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天孫降臨と神武天皇の東征と日本を2回も征服してる不自然な神話も謎を深めていますよね
地理と歴史は切り離せないことがわかる動画
九州の混乱により途絶してしまった鉄の供給ルートを独自に切り開くことで力を持ったのが出雲という説もあった様な。
日本海側にも鉄器あるし関東まで出土ある
奥州で粛慎との争いの話があったと思うそれを考えると、大陸北東部やウラジオストックあたりに倭人が住んでいた、やり取りをしていた人たちがいた可能性も?
全部の書物が概ね正しいことを書いているとすると、桓霊の時代から戦乱が徐々に始まり、173年頃に一部の国で卑弥呼を王に据える連合が興り、光和年間に決定的な戦争が起きて、卑弥呼連合国が勝利して邪馬台国連合を形成、という感じだろうか。戦乱はある程度徐々に広まるものだから違和感はないかもしれない。
寒冷化でまず被害を受けるのは草原地帯で遊牧をしている牧畜民だそうで(※そも”草原”つまり木は生えないが草なら生えるという状態は植物にとって生育がギリギリの状態なので、0.5℃とかの微細な寒冷化でも即影響が出る)そこから牧畜民が南下して農耕地帯の人々と諍いが起こるという玉突き方式が一般的な寒冷化の弊害ですよねそこから考えると日本には本来植物の生育ギリギリの地帯で生活している人はいないとは言いませんが勢力として大規模ではなかったと思われますのではたしてどこまで寒冷化の影響があったのかそれともこの時の寒冷化は我々が予想するものよりもはるかに急激なもの(ある程度気候的度余裕をもって農作していた地域でも収穫量に影響が出る程度の)だったのかもしれませんね
どんなに栄えた国でも滅びる時はあっけないもんだなあ······
状況を見たら畿内で大乱の痕跡無いですしね。逆に北部九州は痕跡だらけ・・・そういや最近話題の阿波に戦乱の痕跡あるんですかね?
実は九州の"戦乱の痕跡"で出土する武具は近接地域の物ばかりで、鳥取の青谷上寺地遺跡に見られるような、広域を巻き込んだ様な遠隔地域由来の武器が戦闘に用いられた跡がほぼ見つかりません。また女王共立は2世紀末の倭国大乱収束を示すものですから、その王都をわざわざ戦乱の(北部九州でしたら小国の小競り合い)地に置く意味があるのか疑問です。
出雲が大和から攻め込まれたんだろうなとは思うんですけど、それって倭国大乱なんでしょうか?長年争ったというより、短期間に滅んた印象です。
@@gc8zacc3 私は2世紀後半の倭国大乱はヤマトによる征服では無いと考えています。寧ろ2世紀代は楯築墳丘墓の規模に代表される様に吉備地方に有力な王が居た可能性があります。107年朝貢の倭国王帥升は楯築の系譜に関係している可能性も十分あり得るでしょう。倭国大乱は出雲はじめ吉備や瀬戸内、畿内などの諸勢力が最終的に祭祀の代表者を共立する事で纏まったのではないかと思います。現在の畿内説の主流は、邪馬台国=ヤマト王権ではなく、あくまで卑弥呼時代の邪馬台国は緩やかな連合体としての倭国(卑弥呼共立〜没)の王都であったといった感じですね。
分かりやすい考察でした。真実はいかに?
