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山陰本線の電化複線は、非常に遅く私も時間を掛けて大学に通っていた時代を思い出しました。懐かしい画像ありがとうございました。
ありがとうございます。京都市内でここだけが時間が止まっていたように思いました
懐かしい、いい映像だ。祖父や祖母、自分の幼少期を思い出します。
ありがとうございます。街の雰囲気はそれれほと変わらないのに、鉄道だけは汽車から電車に変わりましたね
ええ時代でしたねぇ・・・ 旧二条駅から嵯峨までの区間はなかなか映像が残って無いのでとても懐かしく思いました。七本松の踏切までのカーブは逆側が観たかったですけど。。。祖母の旧家があったので(笑)貴重な映像ありがとうございます!!
Omori Ken 本当にこの時代は楽しかったですね。短距離でも旅の気分でした。
@@user-tabiichiro 京都観光?
とても懐かしい映像、ありがとうございます。昭和62年ですと、9:40頃に映ってる小学校に通ってました。その手前の踏切にかかる陸橋は列車ウォッチに丁度良く、踏切が鳴ると、急いで陸橋に上がってました。ディーゼルの排煙が凄かったのを覚えています。二条駅の貨物ヤードに入って遊んでいても怒られず、何ともゆるい時代でした。
踏切の陸橋付近での
踏切の陸橋付近で客車列車を撮影した動画もあるのでまたご覧ください
ちょうど62年に北海道から京都の大学に進学し、フェリーでの帰省時によく山陰線、舞鶴線に乗りました。12系は滅多に乗れず、何故か50系かキハ47が多かったです。二条駅は最寄りだったので非常に懐かしいです。
地上時代最後の頃ですね。二条に下宿されていたのでしょうか。千本商店街はまだあまり変わっていないと思います。
はじめまして。素晴らしい映像をアップしていただきありがとうございました。幼少の頃の記憶が蘇り、とても感動しました。以前は太秦駅も円町駅もありませんでしたし、保津川くだりをしている人たちがよく電車へ手を振ってくれていたものです。二条駅も京都駅もとても懐かしかったです。今では、現嵯峨野線から旧嵯峨野線の線路を見下ろす感じになってますが、やはりあの保津峡⇔嵯峨間の景色は素晴らしいですね。現在は東京に住んでいるため、新型車両オンパレードの中に身をおいてますが、やはり昔の実家の汽車の素晴らしさにはかないません…
アニソン完コピMIDI製作「おまげ」 自分で撮ったものでも、それが信じられないくらい変わり果てました。便利だから正しい、というのが今のトレンドですが、この頃の方が良かったというのを証明できる映像になったかと思います
12系は国鉄末期の昭和61年(1986年)11月改正から使用されました。宝塚~城崎の電化で福知山線系統からこちらにまわされたようです。捻出した50系は津軽海峡線の快速海峡の改造種車の一部となったと記憶してます。
私にとっての二条駅は、この駅なんです。今の駅は、味気なくってあきません!!いい映像をありがとうございました。
博彦 松崎 コメントありがとうございます。この頃の二条駅は旅情を感じられました。絶対こっちの方が良かった
松崎博彦さん>その日本最古の歴史を誇った二条駅舎ですが、その後曳家により梅小路蒸気機関車館の出口ゲートへと転用され、敷地内リニューアル工事でいったん閉館した後、現在は京都鉄道博物館(梅小路京都西駅下車すぐ)出口専用ゲートとして活用されています。
山陽本線でもゴハチの牽く客車列車がたくさんありました。懐かしい
そうですね.客車列車といえはEF58でした
懐かしいですね。山陰線はこの時期やその前に結構乗ってたので動画で見れて嬉しいです。二条駅の大きさにも改めて驚きますね。今は味気の無い高架駅になってしまいました。
ありがとうございます。保津峡は安く行けたので暇があると行くようにしていました。京都駅から230円で十分汽車旅を楽しめましたね
コメントありかとうございます。客車列車は味がありました。京都駅から嵯峨野への観光に客車で行くことも出来たいい時代でした。
湘南色で正しいですよ。電化直後は湘南色の113系が使われてました。
電車でGO山陰本線と同じ風景ですね。私は5年くらい前までそれが当たり前だと思ってたんですが今の山陰本線京都〜園部間の前面展望を見て電車でGOプロフェショナル仕様版と何かがおかしく、何かが変わってると思いました。最近になって山陰本線について調べてみたら二条駅,花園駅,花園駅〜太秦駅間,太秦駅〜嵯峨嵐山駅間の高架化,円町駅開業,京都駅〜園部駅間の電化と複線化,嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化など、色々変わったんですね。電車でGOプロフェショナル仕様のデータ(山陰本線除く)は1997年,嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化は1989年と、8年も間が空いてます。1989年春の嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化だけでも大幅な列車増発や時間短縮ができたんですね。また翌年の1990年春に京都駅〜園部駅間が電化したので電化までの1年間は嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化の状態で、客車列車が走っている風景が見られたんですね。私はその風景が好きです。
東急8590系 その複線工事後の最後二本だけ残った12系も動画があります。変換がうまくいかないのでまた調整します
懐かしいですねえ。旧客、50系客車とともに小学校の時八木の親戚の家に行くときよく乗りました。京都出発、到着時にはハイケンスのセレナーデ が流れ、旅情感満点で弁当とポリ茶瓶を買って乗り込みましたね。
ありがとうございます。八木くらいまででも旅行気分が味わえましたね。今はどこまで行っても通勤のようです。
八木は今では余裕で通勤圏なのに、旅ですね
かつて1面2線しかなかった山陰線専用ホームには日中、「萩の家」の立ち売り担当の社員が常に駐在。「うなぎめし」あり、「とんかつお弁当」あり。さて今日は何を食べようか迷ったものです。しかしそれが今や売店形式の駅弁屋に生まれ変わっています。ポリ茶瓶も今はありません。
旧山陰線の嵯峨(現・嵯峨嵐山)から馬堀の映像が残っていましたね。JRになって、速達性を重視するように新線設置で、現在では嵯峨野観光鉄道という第3セクターなんですもんね。
今の観光路線に乗っている人にもかつての栄光を感じて欲しいと思うところです
当時の京都~福知山間の普通列車は、大半が高津を通過し(列車によっては並河・吉富も)、2時間半~3時間で到達する列車がほとんどでしたが、今では城崎温泉までの直流電化と園部までの複線化、さらには京都~園部間で一部の駅を通過する快速が登場したりなどで、1時間40分~2時間にまで短縮されるケースがほとんど。時代を感じますよね。しかしながら2012年3月改正では安栖里・立木・山家の3駅を通過する普通(翌年3月の改正で快速に種別変更)が登場するにまで至っています。
rhscm989 大きく変わったのは、やはり保津峡の急カーブ連続区間が一気にトンネルになったことでしょうね。昔は亀岡まで旅の気がしましたが、今や郊外の趣です
15:51 よく見ると保津川橋梁を渡り、現在の清滝トンネルに入るまでの間に65㌔の速度制限があるじゃないですか。今では保津峡付近の新線は倍の130㌔まで大きく引き上げられています。
新線は完全に高速規格ですね。在来線の他の区間もあれくらいにすれば、台風や大雨でもそう簡単に止まらない頼れる鉄道になると思うのですが。乗って楽しいかというのとは別ですが。
@@user-tabiichiro この結果京都~保津峡間でこそ距離は旧線時代と変わらなかったものの、保津峡~馬堀間は距離が1.6km短縮されたあおりを受け、以遠では所々で運賃額の値下げが発生した区間が実在しました。一例として実際に距離の短縮と運賃額の値下げが同時に実施された区間は京都駅起点で以下の通りです(新線切り替えに伴う距離短縮は消費税初導入前の1989年3月5日始発から実施されたため、距離短縮後の運賃はそれに基づいた額です)。①京都~園部間:35.8㎞だったものが34.2㎞に短縮されたため、従前までの620円から540円に値下げ(その27日後消費税初導入で560円に値上げ)。②京都~和知間:60.2㎞だったものが58.6㎞に短縮されたため、従前までの1060円から900円に値下げ(その後①と同じ理由で930円に値上げされ、1駅手前の下山と同調された)。③京都~山家間:70.6㎞だったものが69㎞ちょうどに短縮されたため、従前までの1220円から1060円に値下げ(その後①②と同じ理由で1090円に値上げ)。④京都~福知山間:90.1㎞だったものが88.5㎞に短縮されたため、従前までの1540円から1380円に値下げ(その後①②③と同じ理由で1420円に値上げ)。⑤京都~香住間:181.6㎞だったものが180㎞ちょうどに短縮されたため、従前までの3100円から2800円に値下げ(その後①②③④と同じ理由で2880円に値上げ)。このほかにもこれに倣った事例は複数ありますが、馬堀を基準とした福知山方面への駅間距離は今も昔も変わっていません(但し踏切に設置されているボックス外側の京都起点距離表記は、保津峡付近旧線時代のものがそのまま使用されているほか、キロポストも保津峡付近旧線時代のまま交換されていない)。
@@rhscm989 運賃もですが、前日特急に乗っていて感じたのは園部ー二条の近いこと!
素晴らしき、ジョイント音♪このミュージックが懐かしい♪次回見る時は、駅弁を買って大画面で見ながら楽しみます♪
ありがとうございます。なくなる事が分かっていたので、後から自分で楽しむ用に撮りました。シェアできて良かったです
地上駅だった頃の二条駅、貨物ヤードも健在ですね。懐かしいです。
池田雅史 この頃の二条駅は田舎感があって広々としてよかったですね。今は私鉄の駅みたいです。
貴重な映像ですね、素晴らしい子供の頃思い出しました
コメントありがとうございます。二条周辺の変化は信じられないくらいですね。ほかにも京都~園部を記録したビデオが残っていますので、順次アップしていきます。
福知山線電化で12系がこっちに回ってきたので、やっと普通客車列車が冷房化されたのが嬉しかった。12系投入で捻出された50系は確か津軽海峡線に回ったんじゃなかったかな。
591 kumoha そうでしたか
お2人さん>現在でも1両だけ50系が塗装はおろか、往時の内装はそのままで家庭用ルームエアコンを追設して、京都鉄道博物館の敷地内というか、蒸気機関車を留置するスペースに最も近い位置に静態保存されています。
それくらい知ってますよ
そうですね 電気暖房仕様が全て北海道仕様に改造されて蒸気暖房仕様だけになったと記憶しています 博物館のラウンドハウス脇の68号は家庭用エアコンを据え付ける形で現役時代叶わなかった冷房取り付けされたのを皮肉に思っています あれが存在していたらレッドトレインももう少し長生き出来たのにね
本線のあちこちで、新線移行工事がチョコチョコと進捗しつつあった、単線末期の頃の山陰本線。私もよく利用しました。いい思い出です。
その単線区間も、嵯峨野線の愛称区間に含まれる京都~園部間では、タキイ種苗の本社屋が建っているあたりにほんのわずかながら残るだけになりました。
懐かしい光景です。二条から花園へ向かう途中に当時の我が家があったのですが、カットされたか撮影されていなかったのか、その部分がなかったのが残念ですが、貴重な映像をありがとうございました。
元のテープを確認して、もしカットしてるのなら別とアップしますね
@@user-tabiichiro 返信ありがとうございます。現在の円町駅より西側になります。ちょうど花園大学の横を通る南北の道のあたりなんですが。あるといいなぁ。
@@サイアムパラゴン 今ノーカット版をアップしますが、少しだけ伸びるくらいです。写っているといいのですがまたほかにもありますのでこちらもどうぞua-cam.com/video/mRziO8XXBbY/v-deo.html
不思議だ…。紛れも無い京都駅なのに全然違う…。
TK IB そうですよ!場所は同じで、所々同じ建物もあるのに、汽車旅情を感じる空間はどこへ行ってしまったのか!
