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【魏志倭人伝】邪馬台国はここにあった!邪馬台国論争に終止符!?【真・日本の歴史】

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  • Опубліковано 9 вер 2020
  • 『古事記』も『日本書紀』も『魏志倭人伝』も普通に読むと、邪馬台国の位置で揉める必然性は全くないのです。詳しくは動画を見てもらえばわかります。
    当チャンネルで最も人気のある動画に「邪馬台国はここだ!」というものがあるのですが、ボリュームが少なく、もっと内容のあるものにしてほしい、というコメントを多数いただいたこともあり、もっとちゃんとした動画として作り替えることにしました。
    / @user-tp1fq1qt2n
    よろしくお願い致しますm(__)m
    チャンネル登録して頂ければ、真の日本の歴史について、詳しくなれます。自虐思想にまみれた歴史学者の隠してきた事実を、「古事記」「日本書紀」等の我が国の歴史書や諸外国の歴史書を参考に、個人的な見解を加えて紹介していきます。
    ご視聴いただきありがとうございます。
    タイトル:【魏志倭人伝】邪馬台国はここにあった!邪馬台国論争に終止符!?【真・日本の歴史】
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    #魏志倭人伝#大和王朝#邪馬台国#卑弥呼#邪馬台国#古墳#教育#勉強#解説#日本史#日本の歴史#衝撃#弥生時代#ミステリー#解説#

КОМЕНТАРІ • 916

  • @user-tp1fq1qt2n
    @user-tp1fq1qt2n  3 роки тому +19

    少しでも楽しんで頂けた方は、この動画を評価してくださいね。
    高評価数が多いと、次の動画製作に、やる気が、より高まります。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому +4

      本当にとてつもなく素晴らしい動画で嬉しくてウキウキになります。

    • @kenchisato
      @kenchisato 3 роки тому

      なんだこりゃ?自分のコメントに自分でハトを打つのか?ハジいな、とっても!日本人にはできないな所業!大丈夫???

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому

      @@kenchisato よく分からないのですが
      自作自演と仰りたいのですか?
      つまり私と動画投稿主様が同一人物だと思われていますか?
      別人ですよ^^;

    • @kenchisato
      @kenchisato 3 роки тому +2

      ​@@pocapamas さん、
      はい、同一人物とは思っていません。他にちょくちょく中学生のように煽ってくる輩がいまして、そいつが投稿主だと疑っています。
      この件に関して、私があなたに質問しているのは、あなたが私のコメント任の返信されたこと、及びこの件に関しご知見を有していると判断したからです。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому +1

      @@kenchisato
      >そいつが投稿主だと疑っています。
      それはちょっと考え過ぎではないかと^^;

  • @nobuyoshimoriwake4953
    @nobuyoshimoriwake4953 3 роки тому +66

    モロッコに37年住んでいます。UA-camで邪馬台国の勉強をさせてもらっているけど、あなたのところの話が一番しっくりしているように思えます。ありがとうございます。

  • @user-cl5pi4zo1b
    @user-cl5pi4zo1b 2 роки тому +87

    この動画を全面的に支持する。歴史学者に対する批判をものの見事に言い当て、すべての疑問に対して、正確に答えてくれている。正しい理解に基づき、我が国の古代史を精確に明らかにしていると言える。

    • @akiaki8488
      @akiaki8488 2 роки тому +11

      素晴らしい解釈だと思います

  • @user-vi7rz9dy9j
    @user-vi7rz9dy9j 3 роки тому +107

    邪馬台国論争がいつまでも終息しないのは、教授が「カラスは白い」と言えば「カラスは白い」と言わなきゃならない考古学教室の閉鎖性の故では?

    • @user-bd5zb8fk9z
      @user-bd5zb8fk9z 3 роки тому +20

      わたしもそう思います。考古学だけでなく、殆どすべての学会は保守的で閉鎖的。反論すると追放される。

    • @starcoquerer7241
      @starcoquerer7241 3 роки тому +9

      続日本記に、近畿と九州の二つの邪馬台国から唐に使者がやって来て、そこで喧嘩を始めたとしっかり書かれていますが?つまり、近畿と九州の二つとも正しいのですよ。一つと思う方がおかしいのです。

    • @user-bd5zb8fk9z
      @user-bd5zb8fk9z 3 роки тому +10

      @@starcoquerer7241 様 続日本記って平安時代初期に編纂された勅撰史書で菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成したものです。
      菅野さんが「邪馬台国はどこにあったか、どうもわからん、近畿と九州にしちゃえ」とやっちゃったんでは?逆らっちゃってごめんね。

    • @makotoyoshii2831
      @makotoyoshii2831 3 роки тому +13

      結論を先に言うと、今の天皇制の維持に関わる重大な歴史史観の転換とアジア地域支配に関し白人の都合が悪くなるため封印。
      歴史書なんて、時の政権が自身の地位をタカめるために国費で作るものだから、どれもこれもご都合の良いことばかり記載されていると考えてます。忖度は昔からw
      その上で、三国志の中のこっち側の記述は書き手のご都合もあるだろうけど、所詮は、ひとのうち、他山の出来事。なんで少しは信憑性あるんだろうなと思ってます。
      明治政府が新しく作った大日本帝國、日本は単一民族で、神武天皇以下天皇家中心の歴史感は、そりゃ作られた歴史だからw
      本当は、日本は多民族国家で諸国バラバラで、侵略と殺戮と民族根絶やしの歴史でしょうな。
      御用学者もお給料で生活している以上文句は言えない。
      日本政府から貰ってるのか、近隣諸国から貰ってるのかは団体によって違うでしょう。
      街のジジイ歴史家さんが一番まともかも知れんよね。

    • @usa7006
      @usa7006 3 роки тому +3

      @@makotoyoshii2831 九州説にハマりやすい人は、日ユ同祖論みたいな都市伝説や陰謀論にハマりやすい人が多い。

  • @user-no1kc1cn2k
    @user-no1kc1cn2k Рік тому +6

    三橋貴明さんの有料講座、邪馬台国を購入して受講したので、きっと主さんもなのかなぁと思いつつ拝聴しました。
    講座の中の内容に更に詳しい説明が追加されており、大変勉強になりました。長浜先生の説は本当に客観的で支持している論説です。
    良い動画をありがとうございました😊

  • @user-ou2xj9pk9g
    @user-ou2xj9pk9g Рік тому +28

    福岡県みやま市の出身者です。昔は山門郡で瀬高・高田・山川の3町が合併してみやま市になりました。その中の山川町が私の故郷です。
    隣の瀬高町には、女山という所が有り、ぞやまと呼ばれた所が有り、卑弥呼の里と呼ばれ、神社が有ります。又、黒曜石等々が発見されていました。近くの小高い丘からは、眼下に広大な平野が眺められます。

  • @user-xh1dt7ph5v
    @user-xh1dt7ph5v 3 роки тому +75

    素晴らしい。
    こんな解釈にも、自虐史観が作用しているとは驚きです。
    亡父が、趣味で邪馬台国の研究をやっていて、邪馬台国は、山門郡の近くにあったと言っていました。
    生きていたら、見せてあげたい動画です。
    有難うございます。

    • @user-xq4ux7ob1m
      @user-xq4ux7ob1m 2 роки тому +10

      仏壇にスマホを向けて、この動画を再生してあげて下さい。

    • @user-sd6th4ob5k
      @user-sd6th4ob5k Рік тому

      ウフフフフ😄😊

    • @OlegBatov
      @OlegBatov Рік тому

      逆に、明治政府が皇室マンセーしたくて山門郡を取りつぶして邪馬台国の痕跡を抹消し、大和朝廷が魏志倭人伝に登場するというプロパガンダを張ったようにも思われます
      女王塚を土蜘蛛塚と改めさせたのも明治政府です。
      神権政治のために神道と歴史を捻じ曲げ真の日本の姿を葬り去ってしまった明治政府の罪は万死に値します

    • @user-dw6yj4in5e
      @user-dw6yj4in5e 11 місяців тому +3

      山に丹ない😅

    • @user-km7lu8iz8j
      @user-km7lu8iz8j 10 місяців тому

      日巫女を継いだ台与がトヨと読むので やまと国。地名の残る福岡から熊本にかかる辺りでは?

