬者の手掛かりになるんですけど…
ご視聴いただきありがとうございました。昨日見学されたのですね。私は5回位並びました。被葬者像については議論百出ですが、それを考えることも古代史の楽しみのひとつだと思っています。色々な方のご意見を伺いながら勉強していければなと思っています。
亡くなった祖父が、みたら喜ぶと思います。いつまでも、大切に残して貰いたいですよねー
ご視聴いただきありがとうございました。お祖父様は古代史がお好きだったのでしょうか。おっしゃる通り貴重な古代からの遺産ですから大切に後世へ伝えてもらいたいですね。
超地元なのに今回の説明会不参加(^^)。でも凄いですね。ワクワクしますね!!確かに鏡が足元は??ですね。私もナガスネヒコ説は大賛成です。いやあワクワクですね!!
ご視聴いただきありがとうございました。お近くだったのですね!被葬者説は色々ありますが、コメント欄にもたくさんのご意見をいただき勉強になっています!
すごい。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りこちらの古墳は世紀の大発見です。昭和の高松塚、平成の黒塚、令和の富雄丸山として後世に伝えられると思います!
ロマン大好き。
ご視聴いただきありがとうございました。古代へのロマンが広がりますね!
現地公開絶対行ってくださると思ってましたよ😁櫛の出土も興味深いし朱の残り方の生々しさも大変興奮しました。今後の発掘が楽しみですね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り朱の残り方が本当に生々しかったです。今後の成果が楽しみですよね!
@@gotas1975 奈良は遠くなかなか訪れる事ができないので、動画を見ることが楽しいです。もちろん奈良以外の古墳も。ありがとうございます👍
@@kunirobozz002 さん、いつもご視聴いただきありがとうございます。関西が中心ではありますが、これからも古墳の生の情報をお届けしていきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。
神武東征伝の図が端的過ぎてわかりやす過ぎて嬉しかったです。作り出し部の木棺と主葬部の写真の対比にもイメージを膨らませることができました。ありがとう!
ご視聴いただきありがとうございました。稚拙なイラストでしたがわかっていただいて良かったです。まだまだ何が出てくるかわからない注目の古墳ですよね!
@@gotas1975 「長髄彦」、古代史の直中に出てきてほしいですしね^_^
@@user-manyo-no-kioku さん、確かにマイナーな人物ですよね😅
素晴らしいお話でした。箸墓古墳に期待しています。
ご視聴いただきありがとうございました。箸墓も謎だらけですからね!箸墓の謎が解ければ古代史の謎も随分明らかになると思うのですが。
@@gotas1975 箸墓古墳の被葬者は倭兔兔楚媛であり、魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼です。
この動画はいいとこをついているね長髄彦本人ではなくても、その子孫の一族であった可能性は大きいと思う
ご視聴いただきありがとうございました。被葬者については様々な意見がありますが長髄彦のモデルになった人物が被葬者ではないか?と考えています。
富雄丸山古墳の被葬者は長髄彦ではありません。大王の関係者です。
富雄にある添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)のご神体は長髄彦です。考察通りですね。
ご視聴いただきありがとうございました。やはり地元にも長髄彦の伝承は残っているのですね。益々興味深いですね。
私も同じく富雄はナガスネヒコの地だなと思ってました。ナガスネという名だから 足が長いとか足に特徴があったのかな
ご視聴いただきありがとうございました。恐らくヤマト王権に抵抗した人物を長髄彦に例えたのだと思います。
そうか、でかい人間ならあのでかい剣をふりまわせるかもしれない
鳥居すね衛門。すね=強い。鳥居強衛門です。富の長洲の強い彦。いかがでしょうか??💡
長洲とは、和泉川=木津川です。現在の京都府南部がニギハヤヒのテリトリーだったのかもしれません?💡
日本書紀に、長髄とは「邑」の名前であったと記載されているそうですから、個人の身体的特徴ではないようです。武内宿祢や大和尊などと同様、「ナカスネ村のリーダー」という類の役職名だったのかも知れません。
すばらしい動画でした。蛇行剣!今、令和の古代史ロマンのシンボルですね
ご視聴いただきありがとうございました。いつも貴殿の動画を拝見し勉強させていただいております。私の勉強不足を痛感しながらいつも拝見していますのでコメントをいただきうれしいです!おっしゃる通り蛇行剣は令和のシンボルとして長く語り継がれることになると思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。
@@gotas1975 私の動画をご覧いただいているとは光栄のいたりです。私の場合は、素人の茶飲み話みたいなものですから、こちらこそ 大いに勉強させていただいております
@@user-qt3dh6he2f さん、何をおっしゃいますやら!いつも着眼点や深いご学識に感服いたしております。自分の勉強不足を痛感するばかりです。今後ともどうぞよろしくお願いします。
神武東征ですね、現時点では長髄彦云々までは言えませんがロマンやなあ。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りどこまでが史実なのか議論があるところですが、私は何らかの伝承がベースになっているのではないか?と思っています。
興味深いですね。神武東征と関係しているとするなら歴史のロマンを感じます。ただ疑問点があります。神武東征時に築造されたのならそれよりも古い前方後円分はほとんど存在しないはずです。なぜなら、神武東征後に大和王権が誕生したからです。ナガスネヒコ没後、数世紀後に新たに築造したのでしょうか?そのへんが疑問点ですね。
ご視聴いただきありがとうございました。実証はありませんがもし東征伝が何らかの事実をベースにしていたら可能性はありますよね!
曲がりくねった長剣と鏡の盾のセットで、ギリシャ神話のペルセウスとメデューサを思い出した。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り他に類例のない、まさに古代ギリシアにも通じるような魅力的な発見ですよね!