素朴な疑問なのですが、「共立」という日本語は当時の中国でも「卑弥呼を共立」という意味で使える単語として存在したのですかね。
当時熟語として成立していたかは別として『共立』というのは”史記周本紀”にでてくる有名エピソードですので当然歴史家である陳寿は知っていて意識して使ったものと思われます【厲王死于彘。太子靜長於召公家、二相乃”共立”之為、是為宣王。(共和十四年、厲王、彘に死す。太子静、召公の家に長ず。二相乃ち共に之を立てて王と為す。是を宣王と為す。)】
時代的には欠史八代の頃だから、崇神が登場するまでの混乱なのかなぁ
前方後円墳造営時期に倭国大乱はなかったのでは。 (空又 覚造)
うぽつです。今回は卑弥呼の即位の元となった倭国大乱についてでしたが、戦乱の原因とか鮮卑との関係とか卑弥呼の傀儡説とか色々と唸らされました😊今回も背景の切り替えが実に良かったのですが、ただ、やっぱり実写の人間の顔が映るのは、近代史における偉人の写真や映像とかでもない限りは止してほしいかなとも……😅
倭国大乱と同時代に、出雲が日本海側で領地を拡げており、倭国大乱が九州だけだったとは言い切れません。
イタリアの例だと海運、海賊のアマルフィなどは高所に居住地を作ってるし、海賊が恐れるのは他の海賊だから戦争に備えるというより海賊対策で高所に集落作ったんじゃマイカ
22:35ソシャゲ嵌まってた時期に敵を37564にすれば戦争終わるよねって同じチームの人が言ってたけれど内ゲバとかも考慮すると人類がこの世から消えたら平和になるよねこうかなあ?いつになるかはわかりませんが
大和王権の歴史書に邪馬台国や卑弥呼は出てきませんしね…倭国大乱より後の時代?に、大和でも神武東征や長髄彦の戦いみたいな覇権争いがあったのかなその後の拡張政策が九州遠征や神功皇后? 瀬戸内海や出雲は3~4世紀頃に何してたのかとか、想像でもいいから時系列的に説得力のある説を聞きたいなあ
倭国大乱は、その前に大きな火山噴火が少ないこと、中国朝鮮で気候上の問題が少ないこと、から、紀元前後に発生した南海トラフ地震によるものと思われます。時期としては、地震発生は紀元前後とされ、実際の「大乱」は紀元1世紀と思われます。これは、兵庫県明石市周辺が、播磨から摂津に変化している点、居住地が弥生中期と後期で不連続である点から、播磨が追い出されたものと思われます。
倭国大乱とは紀元178年の武埴安彦命が起した反乱を指します。 木津川周辺で双方で激しい戦闘が行われました。
干支で書かれていた基資料から三国史記を編纂する際に干支分の60年ズレて173年は233年ではないかと考えられてますね。
人類の歴史は平和、革命、紛争のEndlessWaltzですから……
当時は、数千キロもの距離をどうやって連絡のやりとり、してたんだろう?「タイムラグ」も現代とは比べようもないくらい、大きかったはず。早馬や狼煙を使ったとしても情報が伝わったころには、もうそれはだいぶ古い情報になってて役に立たない、ことも多々あったはず。
地球は温暖化するくらいがちょうど良いんだよね。
倭国大乱が食料不足以前に朝鮮との交易が伊都国を窓口にしており、そこに利権争いがあったのではないか?当時の日本において国際文書である漢文を理解できる人間は多くないと思うから、そこに利権があっても不思議ではない朝鮮からの難民はそれを運ぶ輸送力(船)があるならもっと当時の日本からの交易品が中華領域で発見されていても良いと感じるので可能性は薄いと感じる寒冷化は倭国大乱の直接的な原因である以上に神武東征の直接的な原因であると思うおそらく桜島の噴火で南九州に飢饉が発生したのではなかろうか阿蘇山だと九州だけでは済まなそうだし、雲仙だと北九州の方が被害が大きくて狗奴国が侵略活動起こすとは思えないむしろ食糧を確保する為に国境封鎖しそう神武東征は飢饉の為、口減らしを兼ねて近畿に移住する計画で、移動の為に北九州の部族の口利きで瀬戸内海の部族の力を借りたように思える瀬戸内の高所集落は南海トラフによる津波被害があったのではなかろうかと思える
倭国大乱は「後漢書」に書かれています。「魏志倭人伝」には、倭国大乱の80年後の、都万国と宇佐国の連合国である’邪馬壹国’の東鯷国への東侵が書かれています。倭国大乱は「魏志倭人伝」には記載されていません!!大きな間違いをされています??
