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本動画は、乃至政彦 高橋陽介『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』の論をベースに、他の参考文献の主張も合わせながら制作しました。正直、関ヶ原の戦いは分かっていないことが多すぎるのに江戸時代の軍記物をベースにした「通説」が市民権を得すぎているので余計実体が分からなくなっています。関ヶ原研究もまだ始まったばかりといえる状況なので、数年後には研究の発展によりまた変わった関ヶ原の実像が見えてくると思います。
一次資料を元に限りなく真実に近い歴史が1番知りたいので、とても面白かったです。
すごく参考になりました。関ヶ原の戦いがどうなるのか気になりますね。
大河のこのタイミング気に色々な方々の新説関が原が見れて面白いです
自分がナゾだったのが、真田というどうでもいいような小規模の大名と戦うために(落城させて勢いをつける)秀忠3万以上の軍勢を使って、遠回りでして関ヶ原に向かった意味が、なんとなく分かってきた。この段階で家康は、天下分け目の合戦になるとは認識していなかった事、もし認識していたなら秀忠軍は家康と同じルートで進軍していた、ナゾが解明。三成が短時間で、これだけの大名を動かし合戦まで誘導、知恵者と思う。それに対して家康も凄い、ハッキリしない状況での武将の動かし方と対応策と攻め方。小早川秀秋が突然の裏切りで参戦して、36万石から51万石の加増などあり得るのかと思っていた。逆に言えば武士の恥、直前までハッキリしない状態で参戦しても、ここまで加増はない。この加増は前もって東軍に意思があって西軍と戦う前提で参戦した加増ではないかと思う。なんとなく合戦後の加増にヒントが隠されているかもしれない。
そもそも関ヶ原の戦いが小説風の軍記物を基にした創作であり、一次資料と陣所も違うという指摘に、ずっこけました!徳川家にとっては、最大の見せ場である大合戦の勝利をきちんと書き記していないとは、あまりに意外でした。ましてや、陣形が明治時代の陸軍参謀本部編纂の”日本戦史関ヶ原役”に拠っているとは、空いた口が塞がらない思いです。最近の研究により真相が明らかになっているから良いようなものの、今まで信じてきた情報がいかにあやふやなものであり、こじつけ的な論拠となっているかを知り、驚いています。戦国時代の常識が次々覆って、目を見張ります。
歴史なので、最初から通説など信じてはいませんが、東軍の団結力と西軍の寄せ集め感が勝敗のわかれ道と感じいます。真田好きの私としては、秀忠軍との戦いの大活躍が最近になって兵士の戦での減り数からあまり、戦っていないと言うのがわかり、えと思ったのですが、歴史てほぼわかってないし、研究が進むと逆説が真実であったり、またそれが面白いですね。わかりやすい動画ありがとうございます。
新説の解説はやっぱおもしろ
関ケ原に何度も訪れており、先週の三連休にも行きました。実際に現地に行くと通説の西軍の布陣図は軍事的におかしいと思います。佐和山や大坂方面に向かう中山道から外れた北国街道側の笹尾山陣地の布陣も変だし、裏切りが疑われていた松尾山の小早川に対して正面を向かず、守りの弱い腹背を見せている宇喜多の布陣も変。新説の藤川の西岸の自害峰~山中村にかけての関ケ原の端の狭隘部に西軍が集中して布陣していたのが正しいのでは?と思います。ちなみに、松尾山に登れば標高が高すぎて戦の最中に麓で問鉄砲を撃たれても、物理的に聞こえるはずがない事が解ります。
そうか、この当時は大柿城か
私も不思議に思い、調べてみました。戦国時代は、大柿城と書いたそうですね。
