関ヶ原後、家康が本当は潰したかったであろう大名

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  • Опубліковано 1 сер 2024
  • 今回の歴史の細道は、
    『関ヶ原後、家康が本当は潰したかったであろう大名』ついて紹介していこうと思います。
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    / @hosomichi
    ~目次~
    0:00 オープニング
    1:13 島津家
    2:44 結城秀康
    4:54 伊達政宗
    7:00 真田昌幸
    8:42 前田利常
    9:52 まとめ
    【関連動画】
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    • 関ヶ原勝利の後、家康はなぜ14年も待ったのか?
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    家康が恐れた武将ベスト5
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    ナレーション:真加藤沙織
    脚本・監修:歴史の細道
    #歴史 #歴史解説
  • Розваги

КОМЕНТАРІ • 109

  • @m.o293
    @m.o293 Рік тому +2

    さおりさんこんばんは
    今回も動画ありがとうございます

  • @xjcity
    @xjcity Рік тому +18

    驚異は全部取り除きたいは本音は、真田、前田、島津、毛利、伊達等まあ、でも残してくれたので歴史的には良かった‼️

  • @ugui83
    @ugui83 Рік тому +6

    家康が危険を感じていたのは佐竹でしょうね。
    北条滅亡後は家康に次いで関東ナンバー2の勢力を誇っていて、兵力も1万5千から2万程度は動員できたと思われます。
    実際に家康が上杉征伐を行おうとしていた時、佐竹義宣は上杉を助けようと家康を挟撃しようと狙っていました。
    関ヶ原後は、父である義重が西軍参戦を大反対したお陰で佐竹家の取り潰しを回避し秋田へ転封だけで済みました。
    個人的には、家康が佐竹を潰さなかった理由として
    関ヶ原の直後では、それなりの軍事力がある佐竹を排除するのは骨が折れるのと、
    無理に戦うと仲が良い上杉が佐竹側につく恐れもあって戦乱が長引くのを避けたのではないかと思っています。
    実際に島津や毛利など敵対した大名が他にも残っていたのにも拘らず薩摩や長州征伐をしなかったところを見ると、
    完全平定することより日本各地で戦が起きていない状態にすることを優先したのだと思われます。
    スペインなどの植民地国家の存在もありましたしね。ただしその選択が後に幕末で仇となってくるわけですが。

  • @wa33785
    @wa33785 Рік тому +9

    池田輝政は北条氏直の妻(家康の娘)を娶り一門で播磨を中心に100万石近い大名となり西国将軍と呼ばれたが、池田家は江戸初期因幡藩と備前藩に分割された。前田家も徳川と縁戚関係を深めたが分割はされず100万石を維持明治まで維持出来たのは奇跡かも。

  • @user-lp4uv6wu7j
    @user-lp4uv6wu7j Рік тому +14

    政宗に関してはその後、実質 家光の後見人のような立場にもなっているし、滅ぼさずにおいて結果オーライのような感じがします。
    まだ幕府も三代で歴史が浅い それを外様とはいえ大大名の伊達家がバックアップするというのは家光にとっても心強かったのではないでしょうか。

  • @poe70s
    @poe70s Рік тому +13

    思い通りに行かなかった事や失敗をフォローしながら歴史は進むものです。
    現代でも未来に禍根を残さないように潰してしまいたい国々もあります。

    • @user-nm4dj8fb3d
      @user-nm4dj8fb3d Рік тому +7

      えーと
      北の果ての東西に長い国とか
      何か日本の北西にある足の形みたいな出っ張り??
      他にその出っ張りの西にある
      色々と汚ない国?

  • @user-uc7mx7ux8q
    @user-uc7mx7ux8q Рік тому +19

    島津は最南端の大名だけど琉球を手に入れて密貿易が盛んだったね‼️

    • @user-nm4dj8fb3d
      @user-nm4dj8fb3d Рік тому +2

      不穏ですもんね
      暴宗とか度々南蛮渡来のご禁制で
      謀反の何とかで出て来ますね
      と言うか薩摩の登場イコール謀反の企て
      あとは尾張も大体は乗っ取り絡み

