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動画をいつもありがとうございます石垣山城は、小田原城とセットで訪問したことがあります同じ箱根の山の中に後北条家の山中城と、豊臣家の石垣山城があるわけですが、関東の戦国大名家と全国区の統一政権である豊臣家との対比で、財力や技術力、動員力が異次元過ぎますまた、400年前の歴史的遺構の博物館(同じ山に関東流と近畿流の城跡が混在する)として見ても、それぞれとても面白い特異的なお城だと思います
まさに!異次元ですよね。
現地取材と図面を使った解説で分かりやすく学ぶ事ができました。本当に小田原城や関東平野が眼下に見えますね。家康公も秀吉公が存命の間は首に匕首を突き付けられている様な状態で、抜き差しならぬ戦国時代の気風を感じました。
かいのすけさん今日はこの城が秀吉の権力が巨大な事が良く分かりますね動画を拝見して自分がその場に居る感じになりますね次回の配信を楽しみにしてます👍
ありがとうございます。短期間で巨大な城を築かせてしまう権力ってすごいですよね。
今回も楽しく歴史を勉強出来ました!ありがとうございました!
ありがとうございます。またご覧になってください
地元民です。数度訪れたことがあります。関ケ原の合戦辺りまで10年程、豊臣政権の関東出張所・前線基地として使われていたんじゃないかなあと思っています。名だたる武将の誰かが城主だったのか、駿河の中村一氏管理下で出城的に使われたのか、どれほどの兵士が駐留していたのか、いつか解き明かされないかなあとわくわくしています。
そうですね、石垣山城の使われ方、とても気になります。
はじめまして😊石垣山城は行ったことないのですが、墨俣一夜城とはだいぶ違うみたいですね!初めて知りました。
ちょうど一月半ほど前に徒歩で行ってきました、蚊がすごくて立ち止まると集中砲火を受けるため汗だくで小刻みなダンスを繰り返しながらの見学でした。
とても分かりやすい動画ですね。セミが鳴いてるから夏に訪れたんだろうと思いますが、自分だったら、脱水症状になってしまいそう。。行くなら冬ですかねwそれにしても、建物はどこに行ってしまったんでしょうね。御殿とかは移築されたのかな?まさに謎多き城ですね。
14:00無cause会場⚡︎織田信雄♪北条家からの5:53
我々が400年前の石垣山城を歴史ロマンとして偲ぶように、秀吉も400年前(今からなら800年前)に近くで起こった石橋山合戦(1180年)を偲んでいたのではないか?と思う。若き源頼朝が囚われの身から決起し、挫折した合戦場。さらにそこから将来は鎌倉幕府を築いた頼朝を、秀吉は自分自身を重ねて見ていたような気がしてならない。
そうですね、いつの時代も先人を偲び学んだのだと思います。秀吉も頼朝も同じような景色を見たのですね。
こんばんわ、秀吉は、小田原城を見上げた場所に本気のお城を石垣山に築き、小田原城を水攻めにして、北条氏を降伏させた為北条氏があちらこちらに持っていたお城は、連絡が取れない状態と成り、各城は、降伏を余儀なくされた。その北条氏が持っていたお城の中で小田原攻めの際に酷い状態で落城したのが八王子城です、八王子城は、工事の途中で秀吉に攻め寄せられ、八王子城は、小田原城に人手を取られ、少ない人数で奮戦した物の女性達は、井戸や滝で自害を余儀なくされて落城し、今は、人も寄せ付けない場所となっています、石垣山城の石垣が崩れているのは、関東を度々大きな揺れが襲うので山に石垣が放置されていれば、整備でもしない限り脆く成るのがお約束かなって思います、石垣山城の説明と八王子城の説明を終わります、地元に住んでいたので、毎回お城は、見ていました
現在は一夜城からだと樹木が邪魔になって、小田原城が見えないんですよね。小田原城を観光の売りにしている割には、小田原市のやることは本当に中途半端なんです。
「お、お城だ!きのうまで無かったのに一夜にしてお城が!!」などと小学校の学芸会でもはずかしくて出来ないような伝説がどうして生まれたのか、昔から不思議でなりません。秀吉としては天下統一の総まとめとして大規模戦を想定した城を築こうとしていて、北条としても自分のホームグラウンドにそんなものが造られようとしていることはいち早く察知し、交渉のための使者を送ったにちがいないのに・・・
要するに、「この地に城を築いて北条の領地は豊臣家が治めるのでそちらは巣ごもりでもなんでもやってなさい」ってことですね。これなら家臣が裏切るのは時間の問題なので降伏するしかない。
動画をいつもありがとうございます
石垣山城は、小田原城とセットで訪問したことがあります
同じ箱根の山の中に後北条家の山中城と、豊臣家の石垣山城があるわけですが、関東の戦国大名家と全国区の統一政権である豊臣家との対比で、財力や技術力、動員力が異次元過ぎます
また、400年前の歴史的遺構の博物館(同じ山に関東流と近畿流の城跡が混在する)として見ても、それぞれとても面白い特異的なお城だと思います
まさに!異次元ですよね。
現地取材と図面を使った解説で分かりやすく学ぶ事ができました。本当に小田原城や関東平野が眼下に見えますね。家康公も秀吉公が存命の間は首に匕首を突き付けられている様な状態で、抜き差しならぬ戦国時代の気風を感じました。
かいのすけさん今日はこの城が秀吉の権力が巨大な事が良く分かりますね動画を拝見して自分がその場に居る感じになりますね次回の配信を楽しみにしてます👍
ありがとうございます。短期間で巨大な城を築かせてしまう権力ってすごいですよね。
今回も楽しく歴史を勉強出来ました!
