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80年代のこの時代、大学生を中心とした一大旅行ブームだったと思います。青春18切符による長距離鉄道旅行者、バイクブームでのミツバチ族(モトトレインなんてのもありましたね)国民宿舎やユースホステル、ライダーハウスが流行して、駅で寝泊まりしたり、函館、青森、室蘭、苫小牧、大洗などのフェリーターミナルはキャンセル待ちのキャンプ村と、その客をアテにした露店がありましたからね。世の中全てが明るく上向きで、若者が浮かれて遊んでいても、将来は安泰という謎の安心感があったものでした。
僕のこだわりの中では昭和61.11で終わっていましたが、年齢的にまだ青春時代を謳歌できた頃でどこに行っても楽しかったと思います。周遊券を使って長期旅行する人たちと知り合い、別れ、また別の夜行で一緒になる。日本全体が遊び場だったように思います。その後海外にも行くようになりますが、北海道ワイド周遊券時代の感覚はどこに行っても得ることができませんでした。
急行丹後にあさしお懐かしいです。客車列車では並河駅や吉富駅など止まらない列車もありました。
そうですね。気動車列車しか停まらない駅(主に交換設備がない駅)を通過する様子が、「客車の方が格上」に思えましたね。
現代の列車で、乗り鉄しても、何だか物足りないんですよねこの時代がやっぱり良かったな
そう思います。特に長い編成の客車列車の後ろから眺める編成が楽しかったですね
中学生の時京都から出雲市行きの普通客車に乗って、出雲市から夜行のだいせんに乗り換えて大田市まで帰った思い出があるな。あの当時は客車は当然旧客車でだいせんはオハネフ10だったかな?急行寝台客車が連結してあったな。
京都から昼間の出雲市行きから夜行に乗り換えたとなると、急行「さんべ」ですかね。
3:08で堂々と映る「キハ47 1105」の文字。当該車両は翌1988年に非冷房のままウグイス色+白帯の新塗装を纏った上、シートモケットを従来までの青色からベージュとしてさらに黒い縦縞模様を入れたタイプへ変更しました(同僚の「キハ47 1024」改め現在の「キハ41 2003」も同様)。なお同車はその後ワンマン化・バス用冷房装置設置(2つ同時に実施されたわけではない)等を経て播但線寺前以南電化と同時期に「キハ41 2005」号車に改造され、単行運転が可能な構造に変更されています。
このキハ47の成れの果てがキハ41ですか。キハ40ならドア位置も汽車っぽいのていいですが、キハ41は無理矢理の運転台がとうも気持ち悪くてだめですね。
@@user-tabiichiro 現在のキハ41 2005への改造にあたり、キハ47 1105時代にはなかった便所兼洗面所と切妻式運転台等が追加設置されています。これも断面が食パンにそっくりであることからいわゆる「食パン」スタイルの一つです。
旧客が全廃された直後くらいですかね。時刻表で客レとわかっても、50系や12系でガッカリしていた時代を思い出します。いまじゃその50系でさえも、懐かしがられてもてはやされる車両になりましたからねぇ。9割以上が有人駅だった山陰本線の小駅も、昭和60年頃までには半数以上が無人駅になりました。この当時のカラーフィルムによる写真は珍しくもないですが、動画は数少ないためアップ感謝です。
ありがとうございます。京都口でいえば旧客全廃から2年後になります。福知山以西はその翌年まで残っていました。この頃は旧客がなくなったショックで腑抜け状態で乗っていました。どれだけ乗っても不完全燃焼の感が拭えなかったです。
この贅沢な普通列車に乗って、京都学園大学まで通ってました👍
贅沢でしたよね。毎日が旅のようでしたね
1970年代に城崎温泉に行ったとき、この路線はキハ58系急行の天下だった。キハ80系特急は少し贅沢という印象。城崎駅構内には青色と茶色の客車で停留しており、「古き良き日本」のローカル色満載の駅だった。
山陰本線は昭和60年まで食堂車付きの「まつかぜ」もあり、長距離鈍行、急行あり、素晴らしい路線でしたね
@@user-tabiichiro 当時気づかなかったのですが、「あさしお」も食堂車が連結されていたみたいです。当然1本は舞鶴・宮津線経由で天橋立を経由していましたので、その車窓を眺めながら、食事ができたという事なのでしょう。この時の印象が強くて、キハ58=温泉列車というイメージが、その後自分の頭に残ってしまいました。
長大編成に客車列車が懐かしいこの時代に戻りたいですこの頃はまだまだ山陰線活気がありましたね
今の2両編成が基本と比べ重厚感があり「列車」ってこうだ!という感じでしたね
この頃は京都口でさえまだ活気があったというか、特に住宅密集地の馬堀~園部間は通勤通学需要が保津峡旧線時代でも一定数あったため、長大編成でもほぼパンパン状態でした。
私もこの時代に生まれていて、客車列車に多く乗れて良い経験になりましたもう一生乗る事が出来ないので
そうなんですよね。この時代、時刻表のダイヤ改正を見るたび「あー終わった」と思い続け、早30年になります。ロングテールのグラフのように終わり続けている気がします
お座敷列車という言葉忘れてました流行りましたねあの事故は衝撃的でした
色んな鉄道管理局が独自のお座敷列車を作っていましたね。客車改造が多かったので機関車牽引というのが良かったです
この頃は、普通列車でも車内販売でカニ寿司が買えました。今よりずっと余裕が有って、心豊かな時代だったと思います。
vilolet666 ありがとうございます。その通りですね。京都からの普通列車でも車内販売がありました。また鳥取行き普通列車の中でも車内販売があり、動画に残っています
@@user-tabiichiro 車内販売は原則として優等列車優先で行うというルールでしたので、「普通列車のくせに、こんな贅沢なことをしてよかったのか。」と思ったりもしました。
rhscm989 長距離普通列車はその辺の通勤電車より格上に見えましたね
日本を代表する列車と言っても過言でない東海道新幹線で車内販売が消えるとか、国鉄時代を知るものとしては只々ビックリ仰天。
全くです。昔は普通列車にも車内販売があったんだよというと、「いまも快速にあるよ、やまぐち号とか」と言われそうです。
見とれてしまいました。
ありがとうございます
当時、大学の通学で乗ってました。まだあきっぱなしのドアの客車で、白熱灯、扇風機がくるくるとゆっくり回っていました。デッキには手動のブレーキの大きな車輪のようなものが床からでてました。最後尾から流れいくレールを見るのも旅情がありました。なつかしいです。
旧型客車の頃ですね。末期の旧客動画もアップしておりますので、そちらも見ていただけると懐かしく感じていただけるかと思います。ua-cam.com/video/JOYo0oe_83U/v-deo.html
当時、客車列車に乗っていましたが懐かしいです✨☺️長編成が良いですね。今は客車列車の旅が殆んど出来ないため、奥出雲おろち号に時々乗り鉄して昔の汽車の旅を思い出しています。
あの列車はほとんどの客はトロッコにいるので落ち着いた旅ができますね
普通列車でDD51に12系や50系が長々と編成を連ねて走る様は壮大に感じます。もしタイムマシンがあったらこの時代に行って「懐かしの汽車の旅」を体験してみたいですね(^O^)/
そうなんです。あの頃はまだ普通列車に「汽車」感が残っておりました。
駅の桜って、どの駅もそれぞれ良さがありましたね。思い出しました。
ありがとうございます。並川の桜も保津峡の山桜も良かったですや
客車列車で長大編成が行きかう京都口は良き時代でしたね。機関車とスハフから離れた位置に座ると、ジョイント音だけが奏でる世界にどっぷりと浸かれて最高でした。
客車は止まった時の静寂さが最高でしたね。それと発車の時の振動。どれもこれも懐かしい。電車にはない魅力ですね
@@user-tabiichiro そのとおりです 客車列車は引き出しが上手な人は ほぼ無衝動ですがそうでない人はしばらくしてからドカンと衝動与えて列車を引き出すので運転操作技術がよく分かるのも客車列車の特徴でした
特に現在の「嵯峨野線」の愛称区間にあてはまる京都~園部間はロングレール化された後押しもあって、ジョイント音はまったく聞かれなくなったほか、木製かつ正真正銘の枕木まで見られなくなってしまいました(園部以北は電化区間かつトンネル断面改修済みであっても随所に定尺レールとジョイント、さらに正真正銘の木製枕木がまだ残っている)。
こういうディーゼル機関車と客車の編成を全廃させてしまったのは本当に惜しい事です。画的に圧倒的に「バエる」し、ちょっとでも珍しいものがあると撮り鉄が押し寄せる時代ですから一日一往復でもいいからどこかの区間に残しておけばそれだけで鉄道ファンへの訴求力になると思うんですけどね。多くの鉄道ファンにとってピカピカに磨かれたSLなどは眼中になく、こういう朽ち果てそうなものにこそ魅力を感じるのですが…。
願わくば馬堀側も旧線と接続させて日に何本か旧線経由で走らせて欲しいですね
私が高校生の時です。私が旅に目覚めたのは20歳頃ですが、山陰本線では既に客車の姿はありませんでした。しかし、現在も城崎温泉より先では国鉄ディーゼルカーはまだ残ってますし、山陰本線も米子を境に長いブランクで東半分、西半分と別けてしか乗っていないので完全に乗り通してみたいと思います。(青春18きっぷだと途中で1泊となりますが。)
山陰はいまもキハ40系が残っているので、最後の砦として楽しめますね
JR各社から魅力的な新型車両が次々登場する一方で、夜行列車や長距離鈍行もまだまだ健在だった今思えばこの時代の鉄道がいちばん面白かったですね
2088nissy 客車と夜行列車が汽車旅のベースですね。18きっぷの使い勝手も良かったですね。
当時は現在の円町や太秦はおろか、梅小路京都西駅すらありません(当時の二条駅の駅舎として実際に使われていた建屋は移築され、現在の京都鉄道博物館の出口兼ミュージアムショップとして活用されています)。もちろん特急・急行停車駅の二条で接続する地下鉄東西線すら未開業で、同駅から市街地へは路線バス頼りの時代がずっと続きました(それでも一応、当時は嵯峨駅前を名乗っていた現在の嵐電嵯峨駅が、国鉄時代から1994年まで嵯峨を名乗っていた現在の嵯峨嵐山駅への最寄り駅として機能し続けており、そんなに不便さは感じませんでしたが)。
JR移行すぐは大体横一列でしたが5年ほど経ってから少しづつ特色が表れました 今にして思えば西日本は415系800番代に会社の方向性や特色が表れていますね
懐かしいです!国鉄からJRになった間無しの頃青春18きっぷで旅に出た時代を思い出します!
18きっぷ一枚でも十分旅気分が味わえましたね
貴重な映像ありがとうございます。まだまだのんびりした時代でしたね。懐かしい。
JAL1092h ありがとうございます。客車ののんびりした雰囲気は旅情を感じましたね
ほとんど人が乗っていないのに、何両も列車を走らせるところに国鉄時代名残りのユルさを感じます。でも、そこが味わい深かった。
国鉄時代は「最も混雑する時点」JRは「最も空いている時点」を基準としているようですね。
客車列車の旅って良いですね。線路のジョイント音と窓を開けてカーブ時に見える先頭の機関車、ディーゼルエンジンの音、におい。全てが懐かしい。
引っ張られるだけなので、乗り心地もいいですしね。基本DCより長いというのもよかった。
ただ、夜間に至っては客車であろうと気動車であろうと保津川沿いの渓谷美が暗闇に包まれてしまうため、その分眺望が犠牲になってしまっていたようですよね。そんな事情から現在のトロッコ列車は夕方以降走らせていません。
懐かしいです!青春18きっぷで四国や東京行った思い出があります!山陰線で大田市まで行った記憶があります!