  • @user-dl7fg3us2z
    @user-dl7fg3us2z Рік тому +5

    島津に手出し出来なかった事は無念だったかもしれないが、無理に島津討伐を強行すると外様大名が反発して戦国時代に戻りかねなかったと思う。

  • @user-yv3ut1fg3n
    @user-yv3ut1fg3n Рік тому +7

    徳川家には島津は大きいな
    家康は予想してたかわからないけども

  • @mamezo2061
    @mamezo2061 Рік тому +9

    毛利家も消したかったのでは?
    石高こそ大幅削減されたものの毛利一門で見ると血縁の吉川広家、血縁はないが東軍に寝返った豊臣からの養子である小早川秀秋、毛利方外交僧で関ヶ原の戦い後処刑された安国寺恵瓊を含めれば実は島津や前田よりでかい。吉川が毛利家存続に動かなかったらかなりヤバかったと見る。

  • @katsumi-na1198
    @katsumi-na1198 Рік тому +8

    九州の外れのど田舎、だけど結構金持ち、それなりの名門島津家、微妙な立ち位置やな

  • @user-zt8py8st9i
    @user-zt8py8st9i Рік тому +7

    上杉は上手く無力化できたなあ

  • @user-ml5px7br2j
    @user-ml5px7br2j Рік тому +4

    現代まで言い伝えられている家康個人の性格としては、関ヶ原で媚びてきた豊臣恩顧の大名らがその後お家断絶などの悲劇に遭っていることから徳川を裏切る油断ならぬ存在とも考えてたように思います。逆に潰したいけどその実力は認めざるを得ず繋ぎとめて置いたのが島津・伊達。それを考えると改易後本多忠勝に身を寄せた立花宗茂を再び大名に取り立てたのはセコイ謀略に乗せられず信義を貫いたので徳川家に入れても信用できる存在だったと。

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Рік тому +15

    やっぱり豊臣家じゃないかな?
    一大名家に成り下がったとは言え
    豊臣家が諸大名に与える影響は
    前田や伊達などの大身の大名よりはるかに大きかったし

  • @user-kq4sd3jh2b
    @user-kq4sd3jh2b Рік тому +7

    地付きの大大名を潰してしまえば反発が凄い…。

  • @MR-ek7km
    @MR-ek7km Рік тому +54

    毛利も消したかったと思う。島津残したのは痛恨の極み。

    • @minxs54
      @minxs54 Рік тому

      潰せるものなら
      潰したいけど
      征伐しにいくのは、
      あまり利がない

    • @user-pz3yr8pc1w
      @user-pz3yr8pc1w Рік тому +6

      国防の事を考えたら島津を潰さなくて良かったと思うけど?少なくても斉彬までは幕府に忠誠誓っていたわけやし

    • @JJ-ro3rx
      @JJ-ro3rx Рік тому +2

      @@user-pz3yr8pc1w
      本当にそう思う。木曽川の治水工事でもヘイト溜まったと思うけど

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Рік тому +5

      琉球と明とのパイプ考えたら島津は潰せないね。

    • @JJ-ek7xj
      @JJ-ek7xj Рік тому +4

      結局、幕末はその島津と毛利に潰されたからな~。

  • @samuri1192
    @samuri1192 Рік тому +5

    秀康は幼少期から家康から嫌われてたとか、信康にとりなしで対面したときも嫌われてたエピソードがあった。しかし、関ヶ原の戦いでは対上杉のために江戸に残したのだから、信用されていたのでは?

  • @user-eg2bv5lj2h
    @user-eg2bv5lj2h Рік тому +16

    伊達政宗存命中は江戸幕府も仙台藩には手を出せなかったが政宗亡き後仙台藩を潰せる機会があった。伊達騒動が一歩違っていたら仙台藩は改易されていた。最上家取り潰しの前例あったがよく残ったものだ。

    • @1sunsea384
      @1sunsea384 Рік тому +2

      最上は日本海航路で西国勢力と結びつく可能性があったけど、伊達は東国勢力≒徳川同盟軍だから、寛大な処遇だったのかも。政宗は「副将軍」と自称するのを許されていたし。

  • @user-ge7ld2nx3b
    @user-ge7ld2nx3b Рік тому +6

    島津は幕末の薩英戦争くらいまでは江戸幕府に忠義を尽くしたはず
    秀吉の朝鮮出兵でも忠義を尽くしており
    最終的に倒幕側になったのも幕府側の責任が大きいと思う

