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一揆の武装、ヤクザが金属バットの「野球しに行くんじゃ!」と同じだったんですね 勉強になりました
なるほど。土佐の高知でも関ヶ原の戦いで長宗我部氏に代わり入ってきた山内氏の年貢が重く山間部では農民が丸ごと飛散したらしいこうなれば年貢は徴収できなくなり山内氏も改ためたが後の祭りだったそうです。
戦国時代を抜けて治安が回復した江戸時代の農民の一揆はどちらかと言うとストライキに近い感じだったんですね。
造詣深い動画で大変興味深く拝見しました。国人一揆あたりから調べてみます。
すげえ前半の「一揆」の概要説明には恐れ入った素晴らしくわかりやすい
郡上一揆ってそんな大事だったんだ。近場での一揆の代表例くらいにしか思ってなかった(岐阜出身)
封建的とされる江戸時代のほうが今より民衆が主張していたんだな。
今はなんだかんだまだ平和なのかな
@@まま-e4j財務省解体しないと税金無限に上がるぞ
大河ドラマ毛利元就では「一揆」というのが江戸時代の農民一揆を想起させてわかりにくいってことから「国人一揆」って言葉を使わないで「国人領主連合」って言葉を使ってたね
加賀の方も本当は守護富樫氏と下に本願寺と国人連合が実権を握っていただけ。
最近だと戦国時代の「一揆」を別の用語に置き換えたりしてますよね要は「元就」で置き換えたのが一つの先例になったのかな?
本一冊分ありそうなの内容を上手くまとめて解説して頂き、一揆への固定概念が変わりました。
そうだ、一揆しよう。
32:20 上野の民には名にし負う「天下の義人茂左衛門」、恩赦の使者が処刑に間に合わなかったとか言われているのも、なんとなく百姓側の気持ちを感じるところではあるなあ
日本で議会が生まれなかったのはなぜかと調べていましたが、凄いよかったです。
毎回勉強になるので楽しみにしています。ありがとうございます。
現代は一揆(デモ)を起こした人間達を「みっともないことをして・・・」みたいに見えちゃうからな江戸時代以上にお上に追従する時代になってしまってる気がする
現代では、江戸時代と異なり選挙制度が整えられていますからね。よほどのことがない限り、大半の人は「みんなで決めたことだから仕方がない」となります。1960年代、一部の先鋭化した人たちは実力行使を頻発させますが、先鋭化しているだけに「一揆」することができずに内ゲバに走り、ますます民衆が離れることになりました。
そんなこと思うの中国共産党勢力だけでしょ
「増税には命を懸けて反対、でも政治は上に丸投げが現代に通じる」深い考察でなるほどと思いました。
0:531992-1993のバルセロナ・アルベールビルオリンピックの時もそう言われていたので、なんだか不思議な感じがします。
最後の「今と変わらない」というのはこの動画見ると何だかそんな感じがしますね。為政者側は事が大きくなれば島原の例にも見られるように最悪、お家取りつぶしもあり得ることから話し合いに応じる、できる程度の歩み寄りをする、というのは理解しやすいのですが、百姓側も地域体制の変更を求めていないのが興味深いですね。地域政権の交代=問題の解決と認識していなかった可能性が伺えます。結局現代もそうですが、日本での為政者はこういう「調整型」が有り難がられるんでしょうかね。
日本ではカリスマ型、言い換えれば独裁者型の為政者は出にくいとされていますね。例外は織田信長くらいでしょうか。これは、大陸国では常に他国に攻め滅ぼされる危険と隣り合わせで、1人のリーダーに全権委任することでスピーディな政治判断が求められたのに対して、日本は海に守られて国家存亡の危機に直面することが極めて少なく、リーダーには時間をかけて多様な国民層の利益の最大公約数をまとめることが求められたからとも言われています。同じくスコットランド合併以降は海に守られたイギリスも、立憲君主制や議院内閣制といった権力分散や利益調整の仕組みが整えられました。
とても興味深く拝見しました。・・・現代も、同じですね。お上と、働く人間達・・・考えてしまいました。
学生時代のテストで間違って「百姓一発」と書いてしまったら、教師のツボに妙にハマったらしく返却時に「こんなの書くなw」と晒された。クラスが笑いタヒにしかけた。
水戸黄門では、御老公が村を訪れる度に「このままだと一揆しかねえだ~」という農民が現れますが、あれは相当レアなケースなんですね(笑)ちなみに最近は佐倉惣五郎の実在性すら疑問視されているとか?
佐倉宗吾は以前からモデルはいたかも知れないが、話自体は作り話とされてますね。
一揆ひとつとっても当時の社会情勢の影響を受けてるってのは面白いよね。社会安定後の百姓側と権力側との関係は、ある意味現代日本の労使の関係に似ているところはこの頃に雛型が出来たと考えられるのかも。
サンソフトの名作ゲーム「いっき」で、乱を起こした農民を討ち取るのに代官が兵士ではなく忍者を主力として使っていたのは事を公にしたくなかったからなのですね(*´∇`*)それと、今回割愛なされた打ちこわしのやり方についての解説をリクエストさせて頂きたく思います
取り立ててやるから首謀者教えて。教えたらバッサリ!
面白かったよ
最近髪の毛が一揆に抜けるんです
頭を絞りすぎたのでしょうか。
百生一棄ですね
蓑岸汁と不意捨成度をお試しあれ。
一揆 の意味、私は日本史は全然なんですがカムイ伝は中学の先生の推薦図書でした^_^;; 室町や、戦国時代の実相も、全然違う角度からみてイメージ変わりました いつも面白くて、わかりやすい動画、ありがとうございます。!
