【ゆっくり解説】恐ろしすぎる…『石田三成』の斬首される最後の14日間…
Вставка
- Опубліковано 22 бер 2024
- #ゆっくり解説 #ゆっくり歴史解説 #日本史 #戦国
◆人気の動画はコチラです◆
【ゆっくり解説】【驚愕!】縄文時代の謎!”1万4000年も続いた”理由がヤバい…
• 【ゆっくり解説】【驚愕!】縄文時代の謎!”1...
【ゆっくり解説】【驚愕!】サムライが盾を使わない本当の理由とは?/凄まじい「日本刀」の切れ味を出す最強の使い方とは?【世界最強の剣術】
• 【ゆっくり解説】【驚愕!】サムライが盾を使わ...
【驚愕!!】世界が恐れた”日本の戦国時代”がヤバすぎる…/世界最強国のスペインが日本を植民地化できなかった理由がわかる…【ゆっくり解説】
• 【驚愕!!】世界が恐れた”日本の戦国時代”が...
【ゆっくり歴史解説】最強剣豪で人格クズ!幕末最強の知る人ぞ知る剣豪を解説【仏生寺弥助】
• 【ゆっくり歴史解説】最強剣豪で人格クズ!幕末...
【ゆっくり解説】【衝撃!】出雲大社の正体とは?/謎の巨大神殿はあったのか?/なぜ「しめ縄」が逆なのか?
• 【ゆっくり解説】【衝撃!】出雲大社の正体とは...
【ゆっくり解説】首切りを3回も耐える「高橋お伝」がヤバい…/なぜ山田浅衛門は一発で仕留めなかったのか?
• 【ゆっくり解説】首切りを3回も耐える「高橋お...
【閲覧注意!!】号泣…生き地獄すぎる『会津戦争の女性たちの悲惨な最期』がヤバい…【ゆっくり解説】
• 【閲覧注意!!】号泣…生き地獄すぎる『会津戦...
【ゆっくり解説】【日本恐ろしすぎ!】モンゴルが日本を欲しがった本当の理由とは?/鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ元寇前夜を詳しく解説!【元寇・文永の役】
• 【ゆっくり解説】【日本恐ろしすぎ!】モンゴル...
【ゆっくり解説】【日本人が怖すぎ!!】世界が恐れた「鎌倉武士」がヤバすぎた…/なぜ重装弓騎兵だったのか?【元寇・文永の役・弘安の役・蒙古襲来】
• 【ゆっくり解説】【日本人が怖すぎ!!】世界が...
【驚愕!!】縄文時代に老人がいない理由がヤバい…これはガチで眠れなくなる…【ゆっくり解説】
• 【驚愕!!】縄文時代に老人がいない理由がヤバ...
【閲覧注意!】謎の超美少年…信長が愛しすぎた”森蘭丸”がヤバい…/森蘭丸の生涯と信長の知られざる関係とは!?【ゆっくり解説】
• 【閲覧注意!】謎の超美少年…信長が愛しすぎた...
【ゆっくり解説】【衝撃!】未だ解明不可能!”日本刀が作れない理由”/切れ味抜群の日本刀がヤバすぎる。
• 【ゆっくり解説】【衝撃!】未だ解明不可能!”...
【驚愕!!】ヤバすぎる”戦闘集団「隼人一族」”とは何者なのか?【ゆっくり解説】
• 【驚愕!!】ヤバすぎる”戦闘集団「隼人一族」...
◆シリーズはコチラです◆
『室町時代』シリーズ
• 室町時代
『鎌倉時代』シリーズ
• 鎌倉時代
『江戸時代』シリーズ
• 江戸時代
『平安時代』シリーズ
• 平安時代
『戦国時代』シリーズ
• 戦国時代
『幕末』シリーズ
• 幕末
『古代』シリーズ
• 古代
『日本軍』シリーズ
• 日本軍
『近代史』シリーズ
• 近代史
小早川秀秋も400年後まで裏切り者なんて言われるとは思わなかっただろうな。
人は一代、名は末代という言葉がありますよね😮
いやいや素晴らしいコメントに
素晴らしい返信だ‼️😳
@@user-hx5ml4yf6s
ほんとそれ!!