  • @user-bq2mo2qh6b
    @user-bq2mo2qh6b Рік тому +3

    島津家を潰していたら未だ江戸時代が続いていたかも?なことは無いか、まぁ若干、遅れて文明開化、極論だが他国で飛行機が飛んで📲してんのに未だ日本はちょん髷して二本差しをしてる侍が居るw誰を潰して誰を生かすかで歴史はだいぶ変わるみたいですね。本当この動画、面白くて好き。

  • @u.mayumi2862
    @u.mayumi2862 Рік тому +5

    政宗のところ、「血縁」ではなく「姻戚」ではないでしょうか。

  • @100EIZO
    @100EIZO Рік тому +2

    暴れん坊将軍でも、尾張と島津が共謀して将軍転落をもくろみ、吉宗がそれを懲らしめたあとウヤムヤになるわけだが、
    「尾張はともかく島津はこの機会に潰しとけ!」とみんな突っ込むわけです

  • @user-es6rw4db9h
    @user-es6rw4db9h Рік тому +25

    結城秀康さんが意外かなーって思いました('ω')。たしかに広大な領土(兵力)を与えてしまうと
    謀反の可能性がゼロではないため(例:本能寺の変)、気持ちは分かりますが、
    息子さんでも信用できないのが戦国時代なのでしょうか('ω')

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Рік тому +10

      家康は秀康の事を生まれた瞬間から嫌ってたらしいですからね
      秀康は双子で生まれたから尚更…

  • @user-kn1wy6th2u
    @user-kn1wy6th2u Рік тому +5

    豊臣家恩顧の福島、加藤の両家は潰されて、伊達家、黒田家は元々は豊臣家からしても外様だったし、もし伊達家や黒田家を潰そうとしたら火種は残るから幕府で抱えたんでしょう。それに東北の睨みとして伊達家と九州の睨みとして黒田家を残す事で幕府からしたら必要だったと思う。

    • @ds1100wk
      @ds1100wk 8 місяців тому

      共通してるのが政宗も如水もなにしでかすか分からない、喰えない人というイメージ

  • @user-fz5jn4yu4y
    @user-fz5jn4yu4y Рік тому +4

    徳川家康が伊達政宗が一番怖いです。🎵毛利や島津等も怖いです。🎵

  • @user-tj5pn2tf2y
    @user-tj5pn2tf2y Рік тому +19

    「大阪の陣で 豊臣秀頼を生かすことができなかったのが最大の誤算」だと思います
    豊臣秀頼を 生存させることができればもう少し大名を潰し放題だったと思います😄
    豊臣秀頼を 生存 させて 秀吉との約束を「 律儀に守る」ことで 大名の感心を集め
    その上で 大名の領土を削りに行きたかったと思います
    豊臣秀頼を生存させることができれば
    大名に恩賞として与える領地は安く済み
    潰したい大名は潰し放題になる
    結局これは 三代将軍徳川家光が行いましたが…
    家康の心に大きくあったのは、「国家経営問題」で
    元寇 で滅亡した鎌倉幕府
    恩賞で与える 土地 不足
    豊臣秀頼を 生存させることができれば 恩賞で与える土地を安く済ますことができる
    ただ 豊臣秀頼は死んでしまってるので
    領地を、大盤振る舞いする羽目になってしまった😱
    徳川家康が一番悔やんだところは
    豊臣秀頼を 生存させることに失敗して
    領地を 大盤振る舞い せざるを得なくなったところだと思います😄

    • @user-gyunyuda1ma0u
      @user-gyunyuda1ma0u 7 місяців тому +2

      秀頼に限らず秀吉の血縁生かしといたら徳川に不満ある浪人とかがそいつを大将に担いで反乱起こしかねないじゃん

  • @toki8606
    @toki8606 10 місяців тому +2

    島津や毛利を残したからこそ、明治維新があり弱肉強食の帝国主義の時代に、日本は生き残れたとも言える

  • @user-tm5wr3qj9x
    @user-tm5wr3qj9x Рік тому +1

    さおりさんの回しか見なくなった😅

  • @user-db9fm5ml6f
    @user-db9fm5ml6f Рік тому +9

    真田家をあのタイミングで潰すと、忠勝を失うし、徳川家重臣や部下からの信頼失って内部分裂の危機もあったろうし、そうなると豊臣家は大喜びさせることになるだけ

    • @user-yt1uw8ue5l
      @user-yt1uw8ue5l Рік тому

      普通に兄が来たんだからそいつに継がせて存続が妥当。

  • @user-ec3ef4ci6h
    @user-ec3ef4ci6h Рік тому +9

    豊臣秀頼でしょうねぇ…
    徳川家康が、秀頼と会見した時、
    織田信長の気持ちを理解したのでしょうか?…
    「ワシの息子より 出来が良い…」
    亡き信康の事を、想い出したのかもしれませんね。