近鉄奈良線の富雄駅から少し南側に富雄川が流れていますが、その橋のあたりからあのあたりのメイン通りの鳥見通りが続いている。鳥見町という場所もその道路沿いにあります。トミというのはあの地名に関係しているのかな。神武なんてつくり話だと思っていましたが、時代が間違っているだけでひょっとしたら4世紀に実在したのかも。ただもし実在していたら中国の書物に載らないはずがないとも思うけど。
ご視聴いただきありがとうございました。富雄駅の近くに鳥見という地名があるのは知りませんでした。大いに関係していると思います。神武東征伝は何らかの史実をベースにしていると私も思っています!
登美ヶ丘のトミも由来は同じらしいです。近くの白庭台とかも神武由来の地名です。さらに北上するとナガスネヒコと深い関係にあったニギハヤヒを祀る、磐船神社があります。桜井市もナガスネヒコの土地と言われていますが、とにかく奈良北西部は神武東征に所縁のある地域に間違いないです。
@@toma3695 さん、ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り桜井市の外山もトビと読みますのでトミとの繋がりが気になりますが、やはり、奈良市にそれだけ伝承地が多いということは何らかの繋がりを感じますね。
@@toma3695 そうなんですか。もっといろいろわかってくると楽しみですね。
被葬者が女性だとすると、長髄彦の妹であり饒速日の妻の御炊屋姫の存在も気になりますね。系図では、饒速日と御炊屋姫の子が宇摩志麻遲命、その子孫の娘がヤマト王権の孝元天皇、開化天皇の妃となり、崇神天皇へと繋がります。個人的な考えですが、丹後の籠神社に祀られている火明を祖とする子孫の饒速日が淀川から天野川を下って(天下り)富雄や白庭台を拠点とする長髄彦一族と姻戚関係を築き、奈良盆地北西部での勢力を拡大していったように思います。淀川から奈良方面に分岐して流れる天野川添いに枚方星田の七夕伝説、饒速日の天下りの磐船神社、長髄彦本拠地や饒速日の墳墓がある白庭台。そして、白庭台の東にある富雄川を大和川方面に下ると、夫婦塚(御炊屋姫伝承地)や添御縣坐神社、登彌神社などがあり、富雄丸山古墳周辺には饒速日、長髄彦、御炊屋姫との関係の深い地域だと思います。
ご視聴いただきありがとうございました。今回の造り出し部分の被葬者が御炊屋姫との説は中々興味深いですね。やはり以前から富雄一帯が長髄彦や饒速日にまつわる伝承が神社も含めて残っていることを勘案するとこの一帯はやはり長髄彦にも関連が深そうですね。ありがとうございます。
工法は日本梯子西洋かいだん。螺旋工法は西洋と同じですね。ヌストは昔もいた、
ご視聴いただきありがとうございました。コメント欄で皆様から様々なご意見をいただき大変勉強になっております。ありがとうございます。
訂正古訓古事記には景行天皇のスネの長さが四尺一寸との記載。長過ぎるスネ。景行天皇のお墓なのかもしれません。夢が広がります。
ご視聴いただきありがとうございました。そのような記載があるのですね!被葬者像については様々な意見がありますが、おっしゃる通り考えるだけで夢が広がりますね!
神武天皇が東征する前から畿内にある前方後円墳はどういう位置付けと考えられますか⁇大和朝廷が畿内に入り、箸墓などの前方後円墳に合わせて天皇陵を真似て作るでしょうか⁇さらに真似て作っておいてナガツネヒコさんには前方後円墳の築造を認めないっていうのも変な気がします。ロマンのある考察だとは思います😊😊😊
ご視聴いただきありがとうございました。神武東征は8世紀に日本書紀が編纂された際、何らかの伝承を元に作られた話で前方後円墳の成立とは直接的には結びついていないのでは?と考えています。よってヤマト王権に反抗した長髄彦のモデルになったような人物が被葬者かと思うのですが、コメント欄で皆様から様々なお考えを教えていただき大変勉強になっています。ありがとうございます。
日本には伊邪那岐、イザナミの
時代から前方後円墳があります。ちなみに、伊邪那岐のミコトの古墳は熊本県山鹿市のチブサン古墳です。
僕は神武天皇に仮託されたのは5世紀後半(四条古墳群)の人物だと考えているので、長髄彦では時代的に合わないのでは?と思ってます。距離的にみて佐紀古墳群の関係者ではないでしょうか。
ご視聴いただきありがとうございました。なるほど!佐紀古墳群には時期的にも距離的にも近いですからそれもあり得ますよね!貴重なご意見をありがとうございます。
素晴らしい割竹型木棺ですね。神武=応神説をとれば長髄彦の線もありかもしれませんね。神后紀で言うところの海上五十狭茅宿禰か忍熊 篭坂辺りが同一人物ということになるのでしょうか。僕は稲荷山鉄剣の4代目タカヒシワケ辺りも有りかなと思っています。
ご視聴いただきありがとうございました。神武天皇をどのように捉えるかで色々変わってきますよね。古墳の実物を見て様々な想像を膨らませんこともまた楽しみのひとつですよね。これからも色々勉強していきたいと思います。
富雄丸山古墳はこの時代(4世紀後半)の他の古墳と比べて全く異様です。巨大円墳に造り出しがあり、墳頂はすでに盗掘にあっているようですが、造り出しに被葬者があったために空前絶後の超豪華な副葬品二点が出土し、さらに今回青銅鏡が3面出てきました。卑弥呼の鏡といううわさもあります。また竪櫛がでてきて「女性的な感じ」という意見が解説した考古学者から出ました。しかし、この時代の古墳に副葬された竪櫛は女性の持ちモノとは限らず、男性の頭部に副えられた例もあり、葬儀に使ったものかも知れません。もしも被葬者が女性であれば耳飾りや首飾りの玉類が大量に出るはずですから、被葬者は男性と見られます。墳頂の主体部に遺骸の痕跡が無ければ、最初から遺骸はなかったと考えられます。つまり、本当の被葬者を隠すために造り出しが作られたと考えられます。被葬者は大王クラスの人物で、何らかの理由で造り出しに隠されて埋葬されたと考えられます。この被葬者について推理しましたので、よろしければ「富雄丸山古墳からまた出てくるか?(@_@)?」blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/aec1fc2c02ebfecf65cdeab0fdf670f9 をご参照ください!