経緯はどうあれ東西どちらの味方に付くかが歴史の分岐点だったとは思わなかっただろうな
最後まで武士道を貫いた石田三成様は素晴らしい
村人を思い自ら出頭する優しさも、多くの人に慕われた この人の人柄が よくわかります。
*最初から負けは決まってなかったわ、数は全然いい勝負してた適当なこと言うなや*
@@daihuku494
そうだよね。
真田のお陰でもある秀忠の遅参も大きい。
けど島津義弘に不信感を与えてしまったのは痛い。
関ヶ原合戦直前までは勝ち目は十分にあったと思う。
とんでもなく大昔の伝説のようだけど、400年前と言われるとそこまで昔ではない気がする今日この頃。
TBSのドラマ関ヶ原を思い出した。「昔、茶会があった」から始まる三成と刑部の友情を描いたシーンは号泣したよ。三成=加藤剛と刑部=高橋幸治の演技も素晴らしかった。大谷隊の最期も感動ものだった。
司馬遼太郎の原作を当時の名優たちを余すところなく総動員し
歴史背景、各人の内面の描写や繰り広げられる権謀術数まで
忠実に再現した民放の制作とは思えないほどの超大作でしたね
私は伏見城での家康と鳥居元忠との別れの場面で感涙しました
時折、DVDを観返しています。
「三成の擁護は的外れですよね〜
・世は未だ戦国なのに
武を持たない(実戦経験が殆ど無い)三成 。
・“血で血を洗う”戦場で功名出世をした
秀吉配下の諸大名を文官三成如きがコントロール出来る筈が無い。」
“三成は家康に天下を奪う下地を提供した
自己顕示欲男(俺様が1番豊臣を思って居る)”
どの戦国大河ドラマより、素晴らしいドラマだったと思います。
石坂浩二の朴訥なナレーションも最高でした。
京都の立本寺にある島左近のお墓参りに伺った事があります😢
三成に再三家康暗殺を進言しており絶好機は何度かあったのにね
「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近と佐和山の城」
とも言われてましたね😊
「恐ろしすぎる」は不適切に思う
刑部(ぎょうぶ)です!おさかべではありません。
家康が一番家臣に欲しがった
男と言われるだけはありますね
江戸幕府の運営の仕方も
三成のやり方を参考にしてるらしいですし
三成の死に涙を流したとも
こういう心情ややりとりを
考察できる歴史はやはり奥が深くて好きです
そのせいか家康は三成の子孫を優遇してますよね。
福島正則とのやりとり、今は亡き蟹江敬三さんで脳内再生される
その後の小早川秀秋のやりとり
はものすごくスカッとしましたw
わああ!!!!
超絶、分かりみが深いです!
蟹江敬三さんの福島正則は本当にハマり役でしたよね!
何のドラマだろ?
葵三代
因みに、黒田長政は山下真司さんな。
違う書では
『何を言うか!上様とは 豊臣秀頼公だけだ!』と書いてありました。
西軍派及び秀頼崇拝者の私には涙が出るほどの言葉です。
41歳若いし無念だったろうけどダラダラ生きてる人生より輝いてるなぁと羨ましく思った
天下をわける戦で400年後まで名を残したんだからこの上はあるまい
ダラダラ輝かない人生を生きられる幸せの方がいいわ。
18:59 現代日本では「痰」は呼吸器から出る膿のことだが、東洋医学で「痰(または痰飲)」は水分の代謝が滞って体に溜まった余分な水分から発生するものです。
これは下痢を起こしたり、体が重だるくなるなどの症状を起こします。呼吸器からの痰も症状の一つですが、三成が警戒したのは下痢などの症状でしょう。
実際三成は逃亡中に下痢に苦しんでいたらしいですし。
俗に、三成腹というものですな。
三献茶に繋がる話ですな!
