【超危険!】【でも楽しい?】 手動ドアの列車!1986年(一部1990年代あり)

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  • Опубліковано 26 вер 2024

КОМЕНТАРІ • 1,4 тис.

  • @xinnti7979
    @xinnti7979 6 років тому +405

    ドアが開きっぱなしだから、飛び乗るのも飛び降りるのも自分次第。1990年代以降に自己責任の必要性がグローバリズムと共に叫ばれるようになったような気がしますが、日本は昔の方がよっぽど自己責任社会だったような気がする。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +103

      xinnti7979 現在は自己責任というより型にはめる、一糸乱れず並んで、混み合っても譲り合ってすわり、車内では物も食べずひたすら静かに過ごす、
      誰が楽しいのでしょうかね。

    • @langraybash388
      @langraybash388 5 років тому +62

      考えるべき素晴らしいコメントですね。
      私が思うには
      昭和後期、社会責任の共通度は今より高く、その上での厳しい自己責任があった。総合的には行動の危険性、迷惑性などの無自覚が少ないと言う事になる。
      現代では社会責任を意識しない自己責任論が蔓延る。
      しかもその根拠が希薄な社会性意識と経験から来ている事も多くその時は冷たく、幼い論拠の時がある。
      結論
      自己責任については今昔殆ど変わりませんが、危険意識と、罪悪感の薄れ、社会性の低下は確実。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +14

      Langray Bash こちらも素晴らしい洞察ですね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +18

      sg kuri 僕は管理されるのが苦手なので、昔の方が暮らし良いです

    • @ironasamakire
      @ironasamakire 4 роки тому +23

      昔は自己管理能力を前提とした自己責任論だけど今は過保護に育てられた上でちょっと興味から皆と違う事をして痛い目にあうと自己責任と叩かれる。

  • @bogari2970
    @bogari2970 4 роки тому +364

    これぐらい緩かった時代が一番日本が輝いていた

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому +61

      国に余裕があったようにも思います。

    • @三枝日記
      @三枝日記 2 роки тому +35

      @@user-tabiichiro 様 後に“効率化”の御旗の元に、“余裕=無駄”として徹底的に削ぎ落としまくった結果が昨今の日本と言えるかも。まぁ、悪いことばかりじゃないとは思いますが・・・・・・。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +29

      @@三枝日記 今ほとんどの企業で余裕がなくなってますね。
      自分でも家計切り詰めをしてますが、みんながみんなそれをすると結局回り回って自分の首をしめる。合成の誤謬ですね。

    • @toruinoue8558
      @toruinoue8558 Рік тому +15

      本当に同感です、人々も坊やからお年寄りまで皆んな輝いてました、ありがとうございました。良いお言葉です。

    • @APW_Manbow
      @APW_Manbow Рік тому

      元凶はセキュリティ過剰社会だと思っています。

  • @bluemomo65
    @bluemomo65 6 років тому +116

    今では信じられない当時の当たり前。
    素晴らしい動画をありがとうございます :-)

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +7

      bluemomo65 ありがとうございます😊。
      実際のところ当時でも都会の人が海水浴などで来た時は驚いてましたー

  • @ststkg14
    @ststkg14 9 місяців тому +13

    昭和の時代は列車にも心にもゆとりがあったように感じた。動画で4~7両運転でそんなに混んでるように見えない列車。でも今よりはずっと駅に人がいた。暖かさが感じられた。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  9 місяців тому +2

      昭和30年代はともかく40年代後半になると盆暮以外は空いていたようですね。
      僕が一人で旅に出るようになった50年代後半以降はまだ列車の編成が長く空いていました

  • @fspsbm7426
    @fspsbm7426 5 років тому +147

    この頃は危険と隣り合わせと
    言う人もいるけど、それは違う。
    何が危険なのかちゃんと理解を
    しているからこういうのが
    成り立つ。だから見てみなさい、
    開いてるドアやデッキにいる人達は
    興味本位や知っててやってる人でしょ

    • @もひとり
      @もひとり 5 років тому +8

      小学低学年の頃の自分がその興味本位でやってしまった馬鹿な事を思い出した
      満員でも無い時はデッキに立つもんじゃないと学びましたよ、ええはい

    • @moonred2771
      @moonred2771 5 років тому +3

      @@もひとりさん
      早めに分かって何よりw

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 7 місяців тому +2

      今はホームにドアが付いていないから事故が起きるとか言っている、甘ったれるのもいい加減にしろ、自らの安全は自らが作るもの。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  7 місяців тому +1

      鉄道がキャッチーになって舐められる存在になっているのが嘆かわしいです

  • @can164jp1
    @can164jp1 6 років тому +112

    ちあきなおみさんの名曲「喝采」の歌詞に
    「動き始めた汽車にひとり飛び乗った」とありました…
    汽車も死語になり、そんな客車もなくなりましたね…

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +21

      あの歌の意味が分からないという人が増えていますよね。「ダイヤル回す」もそうでしょうね。

    • @travelleryu
      @travelleryu 5 років тому +3

      北海道では普通に汽車と言う

    • @tsuka5116
      @tsuka5116 5 років тому +5

      「上野発の夜行列車~」しかり、「花嫁は~、夜汽車に乗って~嫁いでいくの~」のもなくなりましたね。

    • @BA-op9cn
      @BA-op9cn 5 років тому +5

      徳島は未だに電車は一本も走っておらず全部機動車ですね

    • @douga9996
      @douga9996 3 роки тому +2

      @@tsuka5116 汽車の窓からハンケチ振れば~かわいい乙女が花束投げる~・・・これも今やったら「急停車します・・・」で報道ですね。

  • @oichiro7396
    @oichiro7396 6 років тому +87

    私も、長野へ行き帰りに客車の列車に乗るのが楽しみでしたね。
    車掌さんと話をした事があるんですが、たまに落ちる人が居る、乗務していた列車で落下事故が有ると後が大変と言っていました。 でも、客車が好きだから乗務は嫌ではないよねとも言ってました。
    ある意味、いい時代でした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +1

      信越本線だと、57年頃までですね。
      時刻表で眺めるだけの頃
      乗りたかったけど、ついに間に合いませんでした

    • @oichiro7396
      @oichiro7396 2 роки тому

      @@user-tabiichiro さま
      あの当時の旧客車の雰囲気を味わう事はもう出来ないのは悲しいですね。 仕方なしですが。

  • @choubetsu
    @choubetsu 6 років тому +37

    上手く表現できませんが自分たちが子供だったあの時代のすごさ野性味を感じます。素敵ですね。昭和の時代はもっと色んな匂いに富んでいたように思います。この貴重な映像を通し、その懐かしい匂いにしばらくの間浸っていたい。そう思います。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      調査別室 僕はギリギリ動画撮影できましたが、他にも色々旧客のビデオをアップされている方がいますので、それらの動画を結集して、バーチャルリアルティーの技術で加工したら、本当にそこにいる気になれるかもしれません

    • @choubetsu
      @choubetsu 6 років тому

      旅一郎 様、実現すればこれほど素敵なことはありません。

  • @ピンクカブ
    @ピンクカブ 5 років тому +210

    今は世の中が過保護すぎて、昔なら誰でも知っていた危険への対処方法を知らない人が多すぎます。
    危ない危ないって言いますが、気をつければ良いのです

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +47

      ピンクカブ 過保護になりすぎて、危険察知能力が著しく低下していますね

    • @ironasamakire
      @ironasamakire 4 роки тому +16

      旅一郎 確かに50センチくらいの高さから落ちて痛い思いをしないと、50メートルの高さから落ちたら死ぬという事が理解できない可能性がある。

    • @ゴンタオヤジ
      @ゴンタオヤジ 2 роки тому +8

      今、こういう時代を生きて知ってる我々世代は、幼い頃から、徐々に、何が危険か?という危機意識を自然に養ってきたので、今現在でも、色んなモノに対する、危機回避能力が備わってるのかも知れませんね。
      特にネットに対しても、人一倍、慎重に。

    • @ohanamatumae8194
      @ohanamatumae8194 10 місяців тому +1

      同感です

  • @Alena-Hemkova
    @Alena-Hemkova 6 років тому +64

    車掌が『窓から顔や手を出さないでください』という放送してたよね。
    今は携帯電話に置き換わったけど。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      Alena Hemkova それを聞くようになったのは割と最近の気がします。
      昔は気にかけなかった

    • @Natsu-8110
      @Natsu-8110 3 роки тому

      そして今やホームドア

    • @TheShootingStar9999
      @TheShootingStar9999 3 роки тому +1

      窓から携帯電話を出さないで下さい。

  • @ネコスケ-r4l
    @ネコスケ-r4l 6 років тому +31

    子供の頃にDD51+旧型客車によく乗車しました。武田尾旧線は、のんびりと渓谷を走行していたのを思い出します。貴重な映像を有難うございます。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      ネコスケ
      僕は山陰本線が近いので、保津峡が多かったですが、武田尾も旧客末期に行きましたよー

      ビデオカメラを買ったのは、もう大阪、京都から消えた後なので12系が旧線を行くものしかありません。
      そのテープも今探している最中です。

  • @onsen_tsumuzi
    @onsen_tsumuzi 6 років тому +50

    まず、車両に側灯がないですね。笑。
    窓や扉から入る自然の風、そしてヒグラシや虫たちの鳴き声‥‥。
    風情があっていいですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +2

      onsen tsumuzi 高崎の側灯は気になりますね

  • @DM-wu9cp
    @DM-wu9cp 3 роки тому +30

    これが追加料金が必要とはいえ現役である大井川鐵道の凄さがわかります。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +6

      今となっては、追加料金払ってでも乗りたいですね

  • @salmontarou65
    @salmontarou65 6 років тому +48

    去年台湾行った時に乗った列車がこんな感じでした。
    珍しい光景で最後尾の後ろの開いた扉からずっと外眺めてました。
    台東の方です。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      サーモン太郎 それはこれではないですか?
      ua-cam.com/video/ZyXh5TjKYTA/v-deo.html
      台湾でも最後の一本となった旧型客車(日本製)です。

    • @salmontarou65
      @salmontarou65 6 років тому

      旅一郎 同じ型かはわかりませんがそんな感じでした。

    • @todenaraara
      @todenaraara 2 роки тому

      現地の種別で言うと「区車」ですね(区間車という意味)。今は日本製の電車に変わってきてるんじゃ
      ないかなぁ?

