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今と違い、他国からの輸入で急場をしのぐ術もなかった江戸時代。飽食になれた現代人の想像を絶する、昔の飢饉の惨状。改めて、食の生産と流通に携わる方々への感謝を忘れずに食べ物を大切にする生活を送りたいと思います。よい動画を掲載して下さり、ありがとうございました。
その現代でも農林水産省は、減反・転作とかアホな政策してたんだからな。
今更、学校には通えないけど、歴史(特に江戸時代)を勉強したいと思っていた時にこちらのチャンネルと出会い、動画で勉強が出来て、とても有難かったです。来年も、動画を楽しみにさせて頂きます。
私の登山仲間に福島出身の女性がいたが、彼女は、江戸時代の度重なる飢饉により、農民が大量に餓死し、田畑を維持できなくなり、隣の米沢藩から養子の様な形で農民を多く補充していたといっていた。だから彼女の親戚は山形県の人が多くいるとも言っていた。以前、盛岡市の近郊を旅したときは、道端にある餓死者を慰霊する地蔵や慰霊碑が数百メートル間隔にあり、その異常な多さに驚かされた経験がある。
あえてこのタイミングでこのテーマ、私は敬意をもって視聴させていただきます。
飢えずに年越せるのは幸せよの
うん!そのとおりです!
来年の話をすると、「鬼が笑う」といったのもむべなるかな。
そうよの。
慣れって怖い
そうでございますなぁ、お代官様
飢饉は半分は人災だというのがよく分かりますね。アイルランドのジャガイモ飢饉でも、イギリスは飢餓輸出を続けたわけだし。
飢餓輸出といえば、1930年代に旧ソ連のウクライナ等で発生した「ホロドモール」が有名ですね。
最近の「アラブの春」もウクライナの小麦不作が、輸入先のトルコの供給不足となり、トルコが釣られて自国産の小麦をエジプトに輸出しなくなった結果のエジプト・リビアの食糧難が起因ですからね。
50年前、SFにいました。アパート女性オーナーがアイルランド、この飢餓を書いた本を渡された。途中で読んで気が重くなりやめた。
イギリスってそんな鬼畜なことやってたんですか。流石ゲルマン人
食糧自給率が低い日本。それは農林水産省の減反政策のせいもある
家の前に天保飢饉の石碑があるけど壮絶だったんだなぁ…ご先祖様よく無事に生き残ったなぁ
地方による
実は貴方の祖先は、「全滅家族の耕作地に後釜で入植」しただけかもしれませんよ?
別に生き残ったわけじゃないと思うぞお前の先祖は間抜けだ
俺もそう思う、祖父なんて戦争のときに頭に弾丸打たれてますもん
東北の地域は全滅してたぞ。
天保の大飢饉はまだ200年経ってないから割と最近の出来事なんだよなぁ
富士山の大噴火で甚大な被害を被った富士山の麓の農村とか忘れたらいけない
@@Laurel-2.5clubs 宝永か
松前藩は米が取れないので石高は一万石扱いで藩として低く見られたがイワシ等を交易して莫大な利益を挙げて参勤交代も数年に一回で負担も少ないので松前藩は外様大名では裕福な藩になり松前の庶民は東北が飢饉でも米が食えた。
江戸時代の普通の年と飢饉の年では人々の亡くなる季節に大きな違いがあり普通の年は今とだいたい同じ、夏と冬に暑さ寒さによる体力低下や病気で死ぬ人が多いグラフになるのに対し、飢饉の年は収穫の秋に死者が最小になったところから右肩上がりに季節がめぐるごとに死者が増えていき初夏の一番食料の無い時期に最大になるグラフになっているのだそうですところが千葉県松戸市の本土寺という寺に残った室町~戦国時代(天正年間まで)の檀家等の死亡記録(過去帳)によると、記録のある約200年の間の年間死亡者グラフは先に書いた江戸時代の飢饉の時のグラフと相似した形になっているそうで、室町~戦国そしてもちろんそれ以前の時代は江戸時代の飢饉の状態が平常だった可能性が高いのでは?と考えられているとかその意味では江戸時代は飢饉の多い時代だったというよりは飢饉でない年が平常になった初めての時代だったと言えるのかもしれません参考文献:百姓から見た戦国大名、江戸時代の転換点
更に、社会実情データ図録に飢饉を半世紀ごとに比較しており、このデータから3回に渡って飢饉の頻度が大きく減少した時期があります。その内の1回が「16世紀の前半から後半にかけて、すなわち戦国時代以前から以後、近世にかけての低減」であり、その原因を戦国大名の一円支配の間接的効果を理由に挙げています。少なくとも、戦国時代後半以降と戦国時代前半以前で、飢饉の頻度が前者の方が少なくなっていきます。また、江戸時代に入って旱魃による飢饉から冷夏と霖雨を原因とする飢饉が主となります。これは、大河川の治水、灌漑用水路の整備によるものとこの動画で指摘があるように東北以北での稲作が換金率のいい作物として普及していったのが原因と言われています。また、動画で指摘されている幕府や東北諸藩の無策は、結局明治維新による版籍奉還や廃藩置県等を通じた幕藩体制の解体と国家統一を待たねばなりません。これにより、隣の藩を助けられないといった幕藩体制による制約が取り払われました。 honkawa2.sakura.ne.jp/0288.html
@@omugi1 僕の祖父と祖母なんだけどね 例えば白米ならすごく大切なものだって 大正時代の人なんだけど 父方だから 少し田舎で油を昔売っていたんだけど 昔の人の考え方って言うの 聞くとこういうこと思い出すよ実際にお米は違う人に作ってもらっているけど 今でもそこのお米が送られてきてそれを食べてます 米の粒が大きいんですよね 今日は孫だから行くと必ず 大事にされました
当時、東北のある役人が「これは人災だ」と記録したらしい。徳川吉宗の幕府中心主義によって、人為的にひこ起こされたのもある。特に東北が酷かった。システム的な要因としては、余裕のある藩からの援助が出来ない仕組みになってたってのもある。
薩摩藩は御蔵米を放出して琉球を救いましたね。
吉宗は「幕府」と言う組織(の財政)を立て直しただけだよなあ?
その立て直しする為に犠牲者が出たって話
@@朝川遥華 琉球で飢饉があったんですね。
@@pontarou01 元々沖縄は稲が少ししかできず、サトウキビ栽培を勧めたのも薩摩藩です。薩摩藩はサトウキビを買取り砂糖を売り、沖縄には松前昆布をもたらした。沖縄料理に昆布が豊富に使われる様に成ったのも、薩摩藩のお陰です。
おっさんになってやっと歴史が面白く感じられるようになりました歴史から学べる事が本当に多い
久しぶりに見に来たら画質やばぁいつるんつるん飽食の幸せ、本当そうなんですよね。当たり前になりつつあるけど、これほど幸せなことないです。食べ物となる生き物に感謝する心も忘れないようにしたいです。
本当に、本当に 感謝しながらいただいてます〜
いいお話をありがとうございました。後の世にもきちんと伝えていく事が、本当に大切だなと改めて思います。飢えることなく暖かい家で過ごせる事のありがたみを改めて考え直さなければなりませんね。うぷ主様のご健康を心よりお祈りしております。今年1年ありがとうございました。
いやー神回。濃い内容だわ。
食べ物を有り難く頂かないとバチが当たりますね。ご先祖様、大変な時代を生き抜いて下さり有り難うございます。
今でもプランテーション農業をやっている国は、作物の豊凶によって国の経済が左右されますし、またそうした国では植民地による従属経済のために先進国の経済状況に左右されやすいという意味でも、また当然プランテーション農業なので食料自給率が低く、そこに加えて部族、宗教間の対立などが起こるために飢餓が起こりやすいと言えます。
今年最後のゆっくり大江戸が飢饉ってのもなんだか複雑な感じやなぁ来年もまだまだコロナで厳しいと思いますが、投稿者さんも皆さんも病魔に負けないようにしっかり食べて寝て体力をつけてください。良いお年を
その半年後にコメント読んでます。 感慨深いなぁ ありがとうございます😊
江戸時代の飢饉の構造を気候、政治状況だけでなく経済事情ともからめて解説されている点大変勉強になりました
毎回楽しく勉強させてもらってます。来年もよき年であるよう願いながら次回の動画も楽しみにさせていただきます
何かでこの飢饉の事が昔話としてあったけど、末期にはカニバリズムが当たり前で、確か隣の人が「お宅の年寄りが死んだそうだが、腕一本でも分けてください、家の年よりも二・三日の内ですその時にお返ししますから」とか、婆さんが泣きながら「助けてくれもう食いたいと言わないから」と叫んでいるのを息子が打ち殺し、その肉を家族が貪ったとか読んだけど、もう信じられない光景が繰り広げられていたんだなぁと思った。食品ロスの解消を真剣に考えて行かないといけない。来年は経済はは冷え込むし、働いてもまともに生活できるかわからないの世の中だ。しっかりと考えないと取り返しがつかないことになる。大晦日に考えさせられる動画をありがとうございます。
それでも罪に問われないとかカオスよのう…
農村部は食料をまだ作れるからよい飢饉のときは山地から雑草を取って食べることもできただろう一番に酷かったのは都市部だよ当時は都市部の方が困窮していたし。都市生活者の生活も悪かった
@@御神誉黎さん 今の騒動にも重なりますね 田舎にいると、都市での騒ぎほどの危機感なく生活してます
正月飾りって藁とか蜜柑とか色々な食に関わるものが使われている食糧はそれだけ身近で尊いからこそ飾りに使われてたのかなって勝手に思ってる
蜜柑でなく橙だな。
これに脚気も流行るんだからたまらんね
世界的に寒冷期でこの頃ロンドンのテムズ川も氷ついていたんだよね
@@いいいあああ-b6u ロシアで核戦争があった可能性(一日一食OMADエンドゥ)。核の冬。
改めて将来の為に歴史を知っていることは大切だと思うわぁ。
大飢饉って漫画が少年ジャンプで短期連載されていた本宮ひろ志原作で、読むとトラウマものです
来年こそは、皆様にとりまして良き年になりますように。
一年間楽しめました、ありがとうございます。幕府の財源は回復を見せ、農村は疲弊、都市の経済はガタガタに昨今の政治にも思うことが・・・
「いざと言う時に備えるのが行政」…平時はそれを「行政の無駄遣い」と叫び、実際被害を受けては「行政の無策」喚く。それが庶民。
これって、かこのじえい・・・。災害対処感謝してます
米を備蓄すると、謀反の疑いをかけられる。
御意、お上と国民は相応の理が働いています。
コロナにも同じ作用が働いてますね。
令和って暴動起こる?
