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こんな結末にはなってしまいましたが、このタッグに登場する人や組織、ウィリアムズ、ホンダ、マンちゃん、ピケ、FW11とB、みんな大好きで、やっぱり胸踊る思い出です。
MobilのCM、「MobilのライバルはMobilだった」が凄く印象的でしたね。87年、シルバーストンでの2人のバトルはウイリアムズの強さを象徴するワンシーンでした。
86、87年と険悪な関係だったマンちゃんとピケさん、今では友好的な関係にピケさん曰く「マンセルからゴルフやらないって誘われた」とか仰ってました
セナとプロストもプロスト引退したとたんに、仲良くなってたからそんなもんじゃ無いの。
@@secoahoz セナがプロストに引退して寂しいとか言ってるの映像と音声で残ってるけど。
@@secoahoz 風通にテスト走行か、本番で会話してたが。
インタビューじゃ無いよ。セナの無線にプロスト出てきて、セナが寂しそうに語ってたよ。動画探してみたら。
@@secoahoz 映画かドラマで使われたの?もちろん、フィクションで。
今見てもウィリアムズホンダは格好良いですね。
FW11/11Bはスタイリングが筋肉質で獰猛で男のマシンって感じで最も美しいマシンだったと今でも思います😊カラーリングもかっこいい😊
FW11は、今見てもやっぱりカッコイイですね。ちょうどこの頃からF1マシンのデザインにCADシステムを導入し、昔ながらの紙の設計図ではなくコンピュータを使って設計する時代になりつつありました。FW11シリーズはそんなCADシステムが生んだ初期の傑作マシンだと思います。
当時スポンサーで、サイドポンツーンエアインテークにロゴが入ってたGE社のCADシステム、Calmaを使用。
確かにマンセル贔屓は有りましたね。ピケがピットインして燃料補給の時、フェイスシールドを拭いてくれと合図するとスタッフがティシユペーパーをピケの目の前に放り投げた映像が当時のF1グランプリで映てました😅
ウイリアムズは人間(ドライバー)を軽視してましたからね。その後のチャンピオンのデーモンヒル放出は、ニューウェイも激怒し終わりの決定的ダメージでした。。
チームとしては最強でしたけどドライバーの扱いは物凄く雑なイメージが今でも拭えません。
ニューウェイさんはデイモン・ヒルさん好きでしたよね。
当時ドライバーの扱いとか見てて、ウィリアムズだけは好きになれなかったです。どちらかと言えばミーハーな自分ですが、良い所を見付けられない。
多分、ドライバーに執着したことでホンダエンジンを失った教訓から得た姿勢だったと推察します。
それでもフランク・ウィリアムズ卿が特に気に入っていた所属ドライバーは、アラン・ジョーンズとケケ・ロズベルグとナイジェル・マンセルの3人だったと思います。
仲は悪かったけどマンちゃんもピケもコース上では良識があった。わけわかんない同士討ちとかなかったですし。ピケがベネトン、マンちゃんフェラーリでのオーストラリアはファイナルラップまでの超バトル。でもギリギリのところは両者とも守ってゴール後はともに笑顔、みてて爽快なレースでした☆
マンセルのキャリアNo.1レースだと思うけど、1987イギリスGPのハンガーストレートフェインとぶち抜きは、ストウコーナーでピケが引かなかったら両者大クラッシュになってたかも。
実力がある2人のドライバーを抱えたチームは難しいね。
チーム内の人間関係はさておきFW11.11Bは間違いなくベストハンドリングカーですね😊🏁👍特に1986年のハンガリーGPでのロータス·ルノーのセナとピケとのバトルで第一コーナーでピケがドリフトしながらセナを抑えたシーンは印象深いです。
セナに片腕を振り上げながらの、ピケのスーパーオポジットロックパッシング。
懐かしいですね、ちょうどフジテレビが中継を始めた頃のことで自分が日曜の深夜に一人だけ熱くなってたことを思い出しました
ウィリアムズのなかで一番好きなマシンです!
HONDA、F1といえば、やっぱりこのイメージが強いですねHONDAがF1で活躍してるのがきっかけでF1に興味を持ったのが、FW10・FW11でしたから当時はまだTV中継がなかったので、映像を観るのは大変でしたHONDAエンジンのタイトル獲得のニュースは食い入るように見てました。
ジョイントナンバーワンはやはり難しいのですね。この頃のウイリアムのドライバーを何故ロズベルグから替えたのか当時不思議に思ったのですがそういう理由だったのですね。
マンセルが出てたキャノンのCM良かったなぁ~
この頃のドライバーは良くも悪くも癖があって好き
セナもマンセルもレース絡んでリタイヤすると殴り合ってた
フランク・ウィリアムズはもっと人や企業を大事にして欲しかったね結果出してるのに去ってから後悔は無いのですよ。
そのツケがテールエンダーチームに…
常に隣にセナがいるのは純粋に凄いと思う
アジア人への差別が根強かった当時でも、ピケもマンセルもHONDAには好意的だったんだよね。ピケはHONDAのスタッフと個人的に仲良くなったり、マンセルはスタッフのアイデアを褒めて実用化に向けて後押ししたり。その状況を改善できなかったのも、それはそれで様々なチーム内の差別意識だったらしいんだけど...。
87年のイギリスGPでのホンダ1234には興奮したなあ
桜井さんは、中嶋さんにわざと2周遅れになるよう指示してたそうです。(順位は変わらないし、こうしないとガス欠でパーになることがわかったため)
1986年マクラーレンTAGポルシェターボのプロストは、まさに「漁夫の利」ですね。
最終戦で攪乱作戦を見事に成功させたロズベルグが前年までのウイリアムズのエース格だったこともあったし、ウイリアムズ&マンセルのツキのなさと先読みの弱さが際立ったシーズンでしたね
@@こちたんぱぱ 様ウィリアムズのマンセルとピケとの間にはハッキリと確執有りました‼️そこをマクラーレンのプロストに突かれたわけですね‼️ウィリアムズの2人と違ってマクラーレンのプロストとロズベルグの相性ピッタリで仲が大変良かったと伝えられていました‼️そんなマクラーレンとウィリアムズの間に割って入って来たのが若き日のセナでしたね‼️水面下でホンダターボエンジン獲得のためにホンダ総監督の桜井氏に直訴して将来世界王者になるための布石を打ったわけですね‼️
@@こちたんぱぱ 様ウィリアムズのピケが最も警戒して恐れていたのはチームメイトのマンセルよりもマクラーレンのプロストだったと今でも思っています。ブラバム時代のピケはルノー時代のプロストと何度も゙タイトル争いしていましたから両人共に互いの手の内を知り尽くしていますから?ピケも゙プロストも゙ラウダと言う御手本から世界タイトル獲得する技テクニックを伝授されました。
同じ時期にウィリアムズとマクラーレンにホンダエンジンが供給されていたら、どうなってたのかな。
仲悪かったけど、相手にぶつけなかったのは偉い
険悪だったと言ってもさすがに「お互いが相手を殺したくなるほど憎み合っている」と言うわけではなかったようです。
F1ではチャンピオンを狙えるチームではナンバー1を決めた方が正解だね、チームメイト同士でチャンピオンを争ったら録な事がない
当時のピケはドライバーズタイトル2回の実績を持つ天才的なドライバーとして名声を得ていて、そこに実力を上げてきたマンセルが下剋上を仕掛けた。No.1ドライバーとして加入した筈なのに、序列を曖昧にしてチームを二分したチームが悪いけど、興行としてはバチバチのバトルが展開されて成功したんじゃないかな😅
一強時代はチームメイトバトルないとチャンピオン争いが面白くないもんね
フランク・ウィリアムズ卿は2人のドライバーに自由を与えてバトル競争を認める代わりに、もし2人共に相討ちして両者リタイアするような事態が発生すれば例え世界王者だったとしても2人共にチーム解雇するだけの気構えで容赦しないのでピケもマンセルもギリギリの線まで我慢して危ない線は越えなかっただろうと思います?
