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小名木先生のお陰で勉強のできなかった私が、この結美大学を通して沢山の事を学ばせてもらえてます。
推理小説を読んでいって、謎がすべて解き明かされたような清々しい気分になりました。
ただ一つ違和感を覚えた。宗女”トヨ”を”ヒミコ”の娘ではないと言っていること。理由として①”ヒミコ”は結婚していなかった。②高齢であった。と言っているが、”ヒミコ”が50歳くらいで(当時としてはかなりの高齢ではないかと思う)”トヨ”が12歳であれば”トヨ”が生まれた時、””ヒミコ”は38歳くらい。女性の出産年齢として無理がなさそうに思える。
理屈や理論で片づけられるんなら何も苦労はしないし、これだけ長い期間の論争になりはしなかったはず。理論的には阿波説が正しいと言っても、それが史実であるということをどうやって証明できる?もっと決定的な物証でも見つからない限りは誰にもわからない。
阿波も参戦か? 四国は地理的に不利と思うが。
小名木先生の声を聴くと元気が出ます☺️✨
る!!わ
漁師が入れ墨を入れる理由として、土左衛門(異常に体が膨れ上がってしまう)になったとき誰なのかを判別するためって聞いたことがあります
これの方が納得感あります。
そもそも、身体に入れ墨するとなぜウェットスーツの役目を果たすのかが分からんのですが…入れ墨をすると体温が下がるという話は聞いたことがあるが、その逆は聞いたことがない。
@@mash6684色にもよるけど当時の技術だと黒しか入れられなかったはずだから、個人的な意見としては黒い面積が大きければ大きいほど太陽の熱は吸収しやすいから、ぶっちゃけ熱さは感じるよ。俺自身結構な面積をブラック&グレーで入れてるけど、入れてない部分と比べると明らかに昼間は熱いw
ウエットスーツの効果は無いだろうなぁ
70歳の私の一番嫌いな科目は歴史でした。小名木先生のような先生と知り合っていたら歴史の面白さに気づいていたかも知れませんね!これからも楽しい授業をお願いします。
何回、同様の投稿をしているんですか😂提灯投稿もいい加減に。¯\(°_o)/¯
よくわからんなー紀元前に出来た神武天皇からの倭国が畿内に移って邪馬台国と言われたならなぜそこに天皇じゃなく卑弥呼がいる?3世紀には天皇はどこいった?
天皇が死んで新しい天皇が子供だったら天皇の代わりに実務を担う人が卑弥呼だったんじゃないかな?で一回そういう体制になったら天皇が実権を得るのは難しいと思う
魏志倭人伝の通り南に漕ぎ出て風と海流で東に流されながら進むと茨城県の霞ヶ浦あたりに卑弥呼の邪馬台国はあった事になります。つまり後半の海路は太平洋岸を東に進んでます。一岐国が出雲(多岐隠岐)、末盧国の様子は今も残る丹後半島の住宅と酷似、伊都国は京都、那国は那古野(名古屋)そこから河川が多くて歩けないから南下し今の三重県から海路を南にでて黒潮に乗り太平洋岸を東へ進んでます。これは江戸時代の東海道も桑名に舟で渡ってます。関東平野も川だらけで歩けないため房総半島に再上陸して歩き島のようなところに邪馬台国がある、つまり霞ヶ浦の向こう側に邪馬台国があった。卑弥呼がいた平和な邪馬台国は神武天皇の東征とその後の征夷大将軍によって滅ぼされたんじゃないですかね。つまり九州の気性が荒い海賊たちが大陸と組んで東征し大和朝廷を作り全国制覇して行った。だから彼らは文字を持ち記録が残せたから正義になった。文明イコール文字なんです。霞ヶ浦一帯は香取神宮があり露天掘りで鉄が採れる日本刀発祥の地ですから大和朝廷から狙われたんですよ。そもそも魏志倭人伝というのも邪馬台国を狙って下見したと考えるのが妥当。九州には九州が日本の中心だったと思いたいロマンチストが沢山いたから金印をでっち上げたりしてますが、魏志倭人伝が朝鮮半島まで縮尺が正確なのに九州に入った途端はちゃめちゃという説は非合理的。
@@つるやすひろ千葉県には日本最古級の纏向型前方後円墳(神門古墳群)と3世紀後半の製鉄遺跡の沖塚遺跡があり、出土品からも畿内勢力との結びつきが強かった事が伺えますね。
@@nekono_mimikon 千葉はその後に桓武平氏であった千葉氏が治めましたが三浦半島の三浦氏と同族だったり川だらけの湿地帯だった東京湾を通らず船で東海道とつながっていた形跡があります。香取神宮が刀の神様だったり鉄が露天掘りできて食料にも困らなかった房総半島北部から霞ヶ浦一帯が邪馬台国だったと考えるのは自然です。鉄の産地だったからわざわざ魏が目をつけたと考えるのが妥当です。
年代的に魏に朝貢したなら明らかに神武天皇より何代も後。神武天皇が即位したところが奈良県なので、もし大和王権内の人物なら卑弥呼のいたヤマトは近畿地方。戦略的に外に対して正確な場所を教えなかった可能性もありますが実際に魏志倭人伝にはあちこち聞きかじって書いたと著者自身がはっきり明記しているので、そこに書いてある旅程のようなものは甚だいい加減なもの。ただ魏に朝貢したのは大和朝廷外の別な王、首長が正当性を主張しようと魏に朝貢した可能性もありうる話。なんせ大和王権が揺らいでどこが王になってもいいような状態だった時期の事。ひょっとしたら前期大和、中期大和、後期大和のように権力が変遷していった可能性もあります。
これについてはあなたの言う事を信じます。ありがとうございます。
時々、小名木先生と意見が違うことがありますが、この番組の邪馬台国、卑弥呼の説には100%賛成です。先生の言われるとおりだと思います。ありがとうございます。
久々に「小名木先生」のご講義拝聴致しました。いつもいつも生れて初めて伺うお話ばかりです。今回も文字しか知らなかった「倭国」についていろいろ知ることが出来ました。残された「記録」がどの位の説得力があって大切かひしひしと勉強させられました。「小名木先生!」今日も有り難う御座いました観て良かったです(91歳)
やまとからおおやまとに移ったとあるから畿内では無いだろうが、やまとが九州にあったという遺跡や古墳から考えると四国の阿波のほうが有力ではないか?地名や名前も阿波から近畿に多く見られる。逆は考えられない。朱の原料の水銀等の採掘後や何よりも明治政府依頼、阿波の歴史の痕跡を隠そうと遺跡を破壊したり、古文書を没収したり、かなり怪しい。
2,3年前民放のTV局が台湾・中国まで赴き歴史の著名な学者にインタビューして、邪馬台国は何処に有ったと思うか❓️との問いに独りの中国の学者は始めは九州にあったものが後に畿内に移ったのだろうと答えたのとほぼ一致して納得がいきました。日本の専門家は二択で決め付ける傾向があり、これは古代史の学派の縄張り争いと同じく互いに反論し合い醜いだけです。大東亜戦争も陸軍vs海軍の対立の犠牲のために負けたのとよく似ていますね。下らん❗勝てた戦争にみすみす墓穴を掘って負けたとも言える情けない結果でした。適当な時点で講和に持ち込む初心を蔑(ないがし)ろにした同じ様な轍を踏むことなく、この古代史論争はこれで決着が付いたと言っても過言では有るまい。小名木先生 Great Job‼️ です。四国説はどうだ等の別説もこの " 遷都" の過程の内での出来事と捉えれば説明が付くであろう。
13分あたりから都道府県ごとに国があったと言われ地図がでていますが、説明されている書物の頃は令制国ではなく国造の頃のはずなので使用されていた地図が違うのではと思いました
あくまで『当時も国がたくさんあった』というイメージを持ってもらうための例えで地図をだしてるんでしょ。 というかそれ以外ないでしょ・・・それがわからん人がいるとは・・💦 いいねしてる人もちょっと残念な人たちだねw
ありがとうございます。私の最後の学問は日本史にします。ありがとうございました。
先生!12:10で「新唐書が書かれたのは古事記や日本書紀が書かれた時代よりも古い」と仰っているのは間違えてますよ。新唐書が成立したのは1060年頃です。旧唐書が成立したのは945年頃です。古事記や日本書紀が成立したのは712年及び720年頃です。なので、新唐書や旧唐書が古事記や日本書紀よりも古いと言うのは間違っています。恐らく新唐書の記述は日本書紀を参考にして書かれたものだと思いますよ。日本書紀が作られた目的の一つが中国など他所の国に日本のことを知らせることですから。
正解だと思う 5000年の歴史と3万年の歴史の差は埋められない 氷河期にはペキン周辺氷山ですよ日本の神代文字をもじって作られたのが中国漢字 日本国にも漢字カタカナ草体文字ひらかながあって中国漢字も取り入れ古事記の編集作成したって思う方が流れやすいのです 高度な文明は未開へ流れるが自然の摂理戦後の近隣条項は歴史を歪める棄てる以外に方法は無いのです 草体文字とひら仮名は女性文字で男児の使用は禁じられていた 日本人は女性上位ですから仏教漢字を使用したのは男の意地 感情は今も昔も変わらない
@tokujimae さん、思い込みが強烈。縄文時代の遺物に漢字で書かれた文章に匹敵する神代文字の文章がありますか?
この一点においてもこのおっさんがデタラメだとわかるね❤
神代文字 神社にて今もって使用しているでしょう お御籤とか建物の象徴する場所のも使用されているよ お札 俺個人で神棚を部屋に奉っているよ 気が向いたときに手を合わせお礼を言っています
@@tokujimae 現在神社に於いて使われている「神代文字」は近世に作られた物ばかりですよ。一般の方が「神社の神代文字」と考えている物は下手をするとサンスクリットだったりします。いわゆる梵字ですね。これは明らかに神代文字とは違うのですが一般の方には区別はつきません。僕の故郷の英彦山神社には神域に梵字岩と呼ばれる弘法大師ゆかりの岩が有ったりします。何で神社に「梵字岩」?と思いますが仕方ありません。仏教の伝来以来神社は虐げられてきました。江戸時代までは多くの神社は寺の管理下に置かれ(自前の地領がなかったので)、明治初期には逆に「廃仏毀釈」により立場が逆転するのですが、それまでは神様は「権現様」のように神様は仏様が日本で「仮の姿」として現わされたものだとされていました。例えば須佐之男命は牛頭天王として生き延びて来ました。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ですよ。何故須佐之男命がお釈迦様の守護神なのか複雑な気持ちになりますが、仕方なかったのです。
「新唐書」は宋の仁宗(在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日)の命により、「 旧唐書 」を改訂・増補したものなので古事記や日本書紀より新しいのではないかと思われます。もし先生がご指摘された箇所が旧唐書に記載されていたとすれば成立は945年と考えられますので、やはり記紀より新しいと思われます。
天皇の名前とかは日本から教えて貰った物であると考えるのが妥当と思いますから日本国の都合で書かれていると思います
すごいね? こんな日本のご先祖様だから・・・ね?今の日本の歴史に結びつくパズルが解けたって思います。日本人のすごいところは、何と言っても、受け入れる真心、他人の気持ちも自分だったらと思うやさしさ、虫の鳴く音を、虫の声と言い切る感性、四季も、感じられる歌、うまい食事、共感できるアニメ、宗教を気にしないで、受けいれる・・・なによりも、むすび大学の出会いが一生の宝だと思います。小名木先生。ありがとうございました。
自分も以前から同意見でした。先生の結論で大いに勇気つけrたれました。ヤマタイ、九州、近畿両方存在説ですね。
倭国=邪馬台国=九州王朝(卑弥呼がいた国)日本国=神武東征の結果出来た国=畿内王朝
その通りかもしれません。分かりやすい。ありがとうございます。
【『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。】
ウソだよ
いやー、面白いですね!!先生の話もさる事ながらコメントも面白い!!賛否両論、これぞ歴史ロマン😊
小名木善行さんに感謝、敗戦以来より根付いた自虐歴史観を断ち切る説明がありがたい。
元々、九州、筑紫から阿蘇にかけてとしか考えていませんでした。細かい論拠というよりそこで暮らした肌感覚というか空気感のようなものです。
九州で暮らしてたら邪馬台国のあった場所が肌感覚で分かるのかww俺はなんも感じないぞw
肌感覚ありますね。同感です。邪馬台国は連合国でしょ即ち奴国もその一部でしょわざわざ敵視してる国を経由して渡航なんかしないんじゃないかなぁ😂
熊本に山都。伴都美子はいまもここに住む。
Wikiによると旧唐書の成立は945年、新唐書の成立は1060年、古事記の成立は712年、日本書紀は720年とありますから、単純に廃止される前の遣唐使が、古事記、日本書紀を元に日本を紹介した、だから唐書に古事記、日本書紀と同じ記述がある、というだけなのではないでしょうか?
wikiが間違ってるよ。
私もその可能性を考えていました。Wikiはあまりあてになりませんが。
@@kaka-rq5zd wikiが正解ですよね?
