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池袋線は速く新宿線は遅いイメージがあったが、これを見て複々線の恩恵を感じた
コメントありがとうございます。おっしゃる通りで複々線化前は緩急列車ダンゴ状態でした。ただ池袋線の良いところは新宿線と違い、急行の停車駅が少ないことです。埼玉県民にとってはありがたいです。
中村橋の懐かしい駅舎が・・・いいもの見れました
SuperNagaz様、コメントありがとうございます。中村橋の駅舎を懐かしんでいただけて幸いです。この動画の少し後の時代ですが、同駅舎末期の動画もUPしました。(見苦しくて恐縮ですが)↓にリンクを貼り付けします、お時間がありましたらぜひご覧下さい。ua-cam.com/video/PoQn7E9xmrg/v-deo.html
西武線利用して20年ぐらいになりますが乗り鉄で西武池袋線複々線工事👷♀️よく見に行ってました。
ずっきチャンネルさん、コメントありがとうございます。20年位、ということは、複々線工事がかなり進んでいたころでしょうか。池袋線の変化は目まぐるしいですね。
この動画を見ると、2面3線が中心とはいえ、3~4駅ごとに退避できる駅が設置されている新宿線がいかに恵まれていたかわかりますね
コメントありがとうございます。そういう見方も確かにできますね。新宿、池袋、両線の違いは歴史的背景に由来するものと思います。池袋線は貨物営業も行う汽車鉄道、新宿線は歴史が比較的浅い郊外電車。池袋線は貨物取扱いで構内の広い駅は多かったものの、待避線設備は石神井公園より池袋側では江古田だけでした(注、本ビデオ撮影時点で)。
閉塞を特急から各停まで朝は取り合いするからノロノロは仕方ない
出発信号機設置駅にカンノメロが導入される直前くらいの時期ですかね?
ちょうどこのころこの辺りに住んでいたのでとても懐かしいですね。
turbo様、コメントありがとうございます。私自身池袋線はおろか、日本を離れてしまったため、当時の様子が懐かしく思い出されます。たまに帰国して西武線に乗ると、当時から見ると大きく変貌したもののやっぱりいいな~って思いますね。
撮影したのは、朝ラッシュの時間帯でしょうか?今の朝ラッシュの時よりも電車同士の間隔が狭いように感じます
ビデオを見返したところ、椎名町駅通過時に映る時計が8時50あたりを指しております。池袋発車時刻はそこから逆算すると平日8時47分発の急行ということになります。従いまして、ラッシュ時間は少し外れております。しかしながら、当時は地下鉄乗入れ前で全列車が池袋に集約されます。また、複々線前ということもあり、優等列車は緩行列車の通過機会が希少(この頃は、同撮影区間では待避線のある江古田が唯一の通過機会)にて、ノロノロ断続運転となっておりました。記憶では、それこそ朝のラッシュ時にあってはこの現象がより顕著でした。
@@vasutfan1 「通過機会」とは追い越しの事でしょうか?