中央の額の「飽食の幸せ」をかみ締めつつ、年を越そうと思います。良いお年を。
飢饉ではないけど、ガダルカナルや東部ニューギニアから生還した兵士の証言による飢餓状態はもう生き地獄という例えすら生易しいほどの惨状だと感じました。
帰還する船で一般人と同乗した兵士が他人の弁当を見た途端、反射的にひったくって手づかみで食べてしまったと証言してました。
仙台藩の北上川河口付近の新田開発に従事した足軽(鉄砲隊)の末裔です。この付近は飢饉だけでなく明治、昭和の三陸津波、311の大津波にも被害を受けています。311でとうとう新田開発以来の集落が無くなってしまいました。
長面一帯は海の中に沈んだ、と地元の人から聞いても当初は信じられなかったです…。( ノД`)
郷土史にも治水の歴史が載ってますね。北海道への入植者が多かった地域だったとも記憶しています。近年やっと落ち着いたと思ったら。。
俺の先祖はかなりの豪農で名字帯刀も許された名主だったらしいがな江戸末期に起こった一揆で命を落としている。
@@御神誉黎 ほんとに一揆かな。戊辰戦争かも。うちもお宅同様、半分農民だったんですが、戊辰戦争で亡くなった先祖います。
@@りか-d4h ワイの先祖も名主で、元々室町以来須田氏の家老だったとか。米澤藩の上杉鷹山公に楯突いた須田満主は、ワイの先祖の主君の末裔ですね。
ご先祖様方々に感謝するンゴ
勉強になりました。3月までまだ間があるので、できれば本年度中に他作品の投稿をお待ちしています
さつまいも🍠の普及が良かった❗青木昆陽が推進した芋栽培。
麦飯と芋中心で育った幼少時代の人達は現在でも結構いる、自身を含めて。水稲が出来ない土地だったのが大きな要因ではあったが。
「江戸時代の転換点 水田の激増は何をもたらしたのか」という本によると江戸時代初期の田んぼは早稲から晩成稲、もち米、赤米、長粒種(タイ米などの粒が長い品種)などの多品種をあえて同じ田んぼに植えて、病害虫や気候などの被害を少なく抑えるようにしていたのですが美味しくて量が取れるという意味では短粒米(いわゆる日本のお米)の晩成種に敵う物が無かったため次第にそればかりが植えられるようになり飢饉の際の被害を増すことになったという話も出ていますまた年貢は米にかけられるのが多く、その他の作物にかけられる年貢は無いか低額であることが多かったため、西日本から関東まででは刈り取りの終わった田んぼで芋や蕎麦、菜種、一部の野菜などを植える二毛作が普通になっていたのですが、東北はそういうわけにもいかずそれが東北諸般の米依存度の高さの原因になっていました
極端な例だと幕末薩摩では総収入が米換算だと200万石に達していたという計算があるのですが、うち米はたったの31万石ほどだったそうです
@@とりことりこ-k4f 薩摩というと貿易で稼いでいるイメージですが、中国や東南アジアが相手なんでしょうか?
@001 lonestar 基本的に中国です中国への輸出品は主に乾燥昆布や干し鮑、干しナマコなどでこれは長崎を通じた貿易と同じです。幕府は中国を中心とした外国とのチャンネルを長崎以外にも持っておきたかったので、薩摩が琉球を通じて行う貿易を黙認していましたが、調所の改革以降薩摩の貿易量が異常に増えて長崎を通じて行う貿易に影響が出るほどになりました。流石に幕府も度々薩摩に密貿易の縮小を要請したのですが当時の薩摩藩は将軍の親族だったのでせいぜい「藩に商人たちが行う密貿易の取締を要請する(藩をあげて密貿易をしてるのは公然の秘密なのに)」という形で腰砕けもいいところでした。薩摩に(元々は蝦夷の)昆布や干し鮑を流していた越後や富山の商人が密貿易の罪で代わりに罰せられたりしてます。代わりに中国の様々な産品が越後や富山の商人を通じて江戸や上方に流れました。富山といえば、の薬売りの漢方薬の材料もそういうことですその他琉球から大阪向けの航路で砂糖が大量に売られました。高価な砂糖の収益は莫大で薩摩藩の収入の4割超が砂糖だったのでは?という説もあります幕末にはUSAの南北戦争で南部の綿が輸出されなくなり世界的な綿不足が起きたのにつけこんで日本の綿を買い込みグラバーに売ったりしてます。あとなぜかアジアに来ていた欧州人に人気だった日本茶も売りさばいてます。しかも当時は鹿児島茶の生産量が少なかったので宇治茶などを買ってきて売っていたそうです
とりことりこさん丁寧なお返事ありがとうございます。中国へ乾貨を輸出、南から砂糖を輸入とは。さぞ儲かったでしょうね。お茶はイギリス人が買っていたのでしょうか、中国から買う金欲しさにアヘンを輸出していたぐらいですし。
飢饉に対する見方が変わりました。ありがとうございます。
飯食いながらのながら見で大変お世話になってます。
明けましておめでとうございます!ずっと見たかった話しでありがたい!
17世紀は地球が凍った世紀といわれるほど寒冷化がひどくて飢饉が相次いだ。
17世紀の元禄の飢饉 寛永の飢饉18世紀の天明の飢饉19世紀の天保の飢饉など江戸時代の間に起きた冷害・旱魃・水害などの異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の飢饉は35回あった。
飢饉が起こるなり農民の逃散が起こるなりして労働人口が減れば藩の収入にも打撃になるはずなんだけど、この人口減をどうリカバリーしたのかがよくわからないんですよね。
各藩による農民の奪い合い。逃散農民が流浪してるとリクルートして自領の農民にする。農民は「財産」だから諸藩も必死さ。
@@さん名なし-h8b さんよく江戸幕府(というより武士階級全般)の対農民政策を表す言葉で「百姓は生かさず殺さず」というのがありますが、 自領の百姓が死んでしまったり逃亡してしまうと、藩の収入が減って自分たちの生活にも影響するので、よほどのバカ殿様でない限り、百姓家を大切に取り扱う筈なんやけどなぁ🎵(笑)
@@さん名なし-h8b 行き過ぎた重税で逃散を招いたりすると学習するはずなんですけどね。藩政改革の話はいたるところにあるんですが、仙台藩はどうしたんだろうと。天保でも同じこと繰り返しているから、ヒエラルキーが維持されれば大きさにはこだわらない縮小均衡OKだったりしないだろうかと疑問に思ったんですよ。
浮世絵に描かれた大飢饉の様子はおどろおどろしさばかり強調し、現実感が希薄なものが少なくありません。江戸においては米の値上がりこそ痛いものの、多くの人々にとってそれ以上の事ではなかった雰囲気すらありまます。大工の手間賃は米価スライドだし、武士などむしろ現金収入が増えたはず。困窮した階層の人々こそ打ち壊しを行いましたが、江戸と地方において危機感の共有など全くできませんでしたね。
国の政策を語るべきで前提となる「情報」が東京のマスメディアに握られ、地方の実情を無視した状況と類似しますよね。
@@さん名なし-h8b 無為無策無気力無能の政権に対する正義の鉄槌を期待します。
今歴史の授業でここら辺の時代をやってるので助かります
ナポレオンのロシア遠征中、核が使用された可能性。UA-cam(一日一食OMADエンドゥ) 核戦争の冬。信じる信じないは自己責任。
18世紀から19世紀にかけて、50年に1回飢饉が起こり、しかも天明・天保の大飢饉では5年以上食糧難の時代が続いた……想像するだけで恐ろしいです自分がその時代の人間だったら生き延びられた気がしませんね野垂れ死にか、橋から……という最期を迎えそうです
漢王朝末期に王莽の簒奪と、その後の混乱で五千万人いた人口が二千万まで減少したと言われる。このような大陸における大混乱と比較すれば、日本の飢饉や戦国時代の混乱は穏やかなものだったと言うしかない
背景いいね。なんか落ち着く
東日本、特に東北での食料不作が、226事件~大東亜戦争の原因の一つとも...現在の日本でも食料を自給のみにすると超巨大飢饉が起きる。日本の食料自給率めっちゃ低いからね~
昔、高校の副担任が三閉伊一揆の研究してて本も出しました。岩手南部藩下の農民が仙台伊達藩に直訴する話し。( ̄ー ̄)
東北の食料不作もですが、日本統治下の朝鮮半島からの外米輸入による米価下落と農業所得の慢性的減も要因に数えられるかも。それと気候的に当時の米品種では冷害に弱いものしかなかったこともあるかも。更には、商業作物に転換するか、工場を誘致して所得を増やすか等の地域経済構造転換が遅れたのもあると思います
名前を忘れてしまったけど、お米を強くして寒い地方でも作れるようにしてくれた人物に、とても感謝したい。良いことがなくても人間関係に、つまづいてばかりでも、3食をあたりまえのように食べることができる毎日に、とても感謝したい。残飯が、とても多いから、いつかは、罰があたってしまうやろうね。
今は温暖化で、美味しいお米の採れる地域が北上。より効率的な手法と面積を利用して収穫できる様になりました。もう、秋田や南魚沼の米はランクダウン。食味審査の上位に青森、北海道の効率的な土地利用による美味しい米が作られているんだよね。酒米も、新しい品種、北の大地に合った物を収穫。まともな酒米が取れなくなり、醸造の温度管理もきつくなったかの地から、若い杜氏のかたが大勢移転してますよ。ま、ずいぶん前から、その酒蔵で造れる量以上の製品が「樽買い」ブレンドで⚪乃⚪梅として高価に流通してるのが今の現状なんだろうな…以前勤めていた会社のオーナーが、使ってくれと箱で「寒梅」持ってきたが、いわゆる無等級、「白無垢」混じり気なしの寒梅で、確かに昔は、とても美味しい日本酒だったよ。
明治26年(1893年)に設立された農商務省の農事試験場が作られ、明治37年になって、大阪府にあった畿内支場の、加藤茂苞という人が国立の試験場で最初に品種改良を始めた。山形県でも昭和10年(1935)年には、尾花沢試験地でも品種改良が始まり、その後、昭和57年(1982)に尾花沢試験地がなくなってからは、庄内支場だけでおこなっています。
