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定信に限らず当時の武士は四書五経が学問のベースになってるから経済観念なんて無いに等しいんだよなむしろ田沼みたいに経済感覚の鋭い武士のほうが非常に珍しいだから定信の改革は当時の武士からしたら至極真っ当で当たり前のことだったんじゃないかな
定信が不幸だったのはちょうど時代の転換点であったにも関わらず、殆ど外国から情報が入って来なかった事、国内も飢饉で相当疲弊していた事だったでしょう。当時残っている人物誰であってもこの難局を切り抜ける事は出来なかったとも思います。損な役回りであり全ての人を救う事は到底出来ない事でした。がんじがらめな身分制度の中で最下層で苦しんでいた人達に光を当てて(限界や失敗もありましたが)脱却させる為に、ありとあらゆる努力を重ねて次々手を打っていった点を自分は高く評価します。制約の大きい中で最大限の事をやったのではないでしょうか?自分は享保の改革より寛政の改革にもう少し光が当てられても良いのではと思います。
最近読んだ本で目からウロコだったのは江戸時代のシステム上の破綻は盛んな新田開発による米価の下落が米が給金だった武士身分の没落が決定的だったという視点。重商主義だなんだの前に金融システムを組み替えなければならなければ意味なかったんじゃないかな
この人の動画は本当に為になる
解説や豆知識や受験生への補足など分かりやすくてためになります!
農家の次男以下が土地をもつには新たに開墾するしかない。しかしその面積は、社会情勢が落ち着いた初期と新田開発を奨励した吉宗期が多くて以降は頭打ち。帰農令といっても、次男以下が耕す田んぼが無ければ帰るまいぞ。
質素倹約以外に武士に収入を取らせる、副業などもやらせれば解決したかもしれないが、これをすると益々奉公がおろそかになるとか葛藤もあったんだろうけど、定信は「商は詐なり!!」と平然と言う人だから最初から選択しになかったんだろうな。いずれにしてもこの人は理想主義に凝り固まりすぎた印象がある
直参の半分は無役だし、次男以下の部屋住みがたくさんいたから労働力としては十分あったのに。
@@yh6146 無益の直参御家人に公営で用心棒(今でいう警備員みたいな)仕事でもあっせんすれば治安問題にも貢献するし良かったんじゃないかと思うだけど、無理だったんだろうか(´・ω・`)?
直参の後家人の半分は無益だから、新たに職業をつくって食い扶持を減らせばいいのに‼️大奥にも合力金と言う名目の衣装代(経費)も、大雑把で、前述の奉公人と同じ。やり方が、大雑把だったし過ぎたのではないか………😅⤵️
「尊皇攘夷」は、遼やら金やらモンゴルに苦しめられた宋の時代を反映した宋学(朱子学)に起源があると聞きました。
定信の自伝で「長谷川某」という呼び方で功績を認めつつも、「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」とも述べているらしいので、やはり定信が嫌っていたことは間違いないんでしょうね。それでも使われるあたり、鬼平がどれだけ有能だったのかが見えてくる気がします。
この夜景🌉新潟市ですね!よく通る所です。
沼垂ですね〜
新潟出身かな?
定信さんと言うと、倹約せよ、質素に暮らせ、贅沢は罪だ!と言う印象しかないのだけど...。お金と物資のバランスは大切だけど、今度は物資を溜め込むこと、お田沼時代の極端な拝金主義から定信さんの極端な引き締めに走って、経済活動を止めてしまったと言う面がある。バランスを取ると言うのは大切だなと思ったよ。
最初は改革者として持ち上げられたけど、数年するとみんな我慢できなくなって失脚したというのは、後世の「改革」政治家の先駆けと言えると思う。
全然違う。現代の『改革』はどちらかというと、現状の不満を誰かを悪者にして発散させる向きがあるから。
祖父の吉宗やお互い意識していたと言う鷹山には隠居と言う手があり、一回だけコンテニュー可(鷹山は主君押込くらいかけていて、コンテ不可になりかけたけど)。田沼と定信はオワタ式なんでこりゃあキツイ。スーパープレイやろうとして穴に落ちた田沼と、チマチマ引きこもりプレイしたら後ろから被弾の定信。
@@よしよし-k6p 田沼の功績を無視して、全てを田沼のせいにして、自領も放棄させた上に城を打ち壊し財産没収、大阪と江戸の屋敷も没収、息子は暗殺。本人は蟄居田沼を生贄にして発散しまくった「改革」だよ
庶民が豊かになっていけば最後には武士の時代が終わってしまう。だから定信、というよりも武士の立場から見れば綱紀粛正を行い庶民を抑えるしかなかったしこの時代はそれでまだ何とかなった。この後の時代になると「外圧」という要素が加わって外圧を跳ね返すためには富国強兵を行うしかないと認識された。しかし富国強兵のために改革を行えば結局武士の時代が終わってしまう。武士側からしてみれば改革をしたら滅亡、改革をしなくても滅亡という矛盾に追い込まれその結果、明治維新に至った。
西洋史を見ても野放図な貨幣経済と踏み倒しの悪影響をどうコントロールするかは試行錯誤だったしそういう時期だったんだろう。田沼と定信のどちらが良い悪いという話ではない。
世論の後押しが強かったろうし時代のうねりの一部だと考える、この時代に生きてないから単純に良い悪いと言えない。市井にゃ好き放題やったとしか解りっこないからそらそうなるわとしか。剣客商売の田沼は虚構として大好きだけど。
水野忠邦の解説も期待してます!
遠山の金さんや鳥居耀蔵の話もあるかな?
振り返ってみると吉宗の享保の改革って徹頭徹尾経済対策なんだよね。暴れん坊将軍のイメージとはかなり異なるけど。
贈答のやりとりが当たり前の時代を我々の尺度で贈収賄と言ってはダメでしょう。米本位制の中での改革の限界。田沼の進めた金本位制が武士では異常なだけ。吉宗時代が限界。
次回はついにあのオットセイ将軍の御成りでしょうか…楽しみです。
背景は新潟のNEXT21から撮影した竜ヶ島方面でしょうか。30年前に近所に住んでいたので懐かしいです。
多分朱鷺メッセの展望フロアからだと思います。
『現代的に見れば先進的で正しい政策』も、結局現代的な政治、経済、インフラ、物流等々のシステムが整っているから言えることであって、揺り戻しが起きるのもやむを得ないということか…。外憂内患の中での幕藩体制の維持というのが前提にあって、色々と難しい立場にあったんだろうな。田沼再評価では『風雲児たち』が有名だけれど、『再評価のオーバーラン(の結果松平定信も過小評価してる)』なんて指摘もあるくらいだし、定信も手放しで褒め称えられる人物ではないけど、一定の能力は持っていたのだろうなぁ。ただやーっぱり頭が固くて極端な印象はぬぐえないな、この人は。
寛政の改革期にはほとんど江戸の範囲が現在の東京23区と重なるくらいの大きさになっていく
定信の印象は「目的は正しいが手段が強引」ですかね。帰農令や棄捐令は当時の状況から狙いは分かるものの強引だし、その後を見ると…。飢饉からの幕府の立て直しの非常時には優秀でも平時には根回しや政治が上手くない印象が残りました。そして次回はオットセイの生態解説ですか…。
bgmが好きすぎるなんだろう
定信の最大の誤りだと思うのは、林子平の海国兵談を禁書にしたのはしょうがないとしてもその思想を幕府内で再検討して諸外国の植民地主義に対処する諸政策をする組織なり学問を根付かせなかったことだな。この時点で幕府内に対外政策に対処する組織なり朱子学と共に国防のための教育機関を組織しておけば、ロシアなりイギリスなりが来た時点での開国政策の方針が確立できていたかもしれない。そうすればペリーの黒船による強圧●イプ開国という屈辱を避けられ、攘夷思想による幕末の混乱を避けられたかもしれないな。
次回も楽しみにしていますね。
本質的な政治の問題は今と変わりはないな。
そういえば、定信は老中辞職後に大老や国持大名と同格の少将に昇進している。定信を老中に返り咲かない様に昇進させたのかな?