今の発展途上国レベルの下痢でしょうから、確かに警戒してもおかしくないですね。
しりませんでした。有難うございます。
彦根出身ですが地元では三成を今でも信仰している方々も多くいらっしゃいますね。(佐和山三成会)
生前の三成は地元では評判も良かったそうでそれが今でも言い伝えられていると聞いています。井伊さんはなんだかんだよそ者ですからね。
ただ人が良いだけではやはり多くの人を束ねるには厳しかったようで負けるべくして負けたのは納得です。
地元にいる時はよく「信長が存命だったら、関ヶ原の勝敗が違っていたら滋賀県は今どうなっていただろうなぁ」と考える事はよくありました。
藤堂高虎は犬上郡出身なんだったらせめて三成の味方について欲しかった。
甲斐の武田家、信玄信仰と同じです。山梨では今でも信玄公なんです。同じように会津・福島では今でも住人は薩長を恨んでいます。それだけ根深いんです。
『美しき生涯』として宝塚歌劇団でも公演されていました。
ただ敗れた側なので資料が乏しく、演出に苦労されたそうです。
ただ三成の子供達は赦免され重家の子孫は弘前藩の重臣となり続いてるだけでも良いじゃないですか。
信長や秀吉ならおそらく子供達でも許すことはなかったと思いますが、敵である家康公の情の厚さを物語っていると思います。
藤堂高虎の生涯は幕末の津藩の佐幕・勤王の変わり身の速さに「さすが高虎の藩」と揶揄されましたね(笑)
歴史好きですけど、結局、勝ったほうに都合が良いようにできてますもんね
でも、もっと現場の人のことも、分かってあげれたら、そもそも秀長が生きてたら
こっちのほうでなく、東京のほうが街になっていったのは、間違いなく関ヶ原のせいなので、私も、学生の頃、同じこと思いましたよ!
豊臣秀長が長生きしていたらこうはなっていなかっただろうなあ…。
晩年の秀吉の暴走を止めてくれただろうからね。
それが家康の異様としか思えない星の強さよ。大老でも五寸で渡り合えたのは小早川隆景だけだけど、隆景も先に死んだからね
秀長がいないあと、三成が秀次の切腹を思いとどまらせるだけの手腕があったなら家康もうごけなかっただろう。
秀長というと中村雅俊を思い出す
@@user-ts2he3gy4b全くこう思う。秀次への継承を首尾よく行っていたのだからこれを中継ぎとし、秀頼が成人してから家督を移す遺言をするなどしていれば、歴史がどう変わっただろうかと思う。
後世、水戸光圀が三成の事を忠義の臣と誉め讃えている事からも、三成の清々しい生き様が容易に想像できるし、歴史上最も有名な敗軍の将かも知れない。負け戦とわかって無かったのは、幸村や土方歳三、楠木正成とは違うところ。
幸村は負け戦と分かっていたのですよ。ことごとく豊臣家中に進言した最善策を却下され、戦況は悪化、徳川軍に追い詰められていったことを想像すると、到底自分の能力では助からない馬鹿者に足を引っ張られ、負けは早々と覚悟していたのだと思います。組織の責任者、軍の将官が無能だと絶対にうまくはいきません。
@@user-pv2ew5qk4v 冬の陣で外堀を埋められた時点で幸村は負けを覚悟したと思います。散り際が美しく実を取るよりも名を残したとも言えます。三成の場合捕えられはしたが、惨めさを微塵も感じさせない最後で、これもまた潔い死にざまと思います。
小早川秀秋は裏切る事は大谷吉継は織り込み済みだったらしいです
大谷吉継は主力の大部分を小早川秀秋の軍勢に対峙していた
大谷吉継にとっての本当の誤算は小早川秀秋に対峙させていた主力が裏切ったため
大谷吉継の部隊が総崩れになった
実際小早川秀秋を討ち取る寸前までいってましたからね。
小早川シフトの脇坂、赤座、朽木、小川と言った連中が裏切るとは大谷刑部も予想できなかったんでしょうね