1986年のオーストラリアGP。マンセルのバーストでピケもピットに入ったけど、既にコンストラクタータイトルは獲得したた訳だし、ピケとマンセルのドライビングスタイルも違うから、残り19週、ピケの方から交換を言い出すまではタイヤ交換無しに賭けてみても良かったのでは?ピケは車の状況把握が上手かったし。
グッドイヤーから、タイヤ交換しないとピケの生命の保証はできないとウィリアムズに言ってきたから、仕方ないね。後藤も、チャンピオンはピケの命には代えられないとコメントしていた。
@@5red90 さん貴重な情報、ありがとうございます。グッドイヤーからそう言う話があったとは知りませんでした。確かに命には代えられませんから、あの交換は仕方ないですね。Wikiで調べたら、プロストはアクシデントで早い段階でタイヤ変えてたんですね。
@@secoahoz レーシングオン1987年1月号の、オーストラリアGP記事に記載されていたことなんだが?なんなら電子版で確認しろよ。てかお前、ピケ大好きマンセルアンチかよ?ウザいから絡むな。
HONDA監督の桜井淑敏 氏この ゴタゴタ状態を間近に視ててチームに見切りをつけたとかちなみに桜井 氏は ピケを推してたそぅ。(文献は忘れました
これを知ったウイリアムズのパトリック・ヘッド氏が次第に桜井氏を嫌い始めギクシャクし始めたのですね。チームはマンセル派、ホンダはピケ派と分断されてましたし。
わいの中ではFW11、11BがTHE F1。ピケマン最高や!賛否両論色々言われてるがな😅
そして88年限りで、チャンピオンを取った、ピケもホンダから離れてしまった(ロータスもエンジンがジャッドに変わってしまった)
まぁロータスがグダグダだったから仕方ないでしよ
タミヤがルノーRE30B以来久々にグランプリコレクションで商品化したマシンがこのウィリアムズFW-11ホンダでしたね。個人的には再販して欲しいけどやはりライセンス料の高騰などもあり難しいんかな?
Bを1/12で出さないだろうか。
@@5red90 ロータスホンダ99T、マクラーレンホンダMP4/4、ついにロータスホンダ100T(製品化決定発表!)まで出てきましたからねぇ~。可能性は高そうですね。
当時のウィリアムズはチームはマンセル派、ホンダはピケ派に分かれてゴタゴタなイメージがあったが、87年はロータスにもホンダエンジンだったけど、セナは中嶋からホンダのことを色々教えてもらってたみたいで、中嶋の影響もあってセナとホンダとの関係は良好だったもんね
初めてのホンダエンジン車をドライブしたセナが、「振動がひどい。壊れてるのでは?」と言いそのマシンを中嶋さんがチェックすると・・・「いや、ホンダエンジンはこれでいいんだよ。」と。あのセナを黙らせたのがすごい。
セナは逆に、最初に走ったモナコで、セナの5秒落ちのタイムしか出せなかった中嶋さんに、攻略のポイントを丁寧に教えていた。
マンセルが「無冠の帝王」って言われるようになったのはこの頃でしたっけ?
