『世界の墳丘から』gotas1975
『世界の墳丘から』gotas1975
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世界の墳丘から441「継体天皇はヤマト王権を征服した?」
以前の動画で継体天皇はヤマト王権からの要請を受けて天皇の座に着いた際の話を紹介しましたが、今回は実は継体天皇はヤマト王権を征服したのではないか?という大胆な仮説を検証してみます。
#古墳 #古墳時代 #継体天皇 #前方後円墳 #今城塚古墳 #滋賀県 #高島市 #高槻市 #琵琶湖
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Відео

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КОМЕНТАРІ

  • @user-th9rr3zy6r
    @user-th9rr3zy6r 2 дні тому

    京都府綾部市にも同じような高速道路のトンネル上の私市円山古墳があります。こちらはいつでも普通に登ることが出来ます。埋蔵品などは別場所、綾部市資料館だったと思いますが展示されています。

  • @user-ou4rk6ql7e
    @user-ou4rk6ql7e 10 днів тому

    継体天皇って怪しい人物ぢゃ。ホンマに皇統に連なるヒト? 闇の中でしかない。

    • @gotas1975
      @gotas1975 8 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。本当に謎が多い人物だと思います。

  • @user-dy2qh3xo9k
    @user-dy2qh3xo9k 13 днів тому

    高井山古墳の主を百済の王族とみなす見解は卓見ですね。ただ、早く埼玉の研究者(名を失念)が、『日本書紀』「武烈紀三年 是月条」の「百済の意多郎(おたら)卒(みう)せぬ。高田丘の上に葬る」の伝承が該当すると指摘していますね。古墳出土の 須恵器の型式がTK23型式(新)ないしはTK47型式期とされていて、5世紀末なので、雄略五年(461)条の「昆支王」派遣の時期 より、武烈三年(501)の方がまさに該当しますね。

    • @gotas1975
      @gotas1975 12 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。この時代になると多少の誤差はあるとしても日本書紀の記述も信憑性がかなりあるのではないか?と思われますので非常に興味深いですね。もっと勉強していきたいと思います。

    • @user-dy2qh3xo9k
      @user-dy2qh3xo9k 12 днів тому

      @@gotas1975 丁寧にご返信いただき御礼。現歴史学界は、戦前へのいたずらな反発で思想的な研究姿勢が顕著。年代は ともあれ、『記』『紀』伝承は、孝霊天皇段階から考古学的諸事例と合致します。特に、『紀』は加飾こそあれ、大半の 伝承は諸事例と符合しており、基本は歴史的事実に基づいて叙述されていると考えます。これは、思想的な立論に依らぬ 多くの研究者の内々の合致事項です。例えば、孝霊段階では、ヤマトトトヒモモソヒメの二人の弟が吉備臣(の祖)とな った伝承があるが、事実吉備にバチ形前方部をもつ前方後円墳(浦間茶臼山ほか)が出現すると、大和の箸墓などに吉備 型の特殊器台形埴輪が伝来します。学界では否定論が主流の「ヤマトタケル」や「神功皇后」の実在も論証し得ます。 いかがでしょう?今後一層のご尽力と良い動画の提供を祈ります。

  • @renren5491
    @renren5491 15 днів тому

    先日、電動レンタサイクルで快適に回ってきました。 ここは被葬者ミステリーや逸話も多く、興味が尽きないところですね。 あのように並んでいると、天皇家しか葬れない場所だったと実感できました。

    • @gotas1975
      @gotas1975 12 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。飛鳥は色々な物語が混在した土地なので行けば行くほど楽しみも増えますよね。そういった幻想をいだきながら巡ることは最高に幸せですよね!

