「空」とは何か? 「空」から学ぶこの世の本質 空即是色色即是空とは?
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- Опубліковано 30 лис 2019
- 相対的な存在と絶対的な存在
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/ @user-kt9ro9wi8x
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今日は「空」に出会い夜中にここに辿り着来ました。無ではない事が分かり、明日からまた探求したいと思いました。ゴータマは直筆の教えも、口実筆記もなく、後世に弟子たちがまとめたものなので理解するのに大変。私は好奇心を大切に般若心経を探究していきます。ありがとうございました。
自分を大切にする生き方のお話、大変感動いたしました。
ありがとうございました
説明する努力、恐れ入ります。
深い素晴らしい仏教の教えをありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
ありがとうございます。南無阿弥陀仏🙏🙇
すごくヒントをいただきました。自分の稚拙な表現だと、「空でないものはない」という表し方がひとつの空の定義になるような気がします。
般若心経の問題の部分の解説、よくわかりました。
それを踏まえまして、空即是色の言葉の法則としておかしくなっている部分こそ、実はあえて入れたものなのかもしれないな、と感じました。
つまり、人は動物だが動物は人であるとは限らないというのが言葉の正しい法則にらのっとった表現ですが、こと空については、その法則がねじ曲がった部分についても空が包括するという、上に記しました僕なりの空の解釈「空でないものはない」という、言葉の法則を越えた空の法則のようなものを表したのが空即是色なのではないかな?という発想です。
お経にこのフレーズがあり、「空」の本質を知りたいと思いました。「大乗経を誦し、第一義甚深の空法を思わば、一弾指の頃に百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん。」空を思えば一瞬に罪が消えると・・・。この動画を見て空の本質がよく理解が出来ました、有難うございます。
要点は、実態がないから執着しない、どうにもならないことをどうにかしたいと思わない。よって自分の事は一切神仏に預けて、相互関係にある多くの人と良い関係を築くために、多くの人の幸せのために行動することと理解しました。
物質を細かくみていくと、分子や原子になり、更に電子や中性子、クオークや量子に。量子物理学の実験から素粒子は観測すると粒子の性質を持つけれど、観測していないと波の性質を持つとか(二重スリット実験)、アインシュタインは相対性理論で質量はエネルギーに変換出来ると式にしました。
色即是空、世界はエネルギーから出来てるんだなと解釈してます。
禅や瞑想をやっていても「自分っていったい何なの?」という状態になってしまうことがあります。
初めて動画を視聴しました。
難しいお話でした。
人々の苦しみも自分の苦しみ、
そして喜びも同じく捉えることが出来たら、争い事は起こりにくいと思いますが、煩悩に苦しむ毎日です。
人の役に立つ想いが、世の中の平和と安寧に繋がるのだと感じました。
どうも有り難う御座いました。
空とな何か
点を顕微鏡で見ると面になっていく
じゃぁ点は存在しないのかと言うと点はあるんじゃないかと言う
そういう点の概念だと思う
仏教に興味を持ち始め、勉強をスタートした者です。
分かりやすい動画をありがとうございました。
質問です。
物の存在が状態に過ぎないは、理解できました。
よって執着をすべきでないという理屈も分かるような気がします。
ですがコレを浸透した時に、「物は状態に過ぎないから持ち主も執着をしている訳ではない。だから他人の物だろうと勝手に使ってしまえ」という発想の人も出て来るのでは?と思いました。
コレが起こった場合、秩序が保てなくなり世の中は滅茶苦茶になります。
その辺についての考えをお聞かせください。
宜しくお願いします。