まだ京都駅ビルもできてない時代ですからね。ただ電化するすぐ前ぐらいの動画や思います。京都駅ビル前に既に嵯峨野線は園部まで電化はしました。
いやあ、懐かしいなぁ。このころはよく京都市内の歯医者に通ってたから単線時の雰囲気を良く覚えています。また、数年後は京都市内の高校に通っていたので懐かしいです。(複線化してましたが)古い駅舎の二条駅。嵯峨駅から保津峡へのトンネルへの入り方。単線の保津峡駅トンネルから出た馬堀の雰囲気。今でもたま~に夢で見ることがあります。今ではトロッコ列車でしか通れないですが、当時はその路線が普通でしたからね。記録映像として残し続けてもらいたいものです。
へなちょこはんまー トロッコ列車料金を払わなくても楽しめたおトクな時代でしたね。急行「白兎」の動画も出てきたので、またアップします。
へなちょこはんまーさん>現在の嵯峨嵐山駅から西隣の保津峡駅へ向けての最初に登場するトンネルへの入り方>>単線非電化時代はそのまますんなりと一直線で最初の亀山トンネルに入っていましたが、現在は右へ緩くカーブを描きながら小倉山トンネルに入っています。
私、京都学園大学卒ですので、この路線で二条から亀岡までまさにこの車両、旅気分で堪能してましたよ🚃後年娘と帰省したとき、その跡地を走るトロッコ列車も楽しみました
最後の頃に間に合ったのですね。二条に通う友達が客車通学できるので羨ましいと思いました。京都市内に住みながら毎日汽車旅でしたね
@@user-tabiichiro 87〜90年度が大学生でした
@@小川雅光 ほぼ同年代ですね。途中から電化したのではないでしょうか。
@@user-tabiichiro 88年に新線に移り、89年から電化でしたか
オープニングは現在関空特急「はるか」が使用している現在の30番ホーム(当時は山陰1番ホーム)に朱色のキハ47形2~10連が停車していて、現在主に特急「きのさき」「はしだて」「まいづる」の最大7連が使用している現在の31番ホーム(当時は山陰2番ホーム)からこれからご覧いただく321レが発車するシーンで始まっていますが、客車鈍行のほとんどが気動車に置き換えられると同時に、この動画にはありませんが現在の32・33・34番ホーム(34番ホームのみ降車専用で、実はこれが日本の鉄道駅におけるホーム番号としては一番大きい数字を用いており、十の位の数字が3になっている理由は山陰本線の「さん」にかけている)が後付けで設置され(いずれも当時は山陰3・4番ホーム)、現在の姿に生まれ変わります(後に駅ビル設置で薄暗い佇まいへと化したほか、30・31番ホームからのみアクセスできる「西洞院口」をビックカメラ開店の際に追設した)。
rhscm989 別の動画で32番ホームの工事をしてるところが写っているのがあります。今は本当にここがそうだったのか?と思うくらい変わってしまいましたねを
電車でGO!で山陰本線を知ったのは今から20年ほど前の小学生の頃ですが、5年ほど前まで新ルートに変わってたりしたことを知らずに旧二条駅、嵯峨ー馬堀間の旧線の映像が見たくてUA-camで調べたところこの動画がヒットしました。今の山陰本線京都ー亀岡間はなんの風情も無く普通の路線になってますが、僕はこーゆー風景が好きです。凄く楽しませて頂きました。ありがとうございます。
けんchannel 今は本当に電鉄の路線のようで面白くないですね。この景色がなくなりゆく時に残したいと思い記録したのですが、こんなに変わるとは思いもしませんでしたありがとうございました😊
けんchannelさん>①まず、こーゆー風景だった頃にも馬堀~千代川間といった亀岡市内の駅近辺には既に宅地化の波が押し寄せており、さらにその後園部までにそれが押し寄せるようになってきたため、馬堀~園部間の各駅から京都市内への通勤通学需要に対応するべく、普通列車でもメインとなる京都~福知山間のほかに京都~園部間の区間列車を多数設定していました。②次に、京都~亀岡間は何の風情もなく普通の路線になった理由は、特に現在の嵯峨嵐山~馬堀間では景勝地を鑑賞できる旧線のままだと速度制限区間が複数あり、複線電化ができないために新たにトンネルを掘り直して別のレールを敷き直し、1989年3月5日始発列車から非電化のまま複線の新線へ移行し(それと連動して保津峡~馬堀間は駅間距離が従前と比較して1.6㎞短縮)、翌1990年3月10日の京都~園部間の部分電化に備えたからです(その後直流電化区間は1995年4月20日に先行電化されていた綾部~福知山間と合体させる形で1996年3月16日に綾部まで延長されて既存の福知山~現在の城崎温泉間と繋がり、さらに2010年3月13日にはタキイ種苗の本社屋が建っているあたりを除いて京都~園部間が複線化されるまでに至った)。
初代「電車でGO」山陰本線の逆方面ですよね
あれは上りでしたか?
嵯峨駅は地元なんで懐かしいです!トロッコもまだなくあんな感じの駅舎だったなあ
denwani denwa 嵯峨駅が建て替えられたのは10年ちょっと前でしたかね。久しぶりにいったら駅が変わっているのでショックをうけました。
めっちゃ懐かしいです。馬堀駅前のあの踏切!馬堀駅ホームの曲線!
ありがとうございます。ローカル然とした馬堀駅も味がありましたね
京都駅ビルできる前に既に嵯峨野線は電化はしてましたよね。この京都駅のホームの時代でも、ワンマンで電化してたん覚えてます。ただ嵐山のトンネル付近は電化工事してるのがうつってますね。電化寸前前の時代はまだトンネルができてないし、亀岡市や園部町はバスのほうが早くて河原町から急行バスを京都交通が出してたんやけど乗れへんかったん覚えてるわw
この時代は新線切り替え直前で保津峡駅からも新駅工事が見えましたね。客車の中から新線を見上げ、寂しく感じました
小学生の頃、保津川まで遠足に行くの時に乗ったのが懐かしい限りです!あの時の客車は焦げ茶色だったような気がします。走行中も扉が開いていたので手摺持って乗り出してました!危険でしたね(笑)
旧型客車時代ですね。昭和60年3月まではこの列車も旧客でした。
12系客車のジョイント音に後方へ流れ去る踏切の警報音が旅情を誘いますね。牽引のDD51ー1190号機に思い出があるので、とっても懐かしさを感じました。貴重な動画をありがとうございます。
ありがとうございます。福知山のDD51は1100番代はホイッスルが高く、65のPFみたいでした。
とても懐かしかったです。見せて頂きありがとうございます。。
山陰本線です。本線ですよ。二条駅も広大な駅で貨物ヤードもあり、車両はディーゼル、DD51,キハ82,キハ28,キハ58,キハ47特急あさしお急行丹後も停車駅でした。懐かしい。
これこぞ、本来の本線駅の風格でしたね
発車ベル、駅舎、客車ともに過ぎ去り旅情感満載の映像ですね。今は呆気ない。
発車ベルはなんとも旅情を誘いますね。
10:23円町駅
京都駅のホーム、くず入れ、発車ベル、縦書きの特急のダイヤ表、昭和へタイムスリップした感じで懐かしかったです😂
ベルが本物なのがいいですね
10:13 京都市民です。よくぞこの動画を残してくださいました。僕が小学生の頃、この踏切に遊びに来て電車が通過した後、線路に耳を当ててガタゴト音を聞いていました。先代の二条駅もおぼろげな記憶で、この動画を見て遠足で二条駅に集合したことを思い出しました。感謝します。本当にありがとうございます!
