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私の母も蟹田から津軽線で通学していた。50年前本数も多かったしぎゅうぎゅうだったそうです。ちなみに松坂大輔の母親も蟹田出身。
蓬田や蟹田が非電化というのは貴重な映像ですね!この8年後に暫定とは言え、日本の大動脈になるとは想像がつかない。
@TheDD511001 本当に突然の大出世だったんでしょうね!キハしか走っていなかったのが、いきなり特急電車や寝台特急や貨物が走るんですから。旅客列車は新幹線に役割を譲ったとは言え今も貨物の大動脈であるのは間違いありませんね!新幹線よりも多く走っていることを考えると複線化してもいいくらい走っていると思います。
昔五能線にもキハ22が来ていたが、彼らも津軽線に乗り入れていたのだろうな。40年近く前、能代~東能代の単行シャトル運用に充当されていたキハ22に乗った時の写真が残っているが、現役22に乗ったのはあれが最後だった。この映像の中に彼が写っていたら嬉しいな。
この特急や寝台列車が懐かしかった光景も、今ではのどかな普通列車がほとんどになってしまいましたね。非常に寂しい気がします。
キハ22の5連が津軽線で走っていたとは思えない。今なんかキハ40の2連だし...
気動車5両?今は蟹田までの電化区間で電車4両、蟹田からの非電化区間で最大2両です。今は三厩駅は無人駅、蟹田駅は業務委託駅になってます。
この頃はトンネル工事絡みで人が多いですね。
津軽半島はほぼ北海道と同じ気候なのに、何故かキハ40は耐寒耐雪構造の二重窓北海道仕様ではなく、本四九同様上段下降式窓が採用された。それまではキハ22が主流だったので寒くなかったのだろうか、と。当時キハ22は左沢線や上山駅で確認したのが最南端だったが、キハ40は構わず北上して遂に今別三厩に至った。
国鉄時代は八戸機関区のキハ22が東北線、八戸線、大湊線、大畑線、津軽線など担当でしたね、当時は編成も長いしお客さんも多かったですね、青森市営バスも青森から蟹田行があって、三厩、竜飛へ路線がありました、蟹田ー三厩間だけは昔と代わりませんね、国鉄の頃は三厩発の最終は17:59でした、現在は10分位早いと思います、他に三厩ー福島間には平成初期まで東日本フェリーの航路ありましたね、旅客運賃が¥800位で安価でした、北海道側は函館バスの福島バス停に近いので便利でした、今は船舶老朽化で廃止になりました。
国鉄ですから、三厩をみうまやって読んでますね
津軽地方は津軽アイヌなのでアイヌなまりなのでは?
三(み)厩(うまや)だから、読みは「みうまや」が普通なのか。今は三厩(みんまや)ですね。
漢字的には、「厩」は「うまや」と読むのが正解です。だから国鉄では「三厩」を「みうまや」と読ませています。ただ、地元の人は「みんまや」と呼んでおり、訛りはなくなりませんでした。その後「みんまや」が正式な駅名になり、今に至ります。ちなみにアイヌ語との関連は不明です。理由は①アイヌ語は文字がなく、地域によって差が激しいから②本州のアイヌは同化して長い年月が経っていたから③アイヌ語との関連を調べようにも、アイヌ語を母語とする人は消滅したからなどが挙げられます。
蟹田~瀬辺地の車窓は最高です。
ついに廃止が決まったとのことで...高校卒業記念に津軽線に乗ってきました。その時に走破したのが最初で最後でして、久しぶりの竜飛崎や奥津軽いまべつ駅を訪問したりなど充実しましたが、その5ヶ月後に被災し今年廃止が確定したことに胸が痛みました。欲を言えばキハ40時代に走破すればよかったと一生の後悔ですが。映像のように4-6両の中編成がもう津軽線に現れないということを考えると利用者がどんどん減ったと同時に時代の流れを感じました。しかも岩泉線や根室本線 富良野〜新得、日高本線 鵡川〜様似に次ぐ被災→復旧せず廃止という4例目となりました。このような廃止路線が今後増えぬことを願うばかりです。
早朝に通学用の旧客列車が運転されていましたね。懐かしい。
あなた今別高校に行っていました?通勤時間の津軽線は今別行きでしたよね
三厩駅でこれだけ多くの人が乗り降りすることなんてもうないんだろうな
今や(2018年秋)蟹田は、CTC制御の無人駅😭。夜中の上りカシオペア、蟹田で停車していたのを見たり、夜間客車列車急行・はまなすの車掌さんと、青森駅で記念撮影は遠い昔の思い出です・・・
無人駅でしたっけ?
