龍樹菩薩の説いた「空」をわかりやすく解説したつもりの動画
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- Опубліковано 6 жов 2024
- 引用文献
「龍樹」中村元 P355
「龍樹 空の論理と菩薩の道」瓜生津隆真 P100-101
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#空
#有無の邪見
#有無を離れる
#無自性空
#龍樹菩薩
『私が無い』のでなくて『常に変化する私という状態』があるの腑に落ちました。
空とは、存在のありかたで、有る、無いはわかります。空とは、目に見えないがあるものがあります。これを空といえばいいとのではないです。たとえば、楽しい、悔しい、悲しい、魂、ーこれらは目に見えないがあります。
この世界を普通の人が見れば、様々な物質が独立してあるようにしか見えない。
ここで、温度で世界を見るサーモカメラの視点で世界を見る。するとそこには変化する温度の濃淡があるだけで、独立したものは無い。固まりに見える箇所もあるが、よく見れば周囲の影響を受け一定しておらず、絶えず変化している。(=縁起)
龍樹はそういった感覚で世界を見たのだろう。もちろん温度ではなく別のものだろうが、なにかのエネルギーの変化なのだろう。それを霊とするか、原子とするか、超弦とするかは不明。しかしダンマパダに言うようにそれらの変化は心によって起きており、心も又その影響を受けて変化している。
話しが聞きやすいでした!龍樹の空の考え方が良く解りました。
十分に分かり易かったです。
ありがとうございました。
励みになります。ありがとうございます!
常人にはわかりにくい、極めて分かりにくいお話、(皮肉ではありませんご容赦)有難うございます。途中途中で引用されます龍樹の言葉があまりに簡潔で、すっと心に入ってきます。いかに龍樹が優れていたかわかります。それでも先生が常人にわかってほしいと願われる。ここに真心があります。これも慈悲の心として受け取りました。
浄土がある、という教えからしたら空は非常に相性が悪いと思うんですが、でも、そんな浄土系のお坊さんがちゃんと正面切って解説してくれてて感心しました。
龍樹菩薩の空の考えに至る迄を幾つかのカテゴリーに分けて、一つずつゆっくり先生のお言葉で語っていただけると私のような者にはきっと理解に到れると希望を持っています。
人間は考えていると思っているだけ何だと思います。つまり、今日自分が何かを考えた。と思っていても、それも 今日の体調や天気やテレビ番組の影響など つまり縁起によって想起しているのだと思います。
ということは 私。などは幻想なのではないでしょうか?。ミリンダ王の問の冒頭にもありますが。
私とは機械的な存在なのでしょう。
生命や人類はきっと集合的無意識の領域でバランスをとっている。
それは宇宙の星星の配列と何ら変わらない。ただ複雑であるがゆえにあたかもそこに自由があるかのように見えるだけです。
私がある時不意にとる行動の根拠は実は宇宙的な計画の1助となるべきもの。全てが連鎖して共同体に影響する。全てが自分。
色々な捉え方があるとは存じますが、仏教用語で言えば『諸行(因縁によって生じる=縁起)無情(変わらないものはない=一つの状態を保ち続けるものはない)』を瞬間々々(時々刻々と移り変わる)『直ぐ直前の過去の未來の現在、現在の直ぐ直後の未来』=その僅かな時間の間にも移り変わっている、として切り取れば、より近い説明になるのではないかと存じますが、如何でしょうか。
何が分からないかを言っていただければ説明しやすい。 質問:阿弥陀仏とは何のことでしょうか?
