【安土城】織田信長が低い山を選んだ理由とは?地形図でわかる幻の城

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  • Опубліковано 14 лип 2023
  • 安土城は織田信長の居城としてあまりにも有名。
    安土山の山頂に建てられた「天主」は一度見たら絶対忘れられない不思議な形。外観五重六階地下一階(といわれている)の巨大な建物の内部は、1階から4階までが吹き抜けで御殿のような造り。その上に八角形のお堂のような建物と上に四角の望楼が乗っていました。外観は黒・朱・蒼・金などの派手なカラー。そして信長は実際にこの建物に住んでいたようです。
    また安土城は、それまでにない「たくさんの石垣を使った城」でもあります。この石垣は現在も残っているのですが、すごいのはこの上に「建物をのせることができる」ように造られていること。これによって石垣の端ギリギリに櫓や塀を建てることができるようになるんですね。これは当時の最先端技術。それまでの城の石垣とはちょっと違うのです。
    織田信長が安土城を築いたのはライバル大名たちを次々と滅ぼし天下統一(畿内統一)が見えてきた頃のこと。巨大な権力を手に入れた信長だから、一流の石工や大工や絵師を好きなだけ呼び寄せ、理想の城を築くことができたんですね。
    ところで信長はどうして安土山を選んだのでしょうか。安土城があるのは現在の滋賀県近江八幡市。近くには東西だけでなく北陸や伊勢につながる街道が走っており、また琵琶湖の水運も使える交通の要衝です。ですが地図を見ながら考えていると、不思議だなと思うことが浮かんでくるんですね。
    信長の安土城は、「繖(きぬがさ)山」の隣にあるオマケみたいな山(丘?)に築かれていたんですね。敵の攻撃を防ぐにはより高い位置にいたほうが有利。だから「繖(きぬがさ)山」に城を築いた方が立派なものができそうですよね。実は「繖(きぬがさ)山」には前の領主六角氏の「観音寺城」がありました。この城も石垣で囲まれたたくさんの曲輪が並ぶというかなり立派な造りだったようです。しかし信長はこれを使わず、隣の小さな山に安土城を築くのです。いったいどうしてなのでしょうか。

КОМЕНТАРІ • 14

  • @hide_sugawara
    @hide_sugawara Рік тому +1

    あら!意外な盲点。観音寺城だったトコの隣りだったんですね。近くの土地位に思ってました。

  • @user-kazenodrone23
    @user-kazenodrone23 11 місяців тому

    この上層が独特ですよね😉

  • @user-qu6nf3pm6l
    @user-qu6nf3pm6l Рік тому +2

    現在は立入禁止の場所が多いですが、無料で自由に入城できた昔に伝台所跡・八角平・搦手登城路・三の丸等を藪漕ぎしながら散策しました、主要部分のみならず全山が石垣で築かれている城です。今は樹木に埋もれて大半が人の目に触れる事がない壮大な石垣群が整備公開されれば今まで以上に壮麗豪華な天下人の城で有った事が分かるはずです。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому

      立入禁止多いですね。決められた場所しか見学できません。今後の調査と整備がどうなるのか楽しみです。

    • @TAIRA_TAKAMORI
      @TAIRA_TAKAMORI Рік тому

      確かに以前は自由に入れましたが「マムシに注意」という立札が多くて、あまり奥には行きませんでしたねw

  • @user-gp5qd8vo9x
    @user-gp5qd8vo9x 5 місяців тому

    復元想像図の安土城天守閣は明かり取りの窓が少なすぎで土蔵みたいな暗い内部で伴天連の記録とは随分違うようですね。
    もっと外から光が取り込めるような構造ではなかったかと思います。
    床面積は名古屋城天守閣並みに広い事から考えれば既に否定された吹抜け構造が戦時にも実用的です。
    姫路城天守閣は通し柱二本あるがもしかしたら今の姫路城天守閣は織田時代の4層天守閣かも。
    江戸時代に改造されて内部は薄い床板の6階構造にされて吹抜けは廃止こうして重い大砲は装備出来なくされたようです。
    安土城天守閣も元は通し柱数本の吹抜けに吊り下げ桟敷(エレベーター)を持ち分厚く頑丈な床に大砲を装備出来た構造と天守閣北側は全階高欄付きの板扉て全面から光を取り込める明るい内装だったと推測します。

  • @user-we3fd5tb8o
    @user-we3fd5tb8o 7 місяців тому +1

    信長さんはヨーロッパへ
    光秀さんは坊さんに
    あとは秀吉さん頼んだよ

  • @user-rw2qo7gs2i
    @user-rw2qo7gs2i 7 місяців тому

    本願寺の地を明け渡せと顕如を威してたから、間違いなく大坂の地には信長が築こうとしていた城があったでしょうね。

  • @sempojp
    @sempojp 11 місяців тому

    織田信長は、戦争向けの城じゃなくて、水運(水軍じゃないよ)重視ですよね。干拓地を湖とすると、今よりも、水辺が近いことがわかります。安土城は、道が曲がってないし、その前の、岐阜城でも麓の居住地の方を重視してました(岐阜は長良川の水運)。それ以前は、簡易的な砦としての城と、平地の生活拠点(清州・五条川の水運)を設ける方が多かったしね。
    現在に残る城は、石山本願寺の生活と守りの両立した点に目をつけた大阪城以降の考え方ですよね。

  • @user-cz7je6qd1g
    @user-cz7je6qd1g 11 місяців тому

    何か、家康や秀吉の城を見た後に見ると、信長の城は防御が薄い気がしますね。京都滞在も本能寺ですし。対して秀吉は聚楽第、家康は伏見城。

  • @user-xz5lk1lb4s
    @user-xz5lk1lb4s 11 місяців тому

    なんで信雄は燃やしてしまったんだろう?

  • @xxz3-t.k
    @xxz3-t.k 8 місяців тому

    戦の
    ための城🏯でわ無い

  • @user-hk6ng6dk2f
    @user-hk6ng6dk2f Рік тому

    エレベーターはないのか?

    • @TAIRA_TAKAMORI
      @TAIRA_TAKAMORI Рік тому +2

      唐津城は本丸までエスカレーターで行けますw