@@yn5066 さん、はい、当時複々線はおろか練馬高野台駅も未開業で、池袋~石神井公園間で待避線を有するのは江古田駅のみでした。ちなみに江古田の待避線の役割は、現在東長崎に移っております。
子供の頃大泉に住んでいて、よく電車を見に行ったり、江古田の耳鼻科に通ったりしてたので懐かしいです。80年代の頃でしたが、ホーム側面にある列車接近の電球が点灯すると電車が来るのでワクワクしたり、新101系と3000系の前面方向幕の色や文字の書体の違いを発見したり、3000系にはなぜ電連(当時は名前も機能も知りませんでした)がないのか疑問に思っていたのを懐かしく思います。江古田がまだ2面4線だし101系も全車ベージュ帯ありの主力で走ってるのが良いですね。スピードは遅くても通勤時間帯で次々とすれ違うので楽しめました。個人的に新2000系はいまだに新宿線ってイメージがあります。
コメントをいただきありがとうございます。ああ、ありましたね、列車接近時点灯する電球が。特にホームがカーブとなっていた地上時代の富士見台駅のものが印象に残っております。3000系は不遇な形式でしたね。そういえば同系の製造過程を見学すべく、東急車輛(当時)まで見に行った覚えがあります。
地平ホーム時代の桜台駅とか練馬駅初めて見ました いつも使ってた駅なんで新鮮です
コメントをいただきありがとうございます。私も以前池袋線を利用しておりましたが、むしろ地上時代の方が馴染み深いです。もっと撮影しておけばと悔やまれます。
池袋駅の発車ベルは貴重ですね〜
約40年前にこの富士見台駅の近くの病院で産まれ、練二小の小2まで貫井で、引っ越して高野台でそして、小6の年末まで富士見台4丁目近辺に住んでいたんで、懐かしいですその近くの団地で遊びに行って、よく豊島園の花火を見てました千葉に引っ越してからは、あれからかなり街並みが変わりましたね。練馬高野台駅が開業した時は近くの団地に行った時がありました当時は石神井公園から練馬の間の踏切が「開かずの踏切」として多かった記憶がある
昔の映像よく残ってますねスゴイ
ひばりヶ丘まででまともに待避できそうなのが江古田しかないなんて今の時代からしたら考えられないですね。今では複々線区間のほかに東長崎、練馬、石神井公園の待避線も使いやすい形になりました(逆に江古田の待避線は無くなりましたが)。しかし、どうも西武池袋線のダイヤの組み方は下手くそで、パターンダイヤとして全然なってないのは、制約だらけで組まれたダイヤの名残がどこかに存在するのでしょうか。
コメントありがとうございます。そうですね!自分は今は池袋線を利用しておりませんが、たまに池袋から所沢以遠に利用しようとすると、優等列車の発車時間が一定でない、ムラがある、という印象を受けます。乗入が本格化する前のほうが、利用しやすかった面もあります。今はまぁ練馬で副都心線から来た飯能行きに乗り換えればいいのですが。あと乗入が本格化する前の過渡期の頃は、とにかく乗入直通運転の列車が冷遇されていましたね。練馬駅で3分停車⇒後続優等列車待避など、イライラしながら出発を待ったものです(複々線開通前のはなしです)。
Rapid ・特急が1時間に1本しかない・急行・快急・特急が其々対になって設定されているこの2点が理由として挙げられるかと
練馬駅付近は高架複々線反対が激しかったと聞いた事がありますが、実際のところどうだったのでしょうか?
高架化工事開始よりずっと前、昭和50年代に練馬近辺の線路端、万年塀などに騒音で耳を塞ぐ人、あと赤ちゃんが激しく泣く様子などで、高架化反対をアピールした看板を見た記憶があります。確かスローガンは、「高架化反対!地下化賛成!」だったと思います。当時私は子供で、しかも所沢在住ということもあり実情は知りませんが、成田空港反対ほどのひどいトラブルはありませんでした。
ご返信ありがとうございます。揉めに揉めてようやく来年(2018年)に複々線が完成する小田急と比べ、当初計画通り高架化で押し通して完成させた西武の力はすごいなと当時思いました。将来この区間にかつての宿敵である東急車が走るなんて当時誰が想像したでしょうか(逆も然り)。
懐かしいです。もう殆ど景色が変わってしまった区間ですね。朝の上りは石神井公園過ぎるとほぼノロノロでしたから、非冷房に当たると最悪でした。
懐かしいお話ありがとうございます。そうでしたね!昭和のころ、非冷房・赤電・3ドア車全盛、で池袋の出口も前のほう1か所の時代が長かったので、朝間ラッシュ時上りはみんな前のほうに乗ってましたね。石神井公園の押し屋(死後?)、ドアにコートのスソなどを挟まれた人、日常の光景でした!
tukemen 前方に前の電車が見えてましたね、あれが出ないとこっちも動かないなーなんて思ってました池袋直前は下りが出発しないとこっちの電車が進まないとか!