  • @fa-masf1leclairon177
    @fa-masf1leclairon177 Рік тому +1

    むかーしむかし、「歴史への招待」(NHK)で徳川が島津攻めを計画し諸大名に動員まで行っていたと放送してましたっけ。
    島津がひたすら詫びを入れて難を逃れたとか。ちなみに、島津攻め中止の理由が「寒いから」というものだったとか。

  • @user-ue5tc3mo1w
    @user-ue5tc3mo1w Рік тому +2

    島津は、心残りだったと思う!!

  • @user-by2sf6dl8r
    @user-by2sf6dl8r Рік тому +2

    家康が潰したかった相手などいませんよ。格下を恐れることなど決してない家康にとって、格上なんて関ヶ原地点でいますかね。
    あえてあげるとするなら、豊臣家くらいのものでしょう。

  • @mattsong3975
    @mattsong3975 Рік тому +1

    結城秀康が意外でした。江戸から遠い越前への移封ですから、そういう面はあつたかもしれないですね。しかも、大坂への備えという名目もある。
    有難う御座いました。
    秀康が秀忠の弟という関係であれば、もつと違っていたかもしれないですね。
    秀康は、大変に武将として有能であり、大坂への備えという意味もありますが、大坂落城後は不要ですね。忠直卿などは、とくに有能でもなく、難敵の消滅した元和偃武のなか、兄の系統を吹かしかねない忠直卿系は邪魔でしかないですね。さつさと弟系に挿げ替えるべきです。

  • @user-zu6tc9mb7s
    @user-zu6tc9mb7s Рік тому +1

    島津は関ヶ原の突破…宇喜多秀家親子を匿い…更に戦後交渉ではのらりくらりと…厄介な存在だったに違いありません。真田は上田攻防戦…昔の三方ヶ原の戦いでの遺恨が残っていたでしょう…。

  • @user-ke3em6bb2z
    @user-ke3em6bb2z Рік тому +11

    関ヶ原後ではまだ豊臣家が、
    健在なので本音通りには、
    難しいですね。
    腹を括って大坂城に籠って
    反徳川連合の旗を上げられたら
    ヤバいですからね。

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk Рік тому +13

    毛利は260年逆恨みしてましたからね

    • @kireinayukichandaisu
      @kireinayukichandaisu Рік тому +2

      ある逸話で、毛利家の年賀の挨拶で家老が毛利の殿様に
      ··殿、徳川討伐の準備相整いましたが··
      と言うと歴代の毛利の殿様は
      ··今年は中止に致そう··
      と応えていたとか?!

    • @user-qy9ld2by3k
      @user-qy9ld2by3k Рік тому +3

      @@kireinayukichandaisu チョット違うようです。
       家老…徳川討伐の義は如何致しましょう?
       殿様…今年は未だ早い、先ずは明年まで
          待つと致そう。
      ってな感じだったと聞いたことがあります。

    • @kireinayukichandaisu
      @kireinayukichandaisu Рік тому +2

      @@user-qy9ld2by3k 返信有り難うございます
      そうですよね
      やり取りをすぐ横で見ておられた様な内容、勉強になりました(⁠◠⁠‿⁠◕⁠)
      こんなことを学校の授業で教えていたら、もっと歴史好きの方が増えそうな····

  • @user-ty5fm4sg8r
    @user-ty5fm4sg8r Рік тому +1

    もし、忠勝などの重臣による説得を無視して(家康の独断で)真田昌幸を処刑していたなら、忠勝らが離反してしまい、徳川家が短命的に崩壊してしまっていたかもしれないでしょうね。重臣を怒らせると、マジで怖いで。

  • @user-jy4bm5vz4o
    @user-jy4bm5vz4o Рік тому +2

    人間はしょせん「動物」にすぎないと、つくづく思った😔

  • @user-iq6ys5pw2q
    @user-iq6ys5pw2q Рік тому +3

    西日本の大名は大概潰したかった。
    結局、豊臣恩顧の武将の力がないと勝てなかったから、西日本は諦めた形になってる。

  • @user-hs4gf9fn4q
    @user-hs4gf9fn4q 4 місяці тому

    おそらく上杉や毛利や吉川なども警戒していただろうな

  • @user-dt6lt1hh1g
    @user-dt6lt1hh1g Рік тому +2

    時はキリシタン追放、島原の乱があり戦上手は必要不可欠では?