ご質問ありがとうございます!前提から述べますと、仏教はあくまでも自己の解決ですので他人に矢印を向けるものではないというのが一点あろうかと思います。また、仏教経典内では極悪人は救わないとか、地獄行きとか、様々出て来ますが、それは戒めのために述べられていて、実際にはどのような悪人であろうと救うのが仏教であることは間違いありません。(アングリマーラ、提婆達多、阿闍世など)また親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」「薬あればとて毒をこのむべからず」と戒めを述べておられます。長くなりましたが、これらを前提として申し上げますが、仏教的な価値観が一般化すれば、罪を犯すものは可哀想な、苦悩真っ只中の救われるべき人という扱いになるでしょう。社会としての法は法として適用し(本人更生のための収監含む)、その原因を検討し、同じような犯罪が起こらない社会にするためにはどうするべきかと考えるためにも、必要以上に感情を害されない、また被害者に対しても精神面、生活面での補償が手厚い社会になろうかと思います。そのような社会にあって、好んで犯罪に手を染めるものはどれほどいるでしょうか?確かに正直者が馬鹿を見る側面がゼロになるとは言い切れませんが、ゼロになるよう、社会全体が取り組んでゆく世界になろうかと考えております。相当理想的なことばかり申し上げました。そんな都合よく行くものかと感じられるかもしれません。しかしながら、そのような社会になることが世界平和への一歩目と信じておりますし、その実現のために仏教広宣は欠かせないと考えております。筋違いなお返事になったかもしれません。更なるご質問等ございましたら、お気軽にお寄せください。こちらの勉強にもなりますので。
@@user-kt9ro9wi8x
詳しくご丁寧なご回答ありがとうございました。
要するに、
仏教的な考え方が浸透する事で、
全ての人が満たされ納得のいく世の中になる。
故に、そもそも窃盗や妬みから来るような犯罪を犯す発想に至らないという事ですね。
また一つ勉強になりました。
私自身、ふとした事がきっかけで仏教に興味を持ち始めました。
本質を見抜く力を身につける、死後不自由をしたくない、等の理由から色々勉強をしてみたいと考えております。
コレからも動画を観させて頂きます。
無知故に的外れな質問をする事があるかも分かりませんが、宜しくお願いします。
Kokoku 最後までみてます。🙏🙏🙏
空(くう)の最終結論「キミの好きにしろ」
この宇宙は情報空間である。
物理の抽象度を上げていくと、「有」になる。
有と対をなすのは「無」である。
「有」「無」を包括した概念が「空」である。
有るのか無いのかよく分からない状態、つまりそれを確定させるのは最終的に貴方次第である。
よってキミの好きにしろ
コメントありがとうございます!面白い解釈ですね!僕個人としては、有とは何かを掘り下げた結果行き着いた先が空だと理解しています。そもそも有か無かという二分法は人が勝手に作った仮の概念に過ぎないのではないでしょうか。
『空』。難しいですね。物理的な人間も細胞の繋がりで出来ていることは間違いですから。
新興宗教を例示にとって、自我のお話をなされていましたが、古代インドに於いて、バラモン教から見れば、仏教は新興宗教でしたし、しかも、現在の新興宗教のベースには、仏教があることも多いですね。
その典型が「タントララヴァジラヤーナ」を自分に都合よく捉えたオウム真理教でしたし、そういう意味では、八万四千の法門の中には危険なものもあるのではないでしょうか。
「空」もまたしかりで、般若心経を分かりやすくしょうとして、「般若心経には、無と言う表現で空を表現して(出来て)いる」としてしまう危うさを内在していますね。
あくまで、『空=無』ではなく、「『空』は、『無』で説明出来る部分もある」としないと、ご住職例示のケースのように、自我を混乱(崩壊)させて、マインドコントロールすることも出来るのですから。
倫理の授業で習った「空」の思想があまり理解できなかったので、この動画を見たのですが、少しモヤモヤが解消できた気がします。
本質ですね。そう考えると、私のおじいちゃんは亡くなったけど、亡くなるということは肉体から意識が離れた状態であって、縁起で考えると生きているっても考えられるってこと…かな?
かなり難しいけど、深く考えたらわかるかも、心や精神やら、いい事をやれば良いんや!
哲学的で仏教が大好きです
「空」のテーマでレポートをどう書くか、こまりましたが、助かりました。ありがとうございました。「相対的存在」。なるほど。これは理解しやすいです。秀吉の辞世の句「~なにわのことも夢のまた夢」というのは「空」の世界は夢のごとく、蜃気楼のごとくの世界でしようか?
過去は戻らず、現在は留まらず、未来は未だ来ず,一切法は縁起生の故に
空は因、縁、果の連続の流れを指し、自我はその流れの特定点の存在感。どちらも存在してる様で、してないとも言える。命を持つモノは時空の存在を無意識中に(潜在意識、阿頼耶識、の更に奥にある膨大かつ緻密な全情報エネルギー力の法則の助けにより)特定し自我を持つと私は自己流に理解しております、今のところはこの全情報の法則(素粒子理論と一般相対性理論との完璧な結合理論)には達しておりません。自身の心底では【死から新たな生への道のり】で誰でも獲得するのでは?と楽観視しております。
コメントありがとうございます!励みになります!