生まれの血筋は将軍にもなれた御三卿ですから、お役御免であっても相応の待遇を用意して形式上は栄転って形にしたかったのでは
田沼意次とセットで語られるので、田沼が評価されると定信の評価は下がるのは分かるけど、あまりに経済政策ばかり評価するのはどうかと思う。為政者の大本の仕事は、衣食住の保証。飢饉、打ちこわしという食料問題がある以上、定信の政策はある程度評価されるべきと思う。ただ、皆さん書いている通りもう少し柔軟さや寛容さがあればと思う。
寛政の改革は統制経済の導入なわけだけど、有事においては統制経済は有効。実際、大飢饉の有事下だったから定信を老中首座に据えたのは正解だったと思う。問題なのは統制経済を恒久的なものにしようとしたことで、恒久的な統制経済が絶対失敗することは歴史が証明するとおり。最たるものが共産主義。逆説的に、平時であれば経済は基本、市場原理に委ねるべきとは言えるが、田沼時代のように市場を過信しすぎると、格差による人心の荒廃から治安悪化や体制転覆という代償を伴う。まぁ両極端に振れすぎ、てところで単純な二元論で田沼と定信を評価できない。定信は道徳に糸口を求め、理想主義者にしかなりえなかったわけだけど、プレイヤーとして市場に参加しない限り、理想は理想のままでしかなく、政策を通じ理想の実現を市場に働きかけるにしても、リアリズムに徹し、インセンティブを与えて理想に近づけるて発想ができなかったてところだろうね。そこいくと少し後れて生まれた渋沢栄一のすごいところは、近代資本主義の父と称される一方で道徳経済論を唱えたこと。渋沢栄一は、幼い頃から漢籍に親しみ定信の理想に近い信念を持っていたが、官職を早々に辞して、定信とは対照的に市場プレイヤーとして事業活動を通じそれを実践した。つまり江戸時代の経済の問題点とは、新井白石や松平定信、田沼意次はいたが、渋沢栄一はいなかった。ここに尽きるのではないだろうか。
江戸時代は米が食糧であると同時に経済の根本でもあるから米の流通、米の値段がどうしてもキーになりますよね。その意味で流通のコアの部分である都市部にどうしても人は集まってしまうというのは自然な流れですよね。だから人返しをしても結局何等かの形で都市部に戻る。現代の移民問題に通じるものがあります。棄捐令ですけど、これ韓国とかでも大統領が就任時に人気取りのために行うらしいんですよね。だから江戸時代の問題は近世という近代に価値観が近いということもあるかもしれませんけれど、古いようで新しい問題なんだろうなと感じさせられるわけです。
結局は「お金=物」と考える米本位制から脱却出来なかった事が、武士階級の困窮原因だし江戸幕府の財政悪化の原因でもあるんですよね元禄改鋳を行った荻原重秀の様に現代の管理通貨制度に近い経済観を持っていた人もいたのですがね
@@thelaughingman5052 その荻原も結局経済のことを理解していない理想論的な主張をする新井白石によって追い出されてしまいましたからね。荻原の貨幣改鋳はインフレを招いたとして批判的に見た人もいますけど、新井白石が元に戻した結果、今度は逆に景気低迷につながってしまいましたから経済というのはそんなに単純ではないということも言えるでしょう。
新井と違い、吉宗・田沼・定信・水野の四人はそれでも供給量を絞ればデフレを起こして不景気になることには気づいていた節があります。それぞれを俯瞰すると、吉宗は渋々(彼は大の新井嫌いでしたが、それでも新井の金融政策については自明の理だと思って当初は踏襲しており改めて現実を理解させられた形)、田沼と定信は吉宗の跡を継いでさらに進化(定信はこの点では田沼の後継者)、水野は逆にやり過ぎて失敗と言う違いはありますが…。
もし田沼の重商主義政策を続けてたら日本でもブルジョア革命が起こってペリーと関係なく江戸幕府が終わってた可能性もあるからなあ。まあその方が日本のためにはよかった可能性もあるけど、
難題は、両腕ではなく、両肩に重くのしかかるものだと思います、重箱の隅ですいません。
双肩ですかね?
補佐的(参謀)な役割に向いていた人なんじゃないかな。
旧里帰農令で帰農した無宿人4人ってマジ?
