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ANA社員番号1200番台の、少し認知症が入ってきた父が夢中になって観ていました。活き活きした笑顔であれこれ話していました。公開感謝します。
大変わかりやすく、また懐かしかったです。興味深く拝見させて頂きました、ありがとうございます。保存版ですね。
素晴らしいビデオでした。新旧の写真がきれいに精密に重ねられているおかげで、比較しやすく、変化がひと目でわかりました。変化を一番学べたビデオです。ありがとうございます!!
素晴らしい動画でした✨成田空港の、歴史も見てみたいな☺️
1:00 その頃の京浜電鉄(現京浜急行)は、羽田海水浴場を激推しして海の家まで作っていたそうです。電車は路面電車に毛の生えた程度のものだったので、終点の穴守駅は運転士がそのまま折り返せるようループ線になっていました。
素晴らしい解説、ありがとうございます。航空写真を使用して改変や拡張の様子を説明してくださり、長年のモヤモヤが幾つも解消されました。89年~95年まで羽田を利用することが無かったので、旧ターミナルと新ターミナルの位置関係や道路や鉄道について、全く結び付かないまま利用してました。モノレールの軌道変更解説もスッキリしました。
素晴らしい!たくさんの写真を集めてスライドにして下さってありがとうございました!羽田空港の歴史は非常に興味があり、50年以上前に学校の社会科見学で羽田に行くと駐車場のど真ん中に鳥居があったり、京急・羽田駅がヘンな場所にあったり・謎だらけだったので自分なりに色々と調べていました。高齢でも2003年頃からInternetが使える世の中になってワクワクしながら検索しまくる日々でしたが、これだけ分かりやすくまとめて下さって感謝申し上げます!
とても興味深く拝見しました。冒頭の航空写真にあった楕円形の施設は、恐らく競馬場でしょうね。父が言っていたのを思い出しました。また、1970年頃国際線で貨物積み込みのアルバイトをやってました。当時初めて見た747の大きさに圧倒され興奮したものです。飛行機好きは、この頃芽生えたと感じます。資料整理大変ご苦労された事と思います。公開していただきありがとうございました!
幼少期から利用していた羽田空港、たまに旧ターミナルと話しを耳にしますが、今とは全然違う場所、姿に驚きました!旧の意味がすごく理解出来ました!これから需要が伸びていくと言われている羽田空港の始まりを地図付きで分かりやすい解説動画、本当に勉強になります!!
これ構成から編集まですごく時間が掛かった事でしょう。参考になり、楽しめました👍
羽田空港の進化とともに地図の進化もわかる動画
地図ありでこんな詳しく羽田空港の歴史を説明されててとっても分かり安かったです!ビッグバードができる前の旧ターミナルの位置とか全然知らなかったので、とっても勉強になりました。今の国際線ターミナルは旧ターミナルの位置にあったんですね。
現在羽田で働いていますが、知らないことも多く大変興味深かったです!これからの羽田の変化にも注目ですね!
1978年からこの羽田空港で働かせていただきました。人生そのものです。ありがとうございました。
約70年で、ここまで変化してるんだなぁ、これも立派な歴史ですわ。気が向いたら他の空港も取り上げてほしいです。
解説が素晴らしい。早送りもせずずっと楽しめる動画だった。
ありがとうございます。楽しめました
約25分の動画を食い入るように見入ってしまいました。大変に面白かったです。資料収集や動画編集など大変でしょうが福岡や名古屋、千歳の変遷に関する動画などがあっても面白いな!と思いました!
あーーいい!!! こういうの大好き!! 昔の空港とかの歴史大好き!!
3:49 その最後まで残った格納庫は日本国内航空がYS-11の整備に使っていたハンガーで、その後TDA~JAS機材の整備にも使われていました。
最後の方、南側のD滑走路がパッと出現したみたいに見えて土木技術の進歩も凄いもんなんだって感じました
70年代の平面駐車場、雑然とした状況からここまで見てると進化しましたね。湾岸線や鉄道モノレールの延伸現代版利用出来てる事に感謝ですね。
飛行機とか全く興味が無いのですが、分かり易い解説で楽しく拝見させてもらいました。それにしても航空写真からの小さな機体を見て機種が分かるのですね!やはりその道に精通した人はスゴい!