ありがとうございます。昔を思い出していただけるとアップした甲斐があります。
花園駅近くが地元なので懐かしいです。二条駅出てすぐの歩道橋は日本最古のものだったらしいです。二条駅で降りた乗客は改札を通らずにヤードを抜けて西の方に行ってましたね。貴重な映像をありがとうございます。
hanakusojiro ありがとうございますこのほかにも、上り京都行きの動画もあり、旧花園駅も写っていますので、またご覧下さい
ありがとうございます。むちゃくちゃ懐かしい😢二条駅は、貨物扱いもあって、むちゃくちゃ広大だったんだ😢保津川沿いの、旧線も貴重。良い時代だったなあ
二条駅は昔は風格もあり、裏側の貨物線も多くあり、「駅」の雰囲気抜群でしたね。山陰本線は汽車旅感に溢れていましたね
良い時代、ねえ…。当時、長い時間をかけ毎日通学していた私としては、複線電化かつ高架化された嵯峨野線の最近の快速電車の走りっぷりの映像と比較すると「はい、良い時代でした」と同意はしかねます。
新線切り替え電化・高架化・複線化された今となっては浮世との隔たり感がある
飯村公清 駅設備がすこしかわっただけでも、全く違って見えます。空が狭くななった
30年前のJNR線で乗車する雰囲気がやはり今の台鉄にそっくり。
Jian Ys これが本来の僕の知ってる日本の鉄道です。今の日本より、台湾のほうがよっぽど僕の知ってる鉄道です。
このころ花園駅から馬堀駅まで後輩と何度となく王将に食べに行っていました。行ったことのない王将に行こう!ということで・・・花園駅がまだ普通の木造の駅舎の駅で駅前に自転車が大量に止められていた時代太秦駅開業時には3番目に並んだ保津峡駅には自転車で行った経験円町駅がいずれできる予定と耳にした時代下宿の近くの小さな鉄橋付近で東京行DD51がけん引する出雲を見て感動した想い出帰省するときは二条駅からだった日本風の荘厳なつくりのあの駅舎、ネオルネッサンス様式日本初、駅舎として重要文化財となったわがふるさとの駅と比較しても劣らない素晴らしいものでした。そういえば卒業までに亀岡の渓山閣に行くという計画もまぼろしのまま終わりました。♪こんなことしてもえ~んかい
sanmaru kanmon コメントありがとうございます。当時の花園も二条も旅人気分を盛り上げてくれるシーナリーでしたね。嵯峨駅も最近までオリジナルの木造でしたが、複線化で取り壊され全く別の線区になりました
sanmaru kanmon 当時の花園駅は現在の高架駅ではなかったですよね。
Klug ange そうです。対向式ホームの地上駅でした。田舎の雰囲気が良かった
花園駅前にラーメンの屋台があってよく父親に連れて行ってもらいました。とても美味しかった覚えがあり、今でも食べたくなります。
今でも「電車でGO!」で出会える光景でも当時は実際に見て、乗って、楽しむこともできました。嵯峨野線が電化&新線で開業後に生まれた私には、この映像はすごく新鮮さを感じさせます…そして、「電車でGO!」で見覚えのある、あの光景も、今とは違う旅情を掻き立てますね…
ありがとうございます。この景色を残したくて必死で通っていました
今となっては嵯峨野線のような秘境路線は飯田線など数少なくなりつつありますね…
子どもの頃、嵐山嵯峨野の観光で竹藪を歩いていたら踏切があって制止され、左を見たら煉瓦のポータルのトンネルからデゴイチ牽引の貨物列車が飛び出してきたのを思い出しました。
なんと!蒸気時代ですか。羨ましい
客車のある時代すごい二条が地上にあってかなり大きい駅やったんやね
そうですね。貨物の引き込み線もあったので今よりずっとスペースが大きく、駅も立派でしたね。
@@user-tabiichiro なるほど。貨物が走ってたんですね梅小路の貨物線も今では歩道になりましたもんね
やはり客車は長編成ですね。蛇みたいにぐにゃぐにゃと曲がるところがいいです。実際に山陰線は単区間の丹波口、京都間しか乗車していないので,よくわかりません。その時は当時の梅小路機関車館に行った時の帰りに乗りました。その時は電化されており、113系が来て、乗りました。今ではNゲージで12系と50系の編成を組んでいます。12系はトミックスで4+8の12両編成を3本、カトーも同じ編成で3本、50系も同じく4+8の12両編成を1本組んでいます。平日と大型連休の一部で12両編成で走り、土曜日、休日は8両編成で走らせるようにしています。あくまでも構想の段階です。もう1つは架空ダイヤも組んで、編成運用もしてあります。牽引機は全編成DD51で1往復だけはマニ50の4両編成+12系の8両編成で12両編成で、区間は京都、福知山間で帰りで京都駅到着後はマニ50の4両編成を分割し、その後に12系の4両編成を併結して、往復することにしています。土曜日、休日はマニ50の4両編成を分割したあとは機回しして、継続牽引にしています。平日は12系の4両編成を車両基地から牽引して、機回しし、ホームに停車している8両編成に併結したあと、そのまま往復する運用にしています。先に分割した牽引機は次の編成を牽引して、交代するようにしています。最後に単機になった機関車が翌日まで待機してマニ50の荷物列車が到着した時に後ろの4両編成を分割したあとに連結して、更に12系と連結して走るようにしています。全部架空です。以上
ありがとうございます。模型で色々運用組んでおられるのですね。長編成の客車は特に大きな駅でポイントを渡りながら本線に出ていくようすがたまりませんね。
懐かしいですね。客車だと編成が長く空いていたんですが、ディーゼルカーだと2両しかなくて混んでるもんだから、乗る列車が来た時に客車だと喜んだ記憶があります。どうもありがとうございました。
分かります。気動車は短い=混む。客車、長い、空いてる。それもあって客車ばかり選ぶようになりました。汽車旅っぽさも上ですしね。
客車列車は風情がある。旧客に取って変わった50系や12系客車ではあったが、当初は近代化された車内に感動したものだった。扉が自動でデッキ車端にも扉があることにも近代化を感じたものだった。
客車列車はほんの短距離でも「汽車旅」をしている感じがあり楽しかったですね
山陰号を良く利用しました!!懐かしい
風情、ねえ…。当時、長い時間をかけ毎日通学していた私としては、複線電化かつ高架化された嵯峨野線の最近の快速電車の走りっぷりの映像と比較すると「現在のダイヤなら、もう少し寝坊できたのになあ」と思います。旅で訪れているのではなく、日々の生活ですので。
これは貴重な映像ですね!カボチャ電車のイメージでしたが、それより前なんですね!
そうです。電化前は汽車の時代でした
懐かしい 客車鈍行の乗り心地もう一度味わいたいです。
takedaさん>僕もその意見に賛同します。特に乗る価値が大いにあった京都を朝9時台に発車する837列車(出雲市行き)での長距離乗車(せめて乗車距離が最も少なくとも京都~綾部間だけではやりたかった)を堪能できなかったことを後悔しています。
車両も223系が走ってる今とは大違い、車内放送で円町がないのも違和感、違う路線に見えるが、でも今でもある建物が証拠かな、
京都の嵐電見てる人 二条駅周辺は街も変わりましたが、その他はそれほど変化なく、鉄道が変わっただけでも、別世界のようです
古き良き京都駅が懐かしい!カット無しの映像が見たいです。
ありがとうございます。元テープをあたりまたアップします
懐かしいですね。今の観光鉄道トロッコの路線ですね。 21:13に今の山陰線、建設中でしょうか? トンネルの出口(入口)と橋が見えますね。
そうですね。所々工事の様子が見られます。この時代は亀岡に行くのも旅行の気がしました。ありがとうございます
12系客車を牽引したDD51、ブルトレ「出雲」も牽引するんでしょうね。
どこの機関区所属かわからないですが、米子が福知山のどちらかですね。
保津峡から作りかけの今の嵯峨野線が見えましたね
田中拓也 もう新線切り替え直前だと記憶しています。最終日には15人位の鉄道フアンが集まり、蛍の光斉唱で見送りました。
DD51-1190(福知山)+12系客車8連の321レ園部行き、懐かしいねえー😀。最後尾は通勤化改造のオハフ13-1,000番台ですね。園部到着後折返し326レで京都に行き、更に折り返し833レで福知山に戻っていました。昭和61年11月~昭和63年9月迄の運用でした。
12系は61.11から運用されましたね。この321と同じ運用の835も60.3から福知山で系統分割されてからも郵便車だけは50系の前につけて、福知山から旧客に繋ぎかえて運用しているのを覚えています
懐かしいなぁ〰️❗DD51‼️子供の頃、叔母の田舎に行く時DD54と旧型客車でした。しかもDD54よく故障するんです❗救援にDD51がきていました。今では懐かしい?思い出です。
かんだのりあき ありがとうございます。DD54はよく故障すると聞きましたね。
客車からまだ、窓が開けられて顔出していた時代。あのあー、って言いながら口に入る風が面白かったですあっ、113系東海道線でしてたわ笑
。裕紀 あーっていうのは、扇風機を思い出しますね
。裕紀さん>旧型客車にレッドトレインこと50系は、非冷房だったこともさることながら窓を開けるか車内から屋上通風機のレバー操作をするのみならず、基本的に扇風機でも換気を行うという仕組みでした(後に1977年から1981年にかけて福知山に集中導入されたキハ47もこれに倣いますが)。
線路を叩く「カタンコトカタン」懐かしいです!
汽車旅をしている感がありますね
昔から二条に住んでいたので、思い出します。今はこの駅舎は梅小路周辺に、ありますね。まさかこんな駅が、あんな立派なドーム型に変わるとは
ありがとうございます。普段使っていた記憶が甦ったでしようか
京都駅出発してすぐに旧梅小路蒸気機関車館が見えましたね。
@@takumaNicoNico そうですね。車窓左手に昔の梅小路がみえます
懐かしいw 中学2年の時に毎週土曜日に京都市内から馬堀まで野球の練習に行くのに乗ってましたw 冬はドアが手動でしたねぇw
本数は少なくて不便でしたが、旅してる気分が楽しめましたね
B型双子座さん>何しろ京都~福知山間全線(当時は90.1㎞、現在は88.5㎞)非電化時代は近接する舞鶴線・小浜線・宮津線も含め、キハ47形を充当する列車に限り「11月1日から3月31日まで 車内保温のため ドアは手で開けて下さい しめることもできます」と表記された銀色プレートがドア内外に掲げられていました。仰る通りドアが手動だったのはそのためなのです。
@@rhscm989 さん詳しくありがとうございます😊当時はプレートの存在に気がつかず、田舎の路線は手動なんやw って思ってましたね😅
@@B型双子座 おはようございます。1つだけ肝心なことを書き忘れていました。そのため補足を付け足させていただきます。福フチ所属のキハ47形運用ですが、山陰本線京都~福知山間をはじめ福知山線・舞鶴線・宮津線全線では1977年の新製導入当初から実在しましたが、小浜線乗り入れ運用が追加されたのは意外と遅く、1985年3月14日ダイヤ改正から955D~960Dの1往復に限り実現しました(同じく福フチ所属のキハ28.58乗り入れ運用はそれ以前から既に実在していた)。
政治家の石破さんが以前番組で昔の鉄道は旅だったのが今はただの移動手段になってしまったと言うような事を言っていたけどこの映像を見るとその通りだなと感じます
kurou tora kurou tora 特にこの区間は電化し完全な通勤路線になったので、旅から通勤に変わってしまいました。もちろんこの時代も通勤客利用はあったので、朝の京都駅へ向けての列車本数は見た目以上にありました。時間を入れた動画もあるのでこちらもご覧いただければ幸いですua-cam.com/video/Lr6B5pvU_tQ/v-deo.html
旅一郎 20年位前に今で言う嵯峨嵐山の近くに住んでいて映像に映っている駅舎でとても懐かしいですまだ小さい子供の頃でしたが実家が同じ山陰本線の綾部駅で、この先はトンネルが出来てからの記憶しか有りませんがもう少し早く生まれて青い客車にも乗って見たかったなと思いましたそれからあまり詳しくないですが湘南色と言うのでしょうか、緑とオレンジ色の車両が一番たくさん走っていた頃が記憶に残っています。園部駅できみどりと白の色のディーゼルカーのものや赤色と肌色のディーゼルカーなどに乗り継いで帰ったたものです。車両も色によりいろいろカボチャ電車とか、キュウリ電車と勝手に読んでいました勝手な想い出を長々と失礼しました
旅一郎 ありがとうございます、おすすめ頂いた動画も拝見させていただきます
kurou tora ありがとうございます。
上り本数は、まあまあありました。通学で乗っていた列車6:56(47) 始業前に図書館へ7:04(47) バス駅到着定時の際に利用7:12(12) 通常利用(バス駅到着遅れ)7:22(58) 寝坊時に利用
DD51の機廻しとか懐かしい光景ですね。
客車列車ならではの儀式でしたね。
40年ちょいくらい前ですが臨時快速、丹後を思い出します。
丹後ビーチですか?快速丹波路?丹波ハイキングだったかも運転してましたね。9:08米子行きと10:35の間が開くのを埋める形で10:00ごろ休日のみ運転だったような。
懐かしい。本当に懐かしい。
ちゃき そう感じていただけると嬉しいてす
1年前まで高校生の時通学で利用していました。まさかこんな路線だったとは…
電化、高架化で完全に電鉄路線になってしまいましたね。
列車の発車を告げるベルの音、このベルの音を聴いて終電に乗り遅れそうなサラリーマンやOLさんが急いで乗車されていたのを思い出します。
オッカケ小僧 本当のベルはいいですね。旅情を感じます。保津峡からの帰り、二条駅の1番ホームでも発車ベルが鳴り、市内の移動にもかかわらず長距離旅行をしている気になり、楽しかったです。
二条丹波口間が高架になるまえの映像はありませんか?
