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大河ドラマ『真田丸』が放送されていた時に動画で最後に触れた真田家の子孫の方のインタビューが週刊誌に掲載されていたが、自分たちの先祖を助けてくれた伊達政宗公の御恩は代々言い聞かされていて、家では伊達政宗公の悪口は一切言ってはいけなかったそうです。
仙台真田家では「信繁」でなく「幸村」と呼ばれているため今回は幸村呼びで統一しています。
宮城県の山村、政宗の母の化粧料地(小次郎の墓もある)には、大阪の陣の大阪方だった人達の子孫の集落がある。真田隊の将校達を連れ帰り、目立たないように山に住んで隠れてろってことだったのかな。関係あるのか知らないけど、そのうちの1家には幸の字が名前に代々付けられている。そういや集落には掘田という家もあったな。
真田幸村の子孫といえば1960年代の終わり頃ニューヨークのバッファローの大学で幸村の子孫の真田幸弘君と知り合った。そしてふたりでアパートを借りて1年間一緒に住んだ。彼のことをサナちゃんと呼んでいた。アパートでは君は殿様の子孫だけど大学ではオレの方が古いからと私が大きい方の寝室をとり、彼に小さい寝室に入ってもらった。その後私はパリ大学に留学したが、日本に寄るなら尼崎の家に寄ってくれといわれ、彼の家に行ったら大きな石垣があってまるでお城のようだった。明治時代から医者になっておられ、父上は袴をはいてしずしずと廊下を歩かれ、殿様そのものだった。母上に「幸弘は元気にしていますか? ちっとも親に手紙をよこさんから」といわれ、「元気ですよ、私も親に手紙を書きませんけど」といったら、「なに?親に手紙を書かない! あんたがた2人は薄情もんや、薄情もん同士で気が合うんや」と怒られた。母上にうどん食べますか?ここのうどんおいしいですよ」といわれ、うどんをご馳走になった。昔の家来たちにいろんことをやらせているらしかった。配達されたうどんを見てたまげた。漆塗りの3重になった入れ物に大きな松茸が丸ごとはいっていて、1人前10万円もするのじゃないかと思われた。パリに行って半年くらいしたら、サナちゃんが結婚してパリに遊びに来た。奥さんは辞書の三省堂の社長の令嬢だった。2人で私のアパートに何日か泊っていった。私は4年後ニューヨークに戻ったが、日本へ行くたびにサナちゃんの家に行ってそこへ泊るようになった。お城のような邸宅は大きな洋風の家になっている。そのサナちゃん(昭和17年生まれ)が今年初め亡くなってしまった。私の親友だった。(ニューヨークより)
伊達家のおかげですね😂子孫の方々は仙台に足を向けて寝れないですね😊
俺が学生時代に歴史教師から、伊達と真田の間で密約があって直系の血筋を残したという話をしてた。徳川のその後の幕政が盤石に営まれていた為、地固めをして機を待つ方針にしたとかいう。嘘か誠か分からないけど、真田の血筋が現代に残った事については評価に値する出来事だと思う。
歴史上の文献などから最近は「真田信繁」表記が多くなっているが、やはり「真田幸村」表記の方がなじみがあって良い。
伊達と真田の間で密約があったとしてもおかしくないかなーと思いますだから幸村は子息を安心して政宗に預けることができたのかなとそして、家康が伊達陣に近い海のほうではなく道が険しくとも山のほうに逃げたのはそれに勘付いたからで、夏の陣の後執拗に伊達を取りつぶそうとしたのもそれが理由かも?