客車列車は編成が長くて空いてるイメージがありましたね
昔の都市圏以外の路線は、冷房車がほとんどなかったのが辛かった。稀に冷房付きのキハ58が来た時の感動は神レベルではなかった。今は低燃費かつ冷房車だらけで環境にも快適性にも神レベルだが、その分、駅と町の賑わいは元気がなくなった。駅を降りるとシャッターの売店がお出迎え、改札を出るとシャッター街がお出迎え・・・を見るにつけ、こちらも空しくなり元気がなくなるので、駅には降りずに列車だけを楽しんでいる。
和田山あたりの衰退は激しいですね。駅の売店もなくなり、駅前商店街はなくなり、駅から離れたところにイオンがある。
12系と50系はどの映像を見ても素晴らしいです 発車する際の汽笛吹鳴 ブレーキ緩解音 全て遠い記憶ですが鮮やかによみがえって来ます
客車鈍行で全国を旅できたのが夢のようですね。通勤電車では旅にならないです。
懐かしい時代の映像、ありがとうございます。
客車の本数も両数も多く圧巻でしたね
DD51は福知山機関区でしたっけ、昔から思っていたのですが、今とは違って汽笛は優しい音ですね。
ありがとうございます。DD51の1100番台後半くらいからホイッスルの音が甲高くなっているように思います。保津峡で甲高い汽笛を聞くと、「あ、今日は1193か1197だな」と思いました。
昔福岡から寝台にのり東京まで。眠っているとピーっと汽笛が聞こえてた。今も寝ながら画像を観ていると周りの景色が通りすぎ汽車に乗っている気分旅行している気分です。音が素晴らしい。撮影下さっているひとありがとうございますやっぱり乗った経験がないとわからないですよね🙏
ありがとうございます。その時代を思い出すということができるのは、また違った楽しみ方を持っているという事ですね。求めても2度と戻ってこない時代です。自分自身も社会もその他もろもろも。
長大編成で、空いていて、客車列車ばかりで最高ですね!この時代に18キップ旅してみたかったです。
僕も戻りたいです。戻ったらもう、帰ってこないと思います
今日の青春18きっぷシーズンはダッシュや醜い椅子取りゲームなどで殺伐としているだけに普通列車でものんびりできないのが残念です。
@@Yoshin-Sashizume おはようございます。今の山陰本線では嵯峨野線の愛称が付く京都~園部間を除けば残りの園部~幡生間ならびに綾部から北東へ分岐する舞鶴線ではどこもかしこもワンマンカーだらけです。
城崎以西に181系気動車を使った普通列車が何本か運転されていた事があり私も18きっぷで何度か乗りに行きました。でも、まぁ今から思えば何て贅沢な時代だったんだろうなぁ~ と感慨深く思いながら拝見いたしました!
hiro5861 まつかぜがなくなり、城崎どめの北近畿になったためその先の客の利便性を考え、キハ181で運転していた快速ですねー。あれも今走っていたら、間違いなく「神列車!」と呼ばれますね。
非常に懐かしい映像ありがとうございます。子供の頃は普通に日常だった光景は今や遠い昔のように感じます。長編成の客車、キハ47系、特急「あさしお」、急行「丹後」等々見慣れた列車がいとおしいです。このときちょうど私は大学に進学して京都を離れましたが、それから数年の内に嵯峨野線が電化されて電車が走るようになりました。当時はあのもっさりとした動きが電車のキビキビした動きになって「おおっ、速い!!」と感動しました。電化による恩恵というものを肌で感じた瞬間でした。しかし時が経つにつれて客車や気動車ののんびりとした空間が思い出されるようになりました。あれだけのろいのろいと文句を言っていたのに・・・・・。ノスタルジーと言ってしまえばそうなんでしょうが結局無い物ねだりなのかもしれません。山陰線の城崎温泉以西ではまだキハ47系が走っていますが、私としては懐かしい列車ですがいつも利用している方々にとっては古くさい列車をどうにかしてほしいと思っているのかも。人間ってやはり身勝手なものだとちょっと感じました。でも当時の山陰線の状況がよく分かるいい映像だと思います。大きく変わったところ、あまり変わらないところいろいろありますがそれを比べるのも一興ですね。個人的には「あさしお」と「丹後」はやっぱり好きですね。子供時代に北近畿山陰方面に行くときよく利用していましたから。昔の京都駅山陰線ホームも懐かしすぎます!!
mario loyce ありがとうございます。僕は近所ですが、沿線ではなかったので、毎回のんびり感を楽しみに来ていました。新線切り替えとなり、亀岡までなんと近くなったことか!と驚きましたが、旅を楽しむには城崎より先まで行かなくてはならないので、昔は良かったなーと無責任な事を言っています
懐かしく拝見しました。このころ厳密には国鉄末期頃は山陰本線利用機会が多く、鳥取へは夜行「山陰」や急行「白兎」をよく利用しました。当時の山陰本線は急行主体のダイヤでしたよね。学生だった私には財布に優しい急行や夜行普通列車でした。
砂防堰堤 ありがとうございます。末期ですが、「白兎」は別にアップしています。山陰はビデオを始めた頃には廃止されており、動画は残せませんでした。京都から乗れたので、一番身近な夜行列車でした。小学校の頃、スキーに行くのによく山陰を使って、鳥取から若桜線の始発に乗り継いで行っていた事を思い出しします
saboさん>急行専従路線と言えば、舞鶴線もお忘れなく(同線は1980年10月改正で特急「あさしお」1・8号の1往復が宮津線を経由する関係上、西舞鶴駅に出入りしていただけで、隣の東舞鶴駅に出入りする優等列車は1985年3月改正で特急「あさしお」2・11号の1往復の乗り入れが叶うまでは急行「丹後」「わかさ」のみ)。
25:51で京都から残業帰りのサラリーマン達を満載したキハ47と交換する馬堀=あと約35分で京都に到着。前にもカキコした通り、同駅~園部間は京都市内への通勤通学圏の一つで、特に朝ラッシュ時の京都行きならびに夕方ラッシュ時以降に京都を出発する普通列車は、サラリーマンや学生達で結構賑わっていたそうです(何しろ人混みの激しい京都市内を避けて郊外に住宅を設けてそこから通う、いわゆる「ドーナツ現象」が国鉄時代から既に始まっていた)。26:57 夜行「山陰」の成れの果てだった福知山行き最終列車と交換する丹波口。飲み会ならびに忘年会1次会帰りはこれにとどめを刺す(氷結やトリスハイボール等を片手に車内でプチ2次会)。
2016年搭嵯峨野老線時 對山陰線更近距離接觸 認識,更希望有機會再到風光明媚的古都拜訪 ?! 🤩🤩🥰🤩🤩
新冠病毒即将结束,希望你能再次访问
@@user-tabiichiro :謝謝你的邀約!😍😍😍
改めてこの当時の映像を見ればキハ47の2両は嫌ですけど それを除けばすべてまた見たい列車です 一日中見ていて飽きないこの当時の列車はやはりいい!
ありがとうございます。自分でも動画で確認するまでキハ47の2両の存在を忘れていました。とはいえ基本的に長編成で短距離の乗車でも旅を楽しめましたね
丁度知り合いが園部にいて、50系(もしかしたら12系かも)客車に乗って訪ねていったのを覚えています。 保津峡も本当に良い景色でした。
ありがとうございます。旧線時代の保津峡を客車で通ると旅をしている気分が盛り上がりましたね
ガラガラいうディーゼル音、排ガスの香しい香り…。やっぱ非電化路線は最高です!
非電化時代の園部駅や、懐かしい!特急「あさしお」が通過していた頃かな?急行「丹後(丹波?」しか停車しなかったなぁ!
この時代は急行「白兎」格上げの「あさしお」があり、園部も一部止まるようになったと記憶しています。と、ここまで書いて時刻表を確認したら、あさしお7号(もと白兎)と11号が園部停車していました。
客車がいっぱい繋がってますねぇ。幸せだった時代です。
noraneko7ひとり旅 僕自身も若くなんでもできる気がしました。
凄い。冒頭のDD51-1192は、2020年の所属は宮原支所。まだまだ現役です
そうですよね、毎日向日町で目にします
飽きの来ない動画でいいですね。
takeshi m 評価ありがとうございます😊
古き良き時代、最高です。タイムスリップした気分でした。
JK ありがとうございます😊感情移入できるような作品を目指します
この頃までの山陰線は本当に良かった駅舎も情緒あふれて旅してるって感じ今の山陰線本当につまらない 旧型客車たまには走らせてくれ^_^お婆ちゃんがよく鈍行列車って言ってた
そうですよね。機関車にひかれた客車こそ、汽車を感じます
くまおの友達さん>今の山陰線本当につまらない>いいえ、必ずしもそうだとは言い切れません。京都~園部間の複線化(2010年3月13日に完成)と京都~城崎温泉間の電化・高速化(1986年11月1日に福知山以西が先行的に完成したのを手始めに、1996年3月16日に全区間完成)、さらには舞鶴線電化(1999年10月2日完成)の相乗効果もあって、北部エリアから京都市内がより身近になったような気がします。さらに嵯峨野線の愛称が付く京都~園部間では特に馬堀以西で保津峡付近がまだ旧線だった頃から宅地化が一気に進んだだけあってかなりの需要があるため、通勤・通学客で賑わう朝夕にはそれなりの本数が走っており、221系を8両編成にすることなどで混雑を捌いています(非電化時代にはキハ47形を最大10両編成連結したことも実際にあった)。
園部~綾部間電化後の単線区間では、電化と同時に片面ホームとして後付け設置された鍼灸大学前ならびに現在も方向別で振り分けられている立木を除いて、通過列車の通る線路の役割が変わり、特急列車は原則として「一線スルー」側の線路を通過するように改められました。このため「右側通行」の駅も多数生まれました(要するに停車時間の長い列車は原則として「一線スルー」でない側に停車しており、例えば昼間の日吉に限らず、朝9時台序盤もしくは18時台序盤の安栖里に行けばそれが見られる)。
通過線の固定も気になりますが、海側から1番線と呼ぶように改められたのも違和感ありますね
@@user-tabiichiro そういえば思い出したのですが、舞鶴線電化までごく普通の地平駅だった綾部も(もちろん出入口は南側の1ケ所だけで、ホーム間同士は単に地下道で結ぶだけの構造だった)、現在の橋上駅舎に改築された際(同時に南北自由通路ごと併設)にそれまでの1番線と3番線の位置関係が逆転しています。さらに東舞鶴でも1996年7月の高架化で留置線すら持たない現在の単なる島式ホーム1面2線にリニューアルされた際、やはりそれまでの1番線と2番線の位置関係が逆転しています(地平駅時代は海側の線路が1番線だったが、それが高架化と同時に2番線に変更される)。
合理化が始まる前ですかね18きっぷで旅をするには最高な列車ですねただ地元民が早くウチにも新しい汽車を導入してくれ!と言いたくなる気持ちもわかる様な動画でした
米虎 ところが実際のところ、新車が来ると、短編成で座れなくなった事に気がつき、苦情が殺到したと当時の新聞は伝えています。
@@user-tabiichiro 富山や広島でも同じ事が起きてますね新車や合理化も必要ですが一気にやるとやはりトラブルが起き利用者も混乱しますね
米虎 この30年、新車導入と短編成化はセットになってるので、どんどん座りにくくなってますね
@@user-tabiichiro せめてラッシュ時は増発くらいできないものか?と思います私はのんびりと旅がしたい時は18きっぷ期間を外していつもしてますそっちのほうが空いててJRにもたくさんお金を落とす事ができますからね
米虎 それもいいですね。僕は都会(東京、大阪)からの接続が悪い列車を選んで乗ってます。途中泊まる必要がありますが、ガラガラで快適な昔のような旅ができます
5:38 この交換駅は山家駅ですね。
そのようですね。線形をみたら山家が正しいと思います
お2人さん>仰る通り、その山家で正解です。園部~綾部間電化の際に従前までの京都方面行きだった線路が一線スルー化されて現在の上下本線(逆に従前までの福知山方面行きだった線路は上下副本線に格下げされ、主に停車時間が長い方の列車が優先的に使用)となっており、特急列車は原則としてそこを通過します。
色々懐かしい。綾部駅に旧型客車がたくさんとまってたのを覚えています。
zenrin これですか?ua-cam.com/video/s1oih9x_U8A/v-deo.html
客車普通列車は編成が長くてもコストはあまりかからなかったんですよね。加速は劣りますけど見直されるべきだと思います。
そうですね、特にラッシュ時の輸送力は評価されるべきと思います。
確かにあれも「神列車」の一員だったはずです。それは急行「丹後」4号から折り返して7号に化けるまでの間合い運用として京都を10時38分に出発する園部行き131Dと、その折り返しで12時13分に園部を出発する京都行き142Dの1往復です。いずれもグリーン車ごと連結しての運用だったので、「グリーン車には回送扱いのため、ご乗車できません」というアナウンスを当時の駅員や車掌も親切かつ丁寧に案内して下さっていましたよ。
rhscm989 10:38園部行きってキハ58でしたか?9:08発の米子行きに乗れない時乗ったのが10:35位発のキハ47だったと思うのですが、いつからか変わったんですかね?