ピケはあるレースで優勝後の川井さんのインタビューで自分の頭を指差してして「ここが違うよ!」と言ったそうです。
改めて難しい
マンセルが強引でピケが引いてたって印象が強いけど、セナが絶対引かなさ過ぎたってのが正解だよなマンセルはそこまでバカじゃなかったよ、セナはハンドル握ると人格が変わるからね、でもレース以外ではめちゃナイスな人だったからメディア受け良く好かれていたからあまり悪者にされる事なかったよね。ピケはマジでかなりクレバーで車に優しいドライバーだったと思う。
マンセル鈴鹿の予選でクラッシュしてピケが年間タイトルが決めたのが印象的でした。
懐かしいですね~ウィリアムズホンダロータスホンダってでも、半ば強引にマクラーレンにホンダエンジンを奪われたのは本当に残念です。
そんなゴタゴタがあってホンダが引き上げてジャッドになったってか。その1年冷や飯食うことになってもそこからルノーと黄金時代を築いたのだから、それほど悪くなかったんじゃないかな。
口では公平に扱ったとフランクは言ってるけど、フランクは明らかにクレバーで冷静なドライバーよりアグレッシブなファイタータイプのドライバーに肩入れする傾向にありますね。カルロス・ロイテマンしかり、マンセルしかりといった感じにチームオーダーを出さずに失敗してしまう事が幾度もありました。たらればですがフランクがドライバーに序列を付けて居ればアラン・ジョーンズは81もタイトルを獲得していた可能性が高いし、ピケは86もタイトルを獲得していた可能性は激高だったと思うし(ただそうなるとピケは81はタイトル獲れないけど)88シーズンもホンダエンジンのまま行けた可能性もある。でもそういうフランクだからこそマンセルにタイトルを獲らせる事が出来たとも言えますがね。
どうせならマクラーレンホンダのセナ&プロストとウィリアムズのピケ&マンセルの豪華ラインナップで4つ巴の戦い見たかったです。
私も見たかったですがちょっと時期がズレてるのが残念です😅
@@Fifties-we7hm 様マクラーレンが、1987年ホンダエンジン獲得のためにプロストとデニスが来日して交渉したけれども一旦断られましたね。ウィリアムズの圧力掛かったのと2番目供給がロータスに決まっていた(先にセナがプロストよりもホンダエンジン使用する事に)からでしょうね。でも交渉時点で1988年からの獲得を取り付けた。その際にプロストの次期チームメイトもセナ内定に決まっていた?ピケもマクラーレン移籍候補に挙がっていたけれどもセナの方に決まったので、ロータスに移籍した。さすがにホンダと言えどもマクラーレン、ウィリアムズ、ロータスの3チーム供給出来るだけのマンパワーが無かった。後にウィリアムズは、マクラーレンにホンダエンジンを奪われたと逆恨みしてライバル対抗心を強めましたね。
ジョイントナンバーワン…マクラーレンでもセナとプロストが…。
ウイリアムズホンダが良かったのは86年と87年の2年間ですかね…FW11になってシャシーが格段に良くなりましたね。86年はピケに獲らせて87年はジョイントNo1って感じにしてたら2年連続Wタイトルだったかも……。まぁ…ピケが連覇だっただろう…という私見ですが…。マンセルは不安定感全開でしたから…。後年チャンピオンになりますが、あれだけ勝ってタイトル1回って……何か欠けてたのかな…??と感じてしまいますね。またドラスティックにチームが低迷していくのもウイリアムズの特徴ですかね…。ホンダ後、ルノー後なんかはいい例ですね。それから20数年…30年近く浮上のきっかけを逸してますね……。
マンセルがチャンピオン一度に終わったのは、単に不運だな。完走すればチャンピオン取れた、86オーストラリアGPの原因不明タイヤバースト。87ハンガリーGPの、首位走行中に終盤でホイールナット外れる。首位走行中の91ポルトガルGPの、タイヤ交換中にウィリアムズのアホスタッフによるホイールナット締め付けミス。
中嶋 悟選手をチーム入りさせなかったのは正解ですね。ダブルタイトルは取れませんでした。酷だが足を引っ張るのは明らか。
どのチームもやっぱりあるね😅セナ•プロみたいな事が😅
当時は有効ポイント制だったから終盤で5~6位あたりに入賞したところでランキングに反映されない可能性もあった。そうしたレギュレーションの中でチャンピオン争いをしてれば最低でも表彰台と考えるのは当然、一方を優遇するのは難しいよ。
@@secoahoz ゴメン何言ってるのか、何を言いたいのかまるで理解不能。とりあえずF1よりも国語
FW11Bはシーズンの途中にりアクティブサスペンションを搭載じゃなかったかな?
@@rtsy9151 そのとおりです。
実力のあるチームとドライバーが揃うと、基本的に仲悪くなる。
両雄並び立たず。 ・・・ですね。
フランク不在が痛かった。ネルソン主導のチームがマンセルの成長と共に変わっていった。
複雑な背景も影響していたと思います。チーム歴が長く同じ母国出身だったマンセル。しかしレースキャリアも実績も上だったピケが移籍し、彼を推薦したホンダも「ピケがNo.1待遇」である事を望んでいました。しかしマシンもドライバーもトップクラスの戦闘力となれば衝突は避けられず、チーム内はマンセル派とピケ派に分かれ、ウィリアムズ・ホンダのコンビも解消を余儀なくされてしまいました。しかしそれが翌年以降のマクラーレンの快進撃となり、ウィリアムズがルノーと共に再復活する伏線でもあったわけですね。当時のチームに誤算があったとするなら、「ホンダエンジンを載せてからのマンセルの急成長が想像以上に凄まじかった事」、「それでも当時のピケは互角以上の実力を持っていた事」、「この2人に相応しい完璧過ぎるマシンが出来上がってしまった事」の3点だったと思っています。
テストドライブは中嶋だった
人事のマネジメントはこの時代からすでに弱かったんだよね。 それにフランク・ウィリアムズはドライバータイトルよりコンストラクター部門の方を優先にしていたんだし。
ウイリアムズは、代表の「フランク・ウイリアムズ」のドライバー起用や待遇面での評判が悪いですね~。
@@hehohotransport さん一体何なんでしょうね?。🤔(苦笑)
92年、チャンピオンを獲ったばかりのマンセルまでもブチギレさせる事態に・・・。
@@hehohotransport いや何回同じ書き込みすんねん せめて論理的な裏付け取ってからにしなさいよ
言動は自由奔放、だけどレース運びは堅実、なネルソンピケが大好きでした。その昔マックス・モズレーが、複数の娼婦にナチスの格好をさせて乱交パーティーを開いたというセックス・スキャンダルが発覚したときの話。ほとんどのF1関係者が、当然ながら抗議や遺憾のコメントを出す中で、ピケは「なんでマックスはオレも呼んでくれなかったんだ‼️」と本気で悔しがっていましたとさ。
ウィリアムズはドライバーに対して厳しすぎるから、今テールエンダーというツケが回ってきた感がある…
フランク・ウィリアムズよりも櫻井さんいわく「石頭」のパトリック・ベッドの方が悪かった気がする。
ウィリアムズにしろ、マクラーレンにしろ、ジョイントナンバーワンなんて、「諸刃の刃」に過ぎん。
