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中学生の頃、クラスで仲の良かった友達が病気亡くなり、葬式をあげる際に仲が良かったという事で同級生を代表して弔辞を読む事になったのですが、途中でなんだか馬鹿らしくなって吹き出して笑ってしまったのを思い出しました。その時は遺影の方を向いていてみんなには背を向けていた為笑っていた事はバレず、泣いて声がまともに出せなかったという風に解釈してもらって周囲から異邦人として扱われる事は免れたのですが、自分の中ではなんとも釈然としない感じが残ったのを覚えています。(悲しくなかったという事では全くなく、あれから十何年経ちますが彼の事は度々思い出しますし彼の遺品も大事に持っています)自分の人生を振り返って見るとこのような失敗を凡ゆる場面でしてきていて、それは「このような場ではこのように振る舞うべき」というコードに対して尽く「なんでそうするべきなんだろう?アホくさいな?」という自分のムルソーな部分がざわめき出すのが原因だなと気付きました。なんでこのような性質になってしまったのか分かりませんが、個人的にはその場のコードを正確に読み取り正しく振る舞える人が羨ましいと思っています。
「コード」ってまさにそうですね。全く同感です。
これめっちゃ好き
とても参考になるご体験、ありがとうございました。
死ぬまで自分の生き方を貫いて生き抜けたことにある種の幸福を感じていたんでは、と思ったりしてます。
ムルソーやムルソーのママンのように、いつ死ぬかわからないと真剣に感じられる状況になったら、きっと自分にもカミュの主張が本当の意味で理解できると思いました。
渋すぎるぞ、この感覚頑張ろっと
解説?ありがとうございます。僕は現在21歳の大学生ですが、若いうちにこの小説を読めて良かったと思っています。僕は子供の頃から周りと捉え方や考え方が違っていて(カッコつけとかではなく本気で悩んでいた)、実際周りからも不思議ちゃんのような見方をされていました。自分では、自分なりのロジックがしっかりあるのに、周りからは変な奴扱いされるのが不満でした。なので、ムルソーのような周りの人に理解されなくても、確固たる自分の信念や軸をもとに自由や幸せをみつけ、自信を持って生きている人物と出会えて幸運です。お手本のような存在でもあります。僕はムルソーに自分が似ているとは思いませんでしたが、僕の中にムルソーがたくさんいることに気がつけました!
少し、少しだけですが作者が主人公に対して何らかの理解しようと務める人を引き合いに出してそれを作意によって主人公の異邦人化を狙っているような作品と読めてしまい大変苦しい思いをしたのを思い出し大変苦しい思いをしております
大学時代にこの本を読みましたが、ムルソー自身の価値観と社会の一般規範との「ずれ」の表現がうまいなと思いました。僕自身も周りから変なやつ扱いされることが多いのでムルソーにはシンパシーを感じるものがあります。僕は自分なりに頭の中で色々考えているのですが自分の意見を表明することも少なく、口数も少ないので、ボーっとしていて何を考えているのかわからないと相手から言われることもあります。ムルソーの一見すると不思議で意味不明な行動も、彼なりの理論に基づいて行われた行動なのではないかと思います。心情描写が乏しいですが…。他の人からみたら僕もムルソーのように見えているのかもしれないと客観視するきっかけになった本です。
ご紹介ありがとうございます。「異邦人」手元に本あるのでまた読んでみます!サルトルとの立ち位置の違い大変よくわかりました。「革命か反抗か」という対談本もありましたね。
面白い考察
最後の文の朗読嬉しいです文で読んだときは掴みきれていない感じがありましたが、今聴いたことで分かった気がします
改めて読んで、場所、人、モノ、環境のそれぞれとムルソーの反応動作に、恐らくですが、殆どの人がムルソーを自覚するのではないかと思いますわたしは、収監後環境に慣れていく様、セリフのない機微の節に改めて喚起されるものがありました短いのに時間軸にとても繊細な本だと思いました改めてありがとうございます多分また読んじゃいます