  • @user-dg5tc9wf9x
    @user-dg5tc9wf9x Рік тому +2

    家康公は、柳生に命じて里隠れや隠密を送らなかったのかな??家康公が亡くなった後から柳生が力を持ち諸国に密偵を送り、かなりの大名が取り潰しになってるけどね。江戸市中には、鳥潰された大名家の家臣が浪人としてかなり入り込んでいた。その何年か後に由比正雪見たいなのが出て幕府転覆を図ったが失敗!!ガードが固くて失敗したんだよ。一説に依れば、由比正雪は豊臣恩顧の大名だったらしい。島津は南方の大名だから幕府も取り潰しは難しかった。のでは??豊臣方ヘ味方をした大名は、尽く潰されてる。しかし、徳川方に味方をした大名にもお取り潰しになった藩も無いとは言えないけど。表面的には、徳川!!裏では豊臣方!!今の時代も似た現象が起きてますやろ。

    • @user-yu6ok8gf5b
      @user-yu6ok8gf5b Рік тому +1

      由比小雪の乱が失敗したのはガードが堅かったんじゃなくて参加者が密告して決起前にバレたんじゃなかったっけ?

  • @user-yb5md7gh5p
    @user-yb5md7gh5p Рік тому +1

    前田利常ではなく前田利長だと思います。

  • @yf-lv6tx
    @yf-lv6tx Рік тому +2

    政宗が葛西大崎一揆でやったことって家康が信濃甲州でやったことってと同じ。
    家康は政宗が怖かったというより「クソガキ」ぐらいにしか思ってなかったんじゃないかな。

  • @user-dt6lt1hh1g
    @user-dt6lt1hh1g Рік тому +3

    家康が豊臣を潰すつもりなかった説はありだとおもう、もちろん統治の楔大名は大事だとおもうけど国防で有力な家臣団を生かすには秀頼が生きていたほうがあるのかな。
    淀殿が国替えに応じる考えだったのは意外で知りませんでした。

  • @user-yl1zd7dq1f
    @user-yl1zd7dq1f Рік тому

    何故に毛利が入っていないのか最大の疑問

  • @masakishogo
    @masakishogo Рік тому +2

    福島正則も潰したかった?ってか、実際に潰されましたね。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Рік тому +4

    伊達と秀康はそうでもなさげかな?

    • @user-yt1uw8ue5l
      @user-yt1uw8ue5l Рік тому

      伊達は加増するのを破る。結城はまあ、60万石あげたから体裁を保てた。

  • @user-jd6eo7cb6g
    @user-jd6eo7cb6g Місяць тому

    素人的には潰すとか考えるけど、実際は代わりに据える力量をもった大名が居なかったが正解です。
    日本全国古代からその地域を開拓した一族やまとめ上げた氏族が居て表には名前があまり出ないけど
    縁もゆかりも無い氏族を入れ替えたら反乱の火種になるし秀吉(醍醐源氏)でさえ直ぐに泣きついて来た事を知らない
    人が多いと思いますが、七本槍(石田三成三浦党平氏を省く)人材は明智方から輩出してるしねw
    加藤清正なんか明智城の守備を任されていた明智の分家だしw 伊予の加藤もそうだったw
    国替えの調整は非常にデリケートで手間が掛かる問題なんですよw
    by 河内源氏棟梁家分家でした。

  • @user-qu2he4kv6g
    @user-qu2he4kv6g Рік тому +12

    伊達政宗は家康が取り潰したい大名の一人と考えていた説は、大河ドラマ「葵・徳川三代」のネタになっていましたね。
    大阪の陣が終わって忠輝を勘当した時に、秀忠が家康に「大阪の次は奥州を攻めるつもりか」と指摘したシーンがあって。それだなと思いました。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Рік тому +3

      実際難癖付けて潰そうと思えばいくらでも潰せたのに
      家康がそれをしなかったのはやっぱり伊達は必要だと思ったからだと思う

  • @shinzoonishi3432
    @shinzoonishi3432 4 дні тому

    面白いお話、家康の小物ぶりが証明されて興味深い。

  • @chuancun
    @chuancun Рік тому +1

    九州の端に居る島津にどこへ行けと?

