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0:11~28 58 58 28 58 ロ 28 58
今、トロッコ保津峡駅の跨線橋でトロッコ列車を待ってる間にこの動画を見てるんですが何ともエモい気持ちになりますね。目の前をキハ58の長編成急行やDL牽引の客レが発着する情景がはっきりイメージできます。
今まで、そんな楽しみ方を思い付きもしませんでした。自分も久しぶりに行ってみたくなりました。
山陰本線京都口の客車837レ、328レ、820レが映っていますね。懐かしい映像です。
当時は普通の光景だったんですけどね。もうあの当時の雰囲気を味わえなのはちょっと残念ですね。
京都駅から約20~25分の場所にこんな美しい光景が存在していたとは、今ではとても考えられない。今では電化とともに保津峡駅自体も巨大なアーチを描く陸橋上に移され、旧線はトロッコ列車に役目を譲っている。
あの頃の山陰本線は遅かったですけど風情があって良かったですね。
福知山線の武田尾もかつては大阪から近い範囲で深山幽谷の景色が堪能出来ました いずれも思い出の彼方へと流れて行きました
@@園田成司-s4d その新しい武田尾駅は全線電化に先立つこと、1986年8月1日始発から供用を開始し現在に至りますが、なんといっても最大の特徴はホームの両端をトンネルに挟まれているという変わった構造です。
当時付き合っていた彼と阪急嵐山から歩いて小高い丘のベンチに座り見たこの景色と一致しました。40年経った今でも鮮明に汽笛を鳴らしながら走る機関車を懐かしく彼と共に思い出します。
確かにそうですね。亀山展望台ですね。撮影した本人はすっかり忘れてました。阪急嵐山からだと随分歩いたんですね。
思いがけない返信有難うございます。何十年もふっと思い出す景色が偶然に映像で又、見ることが出来てとても嬉しいです。
こちらこそ喜んでもらえて嬉しいです。自分にとっても、山陰線のイメージはあの頃のままですね。
昭和時代の8ミリ動画が音声付きで残っているとかすごいです谷を進む列車の、のんびりとした風景がとても良いです
当時は京都から保津峡・馬堀までは普通に乗ってても観光気分に浸れましたから良かったですね。今から思えば鈍行でも長編成で何時も空いてましたしね。
信越本線のように新線ができると廃止されてしまう残念なケースが多いですが、嵯峨野線はトロッコに役目を譲りながらも使われて、昔と同じ車窓からの眺めを今も見れるというのはほんとにいいですねぇ
保津峡下りとセットで考えれば、良い観光コースだから、廃線にするには勿体ないですよね。更に桜を植えたり努力・尽力されて旧線より観光地化してますね。
5:34 懐かしのキユニ28が先頭の普通列車が出演?したのが非常に嬉しいです でも下り列車のはずですがどっちを向いて撮影したかが分からないです
この部分から嵯峨野に戻って来てまして、嵐山公園亀山地区頂上展望台かもう一か所ある展望台のどちらから撮影していました。上方に向かって保津峡亀岡方面です。
@@sawaaicb 情報ありがとうございます 後で桂川が列車左に流れているので嵯峨から保津峡へ向かう区間と思いました 見慣れた筈の景色でも角度が変わると分かりにくいものですね
元嵯峨野線沿線住人です。子供の頃に見た山陰線の懐かしい風景をありがとうございます。当時子供心になんでこんなところに駅があるんだろうと不思議に思っていました。列車の交換などでどうしても必要なところだったと気づくのは大人になってからでしたが・・。みなさんのご意見にもあるように便利さと引き替えに風光明媚な路線がなくなったわけです。でも沿線住人にとっては新線になったことで亀岡~嵯峨嵐山(当時は嵯峨)間が10分以上も時間短縮でき複線化によって本数も増えましたから実際には万々歳なんですね。旧線も嵯峨野観光鉄道で脚光を浴びることになり一挙両得になったのですから。旅行者としては風情を求めたいところですが、沿線住人にとっては利便性が第一ですからね。