勝手に無人化しないでください…まあ早朝夜間は確かに無人駅になってますが
583系懐かしいです津軽線編成長い
私の母が津軽線の方の出身なので通学に使用していたとか、当時は30分間隔で走っていて座れないほど混雑もしていたほど利用者が多く、朝にDD51が引っ張る客車が必ずあったそうです。
その後朝の1往復が東北新幹線全通まで485系とE751系で運転されていました
5:41ぐらいからのテロップ、電化は正しいですが複線化はされてませんよね。
koekitj 5:41
なつかしい♪
津軽二股駅前には、道の駅があります。また、隣接する、北海道新幹線の、奥津軽いまべつ駅の券売機で、津軽二股始発の乗車券が購入できます。(19-08-01)
wiki見たら・・昼間は駅員居る?みたい。去年、下り22時台の最終電車乗ったら、瀬辺地過ぎたら車掌がやってきて、蟹田駅員居ないので、切符拝見しますね~と言われ、なんか寂しく思えた。
大動脈なのだから、複線化など、高規格化すべきだった。北海道側の江差線も含めて。もっともあと3、4年で新幹線が通るから、もう遅いけど。
瀬戸大橋線になった宇野線も単線区間が残ってるしねえ。国鉄末期で予算不足が響いたとしか。貨物専業なら単線でもいいかもしれない。今でも新幹線より貨物の本数のほうが多いハズだが。
しかしそれにしても地方地方で、青函トンネル開通時期が実に曖昧だったのもさすが昭和末期ならでは((昭和)55年と思ったり57年と思ったり、はたまた60年と思ったり)ですね(^-^)(結局は昭和63年(1988年)開通で大団円)
本州にもキハ22いてたんやな
青森~中小国間は映像当時→タダのローカル線昭和63年~現在→日本の大動脈でも、中小国~三厩間は静かなローカル線のままですね。
2016年3月からは大動脈ではありますが専ら貨物の、という位置づけになりますな。道南いさりび鉄道と違って運営会社が北海道と東日本で違うから三セク化を免れたのは幸運でしたが。
三厩がみんまやでなく、みうやまと言われた時代。懐かしいなぁ。
やっぱりキハ22は北国が似合う
運賃高いです水中翼船
音楽が・・。
三厩駅・・・黄線はともかく白線も無いとは。
三厩村>いかどころかマグロ取れそうであまりにもにぎやか過ぎそうな気配((((;゜Д゜)))
私の母も蟹田から津軽線で通学していた。50年前本数も多かったしぎゅうぎゅうだったそうです。ちなみに松坂大輔の母親も蟹田出身。
蓬田や蟹田が非電化というのは貴重な映像ですね!
この8年後に暫定とは言え、日本の大動脈になるとは想像がつかない。
@TheDD511001 本当に突然の大出世だったんでしょうね!
キハしか走っていなかったのが、
いきなり特急電車や寝台特急や貨物が走るんですから。
旅客列車は新幹線に役割を譲ったとは言え今も貨物の大動脈であるのは間違いありませんね!新幹線よりも多く走っていることを考えると複線化してもいいくらい走っていると思います。
昔五能線にもキハ22が来ていたが、彼らも津軽線に乗り入れていたのだろうな。
40年近く前、能代~東能代の単行シャトル運用に充当されていたキハ22に乗った時の写真が残っているが、現役22に乗ったのはあれが最後だった。
この映像の中に彼が写っていたら嬉しいな。
この特急や寝台列車が懐かしかった光景も、今ではのどかな普通列車がほとんどになってしまいましたね。非常に寂しい気がします。
キハ22の5連が津軽線で走っていたとは思えない。今なんかキハ40の2連だし...
気動車5両?今は蟹田までの電化区間で電車4両、蟹田からの非電化区間で最大2両です。今は三厩駅は無人駅、蟹田駅は業務委託駅になってます。
この頃はトンネル工事絡みで人が多いですね。
津軽半島はほぼ北海道と同じ気候なのに、何故かキハ40は耐寒耐雪構造の二重窓北海道仕様ではなく、本四九同様上段下降式窓が採用された。それまではキハ22が主流だったので寒くなかったのだろうか、と。当時キハ22は左沢線や上山駅で確認したのが最南端だったが、キハ40は構わず北上して遂に今別三厩に至った。
国鉄時代は八戸機関区のキハ22が東北線、八戸線、大湊線、大畑線、津軽線など担当でしたね、当時は編成も長いしお客さんも多かったですね、青森市営バスも青森から蟹田行があって、三厩、竜飛へ路線がありました、蟹田ー三厩間だけは昔と代わりませんね、国鉄の頃は三厩発の最終は17:59でした、現在は10分位早いと思います、他に三厩ー福島間には平成初期まで東日本フェリーの航路ありましたね、旅客運賃が¥800位で安価でした、北海道側は函館バスの福島バス停に近いので便利でした、今は船舶老朽化で廃止になりました。
国鉄ですから、三厩をみうまやって読んでますね
津軽地方は津軽アイヌなのでアイヌなまりなのでは?