仙台政宗と信繁との間で何かしらの合議はあったのではと思います。自分の亡くなった後の娘を預ける訳ですから。
松平忠輝を介しての天下統一を密かに画策していたかもしれない伊達政宗にとっては、真田幸村の子はリスクを負っても保護したかったのかもしれませんね。他の豊臣方大名の子はきちんと報告しているのに、真田家だけ秘密裏だったのがいかにも内幕めいていますし、偽系図まで作成するのは珍しいと感じます。当時でさえ、真田昌幸、幸村はその勇名を馳せていたということでしょうか?!守信は片倉に改姓しても活躍の場は限られていたといっても、これだけ厚遇されていれば、十分に武将としては幸福だったと思います。豊臣系武将への弾圧をくぐり抜けたことが、僥倖です。幸歓は自身の政治信条に反して新政府軍と戦ったのは、辛かったでしょうね。伊達家主君慶邦が奥羽越列藩同盟に入り、会津藩救済を行ったのが、痛かったです。
政宗と幸村は同い年と聞いた事があります。敵同士とはいえどこかのタイミングで二人は対面し信頼しあえる仲になったのではないでしょうか。
17:43 一方、兄の信幸(信之)の家系は江戸時代の途中で他家から養子に入れたために現代の松代真田家は信幸の血筋ではないんですよね。
江戸時代の最後に宇和島伊達藩から養子が来てるので、今は伊達政宗の男系子孫が松代真田家当主になってると言う、意味のわからない事になってますね。
武田信玄・勝頼・豊臣秀吉・秀頼・伊達政宗・幕末仙台藩と英傑(親方様)に仕えた眞田氏。主君から学んだ軍略戦術・政・恩返しを忠実に従い、現代迄継続させた力は凄い。流石、日の本一兵を生み出した一族だ。
片倉が大阪の陣へ持参した太刀を仙台市博物館で実物を見たことありますが、かなり刃こぼれしており使用したことが伺えるものでしたよ😅
国分は今の大阪府柏原市、誉田は大阪府羽曳野市。道明寺は大阪府藤井寺市。柏原市は高校野球でも有名な地でぶどうの産地。羽曳野市はダルビッシュ選手の出身地藤井寺市は関西で2番目に小さい自治体。ちなみに1番小さい自治体は京都府向日市
何だか真田信繁だとバレてしまうからあまり知られていない真田幸村という名で一時しのぎしたけど真田幸村=信繁ってのがバレたから幕府からの取り締まりが強化されてしまったって感じがした。。。
違うよ江戸時代に創作物に使われた名前
9:44 愛媛の宇和島藩主が伊達だった時期があるらしいですけど宇和島にも須賀川って言う川があったのを思い出した
以前真田丸の1部とも言われた真田山の近くに住んでましたが、仙台とも繋がりがあったのですね。、
政宗がなぜそこまで幸村の子供達を守ったか気になるよね
俺もそう思う
頼まれたから
敵将に敬意を表したのではないかと
津軽為信も三成の子供を守った。東北は隠密があまり入り込めない、あるいは幕府から軽視された土地だったのか?
幸村子孫見たけどやばい女やった..
この話を見ると某サムライトルーパーという昔のアニメを思い出してクスッとしてしまうと書いてて今つべ内で放送してるし。
真田信繁、毛利勝永という実在の人物の活躍を足して、真田幸村という架空の人物になる
仙台市青葉神社の片倉宮司がそうなるね。
これも諸説ありますの1つに過ぎない。幸村(信繁)の子孫では無い説もある。阿梅も大阪落城後の乱取りでたまたま確保されただけ。次男とされている守信もあくまで片倉一族であり、幸村(信繁)の息子では無いという説だ。
仙台真田家は江戸時代を通して、旗本の真田信尹(信繁の叔父)の子孫を称していて、信尹の子には「正信」を名乗った人物がいるようです。また阿梅は乱取りされた可能性の方が高いようですね。一方、守信が真田家とは縁もゆかりもない人物だった場合、今度は「じゃあ何で真田信尹の子孫を称したんだ?」ってことが問題になってくるので、ホントややこしんです。
片倉重長は景綱(小十郎)の息子では
はい。長男です。大変な美形であったと!初代小十郎は年齢的に高齢であった為に、長男が参戦しました。大変武勇に優れ、立派な人格で、正妻と幸村の子ども達を大切にしました。正妻の遺言で、おうめを正妻に迎えた重長です。
幕府も東北&東北最強の伊達家には それなりにしか詰めよれなかっかたのかも💡
道明寺の戦いで冷静に戦況を見極めて、伊達隊に反撃し、撤退に追い込んだところを見ると、やっぱり堺雅人の幸村がイメージに合うのよね。
確かに、青葉山城を築いた政宗なら、その野望を胸に秘めていてもおかしくはない……かな。そしてそれ故に、どうしても警戒されていたんだろうなぁ………
政宗自身野心旺盛だったから
水野勝成😍😍👍鬼日向、立花宗茂、西国無双👍真田幸村堺雅人👍
14:29伊達みきおさんに似てますね
祖先が同じだからですかね?