旧線を残して観光鉄道にしたのは、大正解でしたよね。今も大人気だし保津峡下りとセットで楽しめますから。当時の山陰線はのんびりしたものでした。今では考えられないですね。
遠出しなくても京都から亀岡まで1時間で、旅気分が味わえました
それが今では1時間に1本は快速電車が走るようになったおかげで、京都~亀岡間は20分に大幅短縮。宇治までの「みやこ路快速」の17分と比較しても大差ない。
ここは急行の運転停車も多かった。事実上の信号所みたいになってたな。
3:26で京都方面行きホームを通過する特急「あさしお」。現在の京都丹後鉄道宮福線すらなかったこの時代、京都から天橋立まで行くのに最速でも下りで2時間18分(あさしお1号)、上りで2時間16分(あさしお8号)それぞれかかりました。現在は電車化されて特急「はしだて」(2代目)に至りますが、全特急列車が園部にも停車するようになったり、福知山で順方向の特急列車同士の接続待ちを行ったり、運転余裕時分の見直しが行われたりして、結局は最速でも2時間6分と当時と比較しても10分しか変わりません。
園部までは便利になった様ですけど、その先はあまり変わりませんね。旧園部駅・旧福知山駅・旧亀岡駅は風情があって良かったですけどね。
@@sawaaicb 園部から先は現在でもあまり変わらない>いいえ、必ずしもそうだとは限りません。当時の東舞鶴には特急が全く乗り入れておらず(手前の西舞鶴までなら宮津線に入る関係で「あさしお」1往復だけが乗り入れていた)、京都からの直通は急行「丹後」に任せっきりで京都~東舞鶴間でさえ最速約2時間を要しましたが、1999年10月2日に舞鶴線が電化されると特急「まいづる」が3往復設定され、同時に最速約1時間30分にまで短縮されました(2003年10月1日以降は単独列車としての設定はなくなり、綾部で「きのさき」「はしだて」と分割併合する関係で特に京都行きに至っては綾部駅構内で連結準備のための速度制限がかかるようになり、京都~東舞鶴間は5分延びて最速約1時間35分となり現在に至ります)。なお「まいづる」は全国的にも珍しい、JRの特急列車としては複数の都道府県を跨いで走らない列車として知られており、運行全区間がすべて京都府内で完結しています。
松坂慶子主演映画『蒲田行進曲』でやっさんが『九州の田舎へ帰る』と言って次の瞬間に映し出されたのがこの旧保津峡駅でした 太秦の撮影所から近場でそれらしいと選定されたのでしょうね
それは見逃して知りませんでした。見る機会があれば注視してみます。昔の嵯峨駅でもいい雰囲気だったのに、わざわざ保津峡まで行ったんですね。
土木技術が未熟だった昔は山沿い川沿いに曲がりくねった線路を敷くしかなかった。高速道路や幹線道路や新幹線ができ古い規格の鉄道が徐々に役目を終えていくのも時代の流れです。
この時代から入線ベルってあったんですねぇ
ホームがトンネルが近いのもあるし、亀岡方面に行く時、高架橋使わずに線路を渡る人多かったので特に接近音が大きかったように思います。
「心の贅沢を知るこの一杯」ならぬ、「心の贅沢を知るこの癒しのひと時」。(元ネタは撮影された時期とほぼ同時期に流行ったカーク・ダグラス氏出演のAGFインスタントコーヒー「マキシム」CMでの城達也氏のナレーション)
カー久・ダグラスのマキシムなんて懐かしすぎるなァ~。
@@sawaaicb しかも当時はカーク・ダグラス氏がコーヒーカップを「チーン」と轟音を立てて弾くオチまで付いており、僕も当時は結構真似をしたことがあります。
こんな贅沢なことができたのは、40代以上のおじさん世代がほとんど。
懐かしいです、まだ短線で国鉄が日の丸親方だった時代嵯峨野線の京都~園部間の電化、複線化は夢のまた夢の時代そして計画から数年経って馬堀~嵯峨嵐山の一部複線と京都~園部の電化が完成し2010年にはようやく全線複線化になり京都まで近くなりました。
今は、昔では考えられない位便利に早くなりましたね。昔なら、園部は遠い所と言うイメージでしたから。
残るは園部~福知山間の複線が実現しますように!