名将「小早川秀秋」小早川秀秋の動きは18歳の動きではない。しかし朝鮮出兵で鍛えられていたと思うと納得。そして、もしかしたら眼下の敵部隊を調略していたのかもしれない。さらに西軍撤退路の封鎖。家康らと図っていたのかもしれませんな。 毛利輝元としては、完全な後手。ここまで完璧に要点や要所で裏切られてしまうと、恐怖でしかない。このまま家康と戦ったとて、身内から裏切りものがでて、毛利家が確実になくなっていただろう。
小早川討伐って自ら挟み撃ちに合うようなもんじゃん
江戸時代の人、頑張り過ぎやな………しかし、2人が生き残った三奉行が主犯格とするなら、方面軍司令官に過ぎなかった三成が処断されたのは哀れやな……
天下を平定するための見せしめですかね。
通説があまりにも有名だから、一時史料の方が通説になるまでは50年くらいはかかりそうだなぁ…。
結構時間がかかりそうですね。
毛利輝元に大坂城を守らせていた方が家康にとって都合が良かったのはその後の状況を見れば明らかなんです。何せ三成の采配ではこのまま長引けば第三者に淀共々秀頼が乗っ取られますから…その誰かさんとして黒田如水か真田昌幸が手を組めば厄介になるでしょうし
歴史好きが見るべきは。一次資料であって。今後。一次、二次資料がもっと表に引き出されるようになれば。。。
ヘェー、なるほどね。いろんな新事実が有るのね。
石田三成は前線司令官なのに毛利輝元の関与を隠すために祭り上げられたのかな
あの手紙が原因だと予想してる。手紙って裏切りの証拠の塊だからね。石田三成に書かせた手紙は実は、毛利輝元の責任追及をそらす目的があった。
小早川秀秋が松尾山に陣を敷いたのが全て🎉名将やんけ😮
西軍(毛利輝元)は家康が国元に帰った隙に、関西地区を支配下に置こうと思ったが、家康と正面衝突する気は無さそうですね。
関ヶ原記念館を持つ関ヶ原町は新説を受け入れられないでしょうね発掘調査で陣を敷いた痕跡が無くても、三成の本陣は笹尾山にあったことにせざるを得ない
もしかして 天下分け目の戦だから こんな しょぼい 戦の わけないっていう思い込みから壮大なストーリーが作られたんかな
通説を信じてる人(特に高齢者歴史好き)にはかなりキツイお知らせですよね〜歴史は生涯学習とはよく言ったもの
なんで徳川本隊が到着する前に決戦仕掛けたのかと思ってたけど偶発的だったんだ
この説だと関ヶ原のあと数年で征夷大将軍になる家康はどんだけ短期間で粛清したんだって思う
今の戦争と似た感じでグダグダですね
明確な指揮官がいないから、皆、手探りで戦ってる印象ですね。情報連携もこれだけ大名が入り乱れては、統制が難しいです。
奇しくも壬申の乱の戦場と同じ辺り?山道のような狭さゆえに挟み撃ちにされると片が付くのも早いわけですね。
まず第一に吉川広家の文書は毛利と自身を守るために後世創作された可能性があり鵜呑みに出来ない事、毛利が意思統一されていたなら安国寺恵瓊だけが処刑されたのはおかしいし、安国寺恵瓊が最前線にいようとも本軍が動かなければ勝手に動くことはできない。小早川秀秋が内通していたとしても、それまでにも勝手な行動をしているから松尾山を占拠したからといって怪しんでも東軍に内通していると三成が断定できないのでは?私見では何らかの軍事目的があって三成らは関ケ原に向かった、ところが東軍がその後を追ってきた、小早川は内通はしたが直前まで迷っていた、しかし毛利が動かないことを確認して西軍を攻撃した、そこに東軍が追い付いた、こんな感じじゃないかと思うんですがね。西軍が午前4時ごろ関ケ原に到着して合戦が始まったのが8時とも10時とも言われていますから、最初から小早川を攻撃するにはあまりにも遅すぎる。
つまり通説は三国志演義みたいなものってことですね。
家康が棚ぼた過ぎるw。安国寺恵瓊は清水宗治と同じ立場で毛利を守る人柱にされたのか。でも防長2か国に減らされたけど。