ムルソーの信念には、共感できます。どうしようもなく「ある」ものを「ある」として処理する彼の方が、社会的に取り繕う他の人より、よっぽど誠実なんじゃないかとも思います。ニーチェ思想との関係も興味深いですね。ニーチェは等し並(凡常)であることを否定的に見ていたようですが(悦ばしき知識の354節など)、ムルソーは彼自身が等し並であることを自覚的に受け入れていることが伺えます。不条理を、不条理として受け入れる。そして、それが諦めでも開き直りでもないことに彼の強さを感じます。ご紹介ありがとうございます。
動画主様の率直な感想、またご体験、楽しいです。ありがとうございます。
よく不条理文学と評されますが、ムルソーの理屈はすべて辻褄はあっていて、不条理なのは、世間の常識でしか計られないムルソーのほうじゃないかと思いました。太陽が眩しくて、という理由も、情景描写からして、何ら破綻していない。最後の神父に対して吐いた言葉は、それまでのムルソーの淡々とした言動との落差が効いていて、より強烈な叫びとして、印象に残っています。
「太陽が眩しくて」はそのまま「人生が不条理で」と読み替えられるんですよね。
ムルソーの特異点は言葉にできませんが自分は共感できます。それをムルソーのように損得勘定抜きで表明することはないです。そこは違います毒舌家(ムルソー)がもてはやされているのは快感を伴うからかもしれない。それは言いたいこといったと離れた場所 自分に危害が加わらないところにいた場合のみうれしいと思うからなのかと思います。執着をするなという執着みたいな それって何なの まあお葬式で言う・彼女の心をぶった切る・と出ていく羽目になるでしょうね。実際それをやるとただの迷惑にすぎません。スマートに距離を取ればスマートでしょう。ずるがしこい方の
いくつか共感する部分はありました。全然関係ないと思いますが、村上龍の小説なんかも似たような感覚になることがあります。
デフォルメされてるだろうけど、ムルソーみたいな人結構いるんじゃないかな。自分はとても共感できた。
こんにちは。サブちゃんねるの方が自分は好きです。これからも頑張って投稿お願いします。自分は12歳の時に異邦人を読み今は58歳ですが今も文庫と持ってます。読んだきっかけは家が貧しい事で同級生からいじめてられため社会不条理を体験した事だと思います。ムルソーの生き方を真似て生きてきましたので会社でも変わり者として見られていますが清々しい生きれています。妻も娘も2人いますので社会的な価値観もわかっているつもりですが、自分の中のムルソーはいつまでも若々しく、カッコ良いです。
海の中で泣いていたら、泣いていることに気づけますか?
少なくとも、自分自身は気づけるように思いますね!
僕もムルソーに感情移入して読んでいました。一般的な解釈としては、世間から見れば、ムルソーが「異邦人」です。しかし、ムルソー側から見れば、世間の人たちが「異邦人」だったのではないかと感じます。だからこそ、異邦人だらけの世界から去るとき、世間との相容れなさから罵声を求めたのかもしれませんね。
高校生のときにかなり影響を受けたような気もしますが、今ではわたしの「ムルソー」もかなりくたびれてしまった感はあります。今、読めば何か新しい発見があるのかもしれませんが、余計な知恵が邪魔してつまらない解釈で終わるかもしれません。「同じ実存主義と言われるがサルトルとは正反対だ」とは、どういうことなのか。「実存は本質に先立つ」というときの「本質」とは、その人の出自に関わる文化的コードのようなものでしょうか。一般にはキリスト教コミニュティのような西欧の伝統的文化とか。ハイデガーならそれは民族の歴史だったりするのかもしれませんが。それに対して「実存」とは、共同体から切り離された個人であり、理性をもった主体みたいなものか。