@@821marcello デタラメだ。そもそもwikiは個人が適当に更新出来るんだよ。😊
@@kaka-rq5zd 文献をお調べください。
小名木先生、素敵なお話を有り難うございます。ニッポン、かっこいいです。基本から学んで、浸透させれば🎵日本人としての自覚にもなる気がして来ました。
やっと整理できた❗️ありがとうございます。香取神宮、鹿島神宮が関東にあることから、東北から関東に、もう一つの大きな連邦国家があったんのかな❓
東日本の太平洋側に、日高見国があった様です。
決定的な具体的証拠が無い状況下では種々ある説の中では時間、空間を俯瞰して見た時、大筋で一番説得力のある論説でした。決定的な証拠が発見されない限りひとまずもうこれでいいと思う。
決定的な証拠 はあるのですが。
証拠はあるって言ってんじゃん!
コメントをよく読め!
@@アーモンドアイ-s8zなぜそんなに乱暴な言い方されるのですか?
@@アーモンドアイ-s8z さんそういう意味ではなかったのですがなんかすいません
「隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷」の出だしにはこう書かれています。『倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海』また、『使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。』これは聖徳太子の「日出る処の天使…」の文章であり、656年隋書では【倭国】は【大和朝廷】を指しています。
阿蘇のある熊本が当時は九州の中心地(人口集積地)かもね博多と同じ肥筑方言でありながら、南九州との繋がりも深く免田式土器の分布は熊本~南九州~沖縄まで広がっている天火は明く、人々がニギニギしい「ひのくに」の阿蘇山を中国が倭国の象徴とみなしたのも頷けるね。
邪馬台国論争の発端の動画配信を、ありがとうございます。
はっはぁ〜なるほど。合点がいきました。京大も東大も歩み寄れば何処なり。灯台下暗し。本日もまた立派な授業確かに授かりました.ありがとうございます。
福岡県宗像市に有る宗像大社の歴史を紐解いてください。海女も居たみたいです。卑弥呼を発見出来るかもしれません。今回の講義に非常に似た言い伝えです。母の名前は「とよの」です。
新唐書の成立は1060年とされているようなので記紀の後になると思います。
サモア、トンガやフィジーも入れ墨入れる習慣があるから日本は昔々から海洋文化だったと言う事ですね🎵😊
神武東征の時期・場所と倭国から畿内に移った時期が全然違う。和気清麻呂が何故に宇佐神宮に行ったか?奈良に移って日が浅かったからか、まだ九州にいたからです。
おはようございます…邪馬台国は、福岡県・大分県・熊本県の県境当たりにあり、あと、水行・陸行の話は大和国の近畿を指してると思います…中国は、邪馬台国と大和国の違いが解らなかったと認識すれば、全て解決できます…
倭乃至倭人というのは、『魏志倭人伝』で大いに知られましたが、倭人という名は、後漢の時代に初めて委奴国で知られました(紀元後57年)。なので倭は漢音で発音しなければなりません。この辺がとても疎かだと思います。漢音では委、倭は「ヰ(い)」と発音します。「わ」という発音は呉音で10世紀の発音になります。なので、『魏志倭人伝』は『ぎしいじんでん』、『漢委奴国王金印』は『漢の委奴国王(いとこくおう)の金印』となります。『旧唐書』にある「倭国は、古の倭奴国なり」は「いこくは、いにしえのいとこくなり」であり、倭奴国が九州の国家であることから倭国がこの時代も九州にあると言っているわけです。その証拠に、「日本国は倭国の別種なり」とあり、それが奈良を中心とした『日本国』ということなのでしょう。それから大事なことは、神功皇后=卑弥呼と同一視する人が多いようですが、卑弥呼はあくまでその国の王(女王)であり、神功皇后は皇后でしかない・・・支配者ではないのでまるで別人になります。『白村江の戦い』と天智、壬申の乱の動乱後の天武の時代は、陏から唐帝国の成立という東アジアの大動乱期の一連の国家の組み換えとそれに伴う権力構造の推移の時代であって、その後は『日本国』一本になったということです。『日本国』には元々なかった阿麻氐留神(あまてるしん)を原郷の対馬から勧進し国家的祭祀にしたのが天武天皇であり、大海人皇子という名の通り、古代海人族といわれのある名家の出でしょうが、神武系統でなく、九州の【本家】の系統❓で、天智と天武が兄弟ではないと言われているのはむべなるかなです。因みに、天皇というおくり名を実際に始めるのが天武であり実質の初めての日本の大統一者といえましょう。(注)阿麻=海人・海女=天、天武が天という字を用いたのは天帝より授かったという意味と古代海人族の強大であった『倭国』を継承したという意味も込めての天下一統の天でしょうか(その為、天智にも天がついている。)。
妥当な御意見だと判断します。
発音からすれば委は「イ」と読む。なるほど、海神は近畿では無いですか?和歌山付近。お伊勢さんは海人系の神社ですね。確かに神武天皇の系統ではない。、色々系統は有りますが、元々日本人は海洋民族ですから縄文期にもそうだったと推測します。土着して縄文文化を花開かせた。縄文人、その土着の起源は今から2万年以前まで遡れる。見つかって居る物で最古の土器は16800年前ですか、旧石器時代にも所謂、縄文人は生活していた。岩宿の遺跡は相当古い優に3万年前のものが在る。先日、岩宿を訪ねて見て来ました。皆さん一度は言って見ると良いです。
橿原の都はヤマトから外国人が入り込んできた危険な九州を平定に行った本隊が、帰還した時に備えて都の整備をしていたのです。九州平定が長引いたので、留守を守っていたヤマトの留守番隊と戦になってしまった。その時にサヌの命(のちに神武天皇)の兄イッセイノ命が戦死しました。留守番隊は外敵が来たと勘違いし戦になったと言い伝えがあります。因みにサヌノ命が本家で、留守番隊は分家の関係で分家はヤマモトです。
阿波説を推します
反日動画
「水行十日、陸行一月」を地図上に当てはめると、「阿波説」が一番しっくりくるようです。
@@前田国貴 ハントー人ファビョってて草
@@NAO-wq6xe 四国の話をしているのに、何故「半島」が出てくるのか分かりません。説明をお願いします。
@@前田国貴 ハントー人しか、言ってない説だからだよ。ハントー人
分かりやすいですね面白いありがとうございます❣️
古代史は、言ったもん勝ち的なところがあり、楽しいですね。さて、黒歯国ですが、仲間の研究によりますと「おはぐろ」の風習がポリネシアにはあったようです。また、壹与ですが、宗女とありますので、卑弥呼の出里の跡取りの娘という意味になるかと。(宗:本家、宗家とかいいますね、あの宗です。)卑弥呼は、力で奪取した権威ではなく、擁立された女王ですので、後見の力が絶大だったと解釈すれば、没後、宗家からの女性を再度擁立したと考えれば納得できます。践祚大嘗祭の本義が正しく理解できておれば、邪馬台国論争は一瞬で片付くはずですが、記紀の冒頭部を神話と決めつけている方々には、理解不能だと思います。今後の小名木さん、参政党の活躍に期待します。
魏志倭人伝を白川静の字通で読むと、[水行]とは水辺に沿って移動する事であり、海を渡る時は倭人伝以外の地域でも[渡海]と書いてあります。そして日本に上陸してからは[水行]のみで一度も[渡海]していません。つまり九州に上陸していれば四国や本州はありえないし、本州に上陸していれば本州以外はありえません。
九州から東なら、四国になる。阿波説(徳島県)の証拠になる。『水行10日、陸行30日』これは、船で四国を1周すると10日、歩いて一周すると30日ということなら妥当な日数になると思う。その当時、すでに直線距離を測る技術があり、阿波までの直線距離はほとんど正確らしい。
そんな説明を本気で信じているのですか?そもそも水耕10日、誤字ってますよ。
@@kenn8438 ご指摘、ありがとうございました。『水耕』から『水行』に直しました。
そのわりには日本がメキシコになる距離の書物もあるので距離はあてにならないと外国の学者さんが言ってましたねぇ。
@@やまぴぃ-z3u 確かに距離の問題は、測った人、その情報が伝わった過程等を考えると直接的にはあてにならないですが、そのメカニズムを考察するのは楽しいですよ。ちなみにその外国の学者の名前はわかりますか?
UA-camを流しで見てたので台湾の学者さんだったと思います。
隋書、旧唐書、新唐書の話初めて聞きました。大変勉強になりました。
学校でちゃんと教えろよ、と思う。
新唐書はウィキによれば1060年成立となっているのですが先生の記紀より古いと言う説はどこから出ているのでしょうか?
ウィキペディアは反日だから、見ちゃだめ
ウィキを信じるマヌケ
やっぱりなぜ阿波に触れないかの謎は残りますね。
ハントー人ファビョってて草
@@NAO-wq6xeあなたこそハントー人ハントー人ってファビョってませんか?
@@茗荷りん ハントー人って自己紹介してきた。やはりハントー系の説なんだ。Σ( ̄ロ ̄lll)なるほど。かまかけたら、引っ掛かって草流石ハントー人
@@茗荷りん ハントー人がファビョってるのは認めるんだ。Σ( ̄ロ ̄lll)その説はハントーで流行ってるのかな??
@@茗荷りん 流石韓国が先進国になれないのがとてもよく分かるコメントですね。ありがとうございました。
魏志倭人伝に書かれた時の邪馬台国がどこにあったのかの答えになっていないのでは?
今回も面白かった。邪馬台は中国語の発音でヤンマドゥ、大和畿内説が有力だと思ってたけど、全体説は資料も揃っていて説得力があり、その通りだと感じた。結局、邪馬台国論争は、それぞれのロマンを語ってるだけなのかもしれないなぁ。
全てをロマンで片付けたい貴方の人生とは?
中国語は「意味、あるいは外見をのべる」のことばなので、中国語の発音の場合と外国語を正確に記述するときに音ごとに中国文字を当てはめる場合があります。邪馬台などは後者だと思います。
@@内野正章古代史なんて良くも悪くもロマンの塊だろ
小名木先生は、歴史を検証していない。古事記は阿波の国の物語で剣山周辺の高天原と阿波の出雲国は地名、神社が現在も残っています。古代出雲国は阿波にあり、現在有名なの出雲神社は鎌倉時代に建造した神社です。女王卑弥呼の倭国は、四国阿波にありました。
ウリナラ起源日本版w
長い論争に結論が出せて良かったけど、メンツとはコワイものだと教えてもくれた。挫ける必要などない。日本はキチンと議論する国だと示せたんだから。むしろ、尊敬されるべき、真面目な国だったということ。誇りにしたいところだ。やはり、せかいへいわにもかかわらせてもらいやすくなるよ。
確かに、さらに、議論してください。よろしく。
久しぶりに来たのですが、4.5年?前神谷さんも居た頃に、先生も卑弥呼はいないと言ってましたよね。
入れ墨は、海や山で果てたとき、或いは囚われたとき、どこのシマの所属か分かるようにする意味もあった。
今までで一番受け入れやすい説ですね。ありがとうございます。
とても分かりやすい内容でした。ありがとうございました!!