  • @sotsuhikokatsuragi
    @sotsuhikokatsuragi 16 днів тому

    動画ありがとうございます😊 こちらは葛城の末裔です。 武内宿禰と神功皇后は架空の人物で葛城襲津彦の事をヤマト王権が疎んで書いたと思っています。 動画に上げておられるように襲津彦は百済の歴史書に出てくる実在の人物ですからね。 襲津彦の彦は「日御子」のことで天照ではなく饒速日(冬至の太陽)を信仰していた皇子を指す名前です。 宿禰は大臣クラスなので大臣からプリンスが生まれるはずはなく統治者はやはり襲津彦なんです。

    • @gotas1975
      @gotas1975 12 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り当時の葛城氏はヤマトをも上回る権力を有しており正に王国を形成ささていたわけですから、記紀の記述もおっしゃるような想いが反映されたものかも知れませんね!非常に興味深いお話をありがとうございました。

  • @user-wq2ev8tf8o
    @user-wq2ev8tf8o 18 днів тому

    来月、橿考研博物館に行く予定なのでとても参考になりました。今まで何回も行ってるのに、知らない事がいっぱいでした。有難うございました!

    • @gotas1975
      @gotas1975 18 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 本展示はもちろん素晴らしいのですが建物の周りも意外に面白いですよ!ぜひ回ってみてくださいね。

  • @nubo520
    @nubo520 18 днів тому

    卑弥呼の墓以前に、この箸墓古墳が記紀・万葉集に書かれた箸墓なのかは確実とは言えない。

    • @gotas1975
      @gotas1975 18 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そうですね。

  • @toma3695
    @toma3695 19 днів тому

    神武東征ですね、現時点では長髄彦云々までは言えませんがロマンやなあ。

    • @gotas1975
      @gotas1975 19 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りどこまでが史実なのか議論があるところですが、私は何らかの伝承がベースになっているのではないか?と思っています。

  • @user-sk1rl1un6c
    @user-sk1rl1un6c 24 дні тому

    長髄彦=大彦 これで時系列はなんとかなる

    • @gotas1975
      @gotas1975 19 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。その2人を繋げましたか!なるほど!なんとかなるかもしれませんね!ありがとうございます😄

  • @wowcoolrex1040
    @wowcoolrex1040 25 днів тому

    希望以后有机会到大阪,骑着摩托车挨个慢慢探访这所有的古坟时代的坟丘!

    • @gotas1975
      @gotas1975 25 днів тому

      請一定要參觀許多古墓。日本有許多迷人的古墓

  • @wowcoolrex1040
    @wowcoolrex1040 25 днів тому

    原来天皇陵也有人敢盗掘??不知道目前已知的天皇陵中,总共有多少个?被盗掘和未被盗,或者未被发现的天皇陵数据是什么样呢?

    • @gotas1975
      @gotas1975 25 днів тому

      皇帝陵的名稱是近代國家根據古代文獻確定的,是否正確不得而知。

    • @wowcoolrex1040
      @wowcoolrex1040 25 днів тому

      @@gotas1975 欢迎你有机会有时间也来中国探访中国的古坟,皇陵,重点推荐陕西宝鸡的秦景公一号大墓,场面震撼,殉葬人牲都有186个,是公元前6世纪,中国古代春秋时期秦国国君的陵寝

    • @wowcoolrex1040
      @wowcoolrex1040 25 днів тому

      ua-cam.com/video/t4cAy4A8xDE/v-deo.html&ab_channel=CCTV%E7%A7%91%E6%95%99

    • @gotas1975
      @gotas1975 25 днів тому

      謝謝。我絕對想親眼看看中國皇帝的陵墓。

  • @wowcoolrex1040
    @wowcoolrex1040 26 днів тому

    很想看看有没有被发现了的古坟的墓主遗骸,如果有这样的视频展示就太好了

    • @gotas1975
      @gotas1975 25 днів тому

      如果古墳未盜掘,遺骸可能仍然存在。下面影片中顯示的古墓是在沒有被盜的情況下被發現的 ua-cam.com/video/zxsIOJb-z-E/v-deo.html

    • @wowcoolrex1040
      @wowcoolrex1040 25 днів тому

      @@gotas1975 love your reply!

  • @user-ke8dr2gm9t
    @user-ke8dr2gm9t 28 днів тому

    初めて拝見しました 説明、話し方とても分かりやすかったです なかなかの仮説…! 無理やり?後を継がされた継体天皇のイメージが変わりますね👍 私は福岡に住んでいます 鮮やかな装飾古墳に浪漫を感じています

    • @gotas1975
      @gotas1975 28 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 かなり大胆な仮説を立ててしまいましたが色々な見方があるのではないか?と思っています。九州の装飾古墳、ロマンがありますよね!まだ見たことがないので見てみたいです!