無茶苦茶面白かったです!ありがとうございます✌
What precious photos! I searched for HND on Wikipedia, but the earliest photo is 1965
空港横にある埋め立て工業団地・京浜島に30年以上勤務しています。身近な題材で動画をとても楽しく拝見させて頂きました。有難うございます。
大変参考になりました。E滑走路が2030年代に出来る頃には今が懐かしくなるんでしょうね。
SDGSのためにワールドトレインに飛行機は置き換えられると思う。その先陣として、横須賀、館山を海中浮揚トンネルで結ぶ方向に進むだろう。
ビッグバードに代わる、新たなターミナルもその頃にできるかもですね
10:26 この頃前後に羽田を2回使った(小学生、中学生時代各1回)、YS11で子供の一人輸送、(全日空の為、今もあるジュニアパイロット制度利用)と、トライスターが1回でした、この頃の空港って、燃料などの、独特の匂いと、エンジンの爆音が印象的で建物も雑多な雰囲気だった気がします、未だに思う、自動販売機で販売していた保険があったけど、子供心に、落ちたら買ったの判るのかなぁとか、そんな思いで、 空中写真系UA-camr良いですね、空中写真、時代の変わり目の、昭和48年頃から52年頃まで全国カラー写真ですよね。 他の地方空港なんかもやってくださると良いですね。それでは。
旧整備場の懐かしい映像をありがとさまです昔は賑やかなところだったのですよく空港学校の学食に朝飯で出勤前にお邪魔してましたよ いやー懐かしい。
保安大学の食堂ですな。デイ勤上がり時はあそこか海老取川河口近くの立ち飲みもできる酒屋で缶ビールで一杯w1テクにもビールの自販機はありましたが、同僚が集まって一杯とかはなく味気なかったです。
「うわ~、懐かしい~」で、一気に見てしまいました。父親が横文字商売のハシリをしていたせいか、子供の頃に見送りやお迎えに母親に連れられて良く夜の羽田空港に行きました。1963年くらいが最初でしたが幼稚園児の私にも凄くロマンチックな雰囲気!、特に父親がタラップを降りて滑走路を他の乗客の方達と歩いてくるのをターミナルの屋上から見ているのが格別な気分でした。 その後、中学生の時に父と北海道へ一回、高校生の時にクラスメートらと沖縄へ2回行く時に、羽田空港を利用させていただきました。機種は、確かB727, B747そしてL-1011。 60年代と70年代のノンビリしていた頃の東京は、大好きです、人も街も(両親の家系は江戸時代から居るそうですが)。それにしても良くもまあこれだけの土地(湾)を埋め立てたと思うし、埋め立てに使う岩やら砂利などの基礎に使う土砂は全国から運んで来たんでしょうね?!建築の廃材やゴミも含めて。アスファルトだけでも凄い量です。「利権の塊り」でもあるのが、良くわかります。他の国では埋め立てて空港を造るなんて官民一体のゼネコン事業でもおいそれと実行できないでしょう、あらゆる面で。 治水にしろ、橋梁にしろ、日本って凄い!。
1967年前後に羽田空港で航空祭的なイベントがあったような記憶があります。航空自衛隊のジェット練習機が何機も見送りのターミナルのすぐ横に駐機しており、これがエンジンをかけるとターミナルの見物客がもろにジェットを浴びせることになってました。
すばらしい動画を拝見させていただきました。ごくたまに、主にレジャーで利用させていただいていた空港という空間が、どれだけ人類のテクノロジーと、歴史上の外交的かつ政治的(というか米軍との軍事的)やりとりと、国内外の経済的需要の緊密なバランス感覚の上に誕生した奇跡なのかということをまざまざと目の当たりにさせていただきました。歴史は本来好きではないのですが、考えを改めることにしました。ありがとうございました。
父が2015年?頃の新国際ターミナル工事に携わりました。こんな動画あるよと見せたらとても懐かしんで喜んでいました。とても分かりやすく素敵な動画ですね♪
面白かったし、懐かしかったです。ありがとうございます!
海老取川と多摩川の合流部付近の地形が全く変わってないのがすごい
先日 Microsoft Flight Simulator2020が14年ぶりに発売され、好きな空港の一つでもある羽田空港の歴史を見させて頂き、益々操縦が楽しくなってしまいそうです。楽しく見させていただきました。
大変上手くまとめられており楽しめました。ありがとう。
4:52 補足:先代のターミナルビルは、この繰り返しの増改築が初期設計の想定外の域にまで及び、パッチワーク(継ぎ接ぎ)構造となってしまい、その結果、晩年「羽田迷路」と揶揄されることになってしまいました。ただ、私個人としては探検しがいのある楽しい場所ではありましたが。
アップありがとうございました。この空の玄関の歴史は、日本の歴史そのものですね。
すばらしいです。羽田空港の歴史を整理した資料としては、この動画はダントツナンバーワンですね!!
じっくり見ちゃいました。大変勉強になりました。人間の力って凄いですね。
これ個人で作成されたんですか?教育用のフィルムのように質が高いですね。RJTTの今昔がよくわかりました。昔の羽田空港って穴守稲荷の赤い鳥居が駐車場の真ん中に立っていて、三愛とか書いてある大きい石油タンクがちかくにありましたね。空港にお見送りに行くと万歳三唱で海外出張や駐在?に送られる人や正装した人が多くいた記憶があります。飛行機って特別な乗り物でした。空港で食べるカレー美味しかったな、スプーンもお皿もステンレスでした。有難うございます。
ありがとうございます。成田空港の歴史も見てみたいです。
これを他界した父に見せたかったです。ことし13回忌となりますのでそれは無理な話ですが、終戦後GHQに立ち退きを命じられるまで穴守稲荷の参道で使用人を使って酒屋を営んでいたそうで立ち退くまで羽田にそうとうな土地を持っていた事、いやと言うほど穴子が捕れたこと、干拓の際に祖父が狩り出された事などなど話してくれたことを思い出しました。ただ話を聞くだけで実感が無かったので昔話をスルーしていましたがこのような航空写真を見ながらだったら実感あったのだろうと思いながら拝見させて頂きました。ありがとうございます。
海老取川はエビだけでなくアナゴもいっぱい取れて、近年も「羽田沖の穴子」というと、寿司や天ぷら屋さんの江戸前ネタとしては名が通っていますね。移転させられた羽田の商店街にも穴子天丼を供している店があって、昔食べたことがあります。
@@Su---- さんもし太平洋戦争に勝利してGHQに接収されなかったとしても空港拡張でいずれにしても立ち退きという結果だったのでしょうね。あなご天丼とてもきになってきました。子供が小さいときは静岡から車で横浜の鶴見へお墓参りする=羽田飛行場へ行って飛行機を見せるのが常でしたがいつか京急電車で穴守稲荷駅を降りてあなご天丼を供するお店探しながら先祖に思いをはせたいと思いますこんな切っ掛けを頂きましてほんとにありがとうございました
@@036haraku3 天空橋駅から「ちい散歩」みたいにゆっくり歩きながら羽田神社(第一ターミナルの郵便局の脇に分社がある)を巡って、最後にあなご天丼を食べるルートがいいかもしれません。「穴守稲荷 天丼」で検索すると人気店がいくつかヒットしますが、私もその店で食べました。昔ながらの魚屋さんなんかもあって、下町風情がまだ残っていてよいですよ。
@@Su---- さんありがとうございます。良いですね、散歩しながらお店を訪ねながら下町風情を感じながら同時に父親を感じながら穴子丼を食べながら散策してみます。鶴見の墓参りの後で穴守稲荷を息子と嫁、娘と婿そして孫を連れて歴史を感じながら同じ時間を過ごしてみますもちろん基礎知識としてこの動画を見せる事で我が家の歴史を共有しながら、です。 ありがとうございます!!。
とても楽しめました。ありがとうございました。
ありそうで殆どなかった貴重な動画でしたね。やはり初期は簡素でしたね。
以前、羽田空港で警備をやっていた!B滑走路の作成のため夜中一人でした!