何回も乱があったんだろね
古代の王というのは一種の縁起物で、その人が王のときに飢饉や疫病がなかったというだけで評価される。卑弥呼の死んだ年というのは日本で皆既日食が起こった年である。つまり卑弥呼は神通力を失ったと判断されたと考えられる。現代の日本で「アイツが首相になってからロクなことがない」というのは古代風習のなごりである。
倭国大乱は九州でしょ。昔は百余国、今は卑弥呼を共立した伊都国を首都とした三十国。「素直に」解釈すればだけど…笑
畿内には大乱の形跡が全く全くありませんね。鉄鏃無し、楼観無し、城柵無し。平和な畿内の大和王権は婚姻で勢力拡大していた時期ですね。笑
土蜘蛛って邪馬台国の風俗と似てるよね。
はじめまして倭国大乱についてですがおおよそAD180~190年ころでしょうか南海トラフ地震により、太平洋沿岸と瀬戸内海沿岸が、大津波でお見込まれております。(岡山大学地質調査)加えて、畿内においても、琵琶湖も大津波を起こし、その津波は比叡山まで届いております、(京都大学地質調査)この津波により、環濠が埋まり(私見)高地性集落に移ったと想定しております。いち早く環濠を掘り越したのが、朝日遺跡。生きているうちに邪馬台国がどこか知りたい。ただ、それだけです
倭国は中原(中華)から離れた国だから、日本以外にも長江以南も含まれます。
なんで纏向遺跡?唐古・鍵遺跡とかあるのに
静川集落は北海道の野獣から身を守る目的だったりするのかな?
古代の王の仕事は神に祭司(政りごと)することであって行政ではない。もし、卑弥呼が女王になっている地域だけ飢饉も疫病もなければ、他の地域から「こちらの祭祀もお願いしたい」と貢物を持ってくることは十分あり得る。これが広がれば女王卑弥呼は共立されたと言える。
纏向が邪馬台国とか、あり得ないですね。
いわゆる倭国大乱とは紀元167年に起こった第8代孝元天皇の皇子の武波邇夜須毘古命の反乱を指しています。 この年には第10代崇神天皇がわずか10歳で皇位に就かれた年であり、このことに武波邇夜須毘古命が不満を抱いたことが原因だと思われます。 この反乱は木津川周辺で激しい戦闘が行われ千人余りの死者がありました。 この反乱を治めた立役者は武波邇夜須毘古命の弟の大毘売古命です。 武波邇夜須毘古命は紀元128年に生まれ167年に40歳で亡くなりました。 大毘古命は紀元136年に生まれ206年に74歳で亡くなりました。 武波邇夜毘古命は😮
ドゥルブらくだわら
トップが宗教指導者って、同時代の黄巾の乱がまさにそうなんですよね。あと五斗米道の張魯。(北魏とか蕭梁は皇帝が宗教でもトップだし、日本だと聖徳太子も当てはまりますね)
古代日本まじおもろい
邪馬台国が九州だったと決め付けるから、記紀に倭国大乱が記されていないとなるのでは?神武東征が倭国大乱を暗に記している可能性も一考の余地があると思うが。
神話は他国に対して自己紹介みたいな使い方をするのが本来の使い方あなたの国はどのような国ですか?って聞かれるのが普通だからその時に神話を語る魏志倭人伝には時期を特定できる記述がいくつかあるが記述のすべてがその時期に起きたと解釈してはいけない例えばワシントンの国で飛行機が開発されれたと記述があったとしたらあってるけど時期は間違ってる卑弥呼の国から使者が来たという記述があったとしてもその時期に卑弥呼が統治してたとは限らないという事
滅びたのではなく禅譲でしょ
タイムマシンできねーかなー
倭国大乱は吉備・ヤマト(一大卒含み)連合と出雲・北九州連合の戦いではないでしょうか、出雲には古墳や史跡少なくヤマトに反発した地域としてヤマト有力者がいなかったとも思う。倭国大乱後、国を譲り、出雲大社などヤマトが建て鎮めたのが今の出雲地区なのではないかと考えます。
他所の動画で邪馬台国の所在が茨城県だってのがあったけど、移動距離からの推定で何か納得させられるものだった。(魏志倭人伝当時の距離計測の精度がどれくらいのものだったかは知りませんが)もし、邪馬台国が関東であったなら、倭国大乱の説明は如何なるのでしょうね。
徳島県板野町の黒谷川宮ノ前遺跡では、液状化跡が見出された。噴砂の後は4本で 1361年、684年、古墳時代に初期、弥生時代のものである。古墳時代初期のものが南海地震の周期から推測すると340年頃と思われる。その前の南海地震は280年頃と推測される。私は、倭国大乱の原因は南海地震であると考える。
九州で大乱があったので国力が低下し、その間に発展した阿波の邪馬台国が盟主となったのではないかな北九州に鉄器が多かったのは事実ですが、銅が主力兵器であっても、戦乱から逃れていたなら兵力や食料備蓄では優位に立てそうですし制圧したのではないなら、まさに食料支援などで盟主の地位を手に入れたのではないでしょうか?