サルトルの場合は、個人の理性によって状況に立ち向かうという面が強く、それに対して、カミュの場合は、理性で状況に立ち向かうには限界があるという立場のように見える。その意味では、たしかに正反対といってもいいでしょう。なぜ、理性では無理なのかというと、状況自体が偶然性に満ちており、偶然性に対して理性は無力であるから、ということだと思います。理性では対応できないことを不条理というんでしょう。個人の身に降りかかる状況の偶然性を引き受ける、というのが実存主義の特徴だとすれば、合理性によって不条理を乗り越えるというサルトルの実存主義にはたしかに矛盾があり、むしろカミュの立場や態度の方が実存主義というに相応しいような気がしないでもありません。カミュの場合の「本質」は本能的なものではないかということですが、たしかにニーチェやさらにはショーペンハウアの生きる「意志」的なものを継承しているかんじもありますね。とすると、キリスト教なども含む西欧的な理性主義に対して、ある意味、東洋的な匂いのする思想といえるかもしれません。ニヒリズムというとネガティブな印象ですが、不条理に対して「しようがない」ものと覚悟して淡々と対処するというのがあってもいいだろうとは思います。カミュの場合は、若干、ダンディズムというかフランス的な気取りのようなものが鼻につく感じがなきにしもあらずですが。今世紀になっても、天災やら疫病やら戦争などの不条理な状況が止むことはないわけで、理性ではどうにもならない状況に立ち向かう覚悟というのはますます必要なんでしょうね。
「シーシュポスの神話」などを読むと分かりますが、カミュは実存的なものに対してどこまでも理性で向き合おうとしています。その点においてはサルトルと共通する部分があるのかと。一方で、サルトルが実存的な人生に希望を見出そうとしたのに対し、カミュは不条理な人生における絶望を受け入れる道を選びました。この点において「サルトルとは真逆」なんだと理解しています。そういう意味ではサルトルよりはキルケゴールに近い思想かもしれませんね!
@@てつがくちゃんねる いつどこで買ったのか記憶がないのになぜか「シーシュポスの神話」が本棚に並んでいました。1/3ほど読んでみましたが、なかなか面白い。これほど自分の考えを率直にわかりやすく書いているとは。哲学の自殺とか壁といったかたちで実存主義や現象学を批判していますね。当時の哲学は一様に近代的理性の批判はしているが、なぜかそこから極端な理性の否定か、逆に全面的な肯定にジャンプしてしまうことを問題にしています。たしかにキルケゴールやヤスパースは「神」に行ってしまうし、ハイデガーやサルトルは「投企」に行ってしまう。理性の限界を知って適切に辛抱強く理性を働かせるのでなく、なぜか観念的、形而上的に飛躍してしまっているように見えます。理性の万能を信じるのでなく、その限界を見極めて冷静に理性に留まるというのがカミュの立場かと思いますが、これは同感です。面白いのは同時にフッサールにも言及していて、理性の限界を見極めようとする点では、不条理哲学に近いが、なぜか最後のところで自然法則や真実性など形而上的概念を求めてしまうのはいただけないとしています。これも、まったく同感。結局、理性の限界なり不可能性を理解しつつも絶えざる理性の運用に留まるというのがカミュの言いたいことであり、それがおそらくシーシュポスの神話のイメージなんでしょう。それについては、全面的に同意します。
『異邦人』は私にとって最も苦手な小説の一つです。ムルソーの言動の全てに対して、「何だコイツ」としか思えず、読み終えても何ら感興もありませんでした。『ペスト』を読んでも「……ふーん」という感じで、多分カミュが合わないんだろうと思いますが。折角だし、もう一度読んでみるかなあ……
苦手な人が多いのは凄くわかります。ムルソーってなんか一貫していないんですよね。ムルソー的なものが飛び出たかと思えば、なんとなく日和った精神も見え隠れする。その中途半端さが「何だコイツ」に輪をかけると言いますか。私は逆にその「何だコイツ」感に、なおさら人間の動物的な側面を感じてしまうんですよね!