丹波口が高架になったのは、昭和51年なんで、流石にありません。申し訳ございません
@@user-tabiichiro ご丁寧に返信ありがとうございます。旧丹波口駅はもう一度じっくり見てみたい駅なので・・
この青い客車の記憶が無いのですよ・・・。そういえば、二条駅の西側には貨物ヤードがあって自動車輸送用の貨車が止まっていたと思う。丹波口も、京果(京都中央卸売市場)の所で、貨物専用線があって冷凍貨車や貨車が何台も止まっていたのを思い出しました。
丹波口の地上時代を覚えておられますか。僕の記憶ではすでに高架でした。
昭和43年生まれです(笑)。ので、京都市内の市電が走っていたのも、京阪が地上を走って四条・五条・七条通りにワイヤー式の遮断機があって、職員さんが上げたり下げたりして、昼間は安全確認が出来たら白旗を振り、夜間はカンテラを振って電車に合図してたのも・・。むっちゃ余談になりますが、数年前の台風で渡月橋が流される寸前の時、保津峡駅のワイヤー釣り橋中央部分の下、約1M位まで濁流が押し寄せていました。下部のワイヤーに沢山の草やゴミが引っ掛かっていました。
一年上ですね。京都市電は何度か乗っているので覚えています。友達が「もうなくなるよ」と言っていたのが昭和52年。それから1年で無くなりましたね。
じゃ、とりですね。学年で行くと、二つ下、同い年、一つ下って感じで・・・。急行に乗ると、現嵯峨嵐山駅を出てトンネルを抜けて(現トロッコ)を走って行くと車掌さんが、バスガイドさん(笑)の様に保津川下りの説明をされていました。すべての車掌さんがされていたかは不明ですかね。
酉です。急行すべてで案内してたかは覚えてませんが、してる時はありましたね。餘部もするときがあったと記憶しています。
貴重映像すぎる!!!!
京神 旧神京 ありがとうございます。あと2年早ければ旧客だったので、惜しかったと思ってます
いやそれでも凄いですよ~
この数ヶ月か何年後には113系が走ってたんすね
そうですね、新線に切り替わってからは早かったと思います
新線切り替えの12ヶ月後からです。スピードは向上し、悪夢の2両編成はなくなり、最低でも4両編成が確保されました。でも、私の朝の通学は、7:12発の冷房9両編成(12)から7:10発の非冷房8両編成(113)に変わりました。次の7:21発は、電化後も1本だけ残された(58)で冷房はありますが、基本的にちょっと登校に時間に余裕ないので。
当時の山陰本線京都口の通勤通学輸送を全然考慮していなかったのがよく分かります。
当時は京都に向けての朝のダイヤと京都からの帰りのダイヤに列車を集中させており、この当時ダイヤで朝の京都着の時間でいうと、7時台が01,22,31,55の4本、8時台が6.18.26.40.48の5本と単線にしては限界まで本数を走らせていました。そのあおりで朝の下り列車は2本上り列車を退避する列車もありました。
@@user-tabiichiro 詳しい解説をありがとうございます。車両がずっと50系とか12系とか客車ばかりで、ラッシュ輸送を担えていたのか不思議でした。
@@naoyak250 いえいえ、自分でもどうだったか気になったので、昔の時刻表で確認してみたところです。
@@user-tabiichiro この時代に日常的に利用していたわけではありませんが、山陰本線って京都口でもいつも田舎くさくて時代遅れというイメージしかなかったんです(お気に障ったらすいません)。それが鉄道ファンには風情があっていいということなんでしょうけど。
@@naoyak250 歴史を紐解くと国鉄が通勤を担っていたのは東京、大阪の国電区間のみで本線系統は長距離輸送がメインでした。福知山線も宝塚ー大阪は基本阪急電車で、国鉄は宝塚より先に行く客を運ぶ役割で競合はしていなかったものです。山陰本線沿線も本来は亀岡以遠の客を対象としており、花園二条などは市バスを使ってほしいというのが本音だったと思います。
電車でGOの最初のロケ線です。制動の実験をしました。お遊びをしましたね!
宇佐美光男 風光明媚な路線に追加料金なしで楽しめたのが良かったですね
@@user-tabiichiro さんへ、ゲーム「サクラ大戦」も電車でGOのコントローラーを購入した事が切っ掛けでした。山陰線の保津峡は映画「蒲田行進曲」の舞台でも有ります。「サクラ大戦」は先日火災が有った「ノートルダム大聖堂」が舞台で、色々と学ぶと思います。秋葉原と云う街は電気街から御宅街に変貌しました!取り敢えづ流行は噛るべきかと思います!
非電化時代八木の親戚の家によく行きました駅弁とポリ茶瓶が似合う旅情感満点ですね
駅弁スタンドがホームにあり、ポリ容器のお茶と一緒に買ってましたね。あれを見ると汽車旅をしている感じが高まりますね。非電化の頃は八木まででも「旅」を楽しめましたね。
fal5110さん>現在は30番のりばから車止めに最も近い位置にオープンカウンター形式の店舗を設けまして、そこで弁当販売を継続しています(ショーケースも一応ありますが、数に限りがありますので「この弁当が欲しい!」という場合はお早めに立ち寄って下さい)。
@@user-tabiichiro 中身に何も入っていない「ポリ茶瓶」のみでしたら、現在でもどこらかしこの通販サイトで何本1セットとして入手可能です。是非お試し下さい。
@@rhscm989 前回釧路駅で買ったものがまだ手元にあります。ありがとうございます😊
懐かしい!まだ園部に特急が停まらない頃の映像ですね?
川端洋司 確かそうでした。
全特急列車の園部停車が実現したのは、2004年10月16日改正のことでした。
@@rhscm989 あの頃は急行全盛期で急行「丹後」が園部に停車してました。特急「あさしお」は園部を通過していた記憶があります!
今となっては、もうほとんど面影がありませんね(>
そうですね。周りの建物から想像するのも難しくなってきてます
I played this old track on 電車GO😂😂,and glad to see the real video clip
I am happy to hear that you can enjoy this movie.
冒頭の京都駅の時刻表が縦書きなのと、パタパタ式の行先表示は今では見られない光景です。
縦書きの時刻表は戦前を思わせる味がありますね。汽車という感じがでています。
よく複線の用地が確保出来たと感心します
京之ひろ 築堤を走っていたので、裾までの幅がありました
ありがとうございました 懐かしいです
おおみなとあやき コメントありがとうございます。懐かしく感じていただけたら嬉しいです
二条駅から ガソリンタンク車の引き込み線が南に延びていて 三条通を踏切っていて DD13の牽引するタキ3000を永い時間待たされ イライラしていたのも今は懐かしいです
それはいい思い出ですね。サークルの友達のところが二条駅の裏で、かなり遠回りしないといけなかった事を覚えています
利便性向上、スピードアップ、合理化の号令のもと、こういう風情が失われてゆく…仕方ないことかも知れないけど。でも今当たり前と思っていることも10数年後くらいには、この映像のようなノスタルジーになっていくのかな…。
居住して利用していた私としては、「風情」のために毎日早起きして通学したくないです。学校の帰りに、二条駅の駅舎を見て「未だにこんな建物使ってるのか」と、当時ですら思っていました。
二条駅が高架になる前の貴重な動画有難う御座います旧亀岡駅はありませんか?
電GO プロフェッショナルに収録されていたDD51+12系客車の普通列車ですね😂
そうですね、実際の活躍は85年ー90年位でしたね
@@user-tabiichiro そんなに短い期間だったのですね😲
二条駅が懐かしい嵯峨~馬堀間のレールの音が懐かしい保津峡駅でのすれ違いも思い出しましたありがとう (^^ゞ
タイムスリップしてくださいね、
こんな重要な路線なのに、来年(2022年)の春に、亀岡から先が合理化されるものね…乗って楽しい自然ある景色なんだけどね。
合理化計画があるのですか?まさかの2両ワンマン化?
@@user-tabiichiro 京都縦貫自動車道の完成に、コロナが追い討ちをかけて、沿線利用は激減。小浜線.舞鶴線.山陰線福知山エリアでも、大幅減便は避けられないのかもしれません。2021年秋に、小浜線はただでさえ早い終電を、1時間繰り上げています。
@@user-tabiichiro あ。ごめんなさい。具体的なウワサとしては、昼間の亀岡-園部の普通列車を半減するとのことです。特急も減らすのでは?と言われています。
正しくは快速のみ1時間間隔にしただけで、亀岡~園部間のワンマン化まではしていません。
この頃、保津川下りはあったんですか?
【KAGINO】 鍵乃 ありましたよ。少なくとも僕か小学生だった、昭和50年代前半にはありました
慶長11年3月に角倉了以が急流である峡谷を開削して水路を作る工事に着手して、明治40年の夏目漱石の虞美人草には、浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける、二人は丹波行の切符を買って亀岡に降りた。保津川の急湍は此駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油の趣をなす。岸は開いて、里の子を摘む土筆も生える、舟子は舟を渚に寄せて客を待つ・・・と記してあります。明治28年頃から保津川下りは始まったとの事です。
まだ国鉄時代の映像でしょうか。
この動画ら民営化直後です。国鉄時代の同区間は、【国鉄時代】急行「白兎」 京都発米子行き キハ58系ua-cam.com/video/CNdJzcKGkec/v-deo.htmlここにアップしています。
電車でGOでよく運転しました
この区間があるようですね。僕は一番はじめの京都ー大阪しかやったことがないのですが。
北陸線の真っ青色413系最初に見た時、デジャブー感じたんだが、これだったか 1:30
大須万 12系に見えますね
お分かりいただけただろうか
何が見えましたか
普通に格下げされて、塗装ものっぺりしてる(笑)
オラハハハ 始めて見たときは違和感ありました
懐かしいですね。昔の二条駅
西大路通ですね
円町のあたりは西大路です。
慣行。
嵯峨野観光鉄道は、遅すぎるからこれくらい速く走って欲しい。
阿部大輔 この時代には見向きもしなかった観光客が、嵯峨野観光鉄道になってから押し寄せてるのが、解せません
61年11月から62年3月まで撮影ですね
12系にJRマークはついてませんか?
昔亀岡田舎だった?
駅の反対側は何もなかったですが、表はそれなりに発展していましたよ
山陰本線の電化複線は、非常に遅く私も時間を掛けて大学に通っていた時代を思い出しました。懐かしい画像ありがとうございました。
ありがとうございます。
京都市内でここだけが時間が止まっていたように思いました
懐かしい、いい映像だ。祖父や祖母、自分の幼少期を思い出します。
ありがとうございます。
街の雰囲気はそれれほと変わらないのに、鉄道だけは汽車から電車に変わりましたね
ええ時代でしたねぇ・・・ 旧二条駅から嵯峨までの区間はなかなか映像が残って無いのでとても懐かしく思いました。
七本松の踏切までのカーブは逆側が観たかったですけど。。。祖母の旧家があったので(笑)
貴重な映像ありがとうございます!!