北九州から倭国大乱を期に近畿へ人々が移住した。(環濠集落跡がそのまま残っていることはその地がその時代に放棄された可能性を示している。博多など多層の遺跡が残る場合もある)倭国大乱を期に首都が阿波へ移った。と、自分も考えています。淡路島のゴッサカイト遺跡なども検証する必要はありますが。邪馬台国四国説はヤマト王権との連続性を説明し得ます。
三国志記はいつ書かれたもの? それは参考にならない
永遠のミステリーロマン❤ エジプトはピラミッド、我が国は倭国や邪馬台国😂マロンいやロマン🎉
おそらくだが出雲と北九州が戦争してて、北九州は本土を攻撃されたんだと思うよ。つまり勝ったのは出雲で北九州は王の娘を差し出したんだと思う。それで和合した。出雲は逃げ出さないように娘を出雲の東の領域に幽閉したのが纏向だと思うよ。
神武東征と倭国大乱では時代が合わないし、いまの皇室の祖先が倭国大乱に大きく関わっているような気がしてならない。
神武東征や長髄彦の戦いの痕跡すらないんだよね。場所ばかりでね。
4世紀以前の記紀に物証はない記紀を引用するなら物証だな。痕跡がないならなかったんだろうな。
@@may23k68 そもそも古事記や日本書紀って、大化の改新の際に後付けみたいな感じで編纂されたからね(文字すらその時代にはなかったし)。いまの皇室の祖先だって、卑弥呼の傍流の親戚か縁戚だった可能性もある気がする。
関東騎馬民族は?その時期は4C後半から5C
天孫降臨と神武天皇の東征と日本を2回も征服してる
不自然な神話も謎を深めていますよね
地理と歴史は切り離せないことがわかる動画
九州の混乱により途絶してしまった鉄の供給ルートを独自に切り開くことで力を持ったのが出雲という説もあった様な。
日本海側にも鉄器あるし
関東まで出土ある
奥州で粛慎との争いの話があったと思う
それを考えると、大陸北東部やウラジオストックあたりに倭人が住んでいた、やり取りをしていた人たちがいた可能性も?
全部の書物が概ね正しいことを書いているとすると、桓霊の時代から戦乱が徐々に始まり、173年頃に一部の国で卑弥呼を王に据える連合が興り、光和年間に決定的な戦争が起きて、卑弥呼連合国が勝利して邪馬台国連合を形成、という感じだろうか。戦乱はある程度徐々に広まるものだから違和感はないかもしれない。
寒冷化でまず被害を受けるのは草原地帯で遊牧をしている牧畜民だそうで(※そも”草原”つまり木は生えないが草なら生えるという状態は植物にとって生育がギリギリの状態なので、0.5℃とかの微細な寒冷化でも即影響が出る)そこから牧畜民が南下して農耕地帯の人々と諍いが起こるという玉突き方式が一般的な寒冷化の弊害ですよね
そこから考えると日本には本来植物の生育ギリギリの地帯で生活している人はいないとは言いませんが勢力として大規模ではなかったと思われますのではたしてどこまで寒冷化の影響があったのか
それともこの時の寒冷化は我々が予想するものよりもはるかに急激なもの(ある程度気候的度余裕をもって農作していた地域でも収穫量に影響が出る程度の)だったのかもしれませんね
どんなに栄えた国でも滅びる時はあっけないもんだなあ······
状況を見たら畿内で大乱の痕跡無いですしね。
逆に北部九州は痕跡だらけ・・・
そういや最近話題の阿波に戦乱の痕跡あるんですかね?