歴史に学ぶことの大切さを教えて頂き、ありがとうございました。来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
江戸時代の経済学的なアプローチはより掘り下げていただきたいと思います。イシュー的には視聴回数を集めるには不向きかもしれませんが、大変有益と思います。大正後期~昭和初期の東北農村の状況にも通じるところがあり、ひいては日本があの悲惨な戦争に突き進んでいった遠因でもありました。まだまだ掘れる話題だと思います。
都市圏に住む我々は今現在もこういう歴史を経てきた田んぼから採れた米を食らって生きています。
戦国時代の終了と共に農村に人が定着、生産システムが出来上がりつつあるところで飢餓輸出による無理な取り立てでシステムが破たん。これは世の中に打ち出の小槌は存在しないことを忘れている為政者がやりがちな失敗ですね。非常に良く纏まっており、ためになりました。
いつも楽しく視聴させております。大晦日にこのテーマを出すところに、うp主様のセンスを感じます。食事出来る事への感謝をしつつ、新しい年を迎えたいと思います。来年も楽しみにしています。ありがとうございました。
その半年後に観てます〜 素晴らしく、考えさせられます〜 ありがとうございます〜
背景の川、どこだろう分かる方いる? なんか風情あっていいなと一瞬で思った
浅間山。
幾度も小氷期が来たんですよね。
米はもともと温暖なところで作るもので 世界的にも米と言えばタイやベトナムのような南方の赤道に近い地域が多い。中国だって黄河から北の方は麦作で、米作ってるのは長江のある南の方だけなのに、日本は江戸時代から東北でも大量に作ろうとしていたからなw冷害とかでうまくいかないのは当然。もともと米は寒さに弱い。 新潟に始まるコシヒカリのように、東北、北海道、新潟のような寒い地域、豪雪地帯でお米を作れるようになったのは絶え間ない品種改良と先人の苦労が大きい。
江戸時代に米価を下げることに対する抵抗が強かった事情について補足させてください。江戸時代はご案内のとおり、米を一種の通貨のように扱うことで成り立っていました。農民から幕府に収める税の類や幕府から公務員である武士に支払う俸給も米で行われていました。当時の支配層である幕府の一般認識としては農民にとっては米が不足すればその価格が上がって少量の米で生活でき米が余って価格が下がっても大量に売れば生活できるというものだったのです。翻って武士にとっては、毎年支給される米の量は決まっているのですから豊作凶作による米価の変動が収入に直結し、補う方法がありません。多くの禄高を持つ上級武士にとっては多くの経済的損失が発生するだけでなく少しの米しか貰えない下級武士にとっては米価が下がると生活できなくなります。そういう理由があって幕府にとっては農民・町人の反乱より怖い武士の反乱を避けるために米価を下げることに抵抗が強かったのです。ちなみに名君と言われる吉宗が「米将軍」と呼ばれるのは米価が上がれば下げようとし、下がれば上げようとする米価の安定に腐心し続けたことに由来しています。
世界的な小氷河期と火山の冬が重なったらしいよね。地震後の地殻変動による火山噴火の多い時代だから、火山の冬の到来を懸念しているよ!
今は北海道が全国一の稲作地帯である皮肉基本は夏の気温が高くなったことが大きいでしょうね
幕府にここまでひどい目に逢わされても戊辰戦争の時は幕府側についてしまう東北諸藩・・・そして薩長にひどい目に逢わされる・・・ああ東北・・・・・
すみませんね。九州の人間が東北まで出て来てでしゃばって。言い訳させてください。当時は薩摩も決して安泰とは言えず、桜島や霧島連山の火山灰土の土壌で米がまともに育つわけもなく、関ヶ原の合戦の後に薩摩に飛ばされた島津は最後まで立派な城を建てることもなく、慢性的な財政難から無理矢理奄美諸島や琉球を薩摩の支配下に置いて、屋久杉やサトウキビなどで薩摩の人々は何とか生きてきたのです。薩摩の人々が生き永らえてきたのは奄美諸島の農民の血と涙と汗の結晶なのです。また、薩摩は長崎に近いことから、西洋の技術も学び、武器の高度化などもありました。恐らく島津は辺鄙な場所に飛ばした幕府に対する不満はあったと思います。虎視眈々と面従腹背で倒幕のチャンスを伺い、幕府が完全に死に体になったところで島津は長州に持ち掛けてタッグを組み、教科書には出てきませんが、佐賀鍋島の反射炉による大砲作りなどの高度な技術のバックもあり、倒幕に至ったと思います。
@@SONGOKU-uo1mb 同じ九州の人間だが、誤りが散見されるので訂正させていただく。島津氏は関ヶ原の戦いで薩摩大隅に飛ばされたわけではないと思う。確か、鎌倉時代に守護として入国したのが始まり。 関ヶ原の戦いで敗戦側についたが、藩の総力をもって領地替えに反抗する戦闘準備や外交の結果、一応本領を維持できたので江戸幕府に対する不満はないが、恐怖と警戒はあったと思う。 最初から倒幕をしようと考えていたわけでもないようだし、幕府官僚が駄目すぎた(通貨改鋳しないことによるデフレ放置、統一政府を目指すための改革を怠ったこと(全国に対する所得税)による慢性的な財政難、開国させるために来るペリーの日程がわかってたのに関わらず対処が決まってなかった、開国時の金銀交換比率の設定誤りによる金流出等々)ので、戦意のある長州藩を表に立て代理調達した武器を売却し、長州征伐の結果で幕府に勝てる見込みができたから、倒幕を進めていったと思われる。 佐賀藩と技術的な連携もなかったと思う。(あの藩は閉鎖的でアームストロング砲は薩摩藩は作れていない、小銃の弾薬の内製化はできていたようだが)
@@よき一日を なるほど。ありがとうございます。
ここら辺からの農村の生活というのも見てみたい気がします
司馬衷「米がなければ肉を食えば良いのじゃ」→西晋滅亡光格天皇「救い米を出すべき(ガンギマリ)」→権威爆上がり
民衆の事を一番考えているのが武士ではなく天皇家すなわち皇室という・・・。
曲淵景漸「米が無ければわんこやにゃんこを食べればいい、 ワシも貧困した時は食った」→左遷
@@どらやき-z1w この発言は他の人物が言った説があるのですが、天明の打ち壊しの際の対応の遅さで左遷されたのは事実です。 しかし有能な人物であったので、松平定信が老中首座に就任すると勘定奉行として取り立てられました。
一部の人が名君って言われたのも、他が無能愚昧な暗君がおおかったせいかね? 島津に暗君なしって言われてるけど、実際には他藩より重税であったとか聞くし。水戸でも、水戸黄門で有名だけど、「大日本史編纂」で重税だったというから、案外、人のうわさなんてならないよね。
水戸藩が財政状況が苦しかったのは、御三家の面子を重視して表高より実高の方が低かったからだ天下普請と呼ばれた各大名に求められた役割は表高を基準に決めるわけだから。このため水戸藩は藩の石高と比較して苦しい役割を求められた江戸期の中期以降は新田開発などで江戸初期に定められた表高より、藩の実際の国力である実高の方が多い藩が多かったのだがそれでも多くの藩が財政状況は火の車だったのだ。実高より表高の方が大きければ、水戸藩の財政が苦しくなるのは当たり前だ
島津は桜島と霧島連山と開聞岳に囲まれたまともに作物が育たない火山灰土で、土壌改良の余地もなく、奄美諸島や琉球王国を支配下に置いて重税をかけるしかなかったと思います。鹿児島県にはお城はありません。「人を以て城と為す」と言い、最後の藩主の島津斉彬まで屋敷のような家だけで、立派な城を持つことはありませんでした。鹿児島市に城山公園はありますが、お城があったわけではないのです。もしかすると、薩摩島津も虎視眈々と倒幕を狙っていたのかもしれません。徳川幕府が弱るまで待って待って待って、その間に西洋の高度な武器や道具に力を注いでいたのかもしれませんが、薩英戦争や長英戦争などの紆余曲折もあり、まざまざと日本と海外の戦力を見せつけられた薩摩と長州がタッグを組んで、西郷隆盛ら数人が知恵を絞って無血会場に導き、新しい政治になったと思います。
日本各地に必ず1人はいる義民も特集して欲しいな。飢饉と近しい関係だから
浅間山のお膝元、嬬恋村に住んでいたけど、噴火時は大変だったらしい。鎌原観音堂に逃げ込み、難を逃れた村民が、親や子を失ってしまい、生き残りで擬似家族を作って、何とか村を存続させたとか。あと、キャベツ栽培は今でもギャンブルみたいなもんだって言ってたね。いい車にみんな乗ってたから勝てるギャンブルなんだろうね。
出入りする金額が大き過ぎると感覚が狂って浪費をする。あと車社会だったり、見栄が全てで村の中で競い合う。でもまあ農家は金持ちだらけよね。
結局泣くのは民、百姓。
田沼時代を全否定する寛政の改革は飢饉対策の酷さも側面にあったのか。しかし、天明の大飢饉の凄まじさは、数値としてみせられると絶句する。
田沼時代の商業資本主義・金融資本主義が格差を広げた、だがそうした社会的矛盾も豊かで食えれば単なる社会不満で済んでいたが、一旦飢饉などて物価が高騰すればそうした社会的矛盾は一気にルサンチマンとなり、そのルサンチマンは伝播・伝染し暴動・うち壊しになる。政治、特に階級制・専制政治ならば、経済は政治・支配の一手段に過ぎないので、そうした資本主義経済が怨嗟の基になり社会不安ひいては幕政への不満に繋りかねなくなれば、躊躇せずに資本主義経済を批判し全否定し、幕政改革と称し生贄にしたのだろう。
田沼時代は天明の大飢饉よりまえから、田沼の治世38年の間、天変地異、異常気象が多発して一揆も都市騒擾も多発した時代だったのに田沼は処罰の厳罰化のみで対策に乗り出さなかったですからね。一次産業が8割に達する農業国家だというのに、もっと足元をしっかり見ることはできなかったのだろうか。
食べ過ぎ・飲み過ぎで、お腹が変な状態でこれ見てると罪悪感・・・
毎回楽しみにしています。来年も楽しい動画をよろしくお願いしますね(≧∇≦)b
毎日ジュースのめる現代...最高っす!