なつかしの映像ですね😊
コメントいただきありがとうございます。自分としては数年前のつもりでしたが、もう四半世紀前の記録になるんですね。
1994年2月じゃ流石に古いべや、赤ずきんチャチャの時代♪
懐かしい、朝の時間帯の撮影かな?急行飯能行きも、こんな走り方だったんですね。
コメントありがとうございます。動画を見直しますと、練馬駅通過が8:56頃、中村橋駅通過が8:59頃です。経過時間から逆算すると、8:45くらいに池袋を出発する急行に乗車していたようです。当時は(この動画の撮影区間においては)退避できる駅が江古田のみ、優等列車もノロノロ運転でした。今でも桜台・池袋間は、地下鉄乗り入れ実施でスジに余裕ができたものの、朝は結構ノロノロ運転ですね。
up主さん、西武線の歴史に詳しそうなので質問させていただきます。自分は幼少期に西武線沿線に住んでいましたが、そのころにはすでに桜台~練馬高野台の高架化が完了していました、この動画を見ると現在の高架区間はブロックに分けられて建設されているように見えるのですが、どのような工法で高架化が進められたのでしょうか?また、この動画の後半、現在の練馬高野台駅の辺りではまず、現在の下り線が先に建設されたことがわかりますが、中村橋や富士見台でもそうだったのでしょうか?中村橋駅の数少ない高架化工事中の写真を見ると高架化直後は現在、優等列車線路側に無理矢理ホームを設けて二面二線の構造になっている写真を見つけました、どのような手順で高架複線化が進められたのか教えてください。長文すみませんm(__)m
コメントありがとうございます。高架化工事の変遷ですが、以下自分の曖昧な記憶なのでその辺ご了承下さい。工事は大まかに2ブロック、一つは桜台~練馬間、もう一つは中村橋~練馬高野台間です。各々地上既存線から見て前者は飯能方左手に、後者は飯能方右手にまず高架橋を設置。最初の高架使用は、'94年の有楽町線練馬までの暫定開業にあわせ桜台~練馬間の下り線でした。中村橋以遠はご指摘の通り、まず'97年現行の上り緩行線を「上り」に、現行の上り急行線を「下り」にして使用を開始しました。ここで記憶がはっきりしないのは、'97年いっぺんに上下線とも高架化したかどうかです。ご存知とは思いますが、上記2ブロックに分けた要因は目白通りの逆立体化という難工事があったためで、本プロジェクトのボトルネックとなっておりました。逆立体後は、各区間地上既存線用地を利用の上高架橋を設置、複々線化しました。尚、高架化直前の中村橋駅、富士見台駅の様子もupしておりますので、もしお時間がありましたらご笑覧下さい。
練馬高野台駅の工事中、毎日この景色を見ていたはずなんだけど、ロクに覚えていない…。桜台駅もちょくちょく利用してたけど、高架化工事をしてたのすら覚えてないとは。桜台駅って地上時代は地下道で上下線のホームを連絡してませんでしたっけ?
コメントありがとうございます。練馬高野台駅の工事は環八との立体交差後開始、確か早くから追い越し退避が可能な駅でした。桜台駅、地下道による上下線の連絡通路はなかったと記憶しております。中村橋も上下線が孤立、従い乗り過ごしてこの二駅で下車した場合、いったん改札をでなければなりませんでした。地上時代の桜台はホーム幅も狭く、住宅地の庭先を間借りするような状態でした。
調べてみたら、元々跨線橋だったみたいです。それが、高架化工事の為に跨線橋が撤去され、仮設の地下道になっていたようです。
地上時代が残されてますね
コメントありがとうございます。高架線の使用開始は、'94年10月から、先行で桜台⇒練馬の下り線からだったと記憶しております。(記憶違いの場合は、どうかご容赦下さい。)
Nice video. Whoever recorded this film, I say thank you.
地上時代の練馬駅が懐かしい
つゆし様コメントありがとうございます。練馬駅、今では大江戸線が通り、渋谷・横浜・新木場方面に一本で行けるのですから、当時から見たら隔世の感があります。
練馬駅ていつ高架化したんですか?