物語としては面白いが、最早歴史書としては見直す必要があるのでは!最近になって、東北大学の名誉教授の田中英道氏の単なる物語で史実を表していないとの説に目から鱗で、大いに納得しています。日本史学会の悪弊で文書がないと史実と認めない頑なさが日本史を歪めていると思います。
文書があっても自らの説に合わないと無視したり、文書の方が間違っていると主張するというもはや学問ではないのが日本の史学です論理なき考古学とかなりバカにされています
田中英道氏の説と合わせて、古田武彦氏の多元国家論も参照していただきたいです。30年前に、神武東征が史実であった可能性が高いことを、古代大阪湾の地形図により論証されています。縄文と直結した東北・関東については、田中英道氏の直観が優れていると思います。九州王朝の研究について、田中英道氏が古田武彦氏の説を無視(知らない?)しているのが残念です。古田武彦・古代史コレクション ミネルヴァ書房 参照
自分の主張のために勝手に内容を読み替えたり翻ってはないものにしようとする。魏志倭人伝が信頼できないならそもそも所謂邪馬台国論争に参加してはいけない。魏志倭人伝は信頼できない、でもそこに記述してある邪馬台国とはあったとかおかしいでしょう。そもそも近畿説って後に奈良に大和朝廷が起こることを知っていることが前提になっている説だから。日本人にしか通用しない。海外向けに魏志倭人伝はこう読み替えます、とか発表できるか???気が狂ったかと思われる。
この前宇佐神宮に行って来ました。車中泊で出雲大社から九州を走りながら筑紫平野の真ん中でああっ邪馬台国はここにあったんだろうなと実感しました。皆さんも行って見て下さい。奈良ではあの当時沢山の人口を養いきれませんよ。
奈良は水が無いよね。九州は水と山に恵まれてますからね。
滋賀県の和爾氏と息長氏もかなり勢力があったと思います。後漢の剣とか持っていました。安曇もいました。滋賀県は淡海です近江の前の呼び名です。
神武天皇のご生誕の伝承のある宮崎県高原町周辺の都城市や父君のご生誕の鵜戸神宮のある宮崎市は天皇家ゆかりの土地。水行10日、陸行1ヶ月とあるのも北九州に上陸した中国の使節が都(宮崎)のある土地に行く行程が九州を大分から少しずつ沿岸を泊まりながら刻んで進んだ場合の期間かと。列車とかで宮崎市から別府に旅行に行ったときに特急なのにかなり時間がかかり、その距離感を実感しました。徒歩なら東海道五十三次(約2週間)よりも倍はかかるかと。
神武天皇が近畿に遷都した後も出身地との連携は人的にも物的にもあったはずで、特に宮崎の広大な農地からの年貢や屈強な兵士(隼人)は朝廷を支える強力な資源になっていたのではないでしょうか。
昔はまともな道もないからね。
神武天皇の「あきつの臀呫の如し」という地形は阿波でしかないんだよね。
動画で阿波説の話を知ってしまうと、この動画の内容は著しく価値が落ちてしまいますね。事実認識に根本的な誤りがあると価値ゼロ。自分の歴史観を押し付けているだけ。九州説は分が悪い、朝鮮半島(帯方郡中西部)から邪馬台国への経路、距離からは九州から先の方にあることははっきりしていること、水銀鉱山があるのは四国にしか発見されていないこと、古事記の記載されている内容が阿波国の風土紀だとして読むと整合性がつくこと、阿波には3世紀前の遺跡群がたくさんあること、阿波から人口増などの理由で畿内に集団移住したと考えると整合性があること。そのほかにも国造りの神話となっているオノコロジマが淡路島の近くの沼島とされており、阿波を中心にしたストーリーになっていること。格式のある神社、たとえば伊勢、出雲など、もともとどこにあったかと言えば阿波にあったことも大きな裏付けになっている。古代の九州に住んでいた民族は、邪馬台国に従属していたわけではない。海を隔てた向こうには倭人が住んでいるという記述については、和歌山県の多数の遺跡群がその存在を示す。阿波説の動画を参照にしてみるとよいです。この動画は消さざるを得なくなる。
ハントー人ファビョってて草反日動画見て喜んでるハントー人
ハントーは当時日本だぞ?ハントー人
歴史学者は九州説、考古学者は畿内。って傾向があるみたいですね。阿波説も古事記、神話の観点からみるとここだろ!って思いますが、表に出てないだけで九州にも有力なモノがありますからね。わかりやすくいい感じに組み立てられると、ここだな!いやぁ、ここもあるんかな…ってなるのが楽しいとこです
いつもありがとうございます。最近聞いた話では、邪馬台国は四国の徳島、阿波の国ではないかとの事でした。イザナギとイザナミが国産みをした時にも、アワとは、泡、淡、を連想させましたが、阿波だとピタリと来ます。更に淡路島の淡路とは阿波に続く道(路)という意味と聞きました。淡路島にはオノゴロ島ありますし、倭国と日本国は元は別の国扱いだったとも聞きました。邪馬台国についても位置を見ると当てはまったりするそうです。この辺の深掘りを是非お願いします!
To Land Vlogさん説ですね。
ハントー人の半日説すね。
徳島がなんで中国と同等で。朝鮮半島も治めてるの?普通は天皇等大和朝廷では?
邪馬台国論争になると、当時の日本で一番栄えていた場所(首都)の論争にすり替わって論ずる人たちが必ずでてきますね。
四国説も勉強中ですが捨てがたい!
私的にはanyaチャンネルさんの阿波説の方が納得できる
半日動画って事?
anyaでは噴火についても解説がありますか❓️教えて‼️
@@1oku3zen55 動画の全てを見ているわけではないし、現在進行形のチャンネルなので、直接本人に質問して貰った方が良いです。
@@NAO-wq6xe 反日と言いたいのかは分かりませんが、そうだとしたらちゃんとした古代史研究のチャンネルになります。
@@masabon63 阿波説とか言ってるなら反日では??きちんとした、歴史研究チャンネルとはとうてい思えないかと。それハントー人が言ってるだけだし
ヤマトを大和と書くのは、大和国と日本国が合併したということで、大きな和は大きな国同士が和をもって平和に一つになったという意味だと思う。聖徳太子も和をもって尊しと言われたし、今でも世界平和のために仲良くしようというのは同じ。2千年以上前にこれを考え達成した、昔の人に感謝です。天皇陛下がいらっしゃる理由も政を行う権力者の上に、国の長を置くことで、権力者の独裁を制し、為政は行わないもののその任命権を持つことで、安全装置になってるんだと思います。世界の王をいただかないどの国も、今や、権力者の強占により、民主主義さえ危うくなっている。日本も皇室不要論なるものを声高に広める馬鹿者達のためにおかしくなってきている。天皇陛下の御存在がどれほど有難いものなのかをもう一度、子供達に伝えるべきだ。
違うけどまあ、いいか
まぁいいか。とコメントする不思議ちゃん
@@山に登るの登です さんあ、お返事どうも。そういう意味じゃなく。えーと。まあ、いいや。合併って所以外は問題無いって意味です。何故合併??日本と書いてヤマトとも読みますし。まあ、色々説あってもいいかもてか、まあ。その他のコメントががが
@@NAO-wq6xe さんへ、お返事どうも。まぁいいかは心の中でつぶやく言葉。現実で他人を前に声に出してつぶやくと、ケンカ売ってるのか?と不愉快になります。だから、何の目的でわざわざコメントされたのか?と思いまして。最近年のせいかど忘れが酷くなり、適当な言葉が見つかりませんでした。どう言えばよかったのかな?大和をヤマトと呼ぶのが不思議で、語源を考えたりしていたもので。思ってることがうまく伝わらなかったみたいです。
@@山に登るの登です さんお返事ありがとうございます。悪いのは、多分教科書や教育ですよね。でも教わってない日本人は別に悪いわけではない。その意味の「まあ、いいか」です。ヤマトを大和~の件も人それぞれ、考えは違いますし。ただ、日本人としては悲しいですいや、難しい問題ですよね。お気を悪くされたならすいません
徳島県のこと説明して下さい何故、徳島県に古事記の全てのことが神社が有るのですか解説して下さい
その通り。まちがいなく徳島でしょう。
私も古事記の舞台は徳島県南部辺りだと思います。昔から呼ばれている地名や残っている神社などが古事記の記事にほとんど当てはまります。
@@user-hidepon建御名方神が武甕槌神との戦いに敗れ逃れたのは信州の諏訪じゃなくて徳島の諏訪。諏訪大社の元は徳島の諏訪。
12:10辺りで「新唐書が書かれた時代というのは古事記や日本書紀が成立した時代よりも古い」と仰ってますが、古事記が成立したのは712年、日本書紀が成立したのは720年です。唐書の成立は1072年で旧唐書の成立ですら946年です。記紀に書かれた事を旧唐書が記載したとみるのが正しいかと思います。
【 邪馬台国の場所に関する本格的な論争は、江戸時代後期から始まった。時代的に 尊皇攘夷運動の前駆期で、新井白石や本居宣長が参戦して 明治維新後も論争が続く。】
ずっと私も思っていたことをUA-camにて詳らかに説明なされてるから嬉しいです。二説ある、ということはどう自然の成り行きで考えてもそうですよね。
我々はヤマトの民だ!いい言葉。
ヤマト❓️😰まっぴらですよ爆弾数発で簡単に沈没するなんて勘弁してよ〰️
卑弥呼=姫巫女というのはとても納得ができました。
ひみこ=日の巫女=太陽神
文字の置き換えですね😎意味なし 卑弥呼がなにをしたかは 魏に朝貢して親魏倭王の印を得た つまり魏の旗の元、諸国を制覇したのですね😎 岸田がアメリカにヘイコラして日本を支配してるんと同じやで‼️
邪馬台国が明確に九州にあると述べてあり感謝申し上げます。視聴率も伸びており畿内説四国説の方にも納得いただけると思う南九州説です
残念ながら間違いですね!
@@ユタカカワバタ残念ながら間違いですね🎉
昔は獣道しかなかったんだから600キロ移動は無理やで。
@@cando4707 返信ありがとうございます。種子島も船で行っており短里4000里移動は自説で303キロ水行陸行奈良まで600キロ可能です
Professor, この時代の日本史は諸説紛々で、実に面白いですな。魏志倭人伝も漢文の解釈の仕方に諸説があって興味が尽きない。古事記日本書紀の記述は、否定されるべきではないが、未だ考古学的証拠が不十分と見ている。将来の発見が期待されるものだろう。遺伝子解析による部族の移動痕跡や、言語歴史学からの示唆も大いに参考になってくるだろう。諸学が大いに発展する事を願っている。 Thanks a lot. Have a nice day.
古代の神武東征で畿内に大和国を創ったのは2600年前の伝説、女王卑弥呼の邪馬台国は340年頃の陳寿の魏志倭人伝と古事記の伝説であり、1000年も隔てた歴史伝説である。古事記物語は四国阿波の古事記である。古事記は天照大御神と大国主の出雲国譲り物語の口伝を纏めたものである。従って神武天皇東威伝と女王卑弥呼伝は全く違う歴史話です。
春秋歴
超能力者のマクモニーグルが20年以上前に言っていたとおりです。卑弥呼は夏は大和に居て冬は下関市豊田に居たと言っていたけど奈良に住んでいた僕は先生の話とマクモニーグルの話に合点がいきます。
小名木さんの動画は好きでよく見ています。ただ、神代の「いずも」は、イの國の津に面した地域のことで、そのイの国は伊予の伊であり、阿波の地域のことです。倭(阿波)⇒大和(奈良)が真説です。皆さんお勧めするANYAチャンネルさんが説得力あります。細部は諸説あるようですが。他コメントで紹介されている宅宮神社の祀る、阿波の東南岸の海部族は最古の海洋民族であり、神代の時代には伊豆、房総に進出していたようですね。
信じられない人は、徳島県の公開している郷土関係和古書の中から、「阿波志抄」「阿波志」「阿波廃城考」などの古文献を見てみれば面白いと思います。残念ながらうわさの「阿波国風土記」はありませんが。
伊予と阿波は文化的に別地域ではないですか?