厚労省の調査では、「1974年だけで半日以上のストライキ件数が5197件、行為参加人員数が362万283人に達した」とされています。ある面昭和の方が物騒だったと言えるかもしれません。
昭和中期は大学生が武装蜂起したりするような乱世でしたから…(T△T)
@@inoki_bomber_yeah 60年安保70年安保の安保闘争ですね。
ブラック企業が多かったんじゃないの…
今は労働組合が機能せず労働者自体が正社員と派遣に階層化されるなどでストライキすらできなくなっているという考えもあるし実際労働者の待遇が上がらないし下の声が上に届かないから労働への満足度が先進国最低レベルで国も30年ほぼ無成長という悲惨な事態ですね
@@とりことりこ-k4f いくら国が温度を取ろうが企業は動かない。笛吹けど踊らずですな
もうがまんならねえだ!弾圧する→国がメチャクチャ銭を出す→銭なくなる窮乏を説く→聞かない
私の親戚の故郷では、「外様大名による陪臣いじめへの抵抗」として発生した一揆と言うものがあります。寛延三年(1750)頃、佐賀鍋島藩で第6代藩主鍋島丹後守宗教を隠居させようという跡目騒動が重臣の中に起こりました。その動きは結局、藩主宗教によって鎮圧され関係者が処罰されたのですが、その一人が幕閣へのコネとして利用した佐賀藩配下の陪臣諫早藩の藩主諫早石見茂行も巻き添えを食らって佐賀本藩から領地四千石を減知されるということになりました。それで、これに反対する諫早藩の下級武士や百姓が隠居していた儒学者、若杉春后を中心に一味同心して豊後の国、日田の西国郡代や大阪奉行に越訴したり佐賀藩の国境付近まで示威行動をとったりしたという一揆です。これにより幕府に目をつけられた佐賀藩は改易の一歩手前まで追い詰められ、武力鎮圧もかくやという状態までいったのですが佐賀藩は幕府重臣に物凄い実弾をぶつけて買収して改易をまぬがれるとともに佐賀城下に住まわせていた諫早藩主を諫早領に鎮撫に向かわせるなどして武力衝突は回避され若杉春后や越訴の実行者である百姓は逮捕・処刑されました。召し上げられていた四千石は騒動の17年後に返還され、若杉春后は若杉霊神として祀られています。一揆と言えば、武装蜂起というイメージがありましたが直訴という手段でも35万石の大大名を震撼させることができたのだという良い例だと思いますね。
新作待ってましたー‼︎
現代風に言いかえるなら、県や市に対する訴訟は出来る(ただし敗訴した場合は最高で死刑)といった感じかな。中世以前の自力救済社会よりはマシとはいえ、訴え出なければ命に関わるぐらいの状況がないとなかなか実行はできなさそう。
打ちこわしまで発展すれば、百姓も領主もまとめて処罰を受けるから、本当に生きるか死ぬかの瀬戸際まできた相当レアケースまずは村方三役で話し合い代官へ訴状を出す。99%はここで解決して終了
動画ありがとうございます。中世というか室町時代の不安定な政権によって社会が動乱していた時代と、ご指摘のようにそれなりのシステムなり秩序を確立した江戸時代の「安定」の時代という違いが一揆の性質の違いにあるのだろうなというのが感想です。
一揆は元々寄せ集まりであるのなら、やっぱりゲームの「いっき」は一揆ではないのかもしれませんね。
一揆では農民が鍬や鋤を武器に武士達と戦ったイメージがありますが、農民にとって鉄の農機具は毎晩磨いていたというほど大切な仕事道具であり一番の財産。そうでなくても信心深く人の命を奪う事に強い忌避を持っていた農民が、農機具を武器にして人の命を奪うなんてあり得ないって話を昔読みました。解説されているように一揆の際に農機具を掲げていたのは、あくまで自らが本百姓である旗印としてなんでしょうね。
「信心深く人の命を奪う事に強い忌避を」誰だそんなこと言った間抜けは
@Daisuke そりゃ一向一揆の話だろ。
中味の濃い深い解説をありがとうございます。江戸時代は、再検証し再評価されるべきですね。我々が教科書などで洗脳されてきた一つに、江戸は鎖国をして世界史的に遅れたとか。実際は、政から文化や芸術に至るまで、最も合理的で栄えた時代だったのかもしれない。年貢や税に関しては、明治時代よりもかなり負担が軽かったらしい。特に江戸幕府の御領地、お上に御糧米を捧げる農家は、両手で掬える程の大粒米だけで済んだとか。国抜けと言うのかな?農民はその藩で食えなければ他の藩に逃げる事もできた。領主や藩主は、農民が不満を抱えないように努力する必要性に迫られていたわけですね。なので、上に立つ者、特に殿様は文武両道のお手本となるよう勉強させられたようですね。
幕末のええじゃないか、では町民たちが朝から晩まで町中を踊り狂ったとか。wikiの『京都の「ええじゃないか」について』では、「水戸藩士綿引泰は夜間岐路の途中、狂人のように踊る人々の一段に行きあい、ともに踊って疲れた」とあります。武士ですら町民のエネルギーのたじたじとなる有様。元来、人間がもつエネルギーはかくも強烈。それが死にものぐるいで向かってきたら……
「何だか今も変わらないような」の一言が重いですね。いろいろな意味で、つい先日の選挙結果を思い出してしまいました。
この当時の農民ってかなりしたたかだよね。なんとなく歴史教科書読んでると農民って虐げられてたイメージだけど、よく考えると大名にとって石高って米作る農民の数に比例するんだなって思うと、働き手である農民を大切にするのは当たり前の事だよね。当時の農民は自分の権利をちゃんと主張してたのを考えると、むしろ現代の労働者は、社畜という農奴以下の存在に・・・いや何も言うまい