とても興味深く勉強になりました。
それと同時にベンツに乗ってるお坊さんはなんやねんとも思いました😅
浄土宗の言うところの空とは空論、色とは現象のことでしょう。
龍樹の本を読んでもインド哲学が全体的に私にとってはあまりに難しく理解することが極めて困難なのですが、本動画で空の本質について分かりやすく説明していただいていたために最近になって少し龍樹が何をしたのか少しだけ分かるようになったような気がします。現状の私の理解としては説一切有部は仏教的な真理や煩悩に対して実在性を主張していたのを龍樹はそれすらも有無を越えていて空であるということを示したのだと認識しています。煩悩を分析・分類をして名付けていくことについては苦しみについて理解するため価値はありますが、そこに実在性を認めてしまうとある意味煩悩を滅っせない個人が悪いというような自己責任論的な方向に寄ってしまう危険がありこれを否定する機能があったのかと思います。これにより龍樹から大乗仏教が広まった文脈まで納得ができました。ありがとうございます。
空を自分流で解釈するのではなく、空を解説した龍樹の著作を読めばいろんな人の解説より
よほど分かりやすいですよ。空は無自性説であり縁起説で有ると説いてます。無自性説は
当時自性説に立つ仏教の一派があり非常に隆盛を極めていた、そこに龍樹が異論を唱えたのが
空説であります。だから自性説とは何かを知らないと空は分かりません、当然縁起も分かりません。
部派仏教の非常に込み入ったややこしい理論は膨大なものがあるので、それはそれで今も役に
たつ思想も沢山あるようですが。
コメントありがとうございます!おっしゃる通りだと思います。状況環境が整っている方は原典、原本にあたるのがよいと思います!
マトリックスみたいなことやなぁー
今の現実が仮想現実で別に本当の世界があるけどそっちが本当の世界なんやなって意味かな?解脱⁇
理解しようとしたら難しい話やなぁ😂
空即是色ってのは「確かにこの世は空だろうけど、結局、人間である以上は色の中で生きてくんですよ」という意味で語られてるのではないかな。それにより人間らしさを愛するというか。
初めて拝見しました。
仏教を知らない初心者には難しく感じる言葉も多いのですが、なんだか理解できるのではない方期待できます。
1度見ただけでは、無理そうなので、繰り返して聴きながらメモを取りつつ、楽しみ。幸せになりたいと思います。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます!さらに噛み砕けるように精進します!
空とは何かを考えるためには、般若心経の中で空が最初に出て来る『五蘊皆空』の意味が分からなければいけないと思います。蘊を漢和辞典で調べて見ますと、『積み蓄える』とか『ふさぐ』とかいう意味があります。
では、その五つの『積み蓄える』『ふさぐ』ものはいったい何処に『積み蓄える』、何を『ふさぐ』のかと考えてみますと、それは心だと考えられないでしょうか?なぜなら般若心経というのは心の経典であり、心と五蘊との関係について述べている経典だと考えられるからです。そうしますと五蘊というのは心の上に『積み蓄える』心を『ふさぐ』ものと考えられます。
そうだとしますと『五蘊皆空』というのは心の上に五つの『積み蓄える』心を『ふさぐ』ものは心の上から消えれば全て空しくなって空になると言えるのではないでしょうか。ちなみに私は心とは『認識して判断するもの』であり、『認識して判断するもの』の上に五蘊が乗っかっていない状態を無心と言うのだと思います。
ところで般若心経の中には『無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。』というのがあって『色』は『眼』に対応していますから、『色』というのは目が見たものであると考えられます。ですから『色即是空』というのは『目が見たもの』が心の上に乗っかったり消えたりするということだと思います。そして『色不異空 空不異色』であり『是故空中無色』であるということだと思います。w
また意というのは『こころ』という意味なのですが、意は五感では感じられないものを『感じるもの』のことではないかと思います。ですから、こころで感じると言う時のこころは心ではなく意だと思います。w
とても素敵な解釈だと思います。五蘊の蘊は集まりと解釈され、色という肉体と、受想行識によって心(精神)が構成されて、その五つの集まりによって人間ができており、それ以外のものはないと釈尊がご自身を観察された結果であります。その観察により、アートマンと言われる魂的なものは存在しないという結論に行き着きます。当時でも前例のない分析で、かなり画期的だったと思います。五蘊以外に心を求める場合は、心というものはどうやって成り立っているかをさらに深く検討する必要がありそうですね。
ホワイトボードのマジックペンの字が細くて薄くて見えにくかったです。もう少し、配慮していただけると!