小僧オカッケ 園部ー綾部間ですね。綾部ー福知山は複線なんで。でも園部より奥は厳しいかな
今でこそ京都~福知山間の快速でさえ最速1時間58分(特急なら約1時間15~20分)、打って変わって当時は逆に並河・吉富・高津の3駅を通過しておきながら約2時間20分~3時間を要した列車も少なくありませんでした。今では考えられないほど近くなりましたよね。
小僧オカッケさん>京都~園部間で一応全線複線化は叶いましたが、「タキイ種苗」の本社屋が建っているあたりだけはまだ単線のまま残っています。
昭和57年(1982年)頃の、山陰本線・保津峡駅の動画映像ですね、旧形客車・50系50形・通勤形客車(レッドトレイン いずれも、DD51形牽引)・キハ58系 急行形液体式ディーゼル気動車・キハ47系0・1000番台 近郊形液体式ディーゼル気動車も走っていた様で、特急「あさしお」も、「やくも」で使用されていた、キハ181系・特急形液体式ディーゼル気動車が投入され、使用を開始した頃だったようで、懐かしい映像ですね、気に入りました、御見事です。
やはり鉄道の事は詳しいですね。81年頃かな?と思っていたのですが82年だったようですね。今でも、あの頃の国鉄が一番好きです。
sawaaicbさん、この年の8月には、若狭高浜へ海水浴に出かけていて、この時も、急行「丹後1号」(901D・4901D 網野・敦賀行 キハ58系)に乗車して出かけており、保津川を眺めながら、保津峡駅を通過したことを覚えておりますよ。
@@Bouquetfragrance1 天龍寺踏切を過ぎると竹林の中に挟まれながら進み(一応ここまでは現在も変わっていないが、現行ルートは右カーブして小倉山トンネルに入る)、まず現在トロッコ列車が使っている亀山トンネルを抜けてから、保津川沿いに縫うように走り、しばらく進むと保津川橋梁のトラスが見えてくるので、それを渡ってやはり現在トロッコ列車が使っている清滝トンネルを抜けて保津峡駅に差し掛かるという、当時の国鉄→JRとしては考えられない迫力満点の車窓でした。現在はそれだけのためにあらかじめ予約して最低でも片道630円は払わなければなりません。
旅情を感じる美しい風景ですね。20年前福知山線沿いに住んでいましたが乗ったことはなかったので知りませんでした。4月に大阪京都に行くのでトロッコ列車に乗ってみようと思っています。
桜の季節はいいですね。昔より桜と紅葉にはこだわって沿線の手入れをしてますから。
自分は母親の実家が園部で山陰線に乗る時は帰省の度にこの保津川沿いの景色を見ながら帰ってました。その後廃止になり、そして観光鉄道になり。鉄道は凄く好きなんですが今でもトロッコ電車だけは乗る気にならない。しょーもない意地ですが当時を知ってる者とすればこの景色を見るためにお金を払うってのがどうしてもダメで・・
旧園部駅の駅舎はレトロな雰囲気があって好きな駅でした。言われてみれば確かにトロッコ列車には乗ったことないですね。完全に廃線にするには、さすがにもったないですしね。乗ろうと思えばいつでも乗れると言う意味ではありがたいですけどね。
旧園部駅、今でもはっきり覚えてます。まぁ保津川の景色は好きなんで川沿いのハイキングコースは歩いてるんですけどねwそもそも私、何で旧線が廃止になったのかその経緯は知らないんです^^;