吉宗の理想は倹約ついで富国。田沼はその富国の部分。田沼擁護論的には後半は運がなかったになるけど、定信は富国に当たる後半に入れなかった感じだな。もちろん、短命政権の原因は政治力のなさと言ってしまえばそこまでだが、関東圏の経済振興策含め後半に向けた準備はしていてこれが花開いたのが化政時代。ただ化政時代は享楽的過ぎると言う批判は当時もあって「田沼恋しき」の次の歌が「水野(忠成)出て 元の田沼と なりにけり」「びやぼんを 吹けば出羽どん 出羽どんと 金がものいう いまの世の中」だから定信時代も懐かしまれたのも事実…。
世渡り下手で経済音痴の政治家だと思うが、七分積金のことは褒めてあげてもいいと思う。江戸の長屋の水道が近代的な水道にバージョンアップできたのも定信のおかげ。塩爺のいうところの埋蔵金。
『確かに』が多い。
結局全て人事なんだろうな。どんな時代も抜擢される人がいて、それに納得できない人たちが「依怙贔屓だ」って言うというね。
やり方は正しくても将軍や天皇に嫌われてしまってはどうにもならない享保の改革は吉宗が将軍だったからこそ一定の成果をあげることができたのであって
なお、幕内でも定信の倹約政策が批判されていたとよく言われるがそれは間違い。幕内で批判されていたのは田沼がやっていた幕府の支出を他の大名に転嫁する政策を定信が幕府の求心力低下を危惧して辞めさせたことであって、倹約政策については一切批判は起こっていない。つうか、定信も田沼も、別に幕府体制を解体して近代国家を作るために政治をしてたわけでなく、あくまで当時の幕府と体制維持のために政治をしてたのだから、そもそも民間の成長なんていう武士の権力が相対的に下がる政策なんてやらないし幕閣としてはやってはならないんですよね。ようするに定信や田沼の有能性以前に民間経済の促進政策とかは根本的に幕府が倒れて武士の政権がなくならないと存在するはずがないわけで。
松平定信と松平容保と石田三成が同時代に会っていたら意気投合して友達になってそうですねw
庶民に対する贅沢禁止など経済音痴の最たるものですが、定信は田沼を全否定する勢いで極端な理想主義に走り、現実主義的な中庸を認めなかった点こそ失敗なんでしょうね。もっとも朱子学をベースにものを考える以上、程度の差はあっても行き詰るのは同じなんでしょうけど。
貨幣と米に関しては正解は無いんじゃないかな。米が通貨になれば、収穫量で大きく左右されて物価が不安定になる。貨幣にすれば飢饉の時のように食糧がないのに金だけが残る。食糧の安定供給が定まっていない、天候、外的要素で大きく影響されてしまうこの時代ではどちらかを通貨にしたところで綻びは生じていたでしょうね
政策を見ると、はっきり悪いと言いにくい内容で後世の評判が割りと良いのも分かる。あと七分積金の逸話を見ていると実は徳川の埋蔵金の正体ってこれなんじゃないかと思えました。
なるほど、社会システムそのものの問題でもあったというわけですな。これは面白い。確かに社会が米本位制である以上は米そのものがないとどうしようもないわけで、田沼路線はその米があったが故に一時的に上手くいっていただけという一面もあるのでしょうね。その反動で人々が米を作らなくなり富の根源たる米がなくなり、また飢饉ともなり、人心は荒廃した。定信の対応はその意味では極めて「現実的」であったと。後世の我々がある時代の人を見て軽々に断罪してしまうのは、ともすればその背景にある動かしがたい巨大な「社会の仕組み」を忘れて現代的な理解で理解してしまうから、あるいは理解しようとしてしまっている事に無自覚であるからなのでしょうな。単純な暗愚迷妄の宰相という姿から定信のイメージが変わりました。実によい動画、よいチャンネルだ。
当時は、基本贅沢品の交易しかない制限貿易の時代だったから、儲かるからと言って、主食にならない商品作物が増える世の中になると、飢饉の時、自給自足の国内経済の分、バタバタ亡くなるんだよな。まあ、都市に流入した元農民も、土地は借金で地主に質に取られてるだろうし、他に田舎には仕事ないし、一時金貰っても帰る場所ないよね。今とそこら辺同じで、元田舎の東京住民が故郷になかなか戻れない理由と同じだな。幕藩体制は武士が給与をコメとして貰う世の中なんで、米収入第一で考えがちだけど、世の中がカネ中心で回って、その進展が加速している以上、その適応が出来ない事が幕末までひきづっちゃうんよね。結局、幕末の幕府は旗本の動員を軍役金として代納するシステムに変更せざる得なくなって、昔の旗本八万騎が役に立たない世の中になってしまった。江戸幕府の当初までは旗本・諸藩の武士も軍人と言う役割でも、やがて役人化・公務員化して、幕末の欧米の近代化した兵制や武器の扱い方に慣れた軍人が必要な世の中になっちゃうと、別に役人化した武士じゃなくても良い・・となる。定信の改革も一時しのぎに過ぎない感じで、武士が農民に寄生して陳腐化して、近代化した欧米には軍事的に役にたたない事が黒船来航以降露見しちゃうんよね。
定信は老中を務めるには早過ぎた、いろいろな役職を経験してからも遅くはなかったのに
寛政の遺老、松平信明や牧野忠精の話は…さすがにしないかな?しかし、七分金積立などの話が、明治のインフラの支えになってたのは知らなんだ…勉強になります。個人的には田沼と比べると定信は凡庸に思いますが、当時としてはやれることはやっていたんですね、反対を押しきってでも。
真剣に世の中を真っ直ぐにしようとしたが、理想主義が過ぎたのと田沼時代憎しでド直球にやり過ぎたのがなあ…田沼時代の柔軟さには及ばず。ところでtera senさん、もしや同郷ですか?以前の動画の背景にマリンピア日本海の水槽を流されていたり、朱鷺メッセからの夜景を流されていたりと、新潟の景色をよく使われているので…
はい。新潟にお住まいの方にコメント頂け大変嬉しいです。今後ともよろしくお願いします
背景の街はどこでしょうか?
蔦屋の身代半減、歌麿の手鎖
当の定信は浮世絵好き(当世の情勢を知ることが出来るからと言うお堅い理由ですが)で、処罰したはずの彼らの手による作品を所持していたと言うから皮肉ですね。
この時代って現代の政治離れと似ているような気がする
ロシアの南下で幕末…日本史の見えないところでは列強最強の覇権国家。大英帝国が日本の近くまで忍び寄ってきてましたし…よくもまぁ、日本が植民地にならなかったものです…
とんかつ政ちゃんがある。タレかつ丼が美味しい店。
40年くらい前の本でも、倹約を奨励しつつもそれが厳しすぎた上に徳政令の発布で武家の借金をチャラにしたことから経済を冷え込ませたとか書いてあったような…。
棄捐令を出して最初の数年は感謝されたけど、新規の借金が出来なくなり、生活ができなくなった下級武士が押し込み強盗をするようになって治安が悪くなり・・・・火つけ盗賊改、鬼平の出番が増える悪循環となりましたね。
@@あぼぼです 棄捐令からの貸し渋りは年越しの物入りに金が入らないことを危惧し早急に交渉に入ったことで、三ヵ月ほどで年を越せないなどと言われた貸し渋りは終息してますよ。取り消された借金も元金回収済みの物限定です。また札差の約七割が他の富豪から金を借りて運用していました。そこから政府融資の低利で保証金のある金を使って大部分の札差が営業することができるようになり、富豪から高い利率で借りる必要がなくなった札差にも利益がもたらされることになりました。昨今では歴史学者の中には棄捐令を武士だけでなく札差にも利益を与え、富豪の富を市場に還元して富の再分配になった成功政策と評価する人もいます。乱暴にすべてを棒引きにした徳政令とは別の政策です。