明治維新に対して「権力ほしいから起こしたクーデター」だの、「クーデター起こさなくても開国して近代化したのに」と思っていましたが、考えさせられる内容の動画ですね。
果たして、幕藩体制下で、自由民権運動を起こせたのか?自由民権運動は、五箇条の御誓文の公布を前提としたものだぞ。
今の状況との共通点が多すぎてぞわぞわする
戦は梳くごとく、飢饉は剃るごとし
ウコギは食える
こうして見ると、鬼滅の刃の鬼より遥かに外道だよなぁ。
大豆の連作が凶作の原因ときいているけれど江戸時代は先物取引が盛んだったのも原因とか
需要側主導の取引所取引制を敷かれたことで、供給側の東北は悲惨になったでしょうね
近世以外にも、自分の代で財政健全化の実績を上げたいキャリア官僚が政治家や高齢選挙民を言いくるめて疫病で経済が大幅に後退する状況で緊縮財政の旗を降ろさない役所(と大新聞)があった時代があるらしいですよ。財務省って言うらしいですけど。巨額出動って言っても、ほとんどの国民や被害を受けているのと関係ない業界への補助金や交付金で、真水は1割もない。なんでこんな時に怪しげな脱炭素に大枚放り込むんだ。
石川啄木ではなく宮沢賢治ではないですか?
仙台藩は知行地を貰う藩士、碌を支給される藩士、給人地を貰って自分で耕す半農の藩士、中には陪臣に貸して耕させるほとんど地主みたいな藩士もいて、さながら侍階級が当時の日本のミニチュア状態。米のおかげで真っ先に興隆し米のおかげで真っ先に衰退するのは必然で、後期は士分すら餓死したと言うのは大いに理解出来る。
西日本の雪の降らない地方は、二毛作で、農民は米を食べず、麦を食べていました。享保の飢饉の餓死の原因は米だけでなく、麦が全滅したためです。
20:47「被害が拡大してからようやく場当たり的な…」行政が何をしても叩きたいタイプの民意を引きこもりキャラに読ませてるの、バランス取れてますね…
江戸時代の緊縮財政状況による経済の低成長は、現代も同じことの繰り返しですね。派遣=小作人、コロナ=疫病、竹中=田沼、さらに少子化というオマケ付き食料自給率がトコトン低い現代で飢饉にならないことを祈ります。
天明か天保の大飢饉のとき、東北の村で多数の死者の遺体を弔っているとき、首に大きな袋をかけていた遺体があり妙に重い。袋の中を見てみたら100両の金があった。※つまり金をどれだけ積んでも食糧がもう手に入らない状態で死んでいった・・・・・・ という話があったようです。
えー! 哀しい😱 悲惨です〜💦💦💦
11:57 経済成長でインフラになるのに╳→経済成長でインフレになるのに○ ですよね?(^^;)
私は飢饉と言うと思い出すのが「上杉鷹山」東北、米沢藩に17才で婿養子に成った人です。天明の飢饉で1人の餓死者を出して無い上にあちこちから米沢に来た人々も一緒に米を配給して助けた人でも有ります。小説は今でも探せば売ってると思います。1度読むとファンに成りますよ〰️昔の人なのに。
ケネディが尊敬する日本人と言ったとき、日本人記者が誰も知らなかったと伝えられていますね。隠れた名君ですね。
日向国 高鍋藩 秋月家の二男 10歳で遠縁上杉家の婿養子に入り 17歳で破産寸前の米沢藩 藩主となる。
おせちや雑煮にかぶりつきながら温かいお部屋で動画を見て過ごせる幸せあけましておめでとうございます日本人も飢えに苦しむなんて経験を再度することになるのだろうか…昨今のコロナ禍はそれくらいのインパクトがある場当たり的でもなんでも重い腰を上げるだけマシかもと思いなんとか乗り切っていくしかないうp主も皆さんもどうか無事に一年をお過ごしください
gbmはどこのを使ってますか?
そのうえ江戸時代は日本史上もっとも平均身長が低かった(=タンパク質・カルシウム摂取量が少なかった)と判明してるからね。食に関しては本当に貧しい時代だったはずだよ。そりゃあ明治の文明開化をみな喜んで受け入れられたわけだ。
これはその通りでやっぱり輸送力が低いことが原因の1つだった。飛脚なんていう人力で物を運ぶのはダメなんだ。車がなくても馬があるならそれを使わなきゃダメ。
そういえば暴れん坊将軍には享保の飢饉の話はあまりでてこないな。江戸が舞台だったからか
先物取引はリスクヘッジ機能があると理論上はされているようで、先物取引の会社もセールストークに使用していますが、歴史上は被害を拡大する方向にしか動いていませんね。
いつもためになる動画の配信をありがとうございます🐸良いお年をお迎えください(*´◡`*)
今年はサバクトビバッタがヤバい。アフリカで大飢饉
江戸時代もデフレと増税で散々な目に遭ったのに平成令和も似たようなものだな(´・ω・`)
みなもと太郎先生も「風雲児たち」で幕末の動乱が江戸幕府開府以来すでに定まっていたことという説を採用していたからこそあの漫画を関ヶ原の戦いから始めたわけで、結局幕藩体制というものが、国内外の危機的状況を解決するには不向きな体制だったということだよな。確かに地方に統治を丸投げできる幕藩体制は、統治コストを極端に少なくできるし、平和な時代においてはこれほど効率の良い統治体制はない。しかしそれ故に、いざ危機に陥れば、連携の難しさから対応が後手後手になりがちとなったり、さらには地方が言うことを聞かなかったりするというリスクもはらんでいたのである。そのために、幕府はその初期において強大な軍事力を以て諸大名を押さえつける武断政治を行っていたのだが、由比正雪の乱などそれによる弊害を避けるために、文治政治に切り替えていった。これは、儒教を元にした、秩序による政治であり、君臣の序・上下関係という「正統性」による政治を志向したものである。そのために朱子学が盛んになったのであるが、これは、幕府の統治の正統性が揺らいだとき、すなわち幕府よりも本来上位の存在である天皇の権威が人々の前に現れたとき、一気に崩壊するという諸刃の剣でもあった。すなわち幕藩体制の弱点がより強化された形ともなった。幕府の権威が絶大だった頃はそれでも良かったのだが、それが低下していく江戸後期には尊王思想の拡大によりそのデメリットがフツフツと出てきていたのである。その矛盾が解決されることなくついに爆発したのがまさに幕末の時代だったのである。それゆえに、公武合体など応急措置を施したところで間に合うはずもなかった。結局の所、江戸幕府は幕藩体制を採用した時点で、滅亡へのカウントダウンを歩んでいたのである。であるからこそ、天皇の権威と幕府の中央政府としてのアドバンテージを最大限に生かした大政奉還という手段を講じた徳川慶喜の政治的バランス感覚というものは凄まじいものだとも言える。
こういう大飢饉があると人肉ですら食べなければいけないからな、食べ物を粗末にするなという言葉はこの頃に生まれたんだろうな
助けられるのに助けなかったのか、そもそも無理だったのか後からならなんとでも言える隅田川に飛び込めなくなったので京浜東北線に飛び込む、やばい雰囲気よちらほら増えてるホームレスも数より質がヤバい働けるのに働かないホームレスは勝手にしろでよかったけども
東北地方で飢饉になってる時に、江戸で大食い大会やってたりした事もあったらしい。俺の知り合いが言うには、先祖が隠し田持ってたおかげで飢饉の時でも餓死者出なかったらしい。当時の搾取が如何に酷かったかって事だな。
@@山中達雄-j3p 大正時代に福島県の白河で飢饉あったようです。
天保の大飢饉時の九州の藩の動向が知りたいです、教科書に書いてない。予想はノーダメージかつ高値になった米を輸出した結果、金が九州に流れてその金で外国との密貿易が盛んになり最終的に幕末が訪れたと考えてます。
平和ぼけの平成を経て疫病に苦しむ現在冷や水をかける動画 ナイスです
う〜む。米を金に変えると今も日本の政治構造は変わらん気がする~状況的にも今年の冬はなんかうすら寒い・・・・
伊予松山藩は享保の飢饉のとき農民が何千人死んでも藩士は一人も死ななかった。かつ、被害を水増しして幕府に報告したから藩主は蟄居、その後謎の死を迎えている。
俺の母方の曾祖母が産まれた年が飢饉だったので危うく間引かれるところだった。明治になっても飢饉はあった。
当時から有名なうどん県はこの動画を見る限り特殊やったんやね🤔
今と違い、他国からの輸入で急場をしのぐ術もなかった江戸時代。飽食になれた現代人の想像を絶する、昔の飢饉の惨状。改めて、食の生産と流通に携わる方々への感謝を忘れずに食べ物を大切にする生活を送りたいと思います。よい動画を掲載して下さり、ありがとうございました。
その現代でも農林水産省は、
減反・転作とかアホな政策してたんだからな。
今更、学校には通えないけど、歴史(特に江戸時代)を勉強したいと思っていた時に
こちらのチャンネルと出会い、動画で勉強が出来て、とても有難かったです。
来年も、動画を楽しみにさせて頂きます。
私の登山仲間に福島出身の女性がいたが、彼女は、江戸時代の度重なる飢饉により、農民が大量に餓死し、田畑を維持できなくなり、隣の米沢藩から養子の様な形で農民を多く補充していたといっていた。だから彼女の親戚は山形県の人が多くいるとも言っていた。以前、盛岡市の近郊を旅したときは、道端にある餓死者を慰霊する地蔵や慰霊碑が数百メートル間隔にあり、その異常な多さに驚かされた経験がある。
あえてこのタイミングでこのテーマ、私は敬意をもって視聴させていただきます。
飢えずに年越せるのは幸せよの
うん!そのとおりです!