三(み)厩(うまや)だから、読みは「みうまや」が普通なのか。今は三厩(みんまや)ですね。
漢字的には、「厩」は「うまや」と読むのが正解です。だから国鉄では「三厩」を「みうまや」と読ませています。
ただ、地元の人は「みんまや」と呼んでおり、訛りはなくなりませんでした。
その後「みんまや」が正式な駅名になり、今に至ります。
ちなみにアイヌ語との関連は不明です。理由は①アイヌ語は文字がなく、地域によって差が激しいから②本州のアイヌは同化して長い年月が経っていたから③アイヌ語との関連を調べようにも、アイヌ語を母語とする人は消滅したからなどが挙げられます。
蟹田~瀬辺地の車窓は
最高です。
ついに廃止が決まったとのことで...
高校卒業記念に津軽線に乗ってきました。その時に走破したのが最初で最後でして、久しぶりの竜飛崎や奥津軽いまべつ駅を訪問したりなど充実しましたが、その5ヶ月後に被災し今年廃止が確定したことに胸が痛みました。欲を言えばキハ40時代に走破すればよかったと一生の後悔ですが。映像のように4-6両の中編成がもう津軽線に現れないということを考えると利用者がどんどん減ったと同時に時代の流れを感じました。
しかも岩泉線や根室本線 富良野〜新得、日高本線 鵡川〜様似に次ぐ被災→復旧せず廃止という4例目となりました。このような廃止路線が今後増えぬことを願うばかりです。
早朝に通学用の旧客列車が運転されていましたね。懐かしい。
あなた今別高校に行っていました?通勤時間の津軽線は今別行きでしたよね
三厩駅でこれだけ多くの人が乗り降りすることなんてもうないんだろうな
今や(2018年秋)蟹田は、CTC制御の無人駅😭。
夜中の上りカシオペア、蟹田で停車していたのを見たり、夜間客車列車急行・はまなすの車掌さんと、青森駅で記念撮影は遠い昔の思い出です・・・
無人駅でしたっけ?
勝手に無人化しないでください…まあ早朝夜間は確かに無人駅になってますが
583系懐かしいです
津軽線編成長い
私の母が津軽線の方の出身なので通学に使用していたとか、当時は30分間隔で走っていて座れないほど混雑もしていたほど利用者が多く、朝にDD51が引っ張る客車が必ずあったそうです。
その後朝の1往復が東北新幹線全通まで485系とE751系で運転されていました
5:41ぐらいからのテロップ、電化は正しいですが複線化はされてませんよね。
koekitj 5:41
なつかしい♪
津軽二股駅前には、道の駅があります。また、隣接する、北海道新幹線の、奥津軽いまべつ駅の券売機で、津軽二股始発の乗車券が購入できます。(19-08-01)
wiki見たら・・昼間は駅員居る?みたい。去年、下り22時台の最終電車乗ったら、瀬辺地過ぎたら車掌がやってきて、蟹田駅員居ないので、切符拝見しますね~と言われ、なんか寂しく思えた。
大動脈なのだから、複線化など、高規格化すべきだった。北海道側の江差線も含めて。
もっともあと3、4年で新幹線が通るから、もう遅いけど。
瀬戸大橋線になった宇野線も単線区間が残ってるしねえ。国鉄末期で予算不足が響いたとしか。
貨物専業なら単線でもいいかもしれない。今でも新幹線より貨物の本数のほうが多いハズだが。
しかしそれにしても地方地方で、青函トンネル開通時期が実に曖昧だったのもさすが昭和末期ならでは((昭和)55年と思ったり57年と思ったり、はたまた60年と思ったり)ですね(^-^)
(結局は昭和63年(1988年)開通で大団円)
本州にもキハ22いてたんやな
青森~中小国間は
映像当時→タダのローカル線
昭和63年~現在→日本の大動脈
でも、中小国~三厩間は静かなローカル線のままですね。
2016年3月からは大動脈ではありますが専ら貨物の、という位置づけになりますな。
道南いさりび鉄道と違って運営会社が北海道と東日本で違うから三セク化を免れたのは幸運でしたが。
三厩がみんまやでなく、みうやまと言われた時代。懐かしいなぁ。
やっぱりキハ22は北国が似合う
運賃高いです水中翼船
音楽が・・。
三厩駅・・・黄線はともかく白線も無いとは。
三厩村>いかどころかマグロ取れそうであまりにもにぎやか過ぎそうな気配((((;゜Д゜)))