  • @user-ou4rk6ql7e
    @user-ou4rk6ql7e 29 днів тому

    ほう、ほう。ヤッパ大仙古墳の発掘が待たれますな。仁徳陵は戦国期砦になってたそうです。て、ことは占拠してた人は、恐らく、暇にあかせ、盗掘に出精されたでせうな?

    • @gotas1975
      @gotas1975 28 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そうですね、大山古墳をはじめとした古墳がもし調査されたならばもっと色々なことがわかってくるかもしれませんね。

  • @user-dz9qn1ru3k
    @user-dz9qn1ru3k Місяць тому

    三尾氏 福井の三尾氏忘れてます。

    • @gotas1975
      @gotas1975 28 днів тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 確かにそうですね。

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y Місяць тому

    貴説は四世紀の古墳とされていますが神武天皇の時代とは随分乖離があります。ナガスネヒコノ時代ではありません。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。なるほど!

  • @user-hc9oq8qn4b
    @user-hc9oq8qn4b Місяць тому

    今読んでる本にも同様のことが書いてあります。古代の朝鮮〜出雲地方〜吉備地方〜大和への伝播がよくわかりました

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。前方後円墳の誕生には様々な説があるようですが、次は出雲を調査することによってまた新たな発見があるかもしれません!

  • @greendolphin7085
    @greendolphin7085 Місяць тому

    魏志倭人伝に魏の皇帝の答礼の詔として 『悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也  (できる限り広くこれらを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを知らしめよ。そのために鄭重に汝に好物を賜うのである)』と書かれています。 「銅鏡100枚送っておくから、皆さまでどうそお化粧の際などでお使いください」というのではなく、「これらの銅鏡を国中の人々に配って、卑弥呼の後ろには魏がついていること示せ」と言っているわけですね。 なので、下賜した銅鏡は、素人がみてもはっきりと魏から卑弥呼に下賜された鏡であることが分かるようにしたはすです。 ほかの漢式鏡と混ざってしまうと、一体どれか分からなくなってしまうようでは困るわけです。 三角縁神獣鏡は他よりひと際大きく、縁が三角形という際立った特徴をもってますから、だれが見てもそれと分かります。 つまり卑弥呼のための特注(鋳)品だということです。したがって、中国で1枚も出土しないということは、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であることの否定材用にはならない、むしろ肯定材料だといえると思います。 また100枚では足りなくなって、オリジナルの鏡100枚がその後、倭国で模造されたことは当然あったと思いますので、 出土数が100枚を超えるのは当然だと思います。 また、三角縁神獣鏡は大型なので、手元に置いて愛用するものではなかったと思います。 魏が滅亡した時点(265年)で価値は半減したと思われますので、粗雑に扱われているように見えるのは、そういったことがあるかもしれませんね。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。また貴殿がおっしゃる説は大変説得力があり勉強になりました。三角縁神獣鏡については様々な説がありますが、大変わかりやすく腹落ちしました。ありがとうございました。

    • @greendolphin7085
      @greendolphin7085 Місяць тому

      いえいえ拙い考えですが、余りにも中国で出土していないことが一番の否定材料とされることが多いのでちょっと書かせて頂きました。 こちらこそ貴重で素晴らしい動画をアップして頂き有難うございました。居ながらにして全ての鏡をじっくりと見ることができ、感動しています。これからも動画投稿を期待しております😊

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      @@greendolphin7085 さん、ありがとうございます。おっしゃる通り三角縁神獣鏡が中国で出土していないことにばかり話が行きがちですが、その固定観念を変えれば新たな事実が見えて来る気がしますね。

  • @KK-pp4ux
    @KK-pp4ux Місяць тому

    サイコパスの中大兄皇子、権謀術数を繰り広げ政敵を排除してきたため、彼は山科で死んだとされるが、遺体はなく靴だけが落ちていたところを陵墓とされたと言われています。 人に恨まれていたことが推察されます。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 中大兄皇子にはそのようなエピソードがあったのですね。記紀の編纂者の中大兄皇子に対する扱いがわかるような気がします。