伊達政宗とは直接関係ありません。
真田信幸のが有能定期
ちなみに、仙台藩士の真田家と柴田朝意は婚姻でつながっているんですよね(※朝意の姪が片倉守信の妻)
どの大名でも、跡継ぎは徳川の息子を押しつけられるから。真田も本家は(秀忠の子)保科正之の子孫。信之はそれを予測してお通の方娘と次男を結婚させ、真田勘解由家を創り血筋を残した。
仙台在住の者ですが、自分の高校の先輩がまさしく「真田さん」末裔である可能性が高いです。
白石城歴史探訪ミュージアムで、阿梅姫と片倉重長のシアターがありますが、阿梅姫役の女の子がとにかく滅茶苦茶可愛い。演技は大根ですが、そんなの関係ないと言いたくなるぐらい可愛い。白石駅周辺で阿梅姫の萌えキャライラストも見ました。白石の人にとっては今も誇りのお姫様なのでしょう。姫様が眠る当信寺にも赴き、手を合わさせていただきました。
男系は途絶えてる感じかな?
系図通りなら男系で残っていますね。
元巨人に居た投手の真田裕貴さんは信繁(幸村)の子孫ですね
@@もふもふ-x4p本当だったら凄いよ。
なぜ保護したのかと言えば真偽はわかりませんが家光の御伽衆をしていた伊達政宗とのやり取りが全てかも知れませんね「ねえ政宗はおじいちゃんを倒して自分が一番になろうとは思わなかったの?」「ずっと思っていたさ」上田市の観光大使を仙台真田家の子孫の方がされてるそうですね道理で上田城内の歴史資料館の表記が年代問わずに「信繁」「幸村」表記が混在してわけわからなくなってる訳ですね思い出せば、おまけにXのポストに「幸村じゃないんですか?」ととぼけて凸られた事もありましたじゃあ、狭山北条家も「北条早雲」とやりますか?やらんですよね、真田家のそういうところが気に食わないんですよ昌幸の時から人食わせようとしてくるのが血なのか、元々海野氏の分家なのにね。おっと、言い過ぎました
大河ドラマ『真田丸』が放送されていた時に動画で最後に触れた真田家の子孫の方のインタビューが週刊誌に掲載されていたが、自分たちの先祖を助けてくれた伊達政宗公の御恩は代々言い聞かされていて、家では伊達政宗公の悪口は一切言ってはいけなかったそうです。
仙台真田家では「信繁」でなく「幸村」と呼ばれているため今回は幸村呼びで統一しています。
宮城県の山村、政宗の母の化粧料地(小次郎の墓もある)には、大阪の陣の大阪方だった人達の子孫の集落がある。
真田隊の将校達を連れ帰り、目立たないように山に住んで隠れてろってことだったのかな。
関係あるのか知らないけど、そのうちの1家には幸の字が名前に代々付けられている。
そういや集落には掘田という家もあったな。
真田幸村の子孫といえば1960年代の終わり頃ニューヨークのバッファローの大学で幸村の子孫の真田幸弘君と知り合った。そしてふたりでアパートを借りて1年間一緒に住んだ。彼のことをサナちゃんと呼んでいた。アパートでは君は殿様の子孫だけど大学ではオレの方が古いからと私が大きい方の寝室をとり、彼に小さい寝室に入ってもらった。その後私はパリ大学に留学したが、日本に寄るなら尼崎の家に寄ってくれといわれ、彼の家に行ったら大きな石垣があってまるでお城のようだった。明治時代から医者になっておられ、父上は袴をはいてしずしずと廊下を歩かれ、殿様そのものだった。母上に「幸弘は元気にしていますか? ちっとも親に手紙をよこさんから」といわれ、「元気ですよ、私も親に手紙を書きませんけど」といったら、「なに?親に手紙を書かない! あんたがた2人は薄情もんや、薄情もん同士で気が合うんや」と怒られた。母上にうどん食べますか?ここのうどんおいしいですよ」といわれ、うどんをご馳走になった。昔の家来たちにいろんことをやらせているらしかった。配達されたうどんを見てたまげた。漆塗りの3重になった入れ物に大きな松茸が丸ごとはいっていて、1人前10万円もするのじゃないかと思われた。パリに行って半年くらいしたら、サナちゃんが結婚してパリに遊びに来た。奥さんは辞書の三省堂の社長の令嬢だった。2人で私のアパートに何日か泊っていった。私は4年後ニューヨークに戻ったが、日本へ行くたびにサナちゃんの家に行ってそこへ泊るようになった。お城のような邸宅は大きな洋風の家になっている。そのサナちゃん(昭和17年生まれ)が今年初め亡くなってしまった。私の親友だった。(ニューヨークより)