Omori Ken
本当にこの時代は楽しかったですね。短距離でも旅の気分でした。
@@user-tabiichiro 京都観光?
とても懐かしい映像、ありがとうございます。
昭和62年ですと、9:40頃に映ってる小学校に通ってました。
その手前の踏切にかかる陸橋は列車ウォッチに丁度良く、踏切が鳴ると、急いで陸橋に上がってました。ディーゼルの排煙が凄かったのを覚えています。
二条駅の貨物ヤードに入って遊んでいても怒られず、何ともゆるい時代でした。
踏切の陸橋付近での
踏切の陸橋付近で客車列車を撮影した動画もあるのでまたご覧ください
ちょうど62年に北海道から京都の大学に進学し、フェリーでの帰省時によく山陰線、舞鶴線に乗りました。
12系は滅多に乗れず、何故か50系かキハ47が多かったです。二条駅は最寄りだったので非常に懐かしいです。
地上時代最後の頃ですね。二条に下宿されていたのでしょうか。
千本商店街はまだあまり変わっていないと思います。
はじめまして。
素晴らしい映像をアップしていただきありがとうございました。
幼少の頃の記憶が蘇り、とても感動しました。
以前は太秦駅も円町駅もありませんでしたし、保津川くだりをしている人たちが
よく電車へ手を振ってくれていたものです。
二条駅も京都駅もとても懐かしかったです。
今では、現嵯峨野線から旧嵯峨野線の線路を見下ろす感じになってますが、
やはりあの保津峡⇔嵯峨間の景色は素晴らしいですね。
現在は東京に住んでいるため、新型車両オンパレードの中に身をおいてますが、やはり昔の実家の汽車の素晴らしさにはかないません…
アニソン完コピMIDI製作「おまげ」
自分で撮ったものでも、それが信じられないくらい変わり果てました。
便利だから正しい、というのが今のトレンドですが、この頃の方が良かったというのを証明できる映像になったかと思います
12系は国鉄末期の昭和61年(1986年)11月改正から使用されました。宝塚~城崎の電化で福知山線系統からこちらにまわされたようです。捻出した50系は津軽海峡線の快速海峡の改造種車の一部となったと記憶してます。
私にとっての二条駅は、この駅なんです。
今の駅は、味気なくってあきません!!
いい映像をありがとうございました。
博彦 松崎 コメントありがとうございます。
この頃の二条駅は旅情を感じられました。
絶対こっちの方が良かった
松崎博彦さん>
その日本最古の歴史を誇った二条駅舎ですが、その後曳家により梅小路蒸気機関車館の出口ゲートへと転用され、敷地内リニューアル工事でいったん閉館した後、現在は京都鉄道博物館(梅小路京都西駅下車すぐ)出口専用ゲートとして活用されています。
山陽本線でもゴハチの牽く客車列車がたくさんありました。
懐かしい
そうですね.客車列車といえはEF58でした
懐かしいですね。山陰線はこの時期やその前に結構乗ってたので動画で見れて嬉しいです。
二条駅の大きさにも改めて驚きますね。今は味気の無い高架駅になってしまいました。
ありがとうございます。
保津峡は安く行けたので暇があると行くようにしていました。京都駅から230円で十分汽車旅を楽しめましたね
コメントありかとうございます。
客車列車は味がありました。
京都駅から嵯峨野への観光に客車で行くことも出来たいい時代でした。
湘南色で正しいですよ。電化直後は湘南色の113系が使われてました。
電車でGO山陰本線と同じ風景ですね。私は5年くらい前までそれが当たり前だと思ってたんですが今の山陰本線京都〜園部間の前面展望を見て電車でGOプロフェショナル仕様版と何かがおかしく、何かが変わってると思いました。最近になって山陰本線について調べてみたら二条駅,花園駅,花園駅〜太秦駅間,太秦駅〜嵯峨嵐山駅間の高架化,円町駅開業,京都駅〜園部駅間の電化と複線化,嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化など、色々変わったんですね。
電車でGOプロフェショナル仕様のデータ(山陰本線除く)は1997年,嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化は1989年と、8年も間が空いてます。
1989年春の嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化だけでも大幅な列車増発や時間短縮ができたんですね。また翌年の1990年春に京都駅〜園部駅間が電化したので電化までの1年間は嵯峨嵐山駅〜亀岡駅間の新ルート複線化の状態で、客車列車が走っている風景が見られたんですね。私はその風景が好きです。
東急8590系
その複線工事後の最後二本だけ残った12系も動画があります。
変換がうまくいかないのでまた調整します
懐かしいですねえ。旧客、50系客車とともに小学校の時八木の親戚の家に行くときよく乗りました。
京都出発、到着時にはハイケンスのセレナーデ が流れ、旅情感満点で弁当とポリ茶瓶を
買って乗り込みましたね。
ありがとうございます。
八木くらいまででも旅行気分が味わえましたね。
今はどこまで行っても通勤のようです。
八木は今では余裕で通勤圏なのに、旅ですね
かつて1面2線しかなかった山陰線専用ホームには日中、「萩の家」の立ち売り担当の社員が常に駐在。
「うなぎめし」あり、「とんかつお弁当」あり。
さて今日は何を食べようか迷ったものです。
しかしそれが今や売店形式の駅弁屋に生まれ変わっています。
ポリ茶瓶も今はありません。
旧山陰線の嵯峨(現・嵯峨嵐山)から馬堀の映像が残っていましたね。JRになって、速達性を重視するように新線設置で、現在では嵯峨野観光鉄道という第3セクターなんですもんね。
今の観光路線に乗っている人にもかつての栄光を感じて欲しいと思うところです
当時の京都~福知山間の普通列車は、大半が高津を通過し(列車によっては並河・吉富も)、2時間半~3時間で到達する列車がほとんどでしたが、今では城崎温泉までの直流電化と園部までの複線化、さらには京都~園部間で一部の駅を通過する快速が登場したりなどで、1時間40分~2時間にまで短縮されるケースがほとんど。時代を感じますよね。しかしながら2012年3月改正では安栖里・立木・山家の3駅を通過する普通(翌年3月の改正で快速に種別変更)が登場するにまで至っています。
rhscm989 大きく変わったのは、やはり保津峡の急カーブ連続区間が一気にトンネルになったことでしょうね。
昔は亀岡まで旅の気がしましたが、今や郊外の趣です
15:51 よく見ると保津川橋梁を渡り、現在の清滝トンネルに入るまでの間に65㌔の速度制限があるじゃないですか。今では保津峡付近の新線は倍の130㌔まで大きく引き上げられています。
新線は完全に高速規格ですね。
在来線の他の区間もあれくらいにすれば、台風や大雨でもそう簡単に止まらない頼れる鉄道になると思うのですが。
乗って楽しいかというのとは別ですが。
@@user-tabiichiro
この結果京都~保津峡間でこそ距離は旧線時代と変わらなかったものの、保津峡~馬堀間は距離が1.6km短縮されたあおりを受け、以遠では所々で運賃額の値下げが発生した区間が実在しました。
一例として実際に距離の短縮と運賃額の値下げが同時に実施された区間は京都駅起点で以下の通りです(新線切り替えに伴う距離短縮は消費税初導入前の1989年3月5日始発から実施されたため、距離短縮後の運賃はそれに基づいた額です)。
①京都~園部間:35.8㎞だったものが34.2㎞に短縮されたため、従前までの620円から540円に値下げ(その27日後消費税初導入で560円に値上げ)。
②京都~和知間:60.2㎞だったものが58.6㎞に短縮されたため、従前までの1060円から900円に値下げ(その後①と同じ理由で930円に値上げされ、1駅手前の下山と同調された)。
③京都~山家間:70.6㎞だったものが69㎞ちょうどに短縮されたため、従前までの1220円から1060円に値下げ(その後①②と同じ理由で1090円に値上げ)。
④京都~福知山間:90.1㎞だったものが88.5㎞に短縮されたため、従前までの1540円から1380円に値下げ(その後①②③と同じ理由で1420円に値上げ)。
⑤京都~香住間:181.6㎞だったものが180㎞ちょうどに短縮されたため、従前までの3100円から2800円に値下げ(その後①②③④と同じ理由で2880円に値上げ)。
このほかにもこれに倣った事例は複数ありますが、馬堀を基準とした福知山方面への駅間距離は今も昔も変わっていません(但し踏切に設置されているボックス外側の京都起点距離表記は、保津峡付近旧線時代のものがそのまま使用されているほか、キロポストも保津峡付近旧線時代のまま交換されていない)。
@@rhscm989 運賃もですが、前日特急に乗っていて感じたのは園部ー二条の近いこと!
素晴らしき、ジョイント音♪
このミュージックが懐かしい♪
次回見る時は、
駅弁を買って大画面で見ながら楽しみます♪
ありがとうございます。
なくなる事が分かっていたので、後から自分で楽しむ用に撮りました。シェアできて良かったです
地上駅だった頃の二条駅、貨物ヤードも健在ですね。懐かしいです。
池田雅史 この頃の二条駅は田舎感があって広々としてよかったですね。
今は私鉄の駅みたいです。
貴重な映像ですね、素晴らしい
子供の頃思い出しました
コメントありがとうございます。二条周辺の変化は信じられないくらいですね。ほかにも京都~園部を記録したビデオが残っていますので、順次アップしていきます。
福知山線電化で12系がこっちに回ってきたので、やっと普通客車列車が冷房化されたのが嬉しかった。12系投入で捻出された50系は確か津軽海峡線に回ったんじゃなかったかな。
591 kumoha そうでしたか
お2人さん>
現在でも1両だけ50系が塗装はおろか、往時の内装はそのままで家庭用ルームエアコンを追設して、京都鉄道博物館の敷地内というか、蒸気機関車を留置するスペースに最も近い位置に静態保存されています。
それくらい知ってますよ
そうですね 電気暖房仕様が全て北海道仕様に改造されて蒸気暖房仕様だけになったと記憶しています 博物館のラウンドハウス脇の68号は家庭用エアコンを据え付ける形で現役時代叶わなかった冷房取り付けされたのを皮肉に思っています あれが存在していたらレッドトレインももう少し長生き出来たのにね
本線のあちこちで、新線移行工事がチョコチョコと進捗しつつあった、単線末期の頃の山陰本線。私もよく利用しました。いい思い出です。
その単線区間も、嵯峨野線の愛称区間に含まれる京都~園部間では、タキイ種苗の本社屋が建っているあたりにほんのわずかながら残るだけになりました。
懐かしい光景です。二条から花園へ向かう途中に当時の我が家があったのですが、カットされたか撮影されていなかったのか、その部分がなかったのが残念ですが、貴重な映像をありがとうございました。
元のテープを確認して、もしカットしてるのなら別とアップしますね
@@user-tabiichiro 返信ありがとうございます。現在の円町駅より西側になります。ちょうど花園大学の横を通る南北の道のあたりなんですが。あるといいなぁ。
@@サイアムパラゴン 今ノーカット版をアップしますが、少しだけ伸びるくらいです。
写っているといいのですが
またほかにもありますので
こちらもどうぞ
ua-cam.com/video/mRziO8XXBbY/v-deo.html
不思議だ…。
紛れも無い京都駅なのに全然違う…。
TK IB そうですよ!