分かりやすい動画ありがとうございます。なぜ人間は絶対的価値観の執着に落ちやすいのでしょうか。色々思案すべきことが出てきて参考になりました。
コメントありがとうございます!人はこの世のすべてのものに優劣、好悪、上下などの物差しを当てはめ、その集合体を個人、または個性と呼ぶのでしょう。本来すべてのものは対等、平等であるはずですが、人は煩悩、言い方を変えるならば、生存本能、生存戦略、生存欲求ゆえに、自我と呼ばれる個性のもとを確立し、絶対的価値観の執着を基軸として成り立つ生物にならざるを得ないといったところでしょうか。余計に分かりにくくなったかもしれませんが…
状態の事を空と呼ぶのでしょうか?
また目に見えない原子も空ですか?
とても良かったです。勉強になります。
空は自我が抜け落ちている。私が思っているような私ではない。
空即是色の誤った解釈や、無ではない。というところも、分かりやすかったと思います。
私は、頭での理解は出来ていると思うのですが、体験的な理解、境地?はどうしたらできるのでしょうか。
コメントありがとうございます!体験的には瞑想もしくは座禅を通じるしか無さそうです。ただ、その座禅等を通じた体験さえも、事前学習から来る効果との判別がつかず、あてにはできないというのが個人的な見解です。身も蓋もなく申し訳のない答えですみません。
私は空の存在を知ってから半分無気力になったように感じます。
以前は経済的自立の為将来の不安を解消するためお金を稼ぐ方法や自己投資をしたりしました。
でも今はお金よりも心が豊かになり満足すようになってしまった。
イライラすることも減ってしまった。
だが、空とは人生困ったとき非常に便利だが、可もなく不可もなく自分をフラットにしてくれます。
しかし、これではダメなような気もします。
何か以前のように熱くなれる方法がありますでしょうか?
贅沢でしょうか?
こぶしの例ですと、こぶし(物体=色)は5指を開くと(関係性の変化から)消滅します(色即是空)、一方、5指を握ると(関係性の変化から)生じます(空即是色)。
「色即是空、空即是色」は対になった言葉なので、消滅と生じることの双方向をセットで(逆もまた然り的に)言い表しているだけではないでしょうか?
「空即是色」だけ単独で記述されているなら、空が適用されるのは色だけでないといった集合的定義の誤りにようになるかもしれませんが、お経はセットで記述されています。
なので、動画の表題「空即是色 色即是空」も順番が逆ですよね?
逆だと意味が通じないように思います(素人視聴者の感想です)
和尚様…こんにちは。わたくしにはまだ“空“が解りません。🙏🏻🌸
いつもありがとうございます!私というのは私の中に本体があるわけではなく、これまでの関係性の積み重ね、総和であると言えるかと思います。さらに噛み砕けるよう言葉を探し続けようと思いました!
要するに、何もないってことですね。
コメントありがとうございます!大変ややこしいところなのですが、何もないと言ってしまうと、それは断見という極端な見解となり、辺見という煩悩に分類されてしまいます。有るでもなく無いでもないのが空という概念です。
眉を整えるのは空なのか?
教えてください。
僕のことでしたら、空ではなく癖ですかね。髪の毛や眉、頬毛、髭… どこまで何をすれば良いのかさっぱりわかりません。特段拘らないことかなと思っていますが、皆さんの気になるようでしたら、眉は整えない方がよいかもしれませんね!ただそうすると顔剃りもしない方が良いのかと境目が分からなくなりますね。こうして悩みにはまっていくのでしょう。ありがたいご教授でした。考えないようにします!
空と縁起の法はどのような関係性を持っているのですか?
仏法において、存在とは機能的には「縁起」であり、内容的には「空の如し」です。
そもそも大般若経を三蔵法師さんがサンスクリット語から漢文にして600巻になった大ボリュームなお経を300文字に詰め込むという
空というか無理をやって出来たものなので、ツッコミ所があっても仕方がないですね・・・
個人的には、ビッグバンで宇宙が始まった時の爆風爆炎爆轟のさなかなのかな?と、無常という無限の変化の中に、今を生き、得たり失ったり・・・
わたくしの名前 空飛(くうと)と言うので何かあるかなと気になって来ました。(語彙力無くてすみません😅)
くうと ありがとうございます!素敵なお名前ですね!宜しくお願い致します!!