わかりやすくて、編集もすごいですね。
大変勉強になりました。
なかなか面白い動画でした。丁寧に調べていて且つわかり易かったです。シムシティを地で行っているような間隔でもあり、最後のまとめの変遷写真はまるで細胞分裂により高度化する受精卵みたいです。
戦後米軍接収された話は知ってましたが…ここまで詳しく見られるとは、、ありがとうございます😊
good video!
旧ターミナルは映画・テレビ全盛期で成田も無かったのでよく登場しましたが、今の行って楽しむ施設の側面があるビッグバードとは違いましたね。あの忌まわしきいつ行っても停まれなかった平面駐車場がトラウマだったのですが、新空港では京急蒲田駅要塞化もあって神奈川県民としては京急以外の選択肢はなくなりました。多摩川の橋は完成して大師橋の混雑緩和に役立ってます。羽田は本体の変化と同じくらい周辺の変化も激しい地域です。航空写真でそれを見比べるのも楽しいです。それにしてもよく纏めましたね。資料として優れていると思いますよ。アプローチ線が出来た後の改定版が楽しみです。
あの頃の羽田は好きだった❤
羽田空港を利用したのは85年つくば博覧会の年でした。タラップからバスでターミナルビルに移動するので広い空港だと感じました。モノレールで浜松町まで普通で15分と近かったのを覚えています。94年代に東京に旅行に行ったときは、沖に移設が完了したあとで、さらに広さを感じました。2006年からコンサートで最低年1回は羽田空港を利用してます。今年はコロナウィルスのせいで全てのコンサートが中止になり羽田空港を利用していません。連続利用の記録が途切れるのが残念です。大阪在住ですので出発空港は伊丹(大阪)空港です。
素晴らしい。大変勉強になりました。
こんなんタダで見て良いのかよと・・・ありがてえ
同感です。まったくだ。
Well done, thank you!
素晴らしい!面白い!ありがとうございました!!!
あなたのアイコンを見て、とても見覚えがあるのですが、谷口さんでしょうか?
祖母が干拓地に住んでいて戦後、GHQに追い出され海老取川近くに移った話を思い出した😆 今はなき羽田空港駅で降りて祖母の家に行ったなぁ… B滑走路がもっと海老取川寄りにあったから良く飛行機見に行ったよ😊
ウチは外地からの引き上げ組でしたが、そちらも大変でしたね…
羽田空港第3ターミナル付近では船着場の整備もしています。水上バスのルートは定かではありませんが、横浜やお台場に通じるものだったら利用してみたいものです。
再国際線化は成田が遠いから当然の帰結ですと思いますよ。それにしても色んな歴史を含んだ優れた動画ですねー。
これはもっと視聴数、評価数が増えてもいい映像。研究課題発表の様で楽しめました。
旧ターミナルとても懐かしいです。出張でアメリカへ赴く叔父を見送りに行ったのをよく覚えています。当時は3発のDC-10だったと思います。
1944の日本軍の滑走路とわずか3年後の米軍の滑走路の違い。これひとつみても国力の圧倒的な違いが分かる。
産業道路と環状八号線の交差点近くに住んでいて空港には仕事でよく行くから全てが懐かしい
空港の歴史と航空機の入れ替わり、航空会社の変化、それぞれを重ね合わせながら見ていました。首都圏でアクセスもよいため過密状態は避けられないのかな?と。国内線が主流の様ですが、飛行機の離発着の忙しさが浮かぶようです。
米軍が命じた強制退去は48時間以内という期限付きだったそうです。戦争に負けるというのは悲しいことですね
戦争自体が悲しいことだよ
羽田空港まで自転車で行ったことがあるんですが、自動車専用道路、自転車通行禁止など、まるで広大な迷路でした。空港職員や航空会社職員は自転車を使っているって聞いたんですが、わけがわからなかったです。が、この歴史と何度にも及ぶ拡張工事を見ると、カオスになるのも仕方ないですね。数年後には道や経路が変わっているかもしれないんですから。
80年代に半年だけですがA社系の荷物・コンテナ積み降ろしのバイトをやってました。旧到着ビルにあったオアシスというレストランが安くておいしかったー
これまで「謎に多いな」と思ってた更地は昔の一等地だったんですね…!初知りです!
Really precious and impressive !