川沿いの遊歩道、あの場所はいいですね。20年位前ですけど、新保津峡駅から、亀岡へ抜ける保川沿いの道があったんですが、がけ崩れで道がすっぽり無くなって通行止めなってた場所があったのですが、あの道は修復されたんでしょうかね。
昭和56年に既に50系客車が運用されていたんですね。てっきり昭和59年2月の改正からだと思っていました。
56年か57年か少しあやふやな記憶なんですが、とにかく当時はのんびり走ってましたね。車両編成も長いし、座席も空いてました。
やっぱこの時代の山陰線はいいですね。今の山陰線はつまらない。
まだまだ長閑な時代でしたね。この頃、まだ民営化する危機感は無かった様な気がします。
僕もやはりそう思います。でも現在の嵯峨嵐山~馬堀間が複線化される前にもっと乗っておけばよかったと後悔しています。
お宅言葉使いよくないね
1989年3月5日の新線切り替えを反映した同年3月11日のダイヤ改正で、運転時分は若干短縮されましたが、京都を代表する一等地かつ景勝地を観賞できなくなったことを惜しむ声が多く寄せられたかのようにして、新線切り替えから約2年後の1991年4月27日、この旧線を有効活用して現在の嵯峨野観光鉄道の開業に至ったということです。しかしながら嵯峨野観光鉄道の公式HPによると、開業前というか会社そのものの設立当時は、社長を含めわずか9人しかスタッフがおらず、この旧線をどう有効活用するか検討を重ねてきましたが、最終的に前述の経緯に至ったということです。
今では近キトの221系4~8連(まれに福フチの223系5500番台を園部寄りに連結して6連になる場合もあり)の快速が京都~園部間を最速36分で駆け抜け、嵯峨嵐山~馬堀間なんて6本のトンネルであっという間に通り抜けてしまう。35年前のありふれた光景が嘘のよう。
今は保津峡をほとんど見ることが出来ないから、面白味がないですね。当時は当たり前の景色だったから、ぼんやりと眺めてましたけどネ。
@@sawaaicb 今では保津峡をほとんど見ることが出来ない>1989年3月5日始発からそうなった理由は、以前から計画していた京都口の直流電化が正式に決まった際、現在はトロッコ列車に転用されている嵯峨~馬堀間の在来ルートのままでは速度制限箇所が複数設けられていることと、そのままでは複線電化が容易にできないと判断されたため、結局最終的に同区間では新しくレールを敷き直したのと大小6か所のトンネルを新たに掘り直すことで対処したからです。この結果保津峡~馬堀間は駅間距離が1.6㎞短縮されて、京都~保津峡間各駅から馬堀以北の各駅相互間では、その後押しもあって運賃の値下げが行われた区間も多数発生しました。
現在の短い編成に荷物のように押し込む時代とは大違いですね。本数は少なく所要時間も長いですがどちらが良かったかのはおのずと。
国鉄の時代は今から思うとのんびりしてましたね。山陰線で座れない時は海水浴に行く時の急行位でしたかね。
タラコ同士の行き違いは今でも津山線で見れるという不思議。でも、この映像を観ると懐かしい気持ちにさせられる。車両の耐久年数の長さがもたらすものなのかな?