空即是色がおかしいとのことでしたが、
この部分はあくまで「空」と「色」について述べているのだと思います。
なので、後続の文では、受想行識についても受想行識もまたかくの如しと
色即是空 空即是色
(空は色に異ならず 色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり)
受想行識亦復如是
(受想行識もまたかくの如し)
さらに個人的解釈ですが、
色即是空(色を空と観ずる)= 悟り方面
空即是色(空を色と観ずる)= 迷い方面
この両面があるのだと言っているのではないかと
なにもないのが無で、自我がないのが空ですね?
ありがとうございます!おっしゃる通り無自性空を直訳すれば自我がない、もしくは仮のものということかと思います。
連続する時間の立場の一瞬の確認 それらに対して 自分の存在のないことの確認..
これらを実感すること。 それが瞬間瞬間に続くこと...。
実際 錯覚という認識すらない状態。
これは 空ですか?
ご質問ありがとうございます!現象面としての諸行無常、因縁果。存在論としての無我、空。自己解決としての煩悩滅尽という分け方ができるかと思います。あくまでもそれぞれ悟りの内容を一側面から見ているようなもので、その総合されたものは悟りと言えるのではないでしょうか。ご質問の意図にお答えできているかどうか自信がありませんが、参考になれば幸いです。
自我は相対的でないと絶対に浮かび上がりません。説明できるのは必ず自分の周りの関わり合いでしか認識不可能です。
親がいるから自分がいるのです。
何処まで行っても相対的なのが自我である。
では「空」とは
宇宙全てを情報空間としましょう。僕たちが認識できるのは情報空間の最下位にある物理空間です。「無」とは無 仏教では「色」とは有とさてれいます。
無と有(色)を包括したのが「空」と考えます。量子物理学でいう素粒子が振動やスピンしているときはエネルギーを生じているので有(色)つまり観測可能であり、振動やスピンをしていない時は観測できないつまり無という言い方をしています。すべてが空だとするとこちらが絶対的ともいえますがそうではありませんね。
空が理解できてもそれは知識で空ではありません。情動が伴ってすべての矛盾と盲点が消滅したわけではないからです。
くわえていうと空の概念だけでは現代に社会では危ういのです。
ですから縁起という中観思想が物理空間では必要なのではないでしょうか。空の概念がふらついている現代の日本仏教では悟りどころかオーム真理教のようなものが生まれてきてしまします。
お釈迦様の本当の悟りの資料が日本に入ってきたのは昭和に入ってからなので仕方ないところもあります。
しかし、穢れなどという差別を生む考えをお釈迦様は嫌っていました。儒教や道教が混在した日本の仏教には昔から疑問を抱いております。
全てがスピンです。
量子論やると「空」の思想で言われている事と同じ事が起きてるんだよな。
でもね、理屈で分かっても苦しみは絶えないんだよなぁ..。オレみたいな凡夫には。
今までも分かっていませんでしたが、
空の意味がやはり難しく、良く理解できませんでした。どこが分からないのかも分かっていません。
お釈迦様が何を意図したかったのかはなんでしょうか?
祖父母は佐渡の浄土真宗の民家みたいなお寺です。西本願寺派ですが、やはり仏教でもかなり考え方が異なるのでしょうか?