3:51 滅茶苦茶懐かしい写真で、左側の奥にあるビル群には幾度も出入りしていました。
懐かしい!1971年はめちゃくちゃ忙しかったです。DC10の機体整備よく覚えています。ジャンボジェットは大きく翼で作業していると地面から高く恐かった。
私は整備士ではありませんが、お話を聞いているとまるで鳶職並みですね。DC10の機体整備は、第三エンジンが垂直尾翼の途中にあって位置が高くトライスターの方が第三エンジンが胴体にくっついていて整備が楽だったという話をかつて聞いたことがあります。
年代的に大型第2での作業ですか?10のキャビンに使用されているトライウイングは舐めやすく皿飛ばしが面倒だったと同期が言っておりました。
10:27 学生だった40年前の羽田空港ターミナルビルは、確かにΛ型だったなあ。詳しい解説ありがとうございます。
この動画では紹介されていませんが、1939年まで羽田には競馬場がありました。(1936年の写真の右下に見えてますね)現在は大井競馬場の重賞競走「羽田盃」として名前が残ってます。
ヨドバシの流通センターの所から空港中央ICまで抜けられることになるんですね~殿町夜光線に繋げた方が川崎駅から真っ直ぐだったんでないの?D滑走路工事の時ゲートブリッジとの工事で日本最大級のクレーン船が取り合いになっていたと国交省の役人が話してたっけ。そのゲートブリッジもBやÇ滑走路の進入のために吊り橋構造が取れなくてあんな形になったんだったね。
こじんまりとした国際線ターミナル好きだったなぁ今の羽田空港周辺の道はカオス過ぎて理解できん・・・
1992年に社会人となり、以来、出張で羽田空港をちょくちょく利用してます。良くまとめられており、昔を思い出して懐かしくなりました。空港の拡張とともに、管制塔も移転、どんどん高くなっていきましたので、ここにも触れると完成度が上がりますね(^^)
1980年頃かな、今は無きパンナムの747SP 見に行きました(旧A後の駐機場)。東京ーニューヨークをノンストップ11:30で飛んでいたと思います。後、当時はワイドボディー機をエアバスと言ってました。
すごくおもしろかったですーーー( 'ᴗ' )
多摩川の流れをせき止めない為に、D滑走路を桟橋型埋め立て工事にした苦労話は、週刊ポスト『メタルカラーの時代』で読んでいた記憶があります。
懐かしいなぁ1995年頃、沖合埋め立てやってたなぁw何にも遮るものが無いから、日差しは強いわ砂が舞って大変だった。埋め立ても色んな業者がやってたから、業者ごとに工法が違って面白かった覚えが有る。
ここまで拡張して空がパンクしないのがすごい
羽田空港に初めて行ったのは小学校の修学旅行。離着陸に合わせて飛行機をバックに旧ターミナルの屋上でクラス毎に記念写真を撮った。もう55年も前だけどね懐かしい思い出。
自分は関西なので、伊丹空港の屋上でクラス写真を撮りました。🛫
羽田空港は引き付けられるものがありますね。蒲田駅周辺には、まだ京急が空港から遠い羽田空港駅が終点(←インチキ空港駅WWW)だったころの街図が残っているところがあります。
凄くわかりやすかったです。それにしても、総工費いくらになってるんだろう、想像するだけで恐ろしい
旧ターミナルというと、ロビーの灰皿に設置されたサロンパスか何かのスプレー剤のPOPと、LEDじゃない「カシャカシャ」っと動く発着表示を思い出します。低床バスで移動し、タラップを上がって搭乗する高揚感も忘れられません(727は「お尻」のエアステアから乗ったこともありました)。
昭和三十年代 大田区立の小学校で、遠足で行きました。でも 入学前には、自転車で行きました。
当方も昭和32~38年まで大田区立の小学校に通いましたが、遠足で羽田空港へ行った事はありませんでした。小学生時の修学旅行は日帰りで箱根でした。就学年次で行き先に変更があったとは全く知りませんでした。
ソウルへあしげく通っていた時代、第二タミ横の国際線タミはよく利用してましたね。 国内線と比べて圧倒的に貧相で「国際線小屋」と揶揄してた位でした。 そんな事から海外へ行くとゆう感覚は無くて、ちょっと遠目の国内線とゆう感じでした。今日の国際線タミ(今は第3タミに呼称変更)を訪れるにつけ、羽田空港における時代の変化を感じます。
子供の頃見た教養フィルムみたいで面白かった。
いやー、勉強になった。
東京羽田空港の旧C滑走路からは、乗客乗員520人が犠牲になった、日本航空123便墜落事故の運行機材になった、ボーイング747(JA-8119)が、1985年8月12日の18:00頃に、離陸してます。
福岡住みだけど、昔は福岡のようにボーディングブリッジから乗るのが地方空港で、羽田は駐機場からタラップで降りてバスに乗るから流石大空港やなーとか勘違いしてた。
九州・四国向けは今でも隔離ナンバーやん。盆暮れには稀にバスでドナドナもあったよw
素晴らしい動画。先日羽田空港の変貌について調べたけどこんな動画があったとは知らなかったです。親父が当時まだ海外旅行が一般的ではなかった頃にヨーロッパに行き、その時に使った羽田空港の印象は確かに2本のみ。羽田空港のイメージはそれで国際線を成田に移管するのも仕方ないなと思ったけど、それがいつしか真ん中に湾岸線が通るようになり、京急もターミナルの真下に延伸、利用し易くなったんだなぁと思ってたら、挙句の果てにD滑走路まで出現。この20年間はあれよあれよという感じで発展してきましたね。E滑走路増設もあり得ますかねぇ。
多摩川のとこにある今は羽田空港船着場になってるとこ、かつては燃料輸送?で使われてた桟橋だったのね。それとそこから上のとこにある燃料タンク横の道路が今だに残ってて驚いた。沖合移転前の面影はまだあるんだな…
ANAが殿町ビジネスセンターを建てたのは、最後に出てきた多摩川を渡る橋が出来ることを見越してのことです。ただ、当初より建設開始が遅れたので、若干目論見が外れたようです。ちなみに殿町と羽田を結ぶ社員輸送用連絡バスは、何と首都高経由で運行されているそうです。(橋が出来ていないせいでこうなった)
1936年の写真で右端にある運動場のような場所は競馬場です。今の大井競馬場は羽田や八王子などの競馬場が1つになったと聞きました。なので大井競馬場で開催される「羽田盃」はこの競馬場を指して居るそうです。余談ですが同じ頃の写真で多摩川を渡り川崎側に今の川崎貨物駅辺りにも競馬場が写っています。それは確か川崎競馬場の前身と聞いています。
解りやすい解説動画ありがとうございます。同じ空港のはずなのに1975年・・・9:222002年・・・17:28こう比べてみると、滑走路の向き以外全く別の空港の様に見えますね。30年足らずでここまで変わるとは…。
モノレールはB滑走路の下を抜ける部分が単線でした
ANA社員番号1200番台の、少し認知症が入ってきた父が夢中になって観ていました。活き活きした笑顔であれこれ話していました。公開感謝します。
大変わかりやすく、また懐かしかったです。興味深く拝見させて頂きました、ありがとうございます。保存版ですね。
素晴らしいビデオでした。
新旧の写真がきれいに精密に重ねられているおかげで、比較しやすく、変化がひと目でわかりました。
変化を一番学べたビデオです。
ありがとうございます!!