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN Рік тому +5

    ほんと納得しました!いい勉強になりました☺️!✌️🆗⤴️非常にわかり安く説明していただき感謝です❕

  • @user-pr9xp8mr5n
    @user-pr9xp8mr5n 3 роки тому +36

    最初に文学部の歴史学科を卒業してから方向転換して、今は医学部で講師をしている者です。今回の動画は非常に興味深く、説得力もあると思いました。コメントにもあるように「都合が悪いところは飛ばしている」との指摘もありますが、自分の説を展開する場合には、まず自説を説明して、その後の考察の部分で、自分に取って都合の悪い説と自説および自説の根拠とを対比して話を進めていきますが、これはもう論文の書き方になりますので、動画としては十分だと思います。「絶対に」と言った言い回しに文句を言う方もいて、それも気持ちはわかりますが、厳密性を優先させて、何度も「そういった可能性が高いと考えています」などの言い回しをされるのも、こういった動画ではくどい感じがしますし。
    それでも、この動画に反証したいという方は、ご自分の説を説明する動画を作成し、そこに必ず根拠を出して、自説の裏付けを行うしかないでしょう。根拠(データ、文献、資料等)が出せなければ、その説に説得力はなく、多くの人の支持も得られないでしょう。
    歴史学の分野というか、研究社会は非常に狭くて、「誰の弟子になるか」で、その先、大学の教員や教授になれるか、それとも無職になるかが決まってしまいます。大学院にまで進んで研究者を目指す人は、当然ながら大学の教員になることを考えているので、権力のある教授の弟子になるにはかなり競争がありますし、気に入られる必要があります。で、そういう過程において、昔の偉い先生の説を否定することは、自分の未来を潰すことになりかねませんが、一方で、この邪馬台国論争のように説が割れる場合は、自分の師匠と説を同じにしなければ、その先がなくなります。師匠の師匠、さらにその師匠をたどって行って、その人が「九州説」を唱えていれば、弟子もやはり「九州説」を唱えるしかありませんし、「近畿説」の場合もしかりです。大きく分ければ東大は「九州説」で、京大が「近畿説」の時代が長く続いていますが、僕は文学部は「学部まで」と考えていたものの、「九州説」支持派ですね。「近畿説」を正しいとするには、魏志倭人伝に記載されている「方角」に誤りがあったと考えなければ行けませんが、この時代で方角を誤って考えていたとするには無理があると思っていました。
    卑弥呼の墓を決定づける証拠が出土してくればほぼ決定的ですが、個人的には「種子島で出土した人骨」に結構説得力を感じますね。

    • @takashiumeda6276
      @takashiumeda6276 3 роки тому +17

      全くその通りですね。しかし、「師匠と説を同じ」にしなければならないのでは、最早「学問」とは言えないですね。「家元」とか名のればよいのでしょうが。

  • @cyannhama4864
    @cyannhama4864 3 роки тому +101

    こんな素晴らしい動画解説があったとは、知りませんでした。これから勉強させてもらいます。

  • @user-oi9zi4eu2t
    @user-oi9zi4eu2t Рік тому +8

    ありがとうございます。説明に対する画面、特に地図上の位置を明示してもらうともっと分かりやすかったと思います。九州の土地勘がありませんので、説明についていくのが大変でした。

  • @user-ql4qn8zq3k
    @user-ql4qn8zq3k 8 місяців тому +7

    この説が正しいとすると、邪馬台国は北九州を制圧していただけでの小さいエリアを平定していただけだったと言うことだったんですね

  • @user-dx7ej9ox2f
    @user-dx7ej9ox2f Рік тому +8

    素晴らしい👍
    その通りです👍
    そして、
    長浜先生は本当に
    素晴らしいです👍
    ありがとう御座います🙏🏻
    戦後の考古学は、
    先が見えない嘘ばかり
    悔しかった💢
    魏志倭人伝には、
    もう一つ、正しい記述が
    あります👍
    朝鮮半島の南は倭国と
    書かれてます‼️
    そして、
    日本が初めて侵略されて
    戦争したのは、
    白村江の戦いです‼️
    白村江の場所は、
    朝鮮半島の内海の港です
    これは、戦後、
    GHQに消された歴史です
    だから、
    韓国は、昨年も
    前方後円墳が見つかり
    直ぐに埋戻し、
    無かった事にしてました
    前方後円墳が倭国だった
    証拠だと、日本人よりも
    知ってます👍

  • @user-xn1sk1ob7z
    @user-xn1sk1ob7z Рік тому +6

    たまたまこの動画を視聴して、邪馬台国について納得してしまった。チャンネルとうろくしました。他の動画も拝見させていただきます。

  • @user-ft3rh3vi3w
    @user-ft3rh3vi3w Рік тому +6

    楽しく視させてもらいました。私も邪馬台国は九州の山門郡だと思っています。投馬国はかつての妻郡、つまり今の八女市の上妻小学校から筑後市の下妻小学校にかけての地域だと思います。

  • @user-ct7nb1xc8d
    @user-ct7nb1xc8d Рік тому +26

    やっと長濱浩明先生の主張が当たり前のこととして、取り上げられるようになってきたのは、大変喜ばしいことです。
    さらなる広がりを期待しています。

  • @kanyakawasaki6907
    @kanyakawasaki6907 3 роки тому +16

    こんなに記述があったんですね。他の本の説明はもっと短かったから。こんなにわかりやすく説明していただきありがとうございます。て、いうか今までなんで揉めてた?明らかに九州じゃん!

  • @user-mn1no1gj5n
    @user-mn1no1gj5n Рік тому +5

    歴史学者が自虐史観派と言い切るのもファクトではない。
    もう少し冷静に分析したほうが良いですね。

  • @kooota7455
    @kooota7455 3 роки тому +45

    「次にxx国」と書いてあるところが重要と思います。
    記述や実際の場所と比べないとわかりませんが、
    旅の工程と考えれば1か月とか掛かっても不思議ではないですね。

  • @user-uv4vo8ub1i
    @user-uv4vo8ub1i 3 роки тому +29

    何事においても多面的な視点から考えるというのが重要ですよね。
    自虐史観側のいけないところはダブルスタンダード(都合のいいところは引用、悪いところは無視)であること。

  • @stevemarriott8820
    @stevemarriott8820 2 роки тому +30

    古代史に興味はあるものの詳しくはないのですが、これを見ると逆になぜ九州説以外があるのかが不思議で仕方ないです。諸説ありの原因の個所のことは知っていましたが、それでも糸島市から1,500里の範囲ですからね。
    すばらしい動画でした。ありがとうございました。

    • @juniortrump2887
      @juniortrump2887 11 місяців тому +1

      水行10日、陸行1か月が決定的、これは瀬戸内海だ!つまり大和だ!

  • @user-ct5ke8zk6q
    @user-ct5ke8zk6q 3 роки тому +42

    邪馬台国は九州!!凄くスッキリして腑に落ちました。シンプルに史実を読み解くだけで良いものをこじつける様にぐちゃぐちゃと考えてしまってたんですね。お見事!!

    • @saint-project-26tear-ehime76
      @saint-project-26tear-ehime76 Рік тому +1

      霊能者のUA-camrが霊視して実際に古代人の霊と会話して教えてもらったと言っていました
      邪馬台国は和歌山か三重あたりって言っていましたよ

  • @always33333
    @always33333 Рік тому +4

    素晴らしいの一言に尽きます。私の祖先は大川市辺りにしかない氏です 読書好きの母も九州じゃ無いかな?と言ってました。疑問が解けてスッキリしました。ありがとうございます。
     昭和37年に一度行きましたが現在と違い田舎の真っ只中でした もう一度親戚を訪ねながら 是非女山に行って見ようと思います。

  • @tadanariiwase6636
    @tadanariiwase6636 Рік тому +4

    冒頭からの三国志本文と読み下しに少々気になることがありましたので余計なことかもしれませんが、書いておきます。
    本文には「対海国」がでてきます。これは最も信頼性の高い紹熈本にのみ出てくるものでそれ以外の版本では「対馬国」となっている重要な部分です。なので、折角「対海国」を出しながら読み下しでは何の断りもなしに「ツシマコク」とされているのはかなり気になります。
    次の「一大国」は現存する三国志全てに共通する表記です。後世の文書によっていきなり誤記扱いすることはできません。このまま「イチタイコク」と読んでおくべきです。
    これは「邪馬壹国」も同様で現存三国志全てがこの表記になっています。これえお後代文献、例えば、後漢書などで簡単に変える事はできません。折角本文は三国志通りに出しているのに、これ又読み下しでは何の断りもなしに「ヤマタイコク」としているのは問題です。
    倭国側の国名や官職名に使われている文字は同一の音を表していると考えるのが普通だろうと思います。その点、「奴」の音に「ド」と「ヌ」がありますので、どちらかに統一すべきだと思います。
    里数を100里=20㎞ つまり1里=500mとされていますが、この計算だと例えば、対馬と壱岐の間は1000里つまり200kmあることになります。これっておかしいですよね。帯方郡から海を渡る間の10000里はどう考えても1里=500mではありません。なのに九州に上陸した途端に距離の異なる1里で場所を決めることは出来ません。
    長くなりましたので、この辺で止めておきます。
    丁寧な動画製作をされておられるので申し訳ないとは思いましたが、三国志の原文を尊重されておられるようなので書かせせていただきました。