まぁ「したたかな農民・共同体」でないのは消滅していった、という話であると言えるのかも🙄
ひさしぶりのゆっくり大江戸イラストの一揆はアニメ「まんが日本史」のものを使っているぞ
1920年ドイツの「カップの一揆」では労働者(百姓)がゼネストで対抗、23年ヒトラーが逮捕された「ミュンヘン一揆」では軍部と下級兵士(百姓)の離反により失敗している。
イッキッキノキーとして現代にも受け継がれている
夏の五輪と冬の五輪が同じ年に開催されてたのが懐かしい。
リレハンメルとバルセロナ(1992年)までは同じ年に夏と冬いっぺんやってたんですよね
勉強になりましたので高評価押しました('ω')あっしの場合、ゲームの信長の野望の影響で、一揆=武力蜂起というイメージがあったのですが島原一揆は例外中の例外だったのですね('ω')
戦国時代の一揆は荘園で農民が立ち上がったり、一向宗の僧侶や国人が扇動しての一揆でしたが江戸時代のそれは農家が何もしてくれない幕府や大名の苛政による一揆が多かったですね。まあ最たるものは『島原の乱』ですね。まあうち壊しが目的の『ええじゃないか』も一揆っぽいですね。元は伊勢参りからのお陰様が高じて叫びながらどさくさ紛れにうち壊しをして行くと言う。
今回は動画じゃなくラジオになってますね。自転車漕ぐとき聞かせてもらってます。
この後に治めたのは、深溝松平氏でしたね。藩主没後必ず幸田深溝の本光寺に葬られました。
一揆といい兵農分離といい60年ぐらい前の学説を基にした解説だなぁ…。
あなたのアイコンを見て、とても見覚えがあるのですが、千葉さんでしょうか?
「お前ら、百姓を神か仏とでも思ってんのか?ここは何だってある。なんだってあるんだぜ?」七人の侍より
一揆に対する考え方が変わりました。日本人ってやっぱり平和だったんですね。
島原の乱の富岡藩は藩ではなく富岡は唐津藩の飛び地だったはずですが…島原の乱後に唐津藩富岡領は召し上げられ唐津藩は減封に。そして唐津藩2代藩主堅高の自殺で寺沢氏断絶につながった訳です。
考えたらどの身分の日本人も逞しいなぁ
私の先祖の地域では何度も一揆が起きているらしいものの詳しいことは不明で、ひとつもwikiにも記載されていないので不思議だったが、全国で千件以上とは相当起きているんですね。よく知られた一揆は藩主・領主が幕府から咎を受けているものばかりだから、相当悪質な事例であり、多くは幕府や近隣の藩に知られる前に穏便に済ませているんだろうね。
江戸時代の水戸徳川領で、小生瀬の庄屋大藤嘉衛門のところに納税を催促する役人が来たので直ちに納税したところ、その半月後にまたもや納税を催促する役人が来た。大藤は、組頭らを集めて協議した結果、偽者に違いないということになり、その役人を殺害した。ところが、後から来た役人は本物であった。襲撃された役人のうち二人は、水戸に逃げ帰って報告した。佐竹氏の善政でこの地方の領民がみんな佐竹氏を募っていることに手を焼いていた水戸徳川氏は、同年10月10日の朝、芦沢出羽守に150人の兵を従えさせて小生瀬を急襲した。片っ端から問答無用と民家に乱入し、家を壊し、家財を分捕り、人々を殺害した。領民たちは集まって哀訴嘆願したが惨殺され、数人は逃げたが一か村、三百数十人が殺された。
@@fivepointedstar196 まさにザ・中世!って世界ですなぁ
三閉伊一揆も面白いぞ
小学校の頃「ベロ出しチョンマ」ってアニメを道徳か何かで見せられたのを思い出した。
主人公は名主の子供、それを処刑するのは非人というのも江戸時代の身分制度を物語る。
「増税は全力で反対だが,政治はお上に丸投げ」この状況は個人的に変えたいと思っています.国民が選挙だけでなく,定期的な国民投票という形で政治参加出来たらよいのですが...
直接民主制がなぜ採用されていないかよく考えたほうがいい。
それはアカンやろ
選挙も国民投票も「投票」って点では変わらないんだよなぁどっちも選択肢が提示されてその中から選ぶんだから、結果が先鋭的かどうかの違いくらいしかない
民衆の代表として政治がなされる民主政治において、為政者がどうして無知無能なのか。それは………(以下略
過去に直接民主主義だった古代ギリシャと今でも部分的に直接民主主義が残ってるスイスの自治体の事案をよーく勉強して、な?
その内美談とされてる庄内藩の件も取り扱って欲しいです。
このチャンネルは好きだ
誰が訴状を渡しに行くのかを決めるのに、阿弥陀籤が使われていたそうです。阿弥陀如来の光背に見立てて、放射線状に線を引き横線で繋いで作っていました。阿弥陀様の前では皆平等、万が一には阿弥陀様の救いがある。と言っていたとか。梯子状になったのは近年になってからなんだそうです。
農民がひとりで道端の小判を集めたり鎌ブーメランを避けながら竹やり振り回したり、領主の館に侵入するのは一揆ではなかったんですね…
毎回 時候の挨拶、痛みいります
天一坊事件をゆっくり教えてください
一瞬、クソゲー代表の「いっき」の話かと思った
直訴は要するにちゃんと公的に用意された訴状システムが機能していない、命を掛けてでも訴えてくるレベルで追い詰められてるって意味だからねぇそりゃ上としても完全に無碍にする訳にも行かないよね、ましてシステムが機能していないと発覚した場合は自分の統治能力にまで問題が及んじゃうし
18:06 デコトラか?