素晴らしい動画でした✨
成田空港の、歴史も見てみたいな☺️
1:00 その頃の京浜電鉄(現京浜急行)は、羽田海水浴場を激推しして海の家まで作っていたそうです。電車は路面電車に毛の生えた程度のものだったので、終点の穴守駅は運転士がそのまま折り返せるようループ線になっていました。
素晴らしい解説、ありがとうございます。航空写真を使用して改変や拡張の様子を説明してくださり、長年のモヤモヤが幾つも解消されました。89年~95年まで羽田を利用することが無かったので、旧ターミナルと新ターミナルの位置関係や道路や鉄道について、全く結び付かないまま利用してました。モノレールの軌道変更解説もスッキリしました。
素晴らしい!たくさんの写真を集めてスライドにして下さってありがとうございました!羽田空港の歴史は非常に興味があり、50年以上前に学校の社会科見学で羽田に行くと駐車場のど真ん中に鳥居があったり、京急・羽田駅がヘンな場所にあったり・謎だらけだったので自分なりに色々と調べていました。高齢でも2003年頃からInternetが使える世の中になってワクワクしながら検索しまくる日々でしたが、これだけ分かりやすくまとめて下さって感謝申し上げます!
とても興味深く拝見しました。
冒頭の航空写真にあった楕円形の施設は、恐らく競馬場でしょうね。
父が言っていたのを思い出しました。
また、1970年頃国際線で貨物積み込みのアルバイトをやってました。
当時初めて見た747の大きさに圧倒され興奮したものです。
飛行機好きは、この頃芽生えたと感じます。
資料整理大変ご苦労された事と思います。
公開していただきありがとうございました!
幼少期から利用していた羽田空港、たまに旧ターミナルと話しを耳にしますが、今とは全然違う場所、姿に驚きました!旧の意味がすごく理解出来ました!
これから需要が伸びていくと言われている羽田空港の始まりを地図付きで分かりやすい解説動画、本当に勉強になります!!
これ構成から編集まですごく時間が掛かった事でしょう。
参考になり、楽しめました👍
羽田空港の進化とともに地図の進化もわかる動画
地図ありでこんな詳しく羽田空港の歴史を説明されててとっても分かり安かったです!
ビッグバードができる前の旧ターミナルの位置とか全然知らなかったので、とっても勉強になりました。今の国際線ターミナルは旧ターミナルの位置にあったんですね。
現在羽田で働いていますが、知らないことも多く大変興味深かったです!これからの羽田の変化にも注目ですね!
1978年からこの羽田空港で働かせていただきました。人生そのものです。ありがとうございました。
約70年で、ここまで変化してるんだなぁ、これも立派な歴史ですわ。
気が向いたら他の空港も取り上げてほしいです。
解説が素晴らしい。早送りもせずずっと楽しめる動画だった。
ありがとうございます。楽しめました
約25分の動画を食い入るように見入ってしまいました。大変に面白かったです。資料収集や動画編集など大変でしょうが福岡や名古屋、千歳の変遷に関する動画などがあっても面白いな!と思いました!
あーーいい!!! こういうの大好き!! 昔の空港とかの歴史大好き!!
3:49 その最後まで残った格納庫は日本国内航空がYS-11の整備に使っていたハンガーで、その後TDA~JAS機材の整備にも使われていました。
最後の方、南側のD滑走路がパッと出現したみたいに見えて
土木技術の進歩も凄いもんなんだって感じました
70年代の平面駐車場、雑然とした状況からここまで見てると進化しましたね。湾岸線や鉄道モノレールの延伸現代版利用出来てる事に感謝ですね。
飛行機とか全く興味が無いのですが、分かり易い解説で楽しく拝見させてもらいました。それにしても航空写真からの小さな機体を見て機種が分かるのですね!やはりその道に精通した人はスゴい!