本当にそうですね。先々週新幹線で岡山を通過した時に旧国鉄色の車両があったので、なんか懐かしい感じがしたのを思いだしました。
JR西日本の懐事情によって「持たさない」といけないんです。他社なら新車や電化やHVなどテコ入れしています。
@@金澤華 確かにそう思います キハ40系を最後まで残すのは西日本だと思います あれを見て懐かしく思う反面いつまで使うの?って思う気持ちもあります キハ40系マニアの溜まり場にならぬ様願うばかりです
C11乗れた人羨ましい
山陰本線はトンネルの連続なので夏はトンネルの度に窓を閉めてたので忙しくて仕方が無かったですけどね。
0:11~
28 58 58 28 58 ロ 28 58
今、トロッコ保津峡駅の跨線橋でトロッコ列車を待ってる間にこの動画を見てるんですが何ともエモい気持ちになりますね。
目の前をキハ58の長編成急行やDL牽引の客レが発着する情景がはっきりイメージできます。
今まで、そんな楽しみ方を思い付きもしませんでした。
自分も久しぶりに行ってみたくなりました。
山陰本線京都口の客車837レ、328レ、820レが映っていますね。懐かしい映像です。
当時は普通の光景だったんですけどね。もうあの当時の雰囲気を味わえなのはちょっと残念ですね。
京都駅から約20~25分の場所にこんな美しい光景が存在していたとは、今ではとても考えられない。今では電化とともに保津峡駅自体も巨大なアーチを描く陸橋上に移され、旧線はトロッコ列車に役目を譲っている。
あの頃の山陰本線は遅かったですけど風情があって良かったですね。
福知山線の武田尾もかつては大阪から近い範囲で深山幽谷の景色が堪能出来ました いずれも思い出の彼方へと流れて行きました
@@園田成司-s4d
その新しい武田尾駅は全線電化に先立つこと、1986年8月1日始発から供用を開始し現在に至りますが、なんといっても最大の特徴はホームの両端をトンネルに挟まれているという変わった構造です。
当時付き合っていた彼と阪急嵐山から歩いて小高い丘のベンチに座り見たこの景色と一致しました。
40年経った今でも鮮明に汽笛を鳴らしながら走る機関車を懐かしく彼と共に思い出します。
確かにそうですね。亀山展望台ですね。撮影した本人はすっかり忘れてました。
阪急嵐山からだと随分歩いたんですね。
思いがけない返信有難うございます。
何十年もふっと思い出す景色が偶然に映像で又、見ることが出来て
とても嬉しいです。
こちらこそ喜んでもらえて嬉しいです。
自分にとっても、山陰線のイメージはあの頃のままですね。
昭和時代の8ミリ動画が音声付きで残っているとかすごいです
谷を進む列車の、のんびりとした風景がとても良いです
当時は京都から保津峡・馬堀までは普通に乗ってても観光気分に浸れましたから良かったですね。今から思えば鈍行でも長編成で何時も空いてましたしね。
信越本線のように新線ができると廃止されてしまう残念なケースが多いですが、嵯峨野線はトロッコに役目を譲りながらも使われて、昔と同じ車窓からの眺めを今も見れるというのはほんとにいいですねぇ
保津峡下りとセットで考えれば、良い観光コースだから、廃線にするには
勿体ないですよね。更に桜を植えたり努力・尽力されて旧線より観光地化
してますね。
5:34 懐かしのキユニ28が先頭の普通列車が出演?したのが非常に嬉しいです でも下り列車のはずですがどっちを向いて撮影したかが分からないです
この部分から嵯峨野に戻って来てまして、嵐山公園亀山地区頂上展望台かもう一か所ある展望台の
どちらから撮影していました。上方に向かって保津峡亀岡方面です。
@@sawaaicb 情報ありがとうございます 後で桂川が列車左に流れているので嵯峨から保津峡へ
向かう区間と思いました 見慣れた筈の景色でも角度が変わると分かりにくいものですね
元嵯峨野線沿線住人です。子供の頃に見た山陰線の懐かしい風景をありがとうございます。
当時子供心になんでこんなところに駅があるんだろうと不思議に思っていました。
列車の交換などでどうしても必要なところだったと気づくのは大人になってからでしたが・・。
みなさんのご意見にもあるように便利さと引き替えに風光明媚な路線がなくなったわけです。
でも沿線住人にとっては新線になったことで亀岡~嵯峨嵐山(当時は嵯峨)間が10分以上も時間短縮でき