  • @cowboym941
    @cowboym941 Місяць тому

    この円筒埴輪って中に木材を入れて火を付けて盛大に炎をあげて遠くから見せた火器(焚火台)なんですかね? 大山陵とか海から見えるような所の陵墓とか権力の誇示とかそう言う目的で設置されたのかな、とか思いました

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。円筒埴輪は元々、特殊器台と呼ばれる壺を置くための台がルーツであると言われています。上部に壺を置くための台が巨大化したとの説が有力なんです。確かに火器のようにも見えますし、大山古墳は権力の誇示のための陵墓と言われていますが、円筒埴輪は古墳を巨大に見せる装置だったのかもしれませんね。

  • @black_Lights1
    @black_Lights1 Місяць тому

    やっぱり行田はほぼ群馬だ。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。群馬の古墳と同じ日に訪れましたが確かに近かったです。

  • @Ablet96
    @Ablet96 Місяць тому

    新羅を建てたのは倭人である可能性が高い、ということのようなので、北陸地方と新羅の間では盛んに交流があったのではないかと思います… 仮にヲオドノオウが応神天皇の血筋を受け継いでいるにしても、傍系のまた傍系のような存在で、良くても後世の清和源氏や桓武平氏みたいな扱いになる筈で、5代目といえば、源氏だと源頼義、平氏だと、高見王が実在と仮定するなら平将門に当たることになり、そんな人物が天皇に即位するというのはただならぬことが起きた考えるのが自然だと思います。 継体天皇、及び彼の息子である安閑、宣化天皇は、ともに仁賢天皇の娘を皇后としているし、欽明天皇が継体天皇と皇后の間の子であることによって、安定的な皇位継承がなされたと考えると、一筋縄では行かない何かがあったのだと思います…

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りやはり日本海側の各地は大陸との繋がりが相当強かったと考えられますね。またヲホドオウの代に何かが起こったことは確実で物語と真実の狭間がちょうどこの時代であったのかもしれませんね。詳細な推察をありがとうございました。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому

      この時代 母系が強いと思う。 手白香皇女の母 祖母見てみたらわかるわ。

  • @black_Lights1
    @black_Lights1 Місяць тому

    赤城と浅間をよく間違うようですね

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。またご指摘ありがとうございます😊関東に土地勘がないもので…😭

  • @black_Lights1
    @black_Lights1 Місяць тому

    ワカタケル大王。漢字を見ると→カク..カタシロ、、、、

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。

  • @user-qd7qe6kg6z
    @user-qd7qe6kg6z Місяць тому

    乗っ取りなんだけど、やはり天皇の子孫なのは間違いないと思う。 貴族、豪族が入れ替わっていないので。 征服なら、自分の子分を貴族にしただろうから。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 おっしゃる通りやはりどこかで皇族としての繋がりはあったのでしょうか。非常に興味深いです。

  • @user-rt8cj9rk1i
    @user-rt8cj9rk1i Місяць тому

    蜘蛛族をひきいる長髄彦が葛城生駒を越えて大和に入ろうとした神武天皇を阻止し、熊野吉野を超えて大和に入った神武天皇は御所の柏原で即位し大和朝廷が成立。その後、力を付けた大和朝廷は、葛で作った網で蜘蛛族を一網打尽にして焼いたと言うことで、葛城という戦勝地の名が出来たことは有名ですが、4世紀後半の武人を考えると、武内宿禰以降の神功皇后と葛城襲津彦の時代ですね。これほどの大きな古墳は大和朝廷を構成したメンバーが葬られており、戦勝地北部の抑えとして築かれた古墳として予想されます。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。またご丁寧に色々なことをご教授いただきありがとうございました。ヤマト王権の構成メンバーが被葬者とのこと、私は逆を予想しているのですが、いずれにしても興味深い時代ですよね!ありがとうございました。

  • @akisuzu55
    @akisuzu55 Місяць тому

    継体天皇の父方の勢力は琵琶湖西方(現在の滋賀県高島市)に居たと特定されて居る様ですよ。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り高島市には継体天皇所縁の地がたくさんありました!