1988年3月13日ダイヤ改正の時点ではキハ58になっていましたよ。京都駅で生で見ましたので。それ以前のダイヤでは定かではありませんが。
rhscm989 僕の情報は昭和53年位でした。
儲け重視の民営化は都会では良いが、地方はインフラとして国内格差を縮小と言う点では、赤字覚悟の公営で無いと益々地方は疲弊する。明治時代にどうして鉄道を国営化したかと考えれば、明治時代の官僚の方が慧眼でしたね。JR九州なんか外資株主様が儲からん鉄道を何とかしろと言うてます
どんぶりレンジャー その通りですね。国鉄の価値は中央と地方の格差を埋めるため、均質なサービスと直通列車を提供してきたことです。それがいつの間にか儲かる都市部輸送ばかりになり、私鉄との差別化が図れなくなりました
民営化後のでかいJRロゴ懐かしい
今は車両デザインで国鉄と差別化しているので不要なんでしょうかね
懐かしい。この頃、京都から但馬まで帰省するのに、各駅停車の鈍行乗り継いでたなあ。12月31日の夜行列車なんて、ぎゅうぎゅう詰めだったよな。だって、お金ないから、特急なんてとてもとてもw働いて給料上がって、やっと急行、特急に、1月1日夜中にに京都のどこかのお寺か神社で初詣して、それから・・・車買ってからは、いつでも移動できる車に・・・でも、たまに、のんびり鈍行で旅したい、と思うことがある。(時間ないけど)
HAL HOR 12/31の夜行とは出雲市行きの「山陰」ですね。帰省の頃は乗ったことがないので、そんなに混んでいたとはしりませんでした。
12系普通列車、白帯が残る車両でないと何となく損した気になって移ったものだった。
「新型客車(50系)」も遠い過去のものになってしまいましたね。もしも、夢が叶うなら寝袋andエアマットでEF58や62が牽く急行荷物列車に乗ってみたかったです。
長距離急行がなくなってからも、荷物列車のダイヤを見てはワクワクしてました大阪発青森行きの「4031急行荷物列車」なんて乗りたかったですね
私は関東在住ですが、餘部鉄橋の事は鉄道関連の雑誌でよく紹介されていて、いつかは行ってみたいと思っていました。転落事故以来、あの鉄骨剥き出しの橋脚からコンクリートの橋脚?なったのは残念です。動画からも今からするといい時代であり客車列車の編成も贅沢だと思いますが、何かのイベントを企画して客車列車を観たいです。
山陰本線も便利になったのは京都ー園部だけで、そのほかの区間は2両編成で混んでいるだけでなく、乗り換え乗り換えでズタズタになりましたね。
急行丹後キハ58、運転台直後の客扉に鉄格子が残っていた頃の映像ですね、これも懐かしいです。
この鉄格子の正体は、タブレットを受け取る際にガラスが破損するのを防ぐために設けられた「タブレットプロテクタ」のことで、福知山所属の車両には平成に入るまで長いこと残っていましたが、敦賀所属の車両は昭和50年代半ば頃には既に撤去されていました。
宮津線(現京都丹後鉄道)はJR化後3セクに転換されるまでタブレット閉塞が残っていました。急行丹後や特急あさしおなどで宮津線へ入線する優等列車にはタブレットキャッチャーやプロテクターが装備されていました。
@@金澤華 宮津線は運営母体がウィラートレインズに移管されると同時に京都丹後鉄道に名称変更され(但し北近畿タンゴ鉄道は現在でも施設等の保有に携わっているので、社名が消えたり、社名変更が行われたわけではない)、宮津を境に路線名が宮舞線(西舞鶴~宮津間)と宮豊線(宮津~豊岡間)にそれぞれ振り分けられました。
今のJRはせこいしデタラメ売上ばかりで利便性なしやはり国鉄に、戻すべきです。
京都ー園部は本数が増えているので、便利になったのは事実なのですが(面白いかとうかは別として)園部から先はあからさまに不便になりましたね
電化したのは3年後くらいかな?ワンマンで
この後割と早く園部電化がされ客レ全廃になりましたね
豊岡駅の場面、出発指示合図やってる・・・西日本と東日本じゃ全滅、東海は名古屋だけ(函南と大垣は数年前に取りやめ)
出発指示合図とは笛ですか
@@user-tabiichiro 13:13頃に階段付近の白色灯と「ブー」と鳴ってるブザー音が出発指示です。ホームに終日駅長が居るのは今や米原や姫路ぐらいでしょうか。
@@mcgtrgrand5125 あ、ありましたね
並河駅って意外に駅舎のある方が後に出来たんだなw
もとともは新幹線が置いてある方のみでしたね
嵯峨~馬堀間複線化と同時に2面2線にリニューアルされて現在の姿になって以降は、住宅地の中に取り囲まれたような佇まいです。
2:45~並河駅懐かしいですね。駅前のチャリンコが(笑)ボウタイしたJKも今頃は50前の麗しきご婦人になっておられるでしょうね。 多分、当時の聖家族高校生だと思います。駅舎も、下り線側に変わってしまってます。その代わりに、0系新幹線とDD51が静態保存してありますね。 0系は頭のみの保存てすが・・・。
かわたけ 並河駅はすごく変わりましたね。今は複線電化。駅も対向式に変わってますね。こののんびりした雰囲気がすきでしたが。
客車列車の各停は味があるなぁ。
lolita patentattorney 発車時のゆっくりした加速、止まっている時の無音。それを普通列車で楽しめたいい時代だったと思います
Rapierさんへ>「客車列車の各停」と本当は言いたいところなんですが、実際には山陰本線京都~福知山間で並河・吉富・高津の3駅、福知山線全線で草野・南矢代の2駅、舞鶴線~小浜線全線で淵垣(舞鶴線は同駅のみで、次の7駅はすべて小浜線に属する)・三松・勢浜・若狭有田・藤井・気山・東美浜・西敦賀の計8駅を通過していた列車が圧倒的に多かったため(特に舞鶴線~小浜線の8駅はすべて1960年3月から1964年6月にかけてに後付けで開業している)、どちらかと言えば「快速のようで快速ではない、各停ではない普通列車」としてのイメージが強かったそうです。
神列車てか絵になる時代ですね。TVの火サスとか土ワイとかでも、travel mysteryがこの頃多かった。2時間ドラマは令和になり完全に過去のものとなりましたがやはりtravel mysteryの舞台になりうる、列車自体が過去のものになった、実に残念だがそうだと思います。travel mystery西村京太郎氏も鉄道mystery諦めただのmystery小説にShiftされたそうです実に残念だ。
今のどこからみても同じ電車と比べると、実に味のあった時代だと思います
あお1色で車端部がロングになった12系客車も、なかなかいいですね。
Mr. NOZOMI あれはあれで見た目旧客のようでもありいいですね
Mr.NOZOMIさん>それが当時流行っていた「近郊化改造」。金沢支社各所に配置されていたキハ28・58(必ずしも全車両に施工されたわけではない)はともかく、475系にもピーク時の混雑緩和を目的としてそれぞれ施工されたほか、1990年度下半期には福フチ所属のキハ58 1113・1114・1116・1117・1138/キハ28 3004・3010・3016・3018・3020の計10両にもワンマン改造と同時に施工されましたが、これらは乗務員室直後の乗降扉から数えて側窓3枚分をロング化しただけにとどまりました(同時にこの部分の荷物棚を撤去し、吊り手を新設)。
やっぱり客車はいいですね。走行音がたまらない❗
江本真理 ですよね。エンジン音のないジョインと音だけが伝わるのがいいです。
江本真理さん>おはようございます。それとは対照的に、当時客車の停車できないいわゆる「戦後生まれの気動車駅」が京都・福知山近郊に複数以上存在しました。
う、羨ましいです…
お若いのですか
旅一郎 学生です。生まれる前の過去に戻ることはできないので今は今の列車で旅を楽しむしかありませんが、魅力的な列車ばかりで羨ましくなってしまいました。
べーこへ そうなんですね。昔が楽しかったのは自分が若かったからという理由もあるかと思うのですが、こうして動画で残すと、年齢分を差し引いても、やはり楽しいと確認できますね。
@@こへるにくす 僕も旧線時代の嵯峨~馬堀間の風情をしっかりと観察することに加え、京都~福知山以西を普通(客車・気動車どちらでも構わない)でもいいからもっとじっくりと堪能しておけばよかったと後悔しています。今の列車でしたら、別の動画で前面展望(梅小路京都西駅開業後、但し園部~福知山間はワンマン)をご用意いたしております。
タイトルに誘われて拝見させて頂きました。懐かしい映像で当時を思い出します。私も青春18きっぷが初めて発売されたときから数回利用しました。時刻表を調べ、東京駅から大垣夜行に乗って岡山伯備線、米子から夜行の山陰乗って京都、関西本線回って豊橋まで向かい、飯田線80系普通列車で辰野へ。最後は中央本線夜行新宿行きと、まぁ鈍行列車を乗り継いで車中3泊の鉄旅をしました。今思うと凄い旅ですが(笑)、一筆書きの鉄旅も昔の話ですね。長文失礼いたしました。
いささん 18 きっぷ黎明期は最も楽しい時代でしたね。長距離のガラガラの鈍行が縦横無尽に走り、夜行はいっぱいあり、それこそ、 18 きっぷシーズンは羽根の生えた鳥になった気分でした。
12系客車、50系客車、47系気動車、58系気動車、82特急型気動車…これだけでもお腹いっぱいでした。何よりも台風で消失した餘部鉄橋の勇姿を見れたのが嬉しかった貴重な映像をありがとうございました(^^)
634彩豪さん>82系特急形気動車ですが、残念ながら1982年7月1日の伯備線電化を反映したダイヤ改正で「あさしお」「はまかぜ」からそれぞれ撤退し、「やくも」の381系電車化で余剰となった181系特急形気動車に「まつかぜ」2・3号ともども置き換えられ、以後は1985年3月14日ダイヤ改正まで「まつかぜ」1・4号に就くだけとなってしまいました。あと58系気動車で運転していた急行「白兎」ですが、こちらも福知山線全線電化等を反映した国鉄最後のダイヤ改正で特急「あさしお」6・7号に格上げされ姿を消してしまいました(こちらは全区間特急の4・9号とは異なり鳥取~米子間は上下とも快速として運転)。
今は京都口の山陰本線は221系の4両それもリニューアル車で座席数が減らされたどうしようもない車両本当にJR西日本は客を無視した車両ばかり作る。
我が孝 あの椅子を減らした改造は嫌ですね。通勤時補助シートが使えないので、実質座席減少で、あれがきたら腹が立ちます
@@user-tabiichiro 運がよければ223系2連にも京都~園部間で乗れるチャンスはあるはずですよ(ただ朝夕など混雑時は補助シートは利用できませんが)。
JR東日本の車両に比べればJR西日本の車両は豪華ですよ、本当関東の車両はクソばかりです。
山陰線と言えば、大阪行くのに博多からまつかぜに乗っていったな〜親は新幹線で行けばパッパ着いてええのに何で汽車行くん?アホやな 言われたけど、30年以上前だがハッキリ覚えてる
ゆいまーる書記長 博多まつかぜ、憧れの的でした。大阪駅で銀河の20系と並ぶ。発車アナウンスで「博多行き」まるで非電化時代の山陽本線特急のようでした。
神列車とは少し誇張でしょうが…その少し前の国鉄最晩年期が神列車ぞろいでは?キハ80系の特急にキハ58(キハ55系)の多層建て急行、オハ35とオハ61系の旧型客車の普通列車、24系の食堂車付き「出雲」、10系寝台付きの「山陰」にとどめが20系寝台の「だいせん」。
K TANAKA 本当はそう思います。旧客が旅情の最高点だと思っていました。食堂付き博多行きまつかぜなども風格が素晴らしかったですね。動画が撮れなかったのが残念です
5:41 山家駅の誤りではないでしょうか。立木駅は相対式2面2線のはずですよ。いかにも関西地区の山陰本線では比較的のどかな部位に入ります。
そうかもしれません。訂正したいのですが、いったん動画を削除して再アップする必要があるので、ご容赦ください。同じ動画を使って別の編集をする際に訂正いたします。できるだけ事実を伝えたいので、間違いはご指摘いただければ幸いです。
今もあまり変わりない豊岡駅ですが14:08の国鉄文字の白い駅名版もまだ生存していますね。
今でも豊岡にいくと、あの駅名板を見て懐かしいと思いますね
伸びしろを感じる時代ですね。
まだまだ余裕もあった頃ですね
神列車?ちがいます。神動画ですよ。私も同時期、87年の夏に乗り鉄旅をしまして秋田から新潟まで50系、豊岡から出雲市まで12系の普通列車に乗ったり、臨時の20系「あさかぜ」で帰京したりして貴重な旅行をしました。なので、神列車はよ〜くわかります。
babyblue17857 ありがとうございます。この頃は神だらけでしたね。今が悲しすぎて泣けてきます
立木(山家?)駅で多くの乗客がいる。今では考えてられないのでは?快速化して通過する列車もある位だ
立木と書いてましたが、島式ホームなので山家ですね。
おお!これはまだ保津峡が旧線の頃ですね。今となっては貴重なキハ40、47の旧エンジン。通勤時間帯、ここぞとばかりにフル回転ですね。一度は廃線になって草むした線路が再び整備され、観光路線として運行されているのは関係者の方の並大抵ではない努力の結晶だと思います。非電化=ローカル線というイメージがあるので今この動画を見るとローカルな風景にも見えますが、長い列車がたくさん運転されている様子から、今も昔も都市近郊の路線なのだな、と思います。
多岐 そうですね。朝ラッシュの長編成の客レが20分おきにやって来る様子は、ローカル線ではなかったです。
当時まだ京都~福知山間が電化なされていなかった為でしょか?綾部と園部が客車の寝床だったみたいですね。
京都にはそれほど止めておくスペースがなかったのと、朝京都に向けて通勤輸送する必要があったからでしょうね。
@@user-tabiichiro 現在福知山に電車区がありそして京都には京都運転所と車掌区が設置されて園部は留置線のみになっている園部~福知山間の電化高速化の際寝床を再編したんでしよか?
