備中高松城の戦い 歴史家 磯田 道史氏が徹底解説

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 12 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 56

  • @杉本泰潤
    @杉本泰潤 2 роки тому +35

    宗治公供養塔を祀る妙玄寺住職です。磯田先生に高松城の戦いについて、
    生で講話を聞きたいです

  • @godspeed2827
    @godspeed2827 2 роки тому +52

    磯田氏の視点は、従来の研究者とは違ってとても新鮮でしかも時代に沿った解釈をされていて、いつも感心してます。これからも応援しております。

  • @長田清司-z2h
    @長田清司-z2h 2 роки тому +23

    磯田先生にとっては出身地郷土史学の範疇だったなぁ…
    これはエエ動画ですなぁ

  • @masaf2717
    @masaf2717 2 роки тому +17

    自分は父方は備中Bの細川家の家臣、母方は高松城方の兵の子孫です。
    そのうえ、先年まで今保の港跡の近くのアパートに住んでいたので、この動画の中にいろいろ縁を感じて、楽しませて頂きました。

  • @クッキー缶-g4t
    @クッキー缶-g4t Рік тому +13

    この先生のお話は分かり易いし得心できるので好きです。
    清水家はまさにモノノフですね。
    清水宗治氏は漢の中の漢。

  • @kobayan0520
    @kobayan0520 2 роки тому +59

    有料級の歴史解説だよなぁ…磯田センセは岡山の星!偉人!

  • @向井郁雄
    @向井郁雄 2 роки тому +22

    素晴らしい解説です。

  • @士朗-r7q
    @士朗-r7q 2 роки тому +13

    大変勉強になりました。
    磯田先生
    色々動画出してください。

  • @口頭内侍
    @口頭内侍 Рік тому +10

    研究者の中には先人を「こいつ」呼ばわりし、偉そうに批評する方もいますが、磯田先生は全ての日本人に愛がおありですね。
    まとめ方も素晴らしくて、「無敵の人?」に是非聞いて貰いたいと思いました。

  • @dodomelon
    @dodomelon 2 роки тому +11

    おもしろすぎる。近々行くので勉強になりました。

  • @なお1999
    @なお1999 2 роки тому +7

    いやー! すごく面白かったです
    戦国時代の話好きなんです
    詳しい話ありがとうございました😉👍🎶

  • @江部直之-u1m
    @江部直之-u1m 2 роки тому +24

    毛利家に親近感湧くわ〜。
    我が越後の上杉家も毛利家と同様、もしも本能寺の変が無かったら織田に滅ぼされていた可能性がかなり高い。
    また備中高松城の名将清水宗治公といい、上杉で言ったら魚津城にて玉砕覚悟で最後まで戦った歴戦の武将たちなど。
    んでその後豊臣政権下での五大老や、関ヶ原においても敗者になりながら毛利も上杉も幕末までちゃんとお家が存続したこと、共通する部分が多々ありなんとなく勝手に親近感が。
    ついでにもう一つ、越後には軍神謙信公がいましたが、毛利元就公も相当の名将も名将。
    というか個人的には戦国一と言ってもむしろ過言ではないかと。
    何てったって、ほとんどバックボーンのない所から一代であれだけ領土を広げるとか尋常じゃないにもほどがある。笑

  • @きむらカノンコンサート
    @きむらカノンコンサート 2 роки тому +11

    良いですね、凄く為になります

  • @たろやま
    @たろやま 2 роки тому +36

    歴史学者の中には解説を聞いてて「ん?」思う人もいるけど磯田先生の解説は毎回なるほどなぁっとスッと受け入れる事ができるしとても楽しい。

  • @yyuu1377
    @yyuu1377 2 роки тому +10

    素晴らしい動画ありがとうございます。チャンネル登録しました。

  • @wisterieskampf6554
    @wisterieskampf6554 Рік тому +12

    磯田先生の分かりやすく楽しい解説がとても良かったです。
    清水宗治の潔さが後の世まで語り継がれ、家を絶やすことなく存続する日本の死生観も感じられましたね。

  • @吉田和代-b4k
    @吉田和代-b4k 2 роки тому +7

    20:47 同時期に上杉景勝も柴田勝家軍と滝川一益軍に押されて滅亡寸前だったが、本能寺の変後に柴田軍と滝川軍に対して反撃に転じた。
    毛利輝元も6月6日でなく6月4日朝に藤田伝八郎から本能寺の変の情報を入手していたら、和議を止めて羽柴秀吉軍に対して反撃に転じたと思う。

  • @モロッコ斉藤
    @モロッコ斉藤 Рік тому +5

    秀吉は都での異変を常に想定していた。中国大返しは中国地方攻略のための兵たんルートを利用した。この見解にとても納得しました。

  • @oopsloops8380
    @oopsloops8380 10 місяців тому +2

    33:11 大安寺でこの辺りっつったら、今はホームセンターとかスーパーとか並んでるあそこだな。
    西警察署の北西あたりか。あそこらへん掘ったらなんか出るかもってこと?
    行ける距離だし散歩してみっかな。

  • @gongon51200
    @gongon51200 2 роки тому +14

    磯田先生と一度酒を酌み交わしながら、歴史の話を色々教わりたい!