ご視聴いただきありがとうございました。貴殿のブログはいつも拝見させていただき勉強させていただいております。おっしゃる通りこちらの古墳は全国的にも類例のない様々な異質な要素を含んでいます。そこから何を読み取るのか、これからも貴殿のブログでしっかりと勉強させていただければと思います。ありがとうございました。
@@gotas1975 さん お返事ありがとうございます。それじゃあ、このコメントはすでにご存じかも知れませんね。お恥ずかしい(;^ω^)拙ブログで気になる疑問点がございましたら遠慮なくご指摘ください。今後ともどうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)
@@katumoku10 さん、いつも貴殿のブログで大変勉強させてもらっています。こちらこそ今後ともどうぞよろしくお願いします。
こんばんは😊
こんばんは。ご視聴いただきありがとうございました。
3:02位の所に映っている墳頂部の埋葬施設が、階段状に上から掘り下げられた形になっています。こういう形は、日本の古墳に多いのでしょうか?中国春秋戦国時代の楚の国の墓の埋葬施設が、そういう形です。まあ、数百年のズレがありますし、中国大陸の話ですから、たまたま似ているだけかもしれません。 このつくり出しに埋葬されている、女性だったかもしれない人物は、地位の高い、特殊な人だったと思います。卑弥呼から百年程度あとの人でしょうけれど、鬼道の伝統が受け継がれていたのかも知れませんね。
ご視聴いただきありがとうございました。墳頂部の写真は恐らく発掘調査の都合上の形かと思うのですが、すみません、正確なことは分かりかねます。ただ中国春秋戦国時代の墓にそういう形があるのですね。勉強になりました。造り出しの人物はおっしゃる通り特殊な能力を持ち合わせていたのかもしれませんね。
長髄彦=大彦これで時系列はなんとかなる
ご視聴いただきありがとうございました。その2人を繋げましたか!なるほど!なんとかなるかもしれませんね!ありがとうございます😄
説得力があると思います。神武東征以前は卑弥呼の墓のような円墳でしたから・・・前方後円墳はヤマト王権が安定してからの墳墓だとおもいます。
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦そのものかどうかはわかりませんが、長髄彦のようにヤマト王権に抵抗した人物の墓ではないかなと思っています。被葬者についてはこれからも色々な意見が出てきそうですね!
ナガスネヒコでは時代が合わないな〜。近くに物部系の神社も多いからそれ系の子孫ということならわかる気がする、それとやはり同時期の佐紀古墳群(特に宝来山古墳)との関係が気になります。
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦本人ではなく長髄彦のモデルになったような豪族の伝承が記紀編纂時にまで伝わっていたのではないか?と考えています。おっしゃる通り佐紀古墳群との関係は気になりますよね。
埋葬者一族が日常的に利用していた丸木舟をそのまま木棺に再利用していたのかなだったら入れ墨の倭人の海人族?彼らも朝廷の重要職になってた気がします
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り丸木舟にも見える木棺ですね。日本は海に囲まれているので海人が重要な役割を果たしていたことは十分に考えられると思います!
やはり、長髄彦さんですかねぇ
ご視聴いただきありがとうございました。被葬者については様々な意見がありますが、長髄彦のモデルになった人物ではないか?と考えています。
前のコメントはさておき(笑)縦型銅鏡(のデザイン)&蛇行剣私は何となく隼人族と関係深い人物なのでは?と思っています。これからの色々な発表も興味深く待っています。解らないから面白い日本古代史
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り隼人など九州との繋がりも無視できませんよね!正に解らないから色々想像できて色々な意見があって面白いですよね!
金鵄のモデルは鏡を使ったものだと思うので、長脛彦と鏡の関係。特に盾形が出たと言うのは興味深いですよね。神武東征がモデルになるイベントは間違いなくあったと思うのですが、時代考証が不可能なので長脛彦の可能性はあると思います。河内湾が存在したのが1世紀から5世紀の間だと推測すれば東征が紀元前6世紀だと言う方が無理が有ります。長髄彦や饒速日命の関係者なら面白いですよ。そして、2号墳3号墳は前方後円墳。ヤマト王権に服属したんでしょうね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り記紀はそれ以前の何らかの記憶、伝承を寄せ集めたのではないか?と思っております。長髄彦の話もモデルになる何らかの伝承が生み出したのではないか?と思うので大きな意味では可能性があると思います。ありがとうございます。
卑弥呼の、可能性も、捨て切れませんね?? 「被葬者は、女性らしい」は、見落とせませんね。 確か、卑弥呼が、埋葬されて、円墳が築かれたと、記されて居ましたよね??
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り、もちろん可能性は捨てきれないのですが、こちらの古墳、卑弥呼がいたとされる時代よりも新しいと考えられているんです。しかし色々なことに想いを巡らせるのは本当に楽しいですよね!
@@gotas1975 其れこそが、古代史の【醍醐味】で有り、浪漫ですよね。 感謝!!
@@user-jg3xb4ck5t さん、おっしゃる通りです!古代史は色々想像を巡らせることがロマンですよね!こちらこそありがとうございました。
長つね彦さん、神武の軍勢に逆らってないし、神武が来る前からの奈良を治めていたという神社があって名前は消されてますが神武の為自ら命たった人物で地元を治めていた豪族
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦についても皆様からコメント欄で色々なことを教えていただき大変勉強になっています。ありがとうございます。
大和朝廷に不都合な姫も正統に評価されなかった瀬織津姫を祝詞に治めた神職が天照大御神さまの祭壇に大祝詞を捧げていますね。この例も一緒に並べる事に不都合があったのではと思っています。しかしながら静岡の滝川神社に滝が無尽に出る神職がみそぎする神社ありますが、向きが横にしたりしているので、ここにも謎があります
@@user-lx5rz2ml5u さん、更に詳しくご教授いただきありがとうございます。全国各地の伝承は古代の何らかの記憶を伝えているものではないか?と思っています。更に勉強になりました。ありがとうございました。
年代が異なるのでは?