それ、反日動画ですよ?ハントー人の動画
@@阿波の古代史探索ハントー人ファビョってて草
細部についてはyoutube「阿波千年物語」が詳しく説明してくれています。壬申の乱の舞台の「倭京」も、藤原宮も徳島が舞台です。新益宮、平城京以降が奈良です。驚きですね。日本書紀では、持統天皇が藤原宮に遷都しているが、新益宮は見ただけで遷都した記述がありません。飛鳥→藤原宮(までが阿波)→新益宮(から奈良)→平城京→・・・湾岸の都であれば、万葉集で歌われた情景に違和感が無いと思います。阿波千年物語(33)壬申の乱-実の舞台は阿波だった!!持統天皇の波乱の生涯これなら、現実的な行程になると思います。持統天皇が31回も芳野に行ったのも納得。
**つねに古代の日本の歴史に新知見を提供している小名木氏に敬意を表します。 日本の歴史書の記紀(古事記、日本書紀)の真実性についてですが、その記述の大部分は当時残されていた文献にもとづいてできるだけ正確に歴史を書くことに努めたと私は考えています。 古代天皇の非実在説(欠史8代など)は明らかに謬説です。が、記紀は年代論において大きな間違いを犯していると考えます。神武天皇の即位年をどのように決めるのかにおいて、記紀の編纂者は大きな誤りをしていると私は考えています。 記紀の編纂者は、「古代天皇一世60年説」と「辛酉革命説」によって、神武天皇の即位年を紀元前660年(=辛酉年)と割出したと私は考えています。しかし、これでは寿命が百歳を超える天皇が何人も出てくることになり、これが古代天皇の非実在説を生みだすもととなっています。 記紀は、その年代論のところ(これは重要です)と、当時の政権の座にあった天皇側がその時々において自分の都合の悪い部分を削除や修正を加えたところ(これは見解の相違と見なせる場合もありえます)を除けば、ほぼ歴史的事実を残された史料にもとづいて記述していると私は考えています。 日本の古代史の年代論に関しては、安本美典氏の「古代天皇平均在位年数10年」説がほぼ正確に神武天皇の即位年を推定する有効な学説です。これにもとづけば、神武天皇の即位年は290年前後になります。 日本書紀の真実性を強調するあまり、その最大の弱点である書紀編者の間違った年代推定にメスを入れないことは、〝〟小名木史観〝〟の正当性を損なうことになると思います。安本美典氏は日本の名誉を損ない、貶めようとして〝安本年代論〟を出されたのではないと考えます。 日本を貶め、日本の利益(=安全・名誉・幸福・平和)を損なう目的で(無意識的な場合もあり得ますが)、日本の歴史を曲げようとする人たちが稀ではなく存在します。小名木先生はそのような状況をはね返そうと奮闘・努力されていると私は見ています。が、神武天皇の即位年を紀元前660年にもっていくのは、誤りであり、戦前の不自由な歴史研究を連想させることになりかねません。 私は安本美典氏の見解にすべて賛成というわけではありませんが、古代天皇の平均在位年数は約10年(1~10代は約9年)という考えは正鵠を射たものと考えています。 安本年代論を利用し、神武天皇の即位年を290年頃としても、日本には長い立派な縄文時代の歴史があり、その前の石器時代の歴史もあります。無理に(?)神武天皇の即位年を紀元前660年にもっていかなくとも、日本の歴史は傷つくことはないと思われます。 炭素年代測定法や年輪年代法など、いくつかの年代推定方がありますが、現段階ではいずれを利用しても研究者の都合によいように年代を推定することが可能な場合が多く、参考にしすぎると大きな間違いを引き起こす場合があります。 太古からの日本の歴史を解き明かそうと奮闘されている小名木先生の活躍を期待しています。
武内文書を今一度見直す必要が有るかもしれませんね、単に俗説で片付けてしまうより、実際に百余りの伝えられていない天皇の存在が明るみに出れば新たな発見が有るかも😮
阿蘇山の記述は知りませんでしたが、魏志倭人伝で書かれた邪馬台国の場所は阿蘇山付近では一致しないです。私は邪馬台国阿波説が好きです。
日本にくる過程で、「あの山は❓️」「阿蘇山」とする程度の会話記載に理解すれば、阿波でもいいかな🤔。呉の背後に位置する様な書き方も、策として必要だったとすれば阿波では不味かったのかな🤔
阿蘇の読みは浅間からきている説もある
トヨは中臣氏一族です。卑弥呼もです。鹿島神宮生まれです。
阿波説も有りますよ♪😊
小名木先生、ためになるなお話を有り難うございます。最近この論争で新たに茨城県説が出ております。魏志倭人伝をよく読解されており、いろいろな角度から論理的でとても説得力のあるものでした。これについてどのような考えをお持ちでしょうか??ぜひご教授お願い致します。
私は、「ミステリー事件簿」様の「完全版|邪馬台国論争完全決着!|卑弥呼はココにいたんではないでしょうか?」という動画を視聴して、初めて邪馬台国常陸説の存在を知りました。あなたもその動画をご覧になったのではありませんか。その動画の内容は興味深いものではありましたが、納得できない部分もありましたので、私はその動画のコメント欄に矛盾点を指摘するメッセージを複数投稿してみたのです。「ミステリー事件簿」様の回答をしばらく待っていました。ところが、私のコメントはすべて削除されてしまったのです。もちろん、「ミステリー事件簿」様からの返信は1件もありませんでした。「ミステリー事件簿」様が邪馬台国常陸説に対して本当に自信を持っているのであれば、私のコメントを削除せず、反論を試みるべきなのではないでしょうか?削除されたコメントの内容は「ミステリー事件簿」様にとって、よほど都合が悪かった可能性があります。不満を感じながら、その動画のコメント欄をしばらく見ていたところ、私以外のユーザーから投稿された反論コメントも多数削除されていることがわかりました。反論コメントを多数削除した結果、その動画のコメント欄には、動画の内容を称賛するメッセージの割合が相対的に高くなってしまったようです。このような事情が判明した後、邪馬台国常陸説の信頼性は私から見ればほぼ0になってしまいました。もしあなたが読みたければ、「ミステリー事件簿」様によって削除された私のコメントをこちらで公開することもできますよ。興味がありましたらご連絡ください。
邪馬台国は阿波国名西郡神山町神領字高根にあります。卑弥呼の墓は矢野遺跡にあります。邪馬台国が九州にあるはずがない。何故なら、伊都国に出張所があったからである。九州に邪馬台国があるのなら、出張所は九州に必要ない。邪馬台国が玄関口である九州から遠い所にあるから、それが必要なのである。奈良時代でも、都が奈良にあったから大宰府に出張所があったように。そして、奈良に邪馬台国はない。海がない国だから、徳島県は東に海がある。青玉も採れる。巻向遺跡には青玉は全く出土してない。女王国から海を渡るとそこも倭人だというのは、それは大阪南部、今の和泉国周辺のことである。
律令時代に書かれた日本の歴史書である古事記、日本書紀には日本建国、天皇誕生地は、宮崎市と書かれています。記紀は、今で言えば「日本史」の教科書。宮崎平野には古墳だけでも1000基以上と驚異的な数が残る日本最大の古代遺跡都市。日本最大の縄文遺跡発見も相次ぐ。宮崎市で生まれたヤマト(神武天皇)が苦難の東征後に開いたのが奈良県橿原市の大和朝廷。それが藤原京につながる。 中国語の邪馬台国はヤマト国。 つまりヤマト国は宮崎市で生まれ、奈良県橿原市で花開いた。飛鳥時代の知識人が書いた教科書通りです。大規模な史跡、伝説、記紀記述があるのは宮崎市と奈良県橿原市だけです。
先生の説明は分かりやすいですね、専門家といわれる方ももつと素直な心で、九州、機内だ
邪馬台国が九州にあったかのか、畿内にあったのかの論争に遷都されたとする視点が現れました。遷都では?の考えが何故今迄無かったのかが不思議です。
壹と壱は、異なる漢字ですよね
神話に一切明記されていない邪馬台国ですが、色々調べましたが、行き着いたのは渡来人でした。殷(商)の影響を受け、長江下流域の影響もある様に思います。水稲栽培と青銅器は商または東夷から朝鮮半島か山東省経由、或いは長江下流域の呉の末裔でこれも山東省、戦国時代からとなります。ハプログループO1b2が水稲栽培、青銅器を持ち込んだ可能性が高く、商が滅びた紀元前11世紀ごろから気温が低下し民族大移動は紀元前750年頃が最盛期と推定します。(ホーマー極小期)商があった東夷ですが、前11世紀までは黄河は温暖で夏は+2℃冬は+3〜4℃で水稲栽培がなされています。半島や山東省から渡った根拠だろうと思われます。山東省の戦国時代の人骨のDNAが佐賀県千代田町託田西分遺跡の人骨と同じ配列を持つ人骨が多数発見されています。最古の青銅器も九州北部であることから邪馬台国または倭人は九州北部と考えております。山東省あたりに卑弥氏が存在していたことも知りました。稲そのものは陸稲栽培が早い時期から縄文人が栽培していたと思います。鬼界カルデラ噴火後900年は不毛の土地になりますが長江から持ち帰ったか、7300年前に噴火→900年後6400年前に縄文海進で持ち込まれたと考えております。(岡山県朝寝鼻貝塚約6000年前)
鹿島神宮や香取神宮辺りに邪馬台国があったのではという説もありますがどうでしょう?格式が高い前方後円墳の多くが千葉や茨城にあることからしても当時の日本の中心は関東にあったとする説です。この説は魏志倭人伝を基にされているそうです。
@@youtube-comment-writer-ec3zt 私もその動画を視聴して初めて知りました。聴き流していただけだったので私には矛盾点を見出すことは出来ませんでした。矛盾点についての貴方の考察が気になるので教えて頂きたいです。
@@馬場恵三 user-qt9gq3jk8g 様、コメントありがとうございます。それでは小名木先生、この動画のコメント欄をお借りして、他の動画に対する私のコメントをここに掲載することをお許し願います。私が投稿した内容を以降にそのまま掲載いたします。3件あります。不明点がございましたらできるだけ回答いたしますのでご連絡願います。
卑弥呼の墓は前方後円墳ではありません
卑弥呼は伽揶の金首露王の末娘の妙見王女(宮崎県八代に奉られている)のこと。弟と一緒に九州で国づくりをした。
邪馬台国は徳島県にあった可能性が高いです。徳島県の神社名、遺跡等がそれを物語っています。
ねーよ
夢があって良いですね。
先生、これは地理の先生と軍人百人に調査してもらったら分かっちゃうな😊知識と情報多すぎると難しくなるようですね。
日本人から入れ墨文化と穴から頭を突っ込んで腰を括る和服文化が消えたタイミングが謎だなぁ
旧◯町に神功皇后が亀甲占いをしていたところがあります。亀の甲羅を燻して五穀豊穣を占ったことから「穐」→「秋」へとなった。わたしの旧姓はこの字が入ってますが、この地域が発祥となっています。地名も興味深い所があります。
魏志倭人伝に伊都国に王がいると書いてあるのは完全無視ですね。邪馬台国は広大な領土を持つ国ではなく、魏志倭人伝に記載がある国々の連合国家の名称で、首都機能は伊都国にあると考えれば魏志倭人伝はすんなり読めると思います。
先日、糸島市にいってきましたが、伊都国歴史博物館?にもいきましたが、銅鏡の数や大きさが凄く、とても九州でも今のところかなり力がある王がいたことがわかりました。また、面積にして一番、遺跡として広く、吉野ヶ里などにくらべてもかなり大きい国だったことがわかりました。まつら国、今の唐津にくらべても、規模が違うので、その説はあるかもしれないですね。また、北九州地方は、渡来人がかなりきていて、甕棺文化など、他の地域にない特色(佐賀、福岡など)があるので、私は邪馬壹国は九州北部地方説でまだ、はっきりどこかは不明かな?と思っていますが、天皇の系統と関係ない連合国ではないのかなと思っています。また、卑弥呼の鬼道は渡来系なのかな?と思っているので渡来人が多いところなのでは?伊那国の規模や、力が半端ないのでなるほどとコメしました。最近読んだ本で、太宰府神社の裏の古墳が卑弥呼のはかでは?の説の本を読んで福岡はほんとに、古代にしても沢山遺跡があり、日本の玄関であり、要所なので面白い地域だなと感心しました
とても分かり易く楽しいです。有り難うございます。
なるほど。筋が通ってますね。納得しました。チョット口調を変えると、講談ですね😁。 それにしても、「倭」国、「卑」弥呼など、日本を下に見る中国は、昔から態度が変わっていないんですね。
あ、それは最近ですね。卑弥呼の文字は100年ちょっと前す曹操さんはきちんと姫尊って書いてます
@@NAO-wq6xe確かに同盟国を悪く書くはず無いもんね...
@@胡椒少将-s6q 様お返事ありがとうございます。金印は中国と同等と認めるって印ですからね。悪くは書かないと思います。
そのくせ『台』 などという貴字を使っているのは解せない。臺ではなく壹の写し間違いだろう。魏志倭人伝は正本は存在しておらず写本しかないので写し間違いの可能性もある。
@@Chu2007pae さん。邪馬台国の文字は最近で、150年前に、中国の人が作った文字です。昔の文字ではありません。
幼いころに 嫁ぎ出元の家元で歴史受け継がれる 日本の風習 日本の隠れた格式を想像してました 今日は少し変わりつつある時代の流れ、おもしろいですね、
邪馬台国論争の畿内と九州の2つの場所で戦っている。しかし論争は、2箇所で仕切られているが、それは、阿波の説を葬り去ろうとする動きになっていると思います。
ハントー人自己紹介してて草
「水行十日、陸行一月」を地図上に当てはめると、「阿波説」が一番しっくりくるようです。ポイントは当時の測量技術をどの程度信用するかだと思います。前漢の頃の書物で「一寸千里の法則」なるものを紹介しており、当時の測量技術はかなり高かったようです。「阿波説」の可能性は最低でも1/3(他の二つをそれぞれ1/3として)はあると思います。
@@前田国貴 ハントー人の説。ハントー人って自己紹介ですか?ハントーで流行ってるのか?
@@NAO-wq6xe 阿波踊りの「阿波」をご存知ないですか?
入れ墨がウェットスーツの代わりは全く根拠がないですよね。むしろ最新の研究だと逆に体温調整を阻害するようですが。他もかなり適当なことを言ってるんじゃないですか?勉強になった!という人は考え直した方が良いと思いますよ。
いつも楽しい授業ありがとうございます。先生は「阿波説」をどう思われますか?
邪馬台国がどの地にあったのか?が何となく分かったような気になりますが、でも分かりません。すみません。結局、卑弥呼は九州にいたのでしょうか?畿内にいたのでしょうか?やまと王権と併存していたということでいいのでしょうか?神武東征後の九州でしょうか?やっぱり、理解できません。
非常に、面白かった!
ANYAチャンネルを見て徳島説を有力視しております。つじつまがあう。
半日動画なの?それ。
私も同チャンネルを視聴致しましたが、私の見解ではありますが、何処が邪馬台と言うのは今時点ではそう重要視する事ではないように思います。何処であっても、今日本は、世界が認める立派な國なのでしょうか?
邪馬台は阿蘇山がある倭から東の日出国に四国説(徳島)も言われていますが、機内説と四国説も考えられるのでしょうか?
神武東征で移動しまくりだったはずだしね
小名木先生のお陰で勉強のできなかった私が、この結美大学を通して沢山の事を学ばせてもらえてます。
推理小説を読んでいって、謎がすべて解き明かされたような清々しい気分になりました。
ただ一つ違和感を覚えた。宗女”トヨ”を”ヒミコ”の娘ではないと言っていること。理由として①”ヒミコ”は結婚していなかった。②高齢であった。と言っているが、”ヒミコ”が50歳くらいで(当時としてはかなりの高齢ではないかと思う)”トヨ”が12歳であれば”トヨ”が生まれた時、””ヒミコ”は38歳くらい。女性の出産年齢として無理がなさそうに思える。
理屈や理論で片づけられるんなら何も苦労はしないし、これだけ長い期間の論争になりはしなかったはず。
理論的には阿波説が正しいと言っても、それが史実であるということをどうやって証明できる?