今の日本の一般大衆が、昔の農民の魂を取り戻せば、日本は美しい国になるんじゃない?
「美しい国ニッポン」それ自体がフェイクだと未だに気が付かんのか
@@yamamotoyasuhiko9749 僕は、アヘさんでも○民党でもありません。ただ、良い世、美しい世の中が見たいだけです。
何も変わって無くない?政治に対して文句は言うくせに政治は政治家に丸投げって、まんまそうでしょ?
そうですね。日本国民は民主主義を理解していません。それで寡頭政治になってます。
先日、飲み会で一揆があったんです(TT)
今の日本に足りないのはこれなんだよな。自民党がどんなに庶民の利益を減らしても、一揆が起こらんし落選もしない
銃社会から銃を無くすのと同じくらい、百姓から武器全てを回収するなんて至難の業なのは考えてみたら当然よね。政権側、地方大名が圧迫する光景よりも百姓の方が乗り込んで「年貢下げろや」と脅しに掛かってくる方が割と当たり前だったんかな
江戸時代初期は幕府のご機嫌伺いをして、より大きく、豊かな領土を得るために、民を富ませるよりも、幕臣に賄賂を送るために税を取り立てる、大名が領地の増大よりも、子孫に伝えるために安定させる事を選ぶように幕府が統制したのも、一揆の減少に貢献したのだろう。
赤穂浪士の討ち入りは一揆というほどの規模じゃないのでは
百姓一揆が始まったら幕府側は鉄砲は使っても良いって成ってたけど、むやみに農民殺してたら余計に年貢が減るのでは、それとも他の百姓にしわ寄せ行くのかな?
あれ?サンソフトじゃないのか?(すっとぼけ)
朱鷺メッセの酒の陣も無くなりましたしねぇ。
そもそも大して食料生産できてなかったに違いない。しかし語呂が妙に明るい。だがほんとにあったのなら、おもちゃにしてはいけないと思われる。
一揆の原義で言うなら、現代での団体交渉や署名活動も当てはまるのかな!?武力蜂起=一揆というわけではないという事ですね。
越訴は基本 決定権のない歯車と話すと時間の無駄だからナ
宝暦郡上一揆!
江戸時代のことが知りたくてたどり着きました。どうしてもこの声に慣れずいつも途中でリタイアしちゃいます。知りたい内容のものも多いのですが、聞いていられず見るのを躊躇してしまいます。作者さんが普通に話して聞かせてはもらえないでしょうか?私だけだと思いますがこの声が不快に感じます。内容が素晴らしいだけにとても残念です。ご検討よろしくお願いします。
ミュンヘン一揆というのもあるよな。
恐ろしくつまんなそうなサムネからの、濃密すぎる解説……wwww
1992年まではずっと四年に一度冬と夏に五輪が開催されていました
いっき サンソフト・・・
尾張藩では江戸時代!一件もなかったぞ!
ここで飲まなきゃ男が廃る、イッキイッキイッキイッキ(ry😆👏
「お目こぼし」って言葉も死語になっちゃったし・・・
島原の乱は現代ではむしろ、苛政への反発ではなく宗教的動機のほうが強かったという認識が主流だと思いますよ。実際に一揆は幕府に対し信仰についての要求しかしていません。
ua-cam.com/video/jdyfuhg0m-M/v-deo.html
でも島原の乱の一揆勢は未だに殉教と認められていない。
キリスト教を名目にすれば南蛮人の加勢が得られるかもしれないからってことでキリスト教をメインに持ってきただけで、一揆の中核を担った浪人たちはキリスト教徒でも何でもなかったでしょ。宗教的動機が主だったなんて、むしろ昔の人が信じていた話じゃないですか?
@@nuruosan4398 そもそも島原の乱の原因を松倉などによる「苛政」としたのは江戸幕府であり、それは乱後の松倉の斬首という厳しい処分に表れています。幕府はむしろ、宗教が原因とすることには消極的でした。
@@seif1059 宗教が原因だったとしたらと松倉の苛政を追及して処分することができなくなる上に、一揆に参加しなかった農民たちも徹底的に調べ上げて全国的にキリシタン狩りをしなきゃいけなくなるからでしょ。対応と原因は必ずしも一致するわけじゃないですよ。
現代の政党も、新選組とかあるしそのうち国民一揆とか出てきそうだな。
新撰組は幕府の治安維持組織なのでどちらかと言えば一揆を制圧する側では?
@@BigFishEatLittleFish 山本太郎「維新とか言って体制にベッタリな政党もあるんで気にしないでください」
@@韓非-h4u い つ も の
N国党は「令和の百姓一揆だ」と言ってたよ。
カムイ伝や忍者武芸帖なんて忍術自体ウソばかりだし、あんなの本当に信じている人とかいるんだろうか?