ご視聴いただきありがとうございました。またご指摘をありがとうございます。長髄彦そのものというよりは、記紀の編纂時に長髄彦のモデルになったような人物の墓かな?と思っています。被葬者についてはこれからも色々な意見が出てきそうですね。
@@gotas1975おそらく武内宿祢かその親族に帰結するでしょう。影の武王です。
古代出雲では「大国主」や「少彦名」は役職名というか東西のトップの名前だったと聞きました。長髄彦も「第○代」のようなイメージだと被葬者の可能性もあるかも?富・登美に縁のある方ですし。
ご視聴いただきありがとうございました。トミに関する点は興味深いです。実際には長髄彦のモデルになったような人物が被葬者なのでは?と思っています。
貴説は四世紀の古墳とされていますが神武天皇の時代とは随分乖離があります。ナガスネヒコノ時代ではありません。
ご視聴いただきありがとうございました。なるほど!
歴史書から見ると、神武天皇は紀元前の人なのでは?あと100年程で雄略天皇までいってしまいますし……それと場所的に見れば、ここら辺は古代豪族の平群氏がいた所です。そうなると武内宿禰とかが怪しい気もしますね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り武内宿禰説は確かにありますよね!忠臣だからこそ前方後円墳ではないけれども円墳だという説明もできますし。コメント欄で皆様から様々なご意見をいただき大変勉強になっております。
歴史書の雄略以前の年代は露骨に引き伸ばされてるから神武が紀元前の人物というのは考えにくい。一代20年として二十代遡っても400年前だからAD.50年より前にはならない。兄弟継承を一代として十五代くらいだとしたらもっと短くてAD.150年頃になる。武内宿禰は巣山古墳の方が可能性高いかも。
ナガスネヒコだとすると、紀元前70年ごろでないと話があわないのでは。
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦のモデルになったような人物が4世紀にいたのでは?と考えているのですが、被葬者については様々なコメントをいただき大変勉強になっています。
能登に小田中親王塚古墳という、崇神天皇皇子・大入杵命の陵墓とされる円墳があるので、円墳なら必ずしも天皇の血筋ではないとも言えないのではないか❓
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りですね。ただ宮内庁の治定も不確かなのでそちらの円墳の被葬者も実は謎ではないかと思います。
ナガスネヒコの生きた時代と古墳の年代が一致しないように思います
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦のモデルになった人物が被葬者ではないかなと思っています。そんな人物が4世紀にいたのでは?と考えています。被葬者像については様々な意見があり勉強になります。
割り竹型木棺で女性かも知れないって事で私は被葬者はかぐや姫だと予想(笑)時代?そんなの関係ねぇ!オッパッピー
ご視聴いただきありがとうございました。いやいや、割竹木棺の思想が後世に伝わり、竹取物語に発展した可能性はありますよ!
蜘蛛族をひきいる長髄彦が葛城生駒を越えて大和に入ろうとした神武天皇を阻止し、熊野吉野を超えて大和に入った神武天皇は御所の柏原で即位し大和朝廷が成立。その後、力を付けた大和朝廷は、葛で作った網で蜘蛛族を一網打尽にして焼いたと言うことで、葛城という戦勝地の名が出来たことは有名ですが、4世紀後半の武人を考えると、武内宿禰以降の神功皇后と葛城襲津彦の時代ですね。これほどの大きな古墳は大和朝廷を構成したメンバーが葬られており、戦勝地北部の抑えとして築かれた古墳として予想されます。
ご視聴いただきありがとうございました。またご丁寧に色々なことをご教授いただきありがとうございました。ヤマト王権の構成メンバーが被葬者とのこと、私は逆を予想しているのですが、いずれにしても興味深い時代ですよね!ありがとうございました。
大手メディアの映像よりだいぶわかり易いですね。一般公開だけでこの内容、楽しく拝見できました。
ご視聴いただきありがとうございました。わかりやすいと言っていただき大変うれしいです。これからもよろしくお願いします。
今日、私も見てきました。世紀の発見に立ち会えて感激でした。
ご視聴いただきありがとうございました。正に世紀の発見ですよね!これから先の展開も大いに期待したいと思います。
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素晴らしい動画、ありがとうございます😂
ご視聴いただきありがとうございました。保存状態も良く素晴らしい副葬品でした。どのように作られたのか興味が尽きませんね!
俺も長髄彦のモデルになったような人物の墓では?と思ってました。
これだけ大きな古墳なのに付近に他の古墳がなく単独、また盾形銅鏡という後に繋がってない副葬品とかは滅んでいった感じがしますね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り他に類例のない副葬品等を加味すると長髄彦のモデルになった人物にも繋がるように思うのですが、被葬者像は色々ありそれを想像するのもまた楽しみですね。
考察や空想が楽しくもあり、今後の展開や発表が楽しみな話ですよね!
素敵な動画の公開ありがとうございます!
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り答えが明確でないだけに色々な空想を巡らせることは本当に楽しいですね!
早速見学に行かれたのですね。被葬者論はともかくも、よくぞこれだけ貴重な出土物が保存されていたことに感激しています。割竹型木棺もここまで残っているのも非常に珍しい事ですし、立った状態で仕切り板が残っていたことも初めてです。いや素晴らしい。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り昨年の蛇行剣もそうですが、保存状態も良く私も感動しました。今後の成果にも大いに期待したいですね!
すばらしい動画👋👋👋
ご視聴いただきありがとうございました。世紀の大発見をぜひご堪能ください!