    • @toshippercy8655
      @toshippercy8655 4 місяці тому +2

      普快車ですね😊
      私も初めて乗ったとき感動して、何度かわざわざ乗りに行きました。
      コロナ禍の間にその区間も電化が完了してあの電車無くなってしまいました。もう一度くらい乗りたかったです(現地の方には待望の電化だと思います)
      観光列車として今も走ってると聞きましたがどうやら似て異なるものとなってるみたいです😢

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 місяці тому

      @toshippercy8655 実は先日台湾に行って観光列車化した藍皮解憂号にも乗ってきました。全く別物ですね。

  • @cyd9183
    @cyd9183 5 років тому +50

    昔あった鈍行列車やな
    赤い凸型のディーゼル機関車に引かれて、札幌から函館まで10時間以上掛かった記憶が……
    トイレから線路が見えて、垂れ流しなんだよね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      CYD GOODMorning 普通列車の所要時間は今とあまり変わらないと思います。

    • @とある人-s3k
      @とある人-s3k 5 років тому

      時刻表を見たところ最速が函館山線周りで函館8時18分発で札幌17時2分着 所要時間8時間44分みたいですね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      とある人 現在がですか?当時の夜行41列車は函館の23:45ー札幌6:55?だったかな。

    • @とある人-s3k
      @とある人-s3k 5 років тому

      @@user-tabiichiro 2019年4月改正時点です。途中長万部、倶知安、小樽で乗り換えが必要になりますが

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +1

      とある人 昭和60年の時刻表で確認しました。
      夜行の倶知安周り41列車は23:58発6:45着(6時間47分)
      昼間の128列車が、札幌10:18発函館19:49着(9時間31分)
      42列車が、札幌13:39発函館21:42着(8時間3分)
      今も昔も変わらないですね。

  • @ケンケン-t6j
    @ケンケン-t6j 6 років тому +70

    昭和時代は平和だなぁ

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +28

      ケン ケン
      昔が懐かしいから美化されてるのかとも思いますが、何度見直しても昔の方が良かった。
      この時代にiPhoneが使えたら最強だ。

    • @野村-t8n
      @野村-t8n 3 роки тому +5

      日本中空襲受けて原爆2発も落とされたけど。

  • @さへる-p7r
    @さへる-p7r 6 років тому +44

    懐かしいです。
    ホームに植木や花壇があったり。
    特急や急行待ちの静寂と蝉の声。
    扇風機の真ん中にJNRの文字。
    夏は窓も扉も全開で気持ちよかったです。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +5

      いすくら
      国鉄時代はホームに花壇がある駅が多かったですね。
      最近は余裕がないのか、めっきり減りました。

    • @BB-bm5ox
      @BB-bm5ox 6 років тому +5

      あと池を作って金魚飼ってたりとか。
      ホームの掃除も駅員さんがやってました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +2

      Bruce Bruce 駅を見せるという思いがあったのかもしれませんね。
      無人となった今、花壇も撤去されたところが多いです。

    • @BB-bm5ox
      @BB-bm5ox 6 років тому +2

      今はJRも役所も効率化で非正規職員だらけですね。
      国鉄時代に比べ、効率が良くなって職員の愛想も良くなりましたが、それによって失われた何かがありますね。
      仕事をやってもやらなくても同じ、というのが「親方日の丸」の悪い所でしたが、待遇を保証しつつ良い仕事のできる仕組みというものは無いのでしょうか。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +9

      鉄道に何を求めるかによって、賛否は分かれると思います。僕は国鉄の価値は、「日本全体の統一したネットワークの提供」と考えていたので、今のズタズタのネットワークは昔よりサービスダウンしたと考えますが、国鉄に、「ソフトな笑顔の対応」を求めていた人にとっては、今はサービスアップしたと思えるのではないでしょうか。

  • @gudetama-yamadayoshida
    @gudetama-yamadayoshida 3 роки тому +44

    素晴らしい映像集でした、ありがとうございます☺️危険なのは客車ではなく、今の人間なんだと思いましたねぇ😔

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +7

      ありがとうございます。
      含蓄のある言葉ですね!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +3

      @tkcokmt 便利になりすぎるといざという時何もできなくなりますね。
      鉄道業界では自動運転が進ても非常時のために通票閉塞の訓練をしています。最後は人力でなんとかできるようにしているようですね

    • @tac12469
      @tac12469 2 роки тому

      大袈裟ですが責任は人任せじゃ、日本人は世界から一人前として扱ってくれないと思います。

    • @fgcb2346
      @fgcb2346 2 роки тому +7

      @tkcokmt
      本来なら「バカが触ってはいけない代物」ってのがあったはずなんだけど、今は万事が「バカが何をしても大事に至らない」ように物を作らなければならなくなったので、却って使い勝手が最悪で落とし穴だらけで、しかも窮屈な状況になってしまった。

  • @にゃん-x1t7j
    @にゃん-x1t7j 5 років тому +11

    列車が完全に止まる前に飛び降りていた大人がカッコよく見えて、真似して飛び降りてみたら見事にコケましたねw
    40年前の苦い思い出😓

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      太郎にゃん 結構コツがいりましたね。
      カッコよく降りる練習りしたものです

    • @ハヤトシ-j5j
      @ハヤトシ-j5j 3 роки тому +1

      東南アジアに行けばそう言う体験がまた出来そうですね

    • @瀧澤幸博
      @瀧澤幸博 3 роки тому +1

      わー、それ子供の頃小生もやりました。
      見事にコケました。
      磐越西線、津川駅でのおもひで。

  • @nk-sp2vn
    @nk-sp2vn 5 років тому +21

    生まれた時からvvvfインバータの列車が走っていた僕からしたら想像も出来ないですね…

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +4

      NK1000まあく
      生まれた時にはなかったですが、この動画を撮った時代、近鉄や阪急にはVVVFはありましたよ。

    • @nk-sp2vn
      @nk-sp2vn 5 років тому +2

      そうなんですか!さすがですね近鉄阪急…この時期というと南海ではサザンが出た直後とかですかね。僕の父が小学生の頃です。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +4

      NK1000まあく この時代でも旧客は当たり前ではなかったのです。
      もはや絶滅危惧種、でも情報もあまりなく、知られず去って行きました

  • @chanhama5585
    @chanhama5585 3 роки тому +6

    地方っていうのもあったけど、ドアが開いてても落ちる人なんていなかったし、柵が無くても撥ねられる人なんていなかった
    当時はそんな時代でしたね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +3

      去勢されると弱くなるという事でしょうか

  • @mori5mori555
    @mori5mori555 6 років тому +19

    うゎーーーーー 懐かしい!!!!!!!!
    初めて乗った列車がこんなのだった
    客車 窓全開 灰皿満タン。。。
    一番後ろの車両通路から線路丸見えだし
    約40年ほど前の記憶の中の思い出が映像として見れたことに
    感謝!!!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      sori mini 感動していただきこちらも嬉しいです。
      音あり動画は当時を思い出すには充分な効果がありますね

  • @tac12469
    @tac12469 5 років тому +296

    高校通学に使ってたのがこれでした。列車が動き出してても、駅員が「急いで乗れ!」と急かす時代でしたね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +93

      tac12469
      懐かしの時代です。
      今だからいえますが、列車が動き出してから荷物をホームに忘れたのが見え、飛び降りて荷物を持って、もう一度乗ったこともあります

    • @7nekoneko297
      @7nekoneko297 4 роки тому +44

      ♪~動き始めた汽車に~~一人飛び乗~って~♪
      これができた時代だ。
      ちあきなおみ“喝采”より(笑)