所得税や商税をかけられないなら富の再分配の選択肢としては供給量増やしてインフレを起こす(萩原や吉宗の最末期)か棄捐令しかないです。俯瞰すると・萩原による元禄改鋳(1695年)・吉宗による元文改鋳(1736年)・定信による棄捐令(1789年)・忠成による文政改鋳(1819年)・忠邦による天保改鋳(1837年)と無利子年賦返済令(1843年)と、好景気と物価の安定を背景にした文政期を除けば概ね40年から50年おきに事実上の徴税が行われていて、これは定信の時代では既に暗黙の了解になっていたと言う説もあります。
学問所が林さんのとこにあるから、林大学頭なのか。役職に苗字が付いているとは。
米がない?儲からないから作る人がいない??そんな時にはソフホーズ!!(*´∇`*)
この時代の日本の状態は、驚くほど現代の世界情勢と似ているとおもいますが、グローバル化の一方で途上国の人口爆発と食糧難が深刻化していますからね。
田沼=金満政治って、どこの話?むしろ財政立て直しで緊縮してた天明の飢饉については田沼政治云々というより、借金だらけの諸藩が、米高騰でチャンスと売却してしまったのも問題米本位は商人に売って貨幣に変える必要があり、相場で苦労するから直接金を稼げよ、としたのは間違っていない。周囲が思ってた以上に経済音痴だったが失敗だった
清濁合わせる。
田沼Jrの意知が暗殺されていなかったら?このもしもをどうしても考えてしまうんよ定信とは真逆の改革を行ったかもしれない
フランスみたいに革命が起きていたのかもしれない
昌平坂学問所ってのちの東大につながっていくらしいね
後ろの額は、縦書きの文化でなく横書き(西欧)文化だ。
田沼を失脚させるのはまあ、政争あるあるだけど、個人的な、それもあんまり筋が通ってない私怨で過去の権力者以上にバランスを失した激しい追い討ちをかけた、人格的部分が好感持てないんだよな。朱子学一尊自体も日本では納得しづらい。
一番の問題は定信の政策さじ加減がよくなかったんだろうな。ことの本質は間違いじゃないけど、日本人特有の政治への潔癖が出すぎたせいだろうな。ただ、政治が弛緩していただけにこういったショック療法的な政策は必要だったかもな。
フォン・ゼークト将軍言うところの「指揮官にしてはならない’無能な働き者’」それが松平定信。
使用しているbgmを教えてください。
以前のアドバイスが非常に役立ちました。感謝しています!
綱吉と同じで現場を見てないから失敗したんだよね。
「経済的に儲かっていれば正義、不経済なことは悪」という経済至上主義の見方は、現代の非常に歪んだ見方だと思いますね。歴史を見るときに、そんな偏った見方で良いのかと疑問に思います。
ほんと、それです。経済合理性は重要てすが、目的ではなく、手段であることを忘れるんですよね。
ずっと疑問に思い続けといてください。鏡、自分が乗ってる安いクルマ、ぼろい家を見ながら。
経済とは『経世済民』のこと。あなたの言うのは『商売』だね。現代は商売至上主義
貧乏より金持ちの方がいいに決まってんだろ貧乏人はしゃべんな
そうは言っても昔から経済的貧困がそのまま精神的貧困に繋がりやすかったのもまた事実なわけで…
白河の清き流れに堪えかねて元の濁りの田沼恋しき世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶと言ひて夜も寝られず
松平定信という名宰相が居なければ、将軍家斉は50年も在位出来なかったように思います
経済音痴で時代遅れでも、決して間違ってないしな。尊号一件が問題だったりするのが日本的だなと。ラックスマンの子息が大黒屋光太夫を連れて帰ってきたわけで、長崎入港許可証を出したからレザーノフが出島にきて、なぜか軟禁されて、長崎奉行は親父の方の遠山左衛門丞
ここが江戸幕府二度目のターニングポイントでしょ田沼の重商主義を継承しなかったことが幕府の寿命を縮めた
弟も色々やらかした人
GDPの定義は政府支出も入ってるからね、過剰な緊縮財政は経済を低下させるんよ。まぁ今の日本人に行っても理解されないんだろうが笑何が散財だよw政府は民間に散々する分には良いんだよ笑
政策は限り無く、今も昔も甚だしいんですね。
迷い寄りに走っちゃって、暗い方に行く前に失脚しちゃって、情勢も鑑みて、政権を握った一族の政権寿命は、二百五十年ぐらいで天寿かしら、
賄賂が悪いか?必ずしもそうではないと思いますね?朱子学の世界観に凝り固まった、せいぜい白河藩を救うくらいの器しかない人物で、とても幕府のトップに立つ器ではありません。現物である米から貨幣経済へ転換していたけど?理想ばかり述べて結局側近からも嫌われ。哀れ。全て上から目線で貨幣経済へ転換している当時の現状が分からなかった。残念でした(笑)
今の価値観でよくそんな偉そうに言えるね笑。あなたは、とても歴史を語る器ではありません、哀れ。
@@よしよし-k6p 結局、世の中金なんだよ田沼はやり方が汚すぎただけ人間は正と濁を併せ持つ者なんだから極端な政策はいずれ崩壊する
お爺ちゃんの吉宗さんパクっただけだよね。
時代に逆行した凝り固まった人ですよ。これはダメよ?むしろ暗君の部類に入ります。田沼意次の方が名君の部分が多いでしょう?個人的な意見ですよ。家斉の方が名君とは言えませんが、少なくとも?上に立つ人間として懐の深さや人としての情けがあったかと思います。
家光は屈折していたけどね。それでも人間としての情。そこで苦しんでいたから。言うならば?定信は感情が感じられませんから。エリートの機械です。基本吉宗も定信と似た世界観の持ち主ですが、幼少期世間を知ったこと。で?人としての情。がありますよね。エリートで人として何が大切かを最低限理解出来ないで育つとこんな人間になりました(笑)定信ちゃん(笑)
もし、定信が将軍になっていたら、幕府はすぐに無くなった。
@@yh6146 同意する。血筋からその可能性ありました。 上に立つ人間としての器なんて有りません定信ちゃん(笑)
どこの誰かは分からないし興味もありませんしね。しかし私の拙いコメントに二つとも高評価ありがとうございます。少し飛躍しますが隣国は今でも元ヤンパンの思想に支配されてます。地道に働くことがダメ。働かずに奴隷を従えて威張るのが立派な理想の姿ね。歪曲すら歪曲ではない。脳内空想のお花畑が正しい歴史の国。そりゃ。世界中から嫌われまくりの中国にまで民度が低いと言われます。中国は人として接する。半島は人として扱う必要ありません。トンスルが唯一無二の独自の文化。はぁ😞💨諭吉さんが述べた正論。半島に関わるな。半島を併合したのは失敗😵💧朝鮮半島なんてロシアの植民地になってれば?良かったのに。歴史を忘れた民族に未来がない(笑)笑わせるな。じゃあ。ロシアの植民地になってれば?日本が守ってあげました(笑)中国すら価値がないって判断した朝鮮半島ですねー😁
2コメ
1コメ!