ワクワクしてきます!
ご視聴いただきありがとうございました。
これから先もどんな発見があるのか?本当にワクワクしてきますよね!ぜひ動画をご堪能ください!
お久しぶりです😀大発見ですよね。とても注目してます😊忘れられてる古墳でもちゃんと調査すれば歴史がひっくり返るような発見があるのかも知れません🤗
ご視聴いただきありがとうございました。
お久しぶりです。いつも動画を拝見させてもらっています!おっしゃる通りまだまだ新しい発見があることに驚きますね!
@@gotas1975 さん
御視聴いただいてるんですね😄ありがとうございますm(_ _)m凄く光栄です。これからもよろしくお願いしますね☺️
@@user-dk7mo6mq6k さん、こちらこそこれからもよろしくお願いします😄
四世紀後半の築造ならば、崇神天皇の数代後となるので、長脛彦の同定は難しい。また古墳の形状から大和朝廷に抵抗した云々ということも、おそらく被葬者は物部連氏のような王権に服属していた立場であると考えられる。以上から、御説はかなり怪しい。ちなみに長脛彦は桜井市のトミが有力だ。
ご視聴いただきありがとうございました。
なるほど、おっしゃるように王ではないけれども王権に服属していた人物という説は
ごもっともだと思います。勉強になります、ありがとうございます。
@@kei.suzuki さん、ご視聴いただきありがとうございました。物部氏との関連はおっしゃる通りですね!大変勉強になります。ありがとうございます。
私は副葬品が特徴的であることからも、ナガスネヒコの可能性も残したいと思います。ふどきさんの古代日本史考 で展開されている多層重複近似構造というご説によると、記紀の年代順は当てにならず、記載されている事は倭の五王の時代からそう離れていないとのこと。
いろいろな妄想を膨らましながら、楽しめればと思います。
記紀主体での時代考証自体がナンセンスだと思います。
神武が本当に紀元前660年の即位をしたとお考えならそれで良いです。
希望以后有机会到大阪,骑着摩托车挨个慢慢探访这所有的古坟时代的坟丘!
請一定要參觀許多古墓。日本有許多迷人的古墓
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行ってきました富雄丸山古墳公開!
11時頃から1時間くらいいました。
お天気もよくて最高でした。
さて被葬者?
想像するの楽しいですよね!
以前によく見る神社のチャンネルで主さんが富雄丸山古墳と長髄彦を関連つけたらコメント欄で否定のするコメントありました。 なんでも年代に無理があるとか…
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みなさん希望と期待が過大になりがちのようです。
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異例の少なさがまた被葬者の手掛かりになるんですけど…
ご視聴いただきありがとうございました。昨日見学されたのですね。私は5回位並びました。被葬者像については議論百出ですが、それを考えることも古代史の楽しみのひとつだと思っています。色々な方のご意見を伺いながら勉強していければなと思っています。
亡くなった祖父が、みたら喜ぶと思います。
いつまでも、大切に残して貰いたいですよねー
ご視聴いただきありがとうございました。お祖父様は古代史がお好きだったのでしょうか。おっしゃる通り貴重な古代からの遺産ですから大切に後世へ伝えてもらいたいですね。
超地元なのに今回の説明会不参加(^^)。でも凄いですね。ワクワクしますね!!確かに鏡が足元は??ですね。私もナガスネヒコ説は大賛成です。いやあワクワクですね!!
ご視聴いただきありがとうございました。お近くだったのですね!被葬者説は色々
ありますが、コメント欄にもたくさんのご意見をいただき勉強になっています!
すごい。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りこちらの古墳は世紀の大発見です。昭和の高松塚、平成の黒塚、令和の富雄丸山として後世に伝えられると思います!
ロマン大好き。
ご視聴いただきありがとうございました。古代へのロマンが広がりますね!
現地公開絶対行ってくださると思ってましたよ😁
櫛の出土も興味深いし朱の残り方の生々しさも大変興奮しました。今後の発掘が楽しみですね。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り朱の残り方が本当に生々しかったです。今後の成果が楽しみですよね!
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@@kunirobozz002 さん、いつもご視聴いただきありがとうございます。関西が中心ではありますが、これからも古墳の生の情報をお届けしていきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。
神武東征伝の図が端的過ぎてわかりやす過ぎて嬉しかったです。
作り出し部の木棺と主葬部の写真の対比にもイメージを膨らませることができました。ありがとう!
ご視聴いただきありがとうございました。稚拙なイラストでしたがわかっていただいて良かったです。まだまだ何が出てくるかわからない注目の古墳ですよね!