  • @user-zl7sq2jf5z
    @user-zl7sq2jf5z 8 місяців тому

    真田を潰したかったのでしょうか、家康の死後、幸村の兄信之は潰される寸前も忠輝の改易で空きになった松代に移りました。

  • @user-hm8zn7sd6f
    @user-hm8zn7sd6f Рік тому +1

    毛利は秋田辺りに移して吉川と領地を離しておくべきでしたね
    佐竹は周防で下関は天領にすれば良かったです
    島津は黒田に滅ぼしてもらえば良かったですね

  • @user-jx7it7lh9m
    @user-jx7it7lh9m Рік тому

    真田幸村様かもしれませんね・・・・。

  • @user-yt1uw8ue5l
    @user-yt1uw8ue5l Рік тому +2

    まあ、薩摩はもともと、東軍なのに来るなと言われてしぶしぶ、戦ったんだから無理だろ。

  • @fantomugodJapan
    @fantomugodJapan Рік тому +6

    でも大軍でやれば島津潰せたけどね・・・・
    ただ大損害になるかもだけど

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Рік тому +3

      九州の大名と毛利が大連合を組んで
      更にそれに乗じて上杉と伊達が東から謀反を起こして
      家康は四面楚歌で返り討ちだと思う

    • @fantomugodJapan
      @fantomugodJapan Рік тому +1

      その場合は
      上杉・伊達は 
      佐竹・最上・南部あたりに任せて
      毛利と島津を全力で潰すこれしかない

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому +2

      近衛家から取りなしがあるので無視できないのはある

    • @user-yu6ok8gf5b
      @user-yu6ok8gf5b Рік тому +1

      @@user-co4uy9zu1s その場合上杉と伊達は足並みが揃うかどうか。上杉を仕切ってた直江兼続が伊達政宗の事を毛嫌いしてたからなぁ

    • @mattsong3975
      @mattsong3975 Рік тому +1

      あくまで空想ですが、関ヶ原の戦いがもう少し遅れて始まったり長引いていたら…と思います。九州では、島津vs黒田の決戦が行われたのかもしれません。
      しかし、東北では、上杉が伊達と最上を倒していたかもしれませんね。

  • @kiritugu
    @kiritugu Рік тому +2

    加藤や福島の様な大名を潰したかったんじゃない?

    • @user-yt1uw8ue5l
      @user-yt1uw8ue5l Рік тому +2

      あいつらは豊臣の血縁だから豊臣が滅びたら用無し。

  • @yuichishibuki6643
    @yuichishibuki6643 Рік тому +2

    相変わらず浅っさい

  • @motoyukihirai777
    @motoyukihirai777 Рік тому +1

    黒田も消したかったかもしれません。息子の長政が活躍した以上、消すに消せなかったのでしょうが。

  • @countneo
    @countneo Рік тому +4

    秀康は庶子だし秀吉の養子だから、家督相続権はなかったんだよ。
    そのためか家康と秀康は親子仲は悪くなかった。

    • @user-uc7mx7ux8q
      @user-uc7mx7ux8q Рік тому +2

      秀康の死因は梅毒だと言われている。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому

      秀忠も秀康の顔を立てるしね

    • @countneo
      @countneo Рік тому

      梅毒は事実でしょうが、秀康ほどの男が感染するってのが疑問です。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому +1

      @@countneo 武将クラスでも大流行時代なんじゃなかった?

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Рік тому +2

      秀康は梅毒なのに
      あれだけやりまくってた父の家康が梅毒にならなかったのも不思議だな

  • @user-kl5iu5bw1e
    @user-kl5iu5bw1e Рік тому +4

    さおりん、可愛い、嫁にしたい!

  • @user-hx6nj5mv4o
    @user-hx6nj5mv4o Рік тому +1

    八重歯可愛い

  • @user-by2sf6dl8r
    @user-by2sf6dl8r Рік тому

    家康が潰したかった相手などいませんよ。格下を恐れることなど決してない家康にとって、格上なんて関ヶ原地点でいますかね。
    あえてあげるとするなら、豊臣家くらいのものでしょう。