  • @user-eh2sq6fz1m
    @user-eh2sq6fz1m Місяць тому

    すごい。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通りこちらの古墳は世紀の大発見です。昭和の高松塚、平成の黒塚、令和の富雄丸山として後世に伝えられると思います!

  • @TOSHIHIROTADA
    @TOSHIHIROTADA Місяць тому

    貴重な動画をありがとうございます。レンガで作った石室なら、中国大陸にかなりあるみたいです。「磚室墓」と呼ばれ、ドームのような形のものもあるそうです。動画でおっしゃっていたように、渡来人の文化的な影響があったのかもしれませんね。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。中国大陸にそのような型の古墳があるのですね!そうだとしたら、こちらの古墳はかなり大陸の影響を受けた古墳になりますよね。更に興味深いですね!

  • @user-wp6rj6fe9r
    @user-wp6rj6fe9r Місяць тому

    ただの森ではありません!(笑)

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そんなんです!おっしゃる通りただの森ではないんです!この想いがもっと広がって欲しいですね!

  • @kensugi2325
    @kensugi2325 Місяць тому

    遠い傍系説も、地方豪族説も、どちらも面白いですね。 ただ、武烈天皇の後継者にもっと血縁が近い親族が居たのは、間違いないと思いますが、わざわざ北陸の有力者を連れてきたのは、何か引っかかりますね。 当時は、血縁はあまり重視されてなかったのでは?って思います。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。継体天皇の由来はおっしゃる通りいずれであったとしても興味深いですね。確かに何か引っ掛かります。色々調べてみたいことが絶えませんね!

  • @sumyoshi
    @sumyoshi Місяць тому

    船の絵が書いてある埴輪が多くあった。あっ、海を渡ってきたんだ。征服王朝だ。と推測した。陳腐で想像力が乏しいな。

  • @nomuratetsutaro3881
    @nomuratetsutaro3881 Місяць тому

    下野(しもつけ)は栃木ですね。群馬は上野(かみつけ)になります。関西の方にはわかりづらいかもですけど。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。またご指摘いただきありがとうございます!

  • @user-zi8fd3zq4i
    @user-zi8fd3zq4i Місяць тому

    継体天皇は、ヤマト王権だけでは、統治力が足りず、出雲連合王国に天皇擁立を依頼して誕生したとする説、面白いと思っています。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 そういった説もあるのですね。おっしゃる通りその可能性もありますね。面白いと思います。

  • @user-by3kt3sk4s
    @user-by3kt3sk4s 2 місяці тому

    雲南市加茂町の神原古墳は、武内宿祢の古墳と言われる。宇治に住んでいた腹違いの弟・甘美内宿祢の子が住民を引き連れて移住し築造したと伝承される。彼らが住みついたことから、「宇治」の地名がついた。古墳上に神原神社が建てられ、最初の祭神は武内宿祢であったが今は境内社に祀られ、主祭神は大国主となっている。葛城襲津彦が先祖参拝した時に、磐筒男命と磐筒女命も配祀神として祀られた。

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 上記のお話は初めて知りました。勉強になりました。ありがとうございます。

  • @user-by3kt3sk4s
    @user-by3kt3sk4s 2 місяці тому

    武内宿祢は3世紀後半に住居としていた、松江市竹矢で死亡した。その地には武内神社が創建され祀られている。子孫も大活躍したが、奈良時代に書かれた書物は、権力者の都合により、300年も宿祢を登場させて史実は隠された。‼️

    • @gotas1975
      @gotas1975 Місяць тому

      ご視聴いただきありがとうございました。武内宿禰の墓は各地にあると聞いたことがありますが松江にもあるのですね。子孫の活躍も含めて初めて知りました。ありがとうございました。

  • @user-by3kt3sk4s
    @user-by3kt3sk4s 2 місяці тому

    武内宿祢は3世紀後半に住居としていた、松江市竹矢で死亡した。その地には武内神社が創建され祀られている。子孫も大活躍したが、奈良時代に書かれた書物は、権力者の都合により、300年も宿祢を登場させて史実は隠された。‼️

  • @onnetotaki
    @onnetotaki 2 місяці тому

    50年前、箸墓古墳の縁を歩いて一周したことがあります。 あの頃に比べると、笹のたぐいが減り広葉樹が大きく生い茂っていますね。まあ50年も経てば当然なのでしょうが。 せっかくここまで来たのなら、大神神社との中間あたりに位置する「神御前神社」にお参りしても良かったのにねえ😔  小さな神社ですが、倭迹迹日百襲姫をお祀りしています。 「神の御前」と言うからには、三輪山には 神となった姫にとっての神様 が存在していたのでしょうね。私の勝手な解釈だけど。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。50年で墳丘も大きく変化するんですね!