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 2 роки тому +8

    このような自分自身に置き換えて説明してくださる…とてもわかりやすいです。
    清水宗治…虎は死して皮残す…。人は死して名を残す…このことわざを思うことはありません。

  • @kinyanakamura6922
    @kinyanakamura6922 2 роки тому +10

    僕のご先祖様です
    ありがとございます

  • @monoris2008
    @monoris2008 10 місяців тому +2

    毛利的には渡りに船だったんですね。

  • @shinichiakiyama2511
    @shinichiakiyama2511 6 днів тому

    お話の通り、この時代、吉備津や現在のJR山陽本線の近くまで海岸だったようです。秀吉は、生まれた名古屋が木曽川や長良川などの洪水や氾濫が多く、堤の土嚢対策を経験したのではと想像します。

  • @旧原田こうじ
    @旧原田こうじ 2 місяці тому

    磯田先生のフアンの一人です。備中高松城に関わる清水家は、周防国熊毛郡周防村(現光市立野)の清水家に根付いています。清水宗治 - 家老の難波伝兵衛(宗春の血族)は毛利家に復帰し萩に移り住み、給領地を周防村立野地区に与えられた。人流少ない山口県・光市の名家(士族)として知られています。また第二奇兵隊にも関わっています~。関心ある方は是非、光市へお越し下さい。私見ですが磯田先生のコメントは、私のような素人近代史趣味人に解り易くNHK向きで真摯な方で好きです。

  • @Once888
    @Once888 2 роки тому +14

    面白かった!毛利側がここまでグダグダだったとは意外でした。
    もしこの動画の内容が大筋事実なら。
    毛利側は、本能寺の変後に正確な情報を速やかに入手できていたとしても、和睦を受け入れていた可能性が高そうだなと感じました。清水宗治の切腹など史実と全く同じ条件で。

  • @三枝子原-x9g
    @三枝子原-x9g Рік тому +2

    こんなに気高いお人、案内人さん、磯田さん。まなばしてくれてありがとう。歴史が好きになりました。^_^

  • @megane-tetugaku
    @megane-tetugaku 2 роки тому +4

    そんな状態だから、秀吉からの講和条件は渡りに船だった?
    戦ったら負けるし領地が減るしで、ならその条件で講和しますってことになるわけか?

  • @小池秀和-l9y
    @小池秀和-l9y 6 місяців тому +1

    磯田道史さん、千田嘉博先生😂😂の名古屋城の解説のUA-camも観ました。

  • @宏美高取
    @宏美高取 Місяць тому

    宇喜田秀家、黒田官兵衛
    このどちらにも関わる家として髙取(鷹取)氏があり当時備前を拠点としていた。
    (浦上氏や赤松氏とも親族 関係であった)
    因みに、豊臣側で二度の負け戦の備中髙取氏は、官兵衛(黒田家次男)が成した九州の黒田を頼り半世紀程逃げており、一部は福岡県や鹿児島県に今も残り、主家はその後 備前片岡(岡山市南区)へ帰還している(帰還しても江戸中期くらいまでは男の戒名を隠し続け墓石に刻まれていない)
    髙取焼きは九州の地で起こした産業の名残りである。
    前後したが、宇喜田秀家の母お福は、三浦氏の娘を髙取の養女とし宇喜田直家に嫁した。
    また黒田家は備中髙取氏の配下であり、今も黒田家本家の墓は備前市の旧髙取氏領内にある。
    備前.備中髙取氏子孫もこの地に残っている。
    備前には自然要塞とも思える穏やかな中海や港湾を多く抱え、髙取氏も古くは土師氏として素焼きの埴輪や須恵器で、中期は備前焼や様々な物産で交易をしており、宇喜田氏が岡山城を現在地に築城するまでは中心地であった。
    上記から中国大返しが速やかに出来た所以として、髙取氏が深く関与していたと考える。

  • @齋藤友一
    @齋藤友一 Рік тому +3

    信長さんはヨーロッパへ
    光秀さんは坊さんに
    後は秀吉さん頼んだよ

  • @たまかずら
    @たまかずら 2 роки тому +5

    清水宗治有能じゃな!

