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12:42 「砂が生物を受けつけないのは、永遠と流動してとどまることを知らないから」というのは砂の奇妙さが腑に落ちる部分でした。しかし、一方で、僕らの大部分を構成する水もまたとどまることを知らず、生命を構成する重要な要素です。流動性という観点からみれば、水と砂は同じにもかかわらず、生と死の真反対の印象があるのもまた奇妙さとして感じました。
読んだ後観ると、説明めちゃくちゃ上手すぎる
ありがとうございます!
変化に対抗する為に恒常性の維持と再現性の管理に務める事を日常だとすると日常からの脱出は恒常性を可能な限り諦め1回性に生きる事とも言えるかもしれませんその様な脱出行為に人間がどれほどまで耐えうるかを考えると、日常は変化の様々なあり様から精神を保護する為の安全装置であるとも言え、尚且つバックグラウンド起動である必要もあるのでしょうトピックとしては脱出の保留を動機づけに基づいて読むこともできるのかもしれませんが、そういう動機づけが認知バイアスによる虚妄であるかもしれないという揺れの中で取り敢えず日常という忘却装置に身を委ねただけとも読める気がしますそれは動機というものの定義によるかもしれませんが安全装置がフル稼働中の私にそういった事を再考する機会を頂き、いつもありがとうございます
なんの因果か、文学少年をこじらせて修士課程まで行ったしまいました。ぜひ、哲学ちゃんねるさんとご飯行きたいです。
それはすごい!機会があればぜひ!
高校生のときはピンときませんでしたが、社会人になって再読して、なるほどそういうことかと思うことが多々ありました。自分が置かれた社会の構造が多少わかるようになっていたんでしょう。田舎の村社会にせよ、資本主義下の企業社会にせよ、官僚機構にせよ、自由になるのは難しいというか、人間的な自由を阻むような構造があるというか。共産主義のメタファーという発想はあまりなかったので意外でしたが、たしかにそうかもしれません。文明社会における人間疎外という文脈でみれば、むしろ共産主義は期待されていて、安部もアバンギャルド(前衛)作家などと言われていましたが、『砂の女』のころには、すでに共産主義に見切りをつけていたでしょうから。まあ、イデオロギーにかかわらず、人間社会における普遍的な構造を描いたといったほうがいいんでしょう。それは何なのか。砂によって象徴されるのは日常性ということでしょうか。掻いても掻いても降り積もる砂との格闘は、なんとなくシーシュポスの神話を思わせるものもあり、不条理作家と言われる所以でもあるんでしょうが。私としては、「生物は負のエントロピーを食う」といったシュレディンガーの主張を思い出しますね。ほっとけば増大していくエントロピーに抗って、エネルギーを使って外部に吐き出すことによって、生物体としての秩序を維持するのが生命の本質である。それは恒常性の維持といってもいいんでしょう。若干、物理に偏った見方とは思いますが。そのように日々、日常を生きながら、生殖という行為が営まれる。生殖も強制されるのか、性という自由が与えられているのかよくわかりませんが。などと考えると人間的な自由とはいったいなんなのかという気がしてきます。だから、浄水器がひとつの希望になるということなのか。
紹介された作品を10代の頃に読みました。もがけばもがく程、置かれた状況から逃れられなくなる状況から、諦観の境地に至る話しに10代の頃の自分の琴線に触れるものがあったのかなと感じました。今から思うと、もう少し大人になってから読んでも良かったのかななんて感じます。(笑)主人公が愚鈍な印象の「女」に、イライラする描写が面白いですね、実は「女」は主人公がイライラしている内容なんてとうに分かっていて達観している事に主人公が気付いて、更に絶望感を増す描写が、強烈な皮肉になっていて面白いですね。私見ですが、主人公が砂穴?に囚われたのは、ただ単に偶然であり、それは大きな意味で社会という「砂地」に囚われている私達も同じじゃないの?という安部公房の強烈な皮肉だったのかなと感じました。確かに社会主義的な閉鎖状況とも読めますね。お話し面白かったです。長文すみません。
もともと安部公房は「SFマガジン」の創刊に関わるなど、かなりその嗜好があるにはあった。ただ「壁」で芥川賞を得た後も模索期が続いて、エンタメ系に寄せた作品を複数発表するが、広範な読者を獲得できることには繋がらなかった。しかしSF業界との関係、特に小松左京の「復活の日」での科学描写に重心をおいた書きっぷりは、安部公房に勇気を与えてやに思う。とにかく事細かな科学的描写にしつこい点で、「砂の女」「復活の日」「他人の顔」は距離が近い。後年大江健三郎はSF作品に挑んだが、門外漢がイキナリ参入出来る程、甘いジャンルではないことを思い知らされた。
安部公房は満州の記憶を生きていたところがある。砂漠の女と言う意味では?つまり安部公房個人にとっての失われた世界です。それ以上の色々な解釈は全てピンと来ない。因みに満州は岸信介が中心となってされたバリバリの社会主義でした。不思議な捻じれですね。
女が何人か出てきますが、「砂の女」って誰のことだと思いますか?
「誰」という話ではない気がしますね!もっと概念的な対象かと。
未亡人と出会うまでに関わった女たちが、彼にとっては「砂の女」だったというふうにもとれないでしょうか……
そういう風にも取れますし、どちらも違う意味で砂の女だったとも取れますね!