@@トーマス大友 当時小学生だったから全然覚えてないですが、1994年12月には練馬まで有楽町線が開通してるのでこの動画を撮った直後には高架化してるはずです。当時4000系の快速急行に乗っていたら急に高いところを走り始めてびっくりした記憶があります。
@@tsuyushi0127 さま、1994年の10月初めに下り線が高架に切り替わりました。
@@coziyftv78 ありがとうございます切り替え初日は休日だったんでしょうかね?
石神井公園で下りてちょっと歩くとミリオタが集まるドイツ軍モノショップ、エリカクラブがあった。懐かしい。
石神井公園駅近くにそんなお店があったんですか?知りませんでした。自分はもっぱら中野ブロードウェイ、まんだらけあたりをウロウロしてました。
2000系が優等運用にいませんね。6000系は新宿線配属だったのかな?
この頃はまだまだ3ドア車が主力、N2000系が池袋線に導入されて間もない時期でした。おっしゃる通り、乗降時間を短縮できる4ドア車を普通列車に充当、停車駅が少なく飯能行等比較的長距離を走る急行等に101系列を充当しておりました。ここでお気づきかと思うのですが、3000系はいかにも中途半端、短命に終わった理由がわかるような気がします。この頃6000系は、6101Fが池袋線に配属されておりました。
1991年ごろに、新2000系が朝ラッシュの準急に投入されている動画を見ましたよ
電車が詰まってるね今じゃ練馬の大踏切を知らない人多いからね
コメントありがとうございます。ほんとに当時は、優等列車も先行の普通が退避するまでノロノロ運転でした。練馬の大踏切、ありましたね。完全高架化する前片線のみの暫定高架使用で、幾分「開かず」が緩和された記憶があります。
朝は混雑を避けて上り一番後ろに乗ってましたが、中村橋と練馬の大踏切は通過すると遮断機を潜り抜ける人が絶えなかったものです。その位酷かったですね。
3:22 でチラッと反射して映る黄色い手のドアステッカーが懐かしいですね
何もかも懐かしい😢そして3ドア車(全てツートンカラー)だらけという😲2000N系のスカートの色が今と違い薄いです。(1994年2月だと9000系はまだ4連で狭山線にいる頃でしたね😊池袋線に9000系がくるのは1996年12月なのでした😨)
懐かしいですね。東長崎から先の変貌ぶりは今では想像つかないでしょうね。この頃はひばりヶ丘過ぎると江古田くらいしか追い抜き出来なかったので昼でもノロノロでした。一番目玉は練馬過ぎてすぐの目白通りの立体交差。一旦鉄道をアンダーパスにして後に上下入れ替えという離れ業の様子が残る貴重な映像です。
コメントありがとうございます。池袋線、特に池袋~石神井公園の変貌は目を見張るものがあります。おっしゃる通り、以前ひばりヶ丘から池袋の間はひどいものでした。複々線になる前、小手指7時30発の上り普通列車の後を特急が続行、結局江古田でやっと追い越し可能な状況でした。また、同普通列車は特急退避後も急行の通過待ちで、江古田で3分ほどの停車を余儀なくされておりました、土休日でこの状況でしたから、平日のひどさは想像を絶するものがあります。目白通りの逆立体、一大イベントでした。工事遅延を想定し、バス代替輸送等バックアップ体制も万全でした。工事当日は寒い日で、この難工事を一晩で完成させるって、やはり日本人ってすごいです!