複線化によって本数も増えましたから実際には万々歳なんですね。
旧線も嵯峨野観光鉄道で脚光を浴びることになり一挙両得になったのですから。
旅行者としては風情を求めたいところですが、沿線住人にとっては利便性が第一ですからね。
旧線を残して観光鉄道にしたのは、大正解でしたよね。
今も大人気だし保津峡下りとセットで楽しめますから。
当時の山陰線はのんびりしたものでした。今では考えられないですね。
遠出しなくても京都から亀岡まで1時間で、旅気分が味わえました
それが今では1時間に1本は快速電車が走るようになったおかげで、京都~亀岡間は20分に大幅短縮。宇治までの「みやこ路快速」の17分と比較しても大差ない。
ここは急行の運転停車も多かった。事実上の信号所みたいになってたな。
3:26で京都方面行きホームを通過する特急「あさしお」。
現在の京都丹後鉄道宮福線すらなかったこの時代、京都から天橋立まで行くのに最速でも下りで2時間18分(あさしお1号)、上りで2時間16分(あさしお8号)それぞれかかりました。
現在は電車化されて特急「はしだて」(2代目)に至りますが、全特急列車が園部にも停車するようになったり、福知山で順方向の特急列車同士の接続待ちを行ったり、運転余裕時分の見直しが行われたりして、結局は最速でも2時間6分と当時と比較しても10分しか変わりません。
園部までは便利になった様ですけど、その先はあまり変わりませんね。旧園部駅・旧福知山駅・旧亀岡駅は風情があって良かった
ですけどね。
@@sawaaicb
園部から先は現在でもあまり変わらない>
いいえ、必ずしもそうだとは限りません。
当時の東舞鶴には特急が全く乗り入れておらず(手前の西舞鶴までなら宮津線に入る関係で「あさしお」1往復だけが乗り入れていた)、京都からの直通は急行「丹後」に任せっきりで京都~東舞鶴間でさえ最速約2時間を要しましたが、1999年10月2日に舞鶴線が電化されると特急「まいづる」が3往復設定され、同時に最速約1時間30分にまで短縮されました(2003年10月1日以降は単独列車としての設定はなくなり、綾部で「きのさき」「はしだて」と分割併合する関係で特に京都行きに至っては綾部駅構内で連結準備のための速度制限がかかるようになり、京都~東舞鶴間は5分延びて最速約1時間35分となり現在に至ります)。
なお「まいづる」は全国的にも珍しい、JRの特急列車としては複数の都道府県を跨いで走らない列車として知られており、運行全区間がすべて京都府内で完結しています。
松坂慶子主演映画『蒲田行進曲』でやっさんが『九州の田舎へ帰る』と言って次の瞬間に映し出されたのがこの旧保津峡駅でした 太秦の撮影所から近場でそれらしいと選定されたのでしょうね
それは見逃して知りませんでした。見る機会があれば注視してみます。昔の嵯峨駅でもいい雰囲気だったのに、わざわざ保津峡まで行ったんですね。
土木技術が未熟だった昔は山沿い川沿いに曲がりくねった線路を敷くしかなかった。高速道路や幹線道路や新幹線ができ古い規格の鉄道が徐々に役目を終えていくのも時代の流れです。
この時代から入線ベルってあったんですねぇ
ホームがトンネルが近いのもあるし、亀岡方面に行く時、高架橋使わずに線路を渡る人多かったので
特に接近音が大きかったように思います。
「心の贅沢を知るこの一杯」ならぬ、
「心の贅沢を知るこの癒しのひと時」。
(元ネタは撮影された時期とほぼ同時期に流行ったカーク・ダグラス氏出演のAGFインスタントコーヒー「マキシム」CMでの城達也氏のナレーション)
カー久・ダグラスのマキシムなんて懐かしすぎるなァ~。
@@sawaaicb
しかも当時はカーク・ダグラス氏がコーヒーカップを「チーン」と轟音を立てて弾くオチまで付いており、僕も当時は結構真似をしたことがあります。
こんな贅沢なことができたのは、40代以上のおじさん世代がほとんど。
懐かしいです、まだ短線で国鉄が日の丸親方だった時代嵯峨野線の京都~園部間の電化、複線化は夢のまた夢の時代そして計画から数年経って馬堀~嵯峨嵐山の一部複線と京都~園部の電化が完成し2010年にはようやく全線複線化になり京都まで近くなりました。
今は、昔では考えられない位便利に早くなりましたね。昔なら、園部は遠い所と言うイメージでしたから。
残るは園部~福知山間の複線が実現しますように!