石田三成と大谷吉継の友人関係に関する一次資料はないと言われてますよね。
資料に見える三成の親友格は真田信之だったとか聞いたことあります。
密書を捨てずに極秘扱いで隠すよう命じて、結果、明治維新まで、三成の密書が残ることになる。
昔、伏見桃山城で三成と信之の書簡を見たよ
内容は覚えてないんだけど真面目同士仲が良いんだなあと思った覚えがある
会津征伐に向かう大谷義継がわざわざ佐和山に訪れていたり、他の史料には"石田、大谷雑説みたいな事書いてあるから、ある程度仲は良かったみたいだね。
三成が柿を断った時、柿を差し出した
東軍の兵は「首を斬られるのに身体の
心配しても仕方がないだろう」と笑った
そうだが、後にこの話を聞いた家康は
「死ぬ間際まで望みを捨てないとは、
さすがは三成、武士の鑑だ」と三成を
誉め称えたそうです。
英雄は英雄を知る。まさにこの事ですね。
「三成の擁護は的外れですよね〜
・世は未だ戦国なのに
武を持たない(実戦経験が殆ど無い)三成 。
・“血で血を洗う”戦場で功名出世をした
秀吉配下の諸大名を文官三成如きがコントロール出来る筈が無い。」
“三成は家康に天下を奪う下地を提供した
自己顕示欲男(俺様が1番豊臣を思って居る)”
家康にとって“三成を持ち上げる=その三成に勝利した家康を持ち上げる“だけの話ですよね〜
@@user-rh5mb9ur8qさん
この言葉には続きがあり
平宗盛公とはまるで違う御仁だ。
と言うのが続いてます。
ホントですかね。この手の話しは盛ってあることが多いような気がしますので。
平宗盛の情けない命乞いは正直ダメ過ぎたな・・・あれが無ければせめて息子は助かったかもしれないのに。頼朝があまりにも情けなすぎて激怒しちゃったからね。
三成さん、やっぱりすごい誠実な方ですね。憧れます。
これほどの人物に生涯忠誠を誓わせるほど
秀吉ってやっぱり凄い人物だったんでしょうね。
幕末で長州や薩摩といった旧西軍が中心になって徳川を滅ぼしたのは感慨深い
徳川幕府がなくなった後、政府機関の象徴として五七桐が使われるのも色々考えさせられますね
家康は毛利と島津を叩き潰しておくべきだったね
豊臣家も使用した家紋?ですよね。
感慨深いです。
島津はともかく関門海峡を毛利に抑えさせておいたのは愚策だよね。
忠義の人よなあ。物理的な報酬を約束した家康の方が1枚上手だったか・・・。
柿の話は 痰がからむとかじゃない
胆の毒と昔から胆嚢に柿悪いって言われてるの
黒田長政の調略に呼応し小早川秀秋が松尾山城を占拠、城攻め後詰合戦となり東軍に挟撃ちにされ、さらに外側の毛利を留めたことで勝負あり。宣伝の為に石田三成が毛利と徳川の妥協で全ての主謀にされたという印象が強いんですよね。でもその覚悟は、津軽家等で子孫が大事にされてますし特に当初は認められていたように思います
加藤清正は九州におり関ヶ原決戦には不参加です。西軍決起の主役は宇喜多秀家だった説もあります。佐和山城へ大谷吉継が立ち寄ったのは秀家の決起への加担を三成に説得したという。秀家の出陣のスピードからみても秀家が決起首謀者かもと思います。
九州にいたのに東軍と扱うのは関ケ原の戦を未だに頑なに豊臣家vs徳川家と思い込んでいる人だけ。秀吉利家いなくても家康も毛利輝元も豊臣家の五大老に過ぎなかったから、両者とも単に豊臣家の内紛決着に駆り出されただけ。まあ、考え方それぞれだから好きにさせておけばいいかと
加藤清正は西軍薩摩とバチバチでは?
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
石田三成様の御名を聞くたびに、この言葉が真っ先に浮かびます。
最も好きな格言
陳勝でしたっけ
なんで?
この石田三成さんも尊敬だしこの言葉も好きだけど、つながらない!