    • @MrDogpapa
      @MrDogpapa 3 роки тому +24

      走り出しも、止まりかけも今より遅かったですからね。

    • @ojyama1214
      @ojyama1214 3 роки тому +24

      SLの加速は自転車よりも遅かったから発射して10秒くらいは飛び乗れたね

    • @あさま189-t2o
      @あさま189-t2o 2 роки тому +9

      なかなかワイルドな時代ですね。
      この客車の手動扉というのは乗客側で閉めてもいいものなのでしょうか?
      気になります。

  • @beatleskaz324
    @beatleskaz324 6 років тому +18

    4:43〜の映像の虫の声と客車の音が気持ちいいですねー
    平成生まれのぼくには映画の世界の様です

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      当時もそんなに昔の生活していたわけじゃないですよ、昭和61年といえば、街にはマクドにケンタッキー、携帯は高いけど一応あった。普通の家には車、エアコン、テレビは一人一台になりつつあった頃です

    • @beatleskaz324
      @beatleskaz324 6 років тому

      旅一郎 すみません、本当にこういう列車ばかりの世界を想像してました。
      でも客車列車が現役だったなんて素敵な時代です!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      ルニ男 ちょっと前まで「客車列車」が普通に存在したのですが、日本はやりすぎましたね

  • @asakazeamamopi-946
    @asakazeamamopi-946 6 років тому +28

    まさに「正調派鉄道」。
    子供の頃、手を振った列車は全部客車列車でした。編成も長くて座席が確保できるかどうか心配をしたことなんてほぼありませんでしたね。
    今の若い人たちは「スリル」を求めて遊園地に行くんでしょうが、遊園地はそれ自体が目的なんで「いかにも作りました感」がすごい。
    鉄道は「スリルと実益が一緒になっていました」って変な意見ですが。
    それはさておき、今みたいにイケイケのデザイナーを採用して作らせた車両よりも、この時代の方が格好良く思えるのは気のせいでしょうか。
    思えば「汽笛の音に旅情を感じる」とか「夜行列車にはロマンがある」といった意見を目にすることも珍しくありませんが、「旅情を感じるから汽笛をつけよう」とか「ロマンを感じるから夜行列車を走らせよう」とかではなくて、汽笛も夜行列車も必要があるから存在したんですよね。
    デザイナーがデザインしたものは見せかけの格好良さ(格好良さと呼べるのかどうか)だと思うのですが。
    今みたいに言葉も器用さもなかったけれど、黙々と列車が走り続けていたあの時代が懐かしいです。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      asakaze@mamopi-
      全く同感です。
      「旅情を感じるから汽笛を付けよう」じゃないんです。
      説得力のある説明ありがとうございます😊。
      ブログでも使わせて頂きます

    • @nodocpokojkrbys
      @nodocpokojkrbys 9 місяців тому +2

      豪華さで売るクルーズトレインが好きな人もいますが、この時代を知る者には、これならいかがですかと、ワザと演出された楽しみでしかなく、あるがままで旅を味わえるわけではないですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  9 місяців тому +2

      はい。その通りです。旅情の押し売りに辟易としてしまいます

  • @itookuyukashi636
    @itookuyukashi636 Рік тому +2

    ボックス席の固いシートの夜行列車であっても、普通に乗ってたそんな時代でしたね。
    昼間は途中の駅で、窓越しに駅弁とお茶を買うのが楽しみでした。冷凍みかんもよく食べたなあ。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому

      多客期は満席で辛いですが、通常はボックス占有ができたので思うほどしんどくはなかったですね。
      気候変動のせいかもしれませんが、走り出すと風が心地よく感じました

  • @Rorekkusu
    @Rorekkusu 6 років тому +14

    昔は常磐線の普通列車にも客車での運行があって、よく手動のドアを開けたまま日暮里から乗車してたのを思い出します。当時の普通列車は三河島や南千住を通過してましたね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +5

      Rorekkusu 1005 常磐線は首都圏最後まで、残ってましたね。
      昭和57年の日常のなかに上野発仙台行き旧客があったことが驚きです

    • @os2man2
      @os2man2 4 роки тому +3

      朝と昼に2本ありました。昼のはよく乗りました。茶色の混じる東北線に比べると綺麗なブルーのスハ43系主体で面白みは欠けましたが、急行に乗ってる気分でしたね。

    • @nishikawa7917
      @nishikawa7917 3 роки тому +1

      競輪帰りのヨッパライが取手駅から乗車して年に数回転げ落ちてたなぁ~~

  • @ach112
    @ach112 6 років тому +57

    これはこれで乗ってみたいけど、今やったらSNSでごちゃごちゃ過保護の親とかがうるさいんやろうなあ

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +9

      Atsuki T 結局そう言う理由で、遊びは決められた遊園地で、と言うことになるんでしょうね。

    • @ach112
      @ach112 6 років тому +5

      旅一郎 こういう昭和の雰囲気は遊園地なんかより可愛らしいですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +6

      Atsuki T 人間味はありましたね。

    • @sunami808
      @sunami808 4 роки тому +2

      キハ40 さま
      三等で昭和の気分満喫ならば、タイに行けばやり放題。長距離の非冷房二等寝台はオススメ。手動ドアの寝台は趣アリ。ちょい高いエアコン車は夜寒すぎる

    • @fal-bj8im
      @fal-bj8im 3 роки тому

      @@ach112
      遊園地「なんか」って言わないでくれる?

  • @432t6
    @432t6 3 роки тому +16

    子供の頃、
    親と一緒に三田へ行く時、当時は宝塚までしか電化されてなくて、このような旧型客車の普通列車に大阪駅から乗ったのを懐かしく拝見しました。(^-^)

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      三田までは今なら電車でサクッといけますが、当時は阪急で行ける宝塚まででも「汽車旅」の気分を楽しめましたね。
      塚口に住む友人が汽車気分を楽しみたいからわざわざ国鉄に乗っていたと言ってました

  • @jimmy-qu7tj
    @jimmy-qu7tj 3 роки тому +15

    2:18 餘部撤去の真下の食堂があったw ここの定食の付け合わせの山ウドが思いっきりうまかったの覚えてる。

  • @m-1690
    @m-1690 6 років тому +7

    昭和38年、北陸本線の支線、高岡S.T~福野S.T 間。 爽やかに入って来る解放ドアー口から散居村を眺めて、ガタンゴトン ~ ガタンゴトンと田畑と共に視える景色は何故か頭のなかが真っ白になった様で、全てが優雅でしたね。 滔々と流れる乗車の中で、 何時まで乞う在って欲しいと願う当時の自分でした !!! 石動 (小矢部) ST仕立て(関西往復)帰りは、S L(貸切)の全パッセージに長御座を敷いてもらい、快調な修学旅行を味わったものです !!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      M-16 福野支線?は存じあげませんが昔はどこでも列車で行けましたね。
      蒸気時代は知りませんが北陸の旧客も米原ー富山で乗りました

  • @なっち-v6d
    @なっち-v6d 9 місяців тому +4

    大好き!最高!この時代に戻りたい!!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  9 місяців тому

      そうですね。
      ありがとうございます

  • @ニーナ66
    @ニーナ66 2 роки тому +8

    こういう時代が羨ましいです。
    東南アジア等に旅行して飛び乗り、飛び降りしてみたいです笑笑
    貴重な映像ありがとうございました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +3

      是非試して下さい。
      着地したらすぐ進行方向に早足で歩かないとこけます

    • @KO-te7bo
      @KO-te7bo Рік тому

      流石に戦時中みたいに屋根に乗ってるのはいなかったなw

  • @huntercanceneo
    @huntercanceneo 6 років тому +106

    不思議と落ちる人っていなかったよな
    。今ではドアが数センチ開いてただけでインシデント

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +21

      huntercance neo 危険はわかっていたので、無理はしなかったのでしょうね。
      逆に今の、知らない人が乗ると落ちそう。

    • @SleeperExpressJNR
      @SleeperExpressJNR 6 років тому +10

      箏曲家宮城道雄を始め落ちた人は当時もいました。ただ、其処は危険で油断してると落ちるってのは共通認識でしたから然程騒がれなかっただけです(今のようなネット環境も無かったので問題視する声もあまり届かなかった)。勿論鉄道当局もほったらかしにしていた訳ではありませんが古い客車を手直しするより電車気動車でおきかえた方が早いってことで客車への対応が後回しになったのは否めないでしょうね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +12

      SleeperExpressJNR 危険、安全論でいえば危険なのは間違いないのですが、面白いかどうかというと開いてる方が楽しいです。
      同じ先進国でもヨーロッパは手動のまま放置もありますので、自己責任の原則が徹底しているのでしょう

    • @グーグル調子
      @グーグル調子 6 років тому +7

      huntercance neo
      交流区間の仙台は新幹線開通まで、電車投入が遅れて、高校生を中心に、毎年2~3人が死んでいました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      グーグル調子
      なぜそんなに?
      山陰本線では聞いた事がありませんでした

  • @ohashi7271
    @ohashi7271 3 роки тому +10

    もう最近ではドアどころか窓すら開けられない列車が多くなりました。
    世知辛い世の中ですねぇ.....