定信に限らず当時の武士は四書五経が学問のベースになってるから経済観念なんて無いに等しいんだよな
むしろ田沼みたいに経済感覚の鋭い武士のほうが非常に珍しい
だから定信の改革は当時の武士からしたら至極真っ当で当たり前のことだったんじゃないかな
定信が不幸だったのはちょうど時代の転換点であったにも関わらず、殆ど外国から情報が入って来なかった事、国内も飢饉で相当疲弊していた事だったでしょう。当時残っている人物誰であってもこの難局を切り抜ける事は出来なかったとも思います。
損な役回りであり全ての人を救う事は到底出来ない事でした。がんじがらめな身分制度の中で最下層で苦しんでいた人達に光を当てて(限界や失敗もありましたが)脱却させる為に、ありとあらゆる努力を重ねて次々手を打っていった点を自分は高く評価します。
制約の大きい中で最大限の事をやったのではないでしょうか?自分は享保の改革より寛政の改革にもう少し光が当てられても良いのではと思います。
最近読んだ本で目からウロコだったのは江戸時代のシステム上の破綻は盛んな新田開発による米価の下落が米が給金だった武士身分の没落が決定的だったという視点。重商主義だなんだの前に金融システムを組み替えなければならなければ意味なかったんじゃないかな
この人の動画は本当に為になる
解説や豆知識や受験生への補足など分かりやすくてためになります!
農家の次男以下が土地をもつには新たに開墾するしかない。しかしその面積は、社会情勢が落ち着いた初期と新田開発を奨励した吉宗期が多くて以降は頭打ち。帰農令といっても、次男以下が耕す田んぼが無ければ帰るまいぞ。
質素倹約以外に武士に収入を取らせる、副業などもやらせれば解決したかもしれないが、これをすると益々奉公がおろそかになるとか葛藤もあったんだろうけど、定信は「商は詐なり!!」と平然と言う人だから最初から選択しになかったんだろうな。いずれにしてもこの人は理想主義に凝り固まりすぎた印象がある
直参の半分は無役だし、次男以下の部屋住みがたくさんいたから労働力としては十分あったのに。
@@yh6146 無益の直参御家人に公営で用心棒(今でいう警備員みたいな)仕事でもあっせんすれば治安問題にも貢献するし良かったんじゃないかと思うだけど、無理だったんだろうか(´・ω・`)?
直参の後家人の半分は無益だから、新たに職業をつくって食い扶持を減らせばいいのに‼️大奥にも合力金と言う名目の衣装代(経費)も、大雑把で、前述の奉公人と同じ。やり方が、大雑把だったし過ぎたのではないか………😅⤵️
「尊皇攘夷」は、遼やら金やらモンゴルに苦しめられた宋の時代を反映した宋学(朱子学)に起源があると聞きました。
定信の自伝で「長谷川某」という呼び方で功績を認めつつも、「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」とも述べているらしいので、やはり定信が嫌っていたことは間違いないんでしょうね。
それでも使われるあたり、鬼平がどれだけ有能だったのかが見えてくる気がします。
この夜景🌉新潟市ですね!よく通る所です。
沼垂ですね〜
新潟出身かな?
定信さんと言うと、倹約せよ、質素に暮らせ、贅沢は罪だ!と言う印象しかないのだけど...。
お金と物資のバランスは大切だけど、今度は物資を溜め込むこと、お田沼時代の極端な拝金主義から定信さんの極端な引き締めに走って、経済活動を止めてしまったと言う面がある。バランスを取ると言うのは大切だなと思ったよ。
最初は改革者として持ち上げられたけど、数年するとみんな我慢できなくなって失脚したというのは、後世の「改革」政治家の先駆けと言えると思う。
全然違う。
現代の『改革』はどちらかというと、現状の不満を誰かを悪者にして発散させる向きがあるから。
祖父の吉宗やお互い意識していたと言う鷹山には隠居と言う手があり、一回だけコンテニュー可(鷹山は主君押込くらいかけていて、コンテ不可になりかけたけど)。田沼と定信はオワタ式なんでこりゃあキツイ。スーパープレイやろうとして穴に落ちた田沼と、チマチマ引きこもりプレイしたら後ろから被弾の定信。
@@よしよし-k6p 田沼の功績を無視して、全てを田沼のせいにして、自領も放棄させた上に城を打ち壊し財産没収、大阪と江戸の屋敷も没収、息子は暗殺。本人は蟄居
田沼を生贄にして発散しまくった「改革」だよ
庶民が豊かになっていけば最後には武士の時代が終わってしまう。だから定信、というよりも武士の立場から見れば綱紀粛正を行い庶民を抑えるしかなかったしこの時代はそれでまだ何とかなった。この後の時代になると「外圧」という要素が加わって外圧を跳ね返すためには富国強兵を行うしかないと認識された。しかし富国強兵のために改革を行えば結局武士の時代が終わってしまう。武士側からしてみれば改革をしたら滅亡、改革をしなくても滅亡という矛盾に追い込まれその結果、明治維新に至った。
西洋史を見ても野放図な貨幣経済と踏み倒しの悪影響をどうコントロールするかは試行錯誤だったし
そういう時期だったんだろう。田沼と定信のどちらが良い悪いという話ではない。
世論の後押しが強かったろうし時代のうねりの一部だと考える、この時代に生きてないから単純に良い悪いと言えない。
市井にゃ好き放題やったとしか解りっこないからそらそうなるわとしか。
剣客商売の田沼は虚構として大好きだけど。
水野忠邦の解説も期待してます!
遠山の金さんや鳥居耀蔵の話もあるかな?
振り返ってみると吉宗の享保の改革って徹頭徹尾経済対策なんだよね。暴れん坊将軍のイメージとはかなり異なるけど。
贈答のやりとりが当たり前の時代を我々の尺度で贈収賄と言ってはダメでしょう。
米本位制の中での改革の限界。田沼の進めた金本位制が武士では異常なだけ。
吉宗時代が限界。
次回はついにあのオットセイ将軍の御成りでしょうか…楽しみです。
背景は新潟のNEXT21から撮影した竜ヶ島方面でしょうか。30年前に近所に住んでいたので懐かしいです。
多分朱鷺メッセの展望フロアからだと思います。
『現代的に見れば先進的で正しい政策』も、結局現代的な政治、経済、インフラ、物流等々のシステムが整っているから言えることであって、揺り戻しが起きるのもやむを得ないということか…。外憂内患の中での幕藩体制の維持というのが前提にあって、色々と難しい立場にあったんだろうな。
田沼再評価では『風雲児たち』が有名だけれど、『再評価のオーバーラン(の結果松平定信も過小評価してる)』なんて指摘もあるくらいだし、定信も手放しで褒め称えられる人物ではないけど、一定の能力は持っていたのだろうなぁ。
ただやーっぱり頭が固くて極端な印象はぬぐえないな、この人は。
寛政の改革期にはほとんど江戸の範囲が現在の東京23区と重なるくらいの大きさになっていく
定信の印象は「目的は正しいが手段が強引」ですかね。帰農令や棄捐令は当時の状況から狙いは分かるものの強引だし、その後を見ると…。飢饉からの幕府の立て直しの非常時には優秀でも平時には根回しや政治が上手くない印象が残りました。そして次回はオットセイの生態解説ですか…。
bgmが好きすぎる
なんだろう
定信の最大の誤りだと思うのは、林子平の海国兵談を禁書にしたのはしょうがないとしても
その思想を幕府内で再検討して諸外国の植民地主義に対処する諸政策をする組織なり学問を
根付かせなかったことだな。この時点で幕府内に対外政策に対処する組織なり朱子学と共に
国防のための教育機関を組織しておけば、ロシアなりイギリスなりが来た時点での開国政策
の方針が確立できていたかもしれない。そうすればペリーの黒船による強圧●イプ開国とい
う屈辱を避けられ、攘夷思想による幕末の混乱を避けられたかもしれないな。
次回も楽しみにしていますね。
本質的な政治の問題は今と変わりはないな。
そういえば、定信は老中辞職後に大老や国持大名と同格の少将に昇進している。定信を老中に返り咲かない様に昇進させたのかな?