読んだ司馬遼太郎の原作はもちろん、見てないが昭和40年代の大河国盗り物語は、斎藤道三が油商人から美濃を奪うドラマ展開になったはずその後斎藤道三の親子二代国盗り説はほぼ定説になったと思われ、大河麒麟がくる道三役の本木が「油商人の父が。。。」それらしきセリフがあった関ケ原の戦いの動向は、1980年頃のTBS正月時代劇関ケ原(司馬遼太郎原作)や、ほぼ同じ内容の2000年大河ドラマ葵徳川三代前半などで多くの人が認識していると思われるが主人公が直接関ケ原に参陣しなかった大河真田丸では、関ケ原の動向を無視する事ができた今年のどうする家康は見てないのだが、そろそろ関ケ原をやるみたいで、NHKは以前の通説か?定説になりつつある新説どちらを採用するのか興味ある
2009年頃の歴史本ですら秀秋以外にも寝返りした、秀秋の裏切りは西軍は織り込み済みとあったのに。(秀秋の陣の前方に土塁有からの推測)世間に広まるっちゅうのは長い時間かかるもんや。
小早川秀秋は迷いなかったのか
まあ、正しくても無粋だわな。
これらの新設が史実として受け入れられるのは先の話だろうな。忠臣蔵の赤穂事件は今でも仮名手本忠臣蔵が史実として跋扈しているから、新事実を受け入れる人は歴史好きだけかも。関ヶ原の戦いも江戸時代以降の伝記が史実として定着したからなあ。ドラマチックじゃない関ヶ原の決戦はねえ。面白味が無い物www
次々と新説が出てくる関ヶ原の戦いだけど、そのうち「関ヶ原の戦いはなかった」という説が出そうだ。
関ヶ原ウォーランドの人形配置やりなおしだなこりゃ
来週の関ヶ原の戦いで、家康が松尾山に鉄砲ぶちこんで、それであわてた小早川秀秋がそこではじめて西軍を裏切って大谷軍におそいかかる、みたいなストーリーだったら逆に天晴れなのだが
上杉征伐の際家康は淀殿お付きで秀頼からの許可を書状として受け取っているのに、その事実を打ち消して家康を逆賊扱いにすることは不可能だったし、現に内府違いの条々には家康への不満しか書かれていません。これでは三成側に心底味方する豊臣家家臣も少ないし、外様が次々に裏切っていって当然。ですが家康よりも三成の方が豊臣家にとって悪だと認識させるような行動を取る程三成は凡庸ではなかったので、わざわざお互い戦に仕立てる必要があったと思われます。それを考えた時に一番想像できるのは徳川軍も西軍でもない第三者の大坂城乗っ取り…兵を動かした立花宗茂は改易処分なのに真田昌幸は死罪とは不自然すぎます
大変に興味深い話です。ただ毛利元康の大軍が駐屯する大津城を容易く奪還してしまう京極高次や、背後を井伊・福島ら東軍先遣隊に晒して松尾山の小早川秀秋を討伐する15日早朝の状況(それが原因で敗北)など、不自然に感じる部分はありますね。勝手知ったる松尾山に攻め上がるのなら防備が厳重で東軍に包囲されるのが確定している北の大手より、南宮山の西軍主力の支援が受けられる東や搦め手の南西に回り込んだ方が良かったでしょうし。
またまた新しい通説がアップデートされたのね
個人的には局地戦ではなく、本戦に秀頼を旗頭として出陣させ、毛利輝元・上杉景勝・立花宗茂・真田昌幸らの軍が参戦していた世界線を見てみたかった
大津城に京極高次を入れて立花宗茂軍の動きを知ってて東軍に寝返らせたんだから最初から城を守るのではなく遅参させるのが目的だったのは明らか。確かに立花軍が間に合っていれば三成らが勝ったかも知れませんが、最初から本多正信のシナリオに西軍全軍が完全に嵌っていたのは否めません。
@@もぶえじ その見解についても存じていますが、私は勝つか負けるかの話や学術的な観点で述べているのではなく、あくまで全国の諸大名が集結して戦うのも物語的には面白いなっという程度の趣旨でコメント致しました。
宗茂達を大津城に引き返させず、大坂城の毛利本隊から攻め手を出していれば違ったのに。
@@もぶえじ三成は一方面軍の指揮官でしかなく全ては輝元の采配だったわけで責任だけ押し付けられたのはホント可愛そうだわ。
普通に考えて豊臣方に嫌われてる石田を総大将に据える方がおかしい