『砂の村』ではなく『砂の家』でもなく『砂の女』であること。その意味を私は考えたいです。女で人生が変わった男。男で人生が変わった女。
12:42 「砂が生物を受けつけないのは、永遠と流動してとどまることを知らないから」というのは砂の奇妙さが腑に落ちる部分でした。しかし、一方で、僕らの大部分を構成する水もまたとどまることを知らず、生命を構成する重要な要素です。流動性という観点からみれば、水と砂は同じにもかかわらず、生と死の真反対の印象があるのもまた奇妙さとして感じました。
読んだ後観ると、説明めちゃくちゃ上手すぎる
ありがとうございます!
変化に対抗する為に恒常性の維持と再現性の管理に務める事を日常だとすると
日常からの脱出は恒常性を可能な限り諦め1回性に生きる事とも言えるかもしれません
その様な脱出行為に人間がどれほどまで耐えうるかを考えると、日常は変化の様々なあり様から精神を保護する為の安全装置であるとも言え、尚且つバックグラウンド起動である必要もあるのでしょう
トピックとしては脱出の保留を動機づけに基づいて読むこともできるのかもしれませんが、そういう動機づけが認知バイアスによる虚妄であるかもしれないという揺れの中で取り敢えず日常という忘却装置に身を委ねただけとも読める気がします
それは動機というものの定義によるかもしれませんが
安全装置がフル稼働中の私にそういった事を再考する機会を頂き、いつもありがとうございます
なんの因果か、文学少年をこじらせて修士課程まで行ったしまいました。ぜひ、哲学ちゃんねるさんとご飯行きたいです。
それはすごい!機会があればぜひ!
高校生のときはピンときませんでしたが、社会人になって再読して、なるほどそういうことかと思うことが多々ありました。自分が置かれた社会の構造が多少わかるようになっていたんでしょう。田舎の村社会にせよ、資本主義下の企業社会にせよ、官僚機構にせよ、自由になるのは難しいというか、人間的な自由を阻むような構造があるというか。
共産主義のメタファーという発想はあまりなかったので意外でしたが、たしかにそうかもしれません。文明社会における人間疎外という文脈でみれば、むしろ共産主義は期待されていて、安部もアバンギャルド(前衛)作家などと言われていましたが、『砂の女』のころには、すでに共産主義に見切りをつけていたでしょうから。
まあ、イデオロギーにかかわらず、人間社会における普遍的な構造を描いたといったほうがいいんでしょう。それは何なのか。砂によって象徴されるのは日常性ということでしょうか。掻いても掻いても降り積もる砂との格闘は、なんとなくシーシュポスの神話を思わせるものもあり、不条理作家と言われる所以でもあるんでしょうが。私としては、「生物は負のエントロピーを食う」といったシュレディンガーの主張を思い出しますね。ほっとけば増大していくエントロピーに抗って、エネルギーを使って外部に吐き出すことによって、生物体としての秩序を維持するのが生命の本質である。それは恒常性の維持といってもいいんでしょう。若干、物理に偏った見方とは思いますが。
そのように日々、日常を生きながら、生殖という行為が営まれる。生殖も強制されるのか、性という自由が与えられているのかよくわかりませんが。などと考えると人間的な自由とはいったいなんなのかという気がしてきます。だから、浄水器がひとつの希望になるということなのか。
紹介された作品を10代の頃に読みました。もがけばもがく程、置かれた状況から逃れられなくなる状況から、諦観の境地に至る話しに10代の頃の自分の琴線に触れるものがあったのかなと感じました。今から思うと、もう少し大人になってから読んでも良かったのかななんて感じます。(笑)主人公が愚鈍な印象の「女」に、イライラする描写が面白いですね、実は「女」は主人公がイライラしている内容なんてとうに分かっていて達観している事に主人公が気付いて、更に絶望感を増す描写が、強烈な皮肉になっていて面白いですね。私見ですが、主人公が砂穴?に囚われたのは、ただ単に偶然であり、それは大きな意味で社会という「砂地」に囚われている私達も同じじゃないの?という安部公房の強烈な皮肉だったのかなと感じました。確かに社会主義的な閉鎖状況とも読めますね。お話し面白かったです。長文すみません。
もともと安部公房は「SFマガジン」の創刊に関わるなど、かなりその嗜好があるにはあった。
ただ「壁」で芥川賞を得た後も模索期が続いて、エンタメ系に寄せた作品を複数発表するが、広範な読者を獲得できることには繋がらなかった。
しかしSF業界との関係、特に小松左京の「復活の日」での科学描写に重心をおいた書きっぷりは、安部公房に勇気を与えてやに思う。
とにかく事細かな科学的描写にしつこい点で、「砂の女」「復活の日」「他人の顔」は距離が近い。
後年大江健三郎はSF作品に挑んだが、門外漢がイキナリ参入出来る程、甘いジャンルではないことを思い知らされた。
安部公房は満州の記憶を生きていたところがある。
砂漠の女と言う意味では?つまり安部公房個人にとっての失われた世界です。
それ以上の色々な解釈は全てピンと来ない。
因みに満州は岸信介が中心となってされたバリバリの社会主義でした。不思議な捻じれですね。
女が何人か出てきますが、「砂の女」って誰のことだと思いますか?
「誰」という話ではない気がしますね!もっと概念的な対象かと。
未亡人と出会うまでに関わった女たちが、彼にとっては「砂の女」だったというふうにもとれないでしょうか……
そういう風にも取れますし、どちらも違う意味で砂の女だったとも取れますね!
『砂の村』ではなく『砂の家』でもなく『砂の女』であること。その意味を私は考えたいです。女で人生が変わった男。男で人生が変わった女。