伊達家のおかげですね😂子孫の方々は仙台に足を向けて寝れないですね😊
俺が学生時代に歴史教師から、伊達と真田の間で密約があって直系の血筋を残したという話をしてた。
徳川のその後の幕政が盤石に営まれていた為、地固めをして機を待つ方針にしたとかいう。
嘘か誠か分からないけど、真田の血筋が現代に残った事については評価に値する出来事だと思う。
歴史上の文献などから最近は「真田信繁」表記が多くなっているが、やはり「真田幸村」表記の方がなじみがあって良い。
伊達と真田の間で密約があったとしてもおかしくないかなーと思います
だから幸村は子息を安心して政宗に預けることができたのかなと
そして、家康が伊達陣に近い海のほうではなく道が険しくとも山のほうに逃げたのは
それに勘付いたからで、夏の陣の後執拗に伊達を取りつぶそうとしたのもそれが理由かも?
仙台政宗と信繁との間で何かしらの合議はあったのではと思います。自分の亡くなった後の娘を預ける訳ですから。
松平忠輝を介しての天下統一を密かに画策していたかもしれない伊達政宗にとっては、真田幸村の子はリスクを負っても保護したかったのかもしれませんね。他の豊臣方大名の子はきちんと報告しているのに、真田家だけ秘密裏だったのがいかにも内幕めいていますし、偽系図まで作成するのは珍しいと感じます。当時でさえ、真田昌幸、幸村はその勇名を馳せていたということでしょうか?!守信は片倉に改姓しても活躍の場は限られていたといっても、これだけ厚遇されていれば、十分に武将としては幸福だったと思います。豊臣系武将への弾圧をくぐり抜けたことが、僥倖です。幸歓は自身の政治信条に反して新政府軍と戦ったのは、辛かったでしょうね。伊達家主君慶邦が奥羽越列藩同盟に入り、会津藩救済を行ったのが、痛かったです。
政宗と幸村は同い年と聞いた事があります。敵同士とはいえどこかのタイミングで二人は対面し信頼しあえる仲になったのではないでしょうか。
17:43 一方、兄の信幸(信之)の家系は江戸時代の途中で他家から養子に入れたために現代の松代真田家は信幸の血筋ではないんですよね。
江戸時代の最後に宇和島伊達藩から養子が来てるので、今は伊達政宗の男系子孫が松代真田家当主になってると言う、意味のわからない事になってますね。
武田信玄・勝頼・豊臣秀吉・秀頼・伊達政宗・幕末仙台藩と英傑(親方様)に仕えた眞田氏。主君から学んだ軍略戦術・政・恩返しを忠実に従い、現代迄継続させた力は凄い。流石、日の本一兵を生み出した一族だ。
片倉が大阪の陣へ持参した太刀を仙台市博物館で実物を見たことありますが、かなり刃こぼれしており使用したことが伺えるものでしたよ😅
国分は今の大阪府柏原市、誉田は大阪府羽曳野市。道明寺は大阪府藤井寺市。
柏原市は高校野球でも有名な地でぶどうの産地。
羽曳野市はダルビッシュ選手の出身地
藤井寺市は関西で2番目に小さい自治体。ちなみに1番小さい自治体は京都府向日市
何だか真田信繁だとバレてしまうからあまり知られていない真田幸村という名で一時しのぎしたけど
真田幸村=信繁ってのがバレたから幕府からの取り締まりが強化されてしまったって感じがした。。。
違うよ
江戸時代に創作物に使われた名前
9:44 愛媛の宇和島藩主が伊達だった時期があるらしいですけど
宇和島にも須賀川って言う川があったのを思い出した
以前真田丸の1部とも言われた真田山の近くに住んでましたが、仙台とも繋がりがあったのですね。、
政宗がなぜそこまで幸村の子供達を守ったか気になるよね
俺もそう思う
頼まれたから
敵将に敬意を表したのではないかと
津軽為信も三成の子供を守った。
東北は隠密があまり入り込めない、あるいは幕府から軽視された土地だったのか?
