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4:38~の芝が広がるスペースは十数年前までここに中学校が建てられており、市役所も城の南側の土累部分(6:00~の場所)食い込む形で以前は建てられていました今の土累は市役所を道路挟んで向かい側に移転させた後に再整備したものになりますこの20数年くらいで市役所も中学校も他に移転され、小牧山城はかつての姿に整備されるようになりましたねここにかつて、信長も秀吉も、そして家康も居たと思うと胸が高鳴ります😄
朝早く登城したのですがお年寄が沢山登っておられて多くの方とすれ違いました。天守脇の自販機でのんだジュースに癒やされました。石垣の城を安土城以前に敢行していた信長の慧眼には驚きです。
最後に小牧山に登ったのは30年前か、、、久しぶりに地元に帰ったら行こうと思います😊地元の動画嬉しい😂
つい先日小牧山城を訪れたのですがその時は再び発掘調査を行ってました!地元の人っぽい方々がしていたので小牧山城はとても地元の方々に愛されてるんですね
小牧山城ができたときに、いつかビッグになってこの城のビッグ版つくろうと思っただろうに、実際安土城ができた時は感無量だったでしょうねえ。
石山本願寺の跡地(後の大坂城の位置)に、信長は更に天下布武の決定版の城を築こうとしていたそうですよ。後に秀吉が築きましたが、信長版の大坂城って、どんなんだったんだろう。
地元の城が紹介されて嬉しいです!
信長公と言えば、安土城と岐阜城に情報が集中しがちですが、小牧山城を取り扱ったものは少ないので大変勉強になりました。
コメントありがとうございます。次は岐阜城をやりますのでまたよろしくお願いします。
天守閣まで真っ直ぐのびる大手道に信長の生き方そのものが強く表れている気がしました。
信長の発想って面白いですよね!
@@kainosuke-rekishi 😊
@日本丸大好き ☺
清洲城・小牧山城・犬山城・岐阜城と順に登ってみると濃尾平野がいかに広大な平地で、天下統一の基盤となる経済力の源だったかが良く分かります。
コメントありがとうございます。特に岐阜城からみた景色は濃尾平野の広さを実感できました。
信長が天守を考案したんですね!さすがです!安土城が現存していたら国宝で世界遺産間違いないのに!
今晩はこんなに綺麗に整備されているんです驚きでした雑草だらけと思ってました逸話も良く分かりました👍
綺麗に整備されていました。頂上の石垣が埋められて見ることができなかったのが残念でした。想像します。
小牧山の石垣の崩れを推測します。昭和の戦時中の末期に名古屋・愛知周辺で巨大地震がありました。名古屋周辺には、ゼロ戦その他の工場がたくさんありましたが、その多くは倒壊しています。特に、大型の製造機械を入れるために、柱や壁の補強を減らしていたので、動員されていた学生が下敷きになりました。地割れが開いたり閉じたりして、そこに落ちてぺしゃんこになったり、足を取られて切断する人も居ました。この地震は戦後もあまり知られていないのが不思議です。当時の新聞も記述が少ないのですが、揺れは直接アメリカに察知され、大震災が工業地帯を直撃したことが知られています。これを契機に、製造施設を松代の地下防空壕に移転します。おそらくこの時の大震災が、小牧山の石垣を崩したのではないでしょうか?小田原の一夜城址の石垣も、関東大震災で崩れていますね。
普通なら砦にする最前線拠点を本城にするという、個人的には信長の最大の革命的個性かつ天才性。
小牧山城についての動画はあまり見たことがなかったのでとても参考になります!石垣が崩れてたのは天正大地震か慶長年間の地震郡のいずれかの影響かもしれないですね。
ありがとうございます。地震かもしれないですね。
天守閣は宣教師から聞いたという話だが。ゴシックのカテドラルを信長は城と解釈するはずである。ただし、天主ではなく天守という文字になった。
小田原城、大阪城ほどの規模があっても、籠城まで追い込まれたら援軍がなければ勝つのは難しい。城は政庁としての機能と、権威の象徴に特化させるところが、さすがと思う。
そうですね、城の役割を変えていったところがすごいと思います。
たぶん、カエサルを習ったのでしょう。ローマの城壁を廃止していましたから。特に安土城は籠城の十分に準備しても3~6日がやっと守れる程度です。攻められない前提。当時からして異端でしょうね。
大手の直線的な平入坂虎口はかなり無防備にも見えますが、あの坂を埋め尽くすように弓・鉄炮足軽が段々に並んでいたと考えると脅威かも知れませんね。敵兵は密集して逃げ場の無い一直線の坂を上がって来る事になるので、途中で逆茂木を並べて進路を遮断し左右の郭からも投射すると考えると長大な内桝形と言えるのかも知れません。