お釈迦様は苦悩の人生を解決することを目指されました。現代風に言うなら、生きづらさや不安、不満の解消を目指されたと言えるでしょう。解決を目指すからには原因と対策が必要です。その苦悩の原因が私の私という存在に対する勘違い、認識のズレにあることを発見されました。あるないの二項対立で考えてしまう私ですが、それらを超越した、ないしは止揚した「空」という概念にいきつきます。難しいですよね。私も無理矢理言葉にしていますが、本当に難しいです。それがわかれば悟りですから、難しくて当然と言えば当然かもしれません。仏教はお釈迦様が対機説法という手法で説かれたものです。人それぞれの状況や環境にあった教えをいただくというものなので、目的はどの仏教も同じですが、手段が異なるところですね。
とらえ方は自由だけど、色と空を同じ質のもの、同次元のものとして考えるのはいかがなものでしょう。 信者に般若心経を説くにはもっと勉強してからの方がよいのでは・・ ただ、真宗では般若心経は用いないということのようですが。 因みに私も親鸞聖人を学ぶ者です。
般若心経、このよの
仕組み、成り立ち、解かれてますよね、こうすれば
こうなる、と、なる
原因お、つくれば、そのように、原因お、つくれば
つくらなかつたら、なにもでないと、最後に、三世諸
佛も、般若波羅蜜多に
よるがゆえにと、空を、越えた次元に有ると、空に
とらわれているあいだわ
ないと、縁、さえも、空と
次元です、縁で色として
色は、えんしだいで
空にる、性質もつていると
縁がすぎれば、もとの
空になると、縁さえも
空と
なぜ絶対的存在なら延々と自己紹介できるのかが理解できませんでした
「なぜ空即是色、色即是空という仕組みになっているのか」という問いについては、般若心経をまとめたお坊さんにはわからなかったと思う。
仮有は分かりましたが 真有とは何でしょう。
色即是空空即是色
肉体というものは存在しないんだと。物質というのは存在しないんだと。肉体というのは何かというと、霊体であると。霊体とは何かというと、肉体であると。即ち、色即是空、空即是色。即ち、見えるモノは見えないモノであり、見えないモノは見えるモノであると。その、見えないモノと見えるモノとは同一のモノであると。色即是空でございマス。
しかし、肉体というものは一体何かというと、霊体であると。霊が肉という姿形を現しているだけであって、その姿形の実態は全て大霊なんデス。小さいものから大きなもの、全て大霊なんデス。見えるモノも霊で、見えないモノも霊。即ち、色、即、是、空、空、即、是、色。物質即霊。霊即物質という。見えるモノと見えないモノとは、1つの存在であると。見えるモノも、見えないモノも、全て霊なんだという事なんデス。
空=宇宙の外
「空しい」浄土真宗ではそう解釈しているんですね。「諸法無我」と「空」は違いを感じますね。
煩悩について理解できているのかな、自我を欧米の哲学で解説する事はまずい。
仏教は哲学ではありません、哲学とは何かという認識がなさそうですね、だから仏教に混ぜてしまう。
浄土真宗は欧米文化を取り入れすぎですね。
人は「判断」「評価」する時「自我」を認識するという事が哲学です。
「判断」「評価」を生み出すものが「煩悩」と見る事が仏教です。
「輪廻転生」の世界は「因果応報」の理によって動かされている、人は「喜怒哀楽」を感じても全て「煩悩」が生み出している、だから「諸行無常」を感じ「一切皆苦」である事を認識する。
死は「後生の一大事」を招き、その人の人生の「業」の重さによって「因果応報」の理に従って「輪廻転生」する。
「業」が重ければ地獄界、畜生界、人間界などに振り分けられる「後生の一大事」と言われる所以です。
自殺してもそれまでの業と共に人生から逃げた罪が重なりよりひどい処に転生しなければならない。
煩悩が心因を生み、心因は縁を結んで「果報」をもたらす、「果報」の「評価」を作るのも煩悩です「一切皆苦」。
お釈迦様は全ての煩悩を否定する「出家」して、衆生の仏心による「布施」によって生かされる「托鉢」を修行の基盤にされた「他力本願」。
「托鉢」する事で「諸法無我」を悟る事が出来ます。
日本では様々な「律法」に取る修行、祈祷や経文を読む週報、千日行なども修行、座禅を組む修行、などで「諸法無我」の境地を会得するようですね。
空、でさえ存在、と言えないか。
存在という漢字は存と在とからなります。子は創造主の子、関係性を意味します。在は土塊から成り立つ体で構造性を意味します。私とは神の子で宇宙のくずからなりたつているのです。
星くずからなる私は星の王子様なのです。
空はそのブラットフォームです。 自己意識が創造主とこのプラットフォームである、生存世界と死後の世界を意識できるようになります。
親を意識すれば親なる神がわかります。
孝が神の存在の意識の始まりです。