ありがとうございます😊
苫米地 トマベチ コマネチ 解説したつもりつもった「空」を解く 角 刀 牛 言 兌 空とは詮ずる所 ウハエ である。
・ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり
虚では
龍樹菩薩様、縁さえも、空と
人間というものは、ガラスに広がる霜の模様のような存在ですね。条件が揃えば仮に形成し、また条件が変わればそれが水に帰す。不生不滅。合掌
仏教用語を勉強中です。
仏教での
無と空の違いを知りたくて視聴しました。
空とは、つまり非二元、ノンデュアリティですね?きっと^^
般若心経では、色に対して空が使われるけど、他の部分では無がよく登場しますね。
もう少し学んでみます^^ありがとうございます。
コメントありがとうございます!よくキリスト教文化圏は二元論で、仏教は一元論だという話がありますが、個人的にはゼロ元論の方がニュアンスとして近いのではないかと思っています。概念を離れる、唯識も最終的には心を空と観ずる等。いずれにせよ非二元ですが。そのような言葉を知らなかったので大変勉強になります。また、なんでも聞いてやってください。
@@仏教宗教浄土真宗から幸 そうです!非二元は、一元というよりもゼロに近いです!
ありがとうございます😊
なるほど!ありがとうございました。
一だからゼロなんです
一しかなければそれは
一とも呼べないから
ゼロとも言える
まぁそうなると本当は何とも言えないので
表現するならば
空、それ、これ、ここ、ある、今、神、愛、と
抽象的になってしまいますよね(^ー^)
対象がないので🤣🤣
ないけどあるのです🤣
完全に満たされてます🤣
また 無我というのは 無常の連続性から われの立場を認識すること.......では 空とは?
(私は龍樹菩薩の教えについては素人なのですが)龍樹に関する他の動画も視聴したりして、そもそも、今に残る仏教を分かりにくくした張本人が、実は龍樹菩薩だったのではないか?と感じる所も有ります。釈迦が説いた教えは、もっと自然で分かり易いものだったのではないか?とも思います。果たして、龍樹が「空の思想」を付け加えて何か良い事が在ったのだろうか?余計な概念を付け加えて、その後の仏教を、いたずらに難しく、分かりにくくしただけではなかっただろうか?などと、思います。素人の推測なので、私の考えが間違っている事も在ると思いますが。ご意見を聴きたいです。
「空」は原始仏典では「縁起諸説」の意味です。阿含経典では、「苦は有か無か」と問うてくる異学の修行者がでてきて、ブッダ/サーリプッタはそのともに否定します。そして苦は有でも苦でもない、縁りておこる現象(空)と説いています。
「無」と「空」との違いが整理できずに困っていますので、教えていただきたくよろしくお願い申し上げます。
西田幾多郎は『歴史的身体』の中で、次のように「無」について述べています。
①我々が有るというものを認めるには、無いというものに対して認めるのである。
②併し有るというものに対して認められた無いというものは、尚対立的有で或る。
③真の無はかかる有と無とを包むものでなければならぬ、かかる有無の成立する場所ではならぬ。
④有を否定し有に対立する無が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならぬ。
これは、ナーガールジュナが述べる「空」(独立した存在があり得ないこと)と同じだとみなして良いと思うのですが。
般若心経を学んだ者から、「無」と「空」は絶対に違うと指摘され、答えに窮しています。
龍樹が 有とか無とか空とかいったから分かり難いのでは・・ 定とか常とか変を使えば分かりやすいのでは・・・・
南無阿弥陀仏
私がご縁いただいてるお寺の僧侶が真逆の説明でしたので、ちょっと混乱してます。自我というのは相対の世界で存在していると。
また、霊魂のようなものはなく、生まれ変わりもないとのことでしたが、浄土往生は、来世浄土に生まれるという思想と教えてもらっています。
永遠の命が私たちの本質であるという風にも教えていただいていますが、その辺ご住職の教えと違うところがありましたらおしえていただけるでしょうか。
龍樹菩薩が説かれたという「空の思想」が書かれた書物を読んで、自分でも良く分からない状態で、他人に説明しようとして、色々、変形させて説いたが為に余計にこじらせて、さらに分かりにくいものにしている様に思います。(この動画がそうだ、というのではなく、一般的に)。「空の思想」を説く時は、龍樹菩薩の生涯を交えながら説明した方が良いと思います。(この動画がそうだ、というのではなく、一般的に)。
過去からの業が未来に行き現在に到る。それの連続性って 無常なのでは?