別に無理して読まなくてもいいんじゃないの。無理して「理解した」「共感した」なんて嘘をつくのは、カミュが喜ぶとは思えない。「多様性」なんて嘘に騙されてはいけない。「何だコイツ」それでいいじゃない。ちなみに私はあなたとは真逆で「そうだよなあ、母親が死んだから必ず泣かなきゃならないなんておかしいわ」と思いました。こう書けば「なんてひどい奴なんだ」「人間じゃない」と侮蔑されるんでしょうけど、私はそれでいいですよ。
中学生の頃、クラスで仲の良かった友達が病気亡くなり、葬式をあげる際に仲が良かったという事で同級生を代表して弔辞を読む事になったのですが、途中でなんだか馬鹿らしくなって吹き出して笑ってしまったのを思い出しました。
その時は遺影の方を向いていてみんなには背を向けていた為笑っていた事はバレず、泣いて声がまともに出せなかったという風に解釈してもらって周囲から異邦人として扱われる事は免れたのですが、自分の中ではなんとも釈然としない感じが残ったのを覚えています。
(悲しくなかったという事では全くなく、あれから十何年経ちますが彼の事は度々思い出しますし彼の遺品も大事に持っています)
自分の人生を振り返って見るとこのような失敗を凡ゆる場面でしてきていて、それは「このような場ではこのように振る舞うべき」というコードに対して尽く「なんでそうするべきなんだろう?アホくさいな?」という自分のムルソーな部分がざわめき出すのが原因だなと気付きました。
なんでこのような性質になってしまったのか分かりませんが、個人的にはその場のコードを正確に読み取り正しく振る舞える人が羨ましいと思っています。
「コード」ってまさにそうですね。全く同感です。
これめっちゃ好き
とても参考になるご体験、ありがとうございました。
死ぬまで自分の生き方を貫いて生き抜けたことにある種の幸福を感じていたんでは、と思ったりしてます。
ムルソーやムルソーのママンのように、いつ死ぬかわからないと真剣に感じられる状況になったら、きっと自分にもカミュの主張が本当の意味で理解できると思いました。
渋すぎるぞ、この感覚
頑張ろっと
解説?ありがとうございます。
僕は現在21歳の大学生ですが、若いうちにこの小説を読めて良かったと思っています。
僕は子供の頃から周りと捉え方や考え方が違っていて(カッコつけとかではなく本気で悩んでいた)、実際周りからも不思議ちゃんのような見方をされていました。自分では、自分なりのロジックがしっかりあるのに、周りからは変な奴扱いされるのが不満でした。
なので、ムルソーのような周りの人に理解されなくても、確固たる自分の信念や軸をもとに自由や幸せをみつけ、自信を持って生きている人物と出会えて幸運です。お手本のような存在でもあります。
僕はムルソーに自分が似ているとは思いませんでしたが、僕の中にムルソーがたくさんいることに気がつけました!
少し、少しだけですが
作者が主人公に対して何らかの理解しようと務める人を引き合いに出して
それを作意によって主人公の異邦人化を狙っているような作品と読めてしまい
大変苦しい思いをしたのを思い出し
大変苦しい思いをしております
大学時代にこの本を読みましたが、ムルソー自身の価値観と社会の一般規範との「ずれ」の表現がうまいなと思いました。
僕自身も周りから変なやつ扱いされることが多いのでムルソーにはシンパシーを感じるものがあります。
僕は自分なりに頭の中で色々考えているのですが自分の意見を表明することも少なく、口数も少ないので、ボーっとしていて何を考えているのかわからないと相手から言われることもあります。
ムルソーの一見すると不思議で意味不明な行動も、彼なりの理論に基づいて行われた行動なのではないかと思います。心情描写が乏しいですが…。
他の人からみたら僕もムルソーのように見えているのかもしれないと客観視するきっかけになった本です。
ご紹介ありがとうございます。「異邦人」手元に本あるのでまた読んでみます!サルトルとの立ち位置の違い大変よくわかりました。「革命か反抗か」という対談本もありましたね。
面白い考察
最後の文の朗読嬉しいです
文で読んだときは掴みきれていない感じがありましたが、今聴いたことで分かった気がします
改めて読んで、場所、人、モノ、環境のそれぞれとムルソーの反応動作に、恐らくですが、殆どの人がムルソーを自覚するのではないかと思います