FWのシリーズの最初の頃、エンジンよりも車体がオタンコ(タイヤの片摩耗やフラフラするハンドリング)にシビれ切らして、櫻井監督が本田技研の車体専門家を呼びパトリック・ヘッドに指摘、曰くタイヤのキャンパーがオカシイ、重心が来るっている…。市販車のエンジニアに散々恥かかされたパトリックであった
当たり前やけどみんな、若いね!!ギクシャクしてたとか、ぶつけられて下りて乱闘になるとか見てる側としては面白かったな。この後も幅寄せしてタヒらせようとか進路妨害とか人間臭くてよかった、今も裏ではどうなのかわからんけどけど基本、仲良しだし明確には無いというスタイルだけとどのチームもno1ドライバーと犬になってるしね。おもろくないね
個性がありすぎかな
今回の内容は、ホンダ及びS元監督側の視点にかなり偏っているように感じました。ウイリアムズがマンセルに肩入れしていたのは事実でしょうが、ホンダもピケを優遇してましたよね。と言うか、S監督は中嶋を乗せたかったのに受け入れられずに残ったマンセルを目の敵にしていたように思います。マンセルがエンジニアリングの部分を疎かにしがちだったのはあるにしても、エンジン部門の責任者の立場を超えた振る舞いが多かったという印象が残っています。その後Sさんはホンダを離れ、パトロンから金を引っ張ってRCIを設立して高額のレース観戦ツアーなんかを企画してバブリーな事業を展開していましたが、ある時期から急に表に出なくなりましたね。
ある文献では当時のホンダスタッフはマンセルの開発能力も高く評価していたとあるんですが。流石下積みの時期に長くテストドライバーをしていただけの事はあると。
FW11のサスはFW10の流用じゃないよFW10のリアはロッカーアーム式85年ヨーロッパGPからリアサスをプルロッドに改良したFW10Bを投入FW11はFW10Bのサス流用が正解ね
87年は2人とも大クラッシュしてチーム関係もあってかなり痛い年でしたね💦👑ダブルタイトルはとりましたが💦👍マンセル氏の方は86年でも最終戦タイヤバーストで逃すという屈辱もありましたが。アメリカでのインディ500では逆にピケが悲劇に見舞わましたね💦86年はハイパワーでいながらマイルド特性でしたが。87年もパワーアップしながらもレギュレーションの影響かさらにマイルドでCかーに近いエンジン特性だそう。その後の2.4バール期はF1らしいスパルタンに戻ったしいですが。
マンセル曰く、FW11は恐ろしくパワフルなマシンで恐怖だったが、お気に入りなFW11Bは私をコーナーごとに殺しにきてたマシンとコメントしてるけど?6速高速域でもホイールスピンするくらいだと。
@@5red90 ネルソンピケのロータス100Tの600馬力ぐらいのもアメリカのデトロイト戦のオンボードカメラの映像見る限りドッカンパワーな感じでしたよ💦
まあパートナーが強力なドライバーなら、ライバル意識バチバチになりますよね…(それぐらいの気質が無いとチャンピオンになれないと思います)
ウイリアムズで走ったドライバーピケとマンセルは94年に共にルーキーでINDY500㍄に出場してCARATからAザナルディを獲得しましたが残念な結果にモンーヤとも喧嘩別れでしてね。
日本のエンジンサプライヤーで優勝してるのはHONDと無限だけ。
ピケとマンセルが仲が良ければ、ウイリアムズ時代が長く続いたのにね~
皆さん、色々言われるケド・・・ウイリアムズって、日本人で初めて欧州のレースに挑戦して生沢徹を育てた、と言うかジョイントしていたんだよね。著作の本にもウイリアムズの話やパトリックヘッドを褒めたたえる文面があります。ですが・・・誇りが自分達が気が付かない間に歪みになってその後に凋落に繋がったんですよね。
ウイリアムズはチームスポンサーやエンジンサプライヤーとのお付き合いがヘタクソという印象です。チーム消滅まで。
まあ、正直、ドライバーの2人はどっちもどっちだと思います。ピケはピケで問題もあったし、マンセルも同様。要するに2人共濃ゆ〜い。そんな2人ですが、現在、そんなに悪い関係でもないかと。2人共ある意味さっぱりした性格なのかもしれませんね。チームとしては、やはり、う〜んな感じですね。92年末のマンセルの件しかり、96年末のヒルの件しかり。この感じの体制が、チームを破滅へと向わせたのでしょう。残念です。
同じO型なのに、タイプが水と油で不仲だったね。O型のオレの親しい人は、O型けっこういるのに。
ヒルの件でニューウェイを筆頭にスタッフ離脱しましたからね。
こんなところでも血液型で語るwwwwうけるwwww
1986年のコンストラクターズタイトルをウイリアムズが独り占めした事もチーム崩壊に大きな影響があったのではと。タッグを組んで歩んできたのにどうして「コンストラクターズタイトルはチームのものでありエンジンメーカーは所詮パーツ屋」的対応をしちゃったんでしょうね。(フランク卿が事故に遭わなければ1986年での離脱もあったとか・・・)
ピケはマンセルの嫁さんは変な顔だとメディアに言ったりマンセルがお腹の調子を悪くしたときにトイレの紙を全部どこかに隠したり洒落にならん子供のじみたイタズラしてたね
個人的には中島より高橋が良かった。GCレースで亡くなりましたが走りはピカイチだった。中島はスポンサーに恵まれた感じですね。
ウイリアムズの中嶋さんへの評価が低かったのは、残念です。。
ホンダエンジンを失るならばマクラーレンとエンジンをトレードしてウィリアムズタグポルシェとして参戦すれば良かったですよね、それならポルシェのF1の歴史も激変していたと思いませんか?><
1986年のうちに、ポルシェは87シーズン限りで撤退表明済み。本当は86シーズンで撤退するつもりだったが、マクラーレンがシェルの絡みなんかでルノーエンジンを獲得できず、プロストもタイトル争いに加わっていたので1年延長。結果としてルノーも一時的に撤退したものの、ウィリアムズが87年からNA時代の89年に向けて交渉していたのだろう。
これのチビぃトミカに朝研の友達に貰った優勝記念紅白饅頭の包!宝物です(-_-)ノシ
こんな結末にはなってしまいましたが、このタッグに登場する人や組織、ウィリアムズ、ホンダ、マンちゃん、ピケ、FW11とB、みんな大好きで、やっぱり胸踊る思い出です。
MobilのCM、「MobilのライバルはMobilだった」が凄く印象的でしたね。
87年、シルバーストンでの2人のバトルはウイリアムズの強さを象徴するワンシーンでした。
86、87年と険悪な関係だったマンちゃんとピケさん、今では友好的な関係に
ピケさん曰く「マンセルからゴルフやらないって誘われた」とか仰ってました
セナとプロストもプロスト引退したとたんに、仲良くなってたからそんなもんじゃ無いの。
@@secoahoz セナがプロストに引退して寂しいとか言ってるの映像と音声で残ってるけど。
@@secoahoz 風通にテスト走行か、本番で会話してたが。
インタビューじゃ無いよ。
セナの無線にプロスト出てきて、セナが寂しそうに語ってたよ。
動画探してみたら。
@@secoahoz 映画かドラマで使われたの?