側線に余裕がある駅や操作場や機関区や客車区に工場には国鉄末期には余剰になったものの制度習慣上簡単に廃車解体出来ない車両が多数疎開留置されていました。留置されている車輌はEC/DC化で職を失った旧型客車や軽量客車にディーゼル機関車に初期ディーゼルカーが主な車両でしたが、二条駅にはかつて花形だった九州夜行を罷免された583系が居たりして。機関車などはまだ製造後10数年と若い個体も居ました。今なら余剰車輌を民間や海外へ売却して第二の人生を歩むことも出来たでしょうが、当時は「国有資産」であったのでDD54のように用途廃止なったから即解体などしようものなら「無駄使い」として国鉄幹部が国会にて革新系政党から糾弾され吊し上げられたものでした。
車内の吸い殻入れが懐かしいですね。
denwani denwa そうですね。細かなところを見ると、キハ47にもついていました。
しかしながらいくら吸い殻入れを備え付けていても、「京都~園部間は終日禁煙」、園部以北は7~9時と17~19時が禁煙タイムにそれぞれ指定されていたはずですよ。あと、キハ47形1000番台には備え付けられておりませんでした。
その吸い殻入れ、金沢支社管内は一足先に1992年12月1日に駅設置の喫煙コーナーを除いて役目を終えるとともに終日禁煙化され、1993年3月18日からは福知山支社管内もそれに倣いました(但し当時はどちらも普通列車のみがその対象で、後に特急列車までもが2009年6月1日から全列車終日禁煙化される)。
11:00から先の客車の中の様子が懐かしいです。女子高生がチラッと映って、話し声が聞えています。私も88年卒ですので同級くらいだと思います。今と変わらず、若い子は楽しくやっていたことがわかります。制服・・・うーんはっきりわかりませんが。。。ひょっとしたら、隣町江原駅の日○高校か?ここは、看護学科があったので、遠距離の通学が多かったです。決してお化粧なんてありえない時です。もしそうだとしたら、江原→豊岡(乗り換え)→城崎またその先・・・・いやぁ、もう全部夢の中の出来事みたいです。。
日○高校なら知り合いの娘さんが通っていました。同じく遠距離でした。動画の高校生も竹野、佐津、柴山あたりからかもしれませんね。この頃には車内の動画も躊躇なく撮ってますが、ビデオ撮影をし始めた頃は、怒られるのではないかと思ってほとんど回せてません。鉄道動画をアップしている人は多いですが、車内や駅の雰囲気をだらだら撮っている人は少ないので、もっと頑張ってたらよかったと思います。
この頃は、普通列車でも駅弁とか買えたりいろいろ便利でしたね。今や特急サンダーバードでさえ、車内販売がなくなってしまって、何とも世知辛い時代なりました。
Candy Candy まったくですね。いまのカラカラに乾いたつまらなさと言ったらありません
JR西日本の在来線特急列車の車内販売は、2015年3月13日限りで全廃されてしまったようです。最後まで残ったのは、京都・新大阪と南紀を結ぶ特急「くろしお」でした。
rhscm989 サンダーバードも同じころでしたね。なくなる直前にコーヒーとドーナツ買いました
@@user-tabiichiro サンダーバード・しらさぎはくろしおよりも半年早く終えているはずですよ。
rhscm989 そうでしたか。しっかり確認してませんでした
7:00ころに白い煙?湯気?のようなものが客車の後ろから出ているのですが何でしょうか?
ms10tai1 蒸気暖房の水蒸気です。客車列車はもともと、蒸気機関車の蒸気を再利用して列車の暖房に使っていました。ディーゼル機関車や電気機関車になっても、機関車には蒸気発生装置が備えらており、蒸気暖房が使われていました。
本当につまらなくなったよな。快速頻発してくれればいいけど、かいぜんされなければ一本でも客車あればなあ。
石井勉 園部から先を何とかしてほしいですね。客レ1本あるだけで楽しみは違うのですが
@@user-tabiichiro 全くです。 無人駅通過の普通でもはしらせてほしいです。
石井勉 並河通過ですね
0系カットモデル保存駅でしたっけ。
石井勉 そうです
神様も随分と安くなったな()確かに希少価値はあるが“神列車”という話ではない再生回数稼ぎありきの煽りタイトルの見本
敢えて今風に迎合してつけたものです。これよりずっと人間寄り?の列車で「神列車」と呼ばれている事に対する挑戦です。
わお
初めまして😄昔の列車を見るのも良いですよね。自分は国鉄車両が好きです。あと概要欄「塩ライナー」ではなく、「ジオライナー」ではないでしょうか。
1050 KZM 昔は思い出の調味料もあり良かったと思えます。塩ライナーは皮肉を込めてそう表現しました。
旅一郎 あ、そうだったんですね(^_^)失礼しましたm(_ _)m
1050 KZM お気づきいただきありがとうござい😊「神」列車に対応して「塩」ライナーです。
今じゃあ窓からカメラをちょっと出すだけでも「迷惑だ」とか「あぶない」とか言われるようになって残念ですちょっと世の中が厳しい気がします....
オープニングは園部から。当時は改札口と京都方面行きホームが同一フロアにあってヒョイと入っただけで京都方面行きに乗れたのに、一転して京都~園部間の電化を機に東西自由通路を併設した橋上駅に(のちにサブの出入口にはビジネスホテル「リーズナブル」も併設)、さらに園部~綾部間の電化を機にメイン出入口側にもう一線敷設されて現在の姿に。どの方向への列車がどのホームから出るのかは一定していません。
rhscm989 改札入って一番線というのが国鉄基本の駅の形でしたね。動線に邪魔がなかったので、乗るという点については便利でした
@@user-tabiichiro そういえば現在の京都駅0番ホームにも同じ事例あり。幸いにも京都タワー側を向いている烏丸中央コンコースと0番ホームは同じフロアなので、ヒョイと入っただけで動線に邪魔されずに特急「サンダーバード」に乗れます。
rhscm989 京都駅はリニューアル後も一番線(0番線)から乗れるのでまだいいですね
@@user-tabiichiro 但し関空特急「はるか」や山陰本線に乗るには改札内に入った後平面フロアを多少歩かされるので困ります。
サムネnゲージかと思った
ちくわのピエロ 模型に見えますか?