もっと決定的な物証でも見つからない限りは誰にもわからない。
阿波も参戦か? 四国は地理的に不利と思うが。
小名木先生の声を聴くと元気が出ます☺️✨
る!!わ
漁師が入れ墨を入れる理由として、土左衛門(異常に体が膨れ上がってしまう)になったとき誰なのかを判別するためって聞いたことがあります
これの方が納得感あります。
そもそも、身体に入れ墨するとなぜウェットスーツの役目を果たすのかが分からんのですが…
入れ墨をすると体温が下がるという話は聞いたことがあるが、その逆は聞いたことがない。
@@mash6684色にもよるけど当時の技術だと黒しか入れられなかったはずだから、個人的な意見としては黒い面積が大きければ大きいほど太陽の熱は吸収しやすいから、ぶっちゃけ熱さは感じるよ。俺自身結構な面積をブラック&グレーで入れてるけど、入れてない部分と比べると明らかに昼間は熱いw
ウエットスーツの効果は無いだろうなぁ
70歳の私の一番嫌いな科目は歴史でした。小名木先生のような先生と知り合っていたら
歴史の面白さに気づいていたかも知れませんね!これからも楽しい授業をお願いします。
何回、同様の投稿をしているんですか😂提灯投稿もいい加減に。¯\(°_o)/¯
よくわからんなー
紀元前に出来た神武天皇からの倭国が畿内に移って邪馬台国と言われたなら
なぜそこに天皇じゃなく卑弥呼がいる?
3世紀には天皇はどこいった?
天皇が死んで新しい天皇が子供だったら天皇の代わりに実務を担う人が卑弥呼だったんじゃないかな?
で一回そういう体制になったら天皇が実権を得るのは難しいと思う
魏志倭人伝の通り南に漕ぎ出て風と海流で東に流されながら進むと茨城県の霞ヶ浦あたりに卑弥呼の邪馬台国はあった事になります。
つまり後半の海路は太平洋岸を東に進んでます。一岐国が出雲(多岐隠岐)、末盧国の様子は今も残る丹後半島の住宅と酷似、伊都国は京都、那国は那古野(名古屋)そこから河川が多くて歩けないから南下し今の三重県から海路を南にでて黒潮に乗り太平洋岸を東へ進んでます。これは江戸時代の東海道も桑名に舟で渡ってます。
関東平野も川だらけで歩けないため房総半島に再上陸して歩き島のようなところに邪馬台国がある、つまり霞ヶ浦の向こう側に邪馬台国があった。
卑弥呼がいた平和な邪馬台国は神武天皇の東征とその後の征夷大将軍によって滅ぼされたんじゃないですかね。つまり九州の気性が荒い海賊たちが大陸と組んで東征し大和朝廷を作り全国制覇して行った。だから彼らは文字を持ち記録が残せたから正義になった。文明イコール文字なんです。
霞ヶ浦一帯は香取神宮があり露天掘りで鉄が採れる日本刀発祥の地ですから大和朝廷から狙われたんですよ。そもそも魏志倭人伝というのも邪馬台国を狙って下見したと考えるのが妥当。
九州には九州が日本の中心だったと思いたいロマンチストが沢山いたから金印をでっち上げたりしてますが、魏志倭人伝が朝鮮半島まで縮尺が正確なのに九州に入った途端はちゃめちゃという説は非合理的。
@@つるやすひろ
千葉県には日本最古級の纏向型前方後円墳(神門古墳群)と3世紀後半の製鉄遺跡の沖塚遺跡があり、出土品からも畿内勢力との結びつきが強かった事が伺えますね。
@@nekono_mimikon 千葉はその後に桓武平氏であった千葉氏が治めましたが三浦半島の三浦氏と同族だったり川だらけの湿地帯だった東京湾を通らず船で東海道とつながっていた形跡があります。
香取神宮が刀の神様だったり鉄が露天掘りできて食料にも困らなかった房総半島北部から霞ヶ浦一帯が邪馬台国だったと考えるのは自然です。
鉄の産地だったからわざわざ魏が目をつけたと考えるのが妥当です。
年代的に魏に朝貢したなら明らかに神武天皇より何代も後。神武天皇が即位したところが奈良県なので、もし大和王権内の人物なら卑弥呼のいたヤマトは近畿地方。戦略的に外に対して正確な場所を教えなかった可能性もありますが実際に魏志倭人伝にはあちこち聞きかじって書いたと著者自身がはっきり明記しているので、そこに書いてある旅程のようなものは甚だいい加減なもの。ただ魏に朝貢したのは大和朝廷外の別な王、首長が正当性を主張しようと魏に朝貢した可能性もありうる話。なんせ大和王権が揺らいでどこが王になってもいいような状態だった時期の事。ひょっとしたら前期大和、中期大和、後期大和のように権力が変遷していった可能性もあります。
これについてはあなたの言う事を信じます。ありがとうございます。
時々、小名木先生と意見が違うことがありますが、この番組の邪馬台国、卑弥呼の説には100%賛成です。先生の言われるとおりだと思います。ありがとうございます。
久々に「小名木先生」のご講義拝聴致しました。いつもいつも生れて初めて伺うお話ばかりです。今回も文字しか知らなかった「倭国」についていろいろ知ることが出来ました。残された「記録」がどの位の説得力があって大切かひしひしと勉強させられました。「小名木先生!」今日も有り難う御座いました観て良かったです(91歳)
やまとからおおやまとに移ったとあるから畿内では無いだろうが、やまとが九州にあったという遺跡や古墳から考えると四国の阿波のほうが有力ではないか?地名や名前も阿波から近畿に多く見られる。逆は考えられない。朱の原料の水銀等の採掘後や何よりも明治政府依頼、阿波の歴史の痕跡を隠そうと遺跡を破壊したり、古文書を没収したり、かなり怪しい。
2,3年前民放のTV局が台湾・中国まで赴き歴史の著名な学者にインタビューして、邪馬台国は何処に有ったと思うか❓️との問いに独りの中国の学者は始めは九州にあったものが後に畿内に移ったのだろうと答えたのとほぼ一致して納得がいきました。日本の専門家は二択で決め付ける傾向があり、これは古代史の学派の縄張り争いと同じく互いに反論し合い醜いだけです。
大東亜戦争も陸軍vs海軍の対立の犠牲のために負けたのとよく似ていますね。下らん❗勝てた戦争にみすみす墓穴を掘って負けたとも言える情けない結果でした。
適当な時点で講和に持ち込む初心を蔑(ないがし)ろにした同じ様な轍を踏むことなく、この古代史論争はこれで決着が付いたと言っても過言では有るまい。
小名木先生 Great Job‼️ です。
四国説はどうだ等の別説もこの " 遷都" の過程の内での出来事と捉えれば説明が付くであろう。
13分あたりから都道府県ごとに国があったと言われ地図がでていますが、説明されている書物の頃は令制国ではなく国造の頃のはずなので使用されていた地図が違うのではと思いました
あくまで『当時も国がたくさんあった』というイメージを持ってもらうための例えで地図をだしてるんでしょ。 というかそれ以外ないでしょ・・・それがわからん人がいるとは・・💦 いいねしてる人もちょっと残念な人たちだねw
ありがとうございます。私の最後の学問は日本史にします。ありがとうございました。
先生!12:10で「新唐書が書かれたのは古事記や日本書紀が書かれた時代よりも古い」と仰っているのは間違えてますよ。新唐書が成立したのは1060年頃です。旧唐書が成立したのは945年頃です。古事記や日本書紀が成立したのは712年及び720年頃です。なので、新唐書や旧唐書が古事記や日本書紀よりも古いと言うのは間違っています。恐らく新唐書の記述は日本書紀を参考にして書かれたものだと思いますよ。日本書紀が作られた目的の一つが中国など他所の国に日本のことを知らせることですから。
正解だと思う 5000年の歴史と3万年の歴史の差は埋められない 氷河期にはペキン周辺氷山ですよ日本の神代文字をもじって作られたのが中国漢字 日本国にも漢字カタカナ草体文字ひらかながあって中国漢字も取り入れ古事記の編集作成したって思う方が流れやすいのです 高度な文明は未開へ流れるが自然の摂理
戦後の近隣条項は歴史を歪める棄てる以外に方法は無いのです 草体文字とひら仮名は女性文字で男児の使用は禁じられていた 日本人は女性上位ですから仏教漢字を使用したのは男の意地 感情は今も昔も変わらない
@tokujimae さん、思い込みが強烈。縄文時代の遺物に漢字で書かれた文章に匹敵する神代文字の文章がありますか?
この一点においてもこのおっさんがデタラメだとわかるね❤
神代文字 神社にて今もって使用しているでしょう お御籤とか建物の象徴する場所のも使用されているよ お札 俺個人で神棚を部屋に奉っているよ 気が向いたときに手を合わせお礼を言っています
@@tokujimae 現在神社に於いて使われている「神代文字」は近世に作られた物ばかりですよ。一般の方が「神社の神代文字」と考えている物は下手をするとサンスクリットだったりします。いわゆる梵字ですね。これは明らかに神代文字とは違うのですが一般の方には区別はつきません。僕の故郷の英彦山神社には神域に梵字岩と呼ばれる弘法大師ゆかりの岩が有ったりします。何で神社に「梵字岩」?と思いますが仕方ありません。仏教の伝来以来神社は虐げられてきました。江戸時代までは多くの神社は寺の管理下に置かれ(自前の地領がなかったので)、明治初期には逆に「廃仏毀釈」により立場が逆転するのですが、それまでは神様は「権現様」のように神様は仏様が日本で「仮の姿」として現わされたものだとされていました。例えば須佐之男命は牛頭天王として生き延びて来ました。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ですよ。何故須佐之男命がお釈迦様の守護神なのか複雑な気持ちになりますが、仕方なかったのです。
「新唐書」は宋の仁宗(在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日)の命により、「 旧唐書 」を改訂・増補したものなので
古事記や日本書紀より新しいのではないかと思われます。もし先生がご指摘された箇所が旧唐書に記載されていたとすれば
成立は945年と考えられますので、やはり記紀より新しいと思われます。
天皇の名前とかは日本から教えて貰った物であると考えるのが妥当と思いますから日本国の都合で書かれていると思います
すごいね? こんな日本のご先祖様だから・・・ね?
今の日本の歴史に結びつくパズルが解けたって思います。
日本人のすごいところは、何と言っても、受け入れる真心、他人の気持ちも自分だったらと思うやさしさ、虫の鳴く音を、虫の声と言い切る感性、四季も、感じられる歌、うまい食事、共感できるアニメ、宗教を気にしないで、受けいれる・・・なによりも、むすび大学の出会いが一生の宝だと思います。
小名木先生。ありがとうございました。
自分も以前から同意見でした。先生の結論で大いに勇気つけrたれました。ヤマタイ、九州、近畿両方存在説ですね。
倭国=邪馬台国=九州王朝(卑弥呼がいた国)
日本国=神武東征の結果出来た国=畿内王朝
その通りかもしれません。分かりやすい。ありがとうございます。
【『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。】
ウソだよ
いやー、面白いですね!!先生の話もさる事ながらコメントも面白い!!賛否両論、これぞ歴史ロマン😊
小名木善行さんに感謝、敗戦以来より根付いた自虐歴史観を断ち切る説明がありがたい。
元々、九州、筑紫から阿蘇にかけてとしか考えていませんでした。
細かい論拠というよりそこで暮らした肌感覚というか空気感のようなものです。
九州で暮らしてたら邪馬台国のあった場所が肌感覚で分かるのかww
俺はなんも感じないぞw
肌感覚ありますね。
同感です。
邪馬台国は連合国でしょ
即ち奴国もその一部でしょ
わざわざ敵視してる国を経由
して渡航なんかしないんじゃないかなぁ😂
熊本に山都。伴都美子はいまもここに住む。
Wikiによると旧唐書の成立は945年、新唐書の成立は1060年、古事記の成立は712年、日本書紀は720年とありますから、単純に廃止される前の遣唐使が、古事記、日本書紀を元に日本を紹介した、だから唐書に古事記、日本書紀と同じ記述がある、というだけなのではないでしょうか?
wikiが間違ってるよ。
私もその可能性を考えていました。Wikiはあまりあてになりませんが。
@@kaka-rq5zd
wikiが正解ですよね?
@@821marcello デタラメだ。そもそもwikiは個人が適当に更新出来るんだよ。😊
@@kaka-rq5zd 文献をお調べください。
小名木先生、素敵なお話を有り難うございます。ニッポン、かっこいいです。
基本から学んで、
浸透させれば🎵日本人としての自覚にもなる気がして来ました。
やっと整理できた❗️ありがとうございます。香取神宮、鹿島神宮が関東にあることから、東北から関東に、もう一つの大きな連邦国家があったんのかな❓
東日本の太平洋側に、日高見国があった様です。
決定的な具体的証拠が無い状況下では種々ある説の中では時間、空間を俯瞰して見た時、大筋で一番説得力のある論説でした。決定的な証拠が発見されない限りひとまずもうこれでいいと思う。
決定的な証拠 はあるのですが。
証拠はあるって言ってんじゃん!
コメントをよく読め!
@@アーモンドアイ-s8zなぜそんなに乱暴な言い方されるのですか?
