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哲学の論理と古代宗教の真理(?)が重なったように感じる瞬間、たまらなく好きです
人生に本質的な意味がない点、同感です。そこからニヒリズムにつながりやすい点も、同感です。ですが、つながりやすいであって、必ずではないとも思います。「人生に本質的な意味がないとするならば、私たちは何を指針に生きるべきなのか」という問いからは、私たちは生きるのに指針を要するかのような感じを受けまが、必ずしもそうではないように思います。例えば、赤ちゃんは、母語を習得するまで、意味という概念を持っていない可能性はありそうに思います。また、大人でも、非常に稀でしょうが、何らかのアクシデント等でその状態にある人も、存在しうるように思います。また、嫌味でなく、いわゆるその日暮らしを幸福そうに生きている人たちもいると思います。逸れますが、ピダハンという民族の生き方は、そういう意味で興味深いと僕は思います。ともかく、そういう人たちは、人生に意味がないからとニヒリズムになることはなく、生きていると思います。僕たちは、生まれてからだんだんと、言語を習得して、意味という概念を持って、人生に意味がないとするならば何のために生きるのかと思うようになる気がします。この、言語も、意味も、その他の概念も、生に意味がないのに生きる意味を疑うのも、人間がおそらく頭の中で勝手にやっているだけのことと思います。そして、人間が頭の中で勝手に矛盾等を感じているのではないかと思います。例えば、どんな盾でも貫ける矛があり、そして、どんな矛でも防げる盾があると聞くと、人間は頭の中で矛盾を感じます。ですが、どんな盾でも貫ける矛も、どんな矛でも防げる盾も、人間が勝手に信じた概念だと思います。頭の外の世界では、矛や盾という切り分けも、どんなという抽象的な概念も、ないと思います。そのように、人生に本質的な意味がないならば生きる意味がないと思うのは、人間が頭の中で勝手にやっていること、人間独自の意味付けや論理展開をして、その独自の意味の組み合わせから勝手に矛盾という独自の観念を感じて、その認識から勝手に活力セーブなのか無気力になっている、というように思いました。ですので、例えば、人生に本質的な意味がないとするならば、私たちは生きる指針が意識的や意味的にはないかもしれないけれど、そのことは生きることに絶対的な影響を及ぼすわけではないと考えられるように思います。生きていて快楽を感じているならそれでよし、苦痛を感じているなら脱しようとして状況を変えるも死ぬもよし、生きる意味がないと生きていて落ち着かないから意味のような何かを見出して生きるもよし、と僕は思います。
人生を楽しめてないと意味がないことが苦痛になりますそのため美味しいものを食べたり、恋をしたり、仕事や趣味に没頭することで苦痛を和らげるのでしょうこのコンテンツを楽しむのもその一環です🥰
ググっただけの知識ですが、人間(ニンゲン)の語源が「人の住んで居る場所、空間、ジンカン」から来ていて、今では私たちが人間と人でニュアンスの使い分けをしている事を考えると、先人達が積み上げた認識能力と表現力に畏敬の念を感じます。お話を聞いていて、ワタシとは、存在というよりも、ヒトとニンゲンのハザマのどこかに転がっている実存、絶えず揺れ動く振り子の様な状態、だと思いました。メインチャンネルの本編も楽しみにしています。
つながってるね❤
皆さん意味のない人生に意味を付与するのに必死なんですね😅
哲学に傾倒してる人の冷笑・嘲笑 自分だけは大衆と違う、本質を見ているという驕り。社会に鬱を伝染させている ウイルスのような存在
今 テッドチャンを読んでいます。私は、私が見えているこの世は大きな流れの中の一つの点でしかなく、自由意志はなく、"ある"ような気がしているだけなのだろうか?となっていたところです。マトリックスとは逆で実はこの世は存在していなくても(無だと気づいても) 在ると思って生きていけばそれでいいのでしょうか?うーーーん🙄
「人生に本質的な意味がないとするならば、」という前提に無理があるので、その後の議論は、全て空虚な感じがします。