野暮ですがどうとるのか、教えて!
言いたいことはわかるけれど三成の志は豊臣家の存続、豊臣政権の継続くらいで
さほど大きな志は感じられないな
自分はフェニックス一輝の顔がちらつく😅
「影武者徳川家康」で「人は感情ある生き物。利に応えねばついてきません」と島左近に言われても、
太閤秀吉の恩義を最期まで貫いた三成は泣けるほど愚直だと思った。
五大老五奉行のほとんどが西軍だったのに負けたのが不思議。
人数的には西軍が有利だったのだろうが、秀頼が総大将にならない時点で三成は諦めるべきだったのではないだろうか。
淀君は家康を信用していたのだろうか
西軍が有利なら三成に任せておけばいいし、幼い我が子を戦場にかり出すことを躊躇しただけだろうね
@@KK-of6hj そもそも家康は豊臣家の命に従わない上杉景勝を討つといって出陣した。三成(ら)はその家康を討とうとした。
つまり豊臣政権内での主導権争いだっただけなので秀頼が動く理由がなかった。
いや関ヶ原の戦いに豊臣は何も関係ないぞ?
っていうか関ヶ原の戦いのときの秀頼何歳?
@@Diveto-vw4iq 関ヶ原の戦いの時、秀頼は満7才でした。当然軍の指揮は取れません。しかし、家康に味方した大名やその嫡男には、もし、秀頼が総大将になっていたら西軍についていた者は少なくないのです。もし、秀頼が総大将だったら、当然西軍が勝っていたでしょう。
当時は41歳でここまでのことを成し遂げて、かつ処刑されてるんですね。随分、人生が濃縮されてた感じがします。
歴史に不朽の名を残す、武士の夢だな
大河ドラマでいつかやって欲しい。深いですね、、
左近の最後の出撃の檄は「命を惜しむな!名こそ惜しめ!治部殿の恩に報いるは今ぞ!」だなw
後になって作られた話もあるから、よほど注意しないと嘘だらけになってしまいます。
一番酷いのは、打首と切腹の区別が出来ていないこと。出した絵は切腹ですよ。
豊臣秀長公あと10年きてたら忠臣治部さんも長生きして、日本の歴史むちゃくちゃ変わったろうと思うよ。
隆慶一郎が短編で書いてた大人の都合で振り回されて育てられた10代の若者が
この期に及んで関白を餌にして誘惑してくる三成や吉継を裏切って
1人前の大名として扱ってくれる家康について何が悪いっていう秀秋についての文章が好き
とても面白く為になる動画でした
城外での晒しや引き回し打ち首は、敵の大将ですから仕方なかったかと・・・。
でも家康は三成の子供たちを殺さなかったんですよね。
最後の小袖の一件と言い、少なくとも人物としての三成のことは相当に評価していたんでしょうね。
間違いなく家康よりも忠義の武士である
福島正則も小早川も加藤清正もその後本人もしくは次代がすぐに改易。
豊臣恩顧の武将は生かさないということだろう。
大津城の攻撃に執着せず、本戦に立花宗茂が関ケ原にいれば、違った展開になっていたのかなと😮
逆に言えば、西軍の大軍を大津城に釘付けにした京極高次の働きが大きかったという事になる。
また東軍も秀忠が真田に固執していなければ東軍も大軍勢を形成したはず。
@@user-zh4fn8ji4z
秀忠は真田に時をかけ過ぎて、関ヶ原に遅参。
こっぴどくパパから叱られたみたいだね!確か、一番東軍で率いた人数は多かったと聞いた事あります。
まぁまず関ヶ原が1日で決着がつくなんて当時誰も想像してなかったし、裏切った者を早々に処罰しないと西軍としてもメンツや規律の問題、また大津城は美濃、近江と畿内を結ぶ要所にある以上、早々に落とす必要性はあったと思う。
そもそも大津城攻撃軍は美濃に向かう予定の軍勢ではなく、京極高次が敵に回った為に大坂から派遣された軍って話もあるし。
まぁ秀吉自身もそうやって織田家に取って代わって天下とったようなもんやし
家康が同じ事しない道理はないわな
状況が違うのがわからないのでしょうか?