  • @user-ks8fw4bp4w
    @user-ks8fw4bp4w 2 місяці тому

    古代は日本海側が表日本でしたから、朝鮮や中国との交易で隆盛していたはず、仮説として素晴らしい。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。やはり日本海が表玄関ということはヲホドオウがかなりの力を持っていたことも考えられますよね。海運、物流を押さえていたのでしょうね!

  • @user-of3ze3uq1m
    @user-of3ze3uq1m 2 місяці тому

    もしかして、ベトナムは越南と言います。 ベトナム人かもね。 妄想は膨らむ方が良いんよ。 継体という諡号も謎です❔

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 おっしゃる通り古代史は妄想を楽しむこともありだと思います。どんどん楽しみましょう😄

  • @user-um6zz7ol5b
    @user-um6zz7ol5b 2 місяці тому

    ヲホドオウの出身地の越国は記紀の八岐遠呂智にも出てくる由緒正しき古い国。昔の海路は越国、出雲、朝鮮半島東部に向かう海流があり、玄界灘、対馬方面より安全で交易が出来ていた。新羅が出来るまではメインの海路だと考察できる。日本の古い鉄器は新羅周辺の鉄が使われてるので軍事的にも強い。ヲホドオウが征服したか判らないが強い豪族。古代ヤマト政権が連合国家と思われるので権力闘争なのかもしれない。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。 鉄との関係も軽視できませんよね。おっしゃる通り権力闘争に勝ったということは大いに考えられると思います。

  • @user-nz4lw4mm4b
    @user-nz4lw4mm4b 2 місяці тому

    継体天皇は中央アジアの遊牧騎馬民族の王であり、東へ移動し日本海を渡って当時の表玄関である日本海側の越に上陸し勢力を築いていたのです。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そのような説があるのですね。やはり海運とは切り離せない大王だったのかと思います。

  • @user-eu2zn3ue2g
    @user-eu2zn3ue2g 2 місяці тому

    オホド王は大陸からの渡来集団(古墳人)を大量に日本に移住させて、その財力兵力で反対勢力を潰して名実ともに天皇となり、前天皇の妹と結婚して天皇家との関係を強化した。と言うところだろう。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。やはり大陸との繋がりがある大王であったのだと思います。

  • @yoshitomurai2545
    @yoshitomurai2545 2 місяці тому

    船の絵ではないのでは?

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。今城塚古墳に隣接する今城塚古代歴史館にて船の線刻画であると展示されております。学術的にも船であるとされているようです。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому

      船だよ。 陸つたいに 日本海側など交流して まして 大陸と貿易していました。

  • @kyupytarou
    @kyupytarou 2 місяці тому

    本編でもおじゃまします。 今年になって湖西を高島辺りから巡りました。 神社お参りが主でしたけれど本編ご紹介のオホドの大王ゆかりの地をまわりました。 石棺の石が二上山からとは知りませんでした。琵琶湖を北上してきたんですね! この辺りは石の文化の重要地域です。穴太衆に代表されます。石山寺や日吉大社に残る石積み技術は目を見張ります。 地名に残る大陸由来も興味あるところです。蓬莱山など徐福の影響を想像します。 和邇は勢力の痕跡です。 琵琶湖を取り巻く時代背景に魅せられます。 ちなみに当方アイコンの画像は安土城天守跡から見た琵琶湖です。 信長もこの景色を見て野望を抱いたんでしょうね! 継体天皇との出会いは…かつて樟葉に住んでいました。交野天神社お参りの際にそこが継体天皇が都を置いた地と知りました。謎多き大王と知りました。興味の原点です。 神社お参りやら古墳を巡って勢力の変遷が見え出した頃にすっかり古代にハマりました。 UA-camの参考になるチャンネルも増えました。(消えたのもあります) 今後とも宜しくお願いします。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。琵琶湖の雄大さはおっしゃる通り感動しますよね!古代から戦国時代に至るまで琵琶湖を制した者が天下を制するようなことがあったのではないかと思います。樟葉は継体天皇が最初に宮を設けた地と言われていますが、その辺りも詳しく調べてみたいですね!こちらこそ今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました。