生まれの血筋は将軍にもなれた御三卿ですから、お役御免であっても相応の待遇を用意して形式上は栄転って形にしたかったのでは
田沼意次とセットで語られるので、田沼が評価されると定信の評価は下がるのは分かるけど、あまりに経済政策ばかり評価するのはどうかと思う。為政者の大本の仕事は、衣食住の保証。飢饉、打ちこわしという食料問題がある以上、定信の政策はある程度評価されるべきと思う。ただ、皆さん書いている通りもう少し柔軟さや寛容さがあればと思う。
寛政の改革は統制経済の導入なわけだけど、有事においては統制経済は有効。
実際、大飢饉の有事下だったから定信を老中首座に据えたのは正解だったと思う。
問題なのは統制経済を恒久的なものにしようとしたことで、
恒久的な統制経済が絶対失敗することは歴史が証明するとおり。最たるものが共産主義。
逆説的に、平時であれば経済は基本、市場原理に委ねるべきとは言えるが、
田沼時代のように市場を過信しすぎると、格差による人心の荒廃から治安悪化や
体制転覆という代償を伴う。
まぁ両極端に振れすぎ、てところで単純な二元論で田沼と定信を評価できない。
定信は道徳に糸口を求め、理想主義者にしかなりえなかったわけだけど、
プレイヤーとして市場に参加しない限り、理想は理想のままでしかなく、
政策を通じ理想の実現を市場に働きかけるにしても、リアリズムに徹し、
インセンティブを与えて理想に近づけるて発想ができなかったてところだろうね。
そこいくと少し後れて生まれた渋沢栄一のすごいところは、近代資本主義の父と称される一方で
道徳経済論を唱えたこと。
渋沢栄一は、幼い頃から漢籍に親しみ定信の理想に近い信念を持っていたが、
官職を早々に辞して、定信とは対照的に市場プレイヤーとして事業活動を通じそれを実践した。
つまり江戸時代の経済の問題点とは、新井白石や松平定信、田沼意次はいたが、渋沢栄一はいなかった。
ここに尽きるのではないだろうか。
江戸時代は米が食糧であると同時に経済の根本でもあるから米の流通、米の値段がどうしてもキーになりますよね。
その意味で流通のコアの部分である都市部にどうしても人は集まってしまうというのは自然な流れですよね。だから人返しをしても結局何等かの形で都市部に戻る。現代の移民問題に通じるものがあります。
棄捐令ですけど、これ韓国とかでも大統領が就任時に人気取りのために行うらしいんですよね。
だから江戸時代の問題は近世という近代に価値観が近いということもあるかもしれませんけれど、古いようで新しい問題なんだろうなと感じさせられるわけです。
結局は「お金=物」と考える米本位制から脱却出来なかった事が、武士階級の困窮原因だし江戸幕府の財政悪化の原因でもあるんですよね
元禄改鋳を行った荻原重秀の様に現代の管理通貨制度に近い経済観を持っていた人もいたのですがね
@@thelaughingman5052
その荻原も結局経済のことを理解していない理想論的な主張をする新井白石によって追い出されてしまいましたからね。
荻原の貨幣改鋳はインフレを招いたとして批判的に見た人もいますけど、新井白石が元に戻した結果、今度は逆に景気低迷につながってしまいましたから経済というのはそんなに単純ではないということも言えるでしょう。
新井と違い、吉宗・田沼・定信・水野の四人はそれでも供給量を絞ればデフレを起こして不景気になることには気づいていた節があります。それぞれを俯瞰すると、吉宗は渋々(彼は大の新井嫌いでしたが、それでも新井の金融政策については自明の理だと思って当初は踏襲しており改めて現実を理解させられた形)、田沼と定信は吉宗の跡を継いでさらに進化(定信はこの点では田沼の後継者)、水野は逆にやり過ぎて失敗と言う違いはありますが…。
もし田沼の重商主義政策を続けてたら日本でもブルジョア革命が起こってペリーと関係なく江戸幕府が終わってた可能性もあるからなあ。
まあその方が日本のためにはよかった可能性もあるけど、
難題は、両腕ではなく、両肩に重くのしかかるものだと思います、
重箱の隅ですいません。
双肩ですかね?
補佐的(参謀)な役割に向いていた人なんじゃないかな。
旧里帰農令で帰農した無宿人4人ってマジ?