小僧オカッケ 園部ー綾部間ですね。綾部ー福知山は複線なんで。でも園部より奥は厳しいかな
今でこそ京都~福知山間の快速でさえ最速1時間58分(特急なら約1時間15~20分)、打って変わって当時は逆に並河・吉富・高津の3駅を通過しておきながら約2時間20分~3時間を要した列車も少なくありませんでした。今では考えられないほど近くなりましたよね。
小僧オカッケさん>
京都~園部間で一応全線複線化は叶いましたが、「タキイ種苗」の本社屋が建っているあたりだけはまだ単線のまま残っています。
昭和57年(1982年)頃の、山陰本線・保津峡駅の動画映像ですね、旧形客車・50系50形・通勤形客車(レッドトレイン いずれも、DD51形牽引)・キハ58系 急行形液体式ディーゼル気動車・キハ47系0・1000番台 近郊形液体式ディーゼル気動車も走っていた様で、特急「あさしお」も、「やくも」で使用されていた、キハ181系・特急形液体式ディーゼル気動車が投入され、使用を開始した頃だったようで、懐かしい映像ですね、気に入りました、御見事です。
やはり鉄道の事は詳しいですね。81年頃かな?と思っていたのですが
82年だったようですね。今でも、あの頃の国鉄が一番好きです。
sawaaicbさん、この年の8月には、若狭高浜へ海水浴に出かけていて、この時も、急行「丹後1号」(901D・4901D 網野・敦賀行 キハ58系)に乗車して出かけており、保津川を眺めながら、保津峡駅を通過したことを覚えておりますよ。
@@Bouquetfragrance1
天龍寺踏切を過ぎると竹林の中に挟まれながら進み(一応ここまでは現在も変わっていないが、現行ルートは右カーブして小倉山トンネルに入る)、まず現在トロッコ列車が使っている亀山トンネルを抜けてから、保津川沿いに縫うように走り、しばらく進むと保津川橋梁のトラスが見えてくるので、それを渡ってやはり現在トロッコ列車が使っている清滝トンネルを抜けて保津峡駅に差し掛かるという、当時の国鉄→JRとしては考えられない迫力満点の車窓でした。現在はそれだけのためにあらかじめ予約して最低でも片道630円は払わなければなりません。
旅情を感じる美しい風景ですね。20年前福知山線沿いに住んでいましたが乗ったことはなかったので知りませんでした。4月に大阪京都に行くのでトロッコ列車に乗ってみようと思っています。
桜の季節はいいですね。昔より桜と紅葉にはこだわって
沿線の手入れをしてますから。
自分は母親の実家が園部で山陰線に乗る時は帰省の度にこの保津川沿いの景色を見ながら帰ってました。
その後廃止になり、そして観光鉄道になり。
鉄道は凄く好きなんですが今でもトロッコ電車だけは乗る気にならない。
しょーもない意地ですが当時を知ってる者とすればこの景色を見るためにお金を払うってのがどうしてもダメで・・
旧園部駅の駅舎はレトロな雰囲気があって好きな駅でした。言われてみれば確かにトロッコ列車には乗ったことないですね。完全に廃線にするには、さすがにもったない
ですしね。乗ろうと思えばいつでも乗れると言う意味では
ありがたいですけどね。
旧園部駅、今でもはっきり覚えてます。
まぁ保津川の景色は好きなんで川沿いのハイキングコースは歩いてるんですけどねw
そもそも私、何で旧線が廃止になったのかその経緯は知らないんです^^;
川沿いの遊歩道、あの場所はいいですね。20年位前ですけど、新保津峡駅から、亀岡へ抜ける保川沿いの道があったんですが、がけ崩れで道がすっぽり
無くなって通行止めなってた場所があったのですが、あの道は修復されたんでしょうかね。