フッ!講釈師見てきたようにウソを言い・・・
嘘よりは、家康君、凄いって盛り捲ってる?、まぁ負けてたら、けちょんけちょんだけれども、逆も然りですよね
小早川秀秋の肖像画も怪しい
その時代に生きたわけではないから、別にどうでも良い。観てて面白きゃ良い
ん、こーいう通説から外れた少数説は話半分に聞いた方がいいです。再生数を稼ぎたいだけ感が強いです。
大柿→大垣です。
当時はこの呼び名です
当時の表記は大柿。麒麟が来るも大柿って書いてたよ。
大垣城が大柿城となってますよ‼️
当時はそういう表記だったんだよ
大垣じゃない?大柿なの?
うん。当時の表記。
大柿城?大柿城??
当時はそう表記していたんだよ。麒麟が来るでも大柿だった。
❌大柿城⭕大垣城
当時はこれであってます。是非調べてみてください。
わざわざこのタイミングでアップするって、注目されたいんでしょうが、水差したいの?まあ史実というより通説?は通説、ドラマはドラマで楽しんでますよ。
意味不明
すぐにわかるかまってちゃん(笑)友達いないだろなぁ〜
病気持ちの人にネットは難しいか😅
どうするは最新研究も講談の創作話もいい塩梅で組み込んでいるので、来週のドラマも通説一辺倒ではなくここで紹介したような新説も盛り込まれる可能性ありますよ。この動画も大河を否定するものではありませんし、こうした研究がある中で大河はどう描いてくるかと楽しむ材料にしていただけると幸いです。
水指してるのは君😂
本動画は、乃至政彦 高橋陽介『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』の論をベースに、他の参考文献の主張も合わせながら制作しました。
正直、関ヶ原の戦いは分かっていないことが多すぎるのに江戸時代の軍記物をベースにした「通説」が市民権を得すぎているので余計実体が分からなくなっています。
関ヶ原研究もまだ始まったばかりといえる状況なので、数年後には研究の発展によりまた変わった関ヶ原の実像が見えてくると思います。
一次資料を元に限りなく真実に近い歴史が1番知りたいので、とても面白かったです。
すごく参考になりました。
関ヶ原の戦いがどうなるのか気になりますね。
大河のこのタイミング気に色々な方々の新説関が原が見れて面白いです
自分がナゾだったのが、真田というどうでもいいような小規模の大名と戦うために(落城させて勢いをつける)秀忠3万以上の軍勢を使って、遠回りでして関ヶ原に向かった意味が、なんとなく分かってきた。この段階で家康は、天下分け目の合戦になるとは認識していなかった事、もし認識していたなら秀忠軍は家康と同じルートで進軍していた、ナゾが解明。三成が短時間で、これだけの大名を動かし合戦まで誘導、知恵者と思う。それに対して家康も凄い、ハッキリしない状況での武将の動かし方と対応策と攻め方。小早川秀秋が突然の裏切りで参戦して、36万石から51万石の加増などあり得るのかと思っていた。逆に言えば武士の恥、直前までハッキリしない状態で参戦しても、ここまで加増はない。この加増は前もって東軍に意思があって西軍と戦う前提で参戦した加増ではないかと思う。なんとなく合戦後の加増にヒントが隠されているかもしれない。
そもそも関ヶ原の戦いが小説風の軍記物を基にした創作であり、一次資料と陣所も違うという指摘に、ずっこけました!徳川家にとっては、最大の見せ場である大合戦の勝利をきちんと書き記していないとは、あまりに意外でした。ましてや、陣形が明治時代の陸軍参謀本部編纂の”日本戦史関ヶ原役”に拠っているとは、空いた口が塞がらない思いです。最近の研究により真相が明らかになっているから良いようなものの、今まで信じてきた情報がいかにあやふやなものであり、こじつけ的な論拠となっているかを知り、驚いています。戦国時代の常識が次々覆って、目を見張ります。
