【ゆっくり日本史解説】邪馬台国はどこにあったのか。

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 10 вер 2024
  • 邪馬台国はどこにあったのか?を解説するゆっくり動画です。
    邪馬台国は日本の古代史の中でも人気がある分野となります。
    女王卑弥呼が治めたミステリアスな部分も人気の秘密なのでしょう。
    邪馬台国は近畿説、九州説、四国説、諏訪説、エジプト説、
    インドネシア説など、様々な説がありますが、
    未だに邪馬台国の場所の特定が出来ていません。
    この動画で魏志倭人伝などを読み、この説が一番正しいと思ったものを紹介します。
    ■■関連動画■■
    ■古代日本■
    日本人の起源『出アフリカより』
    • 【ゆっくり日本史解説】日本人の起源『出アフリ...
    縄文時代『日本文明と呼ばれた最も平和な時代』
    • 【ゆっくり日本史解説】縄文時代『日本文明と呼...
    弥生時代『稲作と戦いの始り』
    • 【ゆっくり日本史解説】弥生時代『稲作と戦いの始り』
    邪馬台国はどこにあったのか
    • 【ゆっくり日本史解説】邪馬台国はどこにあったのか。
    魏志倭人伝『邪馬台国の滅亡まで』
    • 【ゆっくり日本史解説】魏志倭人伝『邪馬台国の...
    Twitter
    / rvbepg0c4afgpr0
    ブログ
    rekishi-shizit...
    背景:Tree Simulator 2021
    音楽・にこにこコモンズ様
    commons.nicovi...
    素材 きつねゆっくり様
    www.nicotalk.co....
    動画作成ツール:ゆっくりムービーメーカー3
    manjubox.net/y...
    AquesTalkライセンス購入済み

КОМЕНТАРІ • 706

  • @玉井次郎
    @玉井次郎 2 роки тому +45

    20年以上前に亡くなった父が、趣味で邪馬台国の研究をやっていて、しきりと邪馬台国は、山門郡にあったはず、と言っていたのを覚えています。

    • @waitingbirdpurechild5789
      @waitingbirdpurechild5789 2 роки тому +6

      私も山門郡の女山(ゾヤマ)が卑弥呼の墓ではないか⁈と…睨んでます✨😏

    • @user-nf5qd6ei5t
      @user-nf5qd6ei5t Рік тому

      私は元山門郡に住んでいます

    • @rakujin
      @rakujin Рік тому +1

      残念ながら、
      山門が邪馬壹國でない決定的な証拠は、山門には三世紀に水銀辰砂鉱山遺跡が無いのです。

  • @kabogame3909
    @kabogame3909 Рік тому +7

    欠史八代実在するという考えでで好きになりました。動画投稿これからも頑張ってください。

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y 26 днів тому

    邪馬台国はヤマト国と発音して、現在の奈良県を指します。
     当時奈良県では崇神天皇を中心として、政治及び祭祀が行われていました。
     都が奈良県から京都に遷都するまで天皇がいらっしゃいました。

  • @user-tk1kn4em6e
    @user-tk1kn4em6e 12 днів тому

    末虚国>末路国 外国船の終点の意味松浦ではありません。

  • @tomoyuki36
    @tomoyuki36 3 роки тому +26

    大変面白かったです。神話って事実を美化させた伝言ゲームだと思うので国譲りや東征など点になっている神話を繋げていくとさらに面白そう。周りに日本史好きはいますがこの時代について酒飲みながら語られる友人がいないのでこれからも楽しみにしています。

  • @saon9169
    @saon9169 3 роки тому +14

    いわゆる欠史八代は業績が書かれてないから存在してないと言われるけれども、各地の豪族と婚姻関係を結び、それによって(戦争によらず)勢力を拡大していったのが最大の業績なのだと思います。

  • @user-sb8mn9di3b
    @user-sb8mn9di3b 3 роки тому +18

    そして、邪馬台国の九州説も畿内説も江戸時代の新井白石が唱えた説だったという事実

  • @okayamanzo5685
    @okayamanzo5685 2 роки тому +1

    大変興味深い内容でした.

  • @behsan41
    @behsan41 3 роки тому +10

    いろんな説があって、それぞれ謎やロマンを感じられるところが、人を惹き付ける所以だと思います。
    ある意味、真実は謎のままのほうが楽しいのかな?なんて思ったりもします。

  • @nobusumi4
    @nobusumi4 3 роки тому +56

    紀元前3世紀ではなくて紀元後3世紀なのではないかな.

    • @galehoward6488
      @galehoward6488 3 роки тому +7

      24:35 ね。紀元前はおかしいね。三国時代は西暦200年代だからね。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому

      おっしゃるとおりで、動画の説明間違いだと思います。

  • @tfujisaki72jp
    @tfujisaki72jp 3 роки тому +11

    出土品や地層分析が進んで、この謎が解明してほしいですね。

  • @user-qm5xr2lh9o
    @user-qm5xr2lh9o 3 роки тому +16

    九州人の私としては、とても嬉しい内容の動画でした。
    なお動画内にも紹介された、松浦国に住んでいます。

  • @torapeziumintheorion
    @torapeziumintheorion 2 роки тому +5

    神武東征は日向から大和への婿入りだと言う説がありまして、しっくりきます。
    九州王朝と大和王朝は別々に存在した、という本も読みましたが説得力ありました。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому

      いや、伊都国女王は神武天皇の母で、一種の九州王朝みたいなもの。でも、神武天皇は引っ越しするんで大和にいく。もとの一族は同じ。

    • @user-nm7jq3pq9x
      @user-nm7jq3pq9x Місяць тому

      @@sunsun2181大物主の一族に婿入りしたという意味じゃない?

  • @kinoru135d
    @kinoru135d Рік тому +1

    元寇当時のの航海技術では、大陸と日本の往来は博多ルート又は沖縄ルートに限られる(浸透襲撃さんより引用)
    ということらしいので、まだ動画見てないですが九州説推しです
    邪馬台国は魏と交流がありましたので。少なくとも博多が勢力圏であったことは間違いないだろうと推測してます

  • @MrEssi123
    @MrEssi123 3 роки тому +4

    平成の市町村合併で山門郡も大和町もなくなっちゃったんだよなぁ

    • @user-tt9fo6mv7b
      @user-tt9fo6mv7b 2 роки тому

      え、そうなの? 地名は文化遺産なのに野蛮な人もいるもんですね

    • @user-nv2ce9yc6g
      @user-nv2ce9yc6g 2 роки тому

      山門郡は無くなったけど、大和町は残ってますよ(福岡県柳川市大和町)٩(ˊᗜˋ*)و

  • @user-cl6fz2vy4c
    @user-cl6fz2vy4c 2 роки тому +1

    この動画おもしろくて定期的に見てしまう

  • @maccha-p6v
    @maccha-p6v 3 роки тому +9

    他のチャンネルで見た邪馬台国動画だと水行10日、陸行一月は帯方郡から邪馬台国までの距離を表してるとしてた

  • @nukatanoootama
    @nukatanoootama 3 роки тому +10

    卑弥呼は西暦248年ごろ死去したとされますが、そのころ日本では日食がありました
    247年と248年、続けて日食が起こってます
    特に247年の日食は、北九州ではほぼ皆既日食でした(国立天文台ホームページで確認できます)
    卑弥呼=日巫女の死、それに太陽神であるアマテラスの天岩戸の伝説、これらは
    何かしらの関連があると思えます