  • @mioi8374
    @mioi8374 Рік тому +1

    音がずいぶん悪いですね

  • @shinichiakiyama2511
    @shinichiakiyama2511 6 днів тому

    歴史に「もしも」は無いが、明智光秀が本能寺の変から直ちに高松城の秀吉を攻めれば、毛利と挟み撃ちの秀吉は大危機。光秀は毛利と結めば歴史が変わっていたかも。

  • @ぬるぽフナ件氏
    @ぬるぽフナ件氏 Рік тому +2

    備中高松の時点で秀吉が謀反が起きる事を知ってたとしたらカラ約束では無くなるか😅

  • @杉本佳代-c7b
    @杉本佳代-c7b 2 роки тому +5

    なんだか 企業戦略に似てる

  • @ドラえもん大好き-n5w
    @ドラえもん大好き-n5w 2 роки тому +5

    楽しかったです。歴史は、長い時間の中で見れるので、ためにもなります。
    今 
    「南京事件」の総括
    田中正明著  小学館文庫
    を読んでいます。正しく歴史を知ることは、大切なことです。
    田中正明氏は、「パール判事の日本無罪論」の著者でもあります。この本も素晴らしい本でした。高校生以上の日本国民全員に読んでほしい本です。

  • @alexale4074
    @alexale4074 2 роки тому +2

    豊臣と毛利で中国の利権争いですか
    まあ分かりやすいですね

  • @toshiyasu4
    @toshiyasu4 2 роки тому +2

    宗春は最後には忠義を尽くした隆景に切られた

  • @林由紀夫-k5p
    @林由紀夫-k5p 2 роки тому +20

    清水宗治は切腹に際して、漕ぎ出させた小舟の上で、例の「敦盛」を舞歌ってのち、堤防で見守る羽柴秀吉、黒田官兵衛の前で切腹して果てた!

  • @hidekaikiri
    @hidekaikiri 2 роки тому +2

    転 小四郎の子孫の歌手とはだれ?

  • @松井秀喜-h6j
    @松井秀喜-h6j 2 роки тому +3

    要約すると宇多田ヒカルの先祖は忍者だったのですね

  • @まぼろし探偵
    @まぼろし探偵 18 днів тому

    毛利が潰されてたら明治維新は起きなかったことになる。

  • @山浦繁
    @山浦繁 9 місяців тому

  • @59569
    @59569 2 роки тому +1

    高松は香川だろ??

    • @gigiko1504
      @gigiko1504 Рік тому +14

      え?ネタかい?
      ネタで言ってるの?
      一応真面目にお答えすると、これは備中高松、今の岡山県だよ。
      高松城の話ではなくて、備中高松城の話。
      香川県じゃないよ。

  • @kouyuu578
    @kouyuu578 Рік тому +1

    韓国JKに聞こえた

  • @ヒロ-d6m7g
    @ヒロ-d6m7g 11 місяців тому +3

    本能寺の変が無ければ明治維新も無かった?かも知れない?

  • @jyastis
    @jyastis 9 місяців тому +2

    ハッキリ言うが私はこの磯田という男に好感は持てない、何故か、14、5年前か?NHKBSTVで日露戦争がテーマの座談があった、その時この磯田という人は生意気盛りで他の歴史学者より偉そうな態度で見下し自分の説をとうとうと述べるのに不快感を覚えた。嫌いになったのは当時の外務大臣、小村寿太郎氏の話しで、木で鼻を括るように、小村って~のは、と小バカにした話しぶりにカチンときた、というのは当時の日本が死ぬおもいて戦った日露戦争のしかも外務大臣を勤めた小村翁を上記の言葉で切って捨てる言い方に憤りさえ覚えたからだ、もし小村翁の子孫がこのような言葉を聞いたら悲しむだろうし大体失礼だろう思った。歴史学者なら日露戦争が国運をかけた戦いだった事は知らない訳はない。小村翁の外交が気に入らなかったかは判らないがその物いいには小村翁を侮辱しているように感じたのだ。最後に歴史学者と言えどもその時代を生きた先人達には敬意を示す事も大事ですよと言いたい。以上。

    • @大ちゃん-r9u
      @大ちゃん-r9u 9 місяців тому

      自分の研究に自信があったんでしょ~ね…
      若気の至り…とは言いますが、賢い者は子供の頃から人物が出来ているもので、人の性根とゆ~ものは一生変わる物ではありません。
      N💞Kに出ている時点で 何かあるとは想像できますが、同郷の者としては残念です…💧🔔~🙏。

    • @ヤマハポッケチャンネル
      @ヤマハポッケチャンネル 4 місяці тому

      じゃ、見るな!いちいち書くな!小さい男だね😊