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いやー! 深海先生のお話から鳥肌が立ちました。日本の古代史における何か新しい発見があるのではと、胸がときめいております。次回も楽しみにしております。
最近、深海社長の動画にハマったます。面白いし、社長の徳を感じ、このような方が徳のある人だと思います。これから少しづつ勉強し、徳を積んでいこうおもいます。
三国志時代の一尺は、20センチちょいてしたよね。だから、五尺は、日本の尺に直せば、三尺八寸というのは、とても適切な値てすよね。
傳世研ぎ身の素環頭大刀が長崎の龜岡神社にあります全長95cmで環は鍛接されていません
興味深い議論、ありがとうございました。最近では、刀剣がブームで色々話題に上ってますが、刀の大きな特徴である刀身長について、当時の尺貫法を用いた議論が余りなされていない(知られてない)のは、ちょっと驚きでした。この辺り研究して整理していくと、何か大きな発見に繋がるかもデスね😮
向日市にある乙訓古墳群の一つ、元稲荷古墳は卑弥呼の使者、難升米(妙斗米)の墓なので邪馬台国は吉野ヶ里と定まります。
三国時代の尺は24.2cmであってますね😊三国時代の前の漢代なら23.1cm😊
奈良 富雄丸山古墳4世紀後半の蛇行剣2メートル30センチじゃん。ずっとのちのモノだけど、ますます謎が、最初に鉄器見定めて数百年、造れるようになって奉納したのかなぁ、最初の頃の大切な刀、しっかし現物があるんだよねスゴイ
弥生時代の最後の頃 鉄器製造跡が見つかりました(1800~1900)ごっさかいと遺跡
王莽銭も近畿、福岡県、長崎県、佐賀県から多く見つかっています。
これは凄い。莽尺でピッタリってのが凄すぎる。下賜用であれば、新(王莽)の時代の刀であったとしてもおかしくはないですからね。案外、卑弥呼の五尺刀である可能性高い気がいたします。(願望)
夢が膨らみますね🎉
弥生時代の鉄器は北部九州でしか発見されていないことから、単純に古墳から出土したものは古墳時代の日本製。墳丘墓から出土したものは弥生時代以前の中国製でokだと思います。
流石の社長も手袋着用ですね笑
秦氏とか、向こうから渡ってきた人々は、幾つかのグループがいるみたいだから、そういう人々が持ち込んだ可能性も考えられるし、むしろそういう人々が日本で作った可能性も考えられるし…。とはいえ、日本と中国の尺貫法の違いで勘違いされていた可能性っていうのは、大発見かもしれないっすね。
吉野ケ里が邪馬台国はなさそうだけど、「女王国」連合ではあるだろうから、関係する文物はありそう。山都説や朝倉説なら、当時の海岸線だと海岸線沿いに吉野ケ里とは連なっていたし。畿内は邪馬台国より大きい、ヤマト王権の前身があった、女王国の東の海を渡って1000里のところにも倭種がいると言っているところな気はする。
吉野ヶ里が伊都国だとすれば倭国女王卑弥呼がこの刀を自分の縁者であろう大卒に持たせたものかもしれません。遺跡に隣接する田道ヶ里は初代筑紫国造田道命と関係あるとすれば彼は大彦命(意富比垝?)の5世孫、大卒はオオヒキとも読めないでしょうか?
万年前から、黒曜石の矢じりとか使用してるじゃん。氷河で発見されたアイスマンの5000年前の装備でもそこそこだし。薬草とか武具とか、それ以上いってた武人が1000人~とか、もっと凄かった気がしますけど。
弥生時代にあったとされる邪馬台国の所在地は、九州1択ですね。当然に吉野ケ里遺跡も候補地の1つです。
「日本万歳」鍛接温度は1000度ぐらい、らしい。焚火の残り炭で火起こしする時に息を吹いたり、穴の開いてる草木を使う。鉄を加熱するならパイプ状の木や竹を使うのは単純で常識、と思う。特別の炉が必要かなあ?コークスの下から空気を送れば部分的に1000度以上になる、気がする、昔にダイス鋼の焼き入れに失敗した時は1000度以上だったろうと思う、一部溶融。当たり前だが、コークスも炭も均一な温度では無い、数センチの高温部分が数か所。鍛接のコツは温度以外のフラックスだ、と言う気がする。
あんまり凄くて、昨日夢に見た
卑弥呼は銅鏡ばかりが取りただされている中で太刀もあったとは知らなかったのでよい学習になりました。刀からみる歴史に興味が尽きません!