@@dontack2577
そりゃまるまる同じ状況なんてこの世にはねぇよ
そんな前提条件までいちいち言わないとわからないのでしょうか?
@@youtubede963
同じことをいいたいですね
@@youtubede963
秀吉の時は単に織田家を形骸化させて、豊臣家にくら替えしただけで、とてもじゃないが天下を奪ったといえる状況じゃない。
まだ長曽我部、島津、北条と群雄はたくさん残ってた。
だから秀吉が統一した後に簒奪した家康とは状況が全く違う。
歴史は浪漫だねえ。
実際に見た人はいないのだから、勝利支配した側の創作が八分だと思えば良いね。
少々訂正しておきたい箇所がある。春日村で村人に迷惑をかけまいとして出頭したのは小西行長の事だと思う(行長自ら出頭した説と村人の通報により捕らえられたという両説がある)。石田三成は春日村から峠を超えて近江にある自領に向かっている。蛇足だが、東本願寺の祖である教如上人が石田三成に追われた際に春日村の村人が洞窟に数如をかくまった。多分村人にとって三成の印象は悪かったと思われる。ついでに言うと宇喜多秀家も春日付近の地侍にかくまわれたが、その後、追手の目をかいくぐって奥方の実家である前田家の京都屋敷に無事送りとどけられている。
三成が落とした杖を家康が拾ってあげたのに感謝もせずに立ち去った逸話好き
石田三成の最後は笛や太鼓で囃し立てられながら刑場まで引き回され罪人として斬首されました、その途中の干し柿の逸話は後世の作り話とも云われます。
この動画は「講談」のダイジェストであって、歴史解説じゃねえなあ
私は友達が居ないので、会社で上下に仲の良い閥の様なもの(別に悪い集まりではなく)を見ると「ああ、こう言うのが集まって大組織になるのだなあ」と複雑な気持ちになります。
移送途中の時にあった柿の話、わかっていた兵士に向かって三成は名言を遺している。
ここらへんのはなしは
へうげもの のおかげで予習できてました。
部下には欲しいが、上司にはなって欲しくないタイプですね。
三成ファンだけど、
それは分かる。
前職の部長が
石田三成そのもの
社長はバカ殿
死亡フラグ立ってる
んだよな〜
「あいつやっちまおうぜ」とかになりそう
7人ぐらいで
黒田長政は官兵衛の息子。さすが曲者
処世術は如水より長政の方が優れていると思う。
朝鮮撤兵で死力を尽くして帰還させた同僚たちに裏切られる三成の気持ちを考えると、、、
不器用な優しさが伝われば、このように感謝されるのに、分かりやすい優しさも有れば。
天地人での三成
あれで私は三成が好きになりました。
あと、滋賀県で一時期流れてた石田三成のcm面白かった。
忠義心ナンバーワン宣言!!
現代人がいろいろ学ぶものは多いのでは?