  • @shtk3130
    @shtk3130 8 місяців тому

    里の距離勘違いしてそう

  • @zzz27record
    @zzz27record 3 роки тому +9

    四国説の動画をどこかで発見したけど、面白かった。そういう説と説の否定しあいが見てみたい。

  • @kenohzu5518
    @kenohzu5518 Рік тому +1

    くまもん県民からすると、吉野ケ里やみやまは如何にも筑後平野で米作ってる感じで大規模勢力の拠点なのはわかる
    そこから山鹿市は間に結構山があるのがねえ…山鹿なだけに…

  • @user-Thunderbird2
    @user-Thunderbird2 2 роки тому +1

    ハナからヘタレ炸裂💥で好感がもてる。
    センシティブな問題なんだから、
    やはり低姿勢で物言うのが適切。

  • @take4283
    @take4283 3 роки тому +9

    出土品 鉄から見ると 近畿説
    銅鏡からみると 九州説
    どちらにしても 夢がひろがるねー

  • @joey9105
    @joey9105 Рік тому

    私も九州説です、渡海が対馬まで、壱岐まで、まつら までの3回なので本州などには行けないかと思います。 ※水行は陸上の移動です、海の上なら漢字は航になるはずです。

  • @user-gv5ez8om5f
    @user-gv5ez8om5f 3 роки тому +9

    旧山門郡の女山付近を発掘すると、恐らく吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡が出てくる可能性が高いと思われます。

  • @shirohyashiro3362
    @shirohyashiro3362 10 місяців тому

    記述内容を無視したり、都合よく読み替える事をしない姿勢は評価できると思います。
    しかし文書の解釈だけでは限界があるのではないでしょうか。そのせいか仮説に仮説を重ねている様に聞こえます。八割がた信用できる仮説でも三つ重ねれば信頼性は50%です。
    なので、文書だけでなく出土品なども合わせた考察をしたほうが良いのではないでしょうか?例えば邪馬台国の特産品だった絹製品。当時の遺跡から出土しているのは北部九州のみと記憶しています。

  • @sanfuji8462
    @sanfuji8462 3 роки тому +4

    メルカトル図法で方向調べるのが間違いの元なんじゃないかなぁ。

  • @user-gv5ez8om5f
    @user-gv5ez8om5f 3 роки тому +59

    福岡県みやま市(旧山門郡)周辺には、やたらと女とか姫とか妻とかがつく地名があります。八女市とか女山(女王山)とか姫御前とか。それと、投馬国(つまこく)は、宮崎ではなく地名から推測して、八女市周辺だと思う。その辺りに、三潴(みづま)、上妻(こうづま)、下妻(しもつま)、朝妻(あさづま)という地名があるので。

    • @鶴正和
      @鶴正和 3 роки тому +6

      興味無いご考察だと思います。
      地元民ながらの考察として、近所に前津という地名があります。津の字は海岸線、もしくは湿地帯ひ付けられる地名であるとすれば、行運時間に影響があったかもしれないと思います。女山有力説を精査しているところです

    • @user-zm6iw4cl2z
      @user-zm6iw4cl2z 3 роки тому +8

      畿内の古い地名には実はヤマダイ郷なんて地名が複数ありますけどね。
      特に奈良のヤマダイ郷は神功皇后の母の出生地、葛城高額郷のすぐ近所にあったりしますよ。

    • @yamada19591112
      @yamada19591112 2 роки тому

      とむままま

    • @yamada19591112
      @yamada19591112 2 роки тому

    • @yamada19591112
      @yamada19591112 2 роки тому

  • @user-fo6xp5oh9k
    @user-fo6xp5oh9k 10 місяців тому

    邪馬台国はヤシマタイコク(八嶋大国)を漢字であてた様な気がする。
    対馬は対島。馬🟰島。
    日本を昔、大八洲(オオヤシマ)だから、その一部のヤシマが邪馬。
    元々八つの⚪︎国が合併してヤシマになった大きな国の意味じゃないか?
    卑弥呼が居た所謂首都が何処かの話しだが、大陸に近い九州の広大な平野があった筑紫平野が自然な気がする。
    その他の地名は邪馬台国の周辺国だろう。
    距離や行程は伸び縮みしても地名はそれが無いから、重視すべきは地名だと思う。

  • @chartreux8673
    @chartreux8673 2 роки тому +2

    中国語読めて中国の文献を魏志倭人伝以外も研究してて、同時代の他の資料からそれらに見られる歴史書の編纂の際に生まれがちな誤りから特徴まで精通してる中国の学者は確実と思われる記述とそうでない記述を分けた上でみんな九州北部説を推してるからね
    ついでに中国の変遷でも見られる似た例と照らし合わせると、東遷して近畿に朝廷を設立したって説への支持が多い

  • @user-ez8fc1je6o
    @user-ez8fc1je6o 3 роки тому +15

    霊夢達が喋る度ぽよぽよ動いてて可愛い笑
    (個人的に邪馬台国の場所は大陸に近い九州を推します)

  • @kakasiyamadano1010
    @kakasiyamadano1010 Рік тому +1

    邪馬台国をヤマタイ国やヤマイ国と読んでいる限り永遠に謎のまま。

  • @valjeanmiyabi4808
    @valjeanmiyabi4808 3 роки тому +3

    出雲王権はどのような立ち位置になるんでしょう ヤマト王権が出雲王権を吸収し、邪馬台国を併合し 景行天皇の時代に熊襲征伐をしたということかな

    • @user-bh9dn3tg9v
      @user-bh9dn3tg9v 3 роки тому +1

      わざわざ国譲りなんて話を残すあたり、大和の権力の正当性を示したかったように思えますね。

  • @user-dx5ym6xb3i
    @user-dx5ym6xb3i 2 роки тому +2

    邪馬台国九州説、大和王朝島根発生説を推しています。
    島根で発生して近畿に移った説ですね。

  • @damchanwr125r3
    @damchanwr125r3 3 роки тому +2

    九州の他の地名がほぼ同定されているのにヤマト、ヤマタイはモヤモヤしてるのは不思議な感じがします。
    山門郡が古代からの地名ならここかな?と思いますが、活火山が近くにあった方が女王国らしいので、雲仙、阿蘇、霧島、桜島の付近でヤマト、ヤマタイの地名が残る所でしょうか。
    陸行30日は糸島から1日10km×30日=300kmくらいののんびりペースなら鹿児島宮崎あたりにありますかね。

  • @user-le5nm9jx3x
    @user-le5nm9jx3x 3 роки тому +11

    邪馬台国とヤマト王朝は別な国だと思う。筑紫君磐井が邪馬台国の直接の子孫だったと思う

  • @done-s
    @done-s 3 роки тому +6

    逆に絶対に無かったと思われる場所を挙げてくれ。

  • @user-qh5ve9yh1f
    @user-qh5ve9yh1f 3 роки тому +37

    ものすごい教養のあるまんじゅう達だな...