わたしは、収監後環境に慣れていく様、セリフのない機微の節に改めて喚起されるものがありました
短いのに時間軸にとても繊細な本だと思いました
改めてありがとうございます
多分また読んじゃいます
ムルソーの信念には、共感できます。
どうしようもなく「ある」ものを「ある」として処理する彼の方が、社会的に取り繕う他の人より、よっぽど誠実なんじゃないかとも思います。
ニーチェ思想との関係も興味深いですね。
ニーチェは等し並(凡常)であることを否定的に見ていたようですが(悦ばしき知識の354節など)、ムルソーは彼自身が等し並であることを自覚的に受け入れていることが伺えます。
不条理を、不条理として受け入れる。そして、それが諦めでも開き直りでもないことに彼の強さを感じます。
ご紹介ありがとうございます。
動画主様の率直な感想、またご体験、楽しいです。ありがとうございます。
よく不条理文学と評されますが、ムルソーの理屈はすべて辻褄はあっていて、不条理なのは、世間の常識でしか計られないムルソーのほうじゃないかと思いました。
太陽が眩しくて、という理由も、情景描写からして、何ら破綻していない。
最後の神父に対して吐いた言葉は、それまでのムルソーの淡々とした言動との落差が効いていて、より強烈な叫びとして、印象に残っています。
「太陽が眩しくて」はそのまま「人生が不条理で」と読み替えられるんですよね。
ムルソーの特異点は言葉にできませんが自分は共感できます。それをムルソーのように損得勘定抜きで表明することはないです。そこは違います
毒舌家(ムルソー)がもてはやされているのは快感を伴うからかもしれない。それは言いたいこといったと離れた場所 自分に危害が加わらないところにいた場合のみうれしいと思うからなのかと思います。執着をするなという執着みたいな それって何なの まあお葬式で言う・彼女の心をぶった切る・と出ていく羽目になるでしょうね。実際それをやるとただの迷惑にすぎません。スマートに距離を取ればスマートでしょう。ずるがしこい方の
いくつか共感する部分はありました。
全然関係ないと思いますが、
村上龍の小説なんかも似たような感覚になることがあります。
デフォルメされてるだろうけど、ムルソーみたいな人結構いるんじゃないかな。自分はとても共感できた。
こんにちは。サブちゃんねるの方が自分は好きです。これからも頑張って投稿お願いします。
自分は12歳の時に異邦人を読み今は58歳ですが今も文庫と持ってます。読んだきっかけは家が貧しい事で同級生からいじめてられため社会不条理を体験した事だと思います。ムルソーの生き方を真似て生きてきましたので会社でも変わり者として見られていますが清々しい生きれています。妻も娘も2人いますので社会的な価値観もわかっているつもりですが、自分の中のムルソーはいつまでも若々しく、カッコ良いです。
海の中で泣いていたら、泣いていることに気づけますか?
少なくとも、自分自身は気づけるように思いますね!
僕もムルソーに感情移入して読んでいました。一般的な解釈としては、世間から見れば、ムルソーが「異邦人」です。しかし、ムルソー側から見れば、世間の人たちが「異邦人」だったのではないかと感じます。だからこそ、異邦人だらけの世界から去るとき、世間との相容れなさから罵声を求めたのかもしれませんね。
高校生のときにかなり影響を受けたような気もしますが、今ではわたしの「ムルソー」もかなりくたびれてしまった感はあります。今、読めば何か新しい発見があるのかもしれませんが、余計な知恵が邪魔してつまらない解釈で終わるかもしれません。
「同じ実存主義と言われるがサルトルとは正反対だ」とは、どういうことなのか。「実存は本質に先立つ」というときの「本質」とは、その人の出自に関わる文化的コードのようなものでしょうか。一般にはキリスト教コミニュティのような西欧の伝統的文化とか。ハイデガーならそれは民族の歴史だったりするのかもしれませんが。それに対して「実存」とは、共同体から切り離された個人であり、理性をもった主体みたいなものか。サルトルの場合は、個人の理性によって状況に立ち向かうという面が強く、それに対して、カミュの場合は、理性で状況に立ち向かうには限界があるという立場のように見える。その意味では、たしかに正反対といってもいいでしょう。なぜ、理性では無理なのかというと、状況自体が偶然性に満ちており、偶然性に対して理性は無力であるから、ということだと思います。理性では対応できないことを不条理というんでしょう。