今江古田は退避なくなってるよね。そのかわり東長崎になったのかな。あと過密ダイヤな気がする笑
あ、まだ東長崎駅の踏切の左に車止めが残っている(^^;
西武はやっぱり3ダァーじゃないと。
🥕ぶらり途中下車西武池袋線🌳ひばりヶ丘生まれです。FM西東京さんバテリスナー♨️岩の湯デラックス🛀です🏮🌺
池袋線は速く新宿線は遅いイメージがあったが、これを見て複々線の恩恵を感じた
コメントありがとうございます。おっしゃる通りで複々線化前は緩急列車ダンゴ状態でした。ただ池袋線の良いところは新宿線と違い、急行の停車駅が少ないことです。埼玉県民にとってはありがたいです。
中村橋の懐かしい駅舎が・・・いいもの見れました
SuperNagaz様、コメントありがとうございます。
中村橋の駅舎を懐かしんでいただけて幸いです。この動画の少し後の時代ですが、同駅舎末期の動画もUPしました。(見苦しくて恐縮ですが)
↓にリンクを貼り付けします、お時間がありましたらぜひご覧下さい。
ua-cam.com/video/PoQn7E9xmrg/v-deo.html
西武線利用して20年ぐらいになりますが乗り鉄で西武池袋線複々線工事👷♀️よく見に行ってました。
ずっきチャンネルさん、コメントありがとうございます。20年位、ということは、複々線工事がかなり進んでいたころでしょうか。池袋線の変化は目まぐるしいですね。
この動画を見ると、2面3線が中心とはいえ、3~4駅ごとに退避できる駅が設置されている新宿線がいかに恵まれていたかわかりますね
コメントありがとうございます。そういう見方も確かにできますね。新宿、池袋、両線の違いは歴史的背景に由来するものと思います。池袋線は貨物営業も行う汽車鉄道、新宿線は歴史が比較的浅い郊外電車。池袋線は貨物取扱いで構内の広い駅は多かったものの、待避線設備は石神井公園より池袋側では江古田だけでした(注、本ビデオ撮影時点で)。
閉塞を特急から各停まで朝は取り合いするからノロノロは仕方ない
出発信号機設置駅にカンノメロが導入される直前くらいの時期ですかね?
ちょうどこのころこの辺りに住んでいたのでとても懐かしいですね。
turbo様、コメントありがとうございます。私自身池袋線はおろか、日本を離れてしまったため、当時の様子が懐かしく思い出されます。たまに帰国して西武線に乗ると、当時から見ると大きく変貌したもののやっぱりいいな~って思いますね。
撮影したのは、朝ラッシュの時間帯でしょうか?
今の朝ラッシュの時よりも電車同士の間隔が狭いように感じます
ビデオを見返したところ、椎名町駅通過時に映る時計が8時50あたりを指しております。池袋発車時刻はそこから逆算すると平日8時47分発の急行ということになります。従いまして、ラッシュ時間は少し外れております。しかしながら、当時は地下鉄乗入れ前で全列車が池袋に集約されます。また、複々線前ということもあり、優等列車は緩行列車の通過機会が希少(この頃は、同撮影区間では待避線のある江古田が唯一の通過機会)にて、ノロノロ断続運転となっておりました。記憶では、それこそ朝のラッシュ時にあってはこの現象がより顕著でした。
@@vasutfan1 「通過機会」とは追い越しの事でしょうか?