  • @qwerty-td6qt
    @qwerty-td6qt 2 місяці тому

    継体天皇の即位は王朝交替説もあるように、謎が深いですね 父の出身地は近江の三尾だとされていますが、実は三尾は福井にあって後の三国氏ではないかとの説もあるようです。加えて祖父が岐阜県南部の国造だった様です つまりは継体天皇は越・近江・美濃・尾張の連合体で、それを河内王朝の物部と大伴が担いで、三輪王朝の残党を征服して飛鳥に新王朝を建てたと 私は5世紀の倭の五王は河内王朝ではなく、越・近江の王が朝鮮半島南部との交易の権益を新羅・唐から守る為に南朝の宋へ朝貢したのではないかと推察しており、当時の越・近江国の力は畿内を超えていたのではないかと睨んでいます

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り王朝交代説も大変興味深いですね。今回は省いてしまいましたが、他の豪族との関係性も考慮すると更に違った側面が見えてくるかもしれませんね。引き続き調べていきたいと思います。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k Місяць тому

      父方の祖母が飛騨の国造でなかったっけ?母方は、要は振姫の母は加賀江沼氏  継体天皇の奥様は尾張など 凄い それが、越前に嫁いできたのが すごいよね、

  • @user-mh2ng8yw1s
    @user-mh2ng8yw1s 2 місяці тому

    あの雪の山は浅間山ですよ。鹿児島の俺が言うのも何ですが。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。そしてご指摘ありがとうございます。桜島なら間違えなかったのですが…

    • @user-mh2ng8yw1s
      @user-mh2ng8yw1s 2 місяці тому

      @@gotas1975 知ったかぶりですみません。先日、藤岡の友が七輿古墳に連れて行った後、雪の軽井沢に行きましたのでしりました。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      とんでもない、ご指摘ありがとうございました。浅間山も桜島も関西にはない雄大さがあり、特に桜島はまだ見たことがありませんので一度は見てみたいと思います😄

  • @user-ss6iu3im5w
    @user-ss6iu3im5w 2 місяці тому

    いつも楽しく見させていただいてます。高島の三尾が彦主人王の別業ということなので、本拠地は別にあるのかなと、いつも不思議に思ってました。 若野毛二俣王 、大郎子、乎非王も、どこにいたのか気になります。やっぱり大和のどこかでしょうか。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。おっしゃる通り別業ですから本拠地は別かもしれませんね。ヲホドノオウの曽祖父の墓は茨木の太田茶臼山古墳との説もあり、非常に気になります。

  • @user-qq2ij4ue4c
    @user-qq2ij4ue4c 2 місяці тому

    仮に征服だとしたら、記紀に英雄譚として残さない理由があまりないんではないかなあ…… まあ、物部系のからみで……とかはあるかもしれないけど。 エピソードがあまりないということは、わりとグダグダ&なし崩しで決まった継承だったんではないかなあ? 個人的には福井人の知り合いはマイペースな人がやたらと多く、「福井人が征服?」というのに必要以上に違和感があるのかもしれない

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。あくまでも個人的見解ですが記紀の編纂者はヲホドノオウを英雄にしたくなかった、万世一系にこだわる必要があったのではないか?と思っています。ただ他の豪族との絡みは私ももう少し丁寧に説明する必要がありましたね。福井の方お話、おっしゃる通り意外と真実はそういう人間臭い所にあるように思います。ほっこりするコメントをありがとうございました。