無茶苦茶面白かったです!ありがとうございます✌
What precious photos! I searched for HND on Wikipedia, but the earliest photo is 1965
空港横にある埋め立て工業団地・京浜島に30年以上勤務しています。
身近な題材で動画をとても楽しく拝見させて頂きました。有難うございます。
大変参考になりました。E滑走路が2030年代に出来る頃には今が懐かしくなるんでしょうね。
SDGSのためにワールドトレインに飛行機は置き換えられると思う。
その先陣として、横須賀、館山を海中浮揚トンネルで結ぶ方向に進むだろう。
ビッグバードに代わる、新たなターミナルもその頃にできるかもですね
10:26 この頃前後に羽田を2回使った(小学生、中学生時代各1回)、YS11で子供の一人輸送、(全日空の為、今もあるジュニアパイロット制度利用)と、
トライスターが1回でした、この頃の空港って、燃料などの、独特の匂いと、エンジンの爆音が印象的で建物も雑多な雰囲気だった気がします、
未だに思う、自動販売機で販売していた保険があったけど、子供心に、落ちたら買ったの判るのかなぁとか、そんな思いで、 空中写真系UA-camr良いですね、
空中写真、時代の変わり目の、昭和48年頃から52年頃まで全国カラー写真ですよね。 他の地方空港なんかもやってくださると良いですね。それでは。
旧整備場の懐かしい映像をありがとさまです昔は賑やかなところだったのです
よく空港学校の学食に朝飯で出勤前にお邪魔してましたよ いやー懐かしい。
保安大学の食堂ですな。
デイ勤上がり時はあそこか海老取川河口近くの立ち飲みもできる酒屋で缶ビールで一杯w
1テクにもビールの自販機はありましたが、
同僚が集まって一杯とかはなく味気なかったです。
「うわ~、懐かしい~」で、一気に見てしまいました。
父親が横文字商売のハシリをしていたせいか、子供の頃に見送りやお迎えに母親に連れられて良く夜の羽田空港に行きました。1963年くらいが最初でしたが幼稚園児の私にも凄くロマンチックな雰囲気!、特に父親がタラップを降りて滑走路を他の乗客の方達と歩いてくるのをターミナルの屋上から見ているのが格別な気分でした。 その後、中学生の時に父と北海道へ一回、高校生の時にクラスメートらと沖縄へ2回行く時に、羽田空港を利用させていただきました。
機種は、確かB727, B747そしてL-1011。
60年代と70年代のノンビリしていた頃の東京は、大好きです、人も街も(両親の家系は江戸時代から居るそうですが)。
それにしても良くもまあこれだけの土地(湾)を埋め立てたと思うし、埋め立てに使う岩やら砂利などの基礎に使う土砂は全国から運んで来たんでしょうね?!建築の廃材やゴミも含めて。アスファルトだけでも凄い量です。
「利権の塊り」でもあるのが、良くわかります。
他の国では埋め立てて空港を造るなんて官民一体のゼネコン事業でもおいそれと実行できないでしょう、あらゆる面で。
治水にしろ、橋梁にしろ、日本って凄い!。
1967年前後に羽田空港で航空祭的なイベントがあったような記憶があります。
航空自衛隊のジェット練習機が何機も見送りのターミナルのすぐ横に駐機しており、これがエンジンをかけるとターミナルの見物客がもろにジェットを浴びせることになってました。
すばらしい動画を拝見させていただきました。
ごくたまに、主にレジャーで利用させていただいていた空港という空間が、どれだけ人類のテクノロジーと、
歴史上の外交的かつ政治的(というか米軍との軍事的)やりとりと、
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歴史は本来好きではないのですが、考えを改めることにしました。ありがとうございました。
父が2015年?頃の新国際ターミナル工事に携わりました。
こんな動画あるよと見せたらとても懐かしんで喜んでいました。
とても分かりやすく素敵な動画ですね♪
面白かったし、懐かしかったです。ありがとうございます!
海老取川と多摩川の合流部付近の地形が全く変わってないのがすごい
先日 Microsoft Flight Simulator2020が14年ぶりに発売され、好きな空港の一つでもある羽田空港の歴史を見させて頂き、益々操縦が楽しくなってしまいそうです。楽しく見させていただきました。
大変上手くまとめられており楽しめました。ありがとう。
4:52 補足:先代のターミナルビルは、この繰り返しの増改築が初期設計の想定外の域にまで及び、パッチワーク(継ぎ接ぎ)構造となってしまい、その結果、晩年「羽田迷路」と揶揄されることになってしまいました。ただ、私個人としては探検しがいのある楽しい場所ではありましたが。
アップありがとうございました。この空の玄関の歴史は、日本の歴史そのものですね。
すばらしいです。羽田空港の歴史を整理した資料としては、この動画はダントツナンバーワンですね!!
じっくり見ちゃいました。大変勉強になりました。
人間の力って凄いですね。
これ個人で作成されたんですか?教育用のフィルムのように質が高いですね。RJTTの今昔がよくわかりました。昔の羽田空港って穴守稲荷の赤い鳥居が駐車場の真ん中に立っていて、三愛とか書いてある大きい石油タンクがちかくにありましたね。空港にお見送りに行くと万歳三唱で海外出張や駐在?に送られる人や正装した人が多くいた記憶があります。飛行機って特別な乗り物でした。空港で食べるカレー美味しかったな、スプーンもお皿もステンレスでした。有難うございます。
ありがとうございます。
成田空港の歴史も見てみたいです。
これを他界した父に見せたかったです。ことし13回忌となりますのでそれは無理な話ですが、終戦後GHQに立ち退きを命じられるまで穴守稲荷の参道で使用人を使って酒屋を営んでいたそうで立ち退くまで羽田にそうとうな土地を持っていた事、いやと言うほど穴子が捕れたこと、干拓の際に祖父が狩り出された事などなど話してくれたことを思い出しました。ただ話を聞くだけで実感が無かったので昔話をスルーしていましたがこのような航空写真を見ながらだったら実感あったのだろうと思いながら拝見させて頂きました。ありがとうございます。
海老取川はエビだけでなくアナゴもいっぱい取れて、近年も「羽田沖の穴子」というと、寿司や天ぷら屋さんの江戸前ネタとしては名が通っていますね。移転させられた羽田の商店街にも穴子天丼を供している店があって、昔食べたことがあります。
@@Su---- さん
もし太平洋戦争に勝利してGHQに接収されなかったとしても空港拡張でいずれにしても立ち退きという結果だったのでしょうね。
あなご天丼とてもきになってきました。子供が小さいときは静岡から車で横浜の鶴見へお墓参りする=羽田飛行場へ行って飛行機を見せるのが常でしたがいつか京急電車で穴守稲荷駅を降りてあなご天丼を供するお店探しながら先祖に思いをはせたいと思います
こんな切っ掛けを頂きましてほんとにありがとうございました
@@036haraku3 天空橋駅から「ちい散歩」みたいにゆっくり歩きながら羽田神社(第一ターミナルの郵便局の脇に分社がある)を巡って、最後にあなご天丼を食べるルートがいいかもしれません。「穴守稲荷 天丼」で検索すると人気店がいくつかヒットしますが、私もその店で食べました。昔ながらの魚屋さんなんかもあって、下町風情がまだ残っていてよいですよ。
@@Su---- さん
ありがとうございます。良いですね、散歩しながらお店を訪ねながら下町風情を感じながら同時に父親を感じながら穴子丼を食べながら散策してみます。
鶴見の墓参りの後で穴守稲荷を息子と嫁、娘と婿そして孫を連れて歴史を感じながら同じ時間を過ごしてみます
もちろん基礎知識としてこの動画を見せる事で我が家の歴史を共有しながら、です。 ありがとうございます!!。
とても楽しめました。ありがとうございました。
ありそうで殆どなかった貴重な動画でしたね。
やはり初期は簡素でしたね。
以前、羽田空港で警備をやっていた!B滑走路の作成のため夜中一人でした!