@@アーモンドアイ-s8z さん
そういう意味ではなかったのですが
なんかすいません
「隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷」の出だしにはこう書かれています。
『倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海』
また、
『使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。』
これは聖徳太子の「日出る処の天使…」の文章であり、656年隋書では【倭国】は【大和朝廷】を指しています。
阿蘇のある熊本が当時は九州の中心地(人口集積地)かもね
博多と同じ肥筑方言でありながら、南九州との繋がりも深く
免田式土器の分布は熊本~南九州~沖縄まで広がっている
天火は明く、人々がニギニギしい「ひのくに」の阿蘇山を
中国が倭国の象徴とみなしたのも頷けるね。
邪馬台国論争の発端の動画配信を、ありがとうございます。
はっはぁ〜なるほど。
合点がいきました。京大も東大も歩み寄れば何処なり。灯台下暗し。本日もまた立派な授業確かに授かりました.ありがとうございます。
福岡県宗像市に有る宗像大社の歴史を紐解いてください。海女も居たみたいです。
卑弥呼を発見出来るかもしれません。今回の講義に非常に似た言い伝えです。
母の名前は「とよの」です。
新唐書の成立は1060年とされているようなので記紀の後になると思います。
サモア、トンガやフィジーも入れ墨入れる習慣があるから日本は昔々から海洋文化だったと言う事ですね🎵😊
神武東征の時期・場所と倭国から畿内に移った時期が全然違う。和気清麻呂が何故に宇佐神宮に行ったか?奈良に移って日が浅かったからか、まだ九州にいたからです。
おはようございます…
邪馬台国は、福岡県・大分県・熊本県の県境当たりにあり、あと、水行・陸行の話は大和国の近畿を指してると思います…中国は、邪馬台国と大和国の違いが解らなかったと認識すれば、全て解決できます…
倭乃至倭人というのは、『魏志倭人伝』で大いに知られましたが、倭人という名は、後漢の時代に初めて委奴国で知られました(紀元後57年)。なので倭は漢音で発音しなければなりません。この辺がとても疎かだと思います。漢音では委、倭は「ヰ(い)」と発音します。「わ」という発音は呉音で10世紀の発音になります。なので、『魏志倭人伝』は『ぎしいじんでん』、『漢委奴国王金印』は『漢の委奴国王(いとこくおう)の金印』となります。『旧唐書』にある「倭国は、古の倭奴国なり」は「いこくは、いにしえのいとこくなり」であり、倭奴国が九州の国家であることから倭国がこの時代も九州にあると言っているわけです。その証拠に、「日本国は倭国の別種なり」とあり、それが奈良を中心とした『日本国』ということなのでしょう。それから大事なことは、神功皇后=卑弥呼と同一視する人が多いようですが、卑弥呼はあくまでその国の王(女王)であり、神功皇后は皇后でしかない・・・支配者ではないのでまるで別人になります。『白村江の戦い』と天智、壬申の乱の動乱後の天武の時代は、陏から唐帝国の成立という東アジアの大動乱期の一連の国家の組み換えとそれに伴う権力構造の推移の時代であって、その後は『日本国』一本になったということです。『日本国』には元々なかった阿麻氐留神(あまてるしん)を原郷の対馬から勧進し国家的祭祀にしたのが天武天皇であり、大海人皇子という名の通り、古代海人族といわれのある名家の出でしょうが、神武系統でなく、九州の【本家】の系統❓で、天智と天武が兄弟ではないと言われているのはむべなるかなです。因みに、天皇というおくり名を実際に始めるのが天武であり実質の初めての日本の大統一者といえましょう。(注)阿麻=海人・海女=天、天武が天という字を用いたのは天帝より授かったという意味と古代海人族の強大であった『倭国』を継承したという意味も込めての天下一統の天でしょうか(その為、天智にも天がついている。)。
妥当な御意見だと判断します。
発音からすれば委は「イ」と読む。なるほど、海神は近畿では無いですか?和歌山付近。お伊勢さんは海人系の神社ですね。確かに神武天皇の系統ではない。、色々系統は有りますが、元々日本人は海洋民族ですから縄文期にもそうだったと推測します。土着して縄文文化を花開かせた。縄文人、その土着の起源は今から2万年以前まで遡れる。見つかって居る物で最古の土器は16800年前ですか、旧石器時代にも所謂、縄文人は生活していた。岩宿の遺跡は相当古い優に3万年前のものが在る。先日、岩宿を訪ねて見て来ました。皆さん一度は言って見ると良いです。
橿原の都はヤマトから外国人が入り込んできた危険な九州を平定に行った本隊が、帰還した時に備えて都の整備をしていたのです。九州平定が長引いたので、留守を守っていたヤマトの留守番隊と戦になってしまった。その時にサヌの命(のちに神武天皇)の兄イッセイノ命が戦死しました。留守番隊は外敵が来たと勘違いし戦になったと言い伝えがあります。因みにサヌノ命が本家で、留守番隊は分家の関係で分家はヤマモトです。
阿波説を推します
反日動画
「水行十日、陸行一月」を地図上に当てはめると、「阿波説」が一番しっくりくるようです。
@@前田国貴
ハントー人ファビョってて草
@@NAO-wq6xe 四国の話をしているのに、何故「半島」が出てくるのか分かりません。説明をお願いします。
@@前田国貴
ハントー人しか、言ってない説だからだよ。ハントー人
分かりやすいですね
面白い
ありがとうございます❣️
古代史は、言ったもん勝ち的なところがあり、楽しいですね。
さて、黒歯国ですが、仲間の研究によりますと「おはぐろ」の風習がポリネシアにはあったようです。
また、壹与ですが、宗女とありますので、卑弥呼の出里の跡取りの娘という意味になるかと。
(宗:本家、宗家とかいいますね、あの宗です。)
卑弥呼は、力で奪取した権威ではなく、擁立された女王ですので、後見の力が絶大だったと解釈すれば、没後、宗家からの女性を再度擁立したと考えれば納得できます。
践祚大嘗祭の本義が正しく理解できておれば、邪馬台国論争は一瞬で片付くはずですが、記紀の冒頭部を神話と決めつけている方々には、理解不能だと思います。今後の小名木さん、参政党の活躍に期待します。
魏志倭人伝を白川静の字通で読むと、[水行]とは水辺に沿って移動する事であり、海を渡る時は倭人伝以外の地域でも[渡海]と書いてあります。そして日本に上陸してからは[水行]のみで一度も[渡海]していません。つまり九州に上陸していれば四国や本州はありえないし、本州に上陸していれば本州以外はありえません。
九州から東なら、四国になる。
阿波説(徳島県)の証拠になる。
『水行10日、陸行30日』
これは、船で四国を1周すると10日、歩いて一周すると30日ということなら妥当な日数になると思う。
その当時、すでに直線距離を測る技術があり、阿波までの直線距離はほとんど正確らしい。
そんな説明を本気で信じているのですか?
そもそも水耕10日、誤字ってますよ。
@@kenn8438
ご指摘、ありがとうございました。
『水耕』から『水行』に直しました。
そのわりには日本がメキシコになる距離の書物もあるので距離はあてにならないと外国の学者さんが言ってましたねぇ。
@@やまぴぃ-z3u
確かに距離の問題は、測った人、その情報が伝わった過程等を考えると直接的にはあてにならないですが、そのメカニズムを考察するのは楽しいですよ。
ちなみにその外国の学者の名前はわかりますか?
UA-camを流しで見てたので台湾の学者さんだったと思います。
隋書、旧唐書、新唐書の話初めて聞きました。大変勉強になりました。
学校でちゃんと教えろよ、と思う。
新唐書はウィキによれば1060年成立となっているのですが先生の記紀より古いと言う説はどこから出ているのでしょうか?
ウィキペディアは
反日だから、見ちゃだめ
ウィキを信じるマヌケ
やっぱりなぜ阿波に触れないかの謎は残りますね。
ハントー人ファビョってて草
@@NAO-wq6xe
あなたこそハントー人ハントー人ってファビョってませんか?
@@茗荷りん
ハントー人って自己紹介してきた。
やはりハントー系の説なんだ。Σ( ̄ロ ̄lll)
なるほど。
かまかけたら、引っ掛かって草
流石ハントー人
@@茗荷りん
ハントー人がファビョってるのは
認めるんだ。Σ( ̄ロ ̄lll)
その説はハントーで
流行ってるのかな??
@@茗荷りん
流石
韓国が先進国になれないのがとてもよく分かるコメントですね。ありがとうございました。
魏志倭人伝に書かれた時の邪馬台国がどこにあったのかの答えになっていないのでは?
今回も面白かった。
邪馬台は中国語の発音でヤンマドゥ、大和畿内説が有力だと思ってたけど、全体説は資料も揃っていて説得力があり、その通りだと感じた。
結局、邪馬台国論争は、それぞれのロマンを語ってるだけなのかもしれないなぁ。
全てをロマンで片付けたい
貴方の人生とは?
中国語は「意味、あるいは外見をのべる」のことばなので、中国語の発音の場合と外国語を正確に記述するときに音ごとに中国文字を当てはめる場合があります。邪馬台などは後者だと思います。
@@内野正章古代史なんて良くも悪くもロマンの塊だろ
小名木先生は、歴史を検証していない。古事記は阿波の国の物語で剣山周辺の高天原と阿波の出雲国は地名、神社が現在も残っています。
古代出雲国は阿波にあり、現在有名なの出雲神社は鎌倉時代に建造した神社です。女王卑弥呼の倭国は、四国阿波にありました。
ウリナラ起源日本版w
長い論争に結論が出せて良かったけど、メンツとはコワイものだと教えてもくれた。挫ける必要などない。日本はキチンと議論する国だと示せたんだから。むしろ、尊敬されるべき、真面目な国だったということ。誇りにしたいところだ。やはり、せかいへいわにもかかわらせてもらいやすくなるよ。
確かに、さらに、議論してください。よろしく。
久しぶりに来たのですが、4.5年?前神谷さんも居た頃に、先生も卑弥呼はいないと言ってましたよね。
入れ墨は、海や山で果てたとき、或いは囚われたとき、どこのシマの所属か分かるようにする意味もあった。
今までで一番受け入れやすい説ですね。ありがとうございます。
とても分かりやすい内容でした。ありがとうございました!!
物語としては面白いが、最早歴史書としては見直す必要があるのでは!最近になって、東北大学の名誉教授の田中英道氏の単なる物語で史実を表していないとの説に目から鱗で、大いに納得しています。日本史学会の悪弊で文書がないと史実と認めない頑なさが日本史を歪めていると思います。
文書があっても自らの説に合わないと無視したり、文書の方が間違っていると主張するというもはや学問ではないのが日本の史学です
論理なき考古学とかなりバカにされています
田中英道氏の説と合わせて、古田武彦氏の多元国家論も参照していただきたいです。
30年前に、神武東征が史実であった可能性が高いことを、古代大阪湾の地形図により論証されています。
縄文と直結した東北・関東については、田中英道氏の直観が優れていると思います。
九州王朝の研究について、田中英道氏が古田武彦氏の説を無視(知らない?)しているのが残念です。
古田武彦・古代史コレクション ミネルヴァ書房 参照
自分の主張のために勝手に内容を読み替えたり翻ってはないものにしようとする。魏志倭人伝が信頼できないならそもそも所謂邪馬台国論争に参加してはいけない。魏志倭人伝は信頼できない、でもそこに記述してある邪馬台国とはあったとかおかしいでしょう。そもそも近畿説って後に奈良に大和朝廷が起こることを知っていることが前提になっている説だから。日本人にしか通用しない。海外向けに魏志倭人伝はこう読み替えます、とか発表できるか???気が狂ったかと思われる。
この前宇佐神宮に行って来ました。車中泊で出雲大社から九州を走りながら筑紫平野の真ん中でああっ邪馬台国はここにあったんだろうなと実感しました。
皆さんも行って見て下さい。
奈良ではあの当時沢山の人口を養いきれませんよ。
奈良は水が無いよね。九州は水と山に恵まれてますからね。
滋賀県の和爾氏と息長氏もかなり勢力があったと思います。後漢の剣とか持っていました。安曇もいました。滋賀県は淡海です近江の前の呼び名です。
神武天皇のご生誕の伝承のある宮崎県高原町周辺の都城市や父君のご生誕の鵜戸神宮のある宮崎市は天皇家ゆかりの土地。水行10日、陸行1ヶ月とあるのも北九州に上陸した中国の使節が都(宮崎)のある土地に行く行程が九州を大分から少しずつ沿岸を泊まりながら刻んで進んだ場合の期間かと。列車とかで宮崎市から別府に旅行に行ったときに特急なのにかなり時間がかかり、その距離感を実感しました。徒歩なら東海道五十三次(約2週間)よりも倍はかかるかと。
神武天皇が近畿に遷都した後も出身地との連携は人的にも物的にもあったはずで、特に宮崎の広大な農地からの年貢や屈強な兵士(隼人)は朝廷を支える強力な資源になっていたのではないでしょうか。
昔はまともな道もないからね。
神武天皇の「あきつの臀呫の如し」という地形は阿波でしかないんだよね。
ウリナラ起源日本版w
動画で阿波説の話を知ってしまうと、この動画の内容は著しく価値が落ちてしまいますね。事実認識に根本的な誤りがあると価値ゼロ。自分の歴史観を押し付けているだけ。
九州説は分が悪い、朝鮮半島(帯方郡中西部)から邪馬台国への経路、距離からは九州から先の方にあることははっきりしていること、水銀鉱山があるのは四国にしか発見されていないこと、古事記の記載されている内容が阿波国の風土紀だとして読むと整合性がつくこと、阿波には3世紀前の遺跡群がたくさんあること、阿波から人口増などの理由で畿内に集団移住したと考えると整合性があること。そのほかにも国造りの神話となっているオノコロジマが淡路島の近くの沼島とされており、阿波を中心にしたストーリーになっていること。格式のある神社、たとえば伊勢、出雲など、もともとどこにあったかと言えば阿波にあったことも大きな裏付けになっている。古代の九州に住んでいた民族は、邪馬台国に従属していたわけではない。海を隔てた向こうには倭人が住んでいるという記述については、和歌山県の多数の遺跡群がその存在を示す。
阿波説の動画を参照にしてみるとよいです。この動画は消さざるを得なくなる。
ハントー人ファビョってて草
反日動画見て喜んでるハントー人
ハントーは当時日本だぞ?