場所は同じで、所々同じ建物もあるのに、汽車旅情を感じる空間はどこへ行ってしまったのか!
まだ京都駅ビルもできてない時代ですからね。ただ電化するすぐ前ぐらいの動画や思います。京都駅ビル前に既に嵯峨野線は園部まで電化はしました。
いやあ、懐かしいなぁ。
このころはよく京都市内の歯医者に通ってたから単線時の雰囲気を良く覚えています。
また、数年後は京都市内の高校に通っていたので懐かしいです。(複線化してましたが)
古い駅舎の二条駅。
嵯峨駅から保津峡へのトンネルへの入り方。
単線の保津峡駅
トンネルから出た馬堀の雰囲気。
今でもたま~に夢で見ることがあります。
今ではトロッコ列車でしか通れないですが、当時はその路線が普通でしたからね。
記録映像として残し続けてもらいたいものです。
へなちょこはんまー
トロッコ列車料金を払わなくても楽しめたおトクな時代でしたね。
急行「白兎」の動画も出てきたので、またアップします。
へなちょこはんまーさん>
現在の嵯峨嵐山駅から西隣の保津峡駅へ向けての最初に登場するトンネルへの入り方>>
単線非電化時代はそのまますんなりと一直線で最初の亀山トンネルに入っていましたが、現在は右へ緩くカーブを描きながら小倉山トンネルに入っています。
私、京都学園大学卒ですので、この路線で二条から亀岡までまさにこの車両、旅気分で堪能してましたよ🚃
後年娘と帰省したとき、その跡地を走るトロッコ列車も楽しみました
最後の頃に間に合ったのですね。
二条に通う友達が客車通学できるので羨ましいと思いました。
京都市内に住みながら毎日汽車旅でしたね
@@user-tabiichiro 87〜90年度が大学生でした
@@小川雅光 ほぼ同年代ですね。途中から電化したのではないでしょうか。
@@user-tabiichiro 88年に新線に移り、89年から電化でしたか
オープニングは現在関空特急「はるか」が使用している現在の30番ホーム(当時は山陰1番ホーム)に朱色のキハ47形2~10連が停車していて、現在主に特急「きのさき」「はしだて」「まいづる」の最大7連が使用している現在の31番ホーム(当時は山陰2番ホーム)からこれからご覧いただく321レが発車するシーンで始まっていますが、客車鈍行のほとんどが気動車に置き換えられると同時に、この動画にはありませんが現在の32・33・34番ホーム(34番ホームのみ降車専用で、実はこれが日本の鉄道駅におけるホーム番号としては一番大きい数字を用いており、十の位の数字が3になっている理由は山陰本線の「さん」にかけている)が後付けで設置され(いずれも当時は山陰3・4番ホーム)、現在の姿に生まれ変わります(後に駅ビル設置で薄暗い佇まいへと化したほか、30・31番ホームからのみアクセスできる「西洞院口」をビックカメラ開店の際に追設した)。
rhscm989 別の動画で32番ホームの工事をしてるところが写っているのがあります。
今は本当にここがそうだったのか?と思うくらい変わってしまいましたねを
電車でGO!で山陰本線を知ったのは今から20年ほど前の小学生の頃ですが、5年ほど前まで新ルートに変わってたりしたことを知らずに旧二条駅、嵯峨ー馬堀間の旧線の映像が見たくてUA-camで調べたところこの動画がヒットしました。今の山陰本線京都ー亀岡間はなんの風情も無く普通の路線になってますが、僕はこーゆー風景が好きです。
凄く楽しませて頂きました。ありがとうございます。
けんchannel
今は本当に電鉄の路線のようで面白くないですね。
この景色がなくなりゆく時に残したいと思い記録したのですが、こんなに変わるとは思いもしませんでしたありがとうございました😊
けんchannelさん>
①まず、こーゆー風景だった頃にも馬堀~千代川間といった亀岡市内の駅近辺には既に宅地化の波が押し寄せており、さらにその後園部までにそれが押し寄せるようになってきたため、馬堀~園部間の各駅から京都市内への通勤通学需要に対応するべく、普通列車でもメインとなる京都~福知山間のほかに京都~園部間の区間列車を多数設定していました。
②次に、京都~亀岡間は何の風情もなく普通の路線になった理由は、特に現在の嵯峨嵐山~馬堀間では景勝地を鑑賞できる旧線のままだと速度制限区間が複数あり、複線電化ができないために新たにトンネルを掘り直して別のレールを敷き直し、1989年3月5日始発列車から非電化のまま複線の新線へ移行し(それと連動して保津峡~馬堀間は駅間距離が従前と比較して1.6㎞短縮)、翌1990年3月10日の京都~園部間の部分電化に備えたからです(その後直流電化区間は1995年4月20日に先行電化されていた綾部~福知山間と合体させる形で1996年3月16日に綾部まで延長されて既存の福知山~現在の城崎温泉間と繋がり、さらに2010年3月13日にはタキイ種苗の本社屋が建っているあたりを除いて京都~園部間が複線化されるまでに至った)。
初代「電車でGO」山陰本線の逆方面ですよね
あれは上りでしたか?
嵯峨駅は地元なんで懐かしいです!トロッコもまだなくあんな感じの駅舎だったなあ
denwani denwa 嵯峨駅が建て替えられたのは10年ちょっと前でしたかね。
久しぶりにいったら駅が変わっているのでショックをうけました。
めっちゃ懐かしいです。馬堀駅前のあの踏切!馬堀駅ホームの曲線!
ありがとうございます。
ローカル然とした馬堀駅も味がありましたね
京都駅ビルできる前に既に嵯峨野線は電化はしてましたよね。この京都駅のホームの時代でも、ワンマンで電化してたん覚えてます。ただ嵐山のトンネル付近は電化工事してるのがうつってますね。電化寸前前の時代はまだトンネルができてないし、亀岡市や園部町はバスのほうが早くて河原町から急行バスを京都交通が出してたんやけど乗れへんかったん覚えてるわw
この時代は新線切り替え直前で保津峡駅からも新駅工事が見えましたね。客車の中から新線を見上げ、寂しく感じました
小学生の頃、保津川まで遠足に行くの時に乗ったのが懐かしい限りです!
あの時の客車は焦げ茶色だったような気がします。
走行中も扉が開いていたので手摺持って乗り出してました!
危険でしたね(笑)
旧型客車時代ですね。昭和60年3月まではこの列車も旧客でした。
12系客車のジョイント音に後方へ流れ去る踏切の警報音が旅情を誘いますね。牽引のDD51ー1190号機に思い出があるので、とっても懐かしさを感じました。貴重な動画をありがとうございます。
ありがとうございます。
福知山のDD51は1100番代はホイッスルが高く、65のPFみたいでした。
とても懐かしかったです。見せて頂きありがとうございます。。
山陰本線です。本線ですよ。二条駅も広大な駅で貨物ヤードもあり、車両はディーゼル、DD51,キハ82,キハ28,キハ58,キハ47特急あさしお急行丹後も停車駅でした。懐かしい。
これこぞ、本来の本線駅の風格でしたね
発車ベル、駅舎、客車ともに過ぎ去り旅情感満載の映像ですね。今は呆気ない。
発車ベルはなんとも旅情を誘いますね。
10:23
円町駅
京都駅のホーム、くず入れ、発車ベル、縦書きの特急のダイヤ表、昭和へタイムスリップした感じで懐かしかったです😂
ベルが本物なのがいいですね
10:13 京都市民です。よくぞこの動画を残してくださいました。
僕が小学生の頃、この踏切に遊びに来て電車が通過した後、線路に耳を当ててガタゴト音を聞いていました。
先代の二条駅もおぼろげな記憶で、この動画を見て遠足で二条駅に集合したことを思い出しました。
感謝します。本当にありがとうございます!