もちろん、フィクションで。
今見てもウィリアムズホンダは格好良いですね。
FW11/11Bはスタイリングが筋肉質で獰猛で男のマシンって感じで最も美しいマシンだったと今でも思います😊カラーリングもかっこいい😊
FW11は、今見てもやっぱりカッコイイですね。ちょうどこの頃からF1マシンのデザインにCADシステムを導入し、昔ながらの紙の設計図ではなくコンピュータを使って設計する時代になりつつありました。FW11シリーズはそんなCADシステムが生んだ初期の傑作マシンだと思います。
当時スポンサーで、サイドポンツーンエアインテークにロゴが入ってたGE社のCADシステム、Calmaを使用。
確かにマンセル贔屓は有りましたね。
ピケがピットインして燃料補給の時、フェイスシールドを拭いてくれと合図するとスタッフがティシユペーパーをピケの目の前に放り投げた映像が当時のF1グランプリで映てました😅
ウイリアムズは人間(ドライバー)を軽視してましたからね。
その後のチャンピオンのデーモンヒル放出は、ニューウェイも激怒し終わりの決定的ダメージでした。。
チームとしては最強でしたけどドライバーの扱いは物凄く雑なイメージが今でも拭えません。
ニューウェイさんはデイモン・ヒルさん好きでしたよね。
当時ドライバーの扱いとか見てて、ウィリアムズだけは好きになれなかったです。どちらかと言えばミーハーな自分ですが、良い所を見付けられない。
多分、ドライバーに執着したことでホンダエンジンを失った教訓から得た姿勢だったと推察します。
それでもフランク・ウィリアムズ卿が特に気に入っていた所属ドライバーは、アラン・ジョーンズとケケ・ロズベルグとナイジェル・マンセルの3人だったと思います。
仲は悪かったけどマンちゃんもピケもコース上では良識があった。わけわかんない同士討ちとかなかったですし。ピケがベネトン、マンちゃんフェラーリでのオーストラリアはファイナルラップまでの超バトル。でもギリギリのところは両者とも守ってゴール後はともに笑顔、みてて爽快なレースでした☆
マンセルのキャリアNo.1レースだと思うけど、1987イギリスGPのハンガーストレートフェインとぶち抜きは、ストウコーナーでピケが引かなかったら両者大クラッシュになってたかも。
実力がある2人のドライバーを抱えたチームは難しいね。
チーム内の人間関係はさておき
FW11.11Bは間違いなくベストハンドリングカーですね😊🏁👍
特に1986年のハンガリーGPでの
ロータス·ルノーのセナとピケとのバトルで第一コーナーでピケがドリフトしながらセナを抑えたシーンは印象深いです。
セナに片腕を振り上げながらの、ピケのスーパーオポジットロックパッシング。
懐かしいですね、ちょうどフジテレビが中継を始めた頃のことで自分が日曜の深夜に一人だけ熱くなってたことを思い出しました
ウィリアムズのなかで一番好きなマシンです!
HONDA、F1といえば、やっぱりこのイメージが強いですね
HONDAがF1で活躍してるのがきっかけでF1に興味を持ったのが、FW10・FW11でしたから
当時はまだTV中継がなかったので、映像を観るのは大変でした
HONDAエンジンのタイトル獲得のニュースは食い入るように見てました。
ジョイントナンバーワンはやはり難しいのですね。この頃のウイリアムのドライバーを何故ロズベルグから替えたのか当時不思議に思ったのですがそういう理由だったのですね。
マンセルが出てたキャノンのCM良かったなぁ~
この頃のドライバーは良くも悪くも癖があって好き
セナもマンセルもレース絡んでリタイヤすると殴り合ってた
フランク・ウィリアムズはもっと人や企業を大事にして欲しかったね結果出してるのに去ってから後悔は無いのですよ。
そのツケがテールエンダーチームに…
常に隣にセナがいるのは純粋に凄いと思う
アジア人への差別が根強かった当時でも、ピケもマンセルもHONDAには好意的だったんだよね。
ピケはHONDAのスタッフと個人的に仲良くなったり、マンセルはスタッフのアイデアを褒めて実用化に向けて後押ししたり。
その状況を改善できなかったのも、それはそれで様々なチーム内の差別意識だったらしいんだけど...。
87年のイギリスGPでのホンダ1234には興奮したなあ
桜井さんは、中嶋さんにわざと2周遅れになるよう指示してたそうです。
(順位は変わらないし、こうしないとガス欠でパーになることがわかったため)
1986年マクラーレンTAGポルシェターボのプロストは、まさに「漁夫の利」ですね。
最終戦で攪乱作戦を見事に成功させたロズベルグが前年までのウイリアムズのエース格だったこともあったし、ウイリアムズ&マンセルのツキのなさと先読みの弱さが際立ったシーズンでしたね
@@こちたんぱぱ 様
ウィリアムズのマンセルとピケとの間にはハッキリと確執有りました‼️
そこをマクラーレンのプロストに突かれたわけですね‼️
ウィリアムズの2人と違ってマクラーレンのプロストとロズベルグの相性ピッタリで仲が大変良かったと伝えられていました‼️
そんなマクラーレンとウィリアムズの間に割って入って来たのが若き日のセナでしたね‼️
水面下でホンダターボエンジン獲得のためにホンダ総監督の桜井氏に直訴して将来世界王者になるための布石を打ったわけですね‼️
@@こちたんぱぱ 様
ウィリアムズのピケが最も警戒して恐れていたのはチームメイトのマンセルよりもマクラーレンのプロストだったと今でも思っています。
ブラバム時代のピケはルノー時代のプロストと何度も゙タイトル争いしていましたから両人共に互いの手の内を知り尽くしていますから?