吉宗の理想は倹約ついで富国。田沼はその富国の部分。田沼擁護論的には後半は運がなかったになるけど、定信は富国に当たる後半に入れなかった感じだな。もちろん、短命政権の原因は政治力のなさと言ってしまえばそこまでだが、関東圏の経済振興策含め後半に向けた準備はしていてこれが花開いたのが化政時代。
ただ化政時代は享楽的過ぎると言う批判は当時もあって「田沼恋しき」の次の歌が「水野(忠成)出て 元の田沼と なりにけり」「びやぼんを 吹けば出羽どん 出羽どんと 金がものいう いまの世の中」だから定信時代も懐かしまれたのも事実…。
世渡り下手で経済音痴の政治家だと思うが、七分積金のことは褒めてあげてもいいと思う。江戸の長屋の水道が近代的な水道にバージョンアップできたのも定信のおかげ。塩爺のいうところの埋蔵金。
『確かに』が多い。
結局全て人事なんだろうな。どんな時代も抜擢される人がいて、それに納得できない人たちが「依怙贔屓だ」って言うというね。
やり方は正しくても将軍や天皇に嫌われてしまってはどうにもならない
享保の改革は吉宗が将軍だったからこそ一定の成果をあげることができたのであって
なお、幕内でも定信の倹約政策が批判されていたとよく言われるがそれは間違い。幕内で批判されていたのは田沼がやっていた幕府の支出を他の大名に転嫁する政策を定信が幕府の求心力低下を危惧して辞めさせたことであって、倹約政策については一切批判は起こっていない。
つうか、定信も田沼も、別に幕府体制を解体して近代国家を作るために政治をしてたわけでなく、あくまで当時の幕府と体制維持のために政治をしてたのだから、そもそも民間の成長なんていう武士の権力が相対的に下がる政策なんてやらないし幕閣としてはやってはならないんですよね。ようするに定信や田沼の有能性以前に民間経済の促進政策とかは根本的に幕府が倒れて武士の政権がなくならないと存在するはずがないわけで。
松平定信と松平容保と石田三成が同時代に会っていたら意気投合して友達になってそうですねw
庶民に対する贅沢禁止など経済音痴の最たるものですが、定信は田沼を全否定する勢いで極端な理想主義に走り、現実主義的な中庸を認めなかった点こそ失敗なんでしょうね。もっとも朱子学をベースにものを考える以上、程度の差はあっても行き詰るのは同じなんでしょうけど。
貨幣と米に関しては正解は無いんじゃないかな。
米が通貨になれば、収穫量で大きく左右されて物価が不安定になる。貨幣にすれば飢饉の時のように食糧がないのに金だけが残る。
食糧の安定供給が定まっていない、天候、外的要素で大きく影響されてしまうこの時代ではどちらかを通貨にしたところで綻びは生じていたでしょうね
政策を見ると、はっきり悪いと言いにくい内容で後世の評判が割りと良いのも分かる。
あと七分積金の逸話を見ていると実は徳川の埋蔵金の正体ってこれなんじゃないかと思えました。
なるほど、社会システムそのものの問題でもあったというわけですな。これは面白い。確かに社会が米本位制である以上は米そのものがないとどうしようもないわけで、田沼路線はその米があったが故に一時的に上手くいっていただけという一面もあるのでしょうね。その反動で人々が米を作らなくなり富の根源たる米がなくなり、また飢饉ともなり、人心は荒廃した。定信の対応はその意味では極めて「現実的」であったと。後世の我々がある時代の人を見て軽々に断罪してしまうのは、ともすればその背景にある動かしがたい巨大な「社会の仕組み」を忘れて現代的な理解で理解してしまうから、あるいは理解しようとしてしまっている事に無自覚であるからなのでしょうな。単純な暗愚迷妄の宰相という姿から定信のイメージが変わりました。実によい動画、よいチャンネルだ。
当時は、基本贅沢品の交易しかない制限貿易の時代だったから、儲かるからと言って、主食にならない商品作物が増える世の中になると、
飢饉の時、自給自足の国内経済の分、バタバタ亡くなるんだよな。
まあ、都市に流入した元農民も、土地は借金で地主に質に取られてるだろうし、他に田舎には仕事ないし、
一時金貰っても帰る場所ないよね。
今とそこら辺同じで、元田舎の東京住民が故郷になかなか戻れない理由と同じだな。
幕藩体制は武士が給与をコメとして貰う世の中なんで、米収入第一で考えがちだけど、世の中がカネ中心で回って、その進展が加速している以上、
その適応が出来ない事が幕末までひきづっちゃうんよね。
結局、幕末の幕府は旗本の動員を軍役金として代納するシステムに変更せざる得なくなって、昔の旗本八万騎が役に立たない世の中になってしまった。
江戸幕府の当初までは旗本・諸藩の武士も軍人と言う役割でも、やがて役人化・公務員化して、
幕末の欧米の近代化した兵制や武器の扱い方に慣れた軍人が必要な世の中になっちゃうと、別に役人化した武士じゃなくても良い・・となる。
定信の改革も一時しのぎに過ぎない感じで、武士が農民に寄生して陳腐化して、近代化した欧米には軍事的に役にたたない事が黒船来航以降露見しちゃうんよね。
定信は老中を務めるには早過ぎた、いろいろな役職を経験
してからも遅くはなかったのに
寛政の遺老、松平信明や牧野忠精の話は…さすがにしないかな?
しかし、七分金積立などの話が、明治のインフラの支えになってたのは知らなんだ…勉強になります。
個人的には田沼と比べると定信は凡庸に思いますが、当時としてはやれることはやっていたんですね、反対を押しきってでも。
真剣に世の中を真っ直ぐにしようとしたが、理想主義が過ぎたのと田沼時代憎しでド直球にやり過ぎたのがなあ…田沼時代の柔軟さには及ばず。
ところでtera senさん、もしや同郷ですか?
以前の動画の背景にマリンピア日本海の水槽を流されていたり、朱鷺メッセからの夜景を流されていたりと、新潟の景色をよく使われているので…
はい。新潟にお住まいの方にコメント頂け大変嬉しいです。今後ともよろしくお願いします
背景の街はどこでしょうか?
蔦屋の身代半減、歌麿の手鎖
当の定信は浮世絵好き(当世の情勢を知ることが出来るからと言うお堅い理由ですが)で、処罰したはずの彼らの手による作品を所持していたと言うから皮肉ですね。
この時代って現代の政治離れと似ているような気がする
ロシアの南下で幕末…
日本史の見えないところでは
列強最強の覇権国家。大英帝国が日本の近くまで忍び寄ってきてましたし…
よくもまぁ、日本が植民地にならなかったものです…
とんかつ政ちゃんがある。タレかつ丼が美味しい店。
40年くらい前の本でも、倹約を奨励しつつもそれが厳しすぎた上に徳政令の発布で武家の借金をチャラにしたことから経済を冷え込ませたとか書いてあったような…。
棄捐令を出して最初の数年は感謝されたけど、新規の借金が出来なくなり、生活ができなくなった下級武士が押し込み強盗をするようになって治安が悪くなり・・・・火つけ盗賊改、鬼平の出番が増える悪循環となりましたね。
@@あぼぼです 棄捐令からの貸し渋りは年越しの物入りに金が入らないことを危惧し早急に交渉に入ったことで、三ヵ月ほどで年を越せないなどと言われた貸し渋りは終息してますよ。取り消された借金も元金回収済みの物限定です。
また札差の約七割が他の富豪から金を借りて運用していました。そこから政府融資の低利で保証金のある金を使って大部分の札差が営業することができるようになり、富豪から高い利率で借りる必要がなくなった札差にも利益がもたらされることになりました。
昨今では歴史学者の中には棄捐令を武士だけでなく札差にも利益を与え、富豪の富を市場に還元して富の再分配になった成功政策と評価する人もいます。乱暴にすべてを棒引きにした徳政令とは別の政策です。
所得税や商税をかけられないなら富の再分配の選択肢としては供給量増やしてインフレを起こす(萩原や吉宗の最末期)か棄捐令しかないです。俯瞰すると
・萩原による元禄改鋳(1695年)
・吉宗による元文改鋳(1736年)
・定信による棄捐令(1789年)
・忠成による文政改鋳(1819年)
・忠邦による天保改鋳(1837年)と無利子年賦返済令(1843年)
と、好景気と物価の安定を背景にした文政期を除けば概ね40年から50年おきに事実上の徴税が行われていて、これは定信の時代では既に暗黙の了解になっていたと言う説もあります。
学問所が
林さんのとこにあるから、林大学頭なのか。
役職に苗字が付いているとは。
米がない?儲からないから作る人がいない??そんな時にはソフホーズ!!(*´∇`*)
この時代の日本の状態は、驚くほど現代の世界情勢と似ているとおもいますが、グローバル化の一方で途上国の人口爆発と食糧難が深刻化していますからね。
田沼=金満政治って、どこの話?むしろ財政立て直しで緊縮してた
天明の飢饉については田沼政治云々というより、借金だらけの諸藩が、米高騰でチャンスと売却してしまったのも問題
米本位は商人に売って貨幣に変える必要があり、相場で苦労するから直接金を稼げよ、としたのは間違っていない。周囲が思ってた以上に経済音痴だったが失敗だった
清濁合わせる。
田沼Jrの意知が
暗殺されて
いなかったら?