  • @KN-qb7wi
    @KN-qb7wi 2 роки тому +5

    作者殿の主張はおおむね賛同できますが、ところどころ頷き難いところがあります。この作品についてそのところを書いてみます。ご一考いただければ幸いです。
    末羅国の場所ですが、現在の松浦市だと言っておられますが、壱岐の島から南に向かってわざわざこんな遠いところに到着しようとするとは考えられません。末羅国は松浦市から唐津市までの領域にあって壱岐からたどり着いたのは当時の末羅国の中心地である現在の唐津市だと思います。まずは呼子の北の島々を目指して進み、そこから沿岸沿いに東岸を南下し唐津に至ったと考える方が自然だと思います。失礼ながら作者殿は松浦市と唐津市を混同していませんか。22:18の図では、末羅国を松浦市ではなく唐津市の場所においてますよね。その辺の不一致が大変もやもやしています。
    作者殿の主張とは別の話になるのですが、以前から気になっていたのは、どうして末羅で船を降りて陸を行ったのかということです。大量の荷物を担ぎ悪路を上ったり下りたりして歩くよりは、末羅で再び船に乗り、沿岸沿いに伊都国まで乗船する方がよっぽど楽だろうと思うのです。さらには、いっそのこと末羅なんかに寄らないで、壱岐から伊都国まで一直線に向かったらもっと早く着くだろうにと思うのです。当時、伊都国と志摩国の間は水道になっていて博多湾まで船で行けたのではないかと思います。だとしたら、あの急な日向峠を越えて奴国まで歩いて行くより、博多の港まで船で言った方が楽だったろうにと思います。
    更に私の妄想ですが、博多で人と荷物を積みかえた小型船を人足に曳かせて那珂川を遡る方が奴国の王宮に挨拶に行くのに楽だろうと思うのです。奴国王宮に立ち寄ったなどとは一言も書かれていませんが、最短経路で邪馬台国に行かなかったのは、あちこちの王国を巡って魏国の権勢を示す意図があったからではないでしょうか。

  • @yutakayasunaga8054
    @yutakayasunaga8054 3 роки тому +78

    素晴らしい解釈です!全く忖度なくシンプルに解釈されていますね!

  • @user-jk4jo1su8r
    @user-jk4jo1su8r Рік тому +10

    非常に論理的な説明です。まともな学者は同じ論理です。記紀を読まない学者は迷惑なだけです。

  • @GINZASAKUSA
    @GINZASAKUSA 2 роки тому +31

    私も山門だと考えていて、この動画の内容が1番納得してます。

  • @hon6492
    @hon6492 Рік тому +5

    中国の歴史学者の中では邪馬台国は九州で決着してて異論がないと聞いてたんですが、文献をちゃんと読んだらそうなるんですね。

    • @user-tn7dj4bz5g
      @user-tn7dj4bz5g 7 місяців тому +2

      書いた国の人達が九州だって言うんだから間違いないです。

  • @hisashida9349
    @hisashida9349 Рік тому +9

    歴史を「作る」国の工作が効きすぎて、国内の世界史日本史研究者が飲まれてしまっているのが戦後から現代までの状況でしょうか。嘆かわしい限りです。
    何を歴史から消したかったのでしょうか?
    たまたま見たチャンネルでしたが、あまりに的確な内容に惹かれました。チャンネル登録しておきます。

  • @Dora6sense
    @Dora6sense 3 роки тому +22

    今まで「日本書紀」や「古事記」に神武天皇は九州から東征した、と書いてあるのに、何故否定して「奈良」土着の王朝とするのかが理解できませんでした。自虐史観のなせる業だったのですね。よくわかりました。邪馬壱国と大和王朝は別々の王朝で腑に落ちました。卑弥呼の都は九州で間違いないと思います。山鹿市周辺には、畿内にもない極彩色の装飾古墳が数多く現存します。文化の辺境ではない証拠がいっぱいあります。資料を書いてある通りによめば御主張の通りです。

  • @user-je6ss8li9l
    @user-je6ss8li9l 3 роки тому +46

    色々な本を読んだけど、南と東の字を間違えたのだろうと、平気で言う学者には驚いていましたが、正直、一番納得する理論でした。朝鮮半島から日本に渡る、そして九州北部が、と考えれば一番正しい意見でしょう。何しろ、金印が!

  • @houjiniafe7657
    @houjiniafe7657 Рік тому +4

    畿内説の意味がない論説には、この度の吉野ケ里遺跡の件においても、奈良建設は現在の天皇家をここが出土と云ったことに大変室失礼とことです。邪馬台国を現在の天皇家けとつなげる愚弄したことに関する、古代世代を結び付けることには失礼としか言いようがありません。天皇家を無理やり栗邪馬台国に結び付けるのは無理があります。大和朝廷は大和朝廷であって、邪馬台国は弥生時代の後期九州北部の豪族でしかありません。古代史学者は何が故に歪曲した歴史が必要なのですか。本来の学者からすれば、正しいことを証明すればいいだけでしょう。熊襲国、松浦国、ほとんどの国がそろってる九州にいや、奈良には証拠となった発掘物があるのを、邪馬台国とするはムリムリでしかないでしょう。素直に大和朝廷の設立の証としたらこれほどの問題とならなかったでしょう。日本にとって、邪馬台国があったということが今の天皇家にとって何の意味があるのでしょうか。

  • @user-wm3jr3nb8g
    @user-wm3jr3nb8g 3 роки тому +39

    素晴らしい。🥺🥺🥺
    どのような方が、解読してるのですか?素敵ですね。
    ありがとうございます。👏👏👏👏👏

  • @nishii325
    @nishii325 Рік тому +1

    やっと解決してスッキリしました。私は北九州出身なので、今回出てくる地名で全て合致しました。
    ありがとうございます

  • @user-yd2sx7vq7t
    @user-yd2sx7vq7t 2 роки тому +11

    四面海に囲まれているの記述が該当するのは四国しかないと思われます。
    それと山に丹あり。その頃、丹が有るのは四国徳島です。

  • @ZERO21-A6M
    @ZERO21-A6M Рік тому +18

    ただただ素晴らしい。この動画を見て息子と邪馬台国巡りの九州旅行に行く事にしました。本当に凄い。

  • @yuko.k5290
    @yuko.k5290 Рік тому +24

    どこにあった。○○説。ではなく、九州 だったのですね!
    素直に読む。ということの至極当たり前であり、大切なことができなくなっていた理由を知れました。 ありがとうございます✨✨

  • @santanacream
    @santanacream Рік тому +8

    はじめて納得できる解説に出会いました。ありがとうございました。

    • @user-cb3nv6ws2w
      @user-cb3nv6ws2w Рік тому +1

      納得してはダメですよ!
      学問的には近畿説が優勢、というか、九州説は詰んでます。
      考古学は、考古学的な証拠をもとに事実を淡々と述べる学問です。自虐史観?なんてものはありません。

  • @user-nq2ct3cx1f
    @user-nq2ct3cx1f Рік тому +7

    とても納得がいける内容です。最初から見ていて、地元ですので、これは佐賀、鳥栖、小城(おぎ)おぎこく、糸島市(いとこく)か?と興奮してみていました。画像で、みやま市が出たときに、ここはもともと、山門郡(やまとぐん)があったので、ここかな?と思ってみていたので驚きました。山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)には清水山があり、ここは神籠石があり、関連性があるかもしれませんね。ぜひ、この動画を、本として出版してください。あとおせっかいですが、51分19秒に誤字があり、山門が大和になっています。私は理系ですが何か協力できることあれば頑張れます。!!