中国では劉備か劉玄徳です。誰が言い始めたのか「劉備玄徳」、日本だけに存在する間違った呼び方です。通常はあざなで呼ぶのが礼儀。(赤の他人にいみなで呼ばれるのは失礼にあたります)いみなは公文書や、親子等の近親者で呼ぶときにのみ使えます。
これはこれは!興奮しますね!少し書かせてください。卑弥呼=天照大神説を敷衍します。その父は伊弉諾尊です。卑弥呼が活躍した地ならいざなぎも尊の地であろうという推測からその地を探します。まず、黄泉の国から帰還した伊弉諾は、急流でもなく淀みでもない川の畔に来まして、「禊ぎしよう」といいます。その地は筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原です。探し出しました。筑紫の日向し(東)の川が平野の流れ出でる(小戸)の橘(地名)のあはきの原(杷木町)。そこを流れる川の名は筑後川。ちょうど中流域に当たり近隣に浮羽(景行天皇の行宮)斉明天皇の陵もあります。つまり卑弥呼の活躍したところは九州筑紫ということになります。つぎに魏志倭人伝から「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至「また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。」とあります。「黒歯国」が女王国より東に海を渡ること千余里(四千余里)辺りにあることです。お歯黒は古代宮廷・平安朝などでは普通にあった習俗ですよね。つまり、黒歯国は神武東征して大和朝廷を打ちたてた近畿地方ということになります。なぜ気が付かないのか不思議です。邪馬台国論争は打ち止めですよね。ついでに豊前豊後はトヨの国、肥前肥後は卑弥呼の国。伊勢神宮外宮は豊受大神を祀っています。 mond
邪馬台国の頃に炉が無いって言ってたけど、この前、週末縄文人で、土を掘って炉を作っていたよ。結構前から炉があったのでは?あと西日本ばかりに目が行ってるけど、東日本にも目を向けて見て。鹿島香取神宮あたりが怪しいよ。
コメントありがとうございます。炉の存在はすでに縄文に近い弥生時代前期から青銅器を制作していたことからも明らかです。問題は鉄を沸かし付け出来るほどの性能を有した炉が存在したか否かです。単に加熱温度を高めるだけの炉では不十分で、狙った部分だけを高温に熱する機構を備えた炉が初期素環刀の制作には必要です。なぜなら沸かし付けは鉄の特定の部位のみを部分的に高温にする必要があるからです。つまり羽口を有する炉が発明されるまでは鉄の沸かし付けはできなかったと思われます。営業部 今津
朝鮮半島をわたって5尺刀が来たかは不明です。魏が朝鮮を制圧していなければ、そのルートは無い。むしろ斉から船で来たのでは。
三国時代、魏 1尺=24.2cm 5尺=121cm
この素環刀は様式より前漢時代の製作とみられ、魏国存在以前のものとみられます。前漢時代から五尺刀として保存伝来したものであれば寸法に魏尺を用いるのは躊躇されます。よって莽尺を前提に動画は製作しています。
土器もねぇ化石もねぇ、いっぱい拾ったけど?! 法的に、鉄器難しいよね なぃ! ってかさ、結構ふざけてるよね、法律、なんで自分に関係ないものの、責任負わせるとか。ずっと大切に代々残してきたのに、やら、あるよね、失礼すぎる人何様や! だから、消すんだよ、後の遺恨を残さない為に
いやー! 深海先生のお話から鳥肌が立ちました。日本の古代史における何か新しい発見があるのではと、胸がときめいております。次回も楽しみにしております。