存在は存と在から成り立つ。存は性相、人が神の子であり、在は宇宙のゴミから体が成り立つ土塊であるという形状、構造性です。
星くずからなる私だが、星の王子様である私でもある。
孝、親を意識すると天地創造の親なる神を意識できる。わかれば、無知から解放される。
こんな説明をしている宗教家がいますがどうでしょうか ? その人は霊的な視点からこのお経を解釈しています。
≪ 般若心経というのは、簡単に言いますと、ある日、観世音菩薩が深般若波羅蜜多、つまり、お釈迦さまが深い統一に入りました時の悟った言葉が般若波羅蜜の経文になっているのです。深い最高の統一に入って、神と一つの大智慧を獲得し、その境地に入ると、五感に見え、六感に感ずるすべてのものは、皆空であることが分かって、一切の苦しみを解脱したというのです。空というのは分かりやすくいうと、自分の想いが全くなくなってしまうこと、自我、自我欲望、個人という自分がなくなって、大我、大生命、いわゆる大神さまの中に溶け込んでしまった人を空の人というのです。全ての現れに絶対に捉われない境地になることを言うのです。ですから般若心経は、正覚し解脱した時の宇宙観、人間観を説いているのです。
この経文の中で一番大事な箇所は、やはり一般的に知られている、色不異空(色は空に異ならず)、空不異色(空は色に異ならず)、色即是空(色は即ち空にして)、空即是色(空は即ち是れ色となる)という言葉です。ところが、この言葉の解釈が非常に誤りがちになっていて、いわゆる単純な空観に脱する人が多くなっているのです。色即是空と空即是色を、只単に同じことをひっくり返しに言っているのだと思い込んで、色、即ちものは全て空なのだ、この世に現れている全てのものは空なのだ、無いのだ、という否定の面だけに捉われてしまって、この人間の肉体をはじめ、眼に見、手に触れる全てのものは、自己の肉体消滅と共に、やがて無くなってしまうもの、仮の姿、実在でないもの、というように解釈しているのです。
しかし、これでは虚無主義とあまり変わりないし、人間の進歩とか前進とかには、まるで役立たぬ思想になってくるのです。どうせ死ねば空に溶け込んでしまうもの、そのまま無になってしまうもの、個性も何も無くなってしまうもの、というのでは人生を暗く淋しいものにしてしまいます。現在、五官で見、聞き、触れながら、これはすべて空なのだ、直覚的に思える人は、この世にそう滅多にはいません。一般はどうしても諸行無常的式に、今は有るのだけれども、やがて無くなるのだから、空だといい、無だと言うのだろう、ぐらいの思い方より出来ないと思います。しかし、そんな思い方を一般の人達にさせるようでは、釈尊の高い悟りとはまるで違ったものになってしまいます。色即是空、空即是色と二つ重ねたところに深い意味があるのです。
現象界に現れているものは色といいます。現象界、肉体界(五官)、幽界(六感)の全てのものをいうのです。そして色は、ものと解釈するわけです。そこで色即是空というのは、現れている五官で見えているものは一遍空にしないと、空と断じ切らないと、本当のものが現れてこない。だから、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻にかぐもの、全てこの世に現れているものは空なんだ。そして、空だと断じ切った時、はじめて本当の光輝くものが現れる。五官に感じられ、六感に感じられるものは全て空なんだ、それに捉われてはいけない。あるものではなく、あるように見えていて、空なんだ、と空と断ち切って、それに捉われなくなると、空の奥に神仏の実体があるので、空から本当のものが現れてくる。空から現れてくるものが本当の光であり実体なのだ、そこで、色即是空、空即是色と並べてあるわけです。五官六感に現れている色(ものごと)を空と断ち切って、空になったところから、今度は実体の光即ち色が現れてくる。こういうことで、同じことなら何も二つ並べることはないのです。人間の想いから捉われを離すために説いているわけです。
色即是空、空即是色も形に現れていることだけを説くから、結局虚無になって、この世は何も無い、肉体もなければ何も無いとなるのです。本当の教えというのは、ないないづくしではなくて、神さまは光輝く大光明であって、大光明波動の分生命が人間であるというのです。しかし、肉体の人間というのは、神の分生命であることを忘れてしまって、幽体(光明と暗黒波動が混合している所)あるいは肉体で作った想いの中で生きているのです。その想いというものは無いのです。無いと言っても想いは現れている。だから無いのではなくて、現れているのであって、実体ではないのです。現れているものは、現れて消えてゆく姿なのです。