現代の庶民は農家でなくても胡麻の如し。
画像がアニメ日本史。
一コメ
サムネがまんが日本史
一揆の武装、ヤクザが金属バットの「野球しに行くんじゃ!」と同じだったんですね 勉強になりました
なるほど。
土佐の高知でも関ヶ原の戦いで
長宗我部氏に代わり入ってきた
山内氏の年貢が重く山間部では
農民が丸ごと飛散したらしい
こうなれば年貢は徴収できなくなり山内氏も改ためたが後の祭りだったそうです。
戦国時代を抜けて治安が回復した江戸時代の農民の一揆はどちらかと言うとストライキに近い感じだったんですね。
造詣深い動画で大変興味深く拝見しました。
国人一揆あたりから調べてみます。
すげえ
前半の「一揆」の概要説明には恐れ入った
素晴らしくわかりやすい
郡上一揆ってそんな大事だったんだ。
近場での一揆の代表例くらいにしか思ってなかった(岐阜出身)
封建的とされる江戸時代のほうが今より民衆が主張していたんだな。
今はなんだかんだまだ平和なのかな
@@まま-e4j
財務省解体しないと税金無限に上がるぞ
大河ドラマ毛利元就では「一揆」というのが江戸時代の農民一揆を想起させてわかりにくいってことから「国人一揆」って言葉を使わないで「国人領主連合」って言葉を使ってたね
加賀の方も本当は守護富樫氏と下に本願寺と国人連合が実権を握っていただけ。
最近だと戦国時代の「一揆」を別の用語に置き換えたりしてますよね
要は「元就」で置き換えたのが一つの先例になったのかな?
本一冊分ありそうなの内容を上手くまとめて解説して頂き、一揆への固定概念が変わりました。
そうだ、一揆しよう。
32:20 上野の民には名にし負う「天下の義人茂左衛門」、恩赦の使者が処刑に間に合わなかったとか言われているのも、なんとなく百姓側の気持ちを感じるところではあるなあ
日本で議会が生まれなかったのはなぜかと調べていましたが、凄いよかったです。
毎回勉強になるので楽しみにしています。ありがとうございます。
現代は一揆(デモ)を起こした人間達を「みっともないことをして・・・」みたいに見えちゃうからな
江戸時代以上にお上に追従する時代になってしまってる気がする
現代では、江戸時代と異なり選挙制度が整えられていますからね。
よほどのことがない限り、大半の人は「みんなで決めたことだから仕方がない」となります。
1960年代、一部の先鋭化した人たちは実力行使を頻発させますが、
先鋭化しているだけに「一揆」することができずに内ゲバに走り、
ますます民衆が離れることになりました。
そんなこと思うの中国共産党勢力だけでしょ
「増税には命を懸けて反対、でも政治は上に丸投げが現代に通じる」深い考察でなるほどと思いました。
0:53
1992-1993のバルセロナ・アルベールビルオリンピックの時もそう言われていたので、なんだか不思議な感じがします。
最後の「今と変わらない」というのはこの動画見ると何だかそんな感じがしますね。
為政者側は事が大きくなれば島原の例にも見られるように最悪、お家取りつぶしもあり得ることから話し合いに応じる、できる程度の歩み寄りをする、というのは理解しやすいのですが、百姓側も地域体制の変更を求めていないのが興味深いですね。地域政権の交代=問題の解決と認識していなかった可能性が伺えます。
結局現代もそうですが、日本での為政者はこういう「調整型」が有り難がられるんでしょうかね。
日本ではカリスマ型、言い換えれば独裁者型の為政者は出にくいとされていますね。
例外は織田信長くらいでしょうか。
これは、大陸国では常に他国に攻め滅ぼされる危険と隣り合わせで、
1人のリーダーに全権委任することでスピーディな政治判断が求められたのに対して、
日本は海に守られて国家存亡の危機に直面することが極めて少なく、
リーダーには時間をかけて多様な国民層の利益の最大公約数をまとめることが求められたからとも言われています。
同じくスコットランド合併以降は海に守られたイギリスも、
立憲君主制や議院内閣制といった権力分散や利益調整の仕組みが整えられました。
とても興味深く拝見しました。・・・現代も、同じですね。お上と、働く人間達・・・考えてしまいました。
学生時代のテストで間違って「百姓一発」と書いてしまったら、教師のツボに妙にハマった
らしく返却時に「こんなの書くなw」と晒された。クラスが笑いタヒにしかけた。
水戸黄門では、御老公が村を訪れる度に「このままだと一揆しかねえだ~」という農民が現れますが、あれは相当レアなケースなんですね(笑)
ちなみに最近は佐倉惣五郎の実在性すら疑問視されているとか?
佐倉宗吾は以前からモデルはいたかも知れないが、話自体は作り話とされてますね。
一揆ひとつとっても当時の社会情勢の影響を受けてるってのは面白いよね。
社会安定後の百姓側と権力側との関係は、ある意味現代日本の労使の関係に似ているところはこの頃に雛型が
出来たと考えられるのかも。
サンソフトの名作ゲーム「いっき」で、乱を起こした農民を討ち取るのに代官が兵士ではなく忍者を主力として使っていたのは事を公にしたくなかったからなのですね(*´∇`*)
それと、今回割愛なされた打ちこわしのやり方についての解説をリクエストさせて頂きたく思います
取り立ててやるから首謀者教えて。
教えたらバッサリ!
面白かったよ
最近髪の毛が一揆に抜けるんです
頭を絞りすぎたのでしょうか。
百生一棄ですね
蓑岸汁と不意捨成度をお試しあれ。
一揆 の意味、私は日本史は全然なんですがカムイ伝は中学の先生の推薦図書でした^_^;; 室町や、戦国時代の実相も、全然違う角度からみてイメージ変わりました いつも面白くて、わかりやすい動画、ありがとうございます。!