    • @user-fd6lg7jo8y
      @user-fd6lg7jo8y 3 роки тому +9

      何故か特定の分野に特化した知識があるよね

  • @toisaa
    @toisaa 3 роки тому +2

    1里って4kmくらいじゃないの?と思い調べてみると、
    これがまた魏志倭人伝における「一里問題」なるものがあり・・。
    昔の事を知るのは、ひとつひとつ難しいのですね。

  • @user-wr5hk8tr1j
    @user-wr5hk8tr1j 3 роки тому +4

    九州説で進めたときに、大和朝廷の敵でもある大和の豪族、葛城氏などと交流があったのかなと妄想してみる

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p 3 роки тому +10

    物凄くレベルの高い室町主が
    数人いるけど、ゆっくり歴史解説では
    れーしchがとにかく好きだな
    不眠症民(一説では800万人)ワイ氏
    長いゆっくりのおかげでなんとか
    日々平穏無事に過ごせてる希ガス
    室町6部作も5〜6回完走してる
    日本古代史シリーズもオリエント史も
    大好こ。

    • @user-dr5hg8uv2z
      @user-dr5hg8uv2z 3 роки тому +1

      ハッハッハッハッハ!足利殿ぉぉ

  • @hrybn114
    @hrybn114 3 роки тому +76

    邪馬台国九州説、いいと思います。
    人がそれぞれ考察することで、研究が進むことになります。
    近畿説を主張する人たちはそれなりに根拠があるからこそ主張しているわけですし、それもいいと思います。

    • @manokachan6983
      @manokachan6983 3 роки тому +7

      畿内説の有力な証拠がでて 畿内説で終わりじゃなかった?

    • @ayabe9036
      @ayabe9036 3 роки тому +6

      近畿の国の人「邪馬台国?ああ、あの九州の田舎の蛮族の小国の集まりか」てな可能性が。
      そのくらい発掘される遺跡の規模が違うでしょ?

    • @taikyu-bb1oz
      @taikyu-bb1oz 3 роки тому +4

      @@manokachan6983 これだー!みたいな有力な証拠なんて出てきてましたっけ?着実な考古学の成果で編年が変わってきていて、邪馬台国の時代と纏向の時代が被っていることが分かったので、規模や出土品の広域性を考えると畿内しかないんじゃないかって話ですよね。この動画にもありますが。

    • @goditachisama
      @goditachisama 2 роки тому

      決定づける証拠ってのはないけど
      まぁ一つ一つ整理して考えると近畿なのは当たり前というか
      そもそも邪馬台国というのは魏が勝手に作った当て字の名称で
      日本国内に実際に邪馬台国が存在したわけじゃない
      また卑弥呼もたんなる当て字で実際に卑弥呼という人物も存在してない
      邪馬台国はヤマタイコクではなく、ヤマトコク
      つまり大和朝廷の事
      卑弥呼は日の巫女 これは天照大神も関係してくる話で
      神(天照)と対話できるのは日の巫女だけ
      そして日の巫女になれるのは大和朝廷しかありえない
      って考えていくと結局卑弥呼の正体、本当の名前は散々既出で出ている方と考えるのが普通でしょ
      そしてその方の墓は奈良の桜井市にある
      どうして九州説を推す人がいるのか私には理解できない

    • @Baisuhakeito
      @Baisuhakeito 2 роки тому +1

      @@goditachisama そうすると魏志倭人伝の内容の南と東の方角ミスだけでは、方位問題などが解決しないんだよね。
      つじつまを合わせるなら、倭国大乱が起きた後に、纏向の宮殿が出来た。なので、畿内から武器などが出ない。と言うのは、当然である。しかし、そうすると鉄器が出てる九州と越後の方から何故畿内に来たのか?と疑問がある。あと、「女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国がある」というこれを纏向遺跡を女王国とするなら東に行っても海は伊勢湾、太平洋ということになる。これが方位を90度まげてるので北ということなら琵琶湖を北上ということになるが纏向遺跡から見て北に伊都国ないし、他の国も越後で分権との整合性取れず、そのほかの距離感がおかしくなる。
      そして、邪馬台国をヤマトコクとしても、畿内なら、それだけの地域を納める大和朝廷が狗奴国1国に魏の後ろ盾が要るほどだったのかという問題などが上げられる。
      物的証拠という銅鏡もあちこちから出土して贈られたと思われる奴の個数超えてる。
      九州なら、皇紀などがまぁ狂う。脆弱になった国家の連合での邪馬台国と狗奴国1国なら後ろ盾が欲しいのもウィンウィンで分かる。位置的にも短里説と日程と総距離からしても九州にあった。宮崎派も墓群あるしと言うのも分かる。
      四国説も個人的には好きだし円墳もあるし、一応東に纏向遺跡あるけど位置関係がどっちにしても合わないのが問題。
      なので、ど素人が見ても、どの説も一長一短だし、納得まで行くとなると...2王朝説か皇紀を捻じ曲げるかなどしないと同一の国ではないと思ってしまう

  • @user-ng7kx4ng3f
    @user-ng7kx4ng3f 3 роки тому +4

    邪馬台は当時はヤマトに近い発音だたので近畿らへんにあったのは間違いないですね!

    • @marina-7207
      @marina-7207 3 роки тому +2

      九州大学なのに、、、

    • @user-jh1or4lj1x
      @user-jh1or4lj1x 3 роки тому +2

      @@marina-7207 九州大学は、京大系だからね
      そもそも、魏志倭人伝では国邪馬臺(たい)国ではなく邪馬壹(いち)国だからね

  • @okayamanzo5685
    @okayamanzo5685 2 роки тому

    ありがとうございます!

  • @taka204
    @taka204 11 місяців тому

    魏志倭人伝の水行10日、陸行1月は帯方郡から邪馬台国までという説があるらしいです。

  • @monoris2008
    @monoris2008 3 роки тому +6

    自分的には九州説が妥当と思うし、近畿説は大和朝廷と結びつけたいバイアスかかりすぎに感じるけど、正直邪馬台国論争は当分もういいかなって感じ。
    みんな証拠不十分なことに対して憶測で物を言い過ぎてる。

  • @user-xf3gn7lv8q
    @user-xf3gn7lv8q 3 роки тому +14

    絶対間違いないのは、魏志倭人伝を書いた人は畿内には行っていないということ。
    書いてある現地人の風習が確実に北九州の出土物に合致する。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому +4

      ですねー。
      それもそのはず、九州邪馬台国と同時期に存在していた大和王権の遺跡を
      奈良説の人々は邪馬台国だと言い張っているのだから。

    • @user-xf3gn7lv8q
      @user-xf3gn7lv8q 3 роки тому +8

      @@pocapamas
      畿内説の学者達の主張は、とても学問とは思えないです。まるで政治のようです。
      「学者の世界では畿内説が有力」なんてことになってしまっているようですが、
      この問題で「学者」とは「立場と利害に縛られ研究と発表が自由にできない人たち」と
      読み替えれらえると思います。
      その主張は「魏志倭人伝に書かれた『卑弥呼』はどこにいたか」を
      「魏志倭人伝の時代に日本最大の都市はどこにあったか」にすり替えたものばかり。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому +2

      @@user-xf3gn7lv8q
      まさに、まさに、おっしゃる通りですね!

    • @user-zm6iw4cl2z
      @user-zm6iw4cl2z 3 роки тому +5

      絶対とは言えないですね。そもそも九州には弥生時代の丹山がないのに無理がありますよ。

  • @tm1429
    @tm1429 3 роки тому +2

    宴云々は無理やり感がすごい。
    朝鮮の出発地からの日数じゃないの。
    水行20日と水行10日、陸行30日ってのは。

    • @KM-ix1so
      @KM-ix1so Рік тому

      どこにそんなこと書いてるんですか?
      あなたの感想ですか?