わかりやすくて、編集もすごいですね。
大変勉強になりました。
なかなか面白い動画でした。丁寧に調べていて且つわかり易かったです。シムシティを地で行っているような間隔でもあり、最後のまとめの変遷写真はまるで細胞分裂により高度化する受精卵みたいです。
戦後米軍接収された話は知ってましたが…ここまで詳しく見られるとは、、ありがとうございます😊
good video!
旧ターミナルは映画・テレビ全盛期で成田も無かったのでよく登場しましたが、今の行って楽しむ施設の側面があるビッグバードとは違いましたね。
あの忌まわしきいつ行っても停まれなかった平面駐車場がトラウマだったのですが、新空港では京急蒲田駅要塞化もあって神奈川県民としては京急以外の選択肢はなくなりました。
多摩川の橋は完成して大師橋の混雑緩和に役立ってます。羽田は本体の変化と同じくらい周辺の変化も激しい地域です。航空写真でそれを見比べるのも楽しいです。
それにしてもよく纏めましたね。資料として優れていると思いますよ。アプローチ線が出来た後の改定版が楽しみです。
あの頃の羽田は好きだった❤
羽田空港を利用したのは85年つくば博覧会の年でした。タラップからバスでターミナルビルに
移動するので広い空港だと感じました。モノレールで浜松町まで普通で15分と近かったのを
覚えています。94年代に東京に旅行に行ったときは、沖に移設が完了したあとで、さらに広さを
感じました。2006年からコンサートで最低年1回は羽田空港を利用してます。今年はコロナウィルスのせいで
全てのコンサートが中止になり羽田空港を利用していません。連続利用の記録が途切れるのが残念です。
大阪在住ですので出発空港は伊丹(大阪)空港です。
素晴らしい。大変勉強になりました。
こんなんタダで見て良いのかよと・・・ありがてえ
同感です。まったくだ。
Well done, thank you!
素晴らしい!面白い!ありがとうございました!!!
あなたのアイコンを見て、とても見覚えがあるのですが、谷口さんでしょうか?
祖母が干拓地に住んでいて戦後、GHQに追い出され海老取川近くに移った話を思い出した😆 今はなき羽田空港駅で降りて祖母の家に行ったなぁ… B滑走路がもっと海老取川寄りにあったから良く飛行機見に行ったよ😊
ウチは外地からの引き上げ組でしたが、そちらも大変でしたね…
羽田空港第3ターミナル付近では船着場の整備もしています。
水上バスのルートは定かではありませんが、横浜やお台場に通じるものだったら利用してみたいものです。
再国際線化は成田が遠いから当然の帰結ですと思いますよ。それにしても色んな歴史を含んだ優れた動画ですねー。
これはもっと視聴数、評価数が増えてもいい映像。研究課題発表の様で楽しめました。
旧ターミナルとても懐かしいです。出張でアメリカへ赴く叔父を見送りに行ったのをよく覚えています。当時は3発のDC-10だったと思います。
1944の日本軍の滑走路とわずか3年後の米軍の滑走路の違い。これひとつみても国力の圧倒的な違いが分かる。
産業道路と環状八号線の交差点近くに住んでいて
空港には仕事でよく行くから全てが懐かしい
空港の歴史と航空機の入れ替わり、航空会社の変化、それぞれを重ね合わせながら見ていました。首都圏でアクセスもよいため過密状態は避けられないのかな?と。国内線が主流の様ですが、飛行機の離発着の忙しさが浮かぶようです。
米軍が命じた強制退去は48時間以内という期限付きだったそうです。
戦争に負けるというのは悲しいことですね
戦争自体が悲しいことだよ
羽田空港まで自転車で行ったことがあるんですが、自動車専用道路、自転車通行禁止など、まるで広大な迷路でした。
空港職員や航空会社職員は自転車を使っているって聞いたんですが、わけがわからなかったです。
が、この歴史と何度にも及ぶ拡張工事を見ると、カオスになるのも仕方ないですね。
数年後には道や経路が変わっているかもしれないんですから。
80年代に半年だけですがA社系の荷物・コンテナ積み降ろしのバイトをやってました。
旧到着ビルにあったオアシスというレストランが安くておいしかったー
これまで「謎に多いな」と思ってた更地は昔の一等地だったんですね…!初知りです!
Really precious and impressive !
3:51 滅茶苦茶懐かしい写真で、左側の奥にあるビル群には幾度も出入りしていました。
懐かしい!1971年はめちゃくちゃ忙しかったです。DC10の機体整備よく覚えています。ジャンボジェットは大きく翼で作業していると地面から高く恐かった。
私は整備士ではありませんが、
お話を聞いているとまるで鳶職並みですね。
DC10の機体整備は、
第三エンジンが垂直尾翼の途中にあって位置が高く
トライスターの方が第三エンジンが胴体にくっついていて
整備が楽だったという話をかつて聞いたことがあります。
年代的に大型第2での作業ですか?
10のキャビンに使用されているトライウイングは舐めやすく皿飛ばしが面倒だったと同期が言っておりました。
10:27 学生だった40年前の羽田空港ターミナルビルは、確かにΛ型だったなあ。詳しい解説ありがとうございます。
この動画では紹介されていませんが、1939年まで羽田には競馬場がありました。
(1936年の写真の右下に見えてますね)
現在は大井競馬場の重賞競走「羽田盃」として名前が残ってます。
ヨドバシの流通センターの所から空港中央ICまで抜けられることになるんですね~
殿町夜光線に繋げた方が川崎駅から真っ直ぐだったんでないの?