旅一郎 光が直射した時の小型カメラのように見えただけです(語彙力)。別にバカにはしてないですよ。
すいません家の端末画質悪いので(笑)
ちくわのピエロ 怒ってないですよ。深度を浅くして模型っぽくみせる技に見えたということかな?と思いました。
こんな非合理的な運用してたらそら赤字になるわな
prevail1978 これでも国鉄末期は単年度黒字だったので、かなり支出を抑えてたようです。
懐かしさでいっぱいで、そういう※だらけだと思ったらその通りだよ。私なんかは10系20系気動車に郷愁を覚えるけど、それを知らないスーツ君などは40系気動車がいいというワケです。私が乗り回すようになった頃には旧客はほぼ全滅状態で、真っ赤な50系客車が全盛でしたが、なにせこのスタイルの列車は遅すぎて使い物にならないんだよ。そりゃクルマや私鉄にフルボッコにされるわけだよ。私は合理化されたことによるメリットの方が大きいと思ってるので、懐かしさは感じるものの、客車スタイルがいいとは思わない派です。例外は夜行列車かな。なにせ、117系の6連が豊岡~福知山を走るとか90年代半ばでもあったくらいで、空気輸送もいいところです。しかも18きっぷシーズンじゃないなら、誰も乗らない車両があったくらいです。実際そういう車両に乗り合わせて驚いたものです。しかも、いかにもキセル乗車を防げなさそうなんだよ。そういう無駄を神と称するなら、その神は鉄道会社にとっては貧乏神でしょう。同じ無駄なら、むしろ90年代まであったワイド周遊券を復活させてもらった方が、私にはありがたい。無論、間合い運用は話が別だ。また福知山線での113系2連化の話が出てますけど、あれは間違いなく国鉄が悪い。ちょうどあの時期に三田市内に大規模なニュータウンが出来ていて、現新三田駅がその玄関口になるということになっていて、どう考えても旅客需要が増大してるのですから。ただ、電車化するのはいいけどお金がなくて車両の都合がつけられなかったという理由もあったんでしょうね。だったら食パンでもいいじゃないかというにしても、大阪という大都市にあの車両を突っ込むのは自殺行為に近いでしょう。せめてサンパチ君です。当時中学生だった私の考えた折衷案は、車両が揃うまでは客車編成も残して快速運用をしたらいいというモノです。ある意味宝塚以遠非電化時代と同じようにしたらよかったのです。
立花蔵人 電化と同時に客車全廃というのは、車両が揃ってないのにイメージをつけるために無理矢理置き換えた感じがしなくもありませんね。おっしゃるようしばらく、特にラッシュ時は長編成の客車を残すべきだった。草津線がそうだったように。所要時間にしても、単線が多かった山陰本線京都口は電化しても、新線付け替え部分のスピードアップをのぞいて、言うほど短縮されてませんでした。
80年代のこの時代、大学生を中心とした一大旅行ブームだったと思います。
青春18切符による長距離鉄道旅行者、バイクブームでのミツバチ族(モトトレインなんてのもありましたね)国民宿舎やユースホステル、ライダーハウスが流行して、駅で寝泊まりしたり、
函館、青森、室蘭、苫小牧、大洗などのフェリーターミナルはキャンセル待ちのキャンプ村と、その客をアテにした露店がありましたからね。
世の中全てが明るく上向きで、若者が浮かれて遊んでいても、
将来は安泰という謎の安心感があったものでした。
僕のこだわりの中では昭和61.11で終わっていましたが、年齢的にまだ青春時代を謳歌できた頃でどこに行っても楽しかったと思います。
周遊券を使って長期旅行する人たちと知り合い、別れ、また別の夜行で一緒になる。
日本全体が遊び場だったように思います。
その後海外にも行くようになりますが、北海道ワイド周遊券時代の感覚はどこに行っても得ることができませんでした。
急行丹後にあさしお懐かしいです。客車列車では並河駅や吉富駅など止まらない列車もありました。
そうですね。気動車列車しか停まらない駅(主に交換設備がない駅)を通過する様子が、「客車の方が格上」に思えましたね。
現代の列車で、乗り鉄しても、何だか物足りないんですよね
この時代がやっぱり良かったな
そう思います。特に長い編成の客車列車の後ろから眺める編成が楽しかったですね
中学生の時京都から出雲市行きの普通客車に乗って、出雲市から夜行のだいせんに乗り換えて大田市まで帰った思い出があるな。
あの当時は客車は当然旧客車でだいせんはオハネフ10だったかな?急行寝台客車が連結してあったな。
京都から昼間の出雲市行きから夜行に乗り換えたとなると、急行「さんべ」ですかね。
3:08で堂々と映る「キハ47 1105」の文字。
当該車両は翌1988年に非冷房のままウグイス色+白帯の新塗装を纏った上、シートモケットを従来までの青色からベージュとしてさらに黒い縦縞模様を入れたタイプへ変更しました(同僚の「キハ47 1024」改め現在の「キハ41 2003」も同様)。
なお同車はその後ワンマン化・バス用冷房装置設置(2つ同時に実施されたわけではない)等を経て播但線寺前以南電化と同時期に「キハ41 2005」号車に改造され、単行運転が可能な構造に変更されています。
このキハ47の成れの果てがキハ41ですか。
キハ40ならドア位置も汽車っぽいのていいですが、キハ41は無理矢理の運転台がとうも気持ち悪くてだめですね。
@@user-tabiichiro
現在のキハ41 2005への改造にあたり、キハ47 1105時代にはなかった便所兼洗面所と切妻式運転台等が追加設置されています。これも断面が食パンにそっくりであることからいわゆる「食パン」スタイルの一つです。
旧客が全廃された直後くらいですかね。時刻表で客レとわかっても、50系や12系でガッカリしていた時代を思い出します。いまじゃその50系でさえも、懐かしがられてもてはやされる車両になりましたからねぇ。
9割以上が有人駅だった山陰本線の小駅も、昭和60年頃までには半数以上が無人駅になりました。この当時のカラーフィルムによる写真は珍しくもないですが、動画は数少ないためアップ感謝です。
ありがとうございます。
京都口でいえば旧客全廃から2年後になります。
福知山以西はその翌年まで残っていました。
この頃は旧客がなくなったショックで腑抜け状態で乗っていました。
どれだけ乗っても不完全燃焼の感が拭えなかったです。
この贅沢な普通列車に乗って、京都学園大学まで通ってました👍
贅沢でしたよね。
毎日が旅のようでしたね
1970年代に城崎温泉に行ったとき、この路線はキハ58系急行の天下だった。キハ80系特急は少し贅沢という印象。城崎駅構内には青色と茶色の客車で停留しており、「古き良き日本」のローカル色満載の駅だった。
山陰本線は昭和60年まで食堂車付きの「まつかぜ」もあり、長距離鈍行、急行あり、素晴らしい路線でしたね
@@user-tabiichiro 当時気づかなかったのですが、「あさしお」も食堂車が連結されていたみたいです。当然1本は舞鶴・宮津線経由で天橋立を経由していましたので、その車窓を眺めながら、食事ができたという事なのでしょう。この時の印象が強くて、キハ58=温泉列車というイメージが、その後自分の頭に残ってしまいました。
長大編成に客車列車が懐かしい
この時代に戻りたいです
この頃はまだまだ山陰線活気がありましたね
今の2両編成が基本と比べ重厚感があり「列車」ってこうだ!という感じでしたね
この頃は京都口でさえまだ活気があったというか、特に住宅密集地の馬堀~園部間は通勤通学需要が保津峡旧線時代でも一定数あったため、長大編成でもほぼパンパン状態でした。
私もこの時代に生まれていて、客車列車に多く乗れて良い経験になりました
もう一生乗る事が出来ないので
そうなんですよね。
この時代、時刻表のダイヤ改正を見るたび「あー終わった」と思い続け、早30年になります。ロングテールのグラフのように終わり続けている気がします
お座敷列車という言葉忘れてました
流行りましたね
あの事故は衝撃的でした
色んな鉄道管理局が独自のお座敷列車を作っていましたね。
客車改造が多かったので機関車牽引というのが良かったです
この頃は、普通列車でも車内販売でカニ寿司が買えました。今よりずっと余裕が有って、心豊かな時代だったと思います。
vilolet666 ありがとうございます。
その通りですね。
京都からの普通列車でも車内販売がありました。
また鳥取行き普通列車の中でも車内販売があり、動画に残っています
@@user-tabiichiro 車内販売は原則として優等列車優先で行うというルールでしたので、「普通列車のくせに、こんな贅沢なことをしてよかったのか。」と思ったりもしました。
rhscm989 長距離普通列車はその辺の通勤電車より格上に見えましたね
日本を代表する列車と言っても過言でない東海道新幹線で車内販売が消えるとか、国鉄時代を知るものとしては只々ビックリ仰天。
全くです。昔は普通列車にも車内販売があったんだよというと、
「いまも快速にあるよ、やまぐち号とか」と言われそうです。
見とれてしまいました。
ありがとうございます
当時、大学の通学で乗ってました。
まだあきっぱなしのドアの客車で、白熱灯、扇風機がくるくるとゆっくり回っていました。
デッキには手動のブレーキの大きな車輪のようなものが床からでてました。
最後尾から流れいくレールを見るのも旅情がありました。
なつかしいです。
旧型客車の頃ですね。
末期の旧客動画もアップしておりますので、そちらも見ていただけると懐かしく感じていただけるかと思います。
ua-cam.com/video/JOYo0oe_83U/v-deo.html
当時、客車列車に乗っていましたが懐かしいです✨☺️
長編成が良いですね。今は客車列車の旅が殆んど出来ないため、奥出雲おろち号に時々乗り鉄して昔の汽車の旅を思い出しています。
あの列車はほとんどの客はトロッコにいるので落ち着いた旅ができますね
普通列車でDD51に12系や50系が長々と編成を連ねて走る様は壮大に感じます。もしタイムマシンがあったらこの時代に行って「懐かしの汽車の旅」を体験してみたいですね(^O^)/
そうなんです。あの頃はまだ普通列車に「汽車」感が残っておりました。
駅の桜って、どの駅もそれぞれ良さがありましたね。思い出しました。
ありがとうございます。
並川の桜も保津峡の山桜も良かったですや
客車列車で長大編成が行きかう京都口は良き時代でしたね。機関車とスハフから離れた位置に座ると、ジョイント音だけが奏でる世界にどっぷりと浸かれて最高でした。
客車は止まった時の静寂さが最高でしたね。
それと発車の時の振動。
どれもこれも懐かしい。
電車にはない魅力ですね
@@user-tabiichiro そのとおりです 客車列車は引き出しが上手な人は ほぼ無衝動ですがそうでない人はしばらくしてからドカンと衝動与えて列車を引き出すので運転操作技術がよく分かるのも客車列車の特徴でした
特に現在の「嵯峨野線」の愛称区間にあてはまる京都~園部間はロングレール化された後押しもあって、ジョイント音はまったく聞かれなくなったほか、木製かつ正真正銘の枕木まで見られなくなってしまいました(園部以北は電化区間かつトンネル断面改修済みであっても随所に定尺レールとジョイント、さらに正真正銘の木製枕木がまだ残っている)。
こういうディーゼル機関車と客車の編成を全廃させてしまったのは本当に惜しい事です。画的に圧倒的に「バエる」し、ちょっとでも珍しいものがあると撮り鉄が押し寄せる時代ですから一日一往復でもいいからどこかの区間に残しておけばそれだけで鉄道ファンへの訴求力になると思うんですけどね。
多くの鉄道ファンにとってピカピカに磨かれたSLなどは眼中になく、こういう朽ち果てそうなものにこそ魅力を感じるのですが…。
願わくば馬堀側も旧線と接続させて日に何本か旧線経由で走らせて欲しいですね
私が高校生の時です。私が旅に目覚めたのは20歳頃ですが、山陰本線では既に客車の姿はありませんでした。しかし、現在も城崎温泉より先では国鉄ディーゼルカーはまだ残ってますし、山陰本線も米子を境に長いブランクで東半分、西半分と別けてしか乗っていないので完全に乗り通してみたいと思います。(青春18きっぷだと途中で1泊となりますが。)
山陰はいまもキハ40系が残っているので、最後の砦として楽しめますね
JR各社から魅力的な新型車両が次々登場する一方で、夜行列車や長距離鈍行もまだまだ健在だった
今思えばこの時代の鉄道がいちばん面白かったですね
2088nissy 客車と夜行列車が汽車旅のベースですね。
18きっぷの使い勝手も良かったですね。
当時は現在の円町や太秦はおろか、梅小路京都西駅すらありません(当時の二条駅の駅舎として実際に使われていた建屋は移築され、現在の京都鉄道博物館の出口兼ミュージアムショップとして活用されています)。
もちろん特急・急行停車駅の二条で接続する地下鉄東西線すら未開業で、同駅から市街地へは路線バス頼りの時代がずっと続きました(それでも一応、当時は嵯峨駅前を名乗っていた現在の嵐電嵯峨駅が、国鉄時代から1994年まで嵯峨を名乗っていた現在の嵯峨嵐山駅への最寄り駅として機能し続けており、そんなに不便さは感じませんでしたが)。
JR移行すぐは大体横一列でしたが5年ほど経ってから少しづつ特色が表れました 今にして思えば西日本は415系800番代に会社の方向性や特色が表れていますね
懐かしいです!国鉄からJRになった間無しの頃青春18きっぷで旅に出た時代を思い出します!
18きっぷ一枚でも十分旅気分が味わえましたね
貴重な映像ありがとうございます。
まだまだのんびりした時代でしたね。懐かしい。
JAL1092h ありがとうございます。
客車ののんびりした雰囲気は旅情を感じましたね
ほとんど人が乗っていないのに、何両も列車を走らせるところに国鉄時代名残りのユルさを感じます。でも、そこが味わい深かった。
国鉄時代は「最も混雑する時点」JRは「最も空いている時点」を基準としているようですね。
客車列車の旅って良いですね。線路のジョイント音と窓を開けてカーブ時に見える先頭の機関車、ディーゼルエンジンの音、におい。全てが懐かしい。
引っ張られるだけなので、乗り心地もいいですしね。基本DCより長いというのもよかった。
ただ、夜間に至っては客車であろうと気動車であろうと保津川沿いの渓谷美が暗闇に包まれてしまうため、その分眺望が犠牲になってしまっていたようですよね。そんな事情から現在のトロッコ列車は夕方以降走らせていません。
懐かしいです!青春18きっぷで四国や東京行った思い出があります!山陰線で大田市まで行った記憶があります!