  • @freedomfighting309
    @freedomfighting309 2 роки тому +1

    後漢、三国誌くらいの時代になると、当時の天文学者や測量学者らは、「真南への距離」
    と「北極星の高度」の関係は、方程式は無理でも「表」の作成、利用はしていたと思う。

  • @user-so8tf6zm9m
    @user-so8tf6zm9m 2 роки тому

    古代史面白いね。

  • @kogasan
    @kogasan 3 роки тому +12

    奴国の辺りは今も那の津(なのつ)という名前がありますね。

    • @MrMoonsong0907
      @MrMoonsong0907 3 роки тому +1

      多分関係ない
      1700年も残ってるわけない

  • @kkwolf1777
    @kkwolf1777 3 роки тому +6

    山田の大蛇が邪馬台国の軍だと考えると出雲で猛威を振るうには九州、近畿どちらも当てはまるな

    • @aquadrop8356
      @aquadrop8356 3 роки тому

      山田の大蛇?数年前の九州北部豪雨でテレビに朝倉の山田って地名映ってたよね、、寺の古文書に三百年前にも同様の記述があるとの事。山田の大蛇とは古来から何度も被害にあってきた大水害の言い伝え?

  • @user-eu4ns6tf3p
    @user-eu4ns6tf3p Рік тому

    いつも楽しく見させていただいてます。北九州という表現を北部九州に変更された方が良いと思います。

  • @KeiOnpu
    @KeiOnpu 3 роки тому +2

    魏志倭人伝の距離は使者が手柄を多くするために、遠めに報告したという説もあるようです。
    「一日千里を走る馬」みたいな表現をする国なので、距離を疑って考えてみてもいいかなと思います。

    • @001hanuman
      @001hanuman 3 роки тому +4

      過大に誇張することはあっても過小に言うことはないだろうから、九州北部に上陸した後に近畿までレンジを伸ばすのは無理があると思うわ。

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q 3 роки тому

      千里を魏晋朝短里で計算すると、約76kmになります。
      だとすると、現実的な表現ですね。

  • @mt0kysyk
    @mt0kysyk 3 роки тому +4

    正直、休日比に古墳
    巡りを剃るのも面白いかもと思い始めました〜

  • @official5649
    @official5649 3 роки тому +1

    じゃまと読んでしまって大変申し訳ない気持ちですあひがとうございました

  • @donboy0581
    @donboy0581 3 роки тому +71

    吉野ヶ里遺跡がなぜ世紀の大発見だったかと言うと、魏志倭人伝の記述に限りなく近い遺構だったからだ。近畿や四国で同様の遺跡が今のところ発見されていない以上は、九州説が有力だと思う。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +10

      佐賀県の吉野ヶ里遺跡(40万平米)は、今の路線で整備する初期に行ったことがありますが大好きです。素晴らしい。大阪府の池上・曽根遺跡(25万平米)、奈良県の唐古・鍵遺跡(42万平米)、纏向遺跡(300万平米)も魅力的ですよ

    • @user-zm6iw4cl2z
      @user-zm6iw4cl2z 3 роки тому +16

      邪馬台国の記述に近いのではなく倭人伝の内容に近いだけですよ。
      しかも吉野ヶ里の復元には鍵唐古からの出土資料も使用されたりしますからね。
      そもそも考古的には邪馬台国七万戸とある以上は、北部九州で収まるとはとても考えられないのです。

    • @user-ih8ie3sz2o
      @user-ih8ie3sz2o Рік тому

      日吉神社跡の石棺の開封時が楽しみですね

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w 2 роки тому +1

    方角の問題は、言語学で解決できます。
    当時の日本語にはすでに方言があり「西」を「ニシ」と呼ぶ人々がいる一方で、「北」を「ニシ」と呼ぶ地方もありました。日本国内での伝聞時に誤解が生じた場合、さらにそれを中国側から見て魏志倭人伝に記載しますので、東西南北全てごちゃごちゃになります。現在でも沖縄では北を「ニシ」と言います。

  • @freedomfighting309
    @freedomfighting309 2 роки тому +1

    「計其道里,當在會稽、東冶之東。」の意味することは、
    「邪馬壹国に行って北極星を見た(高度を測った)ことがあるという人の話では、邪馬壹での北極星の高度(水平線からの仰角)は、會稽東冶と同じだ、と言ってる。」という意味。

  • @elelsse
    @elelsse 2 роки тому +3

    水行10日陸行1月 という部分の解釈は and が正解です。これはある九州派の方のブログの中でこの件を知り合いの中国人に尋ねてみた所、そのように言われたという事です。or の場合は違った表記方法になるみたいです。

    • @elelsse
      @elelsse 2 роки тому +1

      ご評価ありがとうございました。ですがもう一つ言わせてもらえば 水行~ の部分はやはり全て海路の事だと思います。河川を渡る場合などは全て陸行の内に入っていると考えられます。この辺りの解釈もできれば一度中国の方に尋ねてみてはいかがでしょうか?

    • @user-ss3yv9or7s
      @user-ss3yv9or7s 10 місяців тому

      楽浪郡と倭国とを結ぶ交易ルートは、半島内を、漢江と洛東江を使った、河川ルート。ただし、魏の使節団は、規模の大きな軍団であり、じようりく地点のマツラ国までは、すべてが、海行と記載されるべきでした。😊

    • @user-wl7yb8fs2n
      @user-wl7yb8fs2n 7 місяців тому

      😅

  • @パグ13
    @パグ13 3 роки тому +31

    おととし、ダンワラ古墳という場所(佐賀市と別府市の中間ぐらい)から発掘されたらしい鉄鏡が、曹操の墓から見つかったものとほぼ同じ、というニュースと聞いて、歴史のつながり、曹操と卑弥呼のつながりを感じて、すごくうれしくなった三国志ファンで邪馬台国北九州派の私です。(もちろん関係あるかはわかりませんが・・・。)

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +7

      ダンワラ古墳、面白いですね。30mほどの円墳ですが、下部が竪穴式石室で上部に横穴式石室。件の鏡は下側の石室で発見されたそうで。古墳自体は、形式から古墳時代中期以降のものと見られるので、鏡は製造から150年以上後になって副葬品になった模様です。
      というわけで卑弥呼の墓とするには少々無理がありますが、日田の勢力が直接か間接かはわかりませんが中国と交流があった証拠でしょうね。

    • @松本淳-i7n
      @松本淳-i7n 3 роки тому

      @@toshiyam2853 ?

    • @user-tt9fo6mv7b
      @user-tt9fo6mv7b 2 роки тому +1

      「鉄」鏡 そんなものが出土しているのですね

    • @tigerion9275
      @tigerion9275 Рік тому +1

      @@toshiyam2853
      古墳の形式による年代否定を信頼してないわ
      もう少し科学的な否定方法を述べてくんないかな

  • @aroemame9196
    @aroemame9196 4 місяці тому

    この動画見ただけなんだけど、これ九州で決まりじゃないの?
    近畿説は厳しくない?

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p 3 роки тому +5

    東方無知民で
    ゆっくり饅頭偏愛のワイ
    ここの使い主が最高の印象
    チルノ土器職人とか好こすぐる

  • @kazushinagaoka
    @kazushinagaoka 3 роки тому +2

    1里の長さは対馬から壱岐の距離で算出出来ませんか?