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +3

      ほんまにそう思います。
      ドアどころか窓まで。
      そのうち椅子から一歩も動くなって言われるかも

    • @ohashi7271
      @ohashi7271 3 роки тому +6

      @@user-tabiichiro
      シートベルトが付けられる日もそう遠くないかも知れませんね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      @@ohashi7271 うまい!

    • @木島ノ安岐
      @木島ノ安岐 2 роки тому

      @@ohashi7271
      そうなったら寿司詰めにならず、着席必至
      になりますね(湘南ライナーを横目に…)

  • @すーじぃ0316
    @すーじぃ0316 2 роки тому +3

    高校の下校通学時に最後尾の客車デッキから線路を見るのが好きでした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому

      通学で使っていたのは羨ましいです

  • @arimahhhhhhhh
    @arimahhhhhhhh 6 років тому +15

    昭和40年代上野~赤羽間で時々客車列車で通学しました。ドアは開けっ放し先頭車の場合貫通路からEF57のデッキへ移りホームに降りたことがありました。今考えたら危険ですが

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      ハヤトスズキ
      昔は命が安かったというのもあるんですかね。
      鉄道に限らず、道路も歩道はほとんど無く、トラックが突っ込んできましたし

  • @toruinoue8558
    @toruinoue8558 Рік тому +1

    本当に素晴らしい動画集をありがとうございました。上京する昭和58年迄高校通学でこの編成列車に楽しく行き来してました。動画の坊や、学生、正にリアルな私が有る感じで懐かしさいっぱいでしたね。通学でも旅行気分でしたし開放ドアデッキにわざと乗りスリルを味わい連結部を観たり、楽しかったですね。人々乗客も皆んな嬉々としてホームで待ち乗り込み、本当に移動時間を楽しんでました。動画の学生も飛び乗りや降車とかもわざとやってました、でもきっと安全範囲で、車掌さんもお互い信頼してましたので、咎めることはなかった、あ~いい時代戻りたいですね。今ならドアが空いてて緊急呈し案件が有りーと全国ニュースですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому +1

      ありがとうございます。
      当時を思い出していただき嬉しく思います。
      動画の持つリアルさですね。
      なんとか残したいと思い、休み毎に撮影してきました。

  • @THEBATMAN-lu7zr
    @THEBATMAN-lu7zr 6 років тому +20

    子供の頃、停車直前でまだ動いているのに面白半分でホームに飛び降りていたのを思い出しました(笑)

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      2017 THE BATMAN みんな色々な思い出がありますね

    • @sugawaratakahiro6227
      @sugawaratakahiro6227 6 років тому +1

      小学生の時にやったら、当時の担任が後ろの車両にいて( ^ω^)・・・
      もちろん怒られましたよ。その後も何回かやりましたけどね(笑)

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      Sugawara Takahiro 遠足で保津峡に行くのに京都から乗りましたが、先生はハラハラだっただろうな。と今更ながらおもいます。

    • @倒秀才写楽星
      @倒秀才写楽星 4 роки тому +1

      それをやって、ホームに降りたら足がガクッとなって、慣性の法則ってのを子どもながらに思い知らされました。そして、国鉄初の女性駅長さんにきっちり叱られました(>_

    • @ぶたさんプヒー
      @ぶたさんプヒー 3 роки тому +1

      身を持って『慣性の法則』を実感。

  • @岡崎正雄-y2r
    @岡崎正雄-y2r 6 років тому +17

    東海道線(琵琶湖線)にも大阪行き北陸方面から来る鈍行がありました。京都大阪間はノンストップでした

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      岡崎正雄
      富山発大阪行きと大阪発新潟行きですかね。
      時刻表でしか見た事ありません。残念!米原止まりとなってからは何度が乗りました。

  • @dqpb10440
    @dqpb10440 6 років тому +8

    今でも窓が開く電車は多いですが、
    キッチリ冷房が掛かるので開ける事も無くなりましたが、
    日中 停電による立ち往生なんかになると
    窓が開かない車内は灼熱地獄になります。
    車内からは出ないけど換気の為に
    非常コック使ってドアが開けられ
    運行再開に手間取る事案が増えそうです。
    あと、最近の新幹線は非常コックを使っても
    速度がある程度落ちるまでは
    ドアは開かない様にしてあるらしいですね。

  • @lantern8905
    @lantern8905 5 років тому +4

    山陰本線、餘部での映像。蝉の声が郷愁をかきたてます。どれも素敵な映像ですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      ありがとうございます。
      僕が一番好きだった車両です。
      その魅力が伝わると嬉しいです。

  • @rabbi626
    @rabbi626 2 роки тому +2

    1980年代って当時は何もかもが新しく感じたけど今こうして見ると1960年代と雰囲気が大して変わらなかったんだな。
    時代が劇的に大きく変化したのはアナログからデジタルに移行しネットが登場した90年代以降かもしれない。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +1

      確かにネットでの世の中は大きく変わりましたね。
      職場もPCは部門に一台から一人一台になりました。
      逆に言えばスマホ、ネットがあれば旧型客車が走っていてもさほど困らない世の中ではないでしょうか

  • @hayato-no-kaze
    @hayato-no-kaze 6 років тому +7

    80年代になってもそんな危険な列車が走ってたなんて驚きです。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      haya tono 83年までは急行列車にも使われてました

    • @ゴンタオヤジ
      @ゴンタオヤジ 2 роки тому +11

      今から見れば危険かも知れないが、この当時は、「こんなもん」「これが当たり前」って感覚で、フツーに己自身が気を付けて乗っていたよ(笑)

  • @国鐵フリーランス課
    @国鐵フリーランス課 5 місяців тому +1

    憧れます…
    客車列車の穏やかな雰囲気…
    今は客車が少なすぎます…
    色々大丈夫かな…

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 місяців тому +2

      客車列車は汽車旅の原点ですからね。
      大雑把に言って客車の方が編成が長く空いていたのも、いいイメージでしたね

  • @SleeperExpressJNR
    @SleeperExpressJNR 6 років тому +24

    今の若い人には信じて貰えないかも知れないけれど、当時は当たり前だった光景。最後尾吹きっ晒しのデッキも鎖が1本あるだけで安心感がまるで違ったあの頃…オハフ・スハフの後位側(車掌室のある側)には鎖や扉はあっても前位側(トイレのある側)は何もないのがDefault(そちらにも扉が付いたのはナハフ10・ナハフ11・スハフ43そしてオハネフ12・オハネフ13位なもの)。でもこの頃はLocal列車にも元急行用のスハ43・スハフ42・スハ45・スハフ44・オハ46・オハフ45・オハ47・オハフ46そしてオハ36・スハ40などの青塗り近代化改造車も回って来ていてキハ20等よりは格が上の車内でのんびり過ごせたものでした(特にTR-47台車を履いた客車は最高!)。また、複線電化で軌道条件も良い北陸本線などでは電機牽引で95㎞/hで快走する場面もあり往年の急行列車時代を彷彿とさせてくれたものでした。車齢の若いナハ10・ナハ11・ナハフ10・ナハフ11は然しその軽量構造が祟り腐食に負けて意外と早く引退して行きました(意外と揺れたのにはびっくり!)。50系時代でも最後尾のドア開けっ放し!ってのは意外でしたが冷房のない当時、夏場の方便だったのかも知れません。叶うことならまたこんな列車で旅をしてみたいものです。

    • @SleeperExpressJNR
      @SleeperExpressJNR 6 років тому

      当時を偲んで描いたものがこちら。www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51599969

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +2

      SleeperExpressJNR TR47は国鉄が開発した中で最高の乗り心地ですね。
      電化後同じ路線を113系で走ると飛び跳ねるようで、同じ区間を走っているとは思えませんでした。
      今の基準で言われると、「危ない」「ありえない」と非難されそうですが、これこそ旅だったし、楽しかったという点は否定できません。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      SleeperExpressJNR 茶色と青の混成がリアルですね。
      車内で立っている人がいますね。仙台あたりを想定ですかね

    • @SleeperExpressJNR
      @SleeperExpressJNR 6 років тому

      場所は架空ですが、所属表記は広セキ、即ち広鉄局管内、概ね山口県内の電化区間を想定しています。当時山陰本線や岩徳線にはまだ客車鈍行がありましたがいずれも非電化でカマも前者はDD51、後者はDE10でした。数少ない電化区間の山陽本線・宇部線・小野田線、宇部線・小野田線は元々客レの設定はなく貨物列車はあっても電機の入線はありません。山陽本線もこのあたりは定期の客車鈍行は43-10で消えましたが、ブルトレや夜行客車急行はその後も残り50-3までは在来一般型客車の夜行急行も雁行していました。その後はしかしブルトレや12系・14系座席車ばかりとなり荷レを除くと稀にスロ81系お座敷列車の団臨がある程度でした。今はそれらも壊滅しましたが有り難いことに冬場を除いて土日祝日主体に1日1往復不定期ながら近隣の山口線に客レが走ります(SLやまぐち号)。[鉄]もの、ガチの客車好きが見ても十分許容範囲の真新しい[旧型]客車、蒸機に良く似合ってています(^^);

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      SleeperExpressJNR 広鉄は割と遅くまで客車の臨時がありましたね。やまぐち号の客車を使ったふくふく号(広島ー下関)に乗った事があります