ハントー人
歴史学者は九州説、考古学者は畿内。
って傾向があるみたいですね。
阿波説も古事記、神話の観点からみるとここだろ!って思いますが、表に出てないだけで九州にも有力なモノがありますからね。
わかりやすくいい感じに組み立てられると、ここだな!
いやぁ、ここもあるんかな…ってなるのが楽しいとこです
いつもありがとうございます。最近聞いた話では、邪馬台国は四国の徳島、阿波の国ではないかとの事でした。イザナギとイザナミが国産みをした時にも、アワとは、泡、淡、を連想させましたが、阿波だとピタリと来ます。更に淡路島の淡路とは阿波に続く道(路)という意味と聞きました。淡路島にはオノゴロ島ありますし、倭国と日本国は元は別の国扱いだったとも聞きました。邪馬台国についても位置を見ると当てはまったりするそうです。この辺の深掘りを是非お願いします!
To Land Vlogさん説ですね。
ハントー人の半日説すね。
徳島がなんで
中国と同等で。
朝鮮半島も治めてるの?
普通は天皇等大和朝廷では?
邪馬台国論争になると、当時の日本で一番栄えていた場所(首都)の論争にすり替わって論ずる人たちが必ずでてきますね。
四国説も勉強中ですが捨てがたい!
私的にはanyaチャンネルさんの阿波説の方が納得できる
半日動画って事?
anyaでは噴火についても解説がありますか❓️
教えて‼️
@@1oku3zen55 動画の全てを見ているわけではないし、現在進行形のチャンネルなので、直接本人に質問して貰った方が良いです。
@@NAO-wq6xe 反日と言いたいのかは分かりませんが、そうだとしたらちゃんとした古代史研究のチャンネルになります。
@@masabon63
阿波説とか言ってるなら
反日では??
きちんとした、歴史研究チャンネルとはとうてい思えないかと。
それハントー人が言ってるだけだし
ヤマトを大和と書くのは、大和国と日本国が合併したということで、大きな和は大きな国同士が和をもって平和に一つになったという意味だと思う。聖徳太子も和をもって尊しと言われたし、今でも世界平和のために仲良くしようというのは同じ。2千年以上前にこれを考え達成した、昔の人に感謝です。天皇陛下がいらっしゃる理由も政を行う権力者の上に、国の長を置くことで、権力者の独裁を制し、為政は行わないもののその任命権を持つことで、安全装置になってるんだと思います。世界の王をいただかないどの国も、今や、権力者の強占により、民主主義さえ危うくなっている。日本も皇室不要論なるものを声高に広める馬鹿者達のためにおかしくなってきている。天皇陛下の御存在がどれほど有難いものなのかをもう一度、子供達に伝えるべきだ。
違うけどまあ、いいか
まぁいいか。とコメントする不思議ちゃん
@@山に登るの登です さん
あ、お返事どうも。
そういう意味じゃなく。
えーと。
まあ、いいや。
合併って所以外は問題無いって意味です。
何故合併??
日本と書いてヤマトとも
読みますし。
まあ、色々説あってもいいかも
てか、まあ。その
他のコメントががが
@@NAO-wq6xe さんへ、お返事どうも。まぁいいかは心の中でつぶやく言葉。現実で他人を前に声に出してつぶやくと、ケンカ売ってるのか?と不愉快になります。だから、何の目的でわざわざコメントされたのか?と思いまして。最近年のせいかど忘れが酷くなり、適当な言葉が見つかりませんでした。どう言えばよかったのかな?大和をヤマトと呼ぶのが不思議で、語源を考えたりしていたもので。思ってることがうまく伝わらなかったみたいです。
@@山に登るの登です さん
お返事ありがとうございます。
悪いのは、多分教科書や教育ですよね。
でも教わってない日本人は
別に悪いわけではない。
その意味の「まあ、いいか」です。
ヤマトを大和~の件も
人それぞれ、考えは違いますし。
ただ、日本人としては
悲しいです
いや、難しい問題ですよね。
お気を悪くされたならすいません
徳島県のこと説明して下さい
何故、徳島県に古事記の全てのことが
神社が有るのですか解説して下さい
その通り。まちがいなく徳島でしょう。
ウリナラ起源日本版w
私も古事記の舞台は徳島県南部辺りだと思います。昔から呼ばれている地名や残っている神社などが古事記の記事にほとんど当てはまります。
@@user-hidepon建御名方神が武甕槌神との戦いに敗れ逃れたのは信州の諏訪じゃなくて徳島の諏訪。諏訪大社の元は徳島の諏訪。
12:10辺りで「新唐書が書かれた時代というのは古事記や日本書紀が成立した時代よりも古い」と仰ってますが、古事記が成立したのは712年、日本書紀が成立したのは720年です。唐書の成立は1072年で旧唐書の成立ですら946年です。
記紀に書かれた事を旧唐書が記載したとみるのが正しいかと思います。
【 邪馬台国の場所に関する本格的な論争は、江戸時代後期から始まった。時代的に 尊皇攘夷運動の前駆期で、新井白石や本居宣長が参戦して 明治維新後も論争が続く。】
ずっと私も思っていたことをUA-camにて詳らかに説明なされてるから嬉しいです。二説ある、ということはどう自然の成り行きで考えてもそうですよね。
我々はヤマトの民だ!
いい言葉。
ヤマト❓️😰まっぴらですよ
爆弾数発で簡単に沈没するなんて勘弁してよ〰️
卑弥呼=姫巫女というのはとても納得ができました。
ひみこ=日の巫女=太陽神
文字の置き換えですね😎意味なし 卑弥呼がなにをしたかは 魏に朝貢して親魏倭王の印を得た つまり魏の旗の元、諸国を制覇したのですね😎 岸田がアメリカにヘイコラして日本を支配してるんと同じやで‼️
邪馬台国が明確に九州にあると述べてあり感謝申し上げます。視聴率も伸びており畿内説四国説の方にも納得いただけると思う南九州説です
残念ながら間違いですね!
@@ユタカカワバタ残念ながら間違いですね🎉
昔は獣道しかなかったんだから600キロ移動は無理やで。
@@cando4707 返信ありがとうございます。種子島も船で行っており短里4000里移動は自説で303キロ水行陸行奈良まで600キロ可能です
Professor, この時代の日本史は諸説紛々で、実に面白いですな。魏志倭人伝も漢文の解釈の仕方に諸説があって興味が尽きない。古事記日本書紀の記述は、否定されるべきではないが、未だ考古学的証拠が不十分と見ている。将来の発見が期待されるものだろう。遺伝子解析による部族の移動痕跡や、言語歴史学からの示唆も大いに参考になってくるだろう。諸学が大いに発展する事を願っている。 Thanks a lot. Have a nice day.
古代の神武東征で畿内に大和国を創ったのは2600年前の伝説、女王卑弥呼の邪馬台国は340年頃の陳寿の魏志倭人伝と古事記の伝説
であり、1000年も隔てた歴史伝説である。古事記物語は四国阿波の古事記である。
古事記は天照大御神と大国主の出雲国譲り物語の口伝を纏めたものである。
従って神武天皇東威伝と女王卑弥呼伝は全く違う歴史話です。
春秋歴
超能力者のマクモニーグルが20年以上前に言っていたとおりです。卑弥呼は夏は大和に居て冬は下関市豊田に居たと言っていたけど奈良に住んでいた僕は先生の話とマクモニーグルの話に合点がいきます。
小名木さんの動画は好きでよく見ています。
ただ、神代の「いずも」は、イの國の津に面した地域のことで、
そのイの国は伊予の伊であり、阿波の地域のことです。
倭(阿波)⇒大和(奈良)が真説です。皆さんお勧めするANYAチャンネルさんが説得力あります。細部は諸説あるようですが。
他コメントで紹介されている宅宮神社の祀る、阿波の東南岸の海部族は最古の海洋民族であり、神代の時代には伊豆、房総に進出していたようですね。
信じられない人は、徳島県の公開している郷土関係和古書の中から、「阿波志抄」「阿波志」「阿波廃城考」などの古文献を見てみれば面白いと思います。残念ながらうわさの「阿波国風土記」はありませんが。
伊予と阿波は文化的に別地域ではないですか?
それ、反日動画ですよ?
ハントー人の動画
@@阿波の古代史探索ハントー人ファビョってて草
細部についてはyoutube「阿波千年物語」が詳しく説明してくれています。
壬申の乱の舞台の「倭京」も、藤原宮も徳島が舞台です。新益宮、平城京以降が奈良です。驚きですね。
日本書紀では、持統天皇が藤原宮に遷都しているが、新益宮は見ただけで遷都した記述がありません。
飛鳥→藤原宮(までが阿波)→新益宮(から奈良)→平城京→・・・
湾岸の都であれば、万葉集で歌われた情景に違和感が無いと思います。
阿波千年物語(33)壬申の乱-実の舞台は阿波だった!!持統天皇の波乱の生涯
これなら、現実的な行程になると思います。持統天皇が31回も芳野に行ったのも納得。
**つねに古代の日本の歴史に新知見を提供している小名木氏に敬意を表します。
日本の歴史書の記紀(古事記、日本書紀)の真実性についてですが、その記述の大部分は当時残されていた文献にもとづいてできるだけ正確に歴史を書くことに努めたと私は考えています。
古代天皇の非実在説(欠史8代など)は明らかに謬説です。が、記紀は年代論において大きな間違いを犯していると考えます。神武天皇の即位年をどのように決めるのかにおいて、記紀の編纂者は大きな誤りをしていると私は考えています。
記紀の編纂者は、「古代天皇一世60年説」と「辛酉革命説」によって、神武天皇の即位年を紀元前660年(=辛酉年)と割出したと私は考えています。しかし、これでは寿命が百歳を超える天皇が何人も出てくることになり、これが古代天皇の非実在説を生みだすもととなっています。
記紀は、その年代論のところ(これは重要です)と、当時の政権の座にあった天皇側がその時々において自分の都合の悪い部分を削除や修正を加えたところ(これは見解の相違と見なせる場合もありえます)を除けば、ほぼ歴史的事実を残された史料にもとづいて記述していると私は考えています。
日本の古代史の年代論に関しては、安本美典氏の「古代天皇平均在位年数10年」説がほぼ正確に神武天皇の即位年を推定する有効な学説です。これにもとづけば、神武天皇の即位年は290年前後になります。
日本書紀の真実性を強調するあまり、その最大の弱点である書紀編者の間違った年代推定にメスを入れないことは、〝〟小名木史観〝〟の正当性を損なうことになると思います。安本美典氏は日本の名誉を損ない、貶めようとして〝安本年代論〟を出されたのではないと考えます。
日本を貶め、日本の利益(=安全・名誉・幸福・平和)を損なう目的で(無意識的な場合もあり得ますが)、日本の歴史を曲げようとする人たちが稀ではなく存在します。小名木先生はそのような状況をはね返そうと奮闘・努力されていると私は見ています。が、神武天皇の即位年を紀元前660年にもっていくのは、誤りであり、戦前の不自由な歴史研究を連想させることになりかねません。
私は安本美典氏の見解にすべて賛成というわけではありませんが、古代天皇の平均在位年数は約10年(1~10代は約9年)という考えは正鵠を射たものと考えています。
安本年代論を利用し、神武天皇の即位年を290年頃としても、日本には長い立派な縄文時代の歴史があり、その前の石器時代の歴史もあります。無理に(?)神武天皇の即位年を紀元前660年にもっていかなくとも、日本の歴史は傷つくことはないと思われます。
炭素年代測定法や年輪年代法など、いくつかの年代推定方がありますが、現段階ではいずれを利用しても研究者の都合によいように年代を推定することが可能な場合が多く、参考にしすぎると大きな間違いを引き起こす場合があります。
太古からの日本の歴史を解き明かそうと奮闘されている小名木先生の活躍を期待しています。
武内文書を今一度見直す必要が有るかもしれませんね、単に俗説で片付けてしまうより、実際に百余りの伝えられていない天皇の存在が明るみに出れば新たな発見が有るかも😮
阿蘇山の記述は知りませんでしたが、魏志倭人伝で書かれた邪馬台国の場所は阿蘇山付近では一致しないです。私は邪馬台国阿波説が好きです。
日本にくる過程で、「あの山は❓️」「阿蘇山」とする程度の会話記載に理解すれば、阿波でもいいかな🤔。
呉の背後に位置する様な書き方も、策として必要だったとすれば阿波では不味かったのかな🤔
阿蘇の読みは浅間からきている説もある
トヨは中臣氏一族です。卑弥呼もです。鹿島神宮生まれです。
阿波説も有りますよ♪😊
ウリナラ起源日本版w
小名木先生、ためになるなお話を有り難うございます。最近この論争で新たに茨城県説が出ております。
魏志倭人伝をよく読解されており、いろいろな角度から論理的でとても説得力のあるものでした。
これについてどのような考えをお持ちでしょうか??ぜひご教授お願い致します。
私は、「ミステリー事件簿」様の「完全版|邪馬台国論争完全決着!|卑弥呼はココにいたんではないでしょうか?」という動画を視聴して、初めて邪馬台国常陸説の存在を知りました。
あなたもその動画をご覧になったのではありませんか。
その動画の内容は興味深いものではありましたが、納得できない部分もありましたので、私はその動画のコメント欄に矛盾点を指摘するメッセージを複数投稿してみたのです。
「ミステリー事件簿」様の回答をしばらく待っていました。
ところが、私のコメントはすべて削除されてしまったのです。
もちろん、「ミステリー事件簿」様からの返信は1件もありませんでした。
「ミステリー事件簿」様が邪馬台国常陸説に対して本当に自信を持っているのであれば、私のコメントを削除せず、反論を試みるべきなのではないでしょうか?