    • @KM-ix1so
      @KM-ix1so Рік тому

      1里の長さなんてどうでもいいです
      どうせ中国人の書いたいい加減な地理感なんだから

  • @guttya-zj3np6ci5r
    @guttya-zj3np6ci5r 4 місяці тому

    古代史ファンとしていつも楽しく拝見させて頂いております。
    気になったのですが、末羅国は現在の松浦市では無く旧松浦郡だと思います。現在は松浦市と糸島市の間には伊万里市と唐津市があり接していませんが、江戸時代には旧松浦郡と旧怡土郡は接しており、唐津市までが旧松浦郡です。魏の使者が唐津市呼子町あたりに着いたと考えれば末羅国と伊都国の位置関係は記述通りで正しいです。また唐津と壱岐は近く、現在もフェリーが運航されています。

  • @つるつる茶瓶
    @つるつる茶瓶 3 роки тому +4

    僕は旧山門郡であるみやま市在住です。昔から卑弥呼の里って聞いて育ったから、そうであって欲しいですね!ロマンしかないw

    • @yt9960
      @yt9960 3 роки тому

      うらやましい。

  • @cryptmind
    @cryptmind 2 роки тому +1

    倍速にすると、霊夢や魔理沙が寒さで震えながら話してるように見える。
    個人的には、日向→ヒムカ→卑弥呼で、関連あると思ってるんですけどね。

  • @YO-high
    @YO-high 3 роки тому +7

    動画お疲れ様です。
    なかなか説得力があり、大変面白かったです。だいたい歴史家さんたちの話が説得力に欠けるのが問題なんですよね。
    狗奴国が熊襲国かと言われていますが、熊襲国とは「球磨」「曽於」の両国のことですね。狗奴→球磨かと。
    今後も期待しております。

    • @google2501
      @google2501 3 роки тому +1

      自分は狗奴国が最重要な国だと思っています。狗奴国の場所が特定出来れば北に邪馬台国があるわけで、邪馬台国を探すより早いかと。
      以前熊本に行き山鹿、菊池、阿蘇と巡ったのですが、菊池や阿蘇は米が有名らしく何より田園風景と特に水が素晴らしいですね。ここを押さえていたら国力もかなりあったでしょう、邪馬台国連合と一国で戦えるんですから。
      自分は方保田東原遺跡が狗奴国だと思っていましたが、もし球磨地方だとするとかなり南になり、もしかすると阿蘇くらいまでは邪馬台国の範囲だった可能性もある事になりますね。

  • @panda688
    @panda688 3 роки тому +3

    邪馬台国は連合国家を作るという選択をする程度には早めに内戦を切り上げなければならないという意識があったと思う。
    近畿説だと邪馬台国のスケールが大きくなりすぎて、そうゆう切迫感を作り出す外敵を想定できないんですよね。
    確かタイミング的には魏の遼東遠征の時だから魏の東方への野心の感じて機先を制したという考え方もなくはないだろうけど。

    • @user-rm9ft3ej5f
      @user-rm9ft3ej5f 3 роки тому +2

      中国、四国、近畿、それらに強大な勢力があって、対抗する為にまとまる必要があった。
      強大な敵に対する後ろ盾が欲しくて朝貢を行った。
      たしかにありそうな話ですし、九州から近畿に跨がる大勢力があったというよりも個人的には納得できます

    • @panda688
      @panda688 3 роки тому +2

      @@user-rm9ft3ej5f 人間のやることは何時でもどこでも大して変わらないとは言いすぎかもしれないけれど、同様の事例は枚挙にいとまが無いですから。
      逆に軍事的、外交的に合理的視点を除外して人類史を語るという事は「昔の人は馬鹿だから」といっているのと等しいと思います。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому

      切迫感というのは興味深い視点ですが、戦国時代に南蛮人を脅威とみなす風潮が強かったかと言われると、そこも疑問です。小が大に併合されていくのは歴史の必然ではないかと
      畿内勢力が北九州を欲する動機は交易参加・鉄資源の独占という説明で十分でしょう。九州の勢力が畿内を欲するのも新たな支配地としての価値があります
      卑弥呼の時代より前が大規模な戦乱の時代だったのは、中国側文献で記述され、日本の発掘調査により、初めに瀬戸内一帯、ついで瀬戸内に加え東海や北陸まで痕跡が確認されてます

    • @panda688
      @panda688 3 роки тому

      @@toshiyam2853 秀吉が禁教令をだしてキリシタン大名を改易しても大事にならない程度には切迫感があったと思います。
      戦国時代を終わらせたのは単純に儲からなくなったからだと思います。武力闘争の経費が高騰しすぎて割に合わなくなっただけ。
      世界史的には長期にわたる戦争が終わる理由といえば、①もっとヤバい奴が来る!②そんな金はない!&士卒もくたくた・・・ですよ。
      九州と畿内が政治的に対立した状態で大陸に畿内から使者を送るって地理条件から言って針の穴を通すような話ですし、大和として全国を統治する程度には合理的判断が出来るのであればそのリソースを別の事に振り分けると思います。
      統治する者とされる者との合意が無ければ上手く作動しないと思います。明白か暗黙かは別として。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +1

      @@panda688
      >九州と畿内が政治的に対立した状態で大陸に畿内から使者を送るって地理条件から言って針の穴を通すような話
      そうですねえ。想定される戦乱地帯の推移からみて、BC50頃から地域ブロックを超えた内乱が生起し、AD200頃までには畿内と北九州の併合なり提携なり連合なりが、吉備を加えて成立していたと思います。それが成立していれば畿内からの使者派遣は問題ないでしょう。そもそも北九州から畿内への進出の気配が濃厚です。AD200以降の瀬戸内は平和です。卑弥呼の頃はAD240年前後ですから良い時代だったかと
      >統治する者とされる者との合意
      畿内サイドの利益としては、やはり対外交易へのアクセスですよね。特に鉄資源は是非とも欲しい。北九州サイドからみると南九州の脅威、半島進出への援軍期待、あるいは半島交易の際、日本側提供物資の畿内からの供出でしょうか。よくわかりません
      問題となりうるのは北九州(本家)と畿内(分家)のパワーバランスくらいです。直後にあたる古墳時代初期から畿内優位は明白ですが、卑弥呼の時点では、なあなあだったのも知れません(完全な妄想ですが)

  • @investor-2020
    @investor-2020 Рік тому +3

    もし近畿説なら、仮に水行で瀬戸内海を移動し大阪湾に着いた後、奈良までの行き方が述べられていないのは普通に考えておかしいですよね。

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 3 роки тому +48

    10年の間に断続的に調べて分かったことがあります。何人かの研究者が自分の地元こそが邪馬台国であると訴えているのです。この論争に便乗し、地域おこしをしようという動きがあると思います。郷土史家の地元愛おそるべし! といいたいところですが、その過程で古墳や遺跡の保全に関する取り組みが進めば、歴史マニアとしては満足です。

    • @user-wj2og7ls3p
      @user-wj2og7ls3p 3 роки тому +2

      四国説もあるけど、それは取り上げないの?