  • @toshippercy8655
    @toshippercy8655 4 місяці тому

    現代を否定とかでなくって、50歳以上は特に、無茶苦茶懐かしい、ノスタルジー溢れる映像なんですよね😊
    私も朧気な記憶で「ドア手動だった気がするけど…」と思っていたのが本当だったんだぁ!と見ていて嬉しくなりました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 місяці тому

      昔は良かったのかという検証で、たいていは思い出は美しくなるということで論破されますが、旅情面では昔の方が良かったです

  • @nimo5
    @nimo5 6 років тому +61

    ドアを開けてデッキに立つのは心地よかった。当時あれが危ないとか思った事なんて全くなかった。
    ホントに危ないと思ったのは、窓からとなりの窓へ移動するとかいう遊び。
    50系客車の登場は、赤い悪魔の襲来だと思った

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +18

      Nimo5
      デッキからデッキへという奴いませんでしたか?
      危ないという概念も今と昔は違いますし、過去の事象を今の基準で裁くことはフェアじゃないと思います、
      数年後、ホームドアが無いことが、「信じられないほど危険だった」と言われる事でしょう

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +4

      Nimo5 窓から窓なら、今でもできますね。

    • @nimo5
      @nimo5 6 років тому +5

      最近の窓は全開放できなくなってるので寂しいのですが、短編成化でだいたい混雑してるので窓を開けるって行為そのものが厳しいですよね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +6

      Nimo5
      そうですね。今はドアどころか、窓を開けるのも躊躇します。
      窓を開けたらその土地の空気を感じられるのに。

    • @nimo5
      @nimo5 6 років тому +14

      仰るとおりです。
      列車の速度がゆったりしていたこともあり、鼻をくすぐるキンモクセイの香り、稲刈り直後の田圃のわきを通過する際の青臭いような藁の香り、夕方の草焼きや田圃に施される消毒薬の匂い、朝霧の粒が顔に当たるしっとりとした清々しさ等々。その土地の空気の中を通り抜ける感覚がありました。
      最近、旅をする方々にあっても、列車内でスマートフォンを凝視したままヘッドフォンで耳を塞ぎ、ただ盲目的に移動するだけ。
      他人の価値観に介入すべきではないことは承知の上ではありますが、難のための鉄道旅行なのか?と疑問に思ってしまう自分がいます。

  • @hks999-jpamatsuki-japan6
    @hks999-jpamatsuki-japan6 5 років тому +1

    窓は開いて当たり前、ドアが開いてても当たり前の時代。今の時代の窓が開かない又は少ししか開かないの列車は当時田舎者だった自分には新鮮に感じたものです。しかし今は、それらがうんざりするほど増えた今、窓やドアが開く車両が懐かしく感じます。冷房車よりも窓を開けて外の空気に当たる方が余程涼しく、楽しかったですよね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +1

      ドアはともかく、窓くらいは開けて旅をしたいものです
      その土地の風をリアルに感じ、虫の音や、波の音を聞いてこそ、そこにいる価値がありますね。
      固定窓から景色を見るだけならyoutubeでもほぼ同じことができますね。

  • @morgenstern9543
    @morgenstern9543 5 років тому +7

    旧客のデッキで手摺に捕まって外を見るのが大好きでした
    今じゃあり得ませんけど 笑

  • @和田昭彦-x2i
    @和田昭彦-x2i 5 років тому +1

    子供の頃、昭和40年代でしたが駅のすぐそばに住んで居たため、夜行列車を毎晩眺めることが出来ました。行先プレートには、大阪発金沢、富山、新潟行などあったと思います。朝夕のラッシュ時は、デッキの所まで人で鈴なりになってました。駅のそばに石炭倉庫も有り、登って真っ黒になって遊んだ覚えがあります。あの懐かしい時代に帰りたいです。何もなかった昭和時代が皆、仕合わせでしたね。令和になりどのような日本になるのか楽しみです。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +1

      和田昭彦 あの頃は何も無かったですが、なんでも遊びに変える事が出来たように思います。
      列車の開きっぱなしのドアも、どんな凝った遊園地のアトラクションより面白いですし

  • @ナカモトヨシキ
    @ナカモトヨシキ 6 років тому +10

    3:40 編成内に福知山局のスハフ12-701“いこい”が繋がってますね。古めかしい旧型客車の隣が12系というアンバランス感がなんともいいですね

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +2

      ナカモトヨシキ この列車は米子12:01発福知山行き528列車です。よくこの列車に憩いが連結されてました

    • @toshihorrich8405
      @toshihorrich8405 2 роки тому

      スハフ12 701が普通列車に併結されていたというのは、小口団体に使用されていたんでしょうかね?

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому

      この時代、福知山駅にツアー列車の広告を見たような記憶があります。

  • @atdjjotkizz
    @atdjjotkizz 4 роки тому +1

    鉄道を好きになったきっかけのED76-0牽く旧型客車スハ43系。
    客車内は鉄、タバコの匂いでした。乗り心地最高でした、鉄粉撒き散らしながら駅のホームに滑る様に停車してた。いい車両でした!

  • @kokihk
    @kokihk 6 років тому +13

    昭和58年の正月、当時中学1年のお年玉で初めて鉄道模型を買ったとき、花形車輛ではなくDD51とスハ43とかスハフ42でこういう編成を再現してました。
    当時大阪駅からも福知山線経由で鈍行の鳥取行などが出ていて、こういう編成でした。中間車にスハフ42が連結されていて、車掌室が施錠されていなかったので、中に入って車掌室からの車窓を楽しんだものですwww

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      DD51と旧客ですか。通ですね。
      大阪発鳥取行きは好きでした。距離は短いものの、真昼間の大阪駅(アバンティ大阪もできていたので華やいだ雰囲気の駅になっていた)のひっそりと旧客が止まっているのですが、「米子」より、メジャーな「鳥取行き」のサボのほうがインパクトがありました。

  • @けんじ-l1k
    @けんじ-l1k 5 років тому +1

    平成生まれの社会人です。
    父母から話しには聞いてましたが、
    想像以上で言葉を失いました。→余部鉄橋の下り。
    僕たちの子どもは、リニアモーターカー世代になるので、
    パパ、新幹線の「新」って何が新しいの?
    とか聞かれるんだろうなー。笑

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +1

      日本からは危険が取り除かれてますが、海外ではまだまだドアが開きっぱなしの列車は普通に走っているので、体験することは可能です。
      誰もやってませんが(やっていたとしても動画はアップされませんが)大井川や津軽鉄道の旧客はドアをロックしてないので、開ける事はできます。
      しないのがマナーですけどね。

  • @46shamsham
    @46shamsham 6 років тому +17

    昔、紀勢線の旧型客車も扉開きっぱなしでしたね。夏場ならいいけど冬は寒いやろな。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      46shamsham
      この時代では、実際には満員で車内には入れないというほどではなかったので、冬は車内にいましたよ。
      それでも好きなひとはやはりデッキに立っていましたが。

    • @messerschmittbf-1094
      @messerschmittbf-1094 6 років тому +1

      旧客の似合う機関車
      DD51形 DD54形 DE10形 DF50形
      EF81形 ED75形 ED76形
      でしょう。
      そういえば首都圏でも1980年代初めまでは、常磐線や上野から宇都宮あたりまでの区間ではEF80形やEF81形牽引の旧客列車があったそうですね。
      私は九州で少年時代を過ごしましたので、ED76形ですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      Messerschmitt Bf-109
      僕は関西なので、山陰本線のDD51が一番しっくりきます。
      赤い電気は旧客に似合いますね。

    • @messerschmittbf-1094
      @messerschmittbf-1094 6 років тому

      旅一郎 様
      どぉもです! 九州(門司港-大分・熊本・長崎及び佐世保間)ですとED72形やED73形、ED75形300番台(60Hz仕様)、ED76形0番台及び1000番台の他に北陸地区から転属してきたEF70形やED74形もありました。
      ED76形を除いてほどんとが貨物列車の牽引に充てられていましたが、ED72形及びED73形、ED75形300番台はブルートレインを牽引していましたよ!
      きわめて稀少ながら、関門(下関-門司)間をEF81形300番台こと“銀釜”が旧客列車を牽引する場合もありましたよ!
      1980年代には、EF30形が退き、EF81形400番台が博多や大分まで進出しました。
      九州でも非電化区間はDD51形やDF50形が充てられましたが、現在は取り回しのよいDE10形やDD16形が貨物ターミナル等の入れ換えで活躍しています。
      なおEF81形が鹿児島本線では川内(せんだい)、日豊本線では南延岡まで進出したため、ED76形の姿をみることが少なくなりました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      Messerschmitt Bf-109
      ED72.73は懐かしいですね。
      昭和53年に小倉駅で撮影してあさかぜの牽引がED72でした。