  • @umshoki
    @umshoki 3 роки тому +19

    私は九州北部を回っていましたから、詳しい説明に納得出来ました、福岡の志賀島で金印が発見された場所にも行き、邪馬台国は九州にあったと確信していました。
    魏志倭人伝に日本人を小さい人と言っていますが、1尺の長さは約30センチとして90~120センチとは驚きです。
    最後の方で神崎郡の吉野ケ里遺跡の頃を弥生時代と言うのは再考願います。

  • @rainbo6003
    @rainbo6003 2 роки тому +38

    なるほど!
    “陸行一月”と言うのを「1ヶ月進んで掛かる距離」ではなく「たどり着くまでに1ヶ月掛かった」と解釈すれば、確かに謎は氷解しますね!
    脇目も振らず、1ヶ月間行進し続けたはずがありませんものね。
    目から鱗でした。

    • @user-cl9en1ju1m
      @user-cl9en1ju1m Рік тому +1

      通訳はいたのかもしれないが言葉の分からない国で情報を収集しながらの移動ですからね

  • @user-bd5zb8fk9z
    @user-bd5zb8fk9z 3 роки тому +14

    素晴らしい推理というか、ご研究の結果です。「邪馬台国はどこにあったか」は本サイトが決定論とも言えます。
    ただ距離については、現代のメルカトル図法で描かれた超精密な地図を持ち出してはいけません。かなり文献との誤差が出ます。
    祖父から見せてもらった570年ほど前にポルトガル人ルイス・ティセラが描いた日本地図を見ると、朝鮮半島は五島列島の下の方まで伸びていて泳いで渡れるほどですし(笑)、九州も現在の形状とは、かなり異なっています。四国などちっちゃい。どこに徳島があるの?です。
    本サイトは距離よりも、むしろ地名から推論しているので好感が持てます。当時の日本には文字はありませんでした。話し言葉は多くはなかったでしょうが、あることはあった。現地の人と使者の人は手まねで話したでしょうが、発音がうまく聞き取れない場合は、最もよく聞こえた声の音(おと)を漢字で記録したでしょう。こういった事から「地名」は非常に重要です。『魏志倭人伝』を素直に読みましょう、という本サイトは「権力のある近畿説学者が高校の教科書に載せたもの」より遥かに良い学説です。

  • @user-xs2te4he9g
    @user-xs2te4he9g Рік тому +9

    この動画は素晴らしい。日本人皆が知るべき、中学高校で学生全員に見せるべきです。

  • @user-wx4vj4tq8v
    @user-wx4vj4tq8v 3 роки тому +49

    すごーい!兵庫の教育では奈良でほぼ間違いないと習いました。
    これは北部九州ですね、ありがとうございました。

  • @activesedan
    @activesedan 3 роки тому +18

    以前、邪馬台国に関する本を随分読みました。今、解説を聞いて漠然と心の中にあった疑問が氷解されて行きました。マイナーな点は横に於いても先ず間違いないでしょう。

  • @ajitukenorinori
    @ajitukenorinori 3 роки тому +41

    北部九州出身者にはピンとくる地名はありますねー。ツシマ、イキ、マツラ、トス、オギ等々
    好古都→ハカタという説もありますね。

    • @user-bd5zb8fk9z
      @user-bd5zb8fk9z 3 роки тому +13

      そうなんですよね。邪馬台国時代は日本には文字がなかったですが、話す言葉は多くはないけどあった。
      魏の使者がやってきた時、互いに手まねで話したと思うけど、発音がしっかり聞き取れなかった場合、
      使者はよく耳に付いた語を漢字で書いて記録する。そういった事を、このサイトはよく理解していると思います。ajitukenorinori様も同様です。
      一例が「倭」。これって現地の人々が「わし」「われ」「われわれ」「わがくに」「わのくに」と盛んに言うので、この国を「倭」と呼ぶことにしたのではないか。
      学校で社会や国語の先生が言ってました。私もそう思います。

    • @usa7006
      @usa7006 3 роки тому +3

      @@user-bd5zb8fk9z 真面目に研究すれば、畿内説で決まりだ。九州説にハマりやすい人って、日ユ同祖論みたいな都市伝説や陰謀論にハマりやすい人が多い。

    • @takashiumeda6276
      @takashiumeda6276 3 роки тому +18

      @@usa7006 真面目に研究すれば、九州説で決まりだ。機内説にハマりやすい人って、マスコミや教科書を鵜呑みにする人が多い。

    • @usa7006
      @usa7006 3 роки тому +4

      @@takashiumeda6276九州説はアマチュア、畿内説はアカデミックな学者に多い。あと、九州説は色々ありすぎて一つではないが、畿内説はほぼ一つの説に集約される。

  • @user-un4ss7ve6h
    @user-un4ss7ve6h Рік тому +5

    説得力のある説明興味深く拝見させていただきました( ・ิω・ิ)魏志倭人伝を素直に読めば、普通に九州しかないと思いますね🙄なお、私的には邪馬国は八女國かなと推測しています🤔

    • @user-tn7dj4bz5g
      @user-tn7dj4bz5g Рік тому +3

      この魏志倭人伝の頃は八女市もみやま市も無かったんじゃないのか?
      山門郡なんていうのは後世になって出来た区切りであって実際に地元に残る話だと景行天皇時代に実在したとされる八女津媛が八女市の地名の由来らしいよ。八女もこの時代は邪馬台国だったんだろう。
      意味不明で不可解な日本で俗にいわれている邪馬台国のことであり日本書紀九巻にも記述にある山門縣(やまとのあがた)のことだったんですよ。現在の福岡県の八女市やみやま市も含む筑後地方のことです筑後平野一帯が謎の邪馬台国(山門縣)です。

  • @490526ryu
    @490526ryu 3 роки тому +11

    みやま市の権現塚古墳は、神功皇后が熊襲征伐としてヤマト王権に従わない山門県の巫女女王の田油津姫(たぶらつひめ)と戦った際に戦死した兵士たちを葬った墓だと言われており5世紀頃の古墳です。
    個人的にはもう少し北の久留米市高良大社(高良玉垂宮)の麓にある祇園山古墳が3世紀頃の古墳で周囲の墳丘裾部からおびただしい数の甕棺墓や土壙墓などが発見されており奴婢の殉葬とも符合するのでこちらのほうがまだ合致点が多いように思います。
    山門郡はあくまで狗奴国に隣接する邪馬台国の最南端であり、久留米や筑後を含む広い範囲の筑後平野にあったのが邪馬台国ではないでしょうか?
    そうであれば人口7万戸の説明も納得できるかなと思います。
    山門郡周辺だけだと平野部が少なくとても30万人も住めないので・・・。
    (参考までに 市町村合併したみやま市の現在の人口で3.8万人です)
    高良大社が古くから位が高い神社なのもそこに王がいたからではないでしょうか?
    ちなみに大善寺玉垂宮のそばにも権現塚古墳というのがありますが、明治の富国挙兵で田畑を増やすために周囲にあった多数の古墳が崩され田んぼにされた記録が残っています。
    高良玉垂宮は祭祀を行う場所で政務を行う場所は大善寺玉垂宮だったそうです。

  • @neobasara
    @neobasara 3 роки тому +37

    今まで聞いた解説?は東と南を書き間違いしているとか、どれも違和感があって、信憑性を疑うしかなかったが、無理のない解説でした。ありがとうございます。

  • @_OKALAB
    @_OKALAB 3 роки тому +43

    どうして「邪馬台国(邪馬壹国)」を「やまたい国」と読むのでしょうか?
    「台(壹)」は「と」と読むのではないでしょうか?
    卑弥呼の後継者には「台与」という女性がいましたが「たいよ」とは読みません「とよ」です。
    「邪馬台国(邪馬壹国)」は「ヤマト国」と読むのが正しいのではないでしょうか。

    • @user-ol3hg8yj3l
      @user-ol3hg8yj3l 3 роки тому +3

      「やまたい」は日本語読みだからでしょうね。中国の歴史書「三国志」は3世紀末に書かれ、万葉仮名の成立は5世紀といわれています。なので、「邪馬台国」は中国の当て字と考えるべきかと。当時の中国読みだと「ヤマド」になると何かの書物で読んだことがあります。

    • @_OKALAB
      @_OKALAB 3 роки тому +6

      @@user-ol3hg8yj3l さん その通りです。
      Chinaでは外来語は意味は出鱈目で音が同じ字を当てはめます。魏に行った日本人が自国の事を日本語で「yamato」と発音していたので「邪馬壹国」と表記したようです。「壹」はChina魏では「Tou」と発音していたようです。
      ですからChina魏の三国志中の「邪馬壹国」は現代の日本語に翻訳すれば「やまと国」と読むべきだと思います。
      「やまたい国」と読むのは奇妙でおかしいと思います。
      「やまたい国」ではどこにも存在しないことになります。
      (因みに壹は現代日本では'ひと(つ)'と読み、壱の旧字体です)
      (壹は常用漢字表では台の異字体です、壹を常用漢字の台に置き換えたことが間違いのもとです)
      (台は常用漢字で音読みでも、釧読みでもトとは読みません、音読みでダイ、タイです、訓読みは'ありません)
      「邪馬壹国」を現代日本語の漢字の「邪馬台国」に変更したことで意味不明の奇妙な事になったのだと思います。

    • @user-ge1ri4ts8n
      @user-ge1ri4ts8n 3 роки тому

      俺もそう思います。つまり邪馬台(大和)(倭)朝廷の素なのかなと思います。水上陸上で1ヶ月かかるし。

    • @fukufukumantv8102
      @fukufukumantv8102 3 роки тому +2

      ヤマトコクで合ってますね、チンジュが草書で書きましたが豆を表す字が何十年かして楷書に去れるとき間違えて壱になり、GHQ よりの左翼学者が台にしてます。豆=トのヤマトですね!山門にいたヤマト族が大乱に勝利してミマキの時に奈良に遷都、一緒に祭祀王の卑弥呼は、奈良に来ています。トヨは、トヨスキイリヒメで間違い無いですね。