    • @luci_hiko
      @luci_hiko 3 роки тому +6

      @@user-wj2og7ls3p 四国山上説ね。高地性集落があったのは確かだけど、ちょっと弱いよね。徳島はソロモンの秘宝説とか、神秘県だなー。

  • @nubo520
    @nubo520 3 роки тому +10

    「欠史八代」は私も存在していたと思います。(いきなり木の股から生まれて来るんじゃあるまいし(^_^;) )津田左右吉が神武天皇と崇神天皇の諡号が同じ「ハツクニシラススメラミコト」だったからと、八代の間の天皇の行政の記述が少ないから後世ででっち上げたと言いだしただけで根拠の薄い暴論だったのですよ。ちゃんと畿内を中心とした周辺の有力者の娘を皇后にしたと言う事の方が重要な記述だとおもいます。そうやって国は造られてゆくのですよ。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +2

      「欠史八代」は根拠の薄い暴論。全く同感です。なにごとも発端や助走期間というものがあるという単純なことを無視してますね
      その一方で、存在確かな天皇で記述が少ない事例はスルーしてますから非常に恣意的です。学問の名に値しません

  • @2ytku723kp
    @2ytku723kp 3 роки тому +5

    本当粘土板でも金文でもそれこそ木板でもいいから『文字』が残ってればなあ…
    まぁそれ考えると邪馬台国なり最初期の大和朝廷の頃の日本は文字が無くても何とかなる程度の文明(国家なり都市の形成)だったって事なのかも。所有権なり縄張り争いでいざこざはあっても古代中国みたく数万人単位以上での大規模な会戦・大戦はまだ無かったんだと思う

  • @shinzaemongolf6753
    @shinzaemongolf6753 3 роки тому +2

    魏志倭人伝での邪馬台国の環濠集落の遺構が大和から見つかってからにしてもらおうか。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому

      吉野ヶ里に匹敵する環濠集落の遺構なら大阪や奈良にもありますよ。むしろ北九州に巨大遺跡がない点をどうにかして下さい。喜んで手のひら返しますから

    • @shinzaemongolf6753
      @shinzaemongolf6753 3 роки тому +2

      @@toshiyam2853 そうなの?では、質問変えるけど、北部九州からはその当時の中国の品物がかなりの数発掘されてるけど、大和の纏向からはほとんど見つからない。普通に考えればその当時の大和は中国と交易がなかった、つまり、冊封体制になかったと考えられると思うけど、そこどうなん?
      さらに巻向からは岡山や北陸、関東からの土器などはたくさん見つかるけど、九州のものも殆ど見つからない。九州が大和の勢力圏でなかったことがかんがえられないか?ここも説明よろしく。
      それに纏向遺跡は環濠集落ではなく邪馬台国の様子とは違うけど、そこんとこの説明もよろぴくぴく

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому

      @@shinzaemongolf6753 対中関係で言えば外交的安定くらいで品物の搬入はあまり無かったように見えますね。畿内が間違いなく欲したのは半島南部の鉄です。公孫氏滅亡で半島北部~中部の覇者となった魏との関係は重要でしょう

    • @shinzaemongolf6753
      @shinzaemongolf6753 3 роки тому +2

      @@toshiyam2853 北部九州と畿内が対立してて、劣勢の北部九州が魏と同盟(冊封体制に入った)結んだって言うのも考えられない?
      そうであれば、景行天皇とヤマトタケルの九州征伐とも辻褄合うし。
      歴史的にも北部九州は大陸や半島との貿易を独占できる地であり、何度も中央と対立した歴史がその後もあるしな。ましてや中央集権体制が貧弱な古代なら尚更。
      中国や半島と同じく分裂と統一を繰り返していたとも考えられる。
      古代からずっと統一した政権があったと考えるのも不自然よ。
      付け加えると、当時の北部九州は吉野ヶ里の竪穴式住居が主流だけど、当時の畿内は掘立て式だし、穴掘って住む文化は北方系や韓国のオンドルとも共通する文化。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому

      @@shinzaemongolf6753 それなりの文献が限られてるので妄想ベースで書き込みますが、おっしゃるとおり畿内と北九州の関係は長期間微妙だったと思いますよ。一方、半島情勢など対外関係での利害は一致、というか積極的に協力した方が双方得だったとも思います
      弥生時代は基本的に北九州の存在感が突出してたわけですが、卑弥呼の時代の直後から始まる古墳時代では明らかに畿内が存在感で逆転している。細かいプロセスはわからないけれど突き放していった。対外的には統一政権の王を名乗っても支障のないくらい
      でもまあ、支配者層の元をたどれば三種の神器を尊ぶ同類でもあり、お互いの利益を尊重しあえば連携くらいはできたろうと。北九州は畿内の緩やかな覇権の重要な協力メンバーとでもいうか。強いて言えば豊臣政権の前田家のような。卑弥呼の時代はその段階の始まりかなと
      卑弥呼の時代よりあとで劇的な覇権争いをした形跡はありませんが、記紀にのっとり最終的には武力でケジメをつけたとは思います。まあ私の脳内シナリオではそんな感じです。

  • @osamuarima1118
    @osamuarima1118 2 роки тому +1

    国東半島の国東という文字が気になりますね。「国」ってどこの国?

  • @jsdf597
    @jsdf597 3 роки тому +3

    う~ん…確かに距離的にはそうなのだが…そう考えるとのちに大和朝廷が栄えたのと九州が(いきなり)廃れたのが納得ならないんだよな。

  • @public529stage
    @public529stage Рік тому

    一大卒とか伊都国とか日本史選択だったからめちゃくちゃ懐かしい…勉強したなぁ…

  • @vetovetor
    @vetovetor 2 роки тому

    高木彬光氏の説が一番しっくりとくる。

  • @komuroran
    @komuroran 3 роки тому +14

    邪馬台国と大和朝廷が並立してあったとする説に賛同します。(地理的に大和朝廷が強力であったとおもいますが)ただ、古墳時代に大きな戦闘のあった痕跡がなく、平和的に併合が進んだものと思います。唯一の例外が、熊襲の反乱ですね…

  • @user-mj8vx1dl7t
    @user-mj8vx1dl7t 3 роки тому +5

    昔と今とで地形も変わってるので
    当時の地図を使って解説した方がよくないですかね?博多ですら今と現行の頃でも結構変わってるらしいですからね

  • @user-bd9oe9vd5s
    @user-bd9oe9vd5s 3 роки тому +24

    近畿説が主流だといいますが、学問で主流てどれだけ価値があるのでしょうか?
    コペルニクスの例など歴史的に主流派が間違っていことはあります。
    特に日本の学界は、人事権の関係で直系の教授の説には異議を唱えられないと聞きます。
    そんなまともに学問ができない環境での主流てどれだけ価値があるのでしょうか?
    (個人的には九州説の方が納得ができるという立場です)

    • @user-bh9dn3tg9v
      @user-bh9dn3tg9v 3 роки тому +6

      主流派経済学(リフレ派)もめちゃくちゃだもんな。日本の経済を破壊してきたのはリフレ派。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +4

      畿内を圧倒するだけの遺構が北九州から発見されれば主流は逆転します。北九州でも地道な発掘調査は進められていますから逆転の可能性がないではありません
      現状、北九州の旗色が悪いのは、質量ともに畿内に圧倒されているからに過ぎません

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому +5

      @@toshiyam2853
      奈良で見つかるのは大和王権の遺跡ですな。
      邪馬台国とは違う。
      長浜浩明先生の著書、日本の誕生を読みましょう!
      完全に奈良説は論破されております。

  • @ulojjyu
    @ulojjyu 3 роки тому +3

    まだ論文化はされてませんが、地名の比較を当時の発音で行った言語学的アプローチでは畿内の地名が比定されています。
    動画内でも古代中国語の文書を現代日本語で発音比較していましたが、当時の倭人の発音を当時の中国語で当て字をしているはずで、両方とも当時の発音で比較しなければ意味がないという事です。
    また、常々、記載された当時の人の常識や文書が編纂された目的に則って読むべきと考えてきましたが、最近早稲田大学の三国時代の研究者の解説(方万里という常識や、曹真と司馬懿の功績を釣り合わせる目的など)に触れ、私としては畿内であるという結論に達しました。
    邪馬台国ははっきりしないことが多いのでロマンがありますね。