歴史なので、最初から通説など信じてはいませんが、東軍の団結力と西軍の寄せ集め感が勝敗のわかれ道と感じいます。真田好きの私としては、秀忠軍との戦いの大活躍が最近になって兵士の戦での減り数からあまり、戦っていないと言うのがわかり、えと思ったのですが、歴史てほぼわかってないし、研究が進むと逆説が真実であったり、またそれが面白いですね。
わかりやすい動画ありがとうございます。
新説の解説はやっぱおもしろ
関ケ原に何度も訪れており、先週の三連休にも行きました。実際に現地に行くと通説の西軍の布陣図は軍事的におかしいと思います。佐和山や大坂方面に向かう中山道から外れた北国街道側の笹尾山陣地の布陣も変だし、裏切りが疑われていた松尾山の小早川に対して正面を向かず、守りの弱い腹背を見せている宇喜多の布陣も変。新説の藤川の西岸の自害峰~山中村にかけての関ケ原の端の狭隘部に西軍が集中して布陣していたのが正しいのでは?と思います。ちなみに、松尾山に登れば標高が高すぎて戦の最中に麓で問鉄砲を撃たれても、物理的に聞こえるはずがない事が解ります。
そうか、この当時は大柿城か
私も不思議に思い、調べてみました。戦国時代は、大柿城と書いたそうですね。
名将「小早川秀秋」
小早川秀秋の動きは18歳の動きではない。しかし朝鮮出兵で鍛えられていたと思うと納得。
そして、もしかしたら眼下の敵部隊を調略していたのかもしれない。
さらに西軍撤退路の封鎖。家康らと図っていたのかもしれませんな。
毛利輝元としては、完全な後手。ここまで完璧に要点や要所で裏切られてしまうと、恐怖でしかない。
このまま家康と戦ったとて、身内から裏切りものがでて、毛利家が確実になくなっていただろう。
小早川討伐って自ら挟み撃ちに合うようなもんじゃん
江戸時代の人、頑張り過ぎやな………
しかし、2人が生き残った三奉行が主犯格とするなら、方面軍司令官に過ぎなかった三成が処断されたのは哀れやな……
天下を平定するための見せしめですかね。
通説があまりにも有名だから、一時史料の方が通説になるまでは50年くらいはかかりそうだなぁ…。
結構時間がかかりそうですね。
毛利輝元に大坂城を守らせていた方が家康にとって都合が良かったのはその後の状況を見れば明らかなんです。何せ三成の采配ではこのまま長引けば第三者に淀共々秀頼が乗っ取られますから…その誰かさんとして黒田如水か真田昌幸が手を組めば厄介になるでしょうし
歴史好きが見るべきは。一次資料であって。今後。一次、二次資料がもっと表に引き出されるようになれば。。。
ヘェー、なるほどね。いろんな新事実が有るのね。
石田三成は前線司令官なのに毛利輝元の関与を隠すために祭り上げられたのかな
あの手紙が原因だと予想してる。手紙って裏切りの証拠の塊だからね。
石田三成に書かせた手紙は実は、毛利輝元の責任追及をそらす目的があった。
小早川秀秋が松尾山に陣を敷いたのが全て🎉名将やんけ😮
西軍(毛利輝元)は家康が国元に帰った隙に、関西地区を支配下に置こうと思ったが、家康と正面衝突する気は無さそうですね。
関ヶ原記念館を持つ関ヶ原町は新説を受け入れられないでしょうね
発掘調査で陣を敷いた痕跡が無くても、三成の本陣は笹尾山にあったことにせざるを得ない
もしかして 天下分け目の戦だから こんな しょぼい 戦の わけないっていう思い込みから壮大なストーリーが作られたんかな
通説を信じてる人(特に高齢者歴史好き)にはかなりキツイお知らせですよね〜
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この説だと関ヶ原のあと数年で征夷大将軍になる家康はどんだけ短期間で粛清したんだって思う
今の戦争と似た感じでグダグダですね
明確な指揮官がいないから、皆、手探りで戦ってる印象ですね。
情報連携もこれだけ大名が入り乱れては、統制が難しいです。
奇しくも壬申の乱の戦場と同じ辺り?