個人の身に降りかかる状況の偶然性を引き受ける、というのが実存主義の特徴だとすれば、合理性によって不条理を乗り越えるというサルトルの実存主義にはたしかに矛盾があり、むしろカミュの立場や態度の方が実存主義というに相応しいような気がしないでもありません。
カミュの場合の「本質」は本能的なものではないかということですが、たしかにニーチェやさらにはショーペンハウアの生きる「意志」的なものを継承しているかんじもありますね。とすると、キリスト教なども含む西欧的な理性主義に対して、ある意味、東洋的な匂いのする思想といえるかもしれません。ニヒリズムというとネガティブな印象ですが、不条理に対して「しようがない」ものと覚悟して淡々と対処するというのがあってもいいだろうとは思います。カミュの場合は、若干、ダンディズムというかフランス的な気取りのようなものが鼻につく感じがなきにしもあらずですが。
今世紀になっても、天災やら疫病やら戦争などの不条理な状況が止むことはないわけで、理性ではどうにもならない状況に立ち向かう覚悟というのはますます必要なんでしょうね。
「シーシュポスの神話」などを読むと分かりますが、カミュは実存的なものに対してどこまでも理性で向き合おうとしています。その点においてはサルトルと共通する部分があるのかと。一方で、サルトルが実存的な人生に希望を見出そうとしたのに対し、カミュは不条理な人生における絶望を受け入れる道を選びました。この点において「サルトルとは真逆」なんだと理解しています。そういう意味ではサルトルよりはキルケゴールに近い思想かもしれませんね!
@@てつがくちゃんねる
いつどこで買ったのか記憶がないのになぜか「シーシュポスの神話」が本棚に並んでいました。1/3ほど読んでみましたが、なかなか面白い。これほど自分の考えを率直にわかりやすく書いているとは。
哲学の自殺とか壁といったかたちで実存主義や現象学を批判していますね。当時の哲学は一様に近代的理性の批判はしているが、なぜかそこから極端な理性の否定か、逆に全面的な肯定にジャンプしてしまうことを問題にしています。たしかにキルケゴールやヤスパースは「神」に行ってしまうし、ハイデガーやサルトルは「投企」に行ってしまう。理性の限界を知って適切に辛抱強く理性を働かせるのでなく、なぜか観念的、形而上的に飛躍してしまっているように見えます。理性の万能を信じるのでなく、その限界を見極めて冷静に理性に留まるというのがカミュの立場かと思いますが、これは同感です。
面白いのは同時にフッサールにも言及していて、理性の限界を見極めようとする点では、不条理哲学に近いが、なぜか最後のところで自然法則や真実性など形而上的概念を求めてしまうのはいただけないとしています。これも、まったく同感。
結局、理性の限界なり不可能性を理解しつつも絶えざる理性の運用に留まるというのがカミュの言いたいことであり、それがおそらくシーシュポスの神話のイメージなんでしょう。それについては、全面的に同意します。
『異邦人』は私にとって最も苦手な小説の一つです。ムルソーの言動の全てに対して、「何だコイツ」としか思えず、読み終えても何ら感興もありませんでした。『ペスト』を読んでも「……ふーん」という感じで、多分カミュが合わないんだろうと思いますが。折角だし、もう一度読んでみるかなあ……
苦手な人が多いのは凄くわかります。ムルソーってなんか一貫していないんですよね。ムルソー的なものが飛び出たかと思えば、なんとなく日和った精神も見え隠れする。その中途半端さが「何だコイツ」に輪をかけると言いますか。
私は逆にその「何だコイツ」感に、なおさら人間の動物的な側面を感じてしまうんですよね!
別に無理して読まなくてもいいんじゃないの。無理して「理解した」「共感した」なんて嘘をつくのは、カミュが喜ぶとは思えない。「多様性」なんて嘘に騙されてはいけない。「何だコイツ」それでいいじゃない。ちなみに私はあなたとは真逆で「そうだよなあ、母親が死んだから必ず泣かなきゃならないなんておかしいわ」と思いました。こう書けば「なんてひどい奴なんだ」「人間じゃない」と侮蔑されるんでしょうけど、私はそれでいいですよ。