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3:59 細川忠隆が系図上細川幽斎の子 細川忠興の兄としていますが、忠隆は細川忠興の長男です。忠興と利家は子供同士が結婚した形となります。訂正させていただきます。
事実無根のエピソードが、何段階かの人々の解釈を経て、史実として認定されて行く過程が、よく分かりました。江戸時代ですらそうなのですから、それ以前の時代にはさらなる史実化があるのでしょうね!14:16以降の図式化、とても簡潔に分かりやすくまとまっていて、理解しやすかったです。徳富蘇峰先生、ジャーナリストであっても、物書きの性、かなりの飛躍とお墨付きをあたえてしまったのですね。後世それを否定するには、さらなる資料の検討と精査が必要であり、歴史家諸先生方の研究成果に感服します。
0:11: ❓ 石田三成襲撃事件の真相について紹介します。4:33: 🏯 家康と利家の和解が成立し、徳川家と前田家の関係が強化された。7:31: 🔑 蔚山城の戦いは、清正たちが朝鮮軍に攻められたが、日本軍が援軍を送り撃退した戦いであり、その後の処分によって対立が深まった。10:20: 📜 石田三成襲撃事件の処分は軽いものであり、復帰前提のものであったとされる。13:40: ❌ 物語が事実のように語られる原因は、徳川家康の屋敷に三成が逃げ込んだという誤った記述が広まったことである。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
性格的に加藤清正や福島正則の尾張衆は三成に対して負の感情を抱く事はあっても、藤堂高虎は三成と同じ近江出身でしかも元は浅井家の家臣であり、いくつもの大名家を渡り歩いた経験上、内紛となれば仲裁役に回ると考えられるけど、他家に戦で付け込まれる騒動の元になる企てに加担することは絶対にあり得なかった。しかも前田利家が亡くなった頃には完全に徳川家に心を許している状況で、その家康もまた色々と三成を庇っており、それは見せかけで家康が三成と敵対して天下を乗っ取る為等の資料は当時のアンチ家康共が騒いで作り替えたとしか言いようがない。秀吉は遺言として5大老ではなく家康と利家だけに政権を頼むと言っている。大体三成や毛利輝元に自分の敵になるよう家康が進言している事実が都合悪いらしく、いつの間にか認識から消されているのは怪しい。
三成と家康も仲良しと敵対を繰り返していたのは間違いないだろうし。そんな戦国の世の常である掌くるくる状態の間を埋める物語は自由に出来るからこそ、数多の歴史物語が生まれては消えていく。
大河の演出が今回から大幅に変わって驚いた
俺も驚いた
5:12 やはり前田利家が亡くなったのが大きかったんですね。
5:30 資料によっては加藤嘉明も七将に加わったり池田輝政の代わりに脇坂安治が加えられたりとある。
江戸時代以降の歴史好きどもが、想像逞しく色々妄想を膨らませてアレやコレや書いていたんやな………
今回の解釈はかなり厳しいですねぇ。おおむね七将襲撃事件であってますよ。まぁ「強訴」って感じかな実態は、どうやら三成の政治に問題があり。武断派の訴えによって蟄居処分にさせられた感じだな。現代でいうと「更迭」。まぁ議員はやめていないけど、大臣職を辞した感じだな。「どうする家康」では、家康の屋敷に逃げ込んだ描写はなくなっていて、自分の屋敷に逃げ込んだ描写になってるね。七将(?)も戦闘をするというよりかは、武断派の覚悟を見せて取引に応じさせようとした。江戸時代にも現代のデモ(一揆ではない)のようなものがあったとされているけど、それを大名が行った。現代だと議会で牛歩戦術使う議員みたいなことを七将は行ったんだろうな。まぁなまじ石高と武力があるから、石田三成も驚いたのは驚いたんじゃないかな?そんで武断派はなんかめんどくさいから、一時的に言うことを聞いたことにしてほとぼりが冷めたら復権すればいい。ってことになったんだろうなぁ。政治首班からは内々にそういう取り決めをしたのだろうと思う。
なぜ陸軍参謀本部は「三成が家康の屋敷に逃げ込んだ」ことにしたのか?そのことによってどんな利益がある?