最近、深海社長の動画にハマったます。
面白いし、社長の徳を感じ、このような方が徳のある人だと思います。
これから少しづつ勉強し、徳を積んでいこうおもいます。
三国志時代の一尺は、20センチちょいてしたよね。だから、五尺は、日本の尺に直せば、三尺八寸というのは、とても適切な値てすよね。
傳世研ぎ身の素環頭大刀が長崎の龜岡神社にあります
全長95cmで環は鍛接されていません
興味深い議論、ありがとうございました。
最近では、
刀剣がブームで色々話題に上ってますが、刀の大きな特徴である刀身長について、当時の尺貫法を用いた議論が余りなされていない(知られてない)のは、ちょっと驚きでした。この辺り研究して整理していくと、何か大きな発見に繋がるかもデスね😮
向日市にある乙訓古墳群の一つ、元稲荷古墳は卑弥呼の使者、難升米(妙斗米)の墓なので邪馬台国は吉野ヶ里と定まります。
三国時代の尺は24.2cmであってますね😊
三国時代の前の漢代なら23.1cm😊
奈良 富雄丸山古墳4世紀後半の蛇行剣2メートル30センチじゃん。ずっとのちのモノだけど、ますます謎が、最初に鉄器見定めて数百年、造れるようになって奉納したのかなぁ、最初の頃の大切な刀、しっかし現物があるんだよねスゴイ
弥生時代の最後の頃 鉄器製造跡が見つかりました(1800~1900)ごっさかいと遺跡
王莽銭も近畿、福岡県、長崎県、佐賀県から多く見つかっています。
これは凄い。
莽尺でピッタリってのが凄すぎる。下賜用であれば、新(王莽)の時代の刀であったとしてもおかしくはないですからね。
案外、卑弥呼の五尺刀である可能性高い気がいたします。(願望)
夢が膨らみますね🎉
弥生時代の鉄器は北部九州でしか発見されていないことから、
単純に古墳から出土したものは古墳時代の日本製。
墳丘墓から出土したものは弥生時代以前の中国製でokだと思います。
流石の社長も手袋着用ですね笑
秦氏とか、向こうから渡ってきた人々は、幾つかのグループがいるみたいだから、そういう人々が持ち込んだ可能性も考えられるし、むしろそういう人々が日本で作った可能性も考えられるし…。
とはいえ、日本と中国の尺貫法の違いで勘違いされていた可能性っていうのは、大発見かもしれないっすね。
吉野ケ里が邪馬台国はなさそうだけど、「女王国」連合ではあるだろうから、関係する文物はありそう。山都説や朝倉説なら、当時の海岸線だと海岸線沿いに吉野ケ里とは連なっていたし。
畿内は邪馬台国より大きい、ヤマト王権の前身があった、女王国の東の海を渡って1000里のところにも倭種がいると言っているところな気はする。
吉野ヶ里が伊都国だとすれば倭国女王卑弥呼がこの刀を自分の縁者であろう大卒に持たせたものかもしれません。遺跡に隣接する田道ヶ里は初代筑紫国造田道命と関係あるとすれば彼は大彦命(意富比垝?)の5世孫、大卒はオオヒキとも読めないでしょうか?
万年前から、黒曜石の矢じりとか使用してるじゃん。氷河で発見されたアイスマンの5000年前の装備でもそこそこだし。薬草とか武具とか、それ以上いってた武人が1000人~とか、もっと凄かった気がしますけど。
弥生時代にあったとされる邪馬台国の所在地は、九州1択ですね。当然に吉野ケ里遺跡も候補地の1つです。
「日本万歳」
鍛接温度は1000度ぐらい、らしい。
焚火の残り炭で火起こしする時に息を吹いたり、穴の開いてる草木を使う。
鉄を加熱するならパイプ状の木や竹を使うのは単純で常識、と思う。
特別の炉が必要かなあ?