昭和56年に既に50系客車が運用されていたんですね。
てっきり昭和59年2月の改正からだと思っていました。
56年か57年か少しあやふやな記憶なんですが、とにかく当時はのんびり走ってましたね。
車両編成も長いし、座席も空いてました。
やっぱこの時代の山陰線はいいですね。今の山陰線はつまらない。
まだまだ長閑な時代でしたね。この頃、まだ民営化する危機感は無かった様な
気がします。
僕もやはりそう思います。でも現在の嵯峨嵐山~馬堀間が複線化される前にもっと乗っておけばよかったと後悔しています。
お宅言葉使いよくないね
1989年3月5日の新線切り替えを反映した同年3月11日のダイヤ改正で、運転時分は若干短縮されましたが、京都を代表する一等地かつ景勝地を観賞できなくなったことを惜しむ声が多く寄せられたかのようにして、新線切り替えから約2年後の1991年4月27日、この旧線を有効活用して現在の嵯峨野観光鉄道の開業に至ったということです。しかしながら嵯峨野観光鉄道の公式HPによると、開業前というか会社そのものの設立当時は、社長を含めわずか9人しかスタッフがおらず、この旧線をどう有効活用するか検討を重ねてきましたが、最終的に前述の経緯に至ったということです。
今では近キトの221系4~8連(まれに福フチの223系5500番台を園部寄りに連結して6連になる場合もあり)の快速が京都~園部間を最速36分で駆け抜け、嵯峨嵐山~馬堀間なんて6本のトンネルであっという間に通り抜けてしまう。35年前のありふれた光景が嘘のよう。
今は保津峡をほとんど見ることが出来ないから、面白味がないですね。
当時は当たり前の景色だったから、ぼんやりと眺めてましたけどネ。
@@sawaaicb
今では保津峡をほとんど見ることが出来ない>
1989年3月5日始発からそうなった理由は、以前から計画していた京都口の直流電化が正式に決まった際、現在はトロッコ列車に転用されている嵯峨~馬堀間の在来ルートのままでは速度制限箇所が複数設けられていることと、そのままでは複線電化が容易にできないと判断されたため、結局最終的に同区間では新しくレールを敷き直したのと大小6か所のトンネルを新たに掘り直すことで対処したからです。この結果保津峡~馬堀間は駅間距離が1.6㎞短縮されて、京都~保津峡間各駅から馬堀以北の各駅相互間では、その後押しもあって運賃の値下げが行われた区間も多数発生しました。
現在の短い編成に荷物のように押し込む時代とは大違いですね。
本数は少なく所要時間も長いですがどちらが良かったかのはおのずと。
国鉄の時代は今から思うとのんびりしてましたね。
山陰線で座れない時は海水浴に行く時の急行位でしたかね。
タラコ同士の行き違いは今でも津山線で見れるという不思議。
でも、この映像を観ると懐かしい気持ちにさせられる。
車両の耐久年数の長さがもたらすものなのかな?
本当にそうですね。先々週新幹線で岡山を通過した時に
旧国鉄色の車両があったので、なんか懐かしい感じが
したのを思いだしました。
JR西日本の懐事情によって「持たさない」といけないんです。
他社なら新車や電化やHVなどテコ入れしています。
@@金澤華 確かにそう思います キハ40系を最後まで残すのは西日本だと思います あれを見て懐かしく思う反面いつまで使うの?って思う気持ちもあります キハ40系マニアの溜まり場にならぬ様願うばかりです
C11乗れた人羨ましい
山陰本線はトンネルの連続なので夏はトンネルの度に窓を閉めて
たので忙しくて仕方が無かったですけどね。