幸村子孫見たけどやばい女やった..
この話を見ると某サムライトルーパーという
昔のアニメを思い出してクスッとしてしまう
と書いてて今つべ内で放送してるし。
真田信繁、毛利勝永という実在の人物の活躍を足して、
真田幸村という架空の人物になる
仙台市青葉神社の片倉宮司がそうなるね。
これも諸説ありますの1つに過ぎない。幸村(信繁)の子孫では無い説もある。阿梅も大阪落城後の乱取りでたまたま確保されただけ。次男とされている守信もあくまで片倉一族であり、幸村(信繁)の息子では無いという説だ。
仙台真田家は江戸時代を通して、旗本の真田信尹(信繁の叔父)の子孫を称していて、信尹の子には「正信」を名乗った人物がいるようです。また阿梅は乱取りされた可能性の方が高いようですね。一方、守信が真田家とは縁もゆかりもない人物だった場合、今度は「じゃあ何で真田信尹の子孫を称したんだ?」ってことが問題になってくるので、ホントややこしんです。
片倉重長は景綱(小十郎)の息子では
はい。
長男です。大変な美形であったと!
初代小十郎は年齢的に高齢であった為に、長男が参戦しました。
大変武勇に優れ、立派な人格で、正妻と幸村の子ども達を大切にしました。
正妻の遺言で、おうめを
正妻に迎えた重長です。
幕府も東北&東北最強の伊達家には それなりにしか詰めよれなかっかたのかも💡
道明寺の戦いで冷静に戦況を見極めて、伊達隊に反撃し、撤退に追い込んだところを見ると、やっぱり堺雅人の幸村がイメージに合うのよね。
確かに、青葉山城を築いた政宗なら、その野望を胸に秘めていてもおかしくはない……かな。
そしてそれ故に、どうしても警戒されていたんだろうなぁ………
政宗自身野心旺盛だったから
水野勝成😍😍👍鬼日向、立花宗茂、西国無双👍真田幸村堺雅人👍
14:29
伊達みきおさんに似てますね
祖先が同じだからですかね?
伊達政宗とは直接関係ありません。
真田信幸のが有能定期
ちなみに、仙台藩士の真田家と柴田朝意は婚姻でつながっているんですよね(※朝意の姪が片倉守信の妻)
どの大名でも、跡継ぎは徳川の息子を押しつけられるから。真田も本家は(秀忠の子)保科正之の子孫。信之はそれを予測してお通の方娘と次男を結婚させ、真田勘解由家を創り血筋を残した。
仙台在住の者ですが、自分の高校の先輩がまさしく「真田さん」末裔である可能性が高いです。
白石城歴史探訪ミュージアムで、阿梅姫と片倉重長のシアターがありますが、阿梅姫役の女の子がとにかく滅茶苦茶可愛い。
演技は大根ですが、そんなの関係ないと言いたくなるぐらい可愛い。
白石駅周辺で阿梅姫の萌えキャライラストも見ました。白石の人にとっては今も誇りのお姫様なのでしょう。
姫様が眠る当信寺にも赴き、手を合わさせていただきました。
男系は途絶えてる感じかな?
系図通りなら男系で残っていますね。
元巨人に居た投手の真田裕貴さんは信繁(幸村)の子孫ですね
@@もふもふ-x4p本当だったら凄いよ。
なぜ保護したのかと言えば真偽はわかりませんが
家光の御伽衆をしていた伊達政宗とのやり取りが全てかも知れませんね
「ねえ政宗はおじいちゃんを倒して自分が一番になろうとは思わなかったの?」
「ずっと思っていたさ」
上田市の観光大使を仙台真田家の子孫の方がされてるそうですね
道理で上田城内の歴史資料館の表記が年代問わずに「信繁」「幸村」表記が混在してわけわからなくなってる訳ですね
思い出せば、おまけにXのポストに「幸村じゃないんですか?」ととぼけて凸られた事もありました
じゃあ、狭山北条家も「北条早雲」とやりますか?
やらんですよね、真田家のそういうところが気に食わないんですよ
昌幸の時から人食わせようとしてくるのが血なのか、元々海野氏の分家なのにね。
おっと、言い過ぎました