来年の話をすると、
「鬼が笑う」
といったのもむべなるかな。
そうよの。
慣れって怖い
そうでございますなぁ、お代官様
飢饉は半分は人災だというのがよく分かりますね。アイルランドのジャガイモ飢饉でも、イギリスは飢餓輸出を続けたわけだし。
飢餓輸出といえば、1930年代に旧ソ連のウクライナ等で発生した「ホロドモール」が有名ですね。
最近の「アラブの春」もウクライナの小麦不作が、輸入先のトルコの供給不足となり、トルコが釣られて自国産の小麦をエジプトに輸出しなくなった結果のエジプト・リビアの食糧難が起因ですからね。
50年前、SFにいました。アパート女性オーナーがアイルランド、この飢餓を書いた本を渡された。途中で読んで気が重くなりやめた。
イギリスってそんな鬼畜なことやってたんですか。流石ゲルマン人
食糧自給率が低い日本。
それは農林水産省の減反
政策のせいもある
家の前に天保飢饉の石碑があるけど壮絶だったんだなぁ…
ご先祖様よく無事に生き残ったなぁ
地方による
実は貴方の祖先は、
「全滅家族の耕作地に後釜で入植」しただけかもしれませんよ?
別に生き残ったわけじゃないと思うぞ
お前の先祖は間抜けだ
俺もそう思う、祖父なんて戦争のときに頭に弾丸打たれてますもん
東北の地域は全滅してたぞ。
天保の大飢饉はまだ200年経ってないから割と最近の出来事なんだよなぁ
富士山の大噴火で甚大な被害を被った富士山の麓の農村とか忘れたらいけない
@@Laurel-2.5clubs 宝永か
松前藩は米が取れないので石高は一万石扱いで藩として低く見られたがイワシ等を交易して莫大な利益を挙げて参勤交代も数年に一回で負担も少ないので松前藩は外様大名では裕福な藩になり松前の庶民は東北が飢饉でも米が食えた。
江戸時代の普通の年と飢饉の年では人々の亡くなる季節に大きな違いがあり
普通の年は今とだいたい同じ、夏と冬に暑さ寒さによる体力低下や病気で死ぬ人が多いグラフになるのに対し、飢饉の年は収穫の秋に死者が最小になったところから右肩上がりに季節がめぐるごとに死者が増えていき初夏の一番食料の無い時期に最大になるグラフになっているのだそうです
ところが千葉県松戸市の本土寺という寺に残った室町~戦国時代(天正年間まで)の檀家等の死亡記録(過去帳)によると、記録のある約200年の間の年間死亡者グラフは先に書いた江戸時代の飢饉の時のグラフと相似した形になっているそうで、室町~戦国そしてもちろんそれ以前の時代は江戸時代の飢饉の状態が平常だった可能性が高いのでは?と考えられているとか
その意味では江戸時代は飢饉の多い時代だったというよりは飢饉でない年が平常になった初めての時代だったと言えるのかもしれません
参考文献:百姓から見た戦国大名、江戸時代の転換点
更に、社会実情データ図録に飢饉を半世紀ごとに比較しており、このデータから3回に渡って飢饉の頻度が大きく減少した時期があります。その内の1回が「16世紀の前半から後半にかけて、すなわち戦国時代以前から以後、近世にかけての低減」であり、その原因を戦国大名の一円支配の間接的効果を理由に挙げています。少なくとも、戦国時代後半以降と戦国時代前半以前で、飢饉の頻度が前者の方が少なくなっていきます。また、江戸時代に入って旱魃による飢饉から冷夏と霖雨を原因とする飢饉が主となります。これは、大河川の治水、灌漑用水路の整備によるものとこの動画で指摘があるように東北以北での稲作が換金率のいい作物として普及していったのが原因と言われています。また、動画で指摘されている幕府や東北諸藩の無策は、結局明治維新による版籍奉還や廃藩置県等を通じた幕藩体制の解体と国家統一を待たねばなりません。これにより、隣の藩を助けられないといった幕藩体制による制約が取り払われました。 honkawa2.sakura.ne.jp/0288.html
@@omugi1 僕の祖父と祖母なんだけどね 例えば白米ならすごく大切なものだって 大正時代の人なんだけど 父方だから 少し田舎で油を昔売っていたんだけど 昔の人の考え方って言うの 聞くとこういうこと思い出すよ
実際にお米は違う人に作ってもらっているけど 今でもそこのお米が送られてきてそれを食べてます 米の粒が大きいんですよね 今日は孫だから行くと必ず 大事にされました
当時、東北のある役人が「これは人災だ」と記録したらしい。
徳川吉宗の幕府中心主義によって、
人為的にひこ起こされたのもある。
特に東北が酷かった。
システム的な要因としては、余裕のある藩からの援助が出来ない仕組みになってたってのもある。
薩摩藩は御蔵米を放出して琉球を救いましたね。
吉宗は「幕府」と言う組織(の財政)を立て直しただけだよなあ?
その立て直しする為に犠牲者が出たって話
@@朝川遥華
琉球で飢饉があったんですね。
@@pontarou01
元々沖縄は稲が少ししかできず、サトウキビ栽培を勧めたのも薩摩藩です。薩摩藩はサトウキビを買取り砂糖を売り、沖縄には松前昆布をもたらした。沖縄料理に昆布が豊富に使われる様に成ったのも、薩摩藩のお陰です。
おっさんになってやっと歴史が面白く感じられるようになりました
歴史から学べる事が本当に多い
久しぶりに見に来たら画質やばぁいつるんつるん
飽食の幸せ、本当そうなんですよね。当たり前になりつつあるけど、これほど幸せなことないです。食べ物となる生き物に感謝する心も忘れないようにしたいです。
本当に、本当に 感謝しながらいただいてます〜
いいお話をありがとうございました。後の世にもきちんと伝えていく事が、本当に大切だなと改めて思います。
飢えることなく暖かい家で過ごせる事のありがたみを改めて考え直さなければなりませんね。
うぷ主様のご健康を心よりお祈りしております。今年1年ありがとうございました。
いやー神回。
濃い内容だわ。
食べ物を有り難く頂かないとバチが当たりますね。
ご先祖様、大変な時代を生き抜いて下さり有り難うございます。
今でもプランテーション農業をやっている国は、作物の豊凶によって国の経済が左右されますし、またそうした国では植民地による従属経済のために先進国の経済状況に左右されやすいという意味でも、また当然プランテーション農業なので食料自給率が低く、そこに加えて部族、宗教間の対立などが起こるために飢餓が起こりやすいと言えます。
今年最後のゆっくり大江戸が飢饉ってのもなんだか複雑な感じやなぁ
来年もまだまだコロナで厳しいと思いますが、投稿者さんも皆さんも病魔に負けないようにしっかり食べて寝て体力をつけてください。
良いお年を
その半年後にコメント読んでます。 感慨深いなぁ ありがとうございます😊
江戸時代の飢饉の構造を気候、政治状況だけでなく経済事情ともからめて解説されている点大変勉強になりました
毎回楽しく勉強させてもらってます。
来年もよき年であるよう願いながら次回の動画も楽しみにさせていただきます
何かでこの飢饉の事が昔話としてあったけど、末期にはカニバリズムが当たり前で、確か隣の人が「お宅の年寄りが死んだそうだが、腕一本でも分けてください、家の年よりも二・三日の内ですその時にお返ししますから」とか、婆さんが泣きながら「助けてくれもう食いたいと言わないから」と叫んでいるのを息子が打ち殺し、その肉を家族が貪ったとか読んだけど、もう信じられない光景が繰り広げられていたんだなぁと思った。
食品ロスの解消を真剣に考えて行かないといけない。来年は経済はは冷え込むし、働いてもまともに生活できるかわからないの世の中だ。しっかりと考えないと取り返しがつかないことになる。大晦日に考えさせられる動画をありがとうございます。
それでも罪に問われないとかカオスよのう…
農村部は食料をまだ作れるからよい
飢饉のときは山地から雑草を取って食べることもできただろう
一番に酷かったのは都市部だよ
当時は都市部の方が困窮していたし。都市生活者の生活も悪かった
@@御神誉黎さん 今の騒動にも重なりますね 田舎にいると、都市での騒ぎほどの危機感なく生活してます
正月飾りって藁とか蜜柑とか色々な食に関わるものが使われている
食糧はそれだけ身近で尊いからこそ飾りに使われてたのかなって勝手に思ってる
蜜柑でなく橙だな。
これに脚気も流行るんだからたまらんね
世界的に寒冷期で
この頃ロンドンのテムズ川も氷ついていたんだよね
@@いいいあああ-b6u ロシアで核戦争があった可能性(一日一食OMADエンドゥ)。核の冬。
改めて将来の為に歴史を知っていることは大切だと思うわぁ。
大飢饉って漫画が少年ジャンプで短期連載されていた
本宮ひろ志原作で、読むとトラウマものです
来年こそは、皆様にとりまして良き年になりますように。
一年間楽しめました、ありがとうございます。
幕府の財源は回復を見せ、農村は疲弊、都市の経済はガタガタに昨今の政治にも思うことが・・・
「いざと言う時に備えるのが行政」…平時はそれを「行政の無駄遣い」と叫び、実際被害を受けては「行政の無策」喚く。それが庶民。
これって、かこのじえい・・・。災害対処感謝してます
米を備蓄すると、謀反の疑いをかけられる。
御意、お上と国民は相応の理が働いています。
コロナにも同じ作用が働いてますね。
令和って暴動起こる?