このもしもを
どうしても考えて
しまうんよ
定信とは
真逆の改革を
行ったかもしれない
フランスみたいに革命が起きていたのかもしれない
昌平坂学問所ってのちの東大につながっていくらしいね
後ろの額は、縦書きの文化でなく横書き(西欧)文化だ。
田沼を失脚させるのはまあ、政争あるあるだけど、個人的な、それもあんまり筋が通ってない私怨で過去の権力者以上にバランスを失した激しい追い討ちをかけた、人格的部分が好感持てないんだよな。朱子学一尊自体も日本では納得しづらい。
一番の問題は定信の政策さじ加減がよくなかったんだろうな。
ことの本質は間違いじゃないけど、日本人特有の政治への潔癖が出すぎたせいだろうな。
ただ、政治が弛緩していただけにこういったショック療法的な政策は必要だったかもな。
フォン・ゼークト将軍言うところの「指揮官にしてはならない’無能な働き者’」それが松平定信。
使用しているbgmを教えてください。
以前のアドバイスが非常に役立ちました。感謝しています!
綱吉と同じで現場を見てないから失敗したんだよね。
「経済的に儲かっていれば正義、不経済なことは悪」という経済至上主義の見方は、現代の非常に歪んだ見方だと思いますね。歴史を見るときに、そんな偏った見方で良いのかと疑問に思います。
ほんと、それです。
経済合理性は重要てすが、目的ではなく、手段であることを忘れるんですよね。
ずっと疑問に思い続けといてください。
鏡、自分が乗ってる安いクルマ、ぼろい家を見ながら。
経済とは『経世済民』のこと。
あなたの言うのは『商売』だね。
現代は商売至上主義
貧乏より金持ちの方がいいに決まってんだろ
貧乏人はしゃべんな
そうは言っても昔から経済的貧困がそのまま精神的貧困に繋がりやすかったのもまた事実なわけで…
白河の清き流れに堪えかねて元の濁りの田沼恋しき
世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶと言ひて夜も寝られず
松平定信という名宰相が居なければ、将軍家斉は50年も在位出来なかったように思います
経済音痴で時代遅れでも、決して間違ってないしな。尊号一件が問題だったりするのが日本的だなと。ラックスマンの子息が大黒屋光太夫を連れて帰ってきたわけで、長崎入港許可証を出したからレザーノフが出島にきて、なぜか軟禁されて、長崎奉行は親父の方の
遠山左衛門丞
ここが江戸幕府二度目のターニングポイントでしょ
田沼の重商主義を継承しなかったことが幕府の寿命を縮めた
弟も色々やらかした人
GDPの定義は政府支出も入ってるからね、
過剰な緊縮財政は経済を低下させるんよ。
まぁ今の日本人に行っても理解されないんだろうが笑
何が散財だよw
政府は民間に散々する分には良いんだよ笑
政策は限り無く、今も昔も甚だしいんですね。
迷い寄りに走っちゃって、暗い方に行く前に失脚しちゃって、情勢も鑑みて、政権を握った一族の政権寿命は、二百五十年ぐらいで天寿かしら、
賄賂が悪いか?必ずしもそうではないと思いますね?朱子学の世界観に凝り固まった、せいぜい白河藩を救うくらいの器しかない人物で、とても幕府のトップに立つ器ではありません。
現物である米から貨幣経済へ転換していたけど?理想ばかり述べて結局側近からも嫌われ。哀れ。
全て上から目線で貨幣経済へ転換している当時の現状が分からなかった。残念でした(笑)
今の価値観でよくそんな偉そうに言えるね笑。あなたは、とても歴史を語る器ではありません、哀れ。
@@よしよし-k6p 結局、世の中金なんだよ
田沼はやり方が汚すぎただけ
人間は正と濁を併せ持つ者なんだから極端な政策はいずれ崩壊する
お爺ちゃんの吉宗さんパクっただけだよね。
時代に逆行した凝り固まった人ですよ。これはダメよ?むしろ暗君の部類に入ります。田沼意次の方が名君の部分が多いでしょう?
個人的な意見ですよ。家斉の方が名君とは言えませんが、少なくとも?上に立つ人間として懐の深さや人としての情けがあったかと思います。
家光は屈折していたけどね。それでも人間としての情。そこで苦しんでいたから。
言うならば?定信は感情が感じられませんから。エリートの機械です。
基本吉宗も定信と似た世界観の持ち主ですが、幼少期世間を知ったこと。で?人としての情。がありますよね。
エリートで人として何が大切かを最低限理解出来ないで育つとこんな人間になりました(笑)定信ちゃん(笑)
もし、定信が将軍になっていたら、幕府はすぐに無くなった。
@@yh6146 同意する。血筋からその可能性ありました。
上に立つ人間としての器なんて有りません定信ちゃん(笑)
どこの誰かは分からないし興味もありませんしね。しかし私の拙いコメントに二つとも高評価ありがとうございます。
少し飛躍しますが隣国は今でも元ヤンパンの思想に支配されてます。地道に働くことがダメ。働かずに奴隷を従えて威張るのが立派な理想の姿ね。
歪曲すら歪曲ではない。脳内空想のお花畑が正しい歴史の国。
そりゃ。世界中から嫌われまくりの中国にまで民度が低いと言われます。
中国は人として接する。半島は人として扱う必要ありません。トンスルが唯一無二の独自の文化。
はぁ😞💨諭吉さんが述べた正論。半島に関わるな。半島を併合したのは失敗😵💧
朝鮮半島なんてロシアの植民地になってれば?
良かったのに。
歴史を忘れた民族に未来がない(笑)笑わせるな。じゃあ。ロシアの植民地になってれば?日本が守ってあげました(笑)
中国すら価値がないって判断した朝鮮半島ですねー😁
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