ありがとうございます。
昔を思い出していただけるとアップした甲斐があります。
花園駅近くが地元なので懐かしいです。
二条駅出てすぐの歩道橋は日本最古のものだったらしいです。
二条駅で降りた乗客は改札を通らずにヤードを抜けて西の方に行ってましたね。
貴重な映像をありがとうございます。
hanakusojiro ありがとうございます
このほかにも、上り京都行きの動画もあり、旧花園駅も写っていますので、またご覧下さい
ありがとうございます。
むちゃくちゃ懐かしい😢
二条駅は、貨物扱いもあって、むちゃくちゃ広大だったんだ😢
保津川沿いの、旧線も貴重。
良い時代だったなあ
二条駅は昔は風格もあり、裏側の貨物線も多くあり、「駅」の雰囲気抜群でしたね。
山陰本線は汽車旅感に溢れていましたね
良い時代、ねえ…。
当時、長い時間をかけ毎日通学していた私としては、複線電化かつ高架化された嵯峨野線の最近の快速電車の走りっぷりの映像と比較すると
「はい、良い時代でした」と同意はしかねます。
新線切り替え電化・高架化・複線化された今となっては浮世との隔たり感がある
飯村公清 駅設備がすこしかわっただけでも、全く違って見えます。空が狭くななった
30年前のJNR線で乗車する雰囲気がやはり今の台鉄にそっくり。
Jian Ys
これが本来の僕の知ってる日本の鉄道です。
今の日本より、台湾のほうがよっぽど僕の知ってる鉄道です。
このころ花園駅から馬堀駅まで
後輩と何度となく王将に食べに行っていました。
行ったことのない王将に行こう!ということで・・・
花園駅がまだ普通の木造の駅舎の駅で
駅前に自転車が大量に止められていた時代
太秦駅開業時には3番目に並んだ
保津峡駅には自転車で行った経験
円町駅がいずれできる予定と耳にした時代
下宿の近くの小さな鉄橋付近で
東京行DD51がけん引する出雲を見て感動した想い出
帰省するときは二条駅からだった
日本風の荘厳なつくりのあの駅舎、
ネオルネッサンス様式日本初、駅舎として重要文化財となった
わがふるさとの駅と比較しても劣らない素晴らしいものでした。
そういえば卒業までに亀岡の渓山閣に行くという計画も
まぼろしのまま終わりました。
♪こんなことしてもえ~んかい
sanmaru kanmon
コメントありがとうございます。
当時の花園も二条も旅人気分を盛り上げてくれるシーナリーでしたね。
嵯峨駅も最近までオリジナルの木造でしたが、複線化で取り壊され全く別の線区になりました
sanmaru kanmon 当時の花園駅は現在の高架駅ではなかったですよね。
Klug ange そうです。
対向式ホームの地上駅でした。
田舎の雰囲気が良かった
花園駅前にラーメンの屋台があってよく父親に連れて行ってもらいました。とても美味しかった覚えがあり、今でも食べたくなります。
今でも「電車でGO!」で出会える光景
でも当時は実際に見て、乗って、楽しむこともできました。
嵯峨野線が電化&新線で開業後に生まれた私には、この映像はすごく新鮮さを感じさせます…
そして、「電車でGO!」で見覚えのある、あの光景も、今とは違う旅情を掻き立てますね…
ありがとうございます。
この景色を残したくて必死で通っていました
今となっては嵯峨野線のような秘境路線は飯田線など数少なくなりつつありますね…
子どもの頃、嵐山嵯峨野の観光で竹藪を歩いていたら踏切があって制止され、左を見たら煉瓦のポータルのトンネルからデゴイチ牽引の貨物列車が飛び出してきたのを思い出しました。
なんと!蒸気時代ですか。羨ましい
客車のある時代すごい
二条が地上にあってかなり大きい駅やったんやね
そうですね。貨物の引き込み線もあったので今よりずっとスペースが大きく、駅も立派でしたね。
@@user-tabiichiro なるほど。貨物が走ってたんですね
梅小路の貨物線も今では歩道になりましたもんね
やはり客車は長編成ですね。蛇みたいにぐにゃぐにゃと曲がるところがいいです。実際に山陰線は単区間の丹波口、京都間しか乗車していないので,よくわかりません。その時は当時の梅小路機関車館に行った時の帰りに乗りました。その時は電化されており、113系が来て、乗りました。今ではNゲージで12系と50系の編成を組んでいます。12系はトミックスで4+8の12両編成を3本、カトーも同じ編成で3本、50系も同じく4+8の12両編成を1本組んでいます。平日と大型連休の一部で12両編成で走り、土曜日、休日は8両編成で走らせるようにしています。あくまでも構想の段階です。もう1つは架空ダイヤも組んで、編成運用もしてあります。牽引機は全編成DD51で1往復だけはマニ50の4両編成+12系の8両編成で12両編成で、区間は京都、福知山間で帰りで京都駅到着後はマニ50の4両編成を分割し、その後に12系の4両編成を併結して、往復することにしています。土曜日、休日はマニ50の4両編成を分割したあとは機回しして、継続牽引にしています。平日は12系の4両編成を車両基地から牽引して、機回しし、ホームに停車している8両編成に併結したあと、そのまま往復する運用にしています。先に分割した牽引機は次の編成を牽引して、交代するようにしています。最後に単機になった機関車が翌日まで待機してマニ50の荷物列車が到着した時に後ろの4両編成を分割したあとに連結して、更に12系と連結して走るようにしています。全部架空です。以上
ありがとうございます。
模型で色々運用組んでおられるのですね。
長編成の客車は特に大きな駅でポイントを渡りながら本線に出ていくようすがたまりませんね。
懐かしいですね。客車だと編成が長く空いていたんですが、ディーゼルカーだと2両しかなくて混んでるもんだから、乗る列車が来た時に客車だと喜んだ記憶があります。どうもありがとうございました。
分かります。気動車は短い=混む。客車、長い、空いてる。
それもあって客車ばかり選ぶようになりました。
汽車旅っぽさも上ですしね。
客車列車は風情がある。旧客に取って変わった50系や12系客車ではあったが、当初は近代化された車内に感動したものだった。扉が自動でデッキ車端にも扉があることにも近代化を感じたものだった。
客車列車はほんの短距離でも「汽車旅」をしている感じがあり楽しかったですね
山陰号を良く利用しました!!懐かしい
風情、ねえ…。
当時、長い時間をかけ毎日通学していた私としては、複線電化かつ高架化された嵯峨野線の最近の快速電車の走りっぷりの映像と比較すると
「現在のダイヤなら、もう少し寝坊できたのになあ」と思います。
旅で訪れているのではなく、日々の生活ですので。
これは貴重な映像ですね!カボチャ電車のイメージでしたが、それより前なんですね!
そうです。電化前は汽車の時代でした
懐かしい 客車鈍行の乗り心地もう一度味わいたいです。
takedaさん>
僕もその意見に賛同します。
特に乗る価値が大いにあった京都を朝9時台に発車する837列車(出雲市行き)での長距離乗車(せめて乗車距離が最も少なくとも京都~綾部間だけではやりたかった)を堪能できなかったことを後悔しています。
車両も223系が走ってる今とは大違い、車内放送で円町がないのも違和感、違う路線に見えるが、でも今でもある建物が証拠かな、
京都の嵐電見てる人 二条駅周辺は街も変わりましたが、その他はそれほど変化なく、鉄道が変わっただけでも、別世界のようです
古き良き京都駅が懐かしい!
カット無しの映像が見たいです。
ありがとうございます。元テープをあたりまたアップします
懐かしいですね。今の観光鉄道トロッコの路線ですね。 21:13に今の山陰線、建設中でしょうか? トンネルの出口(入口)と橋が見えますね。
そうですね。
所々工事の様子が見られます。
この時代は亀岡に行くのも旅行の気がしました。
ありがとうございます
12系客車を牽引したDD51、ブルトレ「出雲」も牽引するんでしょうね。
どこの機関区所属かわからないですが、米子が福知山のどちらかですね。
保津峡から作りかけの今の嵯峨野線が見えましたね
田中拓也 もう新線切り替え直前だと記憶しています。最終日には15人位の鉄道フアンが集まり、蛍の光斉唱で見送りました。
DD51-1190(福知山)+12系客車8連の321レ園部行き、懐かしいねえー😀。最後尾は通勤化改造のオハフ13-1,000番台ですね。園部到着後折返し326レで京都に行き、更に折り返し833レで福知山に戻っていました。昭和61年11月~昭和63年9月迄の運用でした。
12系は61.11から運用されましたね。
この321と同じ運用の835も60.3から福知山で系統分割されてからも郵便車だけは50系の前につけて、福知山から旧客に繋ぎかえて運用しているのを覚えています
懐かしいなぁ〰️❗DD51‼️子供の頃、叔母の田舎に行く時DD54と旧型客車でした。しかもDD54よく故障するんです❗救援にDD51がきていました。今では懐かしい?思い出です。
かんだのりあき ありがとうございます。
DD54はよく故障すると聞きましたね。
客車からまだ、窓が開けられて
顔出していた時代。
あの
あー、って言いながら
口に入る風が面白かったです
あっ、113系東海道線でしてたわ笑
。裕紀 あーっていうのは、扇風機を思い出しますね
。裕紀さん>
旧型客車にレッドトレインこと50系は、非冷房だったこともさることながら窓を開けるか車内から屋上通風機のレバー操作をするのみならず、基本的に扇風機でも換気を行うという仕組みでした(後に1977年から1981年にかけて福知山に集中導入されたキハ47もこれに倣いますが)。
線路を叩く「カタンコトカタン」懐かしいです!
汽車旅をしている感がありますね
昔から二条に住んでいたので、思い出します。今はこの駅舎は梅小路周辺に、ありますね。まさかこんな駅が、あんな立派なドーム型に変わるとは
ありがとうございます。普段使っていた記憶が甦ったでしようか
京都駅出発してすぐに旧梅小路蒸気機関車館が見えましたね。
@@takumaNicoNico そうですね。車窓左手に昔の梅小路がみえます
懐かしいw 中学2年の時に毎週土曜日に京都市内から馬堀まで野球の練習に行くのに乗ってましたw 冬はドアが手動でしたねぇw
本数は少なくて不便でしたが、旅してる気分が楽しめましたね
B型双子座さん>
何しろ京都~福知山間全線(当時は90.1㎞、現在は88.5㎞)非電化時代は近接する舞鶴線・小浜線・宮津線も含め、キハ47形を充当する列車に限り「11月1日から3月31日まで 車内保温のため ドアは手で開けて下さい しめることもできます」と表記された銀色プレートがドア内外に掲げられていました。仰る通りドアが手動だったのはそのためなのです。
@@rhscm989 さん
詳しくありがとうございます😊
当時はプレートの存在に気がつかず、田舎の路線は手動なんやw って思ってましたね😅
@@B型双子座
おはようございます。
1つだけ肝心なことを書き忘れていました。そのため補足を付け足させていただきます。
福フチ所属のキハ47形運用ですが、山陰本線京都~福知山間をはじめ福知山線・舞鶴線・宮津線全線では1977年の新製導入当初から実在しましたが、小浜線乗り入れ運用が追加されたのは意外と遅く、1985年3月14日ダイヤ改正から955D~960Dの1往復に限り実現しました(同じく福フチ所属のキハ28.58乗り入れ運用はそれ以前から既に実在していた)。
政治家の石破さんが以前番組で
昔の鉄道は旅だったのが今はただの移動手段になってしまった
と言うような事を言っていたけど
この映像を見るとその通りだなと感じます
kurou tora kurou tora 特にこの区間は電化し完全な通勤路線になったので、旅から通勤に変わってしまいました。もちろんこの時代も通勤客利用はあったので、朝の京都駅へ向けての列車本数は見た目以上にありました。
時間を入れた動画もあるのでこちらもご覧いただければ幸いです
ua-cam.com/video/Lr6B5pvU_tQ/v-deo.html
旅一郎 20年位前に今で言う嵯峨嵐山の近くに住んでいて映像に映っている駅舎でとても懐かしいです
まだ小さい子供の頃でしたが実家が同じ山陰本線の綾部駅で、この先はトンネルが出来てからの記憶しか有りませんがもう少し早く生まれて青い客車にも乗って見たかったなと思いました
それからあまり詳しくないですが湘南色と言うのでしょうか、緑とオレンジ色の車両が一番たくさん走っていた頃が記憶に残っています。
園部駅できみどりと白の色のディーゼルカーのものや赤色と肌色のディーゼルカーなどに乗り継いで帰ったたものです。
車両も色によりいろいろカボチャ電車とか、キュウリ電車と勝手に読んでいました
勝手な想い出を長々と失礼しました
旅一郎 ありがとうございます、おすすめ頂いた動画も拝見させていただきます
kurou tora ありがとうございます。
上り本数は、まあまあありました。
通学で乗っていた列車
6:56(47) 始業前に図書館へ
7:04(47) バス駅到着定時の際に利用
7:12(12) 通常利用(バス駅到着遅れ)
7:22(58) 寝坊時に利用
DD51の機廻しとか懐かしい光景ですね。
客車列車ならではの儀式でしたね。
40年ちょいくらい前ですが臨時快速、丹後を思い出します。
丹後ビーチですか?