  • @とおるちゃんねる-n9s
    @とおるちゃんねる-n9s 3 роки тому +2

    昭和50年代前半まで東北線上野発の旧型客車列車が3本残ってました。
    郡山行き、一ノ関行き、福島行きの3本です。当時はまだ小学生の頃ですが国鉄宇都宮駅のそばに住んでて自宅からよく見てました。
    一ノ関行きは時刻が13時30分頃だったのでよく黒磯まで乗り鉄してました。
    当時はEF58が牽引してましたが
    稀にEF57に当たった日もありました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      東北本線の旧客鈍行(直流区間)は昭和30年代と変わらない雰囲気で羨ましかったです。
      東海道は僕が意識したした頃にには急行「きたぐに」の寝台のみが旧客であとは山陰や福知山線にいかないと見れないため、馴染みが薄かったです。

  • @ドラミ-m3o
    @ドラミ-m3o 4 роки тому +8

    携帯やスマホは無かったけど良い時代でした。人々のコミュニケーションはこの時代の方が良いと思う。友達の家に電話する時は1コールですね♪

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому

      やりました寝。
      あと、回線は一つですが無理やり分岐させて延長コードで部屋まで引いてました

  • @一雄-e1b
    @一雄-e1b 2 роки тому +3

    懐かしい映像ありがとうございます。
    高校時代毎日DD51の後ろでドアあけて通学してました。
    18切符で夜行山陰に乗車した時は凄い人で、デッキで新聞紙しいて寝ました。
    ほんと懐かしい♪
    今も久しぶりに経験したいけど時代が変わりましたね(>_

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому

      いい時代でしたね。
      京都から保津峡までの乗車でも「旅」してる感があって楽しかったです。

  • @696330
    @696330 5 років тому +4

    私が子供の頃(昭和40年代)は路線バスも停車する前にドア開けて、ドア閉める前に発車してましたね

    • @TS-no4cu
      @TS-no4cu 4 роки тому +1

      路線バスは未だにやってます

  • @ある-s9t
    @ある-s9t 9 місяців тому

    子供の頃良く乗りましたので懐かしい、大好きでした
    良い動画をありがとうございます😊

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  8 місяців тому

      この時代を生きたということはとても貴重な時間だと思います

  • @amp3cx10000a7jp
    @amp3cx10000a7jp 6 років тому +10

    昭和30年代の上野発の各方面の列車もこうだった。のんびりしていてそれは懐かしい♪

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      amp3cx10000a7jp 僕はかろうじて昭和40年代後半の記憶がある程度なので、末期の旧型客車に乗りながら、当時を想像していました。本当の鉄道最盛期を体験された方は羨ましくて仕方ありません

  • @星真人-z9y
    @星真人-z9y 5 років тому +1

    いやこれは懐かしい。東北の大学に入学後、関東の実家への帰省と大学に戻る際に繰返し乗りました。春から秋にかけて、季節が良い時に開け放したドアから眺めた景色は、座席の窓から見る景色とは、また違って見えたものです。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      急行が旧客の頃ですね。
      羨ましいです。
      旧客急行は乗れず終いでした。
      かろうじて、「山陰」号、41列車で夜行旧客を体験できただけでした

  • @tora-tora-s44
    @tora-tora-s44 4 роки тому +4

    凄いな、幼少時に、ドア全開のSL列車に乗って、爆走中の外をこわごわ覗いていた記憶があったのですが、やはり真実でした・・まさか映像として残っているとは。
    しかし、余部鉄橋ですら全開ですか‥自分が(昼間に)乗った車両は気動車だったのか、
    ドアを気にした記憶がありません。凄い時代でしたね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому +1

      国鉄末期は日本社会も今と変わらないほど成熟していたのに、地方に行けば昭和30年代のノリの列車がありましたね

  • @atdjjotkizz
    @atdjjotkizz 5 років тому +2

    旧型客車は本当乗り心地良かった。車内の鉄臭いのも良かった。1番好き。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      森口林 これこそ汽車旅!という感じがしてましたね

  • @HOKUTO2005
    @HOKUTO2005 6 років тому +4

    古き良き旧型客車の醍醐味一度味わいたかった

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      森田大介 今のイベントではどうしても雰囲気が違うので、台湾などの似た車両で体験するのをお勧めします

  • @田中政一
    @田中政一 4 роки тому +1

    今晩は。
    懐かしい映像、ありがとうございます。
    私の故郷、佐賀県唐津市を走る唐津線にも、朝方だけ1往復客車列車が残っていました。
    勿論、長崎本線も客車列車が全盛でしたから、とても懐かしいですね。
    よく、学生を中心に転落事故が相次いでいました。
    その対策を施した50系がほぼ全滅して、それだけ時間が過ぎた事を思わせる映像だと思います。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому +1

      田中政一 唐津線の客車って全く意識していませんでした。
      とはいえ、かつてはどこのローカル線も通勤時間は客車運用がありましたね。
      早々と50系になったところは後回しにしていましたので、乗り逃した所も数多くあります。

    • @田中政一
      @田中政一 4 роки тому

      ご返信、ありがとうございます。
      因みに、唐津線の客車列車は、スハフ42と、後はオハ35やオハ33だったと思います。
      牽引機はDE10(西)でした。
      昭和57年11月のダイヤ改正で廃止になり気動車化してしまいました。
      唐津線と山本で接続していた筑肥線(当時博多→伊万里)にも、夕方に客車列車が走っていました。
      博多→東唐津迄でしたが、客車は竹下客車区だったと思います。
      この列車も、唐津線の客車列車と同じく廃止され、更には翌年3月のダイヤ改正で電化され、福岡市内との交通が便利にはなりました。
      僕は、昔特急「つばめ」に連結されていた、オハニ35に乗った事もあります。
      後は、筑豊本線の客車列車で、原田→若松、飯塚→若松、直方→若松と、よく乗りました。
      後は、夕方に門司港→直方間に乗った事もあります。
      筑豊本線の客車列車は、50系でしたが、3扉車、冷暖房車両等個性豊かでした。
      民営化直後は、車掌も話の解る人が多くて、よく途中駅のドアスイッチ開閉をやらせて貰ったものです。
      車掌は、門司車掌区、機関車はJR貨物門司機関区のDD51だったと思います。
      車掌と前方を監視しながらのドアスイッチ操作は、面白いより、怖かったイメージがあります。
      僕がドアスイッチで閉扉すると、車掌が「こちら1826列車車掌、機関士さんどうぞ」
      「こちら1826列車機関士です、どうぞ」
      「上り、1826列車発車‼️」
      ガクン、と軽い衝動の後、次の駅を目指します。
      手汗をハンカチで拭いてから、車掌との話やこれから乗る路線の話等、話題は尽きませんでした。
      平成4年頃迄は、若松駅の手前に石炭を艀に積み込む、「東洋一の石炭桟橋」が残骸を晒していました。
      国鉄時代、石炭桟橋を担当する若松機関区の壁には、「砂は命なり」と書かれてあったそうです。
      九州も、北海道と同じように沢山のローカル線が消えて行きました。
      故郷、唐津市内にも、旧筑肥線の鏡、久里(くり)両駅の跡があります。
      今から30年以上前の、青春時代の想い出です。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому

      田中政一 筑肥線にも客車があったんですか!全くノーチェックでした。
      地下鉄になる前の筑肥線は魅力的だった事でしょう。
      昔は、ドアの開閉や車内放送などよくさせて貰いましたね。
      今より現場の裁量が大きく、安全が担保できるならOKという事だったんでしょう。
      今はどこも本社一括指導、現場に判断させないようにしている感じがします。
      日本総マクドナルド 化ですね。

  • @kitakoi1976
    @kitakoi1976 6 років тому +6

    昔の学生は、開いてるドアから小ベンしたとか・・・。振り落とされたら、フリちんって言うんですかね?昔乗った八甲田や山陰なんかは、手動ドアだったのを覚えてます。山陰なんかは、トイレが垂れ流しでレールが便器越に見えましたね。沿線はたまらん!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      大納言 各車両にトイレがあるのにドアから小便して落ちたとなると、先の窓枠に座ってトンネルにぶつかった漁師と同じではないですかね。

    • @ohoyamato
      @ohoyamato 6 років тому

      そうなんです、窓を開けて駅弁を食うと、天然の味の素が掛かります。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      ohoyamato 鉄粉くらいなら鉄分とれていいかもしれませんね

  • @のるるん偽物
    @のるるん偽物 Рік тому +2

    平成生まれの私としては憧れる風景ですわぁ…

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому

      今は海外でも限られた国でしか乗れなくなっていますね。

  • @木村康幸-z5w
    @木村康幸-z5w 6 років тому +4

    旧餘部鉄橋、懐かしいですねえ❗コンクリート橋になる少し前に写真を撮りに行きました❗僕が小学生の頃、フン尿を線路に垂れ流していた、

  • @koko-jg5wl
    @koko-jg5wl Рік тому

    貴重な映像をありがとうございます。北海道は43列車、大好きな列車でした。最後尾は鎖1本。高校の夏休みクラスでキャンプを企てたときも近々に無くなるのは解っていたので敢えて客車選びましたよ。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому +1