中央の額の「飽食の幸せ」をかみ締めつつ、年を越そうと思います。良いお年を。
飢饉ではないけど、ガダルカナルや東部ニューギニアから生還した兵士の証言による飢餓状態はもう生き地獄という例えすら生易しいほどの惨状だと感じました。
帰還する船で一般人と同乗した兵士が他人の弁当を見た途端、反射的にひったくって手づかみで食べてしまったと証言してました。
仙台藩の北上川河口付近の新田開発に従事した足軽(鉄砲隊)の末裔です。この付近は飢饉だけでなく明治、昭和の三陸津波、311の大津波にも被害を受けています。311でとうとう新田開発以来の集落が無くなってしまいました。
長面一帯は海の中に沈んだ、と地元の人から聞いても当初は信じられなかったです…。( ノД`)
郷土史にも治水の歴史が載ってますね。
北海道への入植者が多かった地域だったとも記憶しています。
近年やっと落ち着いたと思ったら。。
俺の先祖はかなりの豪農で名字帯刀も許された名主だったらしいがな
江戸末期に起こった一揆で命を落としている。
@@御神誉黎
ほんとに一揆かな。戊辰戦争かも。
うちもお宅同様、半分農民だったんですが、戊辰戦争で亡くなった先祖います。
@@りか-d4h
ワイの先祖も名主で、元々室町以来須田氏の家老だったとか。
米澤藩の上杉鷹山公に楯突いた須田満主は、ワイの先祖の主君の末裔ですね。
ご先祖様方々に感謝するンゴ
勉強になりました。
3月までまだ間があるので、できれば本年度中に他作品の投稿をお待ちしています
さつまいも🍠の普及が良かった❗青木昆陽が推進した芋栽培。
麦飯と芋中心で育った幼少時代の人達は現在でも結構いる、自身を含めて。水稲が出来ない土地だったのが大きな要因ではあったが。
「江戸時代の転換点 水田の激増は何をもたらしたのか」という本によると
江戸時代初期の田んぼは早稲から晩成稲、もち米、赤米、長粒種(タイ米などの粒が長い品種)などの多品種をあえて同じ田んぼに植えて、病害虫や気候などの被害を少なく抑えるようにしていたのですが
美味しくて量が取れるという意味では短粒米(いわゆる日本のお米)の晩成種に敵う物が無かったため次第にそればかりが植えられるようになり飢饉の際の被害を増すことになったという話も出ています
また年貢は米にかけられるのが多く、その他の作物にかけられる年貢は無いか低額であることが多かったため、西日本から関東まででは刈り取りの終わった田んぼで芋や蕎麦、菜種、一部の野菜などを植える二毛作が普通になっていたのですが、東北はそういうわけにもいかずそれが東北諸般の米依存度の高さの原因になっていました
極端な例だと幕末薩摩では総収入が米換算だと200万石に達していたという計算があるのですが、うち米はたったの31万石ほどだったそうです
@@とりことりこ-k4f 薩摩というと貿易で稼いでいるイメージですが、中国や東南アジアが相手なんでしょうか?
@001 lonestar 基本的に中国です
中国への輸出品は主に乾燥昆布や干し鮑、干しナマコなどでこれは長崎を通じた貿易と同じです。
幕府は中国を中心とした外国とのチャンネルを長崎以外にも持っておきたかったので、薩摩が琉球を通じて行う貿易を黙認していましたが、調所の改革以降薩摩の貿易量が異常に増えて長崎を通じて行う貿易に影響が出るほどになりました。
流石に幕府も度々薩摩に密貿易の縮小を要請したのですが当時の薩摩藩は将軍の親族だったのでせいぜい「藩に商人たちが行う密貿易の取締を要請する(藩をあげて密貿易をしてるのは公然の秘密なのに)」という形で腰砕けもいいところでした。薩摩に(元々は蝦夷の)昆布や干し鮑を流していた越後や富山の商人が密貿易の罪で代わりに罰せられたりしてます。代わりに中国の様々な産品が越後や富山の商人を通じて江戸や上方に流れました。富山といえば、の薬売りの漢方薬の材料もそういうことです
その他琉球から大阪向けの航路で砂糖が大量に売られました。高価な砂糖の収益は莫大で薩摩藩の収入の4割超が砂糖だったのでは?という説もあります
幕末にはUSAの南北戦争で南部の綿が輸出されなくなり世界的な綿不足が起きたのにつけこんで日本の綿を買い込みグラバーに売ったりしてます。
あとなぜかアジアに来ていた欧州人に人気だった日本茶も売りさばいてます。しかも当時は鹿児島茶の生産量が少なかったので宇治茶などを買ってきて売っていたそうです
とりことりこさん
丁寧なお返事ありがとうございます。中国へ乾貨を輸出、南から砂糖を輸入とは。さぞ儲かったでしょうね。お茶はイギリス人が買っていたのでしょうか、中国から買う金欲しさにアヘンを輸出していたぐらいですし。
飢饉に対する見方が変わりました。ありがとうございます。
飯食いながらのながら見で大変お世話になってます。
明けましておめでとうございます!ずっと見たかった話しでありがたい!
17世紀は地球が凍った世紀といわれるほど寒冷化がひどくて飢饉が相次いだ。
17世紀の元禄の飢饉 寛永の飢饉
18世紀の天明の飢饉
19世紀の天保の飢饉など
江戸時代の間に起きた冷害・旱魃・水害などの異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の飢饉は35回あった。
飢饉が起こるなり農民の逃散が起こるなりして労働人口が減れば藩の収入にも打撃になるはずなんだけど、この人口減をどうリカバリーしたのかがよくわからないんですよね。
各藩による農民の奪い合い。
逃散農民が流浪してるとリクルートして自領の農民にする。
農民は「財産」だから諸藩も必死さ。
@@さん名なし-h8b さん
よく江戸幕府(というより武士階級全般)の対農民政策を表す言葉で「百姓は生かさず殺さず」というのがありますが、 自領の百姓が死んでしまったり逃亡してしまうと、藩の収入が減って自分たちの生活にも影響するので、よほどのバカ殿様でない限り、百姓家を大切に取り扱う筈なんやけどなぁ🎵(笑)
@@さん名なし-h8b 行き過ぎた重税で逃散を招いたりすると学習するはずなんですけどね。藩政改革の話はいたるところにあるんですが、仙台藩はどうしたんだろうと。
天保でも同じこと繰り返しているから、ヒエラルキーが維持されれば大きさにはこだわらない縮小均衡OKだったりしないだろうかと疑問に思ったんですよ。
浮世絵に描かれた大飢饉の様子はおどろおどろしさばかり強調し、現実感が希薄なものが少なくありません。江戸においては米の値上がりこそ痛いものの、多くの人々にとってそれ以上の事ではなかった雰囲気すらありまます。大工の手間賃は米価スライドだし、武士などむしろ現金収入が増えたはず。困窮した階層の人々こそ打ち壊しを行いましたが、江戸と地方において危機感の共有など全くできませんでしたね。
国の政策を語るべきで前提となる「情報」が東京のマスメディアに握られ、地方の実情を無視した状況と類似しますよね。
@@さん名なし-h8b 無為無策無気力無能の政権に対する正義の鉄槌を期待します。
今歴史の授業でここら辺の時代をやってるので助かります
ナポレオンのロシア遠征中、核が使用された可能性。UA-cam(一日一食OMADエンドゥ) 核戦争の冬。信じる信じないは自己責任。
18世紀から19世紀にかけて、50年に1回飢饉が起こり、しかも天明・天保の大飢饉では5年以上食糧難の時代が続いた……
想像するだけで恐ろしいです
自分がその時代の人間だったら生き延びられた気がしませんね
野垂れ死にか、橋から……という最期を迎えそうです
漢王朝末期に王莽の簒奪と、その後の混乱で五千万人いた人口が二千万まで減少したと言われる。
このような大陸における大混乱と比較すれば、日本の飢饉や戦国時代の混乱は穏やかなものだったと言うしかない
背景いいね。なんか落ち着く
東日本、特に東北での食料不作が、226事件~大東亜戦争の原因の一つとも...