私情ですが。
20年近く昔に「愛知万博」会場にて某大スクリーン高精細映像システムに半年ついていたのですが。
会場の近所は関ヶ原の古戦場にてその・・・落武者が狙われて場合によっては竹槍で泣。と伺いました。
宿舎で変な夢結構見たの思い出しちゃいました。
ありがとうございます。
歴史なんて全て真実とは限らないし後世に自分たちがいいふうに見せるために残してるものもある けどなにかしらが残ってるということは関係してることだから歴史はおもしろいですよね
黒田長政 如水 水のごとく時を流れられたような。勝負感は 大切。
切腹のイラストを用いるのは紛らわしくないかな。
その時点の時代に生きていない者が、おのおのの 置かれてる状況も分からないまま好き勝手に憶測するのはよくないかもしれないが・・出来るならばもう少し辛抱して たとえ大坂の陣が避けられなかったとしても、 豊臣家のもとで最後のご奉公を全うしてほしかったと感じます。もしかすれば知恵者であったかもしれないので若干の流れを変えることもできたかもしれない。
片桐を追い出すことなく縮小してでも 転封案を受け入れる説得を成して豊臣の家名は残せたかも?とか想像してしまう・・
徳川三代のドラマでありましたね
私はここでのお話の通りならば三成公は素晴らしい人だなと思うけれども
このような人に限って悲しい運命に見舞われるものなのは悲しいね・・・
負けると解っていても戦う決断をしたのか。天晴ですな。
勝利した者によって歴史は創られる、それが事実とは限らない
下手に挙兵などせずに戦をしなければ良かったような気がする。
実務は優秀でも武功が少なかったので豊臣配下の他の武将からは人望がなかったのが悔やまれる。人間としてはとても実直で曲がったことが嫌いだけど不器用って感じですかね。なんとなく東条英機に近い気がします。
東條英機に実直さはないのでそれはおかしい
官僚タイプってことでしょう。
石田三成は家康嫌いで秀吉の恩義に報いるために動いたが、東條英機ら統制派は政治を基盤にして革命を起こそうとした全体主義者=共産主義者だからな。
日本共産党は全体主義=共産主義と認めないが。
どこかの勇者が、敗北とは、傷つき倒れ時ではない。自分を見失った時だ。と言っていた。三成は負けていない。最後まで立派だった。負けたのは小早川だ。
いい言葉だ
こんなエピソードがあったとは 😢
「死刑」は刑法に則った刑罰だから、この件では単に「斬首」が相応しい。
原哲夫さんの影武者徳川家康や左近の描写に沿った内容なので聞きやすかった。
は〜は〜なるほどなるほど思いながら単行本読み返して。
私はへうげものの三成が好きです
陣形の取り方や戦力だけなら西軍優勢だったけどそれだけではないということなんだろう
石田三成は本当に心根の優しい芯が通った男だったと思う
西軍が勝利していれば日本は義を重んじた良い国になっていたのに…
オレの誕生日が10月1日なのはただの偶然だと思うがシンパシーを感じざるを得ない
義 (笑) ねぇ🤔
ゲームに影響され杉だろw
東軍が勝って良かったよ😜
大乱 関ケ原(漫画)も読むと面白い。冒頭で天下への野望とか豊臣への忠義とか歴史小説で当たり前のように描かれていることを「当時者達にとってはそんな夢想にふける暇なんかなかった」として、三成も家康も天下大乱を防ごうと必死にあがく様子が描かれている。立場や来歴の違いによるすれ違いにより、余計にこじれて大乱へと歩んでしまったとも。
忠義の人ではあるけど、この人の手紙やエピソードを見ると、正論厨のクソ真面目の頑固者。あと空気読めない上に目上の人への態度も悪いから全方位から嫌われるのも分かる。
自分が関ヶ原で大将やると言ったときには親友の大谷吉継にすら「お前嫌われてるからやめとけ」とマジレスされるレベルで周りから嫌われてた。何なら関ヶ原で豊臣恩顧の将が家康についた理由が「三成が嫌いだから」というのが結構いるレベル。中でも妻を殺された細川忠興は殺意ガンギマリで石田勢に集中して襲い掛かっている。
これが豊臣家の没落へ繋がるのだから嫌われすぎるというのも考えものである。
有能だけど人望がない典型。
石田三成は、大名ではなく、奉行です。家康は大名なので、ある意味、下克上とも言えるかと。
19万石の佐和山城主が大名じゃないって、あんた大名の定義わかっている?