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@@user-manyo-no-kioku さん、確かにマイナーな人物ですよね😅
素晴らしいお話でした。箸墓古墳に期待しています。
ご視聴いただきありがとうございました。箸墓も謎だらけですからね!箸墓の謎が解ければ古代史の謎も随分明らかになると思うのですが。
@@gotas1975 箸墓古墳の被葬者は倭兔兔楚媛であり、魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼です。
この動画はいいとこをついているね
長髄彦本人ではなくても、その子孫の一族であった可能性は大きいと思う
ご視聴いただきありがとうございました。被葬者については様々な意見がありますが長髄彦のモデルになった人物が被葬者ではないか?と考えています。
富雄丸山古墳の被葬者は長髄彦ではありません。大王の関係者です。
富雄にある添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)のご神体は長髄彦です。考察通りですね。
ご視聴いただきありがとうございました。やはり地元にも長髄彦の伝承は残っているのですね。益々興味深いですね。
私も同じく富雄はナガスネヒコの地だなと思ってました。
ナガスネという名だから 足が長いとか足に特徴があったのかな
ご視聴いただきありがとうございました。恐らくヤマト王権に抵抗した人物を長髄彦に例えたのだと思います。
そうか、でかい人間ならあのでかい剣をふりまわせるかもしれない
鳥居すね衛門。すね=強い。鳥居強衛門です。富の長洲の強い彦。いかがでしょうか??💡
長洲とは、和泉川=木津川です。現在の京都府南部がニギハヤヒのテリトリーだったのかもしれません?💡
日本書紀に、長髄とは「邑」の名前であったと記載されているそうですから、個人の身体的特徴ではないようです。武内宿祢や大和尊などと同様、「ナカスネ村のリーダー」という類の役職名だったのかも知れません。
すばらしい動画でした。蛇行剣!今、令和の古代史ロマンのシンボルですね
ご視聴いただきありがとうございました。
いつも貴殿の動画を拝見し勉強させていただいております。私の勉強不足を痛感しながらいつも拝見していますのでコメントをいただきうれしいです!おっしゃる通り蛇行剣は令和のシンボルとして長く語り継がれることになると思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。
@@gotas1975 私の動画をご覧いただいているとは光栄のいたりです。私の場合は、素人の茶飲み話みたいなものですから、こちらこそ 大いに勉強させていただいております
@@user-qt3dh6he2f さん、何をおっしゃいますやら!いつも着眼点や深いご学識に感服いたしております。自分の勉強不足を痛感するばかりです。今後ともどうぞよろしくお願いします。
神武東征ですね、現時点では長髄彦云々までは言えませんがロマンやなあ。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りどこまでが史実なのか議論があるところですが、私は何らかの伝承がベースになっているのではないか?と思っています。
興味深いですね。神武東征と関係しているとするなら歴史のロマンを感じます。
ただ疑問点があります。神武東征時に築造されたのならそれよりも古い前方後円分はほとんど存在しないはずです。なぜなら、神武東征後に大和王権が誕生したからです。ナガスネヒコ没後、数世紀後に新たに築造したのでしょうか?そのへんが疑問点ですね。
ご視聴いただきありがとうございました。
実証はありませんがもし東征伝が何らかの事実をベースにしていたら可能性はありますよね!
曲がりくねった長剣と鏡の盾のセットで、
ギリシャ神話のペルセウスとメデューサを思い出した。
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り他に類例のない、まさに古代ギリシアにも通じるような魅力的な発見ですよね!
近鉄奈良線の富雄駅から少し南側に富雄川が流れていますが、
その橋のあたりからあのあたりのメイン通りの鳥見通りが続いている。
鳥見町という場所もその道路沿いにあります。
トミというのはあの地名に関係しているのかな。
神武なんてつくり話だと思っていましたが、時代が間違っているだけで
ひょっとしたら4世紀に実在したのかも。
ただもし実在していたら中国の書物に載らないはずがないとも思うけど。
ご視聴いただきありがとうございました。富雄駅の近くに鳥見という地名があるのは知りませんでした。大いに関係していると思います。神武東征伝は何らかの史実をベースにしていると私も思っています!
登美ヶ丘のトミも由来は同じらしいです。近くの白庭台とかも神武由来の地名です。さらに北上するとナガスネヒコと深い関係にあったニギハヤヒを祀る、磐船神社があります。桜井市もナガスネヒコの土地と言われていますが、とにかく奈良北西部は神武東征に所縁のある地域に間違いないです。
@@toma3695 さん、ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り桜井市の外山もトビと読みますのでトミとの繋がりが気になりますが、やはり、奈良市にそれだけ伝承地が多いということは何らかの繋がりを感じますね。
@@toma3695 そうなんですか。もっといろいろわかってくると楽しみ
ですね。
被葬者が女性だとすると、長髄彦の妹であり饒速日の妻の御炊屋姫の存在も気になりますね。
系図では、饒速日と御炊屋姫の子が宇摩志麻遲命、その子孫の娘がヤマト王権の孝元天皇、開化天皇の妃となり、崇神天皇へと繋がります。
個人的な考えですが、丹後の籠神社に祀られている火明を祖とする子孫の饒速日が淀川から天野川を下って(天下り)富雄や白庭台を拠点とする長髄彦一族と姻戚関係を築き、奈良盆地北西部での勢力を拡大していったように思います。
淀川から奈良方面に分岐して流れる天野川添いに枚方星田の七夕伝説、饒速日の天下りの磐船神社、長髄彦本拠地や饒速日の墳墓がある白庭台。そして、白庭台の東にある富雄川を大和川方面に下ると、夫婦塚(御炊屋姫伝承地)や添御縣坐神社、登彌神社などがあり、富雄丸山古墳周辺には饒速日、長髄彦、御炊屋姫との関係の深い地域だと思います。
ご視聴いただきありがとうございました。今回の造り出し部分の被葬者が御炊屋姫との説は中々興味深いですね。やはり以前から富雄一帯が長髄彦や饒速日にまつわる伝承が神社も含めて残っていることを勘案するとこの一帯はやはり長髄彦にも関連が深そうですね。ありがとうございます。
工法は日本梯子西洋かいだん。螺旋工法は西洋と同じですね。ヌストは昔もいた、
ご視聴いただきありがとうございました。
コメント欄で皆様から様々なご意見をいただき大変勉強になっております。ありがとうございます。
訂正古訓古事記には景行天皇のスネの長さが四尺一寸との記載。長過ぎるスネ。景行天皇のお墓なのかもしれません。夢が広がります。
ご視聴いただきありがとうございました。そのような記載があるのですね!被葬者像については様々な意見がありますが、おっしゃる通り考えるだけで夢が広がりますね!