山道のような狭さゆえに挟み撃ちにされると片が付くのも早いわけですね。
まず第一に吉川広家の文書は毛利と自身を守るために後世創作された可能性があり鵜呑みに出来ない事、毛利が意思統一されていたなら安国寺恵瓊だけが処刑されたのはおかしいし、安国寺恵瓊が最前線にいようとも本軍が動かなければ勝手に動くことはできない。
小早川秀秋が内通していたとしても、それまでにも勝手な行動をしているから松尾山を占拠したからといって怪しんでも東軍に内通していると三成が断定できないのでは?
私見では何らかの軍事目的があって三成らは関ケ原に向かった、ところが東軍がその後を追ってきた、小早川は内通はしたが直前まで迷っていた、しかし毛利が動かないことを確認して西軍を攻撃した、そこに東軍が追い付いた、こんな感じじゃないかと思うんですがね。
西軍が午前4時ごろ関ケ原に到着して合戦が始まったのが8時とも10時とも言われていますから、最初から小早川を攻撃するにはあまりにも遅すぎる。
つまり通説は三国志演義みたいなものってことですね。
家康が棚ぼた過ぎるw。
安国寺恵瓊は清水宗治と同じ立場で毛利を守る人柱にされたのか。
でも防長2か国に減らされたけど。
読んだ司馬遼太郎の原作はもちろん、見てないが昭和40年代の大河国盗り物語は、斎藤道三が油商人から美濃を奪うドラマ展開になったはず
その後斎藤道三の親子二代国盗り説はほぼ定説になったと思われ、大河麒麟がくる道三役の本木が「油商人の父が。。。」それらしきセリフがあった
関ケ原の戦いの動向は、1980年頃のTBS正月時代劇関ケ原(司馬遼太郎原作)や、ほぼ同じ内容の2000年大河ドラマ葵徳川三代前半などで多くの人が認識していると思われるが
主人公が直接関ケ原に参陣しなかった大河真田丸では、関ケ原の動向を無視する事ができた
今年のどうする家康は見てないのだが、そろそろ関ケ原をやるみたいで、NHKは以前の通説か?定説になりつつある新説どちらを採用するのか興味ある
2009年頃の歴史本ですら秀秋以外にも寝返りした、秀秋の裏切りは西軍は織り込み済みとあったのに。(秀秋の陣の前方に土塁有からの推測)
世間に広まるっちゅうのは長い時間かかるもんや。
小早川秀秋は迷いなかったのか
まあ、正しくても無粋だわな。
これらの新設が史実として受け入れられるのは先の話だろうな。
忠臣蔵の赤穂事件は今でも仮名手本忠臣蔵が史実として跋扈しているから、新事実を受け入れる人は歴史好きだけかも。
関ヶ原の戦いも江戸時代以降の伝記が史実として定着したからなあ。ドラマチックじゃない関ヶ原の決戦はねえ。面白味が無い物www
次々と新説が出てくる関ヶ原の戦いだけど、そのうち「関ヶ原の戦いはなかった」という説が出そうだ。
関ヶ原ウォーランドの人形配置やりなおしだなこりゃ
来週の関ヶ原の戦いで、家康が松尾山に鉄砲ぶちこんで、それであわてた小早川秀秋がそこではじめて西軍を裏切って大谷軍におそいかかる、みたいなストーリーだったら逆に天晴れなのだが
上杉征伐の際家康は淀殿お付きで秀頼からの許可を書状として受け取っているのに、その事実を打ち消して家康を逆賊扱いにすることは不可能だったし、現に内府違いの条々には家康への不満しか書かれていません。これでは三成側に心底味方する豊臣家家臣も少ないし、外様が次々に裏切っていって当然。