ありがとうございました!
ありがとうございます。またご覧になってください
地元民です。数度訪れたことがあります。
関ケ原の合戦辺りまで10年程、豊臣政権の関東出張所・前線基地として使われていたんじゃないかなあと思っています。名だたる武将の誰かが城主だったのか、駿河の中村一氏管理下で出城的に使われたのか、どれほどの兵士が駐留していたのか、いつか解き明かされないかなあとわくわくしています。
そうですね、石垣山城の使われ方、とても気になります。
はじめまして😊
石垣山城は行ったことないのですが、
墨俣一夜城とはだいぶ違うみたいですね!
初めて知りました。
ちょうど一月半ほど前に徒歩で行ってきました、蚊がすごくて立ち止まると集中砲火を受けるため
汗だくで小刻みなダンスを繰り返しながらの見学でした。
とても分かりやすい動画ですね。セミが鳴いてるから夏に訪れたんだろうと思いますが、自分だったら、脱水症状になってしまいそう。。行くなら冬ですかねw
それにしても、建物はどこに行ってしまったんでしょうね。御殿とかは移築されたのかな?まさに謎多き城ですね。
14:00無cause会場⚡︎織田信雄♪北条家からの5:53
我々が400年前の石垣山城を歴史ロマンとして偲ぶように、秀吉も400年前(今からなら800年前)に近くで起こった石橋山合戦(1180年)を偲んでいたのではないか?と思う。
若き源頼朝が囚われの身から決起し、挫折した合戦場。さらにそこから将来は鎌倉幕府を築いた頼朝を、秀吉は自分自身を重ねて見ていたような気がしてならない。
そうですね、いつの時代も先人を偲び学んだのだと思います。秀吉も頼朝も同じような景色を見たのですね。
こんばんわ、秀吉は、小田原城を見上げた場所に本気のお城を石垣山に築き、小田原城を水攻めにして、北条氏を降伏させた為北条氏があちらこちらに持っていたお城は、連絡が取れない状態と成り、各城は、降伏を余儀なくされた。その北条氏が持っていたお城の中で小田原攻めの際に酷い状態で落城したのが八王子城です、八王子城は、工事の途中で秀吉に攻め寄せられ、八王子城は、小田原城に人手を取られ、少ない人数で奮戦した物の女性達は、井戸や滝で自害を余儀なくされて落城し、今は、人も寄せ付けない場所となっています、石垣山城の石垣が崩れているのは、関東を度々大きな揺れが襲うので山に石垣が放置されていれば、整備でもしない限り脆く成るのがお約束かなって思います、石垣山城の説明と八王子城の説明を終わります、地元に住んでいたので、毎回お城は、見ていました
現在は一夜城からだと樹木が邪魔になって、小田原城が見えないんですよね。小田原城を観光の売りにしている割には、小田原市のやることは本当に中途半端なんです。
「お、お城だ!きのうまで無かったのに一夜にしてお城が!!」
などと小学校の学芸会でもはずかしくて出来ないような伝説がどうして
生まれたのか、昔から不思議でなりません。
秀吉としては天下統一の総まとめとして大規模戦を想定した城を築こう
としていて、北条としても自分のホームグラウンドにそんなものが造ら
れようとしていることはいち早く察知し、交渉のための使者を送ったに
ちがいないのに・・・
要するに、
「この地に城を築いて北条の領地は豊臣家が治めるので
そちらは巣ごもりでもなんでもやってなさい」ってことですね。
これなら家臣が裏切るのは時間の問題なので降伏するしかない。