      おー、41のプロですね。
      最後まで残った旧客夜行なので混んでいても頑張っで乗ってました

  • @sugicat7196
    @sugicat7196 4 роки тому +6

    撮影場所も、今なら列車が止まるレベルの距離で撮ってるものもありますね笑
    なんとなく昭和を感じます

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому +4

      スギキャット そうですね。
      昔は線路と線路の間で撮っていてもOKでしたし。
      今の常識で裁くのは、「遡及処罰」にあたるので、セーフと認識しています

  • @白髭の権八
    @白髭の権八 2 роки тому +1

    子どもの頃の大宮駅、時々客車列車が入ってくると「飛び乗り、飛び降りはおやめください」のアナウンスがありましたねぇ。で、それを無視して飛び乗りする人が何人もいました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +2

      そうですね。時効だから言いますが、僕も発車した列車からホームに置き忘れた荷物を発見し、飛び降りてまたのるという事をしたことがあります。

  • @chiyodaline06
    @chiyodaline06 6 років тому +3

    常磐(快速)線にも旧客普通列車がありましたね。
    上野を出ると日暮里・松戸・我孫子・取手に停車、以降は各駅停車でした。
    現在は常磐快速線にも特別快速がありますが、旧客普通列車の停車駅に北千住を追加、柏と我孫子を入れ換えたような感じです。
    ちなみに1996年10月に運転された旧客臨時快速「レトロトレインときわ」は上野・北千住(上り通過)・松戸・柏・取手・土浦・水戸に停車でした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      chiyodaline06 常磐線旧客は結構遅くまで残っていたので乗りたいと思ってました。
      上野発仙台行きというのは、距離も魅力的ですが、都会から地方都市までを優等列車無しで行けるという点で、まだ普通列車でも移動ができた時代であった名残を感じました。

    • @よけ-r9s
      @よけ-r9s 6 років тому +1

      客車列車に限らず、常磐線の電車(401・403系415系)も取手までは各駅で取手からは我孫子、松戸、日暮里、上野でした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      よけ まさに常磐線「列車」と「電車」の違いですね

    • @chiyodaline06
      @chiyodaline06 6 років тому +1

      @@よけ-r9s 1980年10月ダイヤ改正で客車以外の普通電車が柏に全停車、1985年3月ダイヤ改正では北千住に全停車(普通客車列車は既に廃止)、1988年3月ダイヤ改正では天王台に全停車、南千住・三河島に日中のみ停車、2004年3月ダイヤ改正で南千住・三河島全停車と停車駅が増加して快速電車と揃いましたね。

  • @HS-wc1mo
    @HS-wc1mo 3 роки тому +1

    昭和50年頃上野からの東北本線普通列車がこのスタイルでした、宇都宮あたりまででも結構な旅気分が味わえました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому

      上野発一関ゆき123列車でしょうか。
      まだまだ長距離移動に鈍行も使えた時代が懐かしいですね。

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 2 роки тому

      @@user-tabiichiro 6時頃上のホームから高崎線経由高崎→長野行き、下のホームから常磐線に仙台行きなど5本くらいあったと思います、早朝に上野発水戸回り水郡線経由郡山行きとかが出てました。

  • @hisyokun
    @hisyokun 5 років тому +7

    非冷房でも、夏は窓もデッキ扉も全開にしておけば、案外涼しかったのではないでしょうか。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +4

      hisyokun 止まってる時は扇風機だけで熱風をかき回しますが、走り出すと涼しくなります

    • @あさかぜ51号たま
      @あさかぜ51号たま 3 роки тому +1

      昭和の時代の名古屋地下鉄東山線の黄色の非冷房車は夏、窓の上半分が全開に開けてあったが、ずっとトンネルの中で生ぬるい風しか入ってこんかったな。おまけに音が反射してうるさいし。蒸し暑かった記憶がある。

  • @robotsunami3783
    @robotsunami3783 4 місяці тому

    懐かしいですねぇ
    窓全開で乗る夏場の旧客ボックスシートでは毎度に冷凍みかんがお供でした
    定期運用の旧客列車に最後乗ったのは1982年の夏の磐越西線でした
    ED77牽引の普通列車を郡山から会津若松まで、当然最後尾に乗り込んで中山宿スイッチバックの推進運転前面展望を楽しみました

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 місяці тому +1

      磐越西線は61系や32系が残っていたので魅力的ですね。僕は間に合わずでした。雑誌で見ると一回り時代が古く感じました

  • @kamepo
    @kamepo 6 років тому +14

    列車が停止する前に飛び降りるときは、進行方向へ走る感じで踏み出すんやで。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +5

      kamepo そうでしたね。
      思っている以上に着地時は後ろに引っ張られますね

    • @TinySnowFairySugar
      @TinySnowFairySugar 6 років тому +1

      貨物の操車やってたけど
      このことは鉄則だよ。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +2

      プロの方(突放)ですね!まあ素人の戯言と思って笑ってください。

    • @TinySnowFairySugar
      @TinySnowFairySugar 6 років тому

      一般人の方は
      原則やらないでください😁

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +3

      もちろんです。と言ってもするすべもありませんね

  • @583asano7
    @583asano7 5 років тому +1

    当時は当たり前でした。夏は気持ちよく冬は大変でした。自分は通学時原ノ町発青森行き223列車によく乗りましたが、水戸鉄は仙台の通勤事情よくわからなかったのでしょう。ドアを開けていないと乗れない状況でした。ドアのガラスも割れるし大変でした。ひどいときは木製のドアステップに立ち左手に学生鞄右手で必死にドア手すりにしがみつき乗りました。長町を出てトップスピード(おそらく80Km/hぐらい?)にさしかかる広瀬川は恐怖でした。今では考えられないですよね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      583仙台
      仙台地区の混雑はひどかったようですね。
      原ノ町発青森行きは仙台まで11両でしたか

  • @hondaberuwo
    @hondaberuwo 2 роки тому +6

    私も後部デッキから走り去くレールを見るのが楽しみでした。あのような解放感は二度と味わえないかもしれないので、とても貴重な体験でした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +3

      なんともいえないのですが、あのデッキからみる去りゆくレールを見ながら「人生」を考えていた中高生でした

  • @zenhippie2011
    @zenhippie2011 Рік тому +1

    慣性の法則をコレで覚えた(その代わり手の平が真っ赤になる。)。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому +1

      そうですね。着地とともに進行方向に進まないとコケます

    • @zenhippie2011
      @zenhippie2011 Рік тому +1

      @@user-tabiichiro
      デスデス。
      文字通り “体”で覚えましたw

  • @kagemusha250
    @kagemusha250 6 років тому +3

    大井川鐵道井川線は今でも全列車ドアエンジンなしの手動ドアです。本線の旧型客車共々さすがに走行中開放はできませんけどね。
    ところで1:16、ドアの窓ガラスが固定しているHゴムごと無くなってる・・・。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      置き猫 大井川の長距離列車体験だけでもドア解放してくれればリアルなんですが。

  • @ch8346
    @ch8346 5 років тому +2

    客車が駅に停止した後、後方に少し押し戻される感覚が不思議だった記憶がある。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      千葉だんちゃんねる ブレーキが緩んでバックするやつですね。

    • @ch8346
      @ch8346 5 років тому +1

      @@user-tabiichiro ホーム位置が少しずれてヒヤリとするんです~。

  • @ts-yx6ss
    @ts-yx6ss 5 років тому +4

    扉が開けっ放しだったので、デッキから足を外に出して遊んでいたら、
    おじさんに怒られた事を思い出しました。
    後、一部の列車のトイレの入り口に
    「停車中にトイレを使用しないで下さい」、
    「〇〇~△△区間はトイレを使用しないで下さい」
    って書いてあったような事を思い出しました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +3

      t s そうやって怒ってくれる人がいたという事ですね。
      都市部では旧客に限らず、中距離電車でもトイレ使用禁止にしている事が多かったですね。

    • @ゴンタオヤジ
      @ゴンタオヤジ 2 роки тому +1

      昔の車両のトイレは、今の車両の汚物処理装置付のタンク式と違って、特にこの旧型客車は、排泄物が皆、垂れ流し式だったから…です。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому +1

      そうですね。国交省によりタンクが義務付けられたのはいいですが、それを機にトイレ撤去が進んだという負の効果もありましたね

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 2 роки тому +2

      @@user-tabiichiro ガキがそんなことしてたら容赦なく拳骨食らいましたね、それでも文句言う人なんかいませんでしたね、故石原慎太郎氏が訴えていた他人の子を叱ろうと言う時代でした。

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 2 роки тому

      @@user-tabiichiro 国土交通省はボンクラばかりでやる事が中途半端、一度現場に出て現状を把握すればいいんです。

  • @MrDogpapa
    @MrDogpapa 3 роки тому +1

    扉開け放ちで客扱いしてましたからね、特に冷房も無かった夏なんて。
    去年台湾の台東から普快車(日本製客車)に乘りました、基本、扉閉めですが、途中デッキへ行ったら開いてましたw、今年、台湾での普快車運行も無くなったとの事、寂しい限り。
    1975年夏へ戻りたい気分。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      僕も戻りたい、そして戻ったら帰ってこない

  • @ADBEX3104
    @ADBEX3104 6 років тому +9

    懐かしいですね。子どものころの中央線(名古屋近郊中央西線)もこんなでした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      satoshi niwa 紀勢本線名古屋口は遅くまで残ってましたが、中央本線で名古屋まで顔を出すのは相当昔ですね!