    • @user-zm6iw4cl2z
      @user-zm6iw4cl2z 3 роки тому

      邪馬台国、ヤマトは勿論ヤマタイでもヤマイチでも畿内で何の問題もありませんからね。
      特にヤマイチ、大和神社のある現在の天理辺りは元々イチノモト、という地名です。
      箸墓も大市墓ですし、百襲姫の別名が神大市姫ですから。
      つまりはあの辺りは元々ヤマ、イチの国を指す事になります。

  • @kattu-hf8if
    @kattu-hf8if 3 роки тому +32

    偶然見つけた歴史のUA-cam、まさに目から鱗状況です😳社会の教員免許を持っていますが、これぼど合理的な仮説を聞いて感心するばかりです。有り難うございます。

    • @user-wc3gu9vj6h
      @user-wc3gu9vj6h 2 роки тому +3

      間違っても生徒に九州説が正しいと教えないようにしてくださいね。
      現状、考古学的に近畿説が有力です。これは自虐史観があるからではありません。考古学的証拠に依拠した研究の成果です。

    • @syoujigion4246
      @syoujigion4246 2 роки тому +3

      合理的?
      最初からここにあると決めて、そこから逆算しただけ。
      距離の時点で破綻している。
      魏志倭人伝だけでは断定することは不可能。
      誤記が多いと言いながら、それを全面的に信じるのは矛盾している。

    • @user-rs6dn7zl3l
      @user-rs6dn7zl3l Рік тому +2

      @pora pora 南九州説主張してます

    • @hideotaziri7659
      @hideotaziri7659 Рік тому +4

      @@syoujigion4246
      それが合理的でしょ^^ では近畿説にこれが出来ますか?

    • @hideotaziri7659
      @hideotaziri7659 Рік тому +3

      @@user-wc3gu9vj6h
      考古学と歴史学は違いますよ。 でもこの動画は考古学と歴史学、地理学、遺伝子学・・・・沢山の学問を使って検証してるのです。
      敢えてこれに名前を付けるなら、総合歴史学でしょうか?
      邪馬台国を考古学的に証明しようとした結果が近畿説であって、歴史学では近畿説は成り立たない。
      それじゃ全部を使えばいいじゃんというのがこの動画です。

  • @momota1003
    @momota1003 3 роки тому +17

    私も九州説を支持します。冬でも生野菜を食していた。という記述から温暖な土地になります。

    • @user-ic7th7hc5x
      @user-ic7th7hc5x 2 роки тому +1

      「北九州は冬でも温暖」?いいえ、北九州は雪も降る寒い所です。

    • @user-ri1su1ga9ya
      @user-ri1su1ga9ya 2 роки тому +2

      九州も寒い

    • @sentarou6969
      @sentarou6969 Рік тому +4

      魏や朝鮮から比べれば温暖でしょう。

  • @masag766
    @masag766 2 роки тому +8

    やっとはっきりすっきりしました。「女山」近辺を徹底して調査すべき。 それにしても なんちゃって歴史学者のなんと多い事か・・

    • @user-tn7dj4bz5g
      @user-tn7dj4bz5g Рік тому +4

      おそらく私的な解釈ですが女山と書いてゾヤマと読ます
      これは女王山が長い年代とともに段々となまってきてゾヤマになったんじゃないのでしょうか?ジョウオウヤマから九州風の訛り方で段々とゾヤマになった非常に有り得ると思います。
      だいたい女山をゾヤマなんて普通なら読みませんよ。
      しかもこの女山から既にそれらしき証拠物がもう出土してるらしいですよ(推定年代は2〜3世紀頃)
      嘘だと思うなら調べてみて下さい。これをどう説明するんですか?

  • @hideotaziri7659
    @hideotaziri7659 Рік тому +3

    国東半島が支配地域と判断する時の距離の事ですが、卑弥呼の勢力圏から1000里(海も含む)と考えれば国東半島は勢力圏ではなくなります。
    そうすれば神武東征と宇佐神宮などから考えて国東は卑弥呼の勢力圏ではないと言えます。そうしないと大和政権の勢力圏が分断されることになって不合理です。
    福岡県添田町の英彦山の伝承などとも一致しますから、国東は勢力圏ではないと言う方が良いと思います。
    気になったのここだけです。本当によく考察されています。

    • @RikkiCat09
      @RikkiCat09 Рік тому +1

      同感です。
      魏書に準ずると秦氏は添田・田川→豊前→日向ですからね。
      学生時代を佐賀で過ごした中津民ですが松浦・鳥栖とかびっくりしました。

  • @deko123
    @deko123 3 роки тому +30

    自分も九州説派ですが、自分が考えていたことを代弁してくれているような動画でした。
    この動画は小中学生の歴史教育に使うべきです。

  • @joju5200
    @joju5200 3 роки тому +16

    具体的・平明説得ある解説ですね。素晴らしいです。
    ところで、奈良県説(畿内説?)を唱えていた学者それに従う諸々のグループはどんな反応をしているのですか?その方も興味があります。「勝った負けた」といった低レベルのはなしではなく真実追求の学問上の観点から是非知りたいですネ。

    • @yoshitome6648
      @yoshitome6648 2 роки тому +1

      魏志倭人伝の否定とつまみ食いです。

    • @user-tn7dj4bz5g
      @user-tn7dj4bz5g 2 роки тому +1

      確かに中国の歴史書に書いてあるような有名な女王卑弥呼が日本の日本書紀や古事記に一切出てこないというのは不自然です。
      別の呼び名で出ているはずと考えたら理解できますよね。大和朝廷関連者なら出てこないはずがまずないんです。金印を賜ったという話なんてどこにも有りませんよ。

  • @koufuku8211
    @koufuku8211 2 роки тому +21

    いやあ、面白かったです。自分は歴史に興味はあっても理系で漢文とか読めないので、単純に「里」の距離が今と昔では違っていたと考えていました。当時の海岸線や地形が現在とは違っていることは明らかなのでこれをかけ合わせてみたらもっと正確なところも分かるかもしれませんね。

    • @user-jg3xb4ck5t
      @user-jg3xb4ck5t Рік тому +2

      昔の🇨🇳では、約400メートルが、一里でしたから、【万里の長城】は、正しい表現(表記)でしょうね。

  • @user-dk9nu8lm6d
    @user-dk9nu8lm6d 3 роки тому +42

    まさに正論!畿内説を信じる人達全てに見てもらいたい

  • @skypolytiger
    @skypolytiger 2 роки тому +35

    素晴らしい!
    もっと広くこの動画を皆に観て欲しいです!
    手塚治虫さんの火の鳥位しか知識がないですが、先日NHKで放送されていたものより、遥かに説得力あり府に落ちます。
    是非とも、英語訳、中国語訳、韓国語訳など広く知って貰いたいです!
    色々とシェアさせて頂きます m(__)m

    • @user-fq7xu8rs4b
      @user-fq7xu8rs4b 2 роки тому +6

      再生回数が増えるとAiが勝手に多くの人に紹介してくれます。紹介されました。

  • @yamu3350023
    @yamu3350023 3 роки тому +45

    「水行十日、陸行一月」は、帯方郡から邪馬台国までのことを言ってて、総距離の一万二千里に相当する総時間だと思います。

    • @yunyuki3789
      @yunyuki3789 3 роки тому +7

      そうそう、文章の最後に「トータルでこれだけかかりますよ」みたいな?

    • @asa01053
      @asa01053 3 роки тому +3

      そういう意味だったのですか。

    • @yutakayasunaga8054
      @yutakayasunaga8054 3 роки тому +4

      そのとうりですね、末蘆国まで1万里であと2千里ですね、2000X76m=152km で末蘆国から152kmのところになりますね。

    • @user-zr2mq5nj2r
      @user-zr2mq5nj2r 3 роки тому +3

      @@yutakayasunaga8054
      そのとうり は間違い。
      そのとおり が正しい。
      う、お、この基本を間違える大人がかなり多く、わかっている人とそうでない人に分けます頭の中で。それぐらい多い。