厚労省の調査では、「1974年だけで半日以上のストライキ件数が5197件、行為参加人員数が362万283人に達した」とされています。ある面昭和の方が物騒だったと言えるかもしれません。
昭和中期は大学生が武装蜂起したりするような乱世でしたから…(T△T)
@@inoki_bomber_yeah 60年安保70年安保の安保闘争ですね。
ブラック企業が多かったんじゃないの…
今は労働組合が機能せず労働者自体が正社員と派遣に階層化されるなどでストライキすらできなくなっているという考えもあるし
実際労働者の待遇が上がらないし下の声が上に届かないから労働への満足度が先進国最低レベルで国も30年ほぼ無成長という悲惨な事態ですね
@@とりことりこ-k4f いくら国が温度を取ろうが企業は動かない。
笛吹けど踊らずですな
もうがまんならねえだ!
弾圧する→国がメチャクチャ
銭を出す→銭なくなる
窮乏を説く→聞かない
私の親戚の故郷では、「外様大名による陪臣いじめへの抵抗」として発生した一揆と言うものがあります。
寛延三年(1750)頃、佐賀鍋島藩で第6代藩主鍋島丹後守宗教を隠居させようという跡目騒動が重臣の中に起こりました。
その動きは結局、藩主宗教によって鎮圧され関係者が処罰されたのですが、その一人が幕閣へのコネとして利用した
佐賀藩配下の陪臣諫早藩の藩主諫早石見茂行も巻き添えを食らって佐賀本藩から領地四千石を減知されるということになりました。
それで、これに反対する諫早藩の下級武士や百姓が隠居していた儒学者、若杉春后を中心に一味同心して
豊後の国、日田の西国郡代や大阪奉行に越訴したり佐賀藩の国境付近まで示威行動をとったりしたという一揆です。
これにより幕府に目をつけられた佐賀藩は改易の一歩手前まで追い詰められ、武力鎮圧もかくやという状態までいったのですが
佐賀藩は幕府重臣に物凄い実弾をぶつけて買収して改易をまぬがれるとともに
佐賀城下に住まわせていた諫早藩主を諫早領に鎮撫に向かわせるなどして武力衝突は回避され
若杉春后や越訴の実行者である百姓は逮捕・処刑されました。
召し上げられていた四千石は騒動の17年後に返還され、若杉春后は若杉霊神として祀られています。
一揆と言えば、武装蜂起というイメージがありましたが
直訴という手段でも35万石の大大名を震撼させることができたのだという良い例だと思いますね。
新作待ってましたー‼︎
現代風に言いかえるなら、県や市に対する訴訟は出来る(ただし敗訴した場合は最高で死刑)といった感じかな。中世以前の自力救済社会よりはマシとはいえ、訴え出なければ命に関わるぐらいの状況がないとなかなか実行はできなさそう。
打ちこわしまで発展すれば、百姓も領主もまとめて処罰を受けるから、本当に生きるか死ぬかの瀬戸際まできた相当レアケース
まずは村方三役で話し合い代官へ訴状を出す。99%はここで解決して終了
動画ありがとうございます。
中世というか室町時代の不安定な政権によって社会が動乱していた時代と、ご指摘のようにそれなりのシステムなり秩序を確立した江戸時代の「安定」の時代という違いが一揆の性質の違いにあるのだろうなというのが感想です。
一揆は元々寄せ集まりであるのなら、やっぱりゲームの「いっき」は一揆ではないのかもしれませんね。
一揆では農民が鍬や鋤を武器に武士達と戦ったイメージがありますが、農民にとって鉄の農機具は毎晩磨いていたというほど大切な仕事道具であり一番の財産。そうでなくても信心深く人の命を奪う事に強い忌避を持っていた農民が、農機具を武器にして人の命を奪うなんてあり得ないって話を昔読みました。解説されているように一揆の際に農機具を掲げていたのは、あくまで自らが本百姓である旗印としてなんでしょうね。
「信心深く人の命を奪う事に強い忌避を」
誰だそんなこと言った間抜けは
@Daisuke
そりゃ一向一揆の話だろ。
中味の濃い深い解説をありがとうございます。
江戸時代は、再検証し再評価されるべきですね。
我々が教科書などで洗脳されてきた一つに、江戸は鎖国をして世界史的に遅れたとか。実際は、政から文化や芸術に至るまで、最も合理的で栄えた時代だったのかもしれない。
年貢や税に関しては、明治時代よりもかなり負担が軽かったらしい。
特に江戸幕府の御領地、お上に御糧米を捧げる農家は、両手で掬える程の大粒米だけで済んだとか。
国抜けと言うのかな?