    • @ADBEX3104
      @ADBEX3104 6 років тому +3

      中央線複線電化が確か昭和41年だったのでそれ以前は基本的にSLけん引の列車でした。まれにディーゼルカー。DLけん引は見たことない気がします。電化してからはELけん引の列車が昭和50年くらいまで残ってました。動画と同様ドアを開け放した客車を高校通学に使ってました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому

      satoshi niwa それは本当にいい時代じゃないですか!
      蒸気牽引の客車通勤に勝るものはありませんね!

    • @吉田竜也-h8v
      @吉田竜也-h8v 6 років тому

      子供の頃の電化前の川越線も手動だった

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      流山市西松ヶ丘 多分それは「半自動」だと思います。
      走行中でも開いているのが、本当の「手動」ですよー。

  • @torakichi_ef58
    @torakichi_ef58 Рік тому

    オススメ動画に出てきたので…
    記憶が曖昧ですが自分が中学?くらいまでは地元でもEF58や81に牽引されて走ってました。
    窓を開けて行った土地の空気を肌に感じながら心地よいジョイント音を子守唄に寝る、これぞ旅って感じでした。
    現在はローカル線でも窓が開かない近代的な車両ばかりで旅をしても何処か不満足に感じてなりません。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  Рік тому

      ありがとうございます。
      EF58と81となると信越本線と、北陸本線のあたりでしょうか。北陸本線の末期の旧客に乗りましたが、いつも乗るDD51に比べ早いので怖かったです。

  • @scarlet7000
    @scarlet7000 3 роки тому +4

    昭和55年頃の北陸本線。米原から直江津行きの旧客で金沢まで行きました。最後部から見る吸い込まれるような景色と、夏だけに窓全開、両ドア全開という開放感が堪らなかったです。釜はEF70だったかな・・。良い思い出でした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +2

      10時台の523列車ですか。
      僕は最後の年に乗ったので既に富山ー米原に数本残る程度でした。
      北陸で不完全燃焼だったのを
      山陰で晴らしました

    • @scarlet7000
      @scarlet7000 3 роки тому +2

      @@user-tabiichiro さんへ
      車番までは記憶に無いのですが、時間帯は正にソレでした。まだ釜が70と81が混在していましたね。
      475の急行がワンサカ走っていた時代。退避線あれば、即入線。そして通過待ち。何時間かかったかなぁ。駅弁と冷凍ミカン、茹でタマゴを仕入れて満喫しました。出札で「あれ?急行券は要らないの?」と心配されるくらいでしたから。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      @@scarlet7000 その列車はずっと乗りたいと思っていたのですが、57.11だったかに無くなりました。
      一気に本数が減ったので焦って乗りに行きました。

    • @scarlet7000
      @scarlet7000 3 роки тому +1

      @@user-tabiichiro さん
      そうでしたか。金沢まで5時間近くかかった記憶があります。一旦退避線に入ると、ジャカスカ抜かされ、20分停車してましたね。その間に食料調達(笑
      そうでしたか・・57・11の改正で消えてしまったのですね。貴重な体験をしました。

    • @ahashi406
      @ahashi406 3 роки тому +2

      同じく昭和55年北陸本線で旧客(福井―敦賀)乗りました。EF70牽引。
      山陰線と比べかなり速かったです。
      特に北陸トンネル内は爆走で、雷鳥他すれ違いがありデッキに近づくだけでもかなり危険でしたね。

  • @arare2689
    @arare2689 3 роки тому

    父の産まれが鳥取でした。山陰本線は電化も遅く機関車で行ったこともありトンネルが近づくと大急ぎで窓を閉めたものです。国鉄勤務だった父は楽しそうでした。懐かしい響きです。米子の空襲のとき機関車全速力でトンネルに入って助かったといってました。速さよりこういう旅がまたしたいものです

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому

      蒸気の頃は知りませんが、普通列車を含めて長距離輸送を中心にしていた国鉄がたまらなく好きでした。
      鳥取は叔父が児童をスキー合宿に連れて行く旅行をしていたのでそれに便乗して何回か行っており、子供心によく知ってるところでした。
      その鳥取で最後に旧客に乗れた事がよかったと思います

    • @arare2689
      @arare2689 3 роки тому

      連結の所が今と違い落ちそうでこわかったです。油の臭いがする床固いシート、感傷に浸ってしまいました。機関車を運転していた父の事。とても懐かしかったです。ありがとうございました

  • @ミーアキャット大佐
    @ミーアキャット大佐 5 років тому +4

    サムネのサングラスかけ人がタモリさんに見えた。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому

      皆さん、そうおっしゃいます。
      もう少し痩せてますね?

  • @Taka_6511
    @Taka_6511 3 роки тому +1

    学生時代は国鉄で通学してました。
    まだよく止まっていない列車から降りてホームを歩いていたら駅員とすれ違いざまに
    「飛び降りちゃいかんぞ」と、旗棒で尻をポンと叩かれました。
    今思えば他人の間違いを正してくれるいい時代だったと感じます。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      国鉄職員にも権威がある頃ですね。
      態度がどうだこうだいわれますが、定時、安全な運行に真剣に取り組んでいたことを感じていました

  • @ダニエルキビナゴ
    @ダニエルキビナゴ 5 років тому +21

    これ見て現代を否定するのもちょっと違うだろ

  • @yasuo377111
    @yasuo377111 2 роки тому

    懐かし~私は福知山線DD51-700番台、スハフ42茶色やマニの時代に、当時の新聞に尼崎付近鉄橋から落ちた乗客いましたよ!その後その人どうなったのか?音が割れたようなオルゴール、鉄道唱歌、アルプスの牧場からハイケンスのセレナーデに代わっていきました。貴重な映像ありがとうございました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  2 роки тому

      落ちたら大怪我でしょうね。
      駅に止まる寸前でも結構なショックがありますね。

  • @BorisLu
    @BorisLu 6 років тому +5

    Nice video!

  • @hanahana-qh7gc
    @hanahana-qh7gc 4 роки тому +1

    そういや子供の頃福知山線(まだ旧線)では、武庫川沿いで扉をあけてみんなで手を振ってた。振ったらハイカーなどが手をふりかえしてた。デッキがあるので、冬以外は扉が空いているのがデフォだった。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 роки тому

      hana hana そうですね。大阪から近いのに風光明美で汽車旅が楽しめた貴重な路線でした。
      僕は保津峡の方が多かったですが、いずれもドアを開け放し、そこの風が直接感じられて旅してる感がありましたね

  • @masamichifujie5429
    @masamichifujie5429 9 місяців тому

    旧型客車最晩年の山陰本線を走る勇姿ですね。乗りに良く行ったので懐かしい時を思い出しました。あの頃の長距離普通はうたた寝を何回も繰り返しても走り続けていたような覚えがあります。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  9 місяців тому

      ありがとうございます。
      人生で一番真剣に鉄活動してした頃です。
      その後の人生や判断基準全てに影響しています

  • @akky1754
    @akky1754 5 років тому +5

    先日乗った津軽鉄道のストーブ列車が現在もこんな感じなので懐かしい気分を味わえました...
    走行中はデッキに出ることは出来ないみたいですけど、ドアの開閉は手動だし床は木だし窓下には小さなテーブルと栓抜きもついてました!
    昭和23年製造で今年71歳だそうです( ^ω^ )

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  5 років тому +1

      akky1754 ありがとうございます。
      先日僕も乗車し、ドアが手動のままである事を確認しました。
      走行中もそのまま開けられます。
      マナーで開けませんでしたが。
      末永くはしって欲しいですね

  • @giantnioinoba2011
    @giantnioinoba2011 6 років тому +5

    物事の常識というのは、時の流れとともに変わりゆくものでありまして。。。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +1

      Giantnio Inoba それがいい方向ならいいのですけどね。綺麗なトイレとか。
      混んでいるのが常識というのは、逆行しているので受け入れがたいです。

  • @PM-jf1wv
    @PM-jf1wv 3 роки тому +1

    20年前までは当然だったし、危険を予知することを小さい頃から教えられた。
    それが良かった。
    今の若い人の多くは自転車で左右確認もせず平気で交差点に飛び込んでくるけど角から人が出てきたら死亡事故とかになる。
    危険を身の回りから消すのであれば代替の危険予知教育が必要。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  3 роки тому +1

      そうですね。危険予知力をつけることは大切だと思います。
      今よりずっと危険だったからこそ、鉄道は怖いものだと思っていました。

  • @AMOTOMACHI
    @AMOTOMACHI 6 років тому +8

    懐かしい光景ですね(*´▽`*)
    福知山線の道場へハイキングへ行くときに、大阪駅から乗りました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 років тому +4

      akira motomachi
      大阪方面からは武田尾、京都では保津峡ですね。
      僕も遠足で小中高と三回、客車で京都から保津峡に遠足で乗りました。