客車列車は編成が長くて空いてるイメージがありましたね
昔の都市圏以外の路線は、冷房車がほとんどなかったのが辛かった。稀に冷房付きのキハ58が来た時の感動は神レベルではなかった。今は低燃費かつ冷房車だらけで環境にも快適性にも神レベルだが、その分、駅と町の賑わいは元気がなくなった。駅を降りるとシャッターの売店がお出迎え、改札を出るとシャッター街がお出迎え・・・を見るにつけ、こちらも空しくなり元気がなくなるので、駅には降りずに列車だけを楽しんでいる。
和田山あたりの衰退は激しいですね。
駅の売店もなくなり、駅前商店街はなくなり、駅から離れたところにイオンがある。
12系と50系はどの映像を見ても素晴らしいです 発車する際の汽笛吹鳴 ブレーキ緩解音 全て遠い記憶ですが鮮やかによみがえって来ます
客車鈍行で全国を旅できたのが夢のようですね。
通勤電車では旅にならないです。
懐かしい時代の映像、ありがとうございます。
客車の本数も両数も多く圧巻でしたね
DD51は福知山機関区でしたっけ、昔から思っていたのですが、今とは違って汽笛は優しい音ですね。
ありがとうございます。
DD51の1100番台後半くらいからホイッスルの音が甲高くなっているように思います。
保津峡で甲高い汽笛を聞くと、「あ、今日は1193か1197だな」と思いました。
昔福岡から寝台にのり東京まで。眠っているとピーっと汽笛が聞こえてた。今も寝ながら画像を観ていると周りの景色が通りすぎ汽車に乗っている気分旅行している気分です。音が素晴らしい。撮影下さっているひとありがとうございますやっぱり乗った経験がないとわからないですよね🙏
ありがとうございます。
その時代を思い出すということができるのは、また違った楽しみ方を持っているという事ですね。
求めても2度と戻ってこない時代です。
自分自身も社会もその他もろもろも。
長大編成で、空いていて、客車列車ばかりで最高ですね!この時代に18キップ旅してみたかったです。
僕も戻りたいです。
戻ったらもう、帰ってこないと思います
今日の青春18きっぷシーズンはダッシュや醜い椅子取りゲームなどで殺伐としているだけに普通列車でものんびりできないのが残念です。
@@Yoshin-Sashizume
おはようございます。
今の山陰本線では嵯峨野線の愛称が付く京都~園部間を除けば残りの園部~幡生間ならびに綾部から北東へ分岐する舞鶴線ではどこもかしこもワンマンカーだらけです。
城崎以西に181系気動車を使った普通列車が何本か運転されていた事があり
私も18きっぷで何度か乗りに行きました。でも、まぁ今から思えば何て贅沢な
時代だったんだろうなぁ~ と感慨深く思いながら拝見いたしました!
hiro5861
まつかぜがなくなり、城崎どめの北近畿になったためその先の客の利便性を考え、キハ181で運転していた快速ですねー。
あれも今走っていたら、間違いなく「神列車!」と呼ばれますね。
非常に懐かしい映像ありがとうございます。
子供の頃は普通に日常だった光景は今や遠い昔のように感じます。
長編成の客車、キハ47系、特急「あさしお」、急行「丹後」等々見慣れた列車がいとおしいです。
このときちょうど私は大学に進学して京都を離れましたが、それから数年の内に嵯峨野線が電化されて
電車が走るようになりました。
当時はあのもっさりとした動きが電車のキビキビした動きになって「おおっ、速い!!」と感動しました。
電化による恩恵というものを肌で感じた瞬間でした。
しかし時が経つにつれて客車や気動車ののんびりとした空間が思い出されるようになりました。
あれだけのろいのろいと文句を言っていたのに・・・・・。
ノスタルジーと言ってしまえばそうなんでしょうが結局無い物ねだりなのかもしれません。
山陰線の城崎温泉以西ではまだキハ47系が走っていますが、私としては懐かしい列車ですが
いつも利用している方々にとっては古くさい列車をどうにかしてほしいと思っているのかも。
人間ってやはり身勝手なものだとちょっと感じました。
でも当時の山陰線の状況がよく分かるいい映像だと思います。
大きく変わったところ、あまり変わらないところいろいろありますがそれを比べるのも一興ですね。
個人的には「あさしお」と「丹後」はやっぱり好きですね。
子供時代に北近畿山陰方面に行くときよく利用していましたから。
昔の京都駅山陰線ホームも懐かしすぎます!!
mario loyce ありがとうございます。
僕は近所ですが、沿線ではなかったので、毎回のんびり感を楽しみに来ていました。
新線切り替えとなり、亀岡までなんと近くなったことか!と驚きましたが、旅を楽しむには城崎より先まで行かなくてはならないので、昔は良かったなーと無責任な事を言っています
懐かしく拝見しました。
このころ厳密には国鉄末期頃は山陰本線利用機会が多く、鳥取へは夜行「山陰」や急行「白兎」をよく利用しました。当時の山陰本線は急行主体のダイヤでしたよね。学生だった私には財布に優しい急行や夜行普通列車でした。
砂防堰堤 ありがとうございます。
末期ですが、「白兎」は別にアップしています。
山陰はビデオを始めた頃には廃止されており、動画は残せませんでした。
京都から乗れたので、一番身近な夜行列車でした。
小学校の頃、スキーに行くのによく山陰を使って、鳥取から若桜線の始発に乗り継いで行っていた事を思い出しします
saboさん>
急行専従路線と言えば、舞鶴線もお忘れなく(同線は1980年10月改正で特急「あさしお」1・8号の1往復が宮津線を経由する関係上、西舞鶴駅に出入りしていただけで、隣の東舞鶴駅に出入りする優等列車は1985年3月改正で特急「あさしお」2・11号の1往復の乗り入れが叶うまでは急行「丹後」「わかさ」のみ)。
25:51で京都から残業帰りのサラリーマン達を満載したキハ47と交換する馬堀=あと約35分で京都に到着。
前にもカキコした通り、同駅~園部間は京都市内への通勤通学圏の一つで、特に朝ラッシュ時の京都行きならびに夕方ラッシュ時以降に京都を出発する普通列車は、サラリーマンや学生達で結構賑わっていたそうです(何しろ人混みの激しい京都市内を避けて郊外に住宅を設けてそこから通う、いわゆる「ドーナツ現象」が国鉄時代から既に始まっていた)。
26:57 夜行「山陰」の成れの果てだった福知山行き最終列車と交換する丹波口。飲み会ならびに忘年会1次会帰りはこれにとどめを刺す(氷結やトリスハイボール等を片手に車内でプチ2次会)。
2016年搭嵯峨野老線時 對山陰線更近距離接觸 認識,更希望有機會再到風光明媚的古都拜訪 ?! 🤩🤩🥰🤩🤩
新冠病毒即将结束,希望你能再次访问
@@user-tabiichiro :謝謝你的邀約!😍😍😍
改めてこの当時の映像を見ればキハ47の2両は嫌ですけど それを除けばすべてまた見たい列車です 一日中見ていて飽きないこの当時の列車はやはりいい!
ありがとうございます。
自分でも動画で確認するまで
キハ47の2両の存在を忘れていました。
とはいえ基本的に長編成で短距離の乗車でも旅を楽しめましたね
丁度知り合いが園部にいて、50系(もしかしたら12系かも)客車に乗って
訪ねていったのを覚えています。 保津峡も本当に良い景色でした。
ありがとうございます。旧線時代の保津峡を客車で通ると旅をしている気分が盛り上がりましたね
ガラガラいうディーゼル音、排ガスの香しい香り…。やっぱ非電化路線は最高です!
非電化時代の園部駅や、懐かしい!
特急「あさしお」が通過していた頃かな?急行「丹後(丹波?」しか停車しなかったなぁ!
この時代は急行「白兎」格上げの「あさしお」があり、園部も一部止まるようになったと記憶しています。
と、ここまで書いて時刻表を確認したら、あさしお7号(もと白兎)と11号が園部停車していました。
客車がいっぱい繋がってますねぇ。幸せだった時代です。
noraneko7ひとり旅 僕自身も若くなんでもできる気がしました。
凄い。冒頭のDD51-1192は、2020年の所属は宮原支所。まだまだ現役です
そうですよね、
毎日向日町で目にします
飽きの来ない動画でいいですね。
takeshi m 評価ありがとうございます😊
古き良き時代、最高です。
タイムスリップした気分でした。
JK ありがとうございます😊
感情移入できるような作品を目指します
この頃までの山陰線は本当に良かった
駅舎も情緒あふれて旅してるって感じ
今の山陰線本当につまらない 旧型客車たまには走らせてくれ^_^お婆ちゃんがよく鈍行列車って言ってた
そうですよね。
機関車にひかれた客車こそ、汽車を感じます
くまおの友達さん>
今の山陰線本当につまらない>
いいえ、必ずしもそうだとは言い切れません。
京都~園部間の複線化(2010年3月13日に完成)と京都~城崎温泉間の電化・高速化(1986年11月1日に福知山以西が先行的に完成したのを手始めに、1996年3月16日に全区間完成)、さらには舞鶴線電化(1999年10月2日完成)の相乗効果もあって、北部エリアから京都市内がより身近になったような気がします。
さらに嵯峨野線の愛称が付く京都~園部間では特に馬堀以西で保津峡付近がまだ旧線だった頃から宅地化が一気に進んだだけあってかなりの需要があるため、通勤・通学客で賑わう朝夕にはそれなりの本数が走っており、221系を8両編成にすることなどで混雑を捌いています(非電化時代にはキハ47形を最大10両編成連結したことも実際にあった)。
園部~綾部間電化後の単線区間では、電化と同時に片面ホームとして後付け設置された鍼灸大学前ならびに現在も方向別で振り分けられている立木を除いて、通過列車の通る線路の役割が変わり、特急列車は原則として「一線スルー」側の線路を通過するように改められました。このため「右側通行」の駅も多数生まれました(要するに停車時間の長い列車は原則として「一線スルー」でない側に停車しており、例えば昼間の日吉に限らず、朝9時台序盤もしくは18時台序盤の安栖里に行けばそれが見られる)。
通過線の固定も気になりますが、海側から1番線と呼ぶように改められたのも違和感ありますね
@@user-tabiichiro
そういえば思い出したのですが、舞鶴線電化までごく普通の地平駅だった綾部も(もちろん出入口は南側の1ケ所だけで、ホーム間同士は単に地下道で結ぶだけの構造だった)、現在の橋上駅舎に改築された際(同時に南北自由通路ごと併設)にそれまでの1番線と3番線の位置関係が逆転しています。
さらに東舞鶴でも1996年7月の高架化で留置線すら持たない現在の単なる島式ホーム1面2線にリニューアルされた際、やはりそれまでの1番線と2番線の位置関係が逆転しています(地平駅時代は海側の線路が1番線だったが、それが高架化と同時に2番線に変更される)。
合理化が始まる前ですかね
18きっぷで旅をするには最高な列車ですね
ただ地元民が早くウチにも新しい汽車を導入してくれ!と言いたくなる気持ちもわかる様な動画でした
米虎 ところが実際のところ、新車が来ると、短編成で座れなくなった事に気がつき、苦情が殺到したと当時の新聞は伝えています。
@@user-tabiichiro 富山や広島でも同じ事が起きてますね
新車や合理化も必要ですが一気にやるとやはりトラブルが起き利用者も混乱しますね
米虎 この30年、新車導入と短編成化はセットになってるので、どんどん座りにくくなってますね
@@user-tabiichiro せめてラッシュ時は増発くらいできないものか?と思います
私はのんびりと旅がしたい時は18きっぷ期間を外していつもしてます
そっちのほうが空いててJRにもたくさんお金を落とす事ができますからね
米虎 それもいいですね。
僕は都会(東京、大阪)からの接続が悪い列車を選んで乗ってます。
途中泊まる必要がありますが、ガラガラで快適な昔のような旅ができます
5:38 この交換駅は山家駅ですね。
そのようですね。線形をみたら山家が正しいと思います
お2人さん>
仰る通り、その山家で正解です。
園部~綾部間電化の際に従前までの京都方面行きだった線路が一線スルー化されて現在の上下本線(逆に従前までの福知山方面行きだった線路は上下副本線に格下げされ、主に停車時間が長い方の列車が優先的に使用)となっており、特急列車は原則としてそこを通過します。
色々懐かしい。
綾部駅に旧型客車がたくさんとまってたのを覚えています。
zenrin
これですか?
ua-cam.com/video/s1oih9x_U8A/v-deo.html
客車普通列車は編成が長くてもコストはあまりかからなかったんですよね。
加速は劣りますけど見直されるべきだと思います。
そうですね、特にラッシュ時の輸送力は評価されるべきと思います。
確かにあれも「神列車」の一員だったはずです。それは急行「丹後」4号から折り返して7号に化けるまでの間合い運用として京都を10時38分に出発する園部行き131Dと、その折り返しで12時13分に園部を出発する京都行き142Dの1往復です。いずれもグリーン車ごと連結しての運用だったので、「グリーン車には回送扱いのため、ご乗車できません」というアナウンスを当時の駅員や車掌も親切かつ丁寧に案内して下さっていましたよ。
rhscm989 10:38園部行きってキハ58でしたか?
