明智光秀は織田信長の真意を見抜いていた? 『信長公記』以外の史料でとんでもない発見 郷土史研究家/新編岡崎市史調査員 市橋章男
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- Опубліковано 2 тра 2024
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/ @rekishi-juku
かつて、GHQは日本占領時代に、
日本から正しい歴史と日本人の誇りを奪っていきました。
この占領政策の影響はすぐには、現れませんでしたが、
一世代、二世代、三世代・・・と世代を跨ぐにつれて、
正しい歴史も誇りも徐々に日本から消えていきました。
ですが、私たちは今まさに、この「月刊歴史塾」を通して、
かつてのGHQの占領政策の「逆」を行おうとしています。
こうして動画を配信し、正しい歴史を知る人が増え、
小学生、中学生、高校生など若い世代に波及していけば、
すぐには変化はなくとも、世代を跨ぐにつれて、
いつかは「堂々と歴史を語れる日本の姿を取り戻せる」
ことを私たちは信じています。
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#織田信長
#本能寺の変
#授業
「信長公記」は一部間違いあるので、公家の日記のほふが当てなる。太閤記は完全に2次史料のため使えない。やはり光秀単独犯が正しい。
歴史はその時の権力者によって都合良く改竄されるモノ。
となると天海説は、みっちゃんが生きていることを知っている誰かから情報が漏れた的な感じなんですかね?もしくは、死んだ後になにか隠された文書などが保管されていて、極少数の人だけが閲覧できるとか、そこに天海?天海は無関係でも生き延びている可能性もありますね。
安土城に天皇を移そうとしたんじゃないですかね。王になるために三国志を参考に
言ったかどうかも分からん言葉を、ああだこうだと考えても無意味。いったい誰がそれを聞いたのか?
言経卿記の「即時に打死」を取り上げておられますが、山科言経が直接見たわけでも無いでしょうし、情報は早いにせよ聞き書きでしょ❓明智の大軍の前に抵抗しても少数の近臣だけでは、程なく討ち死(自刃)したという表現以上には思えないのだけど❓それにしても誠仁親王(さねひとしんのう)のことを「せいじんてんのう」とは二重の意味で間違われておられますな❗仰りたいことは⇒「誠仁親王が新天皇になった方が望ましい」なんだろうけどね・・・推論だけを幾つも生煮え状態で投げ掛けてもそのままでは・・・
重臣達含めた家康を討ち取るつもりだったように思うけどね。当の家康は真っ直ぐ京都方面に行かず、飯盛山方面に向かっている。それも偶然、茶屋四郎次郎に会い本能寺の変の事を知ったって、家康の動きが謎過ぎる。それも穴山氏だけ落武者狩りに遭うという…
信長は船に乗って海外へすべてみっちゃんが策略してます。ご安心を🎉みっちゃんが順番を決めただけ 信ちゃんの次は秀ちゃん最後は家ちゃん 僕は家ちゃん側近でいくからね
真実は信長公記にも書いてないことかもしれませんね
私は本能寺の変はキリスト教派と仏教派の対立が関係していると思います。現代で言うところのグローバル社会と民族社会の対立にも似ている様に思います。
とても興味深く観させていただきました。先生、有り難うございました。
凄い、、知らなかったです、、信憑性が高いなあ、、、リアルな話だ
大変興味深くおもしろい考察
光秀は当時70歳を超えていたと言われている事を考える時、巷間言われている信長に対するルサンチマン(遺恨)等の
市橋先生の講義はのめり込みますね。
まぁこう言うのって結論がはっきりしない事だよね⁉️
読み下し文だけのものを読んだが、有名な「是非に及ばず」の解釈は、映画に出て来るキーワードを参考に考えました。
たしか信長って歴史上でも稀な勤王の家名に生まれたよね。でも全面的に支援していた訳じゃなくて、例えば斎藤道三の軍事支援や桂田長俊などの旧朝倉越前への軍事支援は手を引いている。これらから情報戦が得意な信長が異常な的確な行動を取っているのが分かる。
明智が部下に信長を撃つと明言できなかったために、織田信長が自害し寺に火をつける時間を与えたのでしょう。
クーデター成功