信長は籠城という選択肢を初めから外していて、敵の部隊が自由に展開するのを抑止する効果以外を考えなかったのではないかと。信玄同様基本的に自国を戦場にする気がなかった。それ以外は国威を示すデモンストレーションとしての効果を計算していただけかと。
織田信長の天守閣より太田道灌の静勝軒、伊丹城、多聞山城、信貴山城、楽田城の天守閣の方が早かったとwikipediaには書かれてる
もしかして異世界転生のリアルが信長とか
昔、安土城跡には行った事ありますわ。この頃は言わば中枢、前線ではなかったので防御に特化してなくてもさほど問題にはならなかったと思います(政治、経済中心)信長の野望での防御度はいつも最高値に近かったですけどね。ただ本件に関しては、まだ国力や兵力も十分(鉄砲も)では無かったのに入城を容易にした意味が分かりません。
確かに!小牧山城は前線の城なのにどうしてなのでしょうか。
バーンパレスみたいですね。(ダイの大冒険)
自らの権力を城という分かりやすい形で見せびらかすことによって、他の大名の戦意を削ごうとしたんでしょうか。よくヨーロッパの王族がやるような手口ですが、これも宣教師由来ならば辻褄が合いますが…
@@kainosuke-rekishi 多分、元々籠城するつもりがなかったと思う。彼にすれば砦の親分みたいな感じで、前線部隊の兵站拠点。かつ、司令拠点。この発想を、父信秀から引き継いだ感覚である自由流通と自由商業主義が裏から支えていると思う。
なるほど、美濃攻略の拠点、砦の親分ですね!
弾正忠の家を主張する必要があったから、政治拠点としての役割も求められた、ということかな。
城跡で不思議なのは、地下に埋まっている事?小牧城もそうですが、なぜ山頂付近の遺構が埋まっているのか?自然に土砂が堆積するはずもなく、そこが不思議です。城下の家臣団の屋敷跡は山の下ですから、解らなくもないですが。
確かに!山の上なら土が堆積することは無さそうですね。小牧山城に関しては山頂の石垣が崩れて付近の土砂と混ざってしまったのだと思います。
落ち葉が溜まり、それが微生物によって腐植され土となり徐々に埋まってゆきます。
金かけた小牧山城をあっさり捨てて岐阜城に移る器量がワシには無いですw
よく考えると、本当にそうですね。そっちに移った方が、余計に儲かるからでしょうが、私も決断できずに足が震えてしまうかもしれません。
4:38~の芝が広がるスペースは十数年前までここに中学校が建てられており、
市役所も城の南側の土累部分(6:00~の場所)食い込む形で以前は建てられていました
今の土累は市役所を道路挟んで向かい側に移転させた後に再整備したものになります
この20数年くらいで市役所も中学校も他に移転され、小牧山城はかつての姿に整備されるようになりましたね
ここにかつて、信長も秀吉も、そして家康も居たと思うと胸が高鳴ります😄
朝早く登城したのですがお年寄が沢山登っておられて多くの方とすれ違いました。天守脇の自販機でのんだジュースに癒やされました。石垣の城を安土城以前に敢行していた信長の慧眼には驚きです。
最後に小牧山に登ったのは30年前か、、、久しぶりに地元に帰ったら行こうと思います😊地元の動画嬉しい😂
つい先日小牧山城を訪れたのですがその時は再び発掘調査を行ってました!地元の人っぽい方々がしていたので小牧山城はとても地元の方々に愛されてるんですね
小牧山城ができたときに、いつかビッグになってこの城のビッグ版つくろうと思っただろうに、実際安土城ができた時は感無量だったでしょうねえ。
石山本願寺の跡地(後の大坂城の位置)に、信長は更に天下布武の決定版の城を築こうとしていたそうですよ。後に秀吉が築きましたが、信長版の大坂城って、どんなんだったんだろう。
地元の城が紹介されて嬉しいです!
信長公と言えば、安土城と岐阜城に情報が集中しがちですが、小牧山城を取り扱ったものは少ないので大変勉強になりました。
コメントありがとうございます。次は岐阜城をやりますのでまたよろしくお願いします。
天守閣まで真っ直ぐのびる大手道に信長の生き方そのものが強く表れている気がしました。
信長の発想って面白いですよね!
@@kainosuke-rekishi 😊
@日本丸大好き ☺
清洲城・小牧山城・犬山城・岐阜城と順に登ってみると濃尾平野がいかに広大な平地で、天下統一の基盤となる経済力の源だったかが良く分かります。
コメントありがとうございます。特に岐阜城からみた景色は濃尾平野の広さを実感できました。
信長が天守を考案したんですね!
さすがです!
安土城が現存していたら国宝で世界遺産間違いないのに!