神武天皇が東征する前から畿内にある前方後円墳はどういう位置付けと考えられますか⁇
大和朝廷が畿内に入り、箸墓などの前方後円墳に合わせて天皇陵を真似て作るでしょうか⁇
さらに真似て作っておいてナガツネヒコさんには前方後円墳の築造を認めないっていうのも変な気がします。
ロマンのある考察だとは思います😊😊😊
ご視聴いただきありがとうございました。神武東征は8世紀に日本書紀が編纂された際、何らかの伝承を元に作られた話で前方後円墳の成立とは直接的には結びついていないのでは?と考えています。よってヤマト王権に反抗した長髄彦のモデルになったような人物が被葬者かと思うのですが、コメント欄で皆様から様々なお考えを教えていただき大変勉強になっています。ありがとうございます。
日本には伊邪那岐、イザナミの
時代から前方後円墳があります。ちなみに、伊邪那岐のミコトの古墳は熊本県山鹿市のチブサン古墳です。
僕は神武天皇に仮託されたのは5世紀後半(四条古墳群)の人物だと考えているので、長髄彦では時代的に合わないのでは?と思ってます。
距離的にみて佐紀古墳群の関係者ではないでしょうか。
ご視聴いただきありがとうございました。なるほど!佐紀古墳群には時期的にも距離的にも近いですからそれもあり得ますよね!貴重なご意見をありがとうございます。
素晴らしい割竹型木棺ですね。神武=応神説をとれば長髄彦の線もありかもしれませんね。神后紀で言うところの海上五十狭茅宿禰か忍熊 篭坂辺りが同一人物ということになるのでしょうか。僕は稲荷山鉄剣の4代目タカヒシワケ辺りも有りかなと思っています。
ご視聴いただきありがとうございました。神武天皇をどのように捉えるかで色々変わってきますよね。古墳の実物を見て様々
な想像を膨らませんこともまた楽しみのひとつですよね。これからも色々勉強していきたいと思います。
富雄丸山古墳はこの時代(4世紀後半)の他の古墳と比べて全く異様です。
巨大円墳に造り出しがあり、墳頂はすでに盗掘にあっているようですが、造り出しに被葬者があったために空前絶後の超豪華な副葬品二点が出土し、さらに今回青銅鏡が3面出てきました。卑弥呼の鏡といううわさもあります。
また竪櫛がでてきて「女性的な感じ」という意見が解説した考古学者から出ました。しかし、この時代の古墳に副葬された竪櫛は女性の持ちモノとは限らず、男性の頭部に副えられた例もあり、葬儀に使ったものかも知れません。もしも被葬者が女性であれば耳飾りや首飾りの玉類が大量に出るはずですから、被葬者は男性と見られます。
墳頂の主体部に遺骸の痕跡が無ければ、最初から遺骸はなかったと考えられます。つまり、本当の被葬者を隠すために造り出しが作られたと考えられます。被葬者は大王クラスの人物で、何らかの理由で造り出しに隠されて埋葬されたと考えられます。この被葬者について推理しましたので、よろしければ「富雄丸山古墳からまた出てくるか?(@_@)?」
blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/aec1fc2c02ebfecf65cdeab0fdf670f9
をご参照ください!
ご視聴いただきありがとうございました。貴殿のブログはいつも拝見させていただき勉強させていただいております。おっしゃる通りこちらの古墳は全国的にも類例のない様々な異質な要素を含んでいます。そこから何を読み取るのか、これからも貴殿のブログでしっかりと勉強させていただければと思います。ありがとうございました。
@@gotas1975 さん お返事ありがとうございます。それじゃあ、このコメントはすでにご存じかも知れませんね。お恥ずかしい(;^ω^)拙ブログで気になる疑問点がございましたら遠慮なくご指摘ください。今後ともどうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)
@@katumoku10 さん、いつも貴殿のブログで大変勉強させてもらっています。こちらこそ今後ともどうぞよろしくお願いします。
こんばんは😊
こんばんは。ご視聴いただきありがとうございました。
3:02位の所に映っている墳頂部の埋葬施設が、階段状に上から掘り下げられた形になっています。こういう形は、日本の古墳に多いのでしょうか?中国春秋戦国時代の楚の国の墓の埋葬施設が、そういう形です。まあ、数百年のズレがありますし、中国大陸の話ですから、たまたま似ているだけかもしれません。
このつくり出しに埋葬されている、女性だったかもしれない人物は、地位の高い、特殊な人だったと思います。卑弥呼から百年程度あとの人でしょうけれど、鬼道の伝統が受け継がれていたのかも知れませんね。
ご視聴いただきありがとうございました。墳頂部の写真は恐らく発掘調査の都合上の形かと思うのですが、すみません、正確なことは分かりかねます。ただ中国春秋戦国時代の墓にそういう形があるのですね。勉強になりました。造り出しの人物はおっしゃる通り特殊な能力を持ち合わせていたのかもしれませんね。
長髄彦=大彦
これで時系列はなんとかなる
ご視聴いただきありがとうございました。その2人を繋げましたか!なるほど!なんとかなるかもしれませんね!ありがとうございます😄
説得力があると思います。神武東征以前は卑弥呼の墓のような円墳でしたから・・・
前方後円墳はヤマト王権が安定してからの墳墓だとおもいます。
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦そのものかどうかはわかりませんが、長髄彦のようにヤマト王権に抵抗した人物の墓ではないかなと思っています。被葬者についてはこれからも色々な意見が出てきそうですね!
ナガスネヒコでは時代が合わないな〜。近くに物部系の神社も多いからそれ系の子孫ということならわかる気がする、それとやはり同時期の佐紀古墳群(特に宝来山古墳)との関係が気になります。
ご視聴いただきありがとうございました。
長髄彦本人ではなく長髄彦のモデルになったような豪族の伝承が記紀編纂時にまで伝わっていたのではないか?と考えています。おっしゃる通り佐紀古墳群との関係は気になりますよね。
埋葬者一族が日常的に利用していた丸木舟をそのまま木棺に再利用していたのかな
だったら入れ墨の倭人の海人族?
彼らも朝廷の重要職になってた気がします
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り丸木舟にも見える木棺ですね。日本は海に囲まれているので海人が重要な役割を果たしていたことは十分に考えられると思います!