快速丹波路?丹波ハイキングだったかも運転してましたね。
9:08米子行きと10:35の間が開くのを埋める形で10:00ごろ休日のみ運転だったような。
懐かしい。本当に懐かしい。
ちゃき そう感じていただけると嬉しいてす
1年前まで高校生の時通学で利用していました。
まさかこんな路線だったとは…
電化、高架化で完全に電鉄路線になってしまいましたね。
列車の発車を告げるベルの音、このベルの音を聴いて終電に乗り遅れそうなサラリーマンやOLさんが急いで乗車されていたのを思い出します。
オッカケ小僧 本当のベルはいいですね。
旅情を感じます。
保津峡からの帰り、二条駅の1番ホームでも発車ベルが鳴り、市内の移動にもかかわらず長距離旅行をしている気になり、楽しかったです。
二条丹波口間が高架になるまえの映像はありませんか?
丹波口が高架になったのは、昭和51年なんで、流石にありません。申し訳ございません
@@user-tabiichiro ご丁寧に返信ありがとうございます。
旧丹波口駅はもう一度じっくり見てみたい駅なので・・
この青い客車の記憶が無いのですよ・・・。
そういえば、二条駅の西側には貨物ヤードがあって自動車輸送用の貨車が止まっていたと思う。
丹波口も、京果(京都中央卸売市場)の所で、貨物専用線があって冷凍貨車や貨車が何台も止まっていたのを思い出しました。
丹波口の地上時代を覚えておられますか。
僕の記憶ではすでに高架でした。
昭和43年生まれです(笑)。
ので、京都市内の市電が走っていたのも、京阪が地上を走って四条・五条・七条通りに
ワイヤー式の遮断機があって、職員さんが上げたり下げたりして、昼間は安全確認が出来たら
白旗を振り、夜間はカンテラを振って電車に合図してたのも・・。
むっちゃ余談になりますが、数年前の台風で渡月橋が流される寸前の時、
保津峡駅のワイヤー釣り橋中央部分の下、約1M位まで濁流が押し寄せていました。
下部のワイヤーに沢山の草やゴミが引っ掛かっていました。
一年上ですね。
京都市電は何度か乗っているので覚えています。
友達が「もうなくなるよ」と言っていたのが昭和52年。
それから1年で無くなりましたね。
じゃ、とりですね。
学年で行くと、二つ下、同い年、一つ下って感じで・・・。
急行に乗ると、現嵯峨嵐山駅を出てトンネルを抜けて(現トロッコ)を走って行くと
車掌さんが、バスガイドさん(笑)の様に保津川下りの説明をされていました。
すべての車掌さんがされていたかは不明ですかね。
酉です。急行すべてで案内してたかは覚えてませんが、してる時はありましたね。餘部もするときがあったと記憶しています。
貴重映像すぎる!!!!
京神 旧神京 ありがとうございます。
あと2年早ければ旧客だったので、惜しかったと思ってます
いやそれでも凄いですよ~
この数ヶ月か何年後には113系が走ってたんすね
そうですね、新線に切り替わってからは早かったと思います
新線切り替えの12ヶ月後からです。
スピードは向上し、悪夢の2両編成はなくなり、最低でも4両編成が確保されました。
でも、私の朝の通学は、7:12発の冷房9両編成(12)から7:10発の非冷房8両編成(113)に変わりました。
次の7:21発は、電化後も1本だけ残された(58)で冷房はありますが、基本的にちょっと登校に時間に余裕ないので。
当時の山陰本線京都口の通勤通学輸送を全然考慮していなかったのがよく分かります。
当時は京都に向けての朝のダイヤと京都からの帰りのダイヤに列車を集中させており、この当時ダイヤで朝の京都着の時間でいうと、7時台が01,22,31,55の4本、8時台が6.18.26.40.48の5本と単線にしては限界まで本数を走らせていました。そのあおりで朝の下り列車は2本上り列車を退避する列車もありました。
@@user-tabiichiro 詳しい解説をありがとうございます。車両がずっと50系とか12系とか客車ばかりで、ラッシュ輸送を担えていたのか不思議でした。
@@naoyak250 いえいえ、自分でもどうだったか気になったので、昔の時刻表で確認してみたところです。
@@user-tabiichiro この時代に日常的に利用していたわけではありませんが、山陰本線って京都口でもいつも田舎くさくて時代遅れというイメージしかなかったんです(お気に障ったらすいません)。
それが鉄道ファンには風情があっていいということなんでしょうけど。
@@naoyak250 歴史を紐解くと国鉄が通勤を担っていたのは東京、大阪の国電区間のみで本線系統は長距離輸送がメインでした。
福知山線も宝塚ー大阪は基本阪急電車で、国鉄は宝塚より先に行く客を運ぶ役割で競合はしていなかったものです。
山陰本線沿線も本来は亀岡以遠の客を対象としており、花園二条などは市バスを使ってほしいというのが本音だったと思います。
電車でGOの最初のロケ線です。制動の実験をしました。お遊びをしましたね!
宇佐美光男 風光明媚な路線に追加料金なしで楽しめたのが良かったですね
@@user-tabiichiro さんへ、ゲーム「サクラ大戦」も電車でGOのコントローラーを購入した事が切っ掛けでした。山陰線の保津峡は映画「蒲田行進曲」の舞台でも有ります。「サクラ大戦」は先日火災が有った「ノートルダム大聖堂」が舞台で、色々と学ぶと思います。秋葉原と云う街は電気街から御宅街に変貌しました!取り敢えづ流行は噛るべきかと思います!
非電化時代八木の親戚の家によく行きました
駅弁とポリ茶瓶が似合う
旅情感満点ですね
駅弁スタンドがホームにあり、ポリ容器のお茶と一緒に買ってましたね。
あれを見ると汽車旅をしている感じが高まりますね。
非電化の頃は八木まででも「旅」を楽しめましたね。
fal5110さん>
現在は30番のりばから車止めに最も近い位置にオープンカウンター形式の店舗を設けまして、そこで弁当販売を継続しています(ショーケースも一応ありますが、数に限りがありますので「この弁当が欲しい!」という場合はお早めに立ち寄って下さい)。
@@user-tabiichiro
中身に何も入っていない「ポリ茶瓶」のみでしたら、現在でもどこらかしこの通販サイトで何本1セットとして入手可能です。是非お試し下さい。
@@rhscm989 前回釧路駅で買ったものがまだ手元にあります。
ありがとうございます😊
懐かしい!まだ園部に特急が停まらない頃の映像ですね?
川端洋司 確かそうでした。
全特急列車の園部停車が実現したのは、2004年10月16日改正のことでした。
@@rhscm989 あの頃は急行全盛期で急行「丹後」が園部に停車してました。特急「あさしお」は園部を通過していた記憶があります!
今となっては、もうほとんど面影がありませんね(>
そうですね。
周りの建物から想像するのも難しくなってきてます
I played this old track on 電車GO😂😂,and glad to see the real video clip
I am happy to hear that you can enjoy this movie.
冒頭の京都駅の時刻表が縦書きなのと、パタパタ式の行先表示は今では見られない光景です。
縦書きの時刻表は戦前を思わせる味がありますね。
汽車という感じがでています。
よく複線の用地が確保出来たと感心します
京之ひろ 築堤を走っていたので、裾までの幅がありました
京之ひろ 築堤を走っていたので、裾までの幅がありました
ありがとうございました 懐かしいです
おおみなとあやき コメントありがとうございます。懐かしく感じていただけたら嬉しいです
二条駅から ガソリンタンク車の引き込み線が南に延びていて 三条通を踏切っていて DD13の牽引するタキ3000を永い時間待たされ イライラしていたのも今は懐かしいです
それはいい思い出ですね。サークルの友達のところが二条駅の裏で、かなり遠回りしないといけなかった事を覚えています
利便性向上、スピードアップ、合理化の号令のもと、こういう風情が失われてゆく…仕方ないことかも知れないけど。でも今当たり前と思っていることも10数年後くらいには、この映像のようなノスタルジーになっていくのかな…。
居住して利用していた私としては、「風情」のために毎日早起きして通学したくないです。
学校の帰りに、二条駅の駅舎を見て「未だにこんな建物使ってるのか」と、当時ですら思っていました。
二条駅が高架になる前の貴重な動画有難う御座います旧亀岡駅はありませんか?
電GO プロフェッショナルに収録されていた
DD51+12系客車の普通列車ですね😂
そうですね、実際の活躍は85年ー90年位でしたね
@@user-tabiichiro そんなに短い期間だったのですね😲
二条駅が懐かしい
嵯峨~馬堀間のレールの音が懐かしい
保津峡駅でのすれ違いも思い出しました
ありがとう (^^ゞ
タイムスリップしてくださいね、
こんな重要な路線なのに、来年(2022年)の春に、亀岡から先が合理化されるものね…乗って楽しい自然ある景色なんだけどね。
合理化計画があるのですか?
まさかの2両ワンマン化?
@@user-tabiichiro 京都縦貫自動車道の完成に、コロナが追い討ちをかけて、沿線利用は激減。小浜線.舞鶴線.山陰線福知山エリアでも、大幅減便は避けられないのかもしれません。2021年秋に、小浜線はただでさえ早い終電を、1時間繰り上げています。
@@user-tabiichiro あ。ごめんなさい。具体的なウワサとしては、昼間の亀岡-園部の普通列車を半減するとのことです。特急も減らすのでは?と言われています。
正しくは快速のみ1時間間隔にしただけで、亀岡~園部間のワンマン化まではしていません。
この頃、保津川下りはあったんですか?
【KAGINO】 鍵乃
ありましたよ。
少なくとも僕か小学生だった、昭和50年代前半にはありました
慶長11年3月に角倉了以が急流である峡谷を開削して水路を作る工事に着手して、
明治40年の夏目漱石の虞美人草には、
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける、二人は丹波行の切符を買って亀岡に降りた。保津川の急湍は此駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油の趣をなす。岸は開いて、里の子を摘む土筆も生える、舟子は舟を渚に寄せて客を待つ・・・
と記してあります。
明治28年頃から保津川下りは始まったとの事です。
まだ国鉄時代の映像でしょうか。
この動画ら民営化直後です。
国鉄時代の同区間は、
【国鉄時代】急行「白兎」 京都発米子行き キハ58系
ua-cam.com/video/CNdJzcKGkec/v-deo.html
ここにアップしています。
電車でGOでよく運転しました
この区間があるようですね。
僕は一番はじめの京都ー大阪しかやったことがないのですが。
北陸線の真っ青色413系最初に見た時、デジャブー感じたんだが、これだったか 1:30
大須万 12系に見えますね
お分かりいただけただろうか
何が見えましたか
普通に格下げされて、塗装ものっぺりしてる(笑)
オラハハハ 始めて見たときは違和感ありました
懐かしいですね。昔の二条駅
西大路通ですね
円町のあたりは西大路です。
慣行。
嵯峨野観光鉄道は、遅すぎるからこれくらい速く走って欲しい。
阿部大輔
この時代には見向きもしなかった観光客が、嵯峨野観光鉄道になってから押し寄せてるのが、解せません
61年11月から62年3月まで撮影ですね
12系にJRマークはついてませんか?
昔亀岡田舎だった?
駅の反対側は何もなかったですが、表はそれなりに発展していましたよ