ですが家康よりも三成の方が豊臣家にとって悪だと認識させるような行動を取る程三成は凡庸ではなかったので、わざわざお互い戦に仕立てる必要があったと思われます。それを考えた時に一番想像できるのは徳川軍も西軍でもない第三者の大坂城乗っ取り…兵を動かした立花宗茂は改易処分なのに真田昌幸は死罪とは不自然すぎます
大変に興味深い話です。
ただ毛利元康の大軍が駐屯する大津城を容易く奪還してしまう京極高次や、背後を井伊・福島ら東軍先遣隊に晒して松尾山の小早川秀秋を討伐する15日早朝の状況(それが原因で敗北)など、不自然に感じる部分はありますね。
勝手知ったる松尾山に攻め上がるのなら防備が厳重で東軍に包囲されるのが確定している北の大手より、南宮山の西軍主力の支援が受けられる東や搦め手の南西に回り込んだ方が良かったでしょうし。
またまた新しい通説がアップデートされたのね
個人的には局地戦ではなく、本戦に秀頼を旗頭として出陣させ、毛利輝元・上杉景勝・立花宗茂・真田昌幸らの軍が参戦していた世界線を見てみたかった
大津城に京極高次を入れて立花宗茂軍の動きを知ってて東軍に寝返らせたんだから最初から城を守るのではなく遅参させるのが目的だったのは明らか。確かに立花軍が間に合っていれば三成らが勝ったかも知れませんが、最初から本多正信のシナリオに西軍全軍が完全に嵌っていたのは否めません。
@@もぶえじ その見解についても存じていますが、私は勝つか負けるかの話や学術的な観点で述べているのではなく、あくまで全国の諸大名が集結して戦うのも物語的には面白いなっという程度の趣旨でコメント致しました。
宗茂達を大津城に引き返させず、大坂城の毛利本隊から攻め手を出していれば違ったのに。
@@もぶえじ
三成は一方面軍の指揮官でしかなく全ては輝元の采配だったわけで責任だけ押し付けられたのはホント可愛そうだわ。
普通に考えて豊臣方に嫌われてる石田を総大将に据える方がおかしい
フッ!講釈師見てきたようにウソを言い・・・
嘘よりは、家康君、凄いって盛り捲ってる?、まぁ負けてたら、けちょんけちょんだけれども、逆も然りですよね
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その時代に生きたわけではないから、別にどうでも良い。
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大柿→大垣です。
当時はこの呼び名です
当時の表記は大柿。麒麟が来るも大柿って書いてたよ。
大垣城が大柿城となってますよ‼️
当時はそういう表記だったんだよ
大垣じゃない?大柿なの?
うん。当時の表記。
大柿城?大柿城??
当時はそう表記していたんだよ。
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❌大柿城
⭕大垣城
当時はこれであってます。
是非調べてみてください。
わざわざこのタイミングでアップするって、注目されたいんでしょうが、水差したいの?
まあ史実というより通説?は通説、ドラマはドラマで楽しんでますよ。
意味不明
すぐにわかるかまってちゃん(笑)
友達いないだろなぁ〜
病気持ちの人にネットは難しいか😅
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この動画も大河を否定するものではありませんし、こうした研究がある中で大河はどう描いてくるかと楽しむ材料にしていただけると幸いです。
水指してるのは君😂