ピケも゙プロストも゙ラウダと言う御手本から世界タイトル獲得する技テクニックを伝授されました。
同じ時期にウィリアムズとマクラーレンにホンダエンジンが供給されていたら、どうなってたのかな。
仲悪かったけど、相手にぶつけなかったのは偉い
険悪だったと言ってもさすがに「お互いが相手を殺したくなるほど憎み合っている」と言うわけではなかったようです。
F1ではチャンピオンを狙えるチームではナンバー1を決めた方が正解だね、チームメイト同士でチャンピオンを争ったら録な事がない
当時のピケはドライバーズタイトル2回の実績を持つ天才的なドライバーとして名声を得ていて、そこに実力を上げてきたマンセルが下剋上を仕掛けた。No.1ドライバーとして加入した筈なのに、序列を曖昧にしてチームを二分したチームが悪いけど、興行としてはバチバチのバトルが展開されて成功したんじゃないかな😅
一強時代はチームメイトバトルないとチャンピオン争いが面白くないもんね
フランク・ウィリアムズ卿は2人のドライバーに自由を与えてバトル競争を認める代わりに、もし2人共に相討ちして両者リタイアするような事態が発生すれば例え世界王者だったとしても2人共にチーム解雇するだけの気構えで容赦しないので
ピケもマンセルもギリギリの線まで我慢して危ない線は越えなかっただろうと思います?
1986年のオーストラリアGP。
マンセルのバーストでピケもピットに入ったけど、
既にコンストラクタータイトルは獲得したた訳だし、
ピケとマンセルのドライビングスタイルも違うから、
残り19週、ピケの方から交換を言い出すまでは
タイヤ交換無しに賭けてみても良かったのでは?
ピケは車の状況把握が上手かったし。
グッドイヤーから、タイヤ交換しないとピケの生命の保証はできないとウィリアムズに言ってきたから、仕方ないね。
後藤も、チャンピオンはピケの命には代えられないとコメントしていた。
@@5red90 さん
貴重な情報、ありがとうございます。
グッドイヤーからそう言う話があったとは知りませんでした。
確かに命には代えられませんから、あの交換は仕方ないですね。
Wikiで調べたら、プロストはアクシデントで早い段階でタイヤ変えてたんですね。
@@secoahoz
レーシングオン1987年1月号の、オーストラリアGP記事に記載されていたことなんだが?
なんなら電子版で確認しろよ。
てかお前、ピケ大好きマンセルアンチかよ?
ウザいから絡むな。
HONDA監督の桜井淑敏 氏
この ゴタゴタ状態を間近に視てて
チームに見切りをつけたとか
ちなみに桜井 氏は ピケを推してたそぅ。
(文献は忘れました
これを知ったウイリアムズのパトリック・ヘッド氏が次第に桜井氏を嫌い始めギクシャクし始めたのですね。
チームはマンセル派、ホンダはピケ派と分断されてましたし。
わいの中ではFW11、11BがTHE F1。ピケマン最高や!賛否両論色々言われてるがな😅
そして88年限りで、チャンピオンを取った、ピケもホンダから離れてしまった(ロータスもエンジンがジャッドに変わってしまった)
まぁロータスがグダグダだったから仕方ないでしよ
タミヤがルノーRE30B以来久々にグランプリコレクションで商品化したマシンがこのウィリアムズFW-11ホンダでしたね。個人的には再販して欲しいけどやはりライセンス料の高騰などもあり難しいんかな?
Bを1/12で出さないだろうか。
@@5red90 ロータスホンダ99T、マクラーレンホンダMP4/4、ついにロータスホンダ100T(製品化決定発表!)まで出てきましたからねぇ~。
可能性は高そうですね。
当時のウィリアムズはチームはマンセル派、ホンダはピケ派に分かれてゴタゴタなイメージがあったが、87年はロータスにもホンダエンジンだったけど、セナは中嶋からホンダのことを色々教えてもらってたみたいで、中嶋の影響もあってセナとホンダとの関係は良好だったもんね
初めてのホンダエンジン車をドライブしたセナが、「振動がひどい。壊れてるのでは?」と言い
そのマシンを中嶋さんがチェックすると・・・「いや、ホンダエンジンはこれでいいんだよ。」と。あのセナを黙らせたのがすごい。
セナは逆に、最初に走ったモナコで、セナの5秒落ちのタイムしか出せなかった中嶋さんに、攻略のポイントを丁寧に教えていた。
マンセルが「無冠の帝王」って言われるようになったのはこの頃でしたっけ?
ピケはあるレースで優勝後の川井さんのインタビューで自分の頭を指差してして「ここが違うよ!」と言ったそうです。
改めて難しい
マンセルが強引でピケが引いてたって印象が強いけど、
セナが絶対引かなさ過ぎたってのが正解だよな
マンセルはそこまでバカじゃなかったよ、セナはハンドル握ると人格が変わるからね、でもレース以外ではめちゃナイスな人だったからメディア受け良く好かれていたからあまり悪者にされる事なかったよね。ピケはマジでかなりクレバーで車に優しいドライバーだったと思う。
マンセル鈴鹿の予選でクラッシュしてピケが年間タイトルが決めたのが印象的でした。
懐かしいですね~
ウィリアムズホンダ
ロータスホンダ
って
でも、
半ば強引に
マクラーレンに
ホンダエンジンを
奪われたのは
本当に残念です。
そんなゴタゴタがあってホンダが引き上げてジャッドになったってか。
その1年冷や飯食うことになってもそこからルノーと黄金時代を築いたのだから、それほど悪くなかったんじゃないかな。
口では公平に扱ったとフランクは言ってるけど、フランクは明らかにクレバーで冷静なドライバーよりアグレッシブなファイタータイプのドライバーに肩入れする傾向にありますね。
カルロス・ロイテマンしかり、マンセルしかりといった感じにチームオーダーを出さずに失敗してしまう事が幾度もありました。
たらればですがフランクがドライバーに序列を付けて居ればアラン・ジョーンズは81もタイトルを獲得していた可能性が高いし、ピケは86もタイトルを獲得していた可能性は激高だったと思うし(ただそうなるとピケは81はタイトル獲れないけど)88シーズンもホンダエンジンのまま行けた可能性もある。
でもそういうフランクだからこそマンセルにタイトルを獲らせる事が出来たとも言えますがね。
どうせならマクラーレンホンダのセナ&プロストとウィリアムズのピケ&マンセルの豪華ラインナップで4つ巴の戦い見たかったです。
私も見たかったですがちょっと時期がズレてるのが残念です😅
@@Fifties-we7hm 様
マクラーレンが、1987年ホンダエンジン獲得のためにプロストとデニスが来日して交渉したけれども一旦断られましたね。
ウィリアムズの圧力掛かったのと2番目供給がロータスに決まっていた(先にセナがプロストよりもホンダエンジン使用する事に)からでしょうね。
でも交渉時点で1988年からの獲得を取り付けた。その際にプロストの次期チームメイトもセナ内定に決まっていた?