    • @user-hi8zy4vh1l
      @user-hi8zy4vh1l 2 роки тому

      場所は別にして、
      邪馬壹國は九州ですね😮
      狗奴国迄の記述の後
      、自郡至女王国萬二千余里
      、と同じ記述方式で目的地
      の後、距離が記述されてます
      (全行程)
      次に、
      南至邪馬壹國女王所都
      水行十日陸行一月
      (全行程の日数でしょう)
      以下官制や風俗を説明して
      邪馬壹國に到着済みです
      (海の向こう側に記述あるが
      行ってはいない)
      (この時代カラ出張は死罪で
      すね)
      因みに
      233年編纂者陳寿、
      蜀に誕生
      234年孔明五丈原に死す
      240年魏から使者
      邪馬壹國へ
      使者と随行者は何れくらい?
      護衛兵は?(数百?)
      243年使者
      247年使者張政
      卑弥呼死亡?
      以上の他の使者や護衛兵?
      264年蜀、😮滅ぼされる
      265年魏、司馬氏に禅譲
      (陳寿は晋に就職へ、歴史官)
      265年倭から朝貢→晋へ
      280年呉滅亡
      297年陳寿死す
      240年からの随行者や
      護衛兵の人達での生存者と
      編纂者の陳寿と同じ時代に
      生きてます
      (10代20なら尚更に)
      歴史官として、出張報告書
      も魏から引き継いだ資料も
      見るに不便はなかった
      蜀志、魏志は早くから準備
      出来、280年の呉志も準備
      出来た?
      簡潔に纏めてますね
      最近気が付きました
      私見です
      帯方郡役所は海岸近く??
      倭伝の最初の方に、
      従郡倭循海岸水行歴韓国
      乍南乍東至其北岸狗邪韓国
      ソウルが帯方郡役所とすればまず西方へ(例仁川へ)
      それから南へ水行のはず?
      いきなり海岸にしたがう?
      瑞山にも行きましたが、
      仁川寄りはかなりの
      遠浅ながら静かな海
      東シナ海側は岩礁多し
      (干満差大きいが)
      初め水行し瑞山で上陸、
      タチマチ南タチマチ東と
      陸行して狗邪韓国へ
      七千余里は?納得ですが
      セマウル特急やKTXでは
      先頭車両が良く見えました
      其くらい蛇行してます
      (帯方郡と韓国内の距離)

  • @Your_Life_is_Good
    @Your_Life_is_Good 3 роки тому +28

    長浜先生の日本の誕生という本を読みましたが、地政学的な面からも調査していて理解が深まりました

  • @MAN-cw9tv
    @MAN-cw9tv Рік тому +4

    あっぱれ! 確かに有明海あり筑後川・矢部川あり筑後平野あり・・・と人口を支えられる素地があります。

  • @user-ys5sv1cj4y
    @user-ys5sv1cj4y Рік тому +1

    もう確かに魏志倭人伝の通り、邪馬台国は北九州に有ったことは確定的ですね。
    卑弥呼の古墳も有りそうです。
    ただ奈良県にも多数の古墳や遺跡が発見されていることから、天皇の血筋である豪族が存在していたとも考えられますね。
    ただこの時代は邪馬台国よりも少し後の時代になるのではないかと思われます。
    最初の邪馬台国のくには日本史の中では重要な位置を占めるものと思われますね。
    歴史書の中には是非掲載されてもらいたいです。
    邪馬台国が各国の見張りまでしていたとは驚きですね。(30あまりの国を従えて…)
    戦乱の多い時代だったから当然の事でしょう。

  • @fujisan2530
    @fujisan2530 2 роки тому +14

    遠回りして、やっと納得のいく解説に出会えました!ありがとうございました。

  • @user-ic7th7hc5x
    @user-ic7th7hc5x 2 роки тому +8

    佐渡の外海府の海岸のゴミを見たら驚く。すべてハングルと中国語。つまり、黄海や韓半島から日本海の丹後、能登、佐渡には航海が容易。但し、その逆は難しい。だから、韓半島との往来は北九州が合理的。

  • @59569
    @59569 Рік тому +2

    本編とは全く関係無いですが、ナレーションには「〜ですけれど」という表現を多用されてるのが、凄く耳につきます。。
    本来なら「〜ですが」「〜なのですが」という言い回しになりますよね? 結構高齢の人が作成された文章でしょうか?

  • @user-bk2vj5ch2f
    @user-bk2vj5ch2f 2 роки тому +66

    単純に北部九州に邪馬台国があって、畿内には別のでかい国が近い時系列で存在してただけな気がしてます

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Рік тому +2

      そう。当時の日本の中心は畿内で間違いない。でも魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は九州北部の女王国のことです。たったこれだけの事実なのになぜ揉めるのか意味不明。

    • @ptwjhbeamjgtwda
      @ptwjhbeamjgtwda Рік тому

      @@kinkin0421 単純に自分達の物にしたい欲、1番は自分達だと、他の氏族を悪く言う氏族が今存在するからですよ。都市伝説見てれば何処が1番になりたがるか分かります。但しこの氏族の話は無理矢理が多い。
      現に我が一族の事柄が盗まれている。
      人の物を奪うのは駄目です。
      皆さんきっとそちらを真実のように見ていますね。根拠無く。アワ押しでしょうね。
      スワとか

  • @noriomatsuoka9131
    @noriomatsuoka9131 Рік тому +3

    素晴らしい❗️納得しました。

  • @user-rn6ei5iv4r
    @user-rn6ei5iv4r 2 роки тому +5

    私は、畿内説論者でも、九州説論者でもありませんが、帯方郡から松浦国の水行(一部対馬国内陸行)距離・方位は殆ど論者は一致しています。一番大事なのは、次の末盧国(伊万里)から伊都国里数500里これはそのままですね!方角が大切です「(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する」とあります。東南ですね!実際は伊都国の位置は、北東です。南東から北東に反時計回りに90度違っています。此処をアヤフヤに適当に読んでいるので、その後の各国の位置が全て違ってくるのです。反時計回りに90度違っています。違っているのならここから以降方位を反時計回りに90度変えるべきです。そうすると邪馬台国までスンナリとたどり着けまますのでやってみてください。
    貴チャンネル事態が最初からこう有きで編集しています。最もらしく述べているが他説の事を、言う前に自ら直に魏志倭人伝等を読むべきでしょう趣旨から離れている。都合の悪そうな処は、カツアイし!魏志倭人伝の歴史的史実の邪馬台国・卑弥呼を九州の片隅に追いやっている。確かに畿内纏向は邪馬台国と同時代に存在はしています。邪馬台国は魏と交流し中国との外交を行う程の国ですね!奴国然り、何方も金印等を授かっています。方や、河内国は、在ったでしょう。纏向は国名も無い一地方の奈良湖の畔の村で、奈良湖を都市計画開発しようとして下流域の河内国の河内湖との水利権争いで頓挫し投げ出した土地です。生活をしていた痕跡がない。土木道具しか発掘されていない。(遺跡からも明らかになりつつあります。)国ではありません。一地方の地名でしか過ぎない。

    • @spica1jp
      @spica1jp Рік тому +1

      魏志倭人伝から距離・方位誤差が無い説もありますね。yjFcYekygX4

  • @user-kc8qs8db1g
    @user-kc8qs8db1g 3 роки тому +51

    よくまとめてくれました。魏志倭人伝を普通に読めば邪馬台国は九州にあったとなりますよね。

  • @user-wz4lc3ko1s
    @user-wz4lc3ko1s Рік тому +2

    ひとつひとつを丁寧に解説していたので だんだんそうだなです
    吉野ヶ里遺跡について 他道路沿い遺跡もみたので

  • @user-pg4gb8qg7w
    @user-pg4gb8qg7w 3 роки тому +23

    狗奴=熊襲とするなら熊襲は球磨・曽於を含むと思いますので投馬は薩摩よりは日向辺りの方が辻褄が合う気がします❗日向は神武東征の起点なので邪馬台国には属さない勢力のイメージとも合うと思いました❗(* ̄∇ ̄)ノ

  • @tomoduca
    @tomoduca Рік тому +6

    糸島市民の自分としては、誇らしい限りの解説でした。糸島で奈良のための見張りはできませんよねw…明日から再開される吉野ケ里遺跡の発掘が楽しみです。

  • @user-kv4ql9gw7e
    @user-kv4ql9gw7e Рік тому +2

    詳しく調べているものではないのですが、邪馬台国は九州にあったのは確かだと思っています。ただ、卑弥呼がいたのは熊襲に近いみやま市などより日田市説のほうが鏡とかも出土しているしひかれます。

    • @user-tn7dj4bz5g
      @user-tn7dj4bz5g Рік тому +3

      おそらく現在の日田市やうきは市辺りも邪馬台国に入っていたんじゃないかなと思いますね。じゃないと福岡市(奴国)の3倍以上の七万戸も人家があったという魏志倭人伝の記述の説明がつきませんから邪馬台国は筑後平野と近隣山間部一帯であり筑後川を境として鳥栖までは違うのです山間部を含めた筑後平野一帯の広大な地域だったはずです。倭国の都 邪馬台国と魏の使者達が思い込むくらいですからね。
      日本書紀でも山門の縣(アガタ)などと呼ばれるくらいですから旧山門郡だけということは有り得ないと思います
      そうとう広域だったはずです。

  • @user-hy3in8rk9q
    @user-hy3in8rk9q 3 роки тому +8

    ボクが小学校時代〜大学生時代までは、邪馬台国、九州説、畿内説と論争が続いていました。
    ところが九州佐賀北部に吉野ヶ里遺跡が発見されたことが大きい。

  • @user-tt9fo6mv7b
    @user-tt9fo6mv7b 3 роки тому +6

    わかりやすくまた賛同できる説です ただ邪馬台国は無理矢理「壱」を「台」に読み替えたことはスルーされているのがきにかかります 普通に読むという趣旨からいうと無視できない点であるとおもわれます それから水行10日のくだりですが解説が曖昧です 自分的には対馬海峡が10日じゃないのかなと思っていました 根拠はないのですが でも水運はありかもしれませんね

  • @no882323
    @no882323 3 роки тому +41

    一年中野菜が採れて、裸足で生活するとありますから、気候的にこの辺りが適正でしょう。
    弥生時代の気温は知りませんが、少なくとも奈良では無理でしょう。(^^)

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 3 роки тому +5

      それは東南アジアでしょう。
      当時は今より寒いはずだから、年中裸足は九州でも無理。

    • @no882323
      @no882323 3 роки тому +1

      @@gionsyouji5831 なるほど。いくら逞しい?弥生人でも無理ですか。(^^)

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 3 роки тому +2

      少なくとも沖縄以南でなければ難しいのでは?