    • @user-bh9dn3tg9v
      @user-bh9dn3tg9v 3 роки тому

      日本の当時の発音は機器を使ってせいぜい奈良時代までしかさかのぼれませんよ。ましてや邪馬台国が北部九州ならそこの発音使う必要がありますこれは実は今の日本語と直接直系で結べる発音系統ではないと考えられる(同じ日本であれ分岐した末端同士にあたる)ので北部九州の場合はそのようなそのような当時の日本(北部九州の)発音という比較はできませんよ。
      畿内であれどういう推定音を取っているのか興味深いですね。この方法論だと北部九州の推定音の模索はかなりしんどいので同水準の比較にはならないと思いますね。

    • @ulojjyu
      @ulojjyu 3 роки тому +2

      @@user-bh9dn3tg9v
      私は言語学(その方は歴史言語学、比較言語学と言っていました)の素人であることは申し上げておきます。
      その方は、独自に発音の対応規則を探し、復元していく(?)作業を行ったようです。
      また、地方による方言も考慮しているとの事です。
      査読された物ではないので正しいという保証がない事も理解していますが、その説明に自分の頭では納得したので。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому

      魏志倭人伝はちゃんとソウル、プサン、対馬、壱岐、唐津、さらにその先の国の距離を明確に記しています。
      三世紀の言語学だかなんだか知りませんが、そんなあやふやなもので、この明確な距離情報は覆りません。
      奈良から出てくる遺物も明確に倭人伝の内容とは異なるものばかりです。

    • @ulojjyu
      @ulojjyu 3 роки тому +1

      @@pocapamas
      私のコメントの後半をご覧ください

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 роки тому

      @@ulojjyu
      はい。
      ちなみに、youtubeで長浜浩明 邪馬台国で検索すると出てくる動画がおすすめです。

  • @ru945
    @ru945 2 роки тому +1

    不勉強ゆえ伊都国の場所に議論があること自体知りませんでした。
    糸島市には後の世に吉備真備が造った怡土城(いとじょう)なんてのもあるし、あの場所以外ないものだと思ってました。
    復元された女王墓と副葬品をみてしまうと、もう、ここが邪馬台国でいいじゃん、とまで思いたくなってしまうほど魏志倭人伝の古代九州を感じる土地。また北部九州旅行したい!

  • @user-qs1fn1yt7m
    @user-qs1fn1yt7m 2 роки тому +1

    「魏誌倭人伝」自体が、卑弥呼の没後(親族である、いよ・とよの時代・或は、とよ・いよの没後)の時代に書かれた物なので(卑弥呼の墓・のち親族が女王についた事が書かれてる事から)魏誌倭人伝はあてにならないのかな❓️

  • @user-zb1ke6md2r
    @user-zb1ke6md2r 3 роки тому

    竹村公太郎氏がインフラの視点から考察したところ九州北部にピタリの場所があった、との事です。
    ちなみにこれはまた別の話ですが、邪馬台国も卑弥呼も当時の魏が日本を下に見て賤しい漢字を宛がっただけで本来の読みや音はヤマト、ヒムカだとも言われています

  • @成合光
    @成合光 3 роки тому +1

    魏志倭人伝の記録に狗邪韓国(伽耶?)が女王国の北限と書いてありますね。そこから初めて海を渡り、、、

  • @spica1jp
    @spica1jp 2 роки тому +1

    邪馬台国論争の動画に興味がありますが、複雑過ぎて・・・最近見た動画CTcvrZlWvjcは、わりと受け入れやすいと思うのですが、如何でしょうか?

  • @user-by1hn5hg2u
    @user-by1hn5hg2u 2 роки тому

    16:20
    ヤマトの人が来て王朝を作ったからヤマト王朝の可能性も…
    ヨークとニューヨークみたいに、出身地の名前を新天地につける事ってよくありますし

  • @user-xp2qb8vf3h
    @user-xp2qb8vf3h 2 роки тому +3

    多分、邪馬台国とは大和国で九州、近畿まで領国が有ったのだと思いますよ。大和朝廷は豪族の連合体ですから。
    九州は海外からの出入口だったのだと思いますよ。

  • @user-bd5hi5vj4q
    @user-bd5hi5vj4q 3 роки тому +15

    もし邪馬台国の場所が確定したら飯食えなくなるからお互い本気出さない説

    • @user-kf1eo5wg7c
      @user-kf1eo5wg7c 3 роки тому +7

      ただの観光地争いだしなぁ邪馬台国と現代にどう繋がるのかいまいちはっきりしないから本当に観光地としてのブランド価値しかない

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 3 роки тому +2

      考古学者は真面目に全力で調査してるぞ。で、あらかた結論が出てるので、いまさら論争なんかしない

    • @user-kf1eo5wg7c
      @user-kf1eo5wg7c 3 роки тому +9

      @@toshiyam2853 学者は予算の取り合いだろ
      スポンサーにとって歴史の真実など毛ほどの興味がないのでどれもこれも邪馬台国と結びつけて話を大きくさせていく
      この先の結果がゴッドハンド事件になる

  • @user-nv2ce9yc6g
    @user-nv2ce9yc6g 2 роки тому

    女山が有る、みやま市瀬高町に住んでいます。やたらと「卑弥呼の里」を主張していて気になってたけど、動画を見たらナルホド!納得!こういう由緒があったのですね(^^♪
    勉強になりました。ありがとうございました!

  • @mogamiyoshihisa3526
    @mogamiyoshihisa3526 3 роки тому +27

    曹操の墓を発掘した中国人学者が邪馬台国は九州にあると断言してますね。曹操の墓と九州で共通した出土品があるようで。

    • @junkaisavoy1020
      @junkaisavoy1020 3 роки тому +6

      “金銀錯嵌珠龍文鐵鏡”と西高穴2號墓の出土品。現在の考古学的結論は、2つの出土品は共通品でありません

    • @junkaisavoy1020
      @junkaisavoy1020 3 роки тому +10

      2009年西高穴2号墓(曹操高陵)の出土遗物は"九寸金错铁镜",2016年西朱村M1曹魏大型墓葬(魏明帝郭皇后墓)の出土遺物は七寸以下の金错铁镜,大分県日田市日高町から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の直径は21.1cm,漢王朝で9寸くらい。日本で出土されたこの鉄鏡の規格は,漢王朝の皇帝の御物(一尺二寸金銀錯鏡)より小さい,皇后の規格(七寸金错鏡)より大きい。これに基づいて、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の所有者の身元は皇帝と皇后の間にあるの可能性は非常に高いです,魏の名将·壮侯曹休(七寸铁镜,金銀错はありません)より高い,基本的には漢魏朝の公爵と诸侯と王のみ。倹約を提唱する魏武王曹操の墓葬から出土した鏡(九寸金错)よりも豪華です,おそらく贅沢が好きな曹叡の時代に倭王に贈られました

    • @大石直人-j3x
      @大石直人-j3x 10 місяців тому

      @@junkaisavoy1020 し

  • @plumgosbird
    @plumgosbird 2 роки тому +1

    末盧国から伊都国には南東に進むのではないですか?