9:08発の米子行きに乗れない時乗ったのが10:35位発のキハ47だったと思うのですが、いつからか変わったんですかね?
1988年3月13日ダイヤ改正の時点ではキハ58になっていましたよ。京都駅で生で見ましたので。それ以前のダイヤでは定かではありませんが。
rhscm989 僕の情報は昭和53年位でした。
儲け重視の民営化は都会では良いが、地方はインフラとして国内格差を縮小と言う点では、赤字覚悟の公営で無いと益々地方は疲弊する。明治時代にどうして鉄道を国営化したかと考えれば、明治時代の官僚の方が慧眼でしたね。JR九州なんか外資株主様が儲からん鉄道を何とかしろと言うてます
どんぶりレンジャー その通りですね。
国鉄の価値は中央と地方の格差を埋めるため、均質なサービスと直通列車を提供してきたことです。
それがいつの間にか儲かる都市部輸送ばかりになり、私鉄との差別化が図れなくなりました
民営化後のでかいJRロゴ懐かしい
今は車両デザインで国鉄と差別化しているので不要なんでしょうかね
懐かしい。この頃、京都から但馬まで帰省するのに、各駅停車の鈍行乗り継いでたなあ。12月31日の夜行列車なんて、ぎゅうぎゅう詰めだったよな。
だって、お金ないから、特急なんてとてもとてもw
働いて給料上がって、やっと急行、特急に、1月1日夜中にに京都のどこかのお寺か神社で初詣して、それから・・・
車買ってからは、いつでも移動できる車に・・・
でも、たまに、のんびり鈍行で旅したい、と思うことがある。(時間ないけど)
HAL HOR 12/31の夜行とは出雲市行きの「山陰」ですね。
帰省の頃は乗ったことがないので、そんなに混んでいたとはしりませんでした。
12系普通列車、白帯が残る車両でないと何となく損した気になって移ったものだった。
「新型客車(50系)」も遠い過去のものになってしまいましたね。
もしも、夢が叶うなら寝袋andエアマットでEF58や62が牽く急行荷物列車に乗ってみたかったです。
長距離急行がなくなってからも、荷物列車のダイヤを見てはワクワクしてました
大阪発青森行きの「4031急行荷物列車」なんて乗りたかったですね
私は関東在住ですが、餘部鉄橋の事は鉄道関連の雑誌でよく紹介されていて、いつかは行ってみたいと思っていました。転落事故以来、あの鉄骨剥き出しの橋脚からコンクリートの橋脚?なったのは残念です。動画からも今からするといい時代であり客車列車の編成も贅沢だと思いますが、何かのイベントを企画して客車列車を観たいです。
山陰本線も便利になったのは京都ー園部だけで、そのほかの区間は2両編成で混んでいるだけでなく、乗り換え乗り換えでズタズタになりましたね。
急行丹後キハ58、運転台直後の客扉に鉄格子が残っていた頃の映像ですね、これも懐かしいです。
この鉄格子の正体は、タブレットを受け取る際にガラスが破損するのを防ぐために設けられた「タブレットプロテクタ」のことで、福知山所属の車両には平成に入るまで長いこと残っていましたが、敦賀所属の車両は昭和50年代半ば頃には既に撤去されていました。
宮津線(現京都丹後鉄道)はJR化後3セクに転換されるまでタブレット閉塞が残っていました。
急行丹後や特急あさしおなどで宮津線へ入線する優等列車にはタブレットキャッチャーやプロテクターが装備されていました。
@@金澤華
宮津線は運営母体がウィラートレインズに移管されると同時に京都丹後鉄道に名称変更され(但し北近畿タンゴ鉄道は現在でも施設等の保有に携わっているので、社名が消えたり、社名変更が行われたわけではない)、宮津を境に路線名が宮舞線(西舞鶴~宮津間)と宮豊線(宮津~豊岡間)にそれぞれ振り分けられました。
今のJRはせこいしデタラメ売上ばかりで利便性なしやはり国鉄に、戻すべきです。
京都ー園部は本数が増えているので、便利になったのは事実なのですが(面白いかとうかは別として)園部から先はあからさまに不便になりましたね
電化したのは3年後くらいかな?ワンマンで
この後割と早く園部電化がされ客レ全廃になりましたね
豊岡駅の場面、出発指示合図やってる・・・西日本と東日本じゃ全滅、東海は名古屋だけ(函南と大垣は数年前に取りやめ)
出発指示合図とは笛ですか
@@user-tabiichiro 13:13頃に階段付近の白色灯と「ブー」と鳴ってるブザー音が出発指示です。ホームに終日駅長が居るのは今や米原や姫路ぐらいでしょうか。
@@mcgtrgrand5125 あ、ありましたね
並河駅って意外に駅舎のある方が後に出来たんだなw
もとともは新幹線が置いてある方のみでしたね
嵯峨~馬堀間複線化と同時に2面2線にリニューアルされて現在の姿になって以降は、住宅地の中に取り囲まれたような佇まいです。
2:45~
並河駅懐かしいですね。駅前のチャリンコが(笑)
ボウタイしたJKも今頃は50前の麗しきご婦人になっておられるでしょうね。 多分、当時の聖家族高校生だと思います。
駅舎も、下り線側に変わってしまってます。
その代わりに、0系新幹線とDD51が静態保存してありますね。 0系は頭のみの保存てすが・・・。
かわたけ 並河駅はすごく変わりましたね。
今は複線電化。駅も対向式に変わってますね。
こののんびりした雰囲気がすきでしたが。
客車列車の各停は味があるなぁ。
lolita patentattorney
発車時のゆっくりした加速、止まっている時の無音。
それを普通列車で楽しめたいい時代だったと思います
Rapierさんへ>
「客車列車の各停」と本当は言いたいところなんですが、実際には山陰本線京都~福知山間で並河・吉富・高津の3駅、福知山線全線で草野・南矢代の2駅、舞鶴線~小浜線全線で淵垣(舞鶴線は同駅のみで、次の7駅はすべて小浜線に属する)・三松・勢浜・若狭有田・藤井・気山・東美浜・西敦賀の計8駅を通過していた列車が圧倒的に多かったため(特に舞鶴線~小浜線の8駅はすべて1960年3月から1964年6月にかけてに後付けで開業している)、どちらかと言えば「快速のようで快速ではない、各停ではない普通列車」としてのイメージが強かったそうです。
神列車てか絵になる時代ですね。TVの火サスとか土ワイとかでも、travel mysteryがこの頃多かった。2時間ドラマは令和になり完全に過去のものとなりましたがやはりtravel mysteryの舞台になりうる、列車自体が過去のものになった、実に残念だがそうだと思います。travel mystery西村京太郎氏も鉄道mystery諦めただのmystery小説にShiftされたそうです実に残念だ。
今のどこからみても同じ電車と比べると、実に味のあった時代だと思います
あお1色で車端部がロングになった12系客車も、なかなかいいですね。
Mr. NOZOMI あれはあれで見た目旧客のようでもありいいですね
Mr.NOZOMIさん>
それが当時流行っていた「近郊化改造」。金沢支社各所に配置されていたキハ28・58(必ずしも全車両に施工されたわけではない)はともかく、475系にもピーク時の混雑緩和を目的としてそれぞれ施工されたほか、1990年度下半期には福フチ所属のキハ58 1113・1114・1116・1117・1138/キハ28 3004・3010・3016・3018・3020の計10両にもワンマン改造と同時に施工されましたが、これらは乗務員室直後の乗降扉から数えて側窓3枚分をロング化しただけにとどまりました(同時にこの部分の荷物棚を撤去し、吊り手を新設)。
やっぱり客車はいいですね。
走行音がたまらない❗
江本真理 ですよね。
エンジン音のないジョインと音だけが伝わるのがいいです。
江本真理さん>
おはようございます。
それとは対照的に、当時客車の停車できないいわゆる「戦後生まれの気動車駅」が京都・福知山近郊に複数以上存在しました。
う、羨ましいです…
お若いのですか
旅一郎 学生です。生まれる前の過去に戻ることはできないので今は今の列車で旅を楽しむしかありませんが、魅力的な列車ばかりで羨ましくなってしまいました。
べーこへ そうなんですね。
昔が楽しかったのは自分が若かったからという理由もあるかと思うのですが、こうして動画で残すと、年齢分を差し引いても、やはり楽しいと確認できますね。
@@こへるにくす
僕も旧線時代の嵯峨~馬堀間の風情をしっかりと観察することに加え、京都~福知山以西を普通(客車・気動車どちらでも構わない)でもいいからもっとじっくりと堪能しておけばよかったと後悔しています。
今の列車でしたら、別の動画で前面展望(梅小路京都西駅開業後、但し園部~福知山間はワンマン)をご用意いたしております。
タイトルに誘われて拝見させて頂きました。懐かしい映像で当時を思い出します。
私も青春18きっぷが初めて発売されたときから数回利用しました。
時刻表を調べ、東京駅から大垣夜行に乗って岡山伯備線、米子から夜行の山陰乗って京都、関西本線回って豊橋まで向かい、飯田線80系普通列車で辰野へ。最後は中央本線夜行新宿行きと、まぁ鈍行列車を乗り継いで車中3泊の鉄旅をしました。
今思うと凄い旅ですが(笑)、一筆書きの鉄旅も昔の話ですね。
長文失礼いたしました。
いささん 18 きっぷ黎明期は最も楽しい時代でしたね。
長距離のガラガラの鈍行が縦横無尽に走り、夜行はいっぱいあり、それこそ、 18 きっぷシーズンは羽根の生えた鳥になった気分でした。
12系客車、50系客車、47系気動車、58系気動車、82特急型気動車…
これだけでもお腹いっぱいでした。
何よりも台風で消失した餘部鉄橋の勇姿を見れたのが嬉しかった
貴重な映像をありがとうございました(^^)
634彩豪さん>
82系特急形気動車ですが、残念ながら1982年7月1日の伯備線電化を反映したダイヤ改正で「あさしお」「はまかぜ」からそれぞれ撤退し、「やくも」の381系電車化で余剰となった181系特急形気動車に「まつかぜ」2・3号ともども置き換えられ、以後は1985年3月14日ダイヤ改正まで「まつかぜ」1・4号に就くだけとなってしまいました。
あと58系気動車で運転していた急行「白兎」ですが、こちらも福知山線全線電化等を反映した国鉄最後のダイヤ改正で特急「あさしお」6・7号に格上げされ姿を消してしまいました(こちらは全区間特急の4・9号とは異なり鳥取~米子間は上下とも快速として運転)。
今は京都口の山陰本線は221系の4両それもリニューアル車で座席数が減らされたどうしようもない車両本当にJR西日本は客を無視した車両ばかり作る。
我が孝 あの椅子を減らした改造は嫌ですね。
通勤時補助シートが使えないので、実質座席減少で、あれがきたら腹が立ちます
@@user-tabiichiro 運がよければ223系2連にも京都~園部間で乗れるチャンスはあるはずですよ(ただ朝夕など混雑時は補助シートは利用できませんが)。
JR東日本の車両に比べればJR西日本の車両は豪華ですよ、本当関東の車両はクソばかりです。
山陰線と言えば、大阪行くのに博多からまつかぜに乗っていったな〜親は新幹線で行けばパッパ着いてええのに何で汽車行くん?アホやな 言われたけど、30年以上前だがハッキリ覚えてる
ゆいまーる書記長 博多まつかぜ、憧れの的でした。
大阪駅で銀河の20系と並ぶ。
発車アナウンスで「博多行き」
まるで非電化時代の山陽本線特急のようでした。
神列車とは少し誇張でしょうが…
その少し前の国鉄最晩年期が神列車ぞろいでは?