実は九州の"戦乱の痕跡"で出土する武具は近接地域の物ばかりで、
鳥取の青谷上寺地遺跡に見られるような、広域を巻き込んだ様な遠隔地域由来の武器が戦闘に用いられた跡がほぼ見つかりません。
また女王共立は2世紀末の倭国大乱収束を示すものですから、
その王都をわざわざ戦乱の(北部九州でしたら小国の小競り合い)地に置く意味があるのか疑問です。
出雲が大和から攻め込まれたんだろうなとは思うんですけど、それって倭国大乱なんでしょうか?長年争ったというより、短期間に滅んた印象です。
@@gc8zacc3
私は2世紀後半の倭国大乱はヤマトによる征服では無いと考えています。
寧ろ2世紀代は楯築墳丘墓の規模に代表される様に吉備地方に有力な王が居た可能性があります。
107年朝貢の倭国王帥升は楯築の系譜に関係している可能性も十分あり得るでしょう。
倭国大乱は出雲はじめ吉備や瀬戸内、畿内などの諸勢力が最終的に祭祀の代表者を共立する事で纏まったのではないかと思います。
現在の畿内説の主流は、邪馬台国=ヤマト王権ではなく、あくまで卑弥呼時代の邪馬台国は緩やかな連合体としての倭国(卑弥呼共立〜没)の王都であったといった感じですね。
分かりやすい考察でした。真実はいかに?
素朴な疑問なのですが、「共立」という日本語は当時の中国でも「卑弥呼を共立」という意味で使える単語として存在したのですかね。
当時熟語として成立していたかは別として『共立』というのは”史記周本紀”にでてくる有名エピソードですので当然歴史家である陳寿は知っていて意識して使ったものと思われます
【厲王死于彘。太子靜長於召公家、二相乃”共立”之為、是為宣王。(共和十四年、厲王、彘に死す。太子静、召公の家に長ず。二相乃ち共に之
を立てて王と為す。是を宣王と為す。)】
時代的には欠史八代の頃だから、崇神が登場するまでの混乱なのかなぁ
前方後円墳造営時期に倭国大乱はなかったのでは。 (空又 覚造)
うぽつです。今回は卑弥呼の即位の元となった倭国大乱についてでしたが、戦乱の原因とか鮮卑との関係とか卑弥呼の傀儡説とか色々と唸らされました😊
今回も背景の切り替えが実に良かったのですが、
ただ、やっぱり実写の人間の顔が映るのは、近代史における偉人の写真や映像とかでもない限りは止してほしいかなとも……😅
倭国大乱と同時代に、出雲が日本海側で領地を拡げており、倭国大乱が九州だけだったとは言い切れません。
イタリアの例だと海運、海賊のアマルフィなどは高所に居住地を作ってるし、海賊が恐れるのは他の海賊だから戦争に備えるというより海賊対策で高所に集落作ったんじゃマイカ
22:35
ソシャゲ嵌まってた時期に
敵を37564にすれば
戦争終わるよね
って同じチームの人が言ってたけれど
内ゲバとかも考慮すると
人類がこの世から消えたら
平和になるよね
こうかなあ?
いつになるかはわかりませんが
大和王権の歴史書に邪馬台国や卑弥呼は出てきませんしね…
倭国大乱より後の時代?に、大和でも神武東征や長髄彦の戦いみたいな覇権争いがあったのかな
その後の拡張政策が九州遠征や神功皇后? 瀬戸内海や出雲は3~4世紀頃に何してたのかとか、想像でもいいから時系列的に説得力のある説を聞きたいなあ
倭国大乱は、その前に大きな火山噴火が少ないこと、中国朝鮮で気候上の問題が少ないこと、から、紀元前後に発生した南海トラフ地震によるものと思われます。時期としては、地震発生は紀元前後とされ、実際の「大乱」は紀元1世紀と思われます。これは、兵庫県明石市周辺が、播磨から摂津に変化している点、居住地が弥生中期と後期で不連続である点から、播磨が追い出されたものと思われます。
倭国大乱とは紀元178年の武埴安彦命が起した反乱を指します。
木津川周辺で双方で激しい戦闘が行われました。
干支で書かれていた基資料から三国史記を編纂する際に干支分の60年ズレて173年は233年ではないかと考えられてますね。
人類の歴史は平和、革命、紛争のEndlessWaltzですから……
当時は、数千キロもの距離をどうやって連絡のやりとり、してたんだろう?