今晩はこんなに綺麗に整備されているんです驚きでした雑草だらけと思ってました逸話も良く分かりました👍
綺麗に整備されていました。頂上の石垣が埋められて見ることができなかったのが残念でした。想像します。
小牧山の石垣の崩れを推測します。昭和の戦時中の末期に名古屋・愛知周辺で巨大地震がありました。
名古屋周辺には、ゼロ戦その他の工場がたくさんありましたが、その多くは倒壊しています。
特に、大型の製造機械を入れるために、柱や壁の補強を減らしていたので、動員されていた学生が下敷きになりました。
地割れが開いたり閉じたりして、そこに落ちてぺしゃんこになったり、足を取られて切断する人も居ました。
この地震は戦後もあまり知られていないのが不思議です。当時の新聞も記述が少ないのですが、揺れは直接アメリカに
察知され、大震災が工業地帯を直撃したことが知られています。これを契機に、製造施設を松代の地下防空壕に移転します。
おそらくこの時の大震災が、小牧山の石垣を崩したのではないでしょうか?
小田原の一夜城址の石垣も、関東大震災で崩れていますね。
普通なら砦にする最前線拠点を本城にするという、個人的には信長の最大の革命的個性かつ天才性。
小牧山城についての動画はあまり見たことがなかったのでとても参考になります!
石垣が崩れてたのは天正大地震か慶長年間の地震郡のいずれかの影響かもしれないですね。
ありがとうございます。地震かもしれないですね。
天守閣は宣教師から聞いたという話だが。
ゴシックのカテドラルを信長は城と解釈するはずである。
ただし、天主ではなく天守という文字になった。
小田原城、大阪城ほどの規模があっても、籠城まで追い込まれたら援軍がなければ勝つのは難しい。城は政庁としての機能と、権威の象徴に特化させるところが、さすがと思う。
そうですね、城の役割を変えていったところがすごいと思います。
たぶん、カエサルを習ったのでしょう。ローマの城壁を廃止していましたから。特に安土城は籠城の十分に準備しても3~6日がやっと守れる程度です。攻められない前提。
当時からして異端でしょうね。
大手の直線的な平入坂虎口はかなり無防備にも見えますが、あの坂を埋め尽くすように弓・鉄炮足軽が段々に並んでいたと考えると脅威かも知れませんね。
敵兵は密集して逃げ場の無い一直線の坂を上がって来る事になるので、途中で逆茂木を並べて進路を遮断し左右の郭からも投射すると考えると長大な内桝形と言えるのかも知れません。
信長は籠城という選択肢を初めから外していて、敵の部隊が自由に展開するのを抑止する効果以外を考えなかったのではないかと。信玄同様基本的に自国を戦場にする気がなかった。それ以外は国威を示すデモンストレーションとしての効果を計算していただけかと。
織田信長の天守閣より太田道灌の静勝軒、伊丹城、多聞山城、信貴山城、楽田城の天守閣の方が早かったとwikipediaには書かれてる
もしかして異世界転生のリアルが信長とか
昔、安土城跡には行った事ありますわ。
この頃は言わば中枢、前線ではなかったので防御に特化してなくても
さほど問題にはならなかったと思います(政治、経済中心)
信長の野望での防御度はいつも最高値に近かったですけどね。
ただ本件に関しては、まだ国力や兵力も十分(鉄砲も)では無かったのに
入城を容易にした意味が分かりません。
確かに!小牧山城は前線の城なのにどうしてなのでしょうか。
バーンパレスみたいですね。(ダイの大冒険)
自らの権力を城という分かりやすい形で見せびらかすことによって、他の大名の戦意を削ごうとしたんでしょうか。よくヨーロッパの王族がやるような手口ですが、これも宣教師由来ならば辻褄が合いますが…
@@kainosuke-rekishi 多分、元々籠城するつもりがなかったと思う。
彼にすれば砦の親分みたいな感じで、前線部隊の兵站拠点。かつ、司令拠点。
この発想を、父信秀から引き継いだ感覚である自由流通と自由商業主義が裏から支えていると思う。
なるほど、美濃攻略の拠点、砦の親分ですね!
弾正忠の家を主張する必要があったから、政治拠点としての役割も求められた、ということかな。
城跡で不思議なのは、地下に埋まっている事?小牧城もそうですが、なぜ山頂付近の遺構が埋まっているのか?自然に土砂が堆積するはずもなく、そこが不思議です。城下の家臣団の屋敷跡は山の下ですから、解らなくもないですが。
確かに!山の上なら土が堆積することは無さそうですね。小牧山城に関しては山頂の石垣が崩れて付近の土砂と混ざってしまったのだと思います。
落ち葉が溜まり、それが微生物によって腐植され土となり徐々に埋まってゆきます。
金かけた小牧山城をあっさり捨てて岐阜城に移る器量がワシには無いですw
よく考えると、本当にそうですね。そっちに移った方が、余計に儲かるからでしょうが、私も決断できずに足が震えてしまうかもしれません。