「支柱に活」……(笑)「死中に活」でしょう⁉️自分で書かないからこうなる。
すみません…
3:59 この家系図だと細川家の忠興と忠隆が親子であるにも関わらず兄弟と誤解を与えてしまうと思います。
とんでもないミスしました。ご指摘感謝します。
天動説やダーウィンの唯物進化論のように、特定の人物や組織の判断に対しそれを裏付けようとせずに神聖化するのもある種の承認バイアスなんだろうなそのタブーに踏み込んだ識者へ敬意を表する主さんにもね
こんばんは😊
徳川幕府によって誹謗中傷された三成。
加藤清正・福島正則・池田輝政・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・山内一豊・京極高知の11将が襲撃した説もあるよね。
そもそも朝鮮出兵で秀吉に嘘の報告をしていた三成のやり方に問題があった訳で。三成は頭はキレる方であるが真面目過ぎるのが、、、、。
高虎は賤ケ岳世代よりも一世代上でバカ騒ぎする歳でもないし伏見城には三成専用の執務室あったしで関が原から逆算して歴史を書くという間違いが如実に出たのかな。
なるほどです☆
取締役本部長の右腕になっている営業企画部長とか統括部長=評論家で予算未達成の責任は営業が無能だと役員に報告するやつ=石田三成加藤清正達=過大な予算に対して奮闘するが未達成の責任を取らされる営業部長や支店長と言う感じかな。
3:59 細川忠隆が系図上細川幽斎の子 細川忠興の兄としていますが、忠隆は細川忠興の長男です。
忠興と利家は子供同士が結婚した形となります。訂正させていただきます。
事実無根のエピソードが、何段階かの人々の解釈を経て、史実として認定されて行く過程が、よく分かりました。江戸時代ですらそうなのですから、それ以前の時代にはさらなる史実化があるのでしょうね!14:16以降の図式化、とても簡潔に分かりやすくまとまっていて、理解しやすかったです。徳富蘇峰先生、ジャーナリストであっても、物書きの性、かなりの飛躍とお墨付きをあたえてしまったのですね。後世それを否定するには、さらなる資料の検討と精査が必要であり、歴史家諸先生方の研究成果に感服します。
0:11: ❓ 石田三成襲撃事件の真相について紹介します。
4:33: 🏯 家康と利家の和解が成立し、徳川家と前田家の関係が強化された。
7:31: 🔑 蔚山城の戦いは、清正たちが朝鮮軍に攻められたが、日本軍が援軍を送り撃退した戦いであり、その後の処分によって対立が深まった。
10:20: 📜 石田三成襲撃事件の処分は軽いものであり、復帰前提のものであったとされる。
13:40: ❌ 物語が事実のように語られる原因は、徳川家康の屋敷に三成が逃げ込んだという誤った記述が広まったことである。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
性格的に加藤清正や福島正則の尾張衆は三成に対して負の感情を抱く事はあっても、藤堂高虎は三成と同じ近江出身でしかも元は浅井家の家臣であり、いくつもの大名家を渡り歩いた経験上、内紛となれば仲裁役に回ると考えられるけど、他家に戦で付け込まれる騒動の元になる企てに加担することは絶対にあり得なかった。しかも前田利家が亡くなった頃には完全に徳川家に心を許している状況で、その家康もまた色々と三成を庇っており、それは見せかけで家康が三成と敵対して天下を乗っ取る為等の資料は当時のアンチ家康共が騒いで作り替えたとしか言いようがない。
秀吉は遺言として5大老ではなく家康と利家だけに政権を頼むと言っている。大体三成や毛利輝元に自分の敵になるよう家康が進言している事実が都合悪いらしく、いつの間にか認識から消されているのは怪しい。
三成と家康も仲良しと敵対を繰り返していたのは間違いないだろうし。そんな戦国の世の常である掌くるくる状態の間を埋める物語は自由に出来るからこそ、数多の歴史物語が生まれては消えていく。
大河の演出が今回から大幅に変わって驚いた
俺も驚いた
5:12 やはり前田利家が亡くなったのが大きかったんですね。
5:30 資料によっては加藤嘉明も七将に加わったり池田輝政の代わりに脇坂安治が加えられたりとある。
江戸時代以降の歴史好きどもが、想像逞しく色々妄想を膨らませてアレやコレや書いていたんやな………
今回の解釈はかなり厳しいですねぇ。おおむね七将襲撃事件であってますよ。まぁ「強訴」って感じかな
実態は、どうやら三成の政治に問題があり。武断派の訴えによって蟄居処分にさせられた感じだな。
現代でいうと「更迭」。まぁ議員はやめていないけど、大臣職を辞した感じだな。
「どうする家康」では、家康の屋敷に逃げ込んだ描写はなくなっていて、自分の屋敷に逃げ込んだ描写になってるね。
七将(?)も戦闘をするというよりかは、武断派の覚悟を見せて取引に応じさせようとした。
江戸時代にも現代のデモ(一揆ではない)のようなものがあったとされているけど、それを大名が行った。
現代だと議会で牛歩戦術使う議員みたいなことを七将は行ったんだろうな。
まぁなまじ石高と武力があるから、石田三成も驚いたのは驚いたんじゃないかな?
そんで武断派はなんかめんどくさいから、一時的に言うことを聞いたことにしてほとぼりが冷めたら復権すればいい。ってことになったんだろうなぁ。政治首班からは内々にそういう取り決めをしたのだろうと思う。
なぜ陸軍参謀本部は「三成が家康の屋敷に逃げ込んだ」ことにしたのか?そのことによってどんな利益がある?
「支柱に活」……(笑)
「死中に活」でしょう⁉️
自分で書かないからこうなる。
すみません…
3:59 この家系図だと細川家の忠興と忠隆が親子であるにも関わらず兄弟と誤解を与えてしまうと思います。
とんでもないミスしました。ご指摘感謝します。
天動説やダーウィンの唯物進化論のように、
特定の人物や組織の判断に対し
それを裏付けようとせずに神聖化するのも
ある種の承認バイアスなんだろうな
そのタブーに踏み込んだ識者へ敬意を表する
主さんにもね
こんばんは😊
徳川幕府によって誹謗中傷された三成。
加藤清正・福島正則・池田輝政・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・山内一豊・京極高知の11将が襲撃した説もあるよね。
そもそも朝鮮出兵で秀吉に
嘘の報告をしていた三成の
やり方に問題があった訳で。
三成は頭はキレる方であるが
真面目過ぎるのが、、、、。
高虎は賤ケ岳世代よりも一世代上でバカ騒ぎする歳でもないし
伏見城には三成専用の執務室あったしで
関が原から逆算して歴史を書くという間違いが如実に出たのかな。
なるほどです☆
取締役本部長の右腕になっている営業企画部長とか統括部長=評論家で予算未達成の責任は営業が無能だと役員に報告するやつ=石田三成
加藤清正達=過大な予算に対して奮闘するが未達成の責任を取らされる営業部長や支店長と言う感じかな。