そこで、現れている肉体の方に、あるいは肉体から発生した出来事に捉われないで、捉われたら捉われたでいいから、消えてゆく姿にして祈り心の中に入れてしまいなさい、と説いているのです。そうすると、入れ変わって実体だけは残ってくる。生命の実体だけがそこに残って、いわゆる空即是色になるわけです。色即是空の色は虚無である。形のある現れているものはみんな虚無である。だからそれに捉われてはいけない。虚無と思ったら、そこにまた捉われるわけですよ。でも捉われたら捉われたでいい、消えてゆく姿として平和の祈りの実体の中に入れます。すると、実体の方は神さまそのものだから、入れてしまえば虚無を取っちゃうんだから、空即是色になる。空の中から現れてくるものが本当の人間であり、本当の光である。実体が現れてくるんだと、お釈迦さまは説いているわけです。
この世の罪や悪や間違った想念所業は、神さまから現れて来ているものではなくて、肉体人間が勝手に作ったものなんです。だからそれは実体の中にない。しかし、無いといっても分からないから、一度現れの世界に座を下して、一応そういうものを認めると同時に、過去世の因縁の消えてゆく姿として、神さまの中に入れてしまいなさい、とすすめているわけです。そして、祈りの中から、神さまと直通して神さまの光だけを間断なくつぎ込んでおくと、間違った肉体人間の想いの方はどんどん消えてしまう。それが本当の色即是空、空即是色なんです。般若心経の真理は、色即是空、空即是色を明らかに説きあかすことにあるのです。
本当の般若心経を分かるためにどうしたらいいのか、というと守護霊、守護神の力を借りて、大般若の智慧、神界の智慧の中に入らないうちは、この中は神の世界だということが分からないのです。そこで祈りが必要になってくるのです。その祈りというものを、お坊さん方は、お願いだと思っている。お祈りというと、家内安全、商売繁盛、どうかご利益がありますように、というのが祈りだと思っている。それはお願い事なのです。本当の祈りというのは、いのちを宣言する、命を宣(の)りだす、いのちをそのままに現すということです。守護霊、守護神に感謝する祈りと、世界人類が平和でありますようにという神さまの大愛、慈悲の想いにまで拡げた祈りが必要になってくるのです。
守護霊、守護神さんの力を借りて空になると、本心の中から出てくる能力がフルに溢れてくるのです。自分が思いもしないのに、自然に物事が出来てくる。自分が考えもしないのにパッといい智恵が出てくる。自分が書こうと思わないのにスッといいものが書ける。言おうと思わないのに、いい言葉が出てくる。というふうに自然法爾(じねんほうに)にひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力が出て、色んなことが出来る。それが空即是色なんです。神さまのみ心に入ってますと、今日はあそこに行こうかなと何気なく行くと、必要な人と会ったり、効果があったりと、自然に守護霊、、守護神さんが使って下さって、本心の力をそこに現してくる。それが空の状態と同じになりまして、空即是色の空から生まれてくる、光輝く生き方、自分のためにもなり、相手のためにもなるような生活が自在に、そこから現れてくるのです。それが空即是色で、般若心経の極意なのです。≫
生老病死の無明な人生観から、天の父母を実感する子たる身分を知ると、性孝殖喜の鮮明なる人生を歩めるでしょうAJU,
無我は空になるが空は無我ではない、経文を批判してしまう考え違い根気が付かないのは現代人らしい。
欧米文化についての誤解が根底にありそうですね、キリスト教を日本人だけが「愛の宗教」と勘違いしてしまうほど欧米文化の宗教観と日本人の宗教観がまるで違う事に気が付いている人が少ない事は残念です。
欧米文化の基盤はキリスト教です、ギリシャ哲学の系譜ではなくキリスト教の神だけが主体であって、人間は神の僕に過ぎないという基盤の上に欧米文化が成り立っているという認識が無いと誤解してしまいます。欧米哲学が「存在」から入る理由が解らないと、何で存在を疑うのかが理解できません。欧米哲学は内政をしているのではなく「神と対話」をしているのです。カトリックの失政からプロテスタントが生まれ、だからニーチェは神を殺して新たな神を創造した、昔からの社会問題をいまだに解決できないのは、神にお任せの他力本願無責任の文化の影響です。存在論などごみ箱に捨てても何も変わらない、現代の日本人は欧米文化に染まりすぎて交配してきています、仏教もしかり、「空」を知らずに経文を批判する事は自分の愚を知らない無我「信心決定」にも至っていない事を自白しているようなことに見えてしまいます。「解らない」を「おかしい」と疑う無明。
なにぬかしとんねん
それでは、色即是空の説明になってないわ~色に意味付けをしたり価値判断しない思いや願いを決して付加して見ない〜~❗❗それが空観~?でしょ~?もっと砕いてわかりやすく説明して〜~
つまり、肉体があるから、カルマ私を感じる、ただそれは幻想に過ぎない、頭の中の小さな小人達。