現在の日本でも食料を自給のみにすると超巨大飢饉が起きる。
日本の食料自給率めっちゃ低いからね~
昔、高校の副担任が三閉伊一揆の研究してて本も出しました。
岩手南部藩下の農民が仙台伊達藩に直訴する話し。( ̄ー ̄)
東北の食料不作もですが、日本統治下の朝鮮半島からの外米輸入による米価下落と農業所得の慢性的減も要因に数えられるかも。それと気候的に当時の米品種では冷害に弱いものしかなかったこともあるかも。更には、商業作物に転換するか、工場を誘致して所得を増やすか等の地域経済構造転換が遅れたのもあると思います
名前を忘れてしまったけど、お米を強くして寒い地方でも作れるようにしてくれた人物に、とても感謝したい。良いことがなくても人間関係に、つまづいてばかりでも、3食をあたりまえのように食べることができる毎日に、とても感謝したい。残飯が、とても多いから、いつかは、罰があたってしまうやろうね。
今は温暖化で、美味しいお米の採れる地域が北上。より効率的な手法と面積を利用して収穫できる様になりました。
もう、秋田や南魚沼の米はランクダウン。食味審査の上位に青森、北海道の効率的な土地利用による美味しい米が作られているんだよね。
酒米も、新しい品種、北の大地に合った物を収穫。まともな酒米が取れなくなり、醸造の温度管理もきつくなったかの地から、若い杜氏のかたが大勢移転してますよ。
ま、ずいぶん前から、その酒蔵で造れる量以上の製品が「樽買い」ブレンドで⚪乃⚪梅として高価に流通してるのが今の現状なんだろうな…
以前勤めていた会社のオーナーが、使ってくれと箱で「寒梅」持ってきたが、いわゆる無等級、「白無垢」混じり気なしの
寒梅で、確かに昔は、とても美味しい日本酒だったよ。
明治26年(1893年)に設立された農商務省の農事試験場が作られ、明治37年になって、大阪府にあった畿内支場の、加藤茂苞という人が国立の試験場で最初に品種改良を始めた。山形県でも昭和10年(1935)年には、尾花沢試験地でも品種改良が始まり、その後、昭和57年(1982)に尾花沢試験地がなくなってからは、庄内支場だけでおこなっています。
歴史に学ぶことの大切さを教えて頂き、ありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
江戸時代の経済学的なアプローチはより掘り下げていただきたいと思います。
イシュー的には視聴回数を集めるには不向きかもしれませんが、大変有益と思います。
大正後期~昭和初期の東北農村の状況にも通じるところがあり、ひいては日本があの悲惨な戦争に突き進んでいった遠因でもありました。まだまだ掘れる話題だと思います。
都市圏に住む我々は今現在もこういう歴史を経てきた田んぼから採れた米を食らって生きています。
戦国時代の終了と共に農村に人が定着、生産システムが出来上がりつつあるところで飢餓輸出による無理な取り立てでシステムが破たん。これは世の中に打ち出の小槌は存在しないことを忘れている為政者がやりがちな失敗ですね。非常に良く纏まっており、ためになりました。
いつも楽しく視聴させております。
大晦日にこのテーマを出すところに、うp主様のセンスを感じます。
食事出来る事への感謝をしつつ、新しい年を迎えたいと思います。
来年も楽しみにしています。ありがとうございました。
その半年後に観てます〜 素晴らしく、考えさせられます〜 ありがとうございます〜
背景の川、どこだろう
分かる方いる? なんか風情あっていいなと一瞬で思った
浅間山。
幾度も小氷期が来たんですよね。
米はもともと温暖なところで作るもので 世界的にも米と言えばタイやベトナムのような南方の赤道に近い地域が多い。中国だって黄河から北の方は麦作で、米作ってるのは長江のある南の方だけなのに、日本は江戸時代から東北でも大量に作ろうとしていたからなw冷害とかでうまくいかないのは当然。もともと米は寒さに弱い。 新潟に始まるコシヒカリのように、東北、北海道、新潟のような寒い地域、豪雪地帯でお米を作れるようになったのは絶え間ない品種改良と先人の苦労が大きい。
江戸時代に米価を下げることに対する抵抗が強かった事情について補足させてください。
江戸時代はご案内のとおり、米を一種の通貨のように扱うことで成り立っていました。
農民から幕府に収める税の類や幕府から公務員である武士に支払う俸給も米で行われていました。
当時の支配層である幕府の一般認識としては
農民にとっては米が不足すればその価格が上がって少量の米で生活でき
米が余って価格が下がっても大量に売れば生活できるというものだったのです。
翻って武士にとっては、毎年支給される米の量は決まっているのですから
豊作凶作による米価の変動が収入に直結し、補う方法がありません。
多くの禄高を持つ上級武士にとっては多くの経済的損失が発生するだけでなく
少しの米しか貰えない下級武士にとっては米価が下がると生活できなくなります。
そういう理由があって幕府にとっては農民・町人の反乱より怖い武士の反乱を避けるために
米価を下げることに抵抗が強かったのです。
ちなみに名君と言われる吉宗が「米将軍」と呼ばれるのは
米価が上がれば下げようとし、下がれば上げようとする米価の安定に腐心し続けたことに由来しています。
世界的な小氷河期と火山の冬が重なったらしいよね。
地震後の地殻変動による火山噴火の多い時代だから、火山の冬の到来を懸念しているよ!
今は北海道が全国一の稲作地帯である皮肉
基本は夏の気温が高くなったことが大きいでしょうね
幕府にここまでひどい目に逢わされても戊辰戦争の時は幕府側についてしまう東北諸藩・・・そして薩長にひどい目に逢わされる・・・ああ東北・・・・・
すみませんね。九州の人間が東北まで出て来てでしゃばって。
言い訳させてください。
当時は薩摩も決して安泰とは言えず、桜島や霧島連山の火山灰土の土壌で米がまともに育つわけもなく、関ヶ原の合戦の後に薩摩に飛ばされた島津は最後まで立派な城を建てることもなく、慢性的な財政難から無理矢理奄美諸島や琉球を薩摩の支配下に置いて、屋久杉やサトウキビなどで薩摩の人々は何とか生きてきたのです。
薩摩の人々が生き永らえてきたのは奄美諸島の農民の血と涙と汗の結晶なのです。
また、薩摩は長崎に近いことから、西洋の技術も学び、武器の高度化などもありました。
恐らく島津は辺鄙な場所に飛ばした幕府に対する不満はあったと思います。
虎視眈々と面従腹背で倒幕のチャンスを伺い、幕府が完全に死に体になったところで島津は長州に持ち掛けてタッグを組み、教科書には出てきませんが、佐賀鍋島の反射炉による大砲作りなどの高度な技術のバックもあり、倒幕に至ったと思います。
@@SONGOKU-uo1mb 同じ九州の人間だが、誤りが散見されるので訂正させていただく。
島津氏は関ヶ原の戦いで薩摩大隅に飛ばされたわけではないと思う。確か、鎌倉時代に守護として入国したのが始まり。
関ヶ原の戦いで敗戦側についたが、藩の総力をもって領地替えに反抗する戦闘準備や外交の結果、一応本領を維持できたので江戸幕府に対する不満はないが、恐怖と警戒はあったと思う。
最初から倒幕をしようと考えていたわけでもないようだし、幕府官僚が駄目すぎた(通貨改鋳しないことによるデフレ放置、統一政府を目指すための改革を怠ったこと(全国に対する所得税)による慢性的な財政難、開国させるために来るペリーの日程がわかってたのに関わらず対処が決まってなかった、開国時の金銀交換比率の設定誤りによる金流出等々)ので、戦意のある長州藩を表に立て代理調達した武器を売却し、長州征伐の結果で幕府に勝てる見込みができたから、倒幕を進めていったと思われる。
佐賀藩と技術的な連携もなかったと思う。(あの藩は閉鎖的でアームストロング砲は薩摩藩は作れていない、小銃の弾薬の内製化はできていたようだが)
@@よき一日を
なるほど。ありがとうございます。
ここら辺からの農村の生活というのも見てみたい気がします
司馬衷「米がなければ肉を食えば良いのじゃ」→西晋滅亡
光格天皇「救い米を出すべき(ガンギマリ)」→権威爆上がり
民衆の事を一番考えているのが武士ではなく天皇家すなわち皇室という・・・。
曲淵景漸「米が無ければわんこやにゃんこを食べればいい、
ワシも貧困した時は食った」→左遷
@@どらやき-z1w この発言は他の人物が言った説があるのですが、天明の打ち壊しの際の対応の遅さで左遷されたのは事実です。
しかし有能な人物であったので、松平定信が老中首座に就任すると勘定奉行として取り立てられました。
一部の人が名君って言われたのも、他が無能愚昧な暗君がおおかったせいかね? 島津に暗君なしって言われてるけど、実際には他藩より重税であったとか聞くし。水戸でも、水戸黄門で有名だけど、「大日本史編纂」で重税だったというから、案外、人のうわさなんてならないよね。
水戸藩が財政状況が苦しかったのは、御三家の面子を重視して表高より実高の方が低かったからだ
天下普請と呼ばれた各大名に求められた役割は表高を基準に決めるわけだから。このため水戸藩は藩の石高と比較して苦しい役割を求められた
江戸期の中期以降は新田開発などで江戸初期に定められた表高より、藩の実際の国力である実高の方が多い藩が多かったのだが
それでも多くの藩が財政状況は火の車だったのだ。
実高より表高の方が大きければ、水戸藩の財政が苦しくなるのは当たり前だ
島津は桜島と霧島連山と開聞岳に囲まれたまともに作物が育たない火山灰土で、土壌改良の余地もなく、奄美諸島や琉球王国を支配下に置いて重税をかけるしかなかったと思います。
鹿児島県にはお城はありません。
「人を以て城と為す」と言い、最後の藩主の島津斉彬まで屋敷のような家だけで、立派な城を持つことはありませんでした。
鹿児島市に城山公園はありますが、お城があったわけではないのです。
もしかすると、薩摩島津も虎視眈々と倒幕を狙っていたのかもしれません。徳川幕府が弱るまで待って待って待って、その間に西洋の高度な武器や道具に力を注いでいたのかもしれませんが、薩英戦争や長英戦争などの紆余曲折もあり、まざまざと日本と海外の戦力を見せつけられた薩摩と長州がタッグを組んで、西郷隆盛ら数人が知恵を絞って無血会場に導き、新しい政治になったと思います。
日本各地に必ず1人はいる義民も特集して欲しいな。飢饉と近しい関係だから
浅間山のお膝元、嬬恋村に住んでいたけど、噴火時は大変だったらしい。鎌原観音堂に逃げ込み、難を逃れた村民が、親や子を失ってしまい、生き残りで擬似家族を作って、何とか村を存続させたとか。あと、キャベツ栽培は今でもギャンブルみたいなもんだって言ってたね。いい車にみんな乗ってたから勝てるギャンブルなんだろうね。
出入りする金額が大き過ぎると感覚が狂って浪費をする。
あと車社会だったり、見栄が全てで村の中で競い合う。
でもまあ農家は金持ちだらけよね。
結局泣くのは民、百姓。
田沼時代を全否定する寛政の改革は飢饉対策の酷さも側面にあったのか。しかし、天明の大飢饉の凄まじさは、数値としてみせられると絶句する。
田沼時代の商業資本主義・金融資本主義が格差を広げた、
だがそうした社会的矛盾も豊かで食えれば単なる社会不満で済んでいたが、
一旦飢饉などて物価が高騰すればそうした社会的矛盾は一気にルサンチマンとなり、
そのルサンチマンは伝播・伝染し暴動・うち壊しになる。
政治、特に階級制・専制政治ならば、
経済は政治・支配の一手段に過ぎないので、そうした資本主義経済が怨嗟の基になり社会不安ひいては幕政への不満に繋りかねなくなれば、
躊躇せずに資本主義経済を批判し全否定し、幕政改革と称し生贄にしたのだろう。
田沼時代は天明の大飢饉よりまえから、田沼の治世38年の間、天変地異、異常気象が多発して一揆も都市騒擾も多発した時代だったのに田沼は処罰の厳罰化のみで対策に乗り出さなかったですからね。一次産業が8割に達する農業国家だというのに、もっと足元をしっかり見ることはできなかったのだろうか。
食べ過ぎ・飲み過ぎで、お腹が変な状態でこれ見てると罪悪感・・・
毎回楽しみにしています。
来年も楽しい動画をよろしくお願いしますね(≧∇≦)b
毎日ジュースのめる現代...最高っす!