キハ80系の特急にキハ58(キハ55系)の多層建て急行、オハ35とオハ61系の旧型客車の普通列車、24系の食堂車付き「出雲」、10系寝台付きの「山陰」にとどめが20系寝台の「だいせん」。
K TANAKA 本当はそう思います。
旧客が旅情の最高点だと思っていました。
食堂付き博多行きまつかぜなども風格が素晴らしかったですね。
動画が撮れなかったのが残念です
5:41 山家駅の誤りではないでしょうか。立木駅は相対式2面2線のはずですよ。いかにも関西地区の山陰本線では比較的のどかな部位に入ります。
そうかもしれません。訂正したいのですが、いったん動画を削除して再アップする必要があるので、ご容赦ください。同じ動画を使って別の編集をする際に訂正いたします。できるだけ事実を伝えたいので、間違いはご指摘いただければ幸いです。
今もあまり変わりない豊岡駅ですが
14:08の国鉄文字の白い駅名版もまだ生存していますね。
今でも豊岡にいくと、あの駅名板を見て懐かしいと思いますね
伸びしろを感じる時代ですね。
まだまだ余裕もあった頃ですね
神列車?ちがいます。神動画ですよ。
私も同時期、87年の夏に乗り鉄旅をしまして秋田から新潟まで50系、豊岡から出雲市まで12系
の普通列車に乗ったり、臨時の20系「あさかぜ」で帰京したりして貴重な旅行をしました。
なので、神列車はよ〜くわかります。
babyblue17857 ありがとうございます。
この頃は神だらけでしたね。
今が悲しすぎて泣けてきます
立木(山家?)駅で多くの乗客がいる。今では考えてられないのでは?快速化して通過する列車もある位だ
立木と書いてましたが、島式ホームなので山家ですね。
おお!これはまだ保津峡が旧線の頃ですね。
今となっては貴重なキハ40、47の旧エンジン。通勤時間帯、ここぞとばかりにフル回転ですね。
一度は廃線になって草むした線路が再び整備され、観光路線として運行されているのは関係者の方の並大抵ではない努力の結晶だと思います。非電化=ローカル線というイメージがあるので今この動画を見るとローカルな風景にも見えますが、長い列車がたくさん運転されている様子から、今も昔も都市近郊の路線なのだな、と思います。
多岐 そうですね。
朝ラッシュの長編成の客レが20分おきにやって来る様子は、ローカル線ではなかったです。
当時まだ京都~福知山間が電化なされていなかった為でしょか?綾部と園部が客車の寝床だったみたいですね。
京都にはそれほど止めておくスペースがなかったのと、朝京都に向けて通勤輸送する必要があったからでしょうね。
@@user-tabiichiro 現在福知山に電車区がありそして京都には京都運転所と車掌区が設置されて園部は留置線のみになっている園部~福知山間の電化高速化の際寝床を再編したんでしよか?
側線に余裕がある駅や操作場や機関区や客車区に工場には国鉄末期には余剰になったものの制度習慣上簡単に廃車解体出来ない車両が多数
疎開留置されていました。
留置されている車輌はEC/DC化で職を失った旧型客車や軽量客車にディーゼル機関車に初期ディーゼルカーが主な車両でしたが、二条駅にはかつて花形だった九州夜行を罷免された583系が居たりして。
機関車などはまだ製造後10数年と若い個体も居ました。
今なら余剰車輌を民間や海外へ売却して第二の人生を歩むことも出来たでしょうが、当時は「国有資産」であったのでDD54のように用途廃止なったから即解体などしようものなら「無駄使い」として国鉄幹部が国会にて革新系政党から糾弾され吊し上げられたものでした。
車内の吸い殻入れが懐かしいですね。
denwani denwa そうですね。細かなところを見ると、キハ47にもついていました。
しかしながらいくら吸い殻入れを備え付けていても、「京都~園部間は終日禁煙」、園部以北は7~9時と17~19時が禁煙タイムにそれぞれ指定されていたはずですよ。あと、キハ47形1000番台には備え付けられておりませんでした。
その吸い殻入れ、金沢支社管内は一足先に1992年12月1日に駅設置の喫煙コーナーを除いて役目を終えるとともに終日禁煙化され、1993年3月18日からは福知山支社管内もそれに倣いました(但し当時はどちらも普通列車のみがその対象で、後に特急列車までもが2009年6月1日から全列車終日禁煙化される)。
11:00から先の客車の中の様子が懐かしいです。
女子高生がチラッと映って、話し声が聞えています。
私も88年卒ですので同級くらいだと思います。
今と変わらず、若い子は楽しくやっていたことがわかります。
制服・・・うーんはっきりわかりませんが。。。ひょっとしたら、隣町江原駅の日○高校か?
ここは、看護学科があったので、遠距離の通学が多かったです。
決してお化粧なんてありえない時です。
もしそうだとしたら、江原→豊岡(乗り換え)→城崎またその先・・・・
いやぁ、もう全部夢の中の出来事みたいです。。
日○高校なら知り合いの娘さんが通っていました。同じく遠距離でした。動画の高校生も竹野、佐津、柴山あたりからかもしれませんね。
この頃には車内の動画も躊躇なく撮ってますが、ビデオ撮影をし始めた頃は、怒られるのではないかと思ってほとんど回せてません。
鉄道動画をアップしている人は多いですが、車内や駅の雰囲気をだらだら撮っている人は少ないので、もっと頑張ってたらよかったと思います。
この頃は、普通列車でも駅弁とか買えたりいろいろ便利でしたね。今や特急サンダーバードでさえ、車内販売がなくなってしまって、何とも世知辛い時代なりました。
Candy Candy まったくですね。
いまのカラカラに乾いたつまらなさと言ったらありません
JR西日本の在来線特急列車の車内販売は、2015年3月13日限りで全廃されてしまったようです。最後まで残ったのは、京都・新大阪と南紀を結ぶ特急「くろしお」でした。
rhscm989 サンダーバードも同じころでしたね。
なくなる直前にコーヒーとドーナツ買いました
@@user-tabiichiro サンダーバード・しらさぎはくろしおよりも半年早く終えているはずですよ。
rhscm989 そうでしたか。
しっかり確認してませんでした
7:00ころに白い煙?湯気?のようなものが客車の後ろから出ているのですが何でしょうか?
ms10tai1 蒸気暖房の水蒸気です。
客車列車はもともと、蒸気機関車の蒸気を再利用して列車の暖房に使っていました。ディーゼル機関車や電気機関車になっても、機関車には蒸気発生装置が備えらており、蒸気暖房が使われていました。
本当につまらなくなったよな。快速頻発してくれればいいけど、かいぜんされなければ一本でも客車あればなあ。
石井勉 園部から先を何とかしてほしいですね。
客レ1本あるだけで楽しみは違うのですが
@@user-tabiichiro 全くです。 無人駅通過の普通でもはしらせてほしいです。
石井勉 並河通過ですね
0系カットモデル保存駅でしたっけ。
石井勉 そうです
神様も随分と安くなったな()
確かに希少価値はあるが
“神列車”という話ではない
再生回数稼ぎありきの煽りタイトルの見本
敢えて今風に迎合してつけたものです。
これよりずっと人間寄り?の列車で「神列車」と呼ばれている事に対する挑戦です。
わお
初めまして😄
昔の列車を見るのも良いですよね。自分は国鉄車両が好きです。
あと概要欄「塩ライナー」ではなく、「ジオライナー」ではないでしょうか。
1050 KZM 昔は思い出の調味料もあり良かったと思えます。塩ライナーは皮肉を込めてそう表現しました。
旅一郎
あ、そうだったんですね(^_^)
失礼しましたm(_ _)m
1050 KZM お気づきいただきありがとうござい😊
「神」列車に対応して「塩」ライナーです。
今じゃあ窓からカメラをちょっと出すだけでも
「迷惑だ」とか「あぶない」とか言われるようになって残念です
ちょっと世の中が厳しい気がします....
オープニングは園部から。当時は改札口と京都方面行きホームが同一フロアにあってヒョイと入っただけで京都方面行きに乗れたのに、一転して京都~園部間の電化を機に東西自由通路を併設した橋上駅に(のちにサブの出入口にはビジネスホテル「リーズナブル」も併設)、さらに園部~綾部間の電化を機にメイン出入口側にもう一線敷設されて現在の姿に。どの方向への列車がどのホームから出るのかは一定していません。
rhscm989 改札入って一番線というのが国鉄基本の駅の形でしたね。
動線に邪魔がなかったので、乗るという点については便利でした
@@user-tabiichiro そういえば現在の京都駅0番ホームにも同じ事例あり。
幸いにも京都タワー側を向いている烏丸中央コンコースと0番ホームは同じフロアなので、ヒョイと入っただけで動線に邪魔されずに特急「サンダーバード」に乗れます。
rhscm989 京都駅はリニューアル後も一番線(0番線)から乗れるのでまだいいですね
@@user-tabiichiro 但し関空特急「はるか」や山陰本線に乗るには改札内に入った後平面フロアを多少歩かされるので困ります。
サムネnゲージかと思った
ちくわのピエロ 模型に見えますか?
旅一郎 光が直射した時の小型カメラのように見えただけです(語彙力)。別にバカにはしてないですよ。
すいません家の端末画質悪いので(笑)
ちくわのピエロ 怒ってないですよ。深度を浅くして模型っぽくみせる技に見えたということかな?と思いました。
こんな非合理的な運用してたらそら赤字になるわな
prevail1978 これでも国鉄末期は単年度黒字だったので、かなり支出を抑えてたようです。
懐かしさでいっぱいで、そういう※だらけだと思ったらその通りだよ。
私なんかは10系20系気動車に郷愁を覚えるけど、それを知らないスーツ君などは40系気動車がいいというワケです。
私が乗り回すようになった頃には旧客はほぼ全滅状態で、真っ赤な50系客車が全盛でしたが、なにせこのスタイルの列車は遅すぎて使い物にならないんだよ。そりゃクルマや私鉄にフルボッコにされるわけだよ。私は合理化されたことによるメリットの方が大きいと思ってるので、懐かしさは感じるものの、客車スタイルがいいとは思わない派です。例外は夜行列車かな。なにせ、117系の6連が豊岡~福知山を走るとか90年代半ばでもあったくらいで、空気輸送もいいところです。しかも18きっぷシーズンじゃないなら、誰も乗らない車両があったくらいです。実際そういう車両に乗り合わせて驚いたものです。しかも、いかにもキセル乗車を防げなさそうなんだよ。そういう無駄を神と称するなら、その神は鉄道会社にとっては貧乏神でしょう。同じ無駄なら、むしろ90年代まであったワイド周遊券を復活させてもらった方が、私にはありがたい。無論、間合い運用は話が別だ。
また福知山線での113系2連化の話が出てますけど、あれは間違いなく国鉄が悪い。ちょうどあの時期に三田市内に大規模なニュータウンが出来ていて、現新三田駅がその玄関口になるということになっていて、どう考えても旅客需要が増大してるのですから。ただ、電車化するのはいいけどお金がなくて車両の都合がつけられなかったという理由もあったんでしょうね。だったら食パンでもいいじゃないかというにしても、大阪という大都市にあの車両を突っ込むのは自殺行為に近いでしょう。せめてサンパチ君です。当時中学生だった私の考えた折衷案は、車両が揃うまでは客車編成も残して快速運用をしたらいいというモノです。ある意味宝塚以遠非電化時代と同じようにしたらよかったのです。
立花蔵人 電化と同時に客車全廃というのは、車両が揃ってないのにイメージをつけるために無理矢理置き換えた感じがしなくもありませんね。
おっしゃるようしばらく、特にラッシュ時は長編成の客車を残すべきだった。
草津線がそうだったように。
所要時間にしても、単線が多かった山陰本線京都口は電化しても、新線付け替え部分のスピードアップをのぞいて、言うほど短縮されてませんでした。