ピケもマクラーレン移籍候補に挙がっていたけれどもセナの方に決まったので、ロータスに移籍した。
さすがにホンダと言えどもマクラーレン、ウィリアムズ、ロータスの3チーム供給出来るだけのマンパワーが無かった。
後にウィリアムズは、マクラーレンにホンダエンジンを奪われたと逆恨みしてライバル対抗心を強めましたね。
ジョイントナンバーワン…マクラーレンでもセナとプロストが…。
ウイリアムズホンダが良かったのは86年と87年の2年間ですかね…FW11になってシャシーが格段に良くなりましたね。
86年はピケに獲らせて87年はジョイントNo1って感じにしてたら2年連続Wタイトルだったかも……。まぁ…ピケが連覇だっただろう…という私見ですが…。マンセルは不安定感全開でしたから…。後年チャンピオンになりますが、あれだけ勝ってタイトル1回って……何か欠けてたのかな…??と感じてしまいますね。またドラスティックにチームが低迷していくのもウイリアムズの特徴ですかね…。ホンダ後、ルノー後なんかはいい例ですね。それから20数年…30年近く浮上のきっかけを逸してますね……。
マンセルがチャンピオン一度に終わったのは、単に不運だな。
完走すればチャンピオン取れた、86オーストラリアGPの原因不明タイヤバースト。
87ハンガリーGPの、首位走行中に終盤でホイールナット外れる。
首位走行中の91ポルトガルGPの、タイヤ交換中にウィリアムズのアホスタッフによるホイールナット締め付けミス。
中嶋 悟選手をチーム入りさせなかったのは正解ですね。ダブルタイトルは取れませんでした。酷だが足を引っ張るのは明らか。
どのチームもやっぱりあるね😅セナ•プロみたいな事が😅
当時は有効ポイント制だったから終盤で5~6位あたりに入賞したところでランキングに反映されない可能性もあった。
そうしたレギュレーションの中でチャンピオン争いをしてれば最低でも表彰台と考えるのは当然、一方を優遇するのは難しいよ。
@@secoahoz
ゴメン
何言ってるのか、何を言いたいのかまるで理解不能。
とりあえずF1よりも国語
FW11Bはシーズンの途中にりアクティブサスペンションを搭載じゃなかったかな?
@@rtsy9151
そのとおりです。
実力のあるチームとドライバーが揃うと、基本的に仲悪くなる。
両雄並び立たず。 ・・・ですね。
フランク不在が痛かった。ネルソン主導のチームがマンセルの成長と共に変わっていった。
複雑な背景も影響していたと思います。チーム歴が長く同じ母国出身だったマンセル。しかしレースキャリアも実績も上だったピケが移籍し、彼を推薦したホンダも「ピケがNo.1待遇」である事を望んでいました。
しかしマシンもドライバーもトップクラスの戦闘力となれば衝突は避けられず、チーム内はマンセル派とピケ派に分かれ、ウィリアムズ・ホンダのコンビも解消を余儀なくされてしまいました。しかしそれが翌年以降のマクラーレンの快進撃となり、ウィリアムズがルノーと共に再復活する伏線でもあったわけですね。
当時のチームに誤算があったとするなら、「ホンダエンジンを載せてからのマンセルの急成長が想像以上に凄まじかった事」、「それでも当時のピケは互角以上の実力を持っていた事」、「この2人に相応しい完璧過ぎるマシンが出来上がってしまった事」の3点だったと思っています。
テストドライブは中嶋だった
人事のマネジメントはこの時代からすでに弱かったんだよね。 それにフランク・ウィリアムズはドライバータイトルよりコンストラクター部門の方を優先にしていたんだし。
ウイリアムズは、代表の「フランク・ウイリアムズ」のドライバー起用や待遇面での評判が悪いですね~。
@@hehohotransport さん
一体何なんでしょうね?。🤔(苦笑)
92年、チャンピオンを獲ったばかりのマンセルまでもブチギレさせる事態に・・・。
@@hehohotransport いや何回同じ書き込みすんねん せめて論理的な裏付け取ってからにしなさいよ
言動は自由奔放、だけどレース運びは堅実、なネルソンピケが大好きでした。
その昔マックス・モズレーが、複数の娼婦にナチスの格好をさせて乱交パーティーを開いたというセックス・スキャンダルが発覚したときの話。
ほとんどのF1関係者が、当然ながら抗議や遺憾のコメントを出す中で、ピケは
「なんでマックスはオレも呼んでくれなかったんだ‼️」と本気で悔しがっていましたとさ。
ウィリアムズはドライバーに対して厳しすぎるから、今テールエンダーというツケが回ってきた感がある…
フランク・ウィリアムズよりも櫻井さんいわく「石頭」のパトリック・ベッドの方が悪かった気がする。
ウィリアムズにしろ、
マクラーレンにしろ、
ジョイントナンバーワンなんて、
「諸刃の刃」に過ぎん。
FWのシリーズの最初の頃、エンジンよりも車体がオタンコ(タイヤの片摩耗やフラフラするハンドリング)にシビれ切らして、櫻井監督が本田技研の車体専門家を呼びパトリック・ヘッドに指摘、曰くタイヤのキャンパーがオカシイ、重心が来るっている…。市販車のエンジニアに散々恥かかされたパトリックであった
当たり前やけどみんな、若いね!!ギクシャクしてたとか、ぶつけられて下りて乱闘になるとか見てる側としては面白かったな。この後も幅寄せしてタヒらせようとか進路妨害とか人間臭くてよかった、今も裏ではどうなのかわからんけどけど基本、仲良しだし明確には無いというスタイルだけとどのチームもno1ドライバーと犬になってるしね。おもろくないね