@@yn5066 さん、はい、当時複々線はおろか練馬高野台駅も未開業で、池袋~石神井公園間で待避線を有するのは江古田駅のみでした。ちなみに江古田の待避線の役割は、現在東長崎に移っております。
子供の頃大泉に住んでいて、よく電車を見に行ったり、江古田の耳鼻科に通ったりしてたので懐かしいです。
80年代の頃でしたが、ホーム側面にある列車接近の電球が点灯すると電車が来るのでワクワクしたり、新101系と3000系の前面方向幕の色や文字の書体の違いを発見したり、3000系にはなぜ電連(当時は名前も機能も知りませんでした)がないのか疑問に思っていたのを懐かしく思います。
江古田がまだ2面4線だし101系も全車ベージュ帯ありの主力で走ってるのが良いですね。
スピードは遅くても通勤時間帯で次々とすれ違うので楽しめました。
個人的に新2000系はいまだに新宿線ってイメージがあります。
コメントをいただきありがとうございます。ああ、ありましたね、列車接近時点灯する電球が。特にホームがカーブとなっていた地上時代の富士見台駅のものが印象に残っております。3000系は不遇な形式でしたね。そういえば同系の製造過程を見学すべく、東急車輛(当時)まで見に行った覚えがあります。
地平ホーム時代の桜台駅とか練馬駅初めて見ました いつも使ってた駅なんで新鮮です
コメントをいただきありがとうございます。私も以前池袋線を利用しておりましたが、むしろ地上時代の方が馴染み深いです。もっと撮影しておけばと悔やまれます。
池袋駅の発車ベルは貴重ですね〜
約40年前にこの富士見台駅の近くの病院で産まれ、練二小の小2まで貫井で、引っ越して高野台で
そして、小6の年末まで富士見台4丁目近辺に住んでいたんで、懐かしいです
その近くの団地で遊びに行って、よく豊島園の花火を見てました
千葉に引っ越してからは、あれからかなり街並みが変わりましたね。
練馬高野台駅が開業した時は近くの団地に行った時がありました
当時は石神井公園から練馬の間の踏切が「開かずの踏切」として多かった記憶がある
昔の映像よく残ってますね
スゴイ
ひばりヶ丘まででまともに待避できそうなのが江古田しかないなんて今の時代からしたら考えられないですね。今では複々線区間のほかに東長崎、練馬、石神井公園の待避線も使いやすい形になりました(逆に江古田の待避線は無くなりましたが)。
しかし、どうも西武池袋線のダイヤの組み方は下手くそで、パターンダイヤとして全然なってないのは、制約だらけで組まれたダイヤの名残がどこかに存在するのでしょうか。
コメントありがとうございます。そうですね!自分は今は池袋線を利用しておりませんが、たまに池袋から所沢以遠に利用しようとすると、優等列車の発車時間が一定でない、ムラがある、という印象を受けます。乗入が本格化する前のほうが、利用しやすかった面もあります。今はまぁ練馬で副都心線から来た飯能行きに乗り換えればいいのですが。あと乗入が本格化する前の過渡期の頃は、とにかく乗入直通運転の列車が冷遇されていましたね。練馬駅で3分停車⇒後続優等列車待避など、イライラしながら出発を待ったものです(複々線開通前のはなしです)。
Rapid
・特急が1時間に1本しかない
・急行・快急・特急が其々対になって設定されている
この2点が理由として挙げられるかと
練馬駅付近は高架複々線反対が激しかったと聞いた事がありますが、実際のところどうだったのでしょうか?
高架化工事開始よりずっと前、昭和50年代に練馬近辺の線路端、万年塀などに騒音で耳を塞ぐ人、あと赤ちゃんが激しく泣く様子などで、高架化反対をアピールした看板を見た記憶があります。確かスローガンは、「高架化反対!地下化賛成!」だったと思います。当時私は子供で、しかも所沢在住ということもあり実情は知りませんが、成田空港反対ほどのひどいトラブルはありませんでした。
ご返信ありがとうございます。
揉めに揉めてようやく来年(2018年)に複々線が完成する小田急と比べ、当初計画通り高架化で押し通して完成させた西武の力はすごいなと当時思いました。
将来この区間にかつての宿敵である東急車が走るなんて当時誰が想像したでしょうか(逆も然り)。
懐かしいです。もう殆ど景色が変わってしまった区間ですね。朝の上りは石神井公園過ぎるとほぼノロノロでしたから、非冷房に当たると最悪でした。
懐かしいお話ありがとうございます。そうでしたね!昭和のころ、非冷房・赤電・3ドア車全盛、で池袋の出口も前のほう1か所の時代が長かったので、朝間ラッシュ時上りはみんな前のほうに乗ってましたね。石神井公園の押し屋(死後?)、ドアにコートのスソなどを挟まれた人、日常の光景でした!
tukemen
前方に前の電車が見えてましたね、あれが出ないとこっちも動かないなーなんて思ってました
池袋直前は下りが出発しないとこっちの電車が進まないとか!