知ったかぶりはよせ。
佐和山の大名である事には変わらんぞ。家康とは桁が違いすぎるけど🥺
石田三成は1番好きな武将。
秀吉は良い部下を持ったね。
三成は家康と戦うのを早期に諦めて秀頼の参謀or政治顧問として1615年前後まで生きながらえていれば…と思う。淀殿の暴走を止められたはず。
大野治長や片桐且元より優秀だし。
上杉が家康の背後から襲っていれば・・・
ここ最近、景勝は素晴らしい人物だったという風潮があるがやはり結局は爪が甘かったんですね
立派な人物、そして最期だと思います。
長男病没でなくて正継正純いたな長兄
わずか19万石の三成が、250万石の家康と対等な戦いを仕掛けた武勇は評価されるべき。
もし島津が奮闘、小早川が裏切らず、輝元も参戦してたら、勝敗はひっくり返っていた。
逆に秀忠の参戦が間に合っていたら、東軍はもっと早く圧勝。
勝負なんて時の運、一発勝負の結果がその後の日本の歴史を大きく変えた事には、ちょっと違和感を覚える…
小早川秀秋が西軍に付くはずないのになあ
色々知ると家康、秀吉より三成、勝家の方を尊敬してしまう
SHOGUNが公開されてる中、改めて見るとまた違った視点があって面白い。
忠臣蔵では吉良も悪役一杯に配せられてるが、領民から慕われてたとか。光成もそういうポジションだったな。。
光成も立派だよ。小早川秀秋は大谷の言葉通り3年以内に亡くなってるんだね。
裏切者の末路はどの時代も同じなんだな。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。
吉良さんと三成とでは決定的な違いがあります。三成は戦争に負けたので悪者になりましたが、吉良さんは戦争で負けた訳ではなく、当時は戦争も無いので犯罪被害者です。
でも、もし石田三成が勝ってたら家康を躊躇なく斬首してただろうから、本人も覚悟してたはず。
どこまでが史実なのだろう
三成に過ぎたるもの
佐和山の城に島の左近
西軍派の私は佐和山と聞くだけでなぜか泣けてきます
単純に当時の力を比べると
三成が確か20万石位で奉行で
家康は250万石位の大老。
この2人の喧嘩と見たら
普通は家康に付くと思うよ。
家康に付いて上杉征伐に同行した
大名の殆どが東軍側になったが
京に残った大名は割れた。
それも土壇場での裏切りとなれば
人数、陣取り見て後世の人が
何故負けた?と思うのも
無理は無い。例え引き分け程度の
戦に終わっていても徳川本軍の
秀忠が無傷なのは諸説有ると思うが
家康の深謀遠慮と見る方が
スッキリするのは私だけかな?
現実的には戦の後の世界を
想像すれば家康を取るよ。
義理に縛られたか、夢を見たか
単に家康嫌いが西軍に集まり
現実的かつ後世を考えた大名は
東軍に付いた。可哀想なのは
裏切り者として東軍に付いた
大名やろな。現代まで汚名が
残った。
石田三成には成人した兄がいますが?
木工頭正澄
きちんと調べて動画出そうな
まだ存命だったねねはどんな気持ちだったんだろうなぁ
福島正則、ひたすら株を下げているな
やっぱ三成いいわ
好き
あの〜三成の兄は早死していませんよ
石田弥治郎の事じゃね?
石田正澄の事だろう。
兄の正澄がいたよね。三成は寺に預けられてる位だから跡継ぎ候補とも違うような。。。
三成が家康ほっといたら豊臣家安泰だったってシナリオあんの?
ない
現代に置き換えても一言無謀に尽きるね
3:19 不覚にもメガホン持った女の子が三成に見えてしまったw
石田三成はなかなかの武将であったことはたしかであったが家康があまりにもすごすぎた。
400年前の物語、これだけの武将が名を連ねる。
400年後、変わらず彼らの名は残るだろうが、現代の人物はいったい誰が教科書に載ったり、語り継がれるのだろう。
歴史上、語り継がれる政治家すらいない。
徳川のせいで小物の悪役扱いされるのつら
実は毛利がメインで三成は巻き込まれただけだとか小早川はずっと家康に近かったとか、
いろんな話が出て来てるけどどこまでが真実なんだろうな。
真面目な忠臣が義のために立ち上がって敗れたって物語の方が魅力的だけどリアルな話も知りたいよな。
唐入り時の武断派との軋轢という致命傷も秀吉に脳を焼かれてたからいける気になっちゃったw
まさに高貴なる敗北です
「影武者徳川家康」を読んで俺の中の石田三成評価が変わった