    • @user-ho6yp7hl2h
      @user-ho6yp7hl2h 2 роки тому +1

      紫式部が居た時代に鰐を飼えてたと言う情報を過去に見た記憶がありまして、
      現在の地球温暖化も唯の自然現象と考えた場合。
      卑弥呼の時代は温暖だった可能性もあるのでは?と考えてます。
      地形は変わらないが気候は割と短い期間で変化してたとか?
      縄文時代の鍋の食べ残しにでかい貝が残ってたと言う話もあるし

  • @yoshitome6648
    @yoshitome6648 2 роки тому +7

    誰でも真実に辿り着けます。
    魏志倭人伝は本当に素晴らしい!
    「水行十日 陸行一月」答え見つけましたよ。
    勿論「南を東に」変えてはいけません。
    畿内説のおバカ考古学会になってしまう。

  • @dannkitikuruma630
    @dannkitikuruma630 Рік тому +6

    底辺高卒の自分のでも理解できる 解説素晴らしいですね。畿内説の学者より賢くなった気分です。

  • @yutakayasunaga8054
    @yutakayasunaga8054 3 роки тому +15

    帯方郡から一万二千里→不彌国(福岡県宇美町)まで一万里→残り二千里(152KM) =北部九州しかないですね。
    近畿などあり得ないですね

  • @hiroyukiuno3049
    @hiroyukiuno3049 3 роки тому +37

    見事な分析ですね。筑紫平野の大部分が邪馬台国だったのでしょう。卑弥呼は朝倉市の甘木の秋月に居を構えていたという説もあります。

  • @norioiriguchi7104
    @norioiriguchi7104 Рік тому +2

    「数百戸しかない奴國(福岡市あたり)のすぐ東にみえるところに不彌国があった。不彌国の南へ川を利用して三、四日で行ける内陸にこれも数百戸しかない投馬國があった。投馬國から南へ川を利用して二、三日、さらに歩いて二、三日で行けるところにこれも数百戸しかない邪馬臺國があった。近くの山上に城柵に囲まれて祈祷所らしいものがあった。宮殿らしいものはなかった。侍女はひとりもいなかった。皇帝は、このように、さほど遠方でもない小国の女酋・卑彌呼に親魏倭王の金印紫綬を授けたのだ」
     仮に魏使がこのように報告していたら、即刻、首をはねられていたであろう。「皇帝が金印紫綬を授けた時」のほうが「魏使による報告の時」よりも早かったからである。
     魏使にとって、倭國の朝貢はとりもなおさず公孫氏を討った司馬懿の功績であった。魏使の報告書は、この司馬懿の功績を讃えるために「倭國は大国である。遠国である」と水増しして書かれた。
     それは数量(里数・戸数・水行日数・侍女の数・墳墓の径など)について「露布(ろふ)の習わし」を用いて書かれた。「露布の習わし」とは、北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても褒められこそすれ咎められることはないといった習わしのことである。
    「七万戸」「一万二千余里」「侍女千人」「径百歩」などと書かれた。
     しかし、方角について「露布の習わし」が用いられた例はない。「南」は正確に南、「東」は正確に東、「東南」は正確に東南であった。たとえば、東松浦半島北端に上陸した魏使はそこから「東南」の方角に広がって見える伊都國(いとこく)を目指して歩いた。
     女王國・倭國は西暦 309年から 313年にかけて第十二代景行天皇と、363年から 367年にかけて第十四代仲哀天皇・神功皇后によって通算八年かけて討伐された(日本書紀)。
     女王は代々神格化され、「八女津媛」(やめつひめ 多世代の女王の意)と呼ばれて女王山にいた。最後の八女津媛は神功皇后に「田油津媛」(たぶらかしの女性呪術者)という蔑称で殺された(日本書紀)。卑彌呼の墓や臺與の墓は破壊され、魔女を封じ込めるために大量の塩がまかれた。金印その他の御物も忌まわしいものとして破壊された。
     地域では大和政権に遠慮して女王山を「女山」(ぞやま)と呼ぶようになった。田油津媛のものと伝えられる墳墓址は明治の初めまで「女王塚」と呼ばれていたが、神功皇后の写真入り紙幣が発行されると、地域では明治政府に遠慮して「蜘蛛塚」(くもづか)と改称し、現在に至る。
     入口紀男『邪馬臺國』(2022年 アマゾン)より

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN Рік тому +1

    大変良かったです❕☝️ほんとそうなのかと思います❗以前から不思議と思う事があります!話に出てきた!光武帝から授かったあの?👍️金印ですが‼️漢(委)奴国王❗(委)の読み方は❔わ❗と中国でも読むのですか?(い)なのでは?と不思議ですが‼️

  • @skylovin32
    @skylovin32 2 роки тому +6

    同じように地名を当てはめたやり方で四国山頂説でも説明できますけどね。当時朱が採掘できたのは四国徳島だけてすし、阿波忌部氏の件もあります。また志摩ではなく嶋であり淡路島と捉えることも出来ます。さらにいえば魏志倭人伝は現在の北京語の発音が最も近いと考えられるので台湾人に発音して貰って地名を当てはめて欲しいです。だいたい女王卑弥呼は呼は呼称であり名前は卑弥のみ北京語で読めば[ひみ]ではなく[ひめ]古事記では日本神話で最初に作られた土地は淡路島でその次が四国。さらに愛媛などの地名からいかに四国が古代から重要視されていたか?また剣山の伝説も然り。畿内説には触れているのに四国説は何故触れないのですか?荒唐無稽な畿内説などどうでも良いです。四国説と比較して九州説の説明をして欲しかったです。熊襲とは熊を食べる種族を指すのでは無かったですか?九州人は古代に熊を食べ尽くしてしまったので九州には熊が居ないと言われています。北九州だけは特別だったのか?それとも九州北部には元々熊が居なかったのか?

  • @user-mn8gz6yo5f
    @user-mn8gz6yo5f 3 роки тому +24

    高精度の分析力に、敬服します❗

  • @kai76kai
    @kai76kai 2 роки тому +1

    画面が見づらくて、ナレーションで「~ありますよねー」と言われても見て認識できない。
    百聞は一見に…ナレーションはそのままでいいので、矢印でもサイドラインでもなんでもいいので大きくわかりやすくしてください。
    背景の画の海とかいらないので2分割で引きと寄りで分かりやすく見やすくしてください。このままだとやり直したのにもったいない。
    全体としての感想とても良いです。最後のまとめがそういうことだったのか!と思わされました。ありがとうございました。

  • @user-ip9sv1dr2w
    @user-ip9sv1dr2w 3 роки тому +5

    ありがとうございます。面白い話を聞かせて頂きました。
    菊池彦については多分その通りだと思います。
    伊万里と言われていますが、松浦市に上陸して南東に伊万里ならちょっとした山を越えないと唐津方面に行けません。松浦半島呼子あたりに上陸して南東に唐津の間違いではありませんか。それでも唐津から糸島市へは当時は崖沿いの険しい道では無かったかと思います。壱岐からなぜ直接糸島へ向かわなかった理由がよくわかりません。ついでに言えば壱岐から直接博多に行っちゃえばいいのですが、そこは都卒に挨拶があるので上陸するなら糸島が適切だったのにと思います。
    金印については亀井南冥のフェイク説があります。見つかった経緯があまりにも都合が良すぎるからです。すでに国宝ですが・・。そのあたりは明石散人の七つの金印に詳しいです。ただ金印のことを除いても奴国の位置の比定は正しいと思います。博多港には今でも那の津と言う地名がありますから。ずばり奴国の港です。
    歓迎があって遅れた日数を記述したというのは少し弱い気がします。非難ではありません。陳寿へ報告した人のことをそのまま書いたのか、一般的にそうであるという公平な記述なのかがはっきりしないから疑問が残ります。