「タイムラグ」も現代とは比べようもないくらい、大きかったはず。早馬や狼煙を使ったとしても情報が伝わったころには、もうそれはだいぶ古い情報になってて役に立たない、ことも多々あったはず。
地球は温暖化するくらいがちょうど良いんだよね。
倭国大乱が食料不足以前に朝鮮との交易が伊都国を窓口にしており、そこに利権争いがあったのではないか?
当時の日本において国際文書である漢文を理解できる人間は多くないと思うから、そこに利権があっても不思議ではない
朝鮮からの難民はそれを運ぶ輸送力(船)があるならもっと当時の日本からの交易品が中華領域で発見されていても良いと感じるので可能性は薄いと感じる
寒冷化は倭国大乱の直接的な原因である以上に神武東征の直接的な原因であると思う
おそらく桜島の噴火で南九州に飢饉が発生したのではなかろうか
阿蘇山だと九州だけでは済まなそうだし、雲仙だと北九州の方が被害が大きくて狗奴国が侵略活動起こすとは思えない
むしろ食糧を確保する為に国境封鎖しそう
神武東征は飢饉の為、口減らしを兼ねて近畿に移住する計画で、移動の為に北九州の部族の口利きで瀬戸内海の部族の力を借りたように思える
瀬戸内の高所集落は南海トラフによる津波被害があったのではなかろうかと思える
倭国大乱は「後漢書」に書かれています。「魏志倭人伝」には、倭国大乱の80年後の、都万国と宇佐国の連合国である’邪馬壹国’の東鯷国への東侵が書かれています。倭国大乱は「魏志倭人伝」には記載されていません!!大きな間違いをされています??
何回も乱があったんだろね
古代の王というのは一種の縁起物で、その人が王のときに飢饉や疫病がなかったというだけで評価される。
卑弥呼の死んだ年というのは日本で皆既日食が起こった年である。
つまり卑弥呼は神通力を失ったと判断されたと考えられる。
現代の日本で「アイツが首相になってからロクなことがない」というのは古代風習のなごりである。
倭国大乱は九州でしょ。
昔は百余国、今は卑弥呼を共立した伊都国を首都とした三十国。
「素直に」解釈すればだけど…笑
畿内には大乱の形跡が全く全くありませんね。
鉄鏃無し、楼観無し、城柵無し。
平和な畿内の大和王権は婚姻で勢力拡大していた時期ですね。笑
土蜘蛛って邪馬台国の風俗と似てるよね。
はじめまして
倭国大乱についてですが
おおよそAD180~190年ころでしょうか
南海トラフ地震により、太平洋沿岸と瀬戸内海沿岸が、大津波でお見込まれております。(岡山大学地質調査)
加えて、畿内においても、琵琶湖も大津波を起こし、その津波は比叡山まで届いております、(京都大学地質調査)
この津波により、環濠が埋まり(私見)
高地性集落に移ったと想定しております。
いち早く環濠を掘り越したのが、朝日遺跡。
生きているうちに邪馬台国がどこか知りたい。ただ、それだけです
倭国は中原(中華)から離れた国だから、日本以外にも長江以南も含まれます。
なんで纏向遺跡?
唐古・鍵遺跡とかあるのに
静川集落は北海道の野獣から身を守る目的だったりするのかな?