なつかしの映像ですね😊
コメントいただきありがとうございます。自分としては数年前のつもりでしたが、もう四半世紀前の記録になるんですね。
1994年2月じゃ流石に古いべや、赤ずきんチャチャの時代♪
懐かしい、朝の時間帯の撮影かな?急行飯能行きも、こんな走り方だったんですね。
コメントありがとうございます。動画を見直しますと、練馬駅通過が8:56頃、中村橋駅通過が8:59頃です。経過時間から逆算すると、8:45くらいに池袋を出発する急行に乗車していたようです。当時は(この動画の撮影区間においては)退避できる駅が江古田のみ、優等列車もノロノロ運転でした。今でも桜台・池袋間は、地下鉄乗り入れ実施でスジに余裕ができたものの、朝は結構ノロノロ運転ですね。
up主さん、西武線の歴史に詳しそうなので質問させていただきます。自分は幼少期に西武線沿線に住んでいましたが、そのころにはすでに桜台~練馬高野台の高架化が完了していました、この動画を見ると現在の高架区間はブロックに分けられて建設されているように見えるのですが、どのような工法で高架化が進められたのでしょうか?また、この動画の後半、現在の練馬高野台駅の辺りではまず、現在の下り線が先に建設されたことがわかりますが、中村橋や富士見台でもそうだったのでしょうか?中村橋駅の数少ない高架化工事中の写真を見ると高架化直後は現在、優等列車線路側に無理矢理ホームを設けて二面二線の構造になっている写真を見つけました、どのような手順で高架複線化が進められたのか教えてください。
長文すみませんm(__)m
コメントありがとうございます。高架化工事の変遷ですが、以下自分の曖昧な記憶なのでその辺ご了承下さい。工事は大まかに2ブロック、一つは桜台~練馬間、もう一つは中村橋~練馬高野台間です。各々地上既存線から見て前者は飯能方左手に、後者は飯能方右手にまず高架橋を設置。最初の高架使用は、'94年の有楽町線練馬までの暫定開業にあわせ桜台~練馬間の下り線でした。中村橋以遠はご指摘の通り、まず'97年現行の上り緩行線を「上り」に、現行の上り急行線を「下り」にして使用を開始しました。ここで記憶がはっきりしないのは、'97年いっぺんに上下線とも高架化したかどうかです。ご存知とは思いますが、上記2ブロックに分けた要因は目白通りの逆立体化という難工事があったためで、本プロジェクトのボトルネックとなっておりました。逆立体後は、各区間地上既存線用地を利用の上高架橋を設置、複々線化しました。尚、高架化直前の中村橋駅、富士見台駅の様子もupしておりますので、もしお時間がありましたらご笑覧下さい。
練馬高野台駅の工事中、毎日この景色を見ていたはずなんだけど、ロクに覚えていない…。
桜台駅もちょくちょく利用してたけど、高架化工事をしてたのすら覚えてないとは。桜台駅って地上時代は地下道で上下線のホームを連絡してませんでしたっけ?
コメントありがとうございます。練馬高野台駅の工事は環八との立体交差後開始、確か早くから追い越し退避が可能な駅でした。桜台駅、地下道による上下線の連絡通路はなかったと記憶しております。中村橋も上下線が孤立、従い乗り過ごしてこの二駅で下車した場合、いったん改札をでなければなりませんでした。地上時代の桜台はホーム幅も狭く、住宅地の庭先を間借りするような状態でした。
調べてみたら、元々跨線橋だったみたいです。それが、高架化工事の為に跨線橋が撤去され、仮設の地下道になっていたようです。
地上時代が残されてますね
コメントありがとうございます。高架線の使用開始は、'94年10月から、先行で桜台⇒練馬の下り線からだったと記憶しております。(記憶違いの場合は、どうかご容赦下さい。)
Nice video. Whoever recorded this film, I say thank you.
地上時代の練馬駅が懐かしい
つゆし様
コメントありがとうございます。練馬駅、今では大江戸線が通り、渋谷・横浜・新木場方面に一本で行けるのですから、当時から見たら隔世の感があります。
練馬駅ていつ高架化したんですか?