明治維新に対して「権力ほしいから起こしたクーデター」だの、「クーデター起こさなくても開国して近代化したのに」と思っていましたが、考えさせられる内容の動画ですね。
果たして、幕藩体制下で、自由民権運動を起こせたのか?
自由民権運動は、五箇条の御誓文の公布を前提としたものだぞ。
今の状況との共通点が多すぎてぞわぞわする
戦は梳くごとく、飢饉は剃るごとし
ウコギは食える
こうして見ると、鬼滅の刃の鬼より遥かに外道だよなぁ。
大豆の連作が凶作の原因ときいているけれど
江戸時代は先物取引が盛んだったのも原因とか
需要側主導の取引所取引制を敷かれたことで、供給側の東北は悲惨になったでしょうね
近世以外にも、自分の代で財政健全化の実績を上げたいキャリア官僚が政治家や高齢選挙民を言いくるめて
疫病で経済が大幅に後退する状況で緊縮財政の旗を降ろさない役所(と大新聞)があった時代があるらしいですよ。
財務省って言うらしいですけど。
巨額出動って言っても、ほとんどの国民や被害を受けているのと関係ない業界への補助金や交付金で、真水は1割もない。
なんでこんな時に怪しげな脱炭素に大枚放り込むんだ。
石川啄木ではなく宮沢賢治ではないですか?
仙台藩は知行地を貰う藩士、碌を支給される藩士、給人地を貰って自分で耕す半農の藩士、中には陪臣に貸して耕させるほとんど地主みたいな藩士もいて、さながら侍階級が当時の日本のミニチュア状態。米のおかげで真っ先に興隆し米のおかげで真っ先に衰退するのは必然で、後期は士分すら餓死したと言うのは大いに理解出来る。
西日本の雪の降らない地方は、二毛作で、農民は米を食べず、麦を食べていました。享保の飢饉の餓死の原因は米だけでなく、麦が全滅したためです。
20:47
「被害が拡大してからようやく場当たり的な…」
行政が何をしても叩きたいタイプの民意を引きこもりキャラに読ませてるの、バランス取れてますね…
江戸時代の緊縮財政状況による経済の低成長は、現代も同じことの繰り返しですね。
派遣=小作人、コロナ=疫病、竹中=田沼、さらに少子化というオマケ付き
食料自給率がトコトン低い現代で飢饉にならないことを祈ります。
天明か天保の大飢饉のとき、東北の村で多数の死者の遺体を弔っているとき、首に大きな袋をかけていた遺体があり妙に重い。袋の中を見てみたら100両の金があった。※つまり金をどれだけ積んでも食糧がもう手に入らない状態で死んでいった・・・・・・ という話があったようです。
えー! 哀しい😱 悲惨です〜💦💦💦
11:57 経済成長でインフラになるのに╳
→経済成長でインフレになるのに○
ですよね?(^^;)
私は飢饉と言うと思い出すのが「上杉鷹山」東北、米沢藩に17才で婿養子に成った人です。
天明の飢饉で1人の餓死者を出して無い上にあちこちから米沢に来た人々も一緒に米を配給して助けた人でも有ります。
小説は今でも探せば売ってると思います。
1度読むとファンに成りますよ〰️昔の人なのに。
ケネディが尊敬する日本人と言ったとき、日本人記者が誰も知らなかったと伝えられていますね。隠れた名君ですね。
日向国 高鍋藩 秋月家の二男 10歳で遠縁上杉家の婿養子に入り 17歳で破産寸前の米沢藩 藩主となる。
おせちや雑煮にかぶりつきながら温かいお部屋で動画を見て過ごせる幸せ
あけましておめでとうございます
日本人も飢えに苦しむなんて経験を再度することになるのだろうか…昨今のコロナ禍はそれくらいのインパクトがある
場当たり的でもなんでも重い腰を上げるだけマシかもと思いなんとか乗り切っていくしかない
うp主も皆さんもどうか無事に一年をお過ごしください
gbmはどこのを使ってますか?
そのうえ江戸時代は日本史上もっとも平均身長が低かった(=タンパク質・カルシウム摂取量が少なかった)と判明してるからね。食に関しては本当に貧しい時代だったはずだよ。そりゃあ明治の文明開化をみな喜んで受け入れられたわけだ。
これはその通りでやっぱり輸送力が低いことが原因の1つだった。
飛脚なんていう人力で物を運ぶのはダメなんだ。
車がなくても馬があるならそれを使わなきゃダメ。
そういえば暴れん坊将軍には享保の飢饉の話はあまりでてこないな。江戸が舞台だったからか
先物取引はリスクヘッジ機能があると理論上はされているようで、先物取引の会社もセールストークに使用していますが、歴史上は被害を拡大する方向にしか動いていませんね。
いつもためになる動画の配信をありがとうございます🐸
良いお年をお迎えください(*´◡`*)
今年はサバクトビバッタがヤバい。アフリカで大飢饉
江戸時代もデフレと増税で散々な目に遭ったのに平成令和も似たようなものだな(´・ω・`)
みなもと太郎先生も「風雲児たち」で幕末の動乱が江戸幕府開府以来すでに定まっていたことという説を採用していたからこそあの漫画を関ヶ原の戦いから始めたわけで、結局幕藩体制というものが、国内外の危機的状況を解決するには不向きな体制だったということだよな。
確かに地方に統治を丸投げできる幕藩体制は、統治コストを極端に少なくできるし、平和な時代においてはこれほど効率の良い統治体制はない。
しかしそれ故に、いざ危機に陥れば、連携の難しさから対応が後手後手になりがちとなったり、さらには地方が言うことを聞かなかったりするというリスクもはらんでいたのである。
そのために、幕府はその初期において強大な軍事力を以て諸大名を押さえつける武断政治を行っていたのだが、由比正雪の乱などそれによる弊害を避けるために、文治政治に切り替えていった。これは、儒教を元にした、秩序による政治であり、君臣の序・上下関係という「正統性」による政治を志向したものである。そのために朱子学が盛んになったのであるが、これは、幕府の統治の正統性が揺らいだとき、すなわち幕府よりも本来上位の存在である天皇の権威が人々の前に現れたとき、一気に崩壊するという諸刃の剣でもあった。すなわち幕藩体制の弱点がより強化された形ともなった。
幕府の権威が絶大だった頃はそれでも良かったのだが、それが低下していく江戸後期には尊王思想の拡大によりそのデメリットがフツフツと出てきていたのである。
その矛盾が解決されることなくついに爆発したのがまさに幕末の時代だったのである。それゆえに、公武合体など応急措置を施したところで間に合うはずもなかった。結局の所、江戸幕府は幕藩体制を採用した時点で、滅亡へのカウントダウンを歩んでいたのである。
であるからこそ、天皇の権威と幕府の中央政府としてのアドバンテージを最大限に生かした大政奉還という手段を講じた徳川慶喜の政治的バランス感覚というものは凄まじいものだとも言える。
こういう大飢饉があると人肉ですら食べなければいけないからな、食べ物を粗末にするなという言葉はこの頃に生まれたんだろうな
助けられるのに助けなかったのか、そもそも無理だったのか
後からならなんとでも言える
隅田川に飛び込めなくなったので京浜東北線に飛び込む、やばい雰囲気よ
ちらほら増えてるホームレスも数より質がヤバい
働けるのに働かないホームレスは勝手にしろでよかったけども
東北地方で飢饉になってる時に、江戸で大食い大会やってたりした事もあったらしい。
俺の知り合いが言うには、先祖が隠し田持ってたおかげで飢饉の時でも餓死者出なかったらしい。
当時の搾取が如何に酷かったかって事だな。
@@山中達雄-j3p
大正時代に福島県の白河で飢饉あったようです。
天保の大飢饉時の九州の藩の動向が知りたいです、教科書に書いてない。
予想はノーダメージかつ高値になった米を輸出した結果、金が九州に流れてその金で外国との密貿易が盛んになり最終的に幕末が訪れたと考えてます。
平和ぼけの平成を経て疫病に苦しむ現在
冷や水をかける動画 ナイスです
う〜む。米を金に変えると今も日本の政治構造は変わらん気がする~
状況的にも今年の冬はなんかうすら寒い・・・・
伊予松山藩は享保の飢饉のとき農民が何千人死んでも藩士は一人も死ななかった。
かつ、被害を水増しして幕府に報告したから藩主は蟄居、その後謎の死を迎えている。
俺の母方の曾祖母が産まれた年が飢饉だったので危うく間引かれるところだった。明治になっても飢饉はあった。
当時から有名なうどん県はこの動画を見る限り特殊やったんやね🤔