個性がありすぎかな
今回の内容は、ホンダ及びS元監督側の視点にかなり偏っているように感じました。ウイリアムズがマンセルに肩入れしていたのは事実でしょうが、ホンダもピケを優遇してましたよね。と言うか、S監督は中嶋を乗せたかったのに受け入れられずに残ったマンセルを目の敵にしていたように思います。マンセルがエンジニアリングの部分を疎かにしがちだったのはあるにしても、エンジン部門の責任者の立場を超えた振る舞いが多かったという印象が残っています。その後Sさんはホンダを離れ、パトロンから金を引っ張ってRCIを設立して高額のレース観戦ツアーなんかを企画してバブリーな事業を展開していましたが、ある時期から急に表に出なくなりましたね。
ある文献では当時のホンダスタッフはマンセルの開発能力も高く評価していたとあるんですが。
流石下積みの時期に長くテストドライバーをしていただけの事はあると。
FW11のサスはFW10の流用じゃないよ
FW10のリアはロッカーアーム式
85年ヨーロッパGPからリアサスをプルロッドに改良したFW10Bを投入
FW11はFW10Bのサス流用が正解ね
87年は2人とも大クラッシュしてチーム関係もあってかなり痛い年でしたね💦
👑ダブルタイトルはとりましたが💦👍
マンセル氏の方は86年でも最終戦タイヤバーストで逃すという屈辱もありましたが。
アメリカでのインディ500では逆にピケが悲劇に見舞わましたね💦
86年はハイパワーでいながらマイルド特性でしたが。
87年もパワーアップしながらもレギュレーションの影響かさらにマイルドでCかーに近いエンジン特性だそう。
その後の2.4バール期はF1らしいスパルタンに戻ったしいですが。
マンセル曰く、FW11は恐ろしくパワフルなマシンで恐怖だったが、お気に入りなFW11Bは私をコーナーごとに殺しにきてたマシンとコメントしてるけど?
6速高速域でもホイールスピンするくらいだと。
@@5red90 ネルソンピケのロータス100Tの600馬力ぐらいのもアメリカのデトロイト戦のオンボードカメラの
映像見る限りドッカンパワーな感じでしたよ💦
まあパートナーが強力なドライバーなら、ライバル意識バチバチになりますよね…(それぐらいの気質が無いとチャンピオンになれないと思います)
ウイリアムズで走ったドライバーピケとマンセルは94年に共にルーキーでINDY500㍄に出場してCARATからAザナルディを獲得しましたが残念な結果にモンーヤとも喧嘩別れでしてね。
日本のエンジンサプライヤーで優勝してるのはHONDと無限だけ。
ピケとマンセルが仲が良ければ、ウイリアムズ時代が長く続いたのにね~
皆さん、色々言われるケド・・・ウイリアムズって、日本人で初めて欧州のレースに挑戦して生沢徹を育てた、と言うかジョイントしていたんだよね。著作の本にもウイリアムズの話やパトリックヘッドを褒めたたえる文面があります。ですが・・・誇りが自分達が気が付かない間に歪みになってその後に凋落に繋がったんですよね。
ウイリアムズはチームスポンサーやエンジンサプライヤーとのお付き合いがヘタクソという印象です。チーム消滅まで。
まあ、正直、ドライバーの2人はどっちもどっちだと思います。ピケはピケで問題もあったし、マンセルも同様。要するに2人共濃ゆ〜い。そんな2人ですが、現在、そんなに悪い関係でもないかと。2人共ある意味さっぱりした性格なのかもしれませんね。チームとしては、やはり、う〜んな感じですね。92年末のマンセルの件しかり、96年末のヒルの件しかり。この感じの体制が、チームを破滅へと向わせたのでしょう。残念です。
同じO型なのに、タイプが水と油で不仲だったね。
O型のオレの親しい人は、O型けっこういるのに。
ヒルの件でニューウェイを筆頭にスタッフ離脱しましたからね。
こんなところでも血液型で語るwwwwうけるwwww
1986年のコンストラクターズタイトルをウイリアムズが独り占めした事もチーム崩壊に大きな影響があったのではと。
タッグを組んで歩んできたのにどうして「コンストラクターズタイトルはチームのものでありエンジンメーカーは所詮パーツ屋」的対応をしちゃったんでしょうね。
(フランク卿が事故に遭わなければ1986年での離脱もあったとか・・・)
ピケはマンセルの嫁さんは変な顔だとメディアに言ったり
マンセルがお腹の調子を悪くしたときにトイレの紙を全部どこかに隠したり
洒落にならん子供のじみたイタズラしてたね
個人的には中島より高橋が良かった。
GCレースで亡くなりましたが走りはピカイチだった。
中島はスポンサーに恵まれた感じですね。
ウイリアムズの中嶋さんへの評価が低かったのは、残念です。。
ホンダエンジンを失るならばマクラーレンとエンジンをトレードしてウィリアムズタグポルシェとして参戦すれば良かったですよね、それならポルシェのF1の歴史も激変していたと思いませんか?><
1986年のうちに、ポルシェは87シーズン限りで撤退表明済み。
本当は86シーズンで撤退するつもりだったが、マクラーレンがシェルの絡みなんかでルノーエンジンを獲得できず、プロストもタイトル争いに加わっていたので1年延長。
結果としてルノーも一時的に撤退したものの、ウィリアムズが87年からNA時代の89年に向けて交渉していたのだろう。
これのチビぃトミカに朝研の友達に貰った優勝記念紅白饅頭の包!宝物です(-_-)ノシ