@@トーマス大友 当時小学生だったから全然覚えてないですが、1994年12月には練馬まで有楽町線が開通してるのでこの動画を撮った直後には高架化してるはずです。
当時4000系の快速急行に乗っていたら急に高いところを走り始めてびっくりした記憶があります。
@@tsuyushi0127 さま、1994年の10月初めに下り線が高架に切り替わりました。
@@coziyftv78 ありがとうございます
切り替え初日は休日だったんでしょうかね?
石神井公園で下りてちょっと歩くとミリオタが集まるドイツ軍モノショップ、エリカクラブがあった。懐かしい。
石神井公園駅近くにそんなお店があったんですか?知りませんでした。自分はもっぱら中野ブロードウェイ、まんだらけあたりをウロウロしてました。
2000系が優等運用にいませんね。6000系は新宿線配属だったのかな?
この頃はまだまだ3ドア車が主力、N2000系が池袋線に導入されて間もない時期でした。おっしゃる通り、乗降時間を短縮できる4ドア車を普通列車に充当、停車駅が少なく飯能行等比較的長距離を走る急行等に101系列を充当しておりました。ここでお気づきかと思うのですが、3000系はいかにも中途半端、短命に終わった理由がわかるような気がします。この頃6000系は、6101Fが池袋線に配属されておりました。
1991年ごろに、新2000系が朝ラッシュの準急に投入されている動画を見ましたよ
電車が詰まってるね
今じゃ
練馬の大踏切を知らない人多いからね
コメントありがとうございます。ほんとに当時は、優等列車も先行の普通が退避するまでノロノロ運転でした。練馬の大踏切、ありましたね。完全高架化する前片線のみの暫定高架使用で、幾分「開かず」が緩和された記憶があります。
朝は混雑を避けて上り一番後ろに乗ってましたが、中村橋と練馬の大踏切は通過すると遮断機を潜り抜ける人が絶えなかったものです。その位酷かったですね。
3:22 でチラッと反射して映る黄色い手のドアステッカーが懐かしいですね
何もかも懐かしい😢そして3ドア車(全てツートンカラー)だらけという😲
2000N系のスカートの色が今と違い薄いです。(1994年2月だと9000系はまだ4連で狭山線にいる頃でしたね😊池袋線に9000系がくるのは1996年12月なのでした😨)
懐かしいですね。東長崎から先の変貌ぶりは今では想像つかないでしょうね。この頃はひばりヶ丘過ぎると江古田くらいしか追い抜き出来なかったので昼でもノロノロでした。一番目玉は練馬過ぎてすぐの目白通りの立体交差。一旦鉄道をアンダーパスにして後に上下入れ替えという離れ業の様子が残る貴重な映像です。
コメントありがとうございます。池袋線、特に池袋~石神井公園の変貌は目を見張るものがあります。おっしゃる通り、以前ひばりヶ丘から池袋の間はひどいものでした。複々線になる前、小手指7時30発の上り普通列車の後を特急が続行、結局江古田でやっと追い越し可能な状況でした。また、同普通列車は特急退避後も急行の通過待ちで、江古田で3分ほどの停車を余儀なくされておりました、土休日でこの状況でしたから、平日のひどさは想像を絶するものがあります。
目白通りの逆立体、一大イベントでした。工事遅延を想定し、バス代替輸送等バックアップ体制も万全でした。工事当日は寒い日で、この難工事を一晩で完成させるって、やはり日本人ってすごいです!
今江古田は退避なくなってるよね。そのかわり東長崎になったのかな。
あと過密ダイヤな気がする笑
あ、まだ東長崎駅の踏切の左に車止めが残っている(^^;
西武はやっぱり3ダァーじゃないと。
🥕ぶらり途中下車西武池袋線🌳ひばりヶ丘生まれです。FM西東京さんバテリスナー♨️岩の湯デラックス🛀です🏮🌺