    • @user-qq2ij4ue4c
      @user-qq2ij4ue4c 2 місяці тому

      ありがとうございます。 万世一系にこだわるなら、逆に話を盛るところだと思うんですが、なんというか……いざこざがあったようなのに地味ですよね。 福井から近江ルートといえば、戦国期の朝倉氏と浅井氏を思い出しますが、地政学や軍事行動のモデルケースとしてみると…… 古代の近江の歴史というのは、水運などの民俗まで含めて掘ってみても面白いかもしれませんよね。高穴穂宮の話とかも。 現代と古代の違いは、山の稜線ルートと河川交通の感覚の違い……と聞きますが、近江も福井も山と水運の土地ですよね

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      @@user-qq2ij4ue4c さん、おっしゃる 通り地政学や物流の話を絡めるともっと多くのことが見えてくるのではないか?と思います。特に日本海側の諸国は海外との結びつきが強かったはずなので船の航路、構造なども興味深いです。色々な考えが浮かんできます。ヒントをありがとうございます。

  • @kentmike9428
    @kentmike9428 2 місяці тому

    西暦500年 倭が新羅を攻め、王を殺害とある   502年 梁 建国 倭の「武」が朝貢 挨拶 これを最後の朝貢の記録途絶える   503年 新羅を国号として「新羅王」を名乗る   506年 武烈天皇 死去 悪行の記録 後継ぎなし?   507年 継体天皇即位 物部氏 大伴氏関与       武烈天皇の姉を妻として迎え入れる 淀川沿い物部氏の影響下に都を造営   513年 百濟より伽耶の一部割譲の願い 許可 五経博士来日   526年 継体天皇 奈良に都を造営   527年 新羅が伽耶を攻める 救援軍派遣 「磐井の乱」       新羅に仏教伝来   531年 継体天皇崩御 皇太子も同時に死去   532年 伽耶の一部 百濟領に 新羅は金官国を獲る   536年 蘇我稲目 大臣になる 葛城地方の支配       新羅 国独自の年号を用いる   538年 百済から仏教伝来 蘇我氏 物部氏との対立の始まり   539年以降 屯倉の拡大 中央集権へ 倭の五王最後の「武」が朝鮮半島の支配権に対して中国の新国家「梁」に挨拶をしている。 一方、朝鮮半島では新羅にクーデターが起きた可能性が高い。それに倭が関与した可能性も否定できない。しかし、その後「新羅王」を名乗って独立の気運。これは、倭や高句麗、中国に影響されない独立国を目指した可能性がある。 また、日本国内では、「ある国」の王「武」と後継ぎも男系の親族も途絶えたことになっている。 これもまた、不思議なこと。常識的には考えられない。当然、次の王になる人物が一人も存在しない状態をつくるはずがない。この頃の国は各地方の豪族の集まりであったのだはないか。  当時日本国内で大きな戦乱があったという記録はない。では、奈良に入るまでの19年間は? 請われて即位した割には、多数の豪族の賛成が得られなかったのではないか。近畿、四国、中国地方まで支配するのに19年かかったのではないか?  もしかすると、新羅に独立の気運が高まると同時に「梁への朝貢」の後から、日本国内では異変があり、武が崩御する前から継体天皇は動いていたのではないか。つまり、継体天皇の勢力によって「ある国」の武が倒された。その武の居た「都」は奈良ではなかった。奈良ならそのまますんなり、奈良に都を置いたであろう。そんな想像もできる。    制圧には、陸路よりも海路を利用した方が、便利だったとは考えられないだろうか? その継体天皇の次も非常に疑問が残る。天皇並立論や実は存在しなかった説。欽明天皇即位までの謎もあり、古事記、日本書紀はうまく纏めてあるが、普通に考えれば、後継ぎが居なかったので遠い親戚の人にすべてを任せたなど考えられない。  戦国大名の織田信長が「平氏」を名乗るのと同じ。平氏や源氏は元をたどれば天皇の血筋。織田信長が天皇になってもおかしくないくらいの滑稽さである。

    • @gotas1975
      @gotas1975 2 місяці тому

      ご視聴いただきありがとうございました。また詳しくご教授いただきありがとうございます。大変勉強になりました。色々な説があるかとは思いますが大陸の動きを念頭に置きながら国内情勢をも踏まえて動いていた継体天皇の動きは大変興味深いです。