やはり、長髄彦さんですかねぇ
ご視聴いただきありがとうございました。被葬者については様々な意見がありますが、長髄彦のモデルになった人物ではないか?と考えています。
前のコメントはさておき(笑)
縦型銅鏡(のデザイン)&蛇行剣
私は何となく隼人族と関係深い人物なのでは?と思っています。
これからの色々な発表も興味深く待っています。
解らないから面白い日本古代史
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り隼人など九州との繋がりも無視できませんよね!正に解らないから色々想像できて色々な意見があって面白いですよね!
金鵄のモデルは鏡を使ったものだと思うので、長脛彦と鏡の関係。特に盾形が出たと言うのは興味深いですよね。
神武東征がモデルになるイベントは間違いなくあったと思うのですが、時代考証が不可能なので長脛彦の可能性はあると思います。
河内湾が存在したのが1世紀から5世紀の間だと推測すれば東征が紀元前6世紀だと言う方が無理が有ります。
長髄彦や饒速日命の関係者なら面白いですよ。
そして、2号墳3号墳は前方後円墳。
ヤマト王権に服属したんでしょうね。
ご視聴いただきありがとうございました。
おっしゃる通り記紀はそれ以前の何らかの記憶、伝承を寄せ集めたのではないか?と思っております。長髄彦の話もモデルになる何らかの伝承が生み出したのではないか?と思うので大きな意味では可能性があると思います。ありがとうございます。
卑弥呼の、可能性も、捨て切れませんね?? 「被葬者は、女性らしい」は、見落とせませんね。
確か、卑弥呼が、埋葬されて、円墳が築かれたと、記されて居ましたよね??
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り、もちろん可能性は捨てきれないのですが、こちらの古墳、卑弥呼がいたとされる時代よりも新しいと考えられているんです。しかし色々なことに想いを巡らせるのは本当に楽しいですよね!
@@gotas1975 其れこそが、古代史の【醍醐味】で有り、浪漫ですよね。 感謝!!
@@user-jg3xb4ck5t さん、おっしゃる通りです!古代史は色々想像を巡らせることがロマンですよね!こちらこそありがとうございました。
長つね彦さん、神武の軍勢に逆らってないし、神武が来る前からの奈良を治めていたという神社があって名前は消されてますが神武の為自ら命たった人物で地元を治めていた豪族
ご視聴いただきありがとうございました。
長髄彦についても皆様からコメント欄で色々なことを教えていただき大変勉強になっています。ありがとうございます。
大和朝廷に不都合な姫も正統に評価されなかった瀬織津姫を祝詞に治めた神職が天照大御神さまの祭壇に大祝詞を捧げていますね。この例も一緒に並べる事に不都合があったのではと思っています。しかしながら
静岡の滝川神社に滝が無尽に出る神職がみそぎする神社ありますが、向きが横にしたりしているので、ここにも謎があります
@@user-lx5rz2ml5u さん、更に詳しくご教授いただきありがとうございます。全国各地の伝承は古代の何らかの記憶を伝えているものではないか?と思っています。更に勉強になりました。ありがとうございました。
年代が異なるのでは?
ご視聴いただきありがとうございました。またご指摘をありがとうございます。長髄彦そのものというよりは、記紀の編纂時に長髄彦のモデルになったような人物の墓かな?と思っています。被葬者についてはこれからも色々な意見が出てきそうですね。
@@gotas1975おそらく武内宿祢かその親族に帰結するでしょう。影の武王です。
古代出雲では「大国主」や「少彦名」は役職名というか東西のトップの名前だったと聞きました。長髄彦も「第○代」のようなイメージだと被葬者の可能性もあるかも?富・登美に縁のある方ですし。
ご視聴いただきありがとうございました。トミに関する点は興味深いです。実際には長髄彦のモデルになったような人物が被葬者なのでは?と思っています。
貴説は四世紀の古墳とされていますが神武天皇の時代とは随分乖離があります。ナガスネヒコノ時代ではありません。
ご視聴いただきありがとうございました。なるほど!
歴史書から見ると、神武天皇は紀元前の人なのでは?
あと100年程で雄略天皇までいってしまいますし……
それと場所的に見れば、ここら辺は古代豪族の平群氏がいた所です。
そうなると武内宿禰とかが怪しい気もしますね。
ご視聴いただきありがとうございました。
おっしゃる通り武内宿禰説は確かにありますよね!忠臣だからこそ前方後円墳ではないけれども円墳だという説明もできますし。コメント欄で皆様から様々なご意見をいただき大変勉強になっております。
歴史書の雄略以前の年代は露骨に引き伸ばされてるから神武が紀元前の人物というのは考えにくい。一代20年として二十代遡っても400年前だからAD.50年より前にはならない。兄弟継承を一代として十五代くらいだとしたらもっと短くてAD.150年頃になる。武内宿禰は巣山古墳の方が可能性高いかも。
ナガスネヒコだとすると、紀元前70年ごろでないと話があわないのでは。
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦のモデルになったような人物が4世紀にいたのでは?と考えているのですが、被葬者については様々なコメントをいただき大変勉強になっています。
能登に小田中親王塚古墳という、崇神天皇皇子・大入杵命の陵墓とされる円墳があるので、円墳なら必ずしも天皇の血筋ではないとも言えないのではないか❓
ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りですね。ただ宮内庁の治定も不確かなのでそちらの円墳の被葬者も実は謎ではないかと思います。
ナガスネヒコの生きた時代と古墳の年代が一致しないように思います
ご視聴いただきありがとうございました。長髄彦のモデルになった人物が被葬者ではないかなと思っています。そんな人物が4世紀にいたのでは?と考えています。被葬者像については様々な意見があり勉強になります。
割り竹型木棺で女性かも知れないって事で
私は被葬者はかぐや姫だと予想(笑)
時代?そんなの関係ねぇ!オッパッピー
ご視聴いただきありがとうございました。
いやいや、割竹木棺の思想が後世に伝わり、竹取物語に発展した可能性はありますよ!