D滑走路工事の時ゲートブリッジとの工事で日本最大級のクレーン船が取り合いになっていたと国交省の役人が話してたっけ。そのゲートブリッジもBやÇ滑走路の進入のために吊り橋構造が取れなくてあんな形になったんだったね。
こじんまりとした国際線ターミナル好きだったなぁ
今の羽田空港周辺の道はカオス過ぎて理解できん・・・
1992年に社会人となり、以来、出張で羽田空港をちょくちょく利用してます。良くまとめられており、昔を思い出して懐かしくなりました。空港の拡張とともに、管制塔も移転、どんどん高くなっていきましたので、ここにも触れると完成度が上がりますね(^^)
1980年頃かな、今は無きパンナムの747SP 見に行きました(旧A後の駐機場)。東京ーニューヨークをノンストップ11:30で飛んでいたと思います。後、当時はワイドボディー機をエアバスと言ってました。
すごくおもしろかったですーーー( 'ᴗ' )
多摩川の流れをせき止めない為に、D滑走路を桟橋型埋め立て工事にした苦労話は、週刊ポスト『メタルカラーの時代』で読んでいた記憶があります。
懐かしいなぁ1995年頃、沖合埋め立てやってたなぁw
何にも遮るものが無いから、日差しは強いわ砂が舞って大変だった。
埋め立ても色んな業者がやってたから、業者ごとに工法が違って面白かった覚えが有る。
ここまで拡張して空がパンクしないのがすごい
羽田空港に初めて行ったのは小学校の修学旅行。離着陸に合わせて飛行機をバックに旧ターミナルの屋上でクラス毎に記念写真を撮った。もう55年も前だけどね懐かしい思い出。
自分は関西なので、伊丹空港の屋上でクラス写真を撮りました。🛫
羽田空港は引き付けられるものがありますね。蒲田駅周辺には、まだ京急が空港から遠い羽田空港駅が終点(←インチキ空港駅WWW)だったころの街図が残っているところがあります。
凄くわかりやすかったです。それにしても、総工費いくらになってるんだろう、想像するだけで恐ろしい
旧ターミナルというと、ロビーの灰皿に設置されたサロンパスか何かのスプレー剤のPOPと、LEDじゃない「カシャカシャ」っと動く発着表示を思い出します。低床バスで移動し、タラップを上がって搭乗する高揚感も忘れられません(727は「お尻」のエアステアから乗ったこともありました)。
昭和三十年代 大田区立の小学校で、遠足で行きました。でも 入学前には、自転車で行きました。
当方も昭和32~38年まで大田区立の小学校に通いましたが、遠足で羽田空港へ行った事はありませんでした。小学生時の修学旅行は日帰りで箱根でした。就学年次で行き先に変更があったとは全く知りませんでした。
ソウルへあしげく通っていた時代、第二タミ横の国際線タミはよく利用してましたね。 国内線と比べて圧倒的に貧相で「国際線小屋」と揶揄してた位でした。 そんな事から海外へ行くとゆう感覚は無くて、ちょっと遠目の国内線とゆう感じでした。
今日の国際線タミ(今は第3タミに呼称変更)を訪れるにつけ、羽田空港における時代の変化を感じます。
子供の頃見た教養フィルムみたいで面白かった。
いやー、勉強になった。
東京羽田空港の旧C滑走路からは、乗客乗員520人が犠牲になった、
日本航空123便墜落事故の運行機材になった、ボーイング747(JA-8119)が、
1985年8月12日の18:00頃に、離陸してます。
福岡住みだけど、昔は福岡のようにボーディングブリッジから乗るのが地方空港で、羽田は駐機場からタラップで降りてバスに乗るから流石大空港やなーとか勘違いしてた。
九州・四国向けは今でも隔離ナンバーやん。盆暮れには稀にバスでドナドナもあったよw
素晴らしい動画。
先日羽田空港の変貌について調べたけどこんな動画があったとは知らなかったです。
親父が当時まだ海外旅行が一般的ではなかった頃にヨーロッパに行き、その時に使った羽田空港の印象は確かに2本のみ。羽田空港のイメージはそれで国際線を成田に移管するのも仕方ないなと思ったけど、それがいつしか真ん中に湾岸線が通るようになり、京急もターミナルの真下に延伸、利用し易くなったんだなぁと思ってたら、挙句の果てにD滑走路まで出現。この20年間はあれよあれよという感じで発展してきましたね。E滑走路増設もあり得ますかねぇ。
多摩川のとこにある今は羽田空港船着場になってるとこ、かつては燃料輸送?で使われてた桟橋だったのね。それとそこから上のとこにある燃料タンク横の道路が今だに残ってて驚いた。沖合移転前の面影はまだあるんだな…
ANAが殿町ビジネスセンターを建てたのは、最後に出てきた多摩川を渡る橋が出来ることを見越してのことです。
ただ、当初より建設開始が遅れたので、若干目論見が外れたようです。
ちなみに殿町と羽田を結ぶ社員輸送用連絡バスは、何と首都高経由で運行されているそうです。
(橋が出来ていないせいでこうなった)
1936年の写真で右端にある運動場のような場所は競馬場です。今の大井競馬場は羽田や八王子などの競馬場が1つになったと聞きました。なので大井競馬場で開催される「羽田盃」はこの競馬場を指して居るそうです。
余談ですが同じ頃の写真で多摩川を渡り川崎側に今の川崎貨物駅辺りにも競馬場が写っています。それは確か川崎競馬場の前身と聞いています。
解りやすい解説動画ありがとうございます。
同じ空港のはずなのに
1975年・・・9:22
2002年・・・17:28
こう比べてみると、滑走路の向き以外全く別の空港の様に見えますね。30年足らずでここまで変わるとは…。
モノレールはB滑走路の下を抜ける部分が単線でした