    • @lfs9.083
      @lfs9.083 2 роки тому +1

      そこに気付いたら畿内説、狗奴国東海説まで後一歩

  • @takashiumeda6276
    @takashiumeda6276 3 роки тому +4

    「周髀算経」による、一里=76mを取り入れているのは素晴らしいです。
    ただし、最も大切な事に触れていません。
    魏志倭人伝に「邪馬台国」とは記載されていません。
    「邪馬壹国」が正しく、「邪馬臺国」ではありません。
    「壹(壱)」は「臺(台)」音も意味も全く違う字です。
    また、水行十日陸行一月は、出発点の帯方郡から邪馬壹国までの一万二千里の行程を表したもので、水上移動部分が十日、陸上部分が一月と読めば何の矛盾もありません。
     ※参照 古田武彦著「邪馬台国はなかった」「邪馬壹国の論理」「邪馬一国への道標」「邪馬一国の証明」
    聖徳太子のモデルと思われる、他利思北狐(たりしほこ)が活躍した九州王朝に思いを馳せて。

  • @Dust_of_Mount_Taishan
    @Dust_of_Mount_Taishan 3 роки тому +12

    自分のことだけでなく、社会全ての記録を残そうとする。
    「歴史」というものを作ったヘロドトスや司馬遷ってまじで特異点その物だよな

    • @user-kf1eo5wg7c
      @user-kf1eo5wg7c 3 роки тому +1

      司馬遷は歴史を残す事で徳を重視した世の中になる願いが込められてるから正確無比かと言われると怪しいけどな
      ヨーロッパの歴史が血も涙もない歴史の繰り返しで救いがないけどアジアはわりと国民を思いやったとかの記述が多い
      実際はどうだったかはわからんが

    • @jodasow
      @jodasow 3 роки тому +2

      春秋や竹書紀年もあったから特異点ではないのではないか

  • @user-kf1eo5wg7c
    @user-kf1eo5wg7c 3 роки тому +6

    うぷ主のお陰でジャンプで新しく始まった逃げ上手の内容が分かりやすくなって感謝してます

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 3 роки тому +2

    有明の学者曰く「昔、運河があったから水行20日で有明海まで来れる。つまり邪馬台国連合は有明海沿岸の国々だったのだ!」。とかいう感じの説を小耳にはさんだことがあります。

    • @yo2trader539
      @yo2trader539 3 роки тому +3

      倭人伝には各国の戸数が記述されてます。当時の大家族制では1戸が何名に相当するのか分かりませんが、倭人伝を素直に解釈すれば邪馬台国は最も人口が多い地域になります。つまり最も水田面積が広かった場所に存在してたと考えられます。九州北部の前提であれば、筑後川流域になるんじゃないでしょうか?ちなみに、後世の北部九州を統括した筑紫君、磐井の乱の一族のお墓は八女市。筑後川は水運・外堀、後方は山岳地帯なので外敵から守りやすい地形とも言えます。

    • @nekozame_history_fan
      @nekozame_history_fan 3 роки тому

      @@yo2trader539 実際の地形と遺跡の発掘と地域の伝承と魏志倭人伝の記述、地理学や考古学、民俗学に歴史学といろんな分析方法がありますよね。筑後川流域に邪馬台国があった場合は後の火の国の勢力、筑紫の国の勢力が関係してそうですね。

    • @user-cl5pi4zo1b
      @user-cl5pi4zo1b 3 роки тому

      @@yo2trader539 全く同意見。

    • @user-cl5pi4zo1b
      @user-cl5pi4zo1b 3 роки тому

      @@yo2trader539 全く同意見。多くの意見を総合してみると、邪馬台国(卑弥呼)は、筑後川流域にあったと言ことになるようです。

  • @takahiroi5522
    @takahiroi5522 3 роки тому +9

    岡田英弘「日本史の誕生」
    日本には『もと王』があって、その臣下では関白というのが一番偉い。
    当時関白だったのは山城守の信長であって、ある日、狩猟に出でかけたところ木の下に寝ている奴がある。
    びっくりして飛び起きたところを捕まえて問い出すと、自分は『平秀吉』といって、『薩摩の国』の下男だという。
    すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
    明王朝の資料を頼りに清王朝が編纂した明王朝正史の一部がこれ
    大陸中央の人間にとって辺境日本などテキトーに書けば十分
    魏志倭人伝から邪馬台国の位置を見極めるなんて無理

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n 3 роки тому +2

    水行20日、水行10日陸行1月は帯方郡から掛かる時間
    12000里は帯方郡から女王国(伊都国、奴国)までの距離
    壱岐対馬の方300里と方400里も行程の距離に加えれ丁度12000里になる
    合計の距離が12000里と書かれてるのだから内訳が書かれていないはずがない
    魏志倭人伝に書かれてるのは卑弥呼の住んで居た伊都国を中心とした記述です。

    • @user-tx1tu7ch5q
      @user-tx1tu7ch5q 3 роки тому

      対馬の方400里と壱岐の方300里の2辺を加えれば1400里ですが、南北に島が並んでいるのに2辺を通る意味がありません。それぞれ1辺のみを加えて、不弥国までを11400里とするのが正しいと思います。

    • @user-in2jy7ov6n
      @user-in2jy7ov6n 3 роки тому

      魏志倭人伝では国の端に着くと至ると表現されています、狗邪韓国の南端から一大国の北端までが1000里です、従って島の外周の半分を距離に算入する必要があります。
      帯方郡でも帯方郡の南端の海岸かの行程が書かれています。

    • @user-tx1tu7ch5q
      @user-tx1tu7ch5q 3 роки тому

      @@user-in2jy7ov6n 狗邪韓国から末盧国までずっと北から南に向かっているのに、対馬、壱岐で東西方向の移動をする必要があるのでしょうか。方という字が四角を表すのであれば、一辺の長さだけで十分だと思います。

    • @user-in2jy7ov6n
      @user-in2jy7ov6n 3 роки тому

      @@user-tx1tu7ch5q 東西方向の移動をする必要があるのでしょうか。・・・対馬海流に流された?
      方〇〇里は一辺が〇〇里四方の土地の意味だが、そこから一辺が〇〇里四方の面積を指す場合もある。魏志倭人伝の場合は壱岐対馬の面積を魏使が知るはずがないので、壱岐対馬を海上から半周して目測した距離です。一辺の長さだけなら南北○○里ですね。

    • @user-tx1tu7ch5q
      @user-tx1tu7ch5q 3 роки тому

      @@user-in2jy7ov6n 対馬、壱岐が円形とかひし形とか認識しているならともかく、方と言っているのは四角と認識しているわけで、実際の地形はともかく、四角と認識しているので、一辺の長さだけを算入するべきでしょう。2倍にするのは奴国にもっていきたいための説だと思います。

  • @user-sz6zt4ez7f
    @user-sz6zt4ez7f 3 роки тому +7

    邪馬壹国の行程に関しては、当時の海岸線や地形から推察する方がしっくりくるかもですね、今とは違うはずですし。
    紀元前60年ころに東征をし、神武天皇が即位していたとしたら、ちょうど卑弥呼がいた時の天皇は垂仁天皇となり、行政官が伊支馬というのも
    イクメがそう聞こえ記録した可能性が出てきますね。卑弥呼が巫女で神託を得れる人物だとすれば、当然大王より上に見え、朝貢するにしても女王として使者を出さないとあってもらえないかなと思います。あと、邪馬壹国は九州肥國周辺だったのじゃないかなとは思います。