哲学の論理と古代宗教の真理(?)が重なったように感じる瞬間、たまらなく好きです
人生に本質的な意味がない点、同感です。そこからニヒリズムにつながりやすい点も、同感です。ですが、つながりやすいであって、必ずではないとも思います。「人生に本質的な意味がないとするならば、私たちは何を指針に生きるべきなのか」という問いからは、私たちは生きるのに指針を要するかのような感じを受けまが、必ずしもそうではないように思います。
例えば、赤ちゃんは、母語を習得するまで、意味という概念を持っていない可能性はありそうに思います。また、大人でも、非常に稀でしょうが、何らかのアクシデント等でその状態にある人も、存在しうるように思います。また、嫌味でなく、いわゆるその日暮らしを幸福そうに生きている人たちもいると思います。逸れますが、ピダハンという民族の生き方は、そういう意味で興味深いと僕は思います。ともかく、そういう人たちは、人生に意味がないからとニヒリズムになることはなく、生きていると思います。
僕たちは、生まれてからだんだんと、言語を習得して、意味という概念を持って、人生に意味がないとするならば何のために生きるのかと思うようになる気がします。この、言語も、意味も、その他の概念も、生に意味がないのに生きる意味を疑うのも、人間がおそらく頭の中で勝手にやっているだけのことと思います。そして、人間が頭の中で勝手に矛盾等を感じているのではないかと思います。
例えば、どんな盾でも貫ける矛があり、そして、どんな矛でも防げる盾があると聞くと、人間は頭の中で矛盾を感じます。ですが、どんな盾でも貫ける矛も、どんな矛でも防げる盾も、人間が勝手に信じた概念だと思います。頭の外の世界では、矛や盾という切り分けも、どんなという抽象的な概念も、ないと思います。そのように、人生に本質的な意味がないならば生きる意味がないと思うのは、人間が頭の中で勝手にやっていること、人間独自の意味付けや論理展開をして、その独自の意味の組み合わせから勝手に矛盾という独自の観念を感じて、その認識から勝手に活力セーブなのか無気力になっている、というように思いました。
ですので、例えば、人生に本質的な意味がないとするならば、私たちは生きる指針が意識的や意味的にはないかもしれないけれど、そのことは生きることに絶対的な影響を及ぼすわけではないと考えられるように思います。生きていて快楽を感じているならそれでよし、苦痛を感じているなら脱しようとして状況を変えるも死ぬもよし、生きる意味がないと生きていて落ち着かないから意味のような何かを見出して生きるもよし、と僕は思います。
人生を楽しめてないと意味がないことが苦痛になります
そのため美味しいものを食べたり、恋をしたり、仕事や趣味に没頭することで苦痛を和らげるのでしょう
このコンテンツを楽しむのもその一環です🥰
ググっただけの知識ですが、人間(ニンゲン)の語源が「人の住んで居る場所、空間、ジンカン」から来ていて、今では私たちが人間と人でニュアンスの使い分けをしている事を考えると、先人達が積み上げた認識能力と表現力に畏敬の念を感じます。お話を聞いていて、ワタシとは、存在というよりも、ヒトとニンゲンのハザマのどこかに転がっている実存、絶えず揺れ動く振り子の様な状態、だと思いました。メインチャンネルの本編も楽しみにしています。
つながってるね❤
皆さん意味のない人生に意味を付与するのに必死なんですね😅
哲学に傾倒してる人の冷笑・嘲笑
自分だけは大衆と違う、本質を見ているという驕り。
社会に鬱を伝染させている ウイルスのような存在
今 テッドチャンを読んでいます。
私は、私が見えているこの世は大きな流れの中の一つの点でしかなく、自由意志はなく、"ある"ような気がしているだけなのだろうか?となっていたところです。
マトリックスとは逆で
実はこの世は存在していなくても(無だと気づいても) 在ると思って生きていけばそれでいいのでしょうか?うーーーん🙄
「人生に本質的な意味がないとするならば、」という前提に無理があるので、その後の議論は、全て空虚な感じがします。