  • @user-lk9hh6lx7i
    @user-lk9hh6lx7i 3 роки тому +20

    近畿はないと思っていましたので、この動画には説得力があり納得しました。

  • @user-ip4oy3iw7h
    @user-ip4oy3iw7h 2 роки тому +4

    概ね賛同です。
    ですが一つ.. 『自女王国以北其戸..』の「以」の解釈はかなり重要だと思います。投稿では「女王国より北は..」と訳されてますが、正しくは「女王国を含む北は..」かと。なぜなら「以」の使い方は三国志の全般で共通していて、「~より」ではなく「~を含む」で統一されています。この~を含むの解釈でいけば、女王国は倭国の最南で 奴国とほぼ同緯度の真西になります。
    又、『自女王国以北、特置一大率、検察..』ともあり、女王国も一大率の検察管内にあったと言えます。

  • @yo2trader539
    @yo2trader539 3 роки тому +8

    江戸時代から三国志・魏書東夷伝の解釈で揉めて決着つかないので、最後は遺跡・遺構などの考古学的発見しかないはず。半世紀以上続いた倭大乱の痕跡、共立時に既に年配だった卑弥呼の円墳、或いは公文書のやり取りに使ったであろう親魏倭王の金印など。伊都国の王陵墓らしいのは見つかってるが、邪馬台国の王族の陵墓が比定できれば絞り込めるのにね。魏書東夷伝は満州→朝鮮半島→対馬→壱岐→北部九州の順番で記述されてるので、額面通りに読めば北部九州のどこかで、多くの人口を養える水田面積の広い地域となるはず。

  • @user-qz3my1fn8b
    @user-qz3my1fn8b 3 роки тому +27

    もう九州で確定でしょ
    九州以外にあり得ない

  • @takashiumeda6276
    @takashiumeda6276 3 роки тому +8

    「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」は、出発点の帯方郡からの行程と考える方が素直な受け取り方になるのではないでしょうか。
    水行十日:狗邪韓國⇒對馬國⇒一大國⇒末廬國 海路10日
    陸行一月:帯方郡⇒狗邪韓國、末廬國⇒邪馬壹國 陸路1月

    • @user-hi8zy4vh1l
      @user-hi8zy4vh1l 2 роки тому

      同様の読み方をしていす
      郡より狗邪韓国まで七千余里と言う様に、目的地を書いて距離が後に記載。
      海上も同じ。
      末盧國以下も不弥國迄
      同じ。一貫しています。
      投馬國は水行二十日
      此れは、伝聞、使者達の
      行っていない所。
      南至邪馬壹國女王之所都
      水行十日陸行一月
      全行程の日数ですね。
      帯方郡から邪馬壹國まで
      不弥國から投馬國と
      邪馬壹國は放射状と
      解しています。
      連続した場合、そんな
      不便な邪馬壹國であれば
      狗奴國は簡単に
      滅ぼしています。
      そんな簡単な事、学者?
      さん達、考えられない
      ですかね??
      直ぐ援軍が来れる位置!
      其れが連合した意味で
      しょうね。
      距離の問題あるかも
      知れませんが、古田武彦
      さんが言っていた
      韓伝の方四千里から
      1里は約70m~90mに
      なりそうですね。

  • @komatsumiyabi5173
    @komatsumiyabi5173 3 роки тому +4

    魏志倭人傳には邪馬台国など記されていない。邪馬壹國(やまとこく)と記されている。
    邪馬台国と表記するのなら『やまとこく』と読んで貰いたい。

  • @user-sy8gb1kh2g
    @user-sy8gb1kh2g Рік тому +1

    【 権現塚は円墳で 全長150メートルの周濠が二重にめぐっています。
    周辺の発掘調査によれば、遺物などから築かれたのは5世紀後半から6世紀前半代と考えられており、これらの古墳に埋葬された人物は「日本書記」に名の見える この地方の豪族「水沼君」の一族と考えられています。】となっていました。
    時代が違う様です。
    卑弥呼の時代の古墳は 有るのでしょうか ?
    邪馬台国は 磐井に繋がるのでしょうか ?

  • @user-zp4yq4nr5y
    @user-zp4yq4nr5y 8 місяців тому +1

    陸行、水行の「行」という漢字本来の意味が理解出来たら、こちらのチャンネルの九州説の真実味が出てきます。「行」とは「十字路」や「道」を目的地に向かって進むという意味であり歩くという意味も持ちます。つまり「陸行」とは「陸を道にしたがい目的地に向かって歩行する」、また「水行」とは「川や海などの水際の道を目的地に向かって歩行する」という意味になります。「水行」は船による移動だろうという思い込みで畿内説が跋扈していますが、船による水上移動は「度」または「渡」という漢字で「魏書」に表記されております。「魏書」はこの似て非なる「水行」と「渡.度」の使い分けを注意して読む事が大切です。

  • @mutsuhito1868
    @mutsuhito1868 3 роки тому +3

    ほぼほぼ自分も調べていた推定と同じです
    呼邑国は佐賀の小城か
    伊都国は平原遺跡、奴国は後の鴻臚館、現在の福岡城址か
    古代からここは丘陵の岬になっており大型船も接舷しやすかったかと
    ちょうどここから外海に出る航路途中に志賀島先端の金印発見の箇所なので奴国終焉の時に外に逃げる時に隠し埋めたのか?とか
    博多区比恵には大規模な高床式倉庫が並んでたとも、南区三宅には宮家が置かれてたとも…
    ただ投馬国は薩摩ではなく近くに西都原古墳群もある宮崎の「妻」ではないかと推測してます
    水行二十日も同じように伊都国から西回りで有明海から一旦邪馬台国など有明海沿岸の国を経由して宮崎の一ツ瀬川を上って妻に行ったのでは?と思っています
    宇美には海がないので伊都国からかな?と
    この西回り航路も宗像や葦原中国など邪馬台国に属していない国を通る危険性と潮の流れの速い豊後水道や関門海峡を通るリスクよりも遣唐使の頃にも使われていた西回り航路を取っていってたのかな?と…
    それだと糸島から古代船で水行二十日かけて一ツ瀬川河口まで行き小舟で一ツ瀬川を上って妻に行けるだろうと推定しています。
    当時は海面も高く現在では一ツ瀬川沿いになっている新田原古墳群辺りも海岸線だったとも言われており、小舟は使わず妻の近くまで古代船なら入港出来たかも知れません。

    • @mutsuhito1868
      @mutsuhito1868 3 роки тому +1

      呼邑国はずっと小城羊羹で有名な佐賀県の小城町と思っていたのですが
      それにしても鳥栖、玖珠が出て来る割には太宰府周辺の地名が出て来ないな…
      あれだけ広い平野があるのでクニがあってもいいはずなのに……
      と思ってたら最近太宰府の中央部に旧小字名で字扇屋敷、そこに王城神社というものがあるのを発見しました
      この神社は神武天皇の伝説も残っており位置的にも御笠川と鷺田川との合流点に近く水田稲作には適した場所でもあるので呼邑国はここではないかと思うようになってきました
      扇屋敷の地名は旧豪族の扇氏が屋敷を構えてた場所という事で呼邑国の首長の子孫が扇氏だったのでは?
      と考えるようになりました
      現在でも県道68号線、太宰府〜宇美〜古賀線があり、現在も宇美八幡宮の前から太宰府天満宮に抜ける事が出来、この道は太古から獣道があったということもあり
      不弥国から邪馬台国に陸行する時にはこの路線を使い呼邑国(王城神社・扇屋敷)を経由して鳥栖を通りここからは鳥栖起点に東は玖珠、西は佐賀(吉野ヶ里)、そして南の邪馬台国へ向かったのではないかと推測しております。

  • @toyo.channel10
    @toyo.channel10 Рік тому +4

    だいたいこのぐらいってより、古代中国の算術レベルはかなり高かったと思うのでそちらも調べてみてください。
    たぶん距離は計算で出せるかと思います

  • @user-me3zj8kp9y
    @user-me3zj8kp9y Рік тому +2

    魏時代、当時は移動する時は占いで出発を決めて居たので当然到着は遅れる。水行、陸行の日にちは当てに成らない。矢張り邪馬台国は九州説に賛成です。

  • @user-hu4rk2vm1t
    @user-hu4rk2vm1t 3 роки тому +8

    とっても素直な、言い解釈だと思います。南米のチリか何処かで縄文式土器に
    類似する土器が発見されてましたね。古代日本は多分、多民族国家であったのかも?
    似非学者が多い中、心がほっとする動画でした。頑張ってください!。
    京都大学MUレーダー施設のごとき、日本人でありながら、日本人とは思えない
    ようなことを平気で行う学者も多いようです。ただ純粋に学者であってください。