農民はその藩で食えなければ他の藩に逃げる事もできた。領主や藩主は、農民が不満を抱えないように努力する必要性に迫られていたわけですね。
なので、上に立つ者、特に殿様は文武両道のお手本となるよう勉強させられたようですね。
幕末のええじゃないか、では町民たちが朝から晩まで町中を踊り狂ったとか。wikiの『京都の「ええじゃないか」について』では、「水戸藩士綿引泰は夜間岐路の途中、狂人のように踊る人々の一段に行きあい、ともに踊って疲れた」とあります。武士ですら町民のエネルギーのたじたじとなる有様。元来、人間がもつエネルギーはかくも強烈。それが死にものぐるいで向かってきたら……
「何だか今も変わらないような」の一言が重いですね。いろいろな意味で、つい先日の選挙結果を思い出してしまいました。
この当時の農民ってかなりしたたかだよね。なんとなく歴史教科書読んでると農民って虐げられてたイメージだけど、よく考えると大名にとって石高って米作る農民の数に比例するんだなって思うと、働き手である農民を大切にするのは当たり前の事だよね。当時の農民は自分の権利をちゃんと主張してたのを考えると、むしろ現代の労働者は、社畜という農奴以下の存在に・・・いや何も言うまい
まぁ「したたかな農民・共同体」でないのは消滅していった、という話であると言えるのかも🙄
ひさしぶりのゆっくり大江戸
イラストの一揆はアニメ「まんが日本史」のものを使っているぞ
1920年ドイツの「カップの一揆」では労働者(百姓)がゼネストで対抗、
23年ヒトラーが逮捕された「ミュンヘン一揆」では軍部と下級兵士(百姓)の離反により失敗している。
イッキッキノキーとして現代にも受け継がれている
夏の五輪と冬の五輪が同じ年に開催されてたのが懐かしい。
リレハンメルとバルセロナ(1992年)までは同じ年に夏と冬いっぺんやってたんですよね
勉強になりましたので高評価押しました('ω')
あっしの場合、ゲームの信長の野望の影響で、一揆=武力蜂起というイメージがあったのですが
島原一揆は例外中の例外だったのですね('ω')
戦国時代の一揆は荘園で農民が立ち上がったり、一向宗の僧侶や国人が扇動しての一揆でしたが江戸時代のそれは農家が何もしてくれない幕府や大名の苛政による一揆が多かったですね。まあ最たるものは『島原の乱』ですね。まあうち壊しが目的の『ええじゃないか』も一揆っぽいですね。元は伊勢参りからのお陰様が高じて叫びながらどさくさ紛れにうち壊しをして行くと言う。
今回は動画じゃなくラジオになってますね。自転車漕ぐとき聞かせてもらってます。
この後に治めたのは、深溝松平氏でしたね。藩主没後必ず幸田深溝の本光寺に葬られました。
一揆といい兵農分離といい60年ぐらい前の学説を基にした解説だなぁ…。
あなたのアイコンを見て、とても見覚えがあるのですが、千葉さんでしょうか?
「お前ら、百姓を神か仏とでも思ってんのか?ここは何だってある。なんだってあるんだぜ?」
七人の侍より
一揆に対する考え方が変わりました。日本人ってやっぱり平和だったんですね。
島原の乱の富岡藩は藩ではなく
富岡は唐津藩の飛び地だったはずですが…
島原の乱後に唐津藩富岡領は召し上げられ唐津藩は減封に。
そして唐津藩2代藩主堅高の自殺で寺沢氏断絶につながった訳です。
考えたらどの身分の日本人も逞しいなぁ
私の先祖の地域では何度も一揆が起きているらしいものの詳しいことは不明で、ひとつもwikiにも記載されていないので不思議だったが、全国で千件以上とは相当起きているんですね。よく知られた一揆は藩主・領主が幕府から咎を受けているものばかりだから、相当悪質な事例であり、多くは幕府や近隣の藩に知られる前に穏便に済ませているんだろうね。
江戸時代の水戸徳川領で、小生瀬の庄屋大藤嘉衛門のところに納税を催促する役人が来たので直ちに納税したところ、その半月後にまたもや納税を催促する役人が来た。大藤は、組頭らを集めて協議した結果、偽者に違いないということになり、その役人を殺害した。ところが、後から来た役人は本物であった。襲撃された役人のうち二人は、水戸に逃げ帰って報告した。佐竹氏の善政でこの地方の領民がみんな佐竹氏を募っていることに手を焼いていた水戸徳川氏は、同年10月10日の朝、芦沢出羽守に150人の兵を従えさせて小生瀬を急襲した。片っ端から問答無用と民家に乱入し、家を壊し、家財を分捕り、人々を殺害した。領民たちは集まって哀訴嘆願したが惨殺され、数人は逃げたが一か村、三百数十人が殺された。
@@fivepointedstar196
まさにザ・中世!って世界ですなぁ
三閉伊一揆も面白いぞ
小学校の頃「ベロ出しチョンマ」ってアニメを道徳か何かで見せられたのを思い出した。
主人公は名主の子供、それを処刑するのは非人というのも
江戸時代の身分制度を物語る。
「増税は全力で反対だが,政治はお上に丸投げ」
この状況は個人的に変えたいと思っています.
国民が選挙だけでなく,定期的な国民投票という形で政治参加出来たらよいのですが...
直接民主制がなぜ採用されていないかよく考えたほうがいい。
それはアカンやろ
選挙も国民投票も「投票」って点では変わらないんだよなぁ
どっちも選択肢が提示されてその中から選ぶんだから、結果が先鋭的かどうかの違いくらいしかない
民衆の代表として政治がなされる民主政治において、為政者がどうして無知無能なのか。それは………(以下略
過去に直接民主主義だった古代ギリシャと今でも部分的に直接民主主義が残ってるスイスの自治体の事案をよーく勉強して、な?