削除されたコメントの内容は「ミステリー事件簿」様にとって、よほど都合が悪かった可能性があります。
不満を感じながら、その動画のコメント欄をしばらく見ていたところ、私以外のユーザーから投稿された反論コメントも多数削除されていることがわかりました。
反論コメントを多数削除した結果、その動画のコメント欄には、動画の内容を称賛するメッセージの割合が相対的に高くなってしまったようです。
このような事情が判明した後、邪馬台国常陸説の信頼性は私から見ればほぼ0になってしまいました。
もしあなたが読みたければ、「ミステリー事件簿」様によって削除された私のコメントをこちらで公開することもできますよ。
興味がありましたらご連絡ください。
邪馬台国は阿波国名西郡神山町神領字高根にあります。卑弥呼の墓は矢野遺跡にあります。
邪馬台国が九州にあるはずがない。何故なら、伊都国に出張所があったからである。九州に邪馬台国があるのなら、出張所は九州に必要ない。邪馬台国が玄関口である九州から遠い所にあるから、それが必要なのである。奈良時代でも、都が奈良にあったから大宰府に出張所があったように。
そして、奈良に邪馬台国はない。海がない国だから、徳島県は東に海がある。青玉も採れる。巻向遺跡には青玉は全く出土してない。
女王国から海を渡るとそこも倭人だというのは、それは大阪南部、今の和泉国周辺のことである。
ハントー人ファビョってて草
律令時代に書かれた日本の歴史書である古事記、日本書紀には日本建国、天皇誕生地は、宮崎市と書かれています。記紀は、今で言えば「日本史」の教科書。
宮崎平野には古墳だけでも1000基以上と驚異的な数が残る日本最大の古代遺跡都市。日本最大の縄文遺跡発見も相次ぐ。
宮崎市で生まれたヤマト(神武天皇)が苦難の東征後に開いたのが奈良県橿原市の大和朝廷。それが藤原京につながる。
中国語の邪馬台国はヤマト国。
つまりヤマト国は宮崎市で生まれ、奈良県橿原市で花開いた。飛鳥時代の知識人が書いた教科書通りです。大規模な史跡、伝説、記紀記述があるのは宮崎市と奈良県橿原市だけです。
先生の説明は分かりやすいですね、専門家といわれる方ももつと素直な心で、九州、機内だ
邪馬台国が九州にあったかのか、畿内にあったのかの論争に遷都されたとする視点が現れました。遷都では?の考えが何故今迄無かったのかが不思議です。
壹と壱は、異なる漢字ですよね
神話に一切明記されていない邪馬台国ですが、色々調べましたが、行き着いたのは渡来人でした。殷(商)の影響を受け、長江下流域の影響もある様に思います。水稲栽培と青銅器は商または東夷から朝鮮半島か山東省経由、或いは長江下流域の呉の末裔でこれも山東省、戦国時代からとなります。
ハプログループO1b2が水稲栽培、青銅器を持ち込んだ可能性が高く、商が滅びた紀元前11世紀ごろから気温が低下し民族大移動は紀元前750年頃が最盛期と推定します。(ホーマー極小期)
商があった東夷ですが、前11世紀までは黄河は温暖で夏は+2℃冬は+3〜4℃で水稲栽培がなされています。
半島や山東省から渡った根拠だろうと思われます。山東省の戦国時代の人骨のDNAが佐賀県千代田町託田西分遺跡の人骨と同じ配列を持つ人骨が多数発見されています。最古の青銅器も九州北部であることから邪馬台国または倭人は九州北部と考えております。山東省あたりに卑弥氏が存在していたことも知りました。
稲そのものは陸稲栽培が早い時期から縄文人が栽培していたと思います。
鬼界カルデラ噴火後900年は不毛の土地になりますが長江から持ち帰ったか、7300年前に噴火→900年後6400年前に縄文海進で持ち込まれたと考えております。(岡山県朝寝鼻貝塚約6000年前)
鹿島神宮や香取神宮辺りに邪馬台国があったのではという説もありますがどうでしょう?
格式が高い前方後円墳の多くが千葉や茨城にあることからしても当時の日本の中心は関東にあったとする説です。
この説は魏志倭人伝を基にされているそうです。
私は、「ミステリー事件簿」様の「完全版|邪馬台国論争完全決着!|卑弥呼はココにいたんではないでしょうか?」という動画を視聴して、初めて邪馬台国常陸説の存在を知りました。
あなたもその動画をご覧になったのではありませんか。
その動画の内容は興味深いものではありましたが、納得できない部分もありましたので、私はその動画のコメント欄に矛盾点を指摘するメッセージを複数投稿してみたのです。
「ミステリー事件簿」様の回答をしばらく待っていました。
ところが、私のコメントはすべて削除されてしまったのです。
もちろん、「ミステリー事件簿」様からの返信は1件もありませんでした。
「ミステリー事件簿」様が邪馬台国常陸説に対して本当に自信を持っているのであれば、私のコメントを削除せず、反論を試みるべきなのではないでしょうか?
削除されたコメントの内容は「ミステリー事件簿」様にとって、よほど都合が悪かった可能性があります。
不満を感じながら、その動画のコメント欄をしばらく見ていたところ、私以外のユーザーから投稿された反論コメントも多数削除されていることがわかりました。
反論コメントを多数削除した結果、その動画のコメント欄には、動画の内容を称賛するメッセージの割合が相対的に高くなってしまったようです。
このような事情が判明した後、邪馬台国常陸説の信頼性は私から見ればほぼ0になってしまいました。
もしあなたが読みたければ、「ミステリー事件簿」様によって削除された私のコメントをこちらで公開することもできますよ。
興味がありましたらご連絡ください。
@@youtube-comment-writer-ec3zt 私もその動画を視聴して初めて知りました。聴き流していただけだったので私には矛盾点を見出すことは出来ませんでした。
矛盾点についての貴方の考察が気になるので教えて頂きたいです。
@@馬場恵三 user-qt9gq3jk8g 様、コメントありがとうございます。
それでは小名木先生、この動画のコメント欄をお借りして、他の動画に対する私のコメントをここに掲載することをお許し願います。
私が投稿した内容を以降にそのまま掲載いたします。3件あります。
不明点がございましたらできるだけ回答いたしますのでご連絡願います。
卑弥呼の墓は前方後円墳ではありません
卑弥呼は伽揶の金首露王の末娘の妙見王女(宮崎県八代に奉られている)のこと。弟と一緒に九州で国づくりをした。
邪馬台国は徳島県にあった可能性が高いです。徳島県の神社名、遺跡等がそれを物語っています。
ねーよ
夢があって良いですね。
先生、これは地理の先生と軍人百人に調査してもらったら分かっちゃうな😊知識と情報多すぎると難しくなるようですね。
日本人から入れ墨文化と穴から頭を突っ込んで腰を括る和服文化が消えたタイミングが謎だなぁ
旧◯町に神功皇后が亀甲占いをしていたところがあります。亀の甲羅を燻して五穀豊穣を占ったことから「穐」→「秋」へとなった。わたしの旧姓はこの字が入ってますが、この地域が発祥となっています。地名も興味深い所があります。
魏志倭人伝に伊都国に王がいると書いてあるのは完全無視ですね。
邪馬台国は広大な領土を持つ国ではなく、魏志倭人伝に記載がある国々の連合国家の名称で、首都機能は伊都国にあると考えれば魏志倭人伝はすんなり読めると思います。
先日、糸島市にいってきましたが、伊都国歴史博物館?にもいきましたが、銅鏡の数や大きさが凄く、とても九州でも今のところかなり力がある王がいたことがわかりました。また、面積にして一番、遺跡として広く、吉野ヶ里などにくらべてもかなり大きい国だったことがわかりました。まつら国、今の唐津にくらべても、規模が違うので、その説はあるかもしれないですね。また、北九州地方は、渡来人がかなりきていて、甕棺文化など、他の地域にない特色(佐賀、福岡など)があるので、私は邪馬壹国は九州北部地方説でまだ、はっきりどこかは不明かな?と思っていますが、天皇の系統と関係ない連合国ではないのかなと思っています。また、卑弥呼の鬼道は渡来系なのかな?と思っているので渡来人が多いところなのでは?
伊那国の規模や、力が半端ないのでなるほどとコメしました。最近読んだ本で、太宰府神社の裏の古墳が卑弥呼のはかでは?の説の本を読んで福岡はほんとに、古代にしても沢山遺跡があり、日本の玄関であり、要所なので面白い地域だなと感心しました
とても分かり易く楽しいです。有り難うございます。
なるほど。筋が通ってますね。納得しました。チョット口調を変えると、講談ですね😁。
それにしても、「倭」国、「卑」弥呼など、日本を下に見る中国は、昔から態度が変わっていないんですね。
あ、それは最近ですね。
卑弥呼の文字は100年ちょっと前す
曹操さんはきちんと
姫尊って書いてます
@@NAO-wq6xe確かに同盟国を悪く書くはず無いもんね...
@@胡椒少将-s6q 様
お返事ありがとうございます。
金印は
中国と同等と認めるって印ですからね。
悪くは書かないと思います。
そのくせ『台』 などという貴字を使っているのは解せない。臺ではなく壹の写し間違いだろう。魏志倭人伝は正本は存在しておらず写本しかないので写し間違いの可能性もある。
@@Chu2007pae
さん。
邪馬台国の文字は最近で、
150年前に、中国の人が
作った文字です。
昔の文字ではありません。
幼いころに 嫁ぎ出元の家元で歴史受け継がれる 日本の風習 日本の隠れた格式を想像してました 今日は少し変わりつつある時代の流れ、おもしろいですね、
邪馬台国論争の畿内と九州の2つの場所で戦っている。しかし論争は、2箇所で仕切られているが、
それは、阿波の説を葬り去ろうとする動きになっていると思います。
ハントー人自己紹介してて草
「水行十日、陸行一月」を地図上に当てはめると、「阿波説」が一番しっくりくるようです。ポイントは当時の測量技術をどの程度信用するかだと思います。前漢の頃の書物で「一寸千里の法則」なるものを紹介しており、当時の測量技術はかなり高かったようです。「阿波説」の可能性は最低でも1/3(他の二つをそれぞれ1/3として)はあると思います。
@@前田国貴
ハントー人ファビョってて草
@@前田国貴
ハントー人の説。
ハントー人って自己紹介ですか?
ハントーで流行ってるのか?
@@NAO-wq6xe 阿波踊りの「阿波」をご存知ないですか?
入れ墨がウェットスーツの代わりは全く根拠がないですよね。むしろ最新の研究だと逆に体温調整を阻害するようですが。他もかなり適当なことを言ってるんじゃないですか?勉強になった!という人は考え直した方が良いと思いますよ。
いつも楽しい授業ありがとうございます。
先生は「阿波説」をどう思われますか?
邪馬台国がどの地にあったのか?が何となく分かったような気になりますが、でも分かりません。すみません。
結局、卑弥呼は九州にいたのでしょうか?畿内にいたのでしょうか?
やまと王権と併存していたということでいいのでしょうか?神武東征後の九州でしょうか?
やっぱり、理解できません。
非常に、面白かった!
ANYAチャンネルを見て徳島説を有力視しております。つじつまがあう。
半日動画なの?それ。
私も同チャンネルを視聴致しましたが、
私の見解ではありますが、
何処が邪馬台と言うのは今時点ではそう重要視する事ではないように思います。
何処であっても、
今日本は、
世界が認める立派な國なのでしょうか?
邪馬台は阿蘇山がある倭から東の日出国に四国説(徳島)も言われていますが、機内説と四国説も考えられるのでしょうか?
神武東征で移動しまくりだったはずだしね