古代の王の仕事は神に祭司(政りごと)することであって行政ではない。
もし、卑弥呼が女王になっている地域だけ飢饉も疫病もなければ、
他の地域から「こちらの祭祀もお願いしたい」と貢物を持ってくることは十分あり得る。
これが広がれば女王卑弥呼は共立されたと言える。
纏向が邪馬台国とか、あり得ないですね。
いわゆる倭国大乱とは紀元167年に起こった第8代孝元天皇の皇子の武波邇夜須毘古命の反乱を指しています。
この年には第10代崇神天皇がわずか10歳で皇位に就かれた年であり、このことに武波邇
夜須毘古命が不満を抱いたことが原因だと思われます。
この反乱は木津川周辺で激しい戦闘が行われ千人余りの死者があり
ました。
この反乱を治めた立役者は武波邇夜須毘古命の弟の大毘売古命です。
武波邇夜須毘古命は紀元128年に生まれ167年に40歳で亡くなりました。
大毘古命は紀元136年に生まれ206年に74歳で亡くなりました。
武波邇夜毘古命は😮
ドゥルブらくだわら
トップが宗教指導者って、同時代の黄巾の乱がまさにそうなんですよね。あと五斗米道の張魯。
(北魏とか蕭梁は皇帝が宗教でもトップだし、日本だと聖徳太子も当てはまりますね)
古代日本まじおもろい
邪馬台国が九州だったと決め付けるから、記紀に倭国大乱が記されていないとなるのでは?神武東征が倭国大乱を暗に記している可能性も一考の余地があると思うが。
神話は他国に対して自己紹介みたいな使い方をするのが本来の使い方
あなたの国はどのような国ですか?って聞かれるのが普通だから
その時に神話を語る
魏志倭人伝には時期を特定できる記述がいくつかあるが
記述のすべてがその時期に起きたと解釈してはいけない
例えばワシントンの国で飛行機が開発されれたと記述があったとしたら
あってるけど時期は間違ってる
卑弥呼の国から使者が来たという記述があったとしても
その時期に卑弥呼が統治してたとは限らないという事
滅びたのではなく禅譲でしょ
タイムマシンできねーかなー
倭国大乱は吉備・ヤマト(一大卒含み)連合と出雲・北九州連合の戦いではないでしょうか、出雲には古墳や史跡少なくヤマトに反発した地域としてヤマト有力者がいなかったとも思う。倭国大乱後、国を譲り、出雲大社などヤマトが建て鎮めたのが今の出雲地区なのではないかと考えます。
他所の動画で邪馬台国の所在が茨城県だってのがあったけど、移動距離からの推定で何か納得させられるものだった。
(魏志倭人伝当時の距離計測の精度がどれくらいのものだったかは知りませんが)
もし、邪馬台国が関東であったなら、倭国大乱の説明は如何なるのでしょうね。
徳島県板野町の黒谷川宮ノ前遺跡では、液状化跡が見出された。
噴砂の後は4本で 1361年、684年、古墳時代に初期、弥生時代のものである。
古墳時代初期のものが南海地震の周期から推測すると340年頃と思われる。
その前の南海地震は280年頃と推測される。
私は、倭国大乱の原因は南海地震であると考える。
九州で大乱があったので国力が低下し、その間に発展した阿波の邪馬台国が盟主となったのではないかな
北九州に鉄器が多かったのは事実ですが、銅が主力兵器であっても、戦乱から逃れていたなら兵力や食料備蓄では優位に立てそうですし
制圧したのではないなら、まさに食料支援などで盟主の地位を手に入れたのではないでしょうか?
北九州から倭国大乱を期に近畿へ人々が移住した。
(環濠集落跡がそのまま残っていることはその地がその時代に放棄された可能性を示している。博多など多層の遺跡が残る場合もある)
倭国大乱を期に首都が阿波へ移った。
と、自分も考えています。
淡路島のゴッサカイト遺跡なども検証する必要はありますが。
邪馬台国四国説はヤマト王権との連続性を説明し得ます。
三国志記はいつ書かれたもの? それは参考にならない
永遠のミステリーロマン❤
エジプトはピラミッド、我が国は倭国や邪馬台国😂マロンいやロマン🎉
おそらくだが出雲と北九州が戦争してて、北九州は本土を攻撃されたんだと思うよ。つまり勝ったのは出雲で北九州は王の娘を差し出したんだと思う。それで和合した。出雲は逃げ出さないように娘を出雲の東の領域に幽閉したのが纏向だと思うよ。
神武東征と倭国大乱では時代が合わないし、いまの皇室の祖先が倭国大乱に大きく関わっているような気がしてならない。
神武東征や長髄彦の戦いの痕跡すらないんだよね。場所ばかりでね。
4世紀以前の記紀に物証はない
記紀を引用するなら物証だな。
痕跡がないならなかったんだろうな。
@@may23k68
そもそも古事記や日本書紀って、大化の改新の際に後付けみたいな感じで編纂されたからね(文字すらその時代にはなかったし)。
いまの皇室の祖先だって、卑弥呼の傍流の親戚か縁戚だった可能性もある気がする。
関東騎馬民族は?
その時期は4C後半から5C
神武東征と倭国大乱では時代が合わないし、いまの皇室の祖先が倭国大乱に大きく関わっているような気がしてならない。