その内美談とされてる庄内藩の件も取り扱って欲しいです。
このチャンネルは好きだ
誰が訴状を渡しに行くのかを決めるのに、阿弥陀籤が使われていたそうです。
阿弥陀如来の光背に見立てて、放射線状に線を引き横線で繋いで作っていました。
阿弥陀様の前では皆平等、万が一には阿弥陀様の救いがある。
と言っていたとか。
梯子状になったのは近年になってからなんだそうです。
農民がひとりで道端の小判を集めたり鎌ブーメランを避けながら竹やり振り回したり、領主の館に侵入するのは一揆ではなかったんですね…
毎回 時候の挨拶、痛みいります
天一坊事件をゆっくり教えてください
一瞬、クソゲー代表の「いっき」の話かと思った
直訴は要するにちゃんと公的に用意された訴状システムが機能していない、命を掛けてでも訴えてくるレベルで追い詰められてるって意味だからねぇ
そりゃ上としても完全に無碍にする訳にも行かないよね、ましてシステムが機能していないと発覚した場合は自分の統治能力にまで問題が及んじゃうし
18:06 デコトラか?
今の日本の一般大衆が、昔の農民の魂を取り戻せば、日本は美しい国になるんじゃない?
「美しい国ニッポン」それ自体がフェイクだと未だに気が付かんのか
@@yamamotoyasuhiko9749 僕は、アヘさんでも○民党でもありません。
ただ、良い世、美しい世の中が見たいだけです。
何も変わって無くない?
政治に対して文句は言うくせに政治は政治家に丸投げって、まんまそうでしょ?
そうですね。
日本国民は民主主義を理解していません。それで寡頭政治になってます。
先日、飲み会で一揆があったんです(TT)
今の日本に足りないのはこれなんだよな。自民党がどんなに庶民の利益を減らしても、一揆が起こらんし落選もしない
銃社会から銃を無くすのと同じくらい、百姓から武器全てを回収するなんて至難の業なのは考えてみたら当然よね。
政権側、地方大名が圧迫する光景よりも百姓の方が乗り込んで「年貢下げろや」と脅しに掛かってくる方が割と当たり前だったんかな
江戸時代初期は幕府のご機嫌伺いをして、
より大きく、豊かな領土を得るために、
民を富ませるよりも、
幕臣に賄賂を送るために税を取り立てる、
大名が領地の増大よりも、
子孫に伝えるために安定させる事を選ぶように幕府が統制したのも、一揆の減少に貢献したのだろう。
赤穂浪士の討ち入りは一揆というほどの規模じゃないのでは
百姓一揆が始まったら幕府側は鉄砲は使っても良いって成ってたけど、むやみに農民殺してたら余計に年貢が減るのでは、それとも他の百姓にしわ寄せ行くのかな?
あれ?サンソフトじゃないのか?(すっとぼけ)
朱鷺メッセの酒の陣も無くなりましたしねぇ。
そもそも大して食料生産できてなかったに違いない。しかし語呂が妙に明るい。だがほんとにあったのなら、おもちゃにしてはいけないと思われる。
一揆の原義で言うなら、現代での団体交渉や署名活動も当てはまるのかな!?
武力蜂起=一揆というわけではないという事ですね。
越訴は基本 決定権のない歯車と話すと時間の無駄だからナ
宝暦郡上一揆!
江戸時代のことが知りたくてたどり着きました。
どうしてもこの声に慣れずいつも途中でリタイアしちゃいます。
知りたい内容のものも多いのですが、聞いていられず見るのを躊躇してしまいます。
作者さんが普通に話して聞かせてはもらえないでしょうか?
私だけだと思いますがこの声が不快に感じます。
内容が素晴らしいだけにとても残念です。
ご検討よろしくお願いします。
ミュンヘン一揆というのもあるよな。
恐ろしくつまんなそうなサムネからの、濃密すぎる解説……wwww
1992年まではずっと四年に一度冬と夏に五輪が開催されていました
いっき サンソフト・・・
尾張藩では江戸時代!一件もなかったぞ!
ここで飲まなきゃ男が廃る、
イッキイッキイッキイッキ(ry😆👏
「お目こぼし」って言葉も死語になっちゃったし・・・
島原の乱は現代ではむしろ、苛政への反発ではなく宗教的動機のほうが強かったという認識が主流だと思いますよ。実際に一揆は幕府に対し信仰についての要求しかしていません。
ua-cam.com/video/jdyfuhg0m-M/v-deo.html
でも島原の乱の一揆勢は未だに殉教と認められていない。
キリスト教を名目にすれば南蛮人の加勢が得られるかもしれないからってことでキリスト教をメインに持ってきただけで、一揆の中核を担った浪人たちはキリスト教徒でも何でもなかったでしょ。
宗教的動機が主だったなんて、むしろ昔の人が信じていた話じゃないですか?
@@nuruosan4398 そもそも島原の乱の原因を松倉などによる「苛政」としたのは江戸幕府であり、それは乱後の松倉の斬首という厳しい処分に表れています。幕府はむしろ、宗教が原因とすることには消極的でした。
@@seif1059 宗教が原因だったとしたらと松倉の苛政を追及して処分することができなくなる上に、一揆に参加しなかった農民たちも徹底的に調べ上げて全国的にキリシタン狩りをしなきゃいけなくなるからでしょ。
対応と原因は必ずしも一致するわけじゃないですよ。
現代の政党も、新選組とかあるしそのうち国民一揆とか出てきそうだな。
新撰組は幕府の治安維持組織なのでどちらかと言えば一揆を制圧する側では?
@@BigFishEatLittleFish 山本太郎「維新とか言って体制にベッタリな政党もあるんで気にしないでください」
@@韓非-h4u い つ も の
N国党は「令和の百姓一揆だ」と言ってたよ。
カムイ伝や忍者武芸帖なんて忍術自体ウソばかりだし、
あんなの本当に信じている人とかいるんだろうか?
現代の庶民は農家でなくても胡麻の如し。
画像がアニメ日本史。
一コメ
サムネがまんが日本史