物質への執着が悟りを妨げています。情報空間への理解が必要のように思います。
そも、言語空間に束縛される書物を読むことで空への真の理解を得られるような陳腐なものではないように思います。
空であると悟った先に虚無主義に陥ることはありませんか?諸行無常もそうですが、仏教の教えが虚無主義に至らないか永年疑問です。
コメントありがとうございます!虚無思想をお釈迦様は大変警戒されたと思います。存在が空であることと、存在が無であることが混同された歴史があることからもおわかりになっていただけると思いますが、おっしゃる通り、その境目というのは非常に難解な所があるかと思います。少しチープに感じられるかもしれませんが、ひとつの考えとしては、あらゆる因縁が携わって形成される「我」なので、実はそのままでおかげさまである、感謝すべきであるという出口があるかと思います。本来は慈悲喜捨の四無量心が出口になるところでしょうが。
@@仏教宗教浄土真宗から幸 早速教えていただき感無量です!チープどころか、自分のレベルでは少し難しいようです。もっと仏教の教えを学ぼうと思います。体験的な部分があり言葉の説明では十分伝わらない点もあるのかもしれないとも想像しました。でもお忙しいところありがとうございました。
改めて、聴聞させて頂きました。空を説いた身近なお経である『般若心経』については、浄土真宗本願寺派では、僧侶様によって、大事なお経だけども、より大切な浄土三部経を学ぶべきで、読む必要はないとされる方と、中身を知るくらいは有ってもよい、とされる方が居られますね。
仏教の根幹に関わるお経としては、知っておいてよいかなと感じました。尤も、実践出来ない凡夫を阿弥陀仏様がお救い下さるのでしようけれど。
点では無いと理解してますよ(๑˃̵ᴗ˂̵)
時の連続性では.......空というより 無常だと思う。
コメントありがとうございます!端的に言うならば、無常は一刹那も留まるものはないことを表し、それゆえ固定的な実体はないというのが無我。それらの概念に因縁の法を加味して、相依的存在を表すのが空といえると考えています。無常+無我+因縁=空 といったところでしょうか。おっしゃる通り、「時の連続性」をあらわしている概念があるとするならば、段落無常ではなく、刹那無常であるという仏教の無常観は近しいものがあろうかと思います!
@@仏教宗教浄土真宗から幸
ご返事 ありがとうございます。
でも それって 中々 実感できませんね! 頭でわかっても実感がともわない...難しいものですが
執着も本当に無くす!ということも 同様 難しいです。
一時 深い催眠状態で それを実績できないかと思いましたが
できたとしても 死んでしまいそうです。
話はかわりまして いきなり 無我 で 無常に至る!は ないですかね?
これは 無常から無我より 難しそうです。(笑
ただ 案外 悟り は簡単かもしれませんね!
執着をなくせば 良いのですから.......
本当の究極は 自殺なのかもしれません。 (別に自殺を進めているわけではありませんが..)
人は そう簡単に 死ねません。 悟りの自死は 執着を無くすことですが
執着を なくしたら 自死すらしないと思います。.....必要がないからです。(執着ないし..)
ただ 必要があれば 「さくっ」 て死ぬことはできるでしょう。
それは 周りから見れば(世間)けっこう怖いことかもしれませんね..。
ただ 即身仏の意味合いは これで理解できます。
私は『色即是空 空即是色』の色とは『目が見たもの』であり、心の上に乗っかって心を蘊(ふさぐ)『目が見たもの』だと考えます。『目が見たもの』が心の上から消えれば空しくなりますから空ですよね。ですから『色不異空 空不異色』となり『空中無色』となりますよね。w
やっぱり わからん.....空
目付きが半グレ。
半ブルー だったら素敵なのに・・・