コークスの下から空気を送れば部分的に1000度以上になる、気がする、
昔にダイス鋼の焼き入れに失敗した時は1000度以上だったろうと思う、一部溶融。
当たり前だが、コークスも炭も均一な温度では無い、数センチの高温部分が数か所。
鍛接のコツは温度以外のフラックスだ、と言う気がする。
あんまり凄くて、昨日夢に見た
卑弥呼は銅鏡ばかりが取りただされている中で太刀もあったとは知らなかったのでよい学習になりました。刀からみる歴史に興味が尽きません!
中国では劉備か劉玄徳です。
誰が言い始めたのか「劉備玄徳」、日本だけに存在する間違った呼び方です。
通常はあざなで呼ぶのが礼儀。(赤の他人にいみなで呼ばれるのは失礼にあたります)
いみなは公文書や、親子等の近親者で呼ぶときにのみ使えます。
これはこれは!興奮しますね!
少し書かせてください。
卑弥呼=天照大神説を敷衍します。その父は伊弉諾尊です。卑弥呼が活躍した地ならいざなぎも尊の地であろうという推測からその地を探します。まず、黄泉の国から帰還した伊弉諾は、急流でもなく淀みでもない川の畔に来まして、「禊ぎしよう」といいます。その地は筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原です。探し出しました。筑紫の日向し(東)の川が平野の流れ出でる(小戸)の橘(地名)のあはきの原(杷木町)。そこを流れる川の名は筑後川。ちょうど中流域に当たり近隣に浮羽(景行天皇の行宮)斉明天皇の陵もあります。つまり卑弥呼の活躍したところは九州筑紫ということになります。
つぎに魏志倭人伝から「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
「また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。」とあります。
「黒歯国」が女王国より東に海を渡ること千余里(四千余里)辺りにあることです。
お歯黒は古代宮廷・平安朝などでは普通にあった習俗ですよね。つまり、黒歯国は神武東征して大和朝廷を打ちたてた近畿地方ということになります。なぜ気が付かないのか不思議です。邪馬台国論争は打ち止めですよね。ついでに豊前豊後はトヨの国、肥前肥後は卑弥呼の国。伊勢神宮外宮は豊受大神を祀っています。 mond
邪馬台国の頃に炉が無いって言ってたけど、この前、週末縄文人で、土を掘って炉を作っていたよ。結構前から炉があったのでは?あと西日本ばかりに目が行ってるけど、東日本にも目を向けて見て。鹿島香取神宮あたりが怪しいよ。
コメントありがとうございます。炉の存在はすでに縄文に近い弥生時代前期から青銅器を制作していたことからも明らかです。問題は鉄を沸かし付け出来るほどの性能を有した炉が存在したか否かです。単に加熱温度を高めるだけの炉では不十分で、狙った部分だけを高温に熱する機構を備えた炉が初期素環刀の制作には必要です。なぜなら沸かし付けは鉄の特定の部位のみを部分的に高温にする必要があるからです。つまり羽口を有する炉が発明されるまでは鉄の沸かし付けはできなかったと思われます。
営業部 今津
朝鮮半島をわたって5尺刀が来たかは不明です。魏が朝鮮を制圧していなければ、そのルートは無い。むしろ斉から船で来たのでは。
三国時代、魏 1尺=24.2cm 5尺=121cm
この素環刀は様式より前漢時代の製作とみられ、魏国存在以前のものとみられます。前漢時代から五尺刀として保存伝来したものであれば寸法に魏尺を用いるのは躊躇されます。よって莽尺を前提に動画は製作しています。
土器もねぇ化石もねぇ、いっぱい拾ったけど?! 法的に、鉄器難しいよね なぃ! ってかさ、結構ふざけてるよね、法律、なんで自分に関係ないものの、責任負わせるとか。ずっと大切に代々残してきたのに、やら、あるよね、失礼すぎる人何様や! だから、消すんだよ、後の遺恨を残さない為に