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セピアさんのファンです。歴史好きで司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいます。話し方はやや軽いのですがそれとは裏腹に内容は正確、詳細、簡潔で分かりやすく量的、質的にきわめてハイレベルとの印象です。どうやって知識を吸収されているのでしょうか?感心してしまいます。すごい知識,量ですね。歴史好きの興味のある部分を、坪をヒットされているのにも感心します。これからも鋭意、我々を楽しませてください。
日本の神話が、ざっくりテンポ良くわかりやすい、ブラボー神解説。
面白いし、勉強になりました。セピアさんの語り口が素晴らしいですね。講談?漫談?のようで時間が経つのを忘れます。👏
何日か前、この番組を知り…今、夢中になつてます。面白い!テンポ、語りのうまさ!最高!
今回も楽しく見せて頂きました♪これからわかってくる事もあるでしょうね次回も楽しみに待っています。
素晴らしい解説です!コンパクトに、分かり易く、面白くまとめて頂きました。他の動画も見ますね、ありがとうございました‼️
中国や日本の古代の歴史若いのに良く勉強してありますね、素晴らしいです、ありがとうございました。
なるほど!セピアさんの講義を聞いて、天皇が何たるか分かったような気がします。凄く、説得力あります!
津田さんの説は真偽はわからないが、この時代に作り話と言いきった勇気は凄い。今の時代でも天皇を非難するのはタブーに近いのに。
橿原付近で、2m もある剣が出土したので、また面白いことになりました。あと、ナガスネヒコを祀った神社もあるとかも聞いたような気がします。確かに物語も半分あるけど、半分は本当だと思うので、学校で教えて欲しい。
投稿ありがとうございます。第一声からすごくインパクトがありますね笑
津田左右吉氏の文章は、読んでみると、ほとんど論拠を示さない津田氏の思い込みの冗長な文章で科学的な証明からはかなり遠いもののように感じます。敗戦後、GHQの日本統治の方針に合っていたので持ち上げられたのではないかと思います。
配信ありがとうございます。中国の三国志の時代と倭国大乱の時代は同時代ですね。ヒッタイトに始まった鉄器文明が極東に来るまでに2百年かかったと理解しています。加治将一「舞い降りた天皇」の下巻に二大勢力のルーツ図が書かれていますが,その辺の解説をお願い致します。原因結果論法がいちばん分かりやすいです。古文書よりも科学的推論の方が理解しやすいです。
うぽつです物語だけを見ると、敵を討ったのが主人公ではなくぽっと出の新キャラということで肩透かしを食らったような気分になりますが、その物語が実際にはどのようであったのかまで考えるととっても面白いですね
教科書の歴史でもなく、都市伝説的でもない歴史。楽しかったです^ ^
お初です。テンション高いので眠くならずに授業受けれていいです。次の授業楽しみにしています。今回きいてて思ったのが、卑弥呼の前にいた男王って神武天皇ではないでしょうか。権力とられての逃征であれば、記紀に邪馬台国のらないのもうなづけます。素人考えの妄
腑に落ちるお話ありがとうございます。
ごく最近になって見始めました。大変面白く見させてただいています。神武東征については大まかなことは知っていましたが、遠征が貫徹していないのに即位したとの指摘にはハッとさせられました。恐らく何らかの史実が反映しているのではないかと思われます。これは日本史の特徴だと思うのですが、日本は専制や嫌われ、代わりに寡頭政治(=少数のボスたちによる政治)が行われます。ボスたちの一種の勢力均衡の下に、よく言えば「話し合い」、悪く言えば「談合」政治が行われます。おそらく、神武天皇も、始皇帝のように政敵のすべてを打倒して即位したのではなく、ボスたちによる「共立」によって即位したのではないかと思うのです。纏向遺跡は、大和政権が他を力で支配していったと言うより、「共立」があったことを示しているように思われます。専制国家でない国で首都が作られる場合、特定の地域が特権的地位を得ることがないように、なるべくどの地域からも等距離の所に新た首都を建設することが行われることが多々あります。例えばアメリカの州のほとんどの州都は州境から等距離にある地域に新たに建設されました。例えばニューヨーク州の最大の都市はニューヨーク市ですが、州都は「オーバニー」と言う内地の田舎都市です。ブラジルやオーストラリアも同様です。纏向は、元々の大和政権の所在地だったと言うより、共立されて成立した新たな政権としての大和政権の所在地として新たに建設されたのではないでしょうか?神武東征が福岡あたりから避難のために東遷した可能性は高いとのお話は納得です(毛沢東の”大西征”も実態は国民党との内戦に敗れての逃走でした)。私は、神武一族は邪馬台国の傘下にあった弱小勢力だったかもしれないと思っています。イングランドのピューリタンが迫害を逃れてアメリカに渡りやがてアメリカの主流になったのとよく似たっことが日本でも起きたのではないかと考えています。注目すべきは、邪馬台国では人々が文身だったのが大和朝廷では文身が行われなかったことです。
奈良県桜井市にはあさくらと言う駅がありますよ。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮のあった場所ですね!
福岡県糸島市(魏志倭人伝の伊都国)に平原遺跡があります。一つのお墓(女王墓)から40面ほどの鏡が出土しており、そのうちの大鏡5面が国宝となっております。そのお墓のちょうど足を向けた先に「日向峠」があります。そこが天孫降臨の地ではないかとも話を聞いたことあります。
事実に基づいたお話が好きなので神話はあまりにも「日本むかし話」みたいで現実離れしてて興味がなく全然知らなかったのですが、セピアさんの楽しいお話のお陰で知られてよかったな〜と思いました。自分1人なら食わず嫌いで一生知らなかったです🤣
講師本人がとても楽しそうです。
分かりやすくて楽しみにしてます邪馬台国九州説派です 九州人だからです 吉野ヶ里も壮大でした
宇佐神宮の話を見て興味を持ち見始めました。今回の神武東征の話、特に日向は宮崎ではなく福岡というのを出雲口伝と合わせて読み解くと、かなりつじつまが合ってくるのではないかと感じました。是非考察をお願いしたいです。
関裕二という作家が書いた「物部氏の正体」という本で、神武天皇1行はニギハヤヒから祭祀を受け継ぐコトを条件としてヤマトの支配を譲り渡されたと書いてあった❗❗🫡🥰🤗😁👍
先生の話を聞いていると だんだんと 宝の地図のあり ありかのように聞こえてきました 錯覚でしょうか 欲深い 私ですね
オオモノヌシがセヤダタラヒメに結婚を迫る場面の『赤い矢』とは男性器そのもの?
興味深く拝聴しました。だいたいの内容は私も他のユーチューブや本等で知っていました。私が今一番知りたいことは神武天皇、祖先の海幸山幸や父親時代の王朝?を含めて彼等は何処から来たのか?卑弥呼は天照大神と同一と言われるが何故日本書紀等に卑弥呼が堂々と記述されないのか?等々色々知りたいのですが、その前に私の考えを簡単に記します。すでに知っておられると思いますが、学研から出ているジョー・マクモニーグルの透視が前提ですが、彼の透視ではヤマト民族が雲南辺りから九州に辿り着いたようです。私が興味を持ったのは、北九州、出雲、四国、奈良大和の鳥見山辺りに進出して卑弥呼は山口県で生まれ、出雲は卑弥呼の大伯父とか、卑弥呼の夏と冬の居城、山口県安徳天皇陵が卑弥呼の墓等色々の驚きや信憑性を感じますが、私はこの時代を弥生時代前期のまだ縄文人が多くを占める頃で、素戔嗚尊や大国主大神、三輪山の大物主神にしても日本各地に神社があって、彼等は縄文人だと思いますが、出雲の神有月と他の神無月の語が残るようにそれなりの緩やかな国家体制があったのではないでしょうか。卑弥呼、豊余はその晩期で神武天皇はもっと遅れて大和を征服したのでは?と思います。卑弥呼のことはすでに記憶が失われていたか滅ぼした相手だから記載しなかった?と思います。そして神武天皇側の民族は朝鮮半島渡来の鉄器使用、いわゆる弥生人だと思います。何故日向から出発したのか?、神武族はすでに勢力を築いていたヤマト民族の北九州を避けて回り道をして日向に住み着いて力を蓄え、東征に向かったのではと推測します。岡田宮に立ち寄ったのはそこで和睦したか脅したか私にはよくわからないですがなんとか抑えて少しずつ進軍したのではと思います。マクモニーグルの透視を前提して以上ですが、こうした見かたは無理でしょうか?日向にいて何故天照大神神話が造られたのか?伊邪那岐が禊ぎした場所や朝日のただ指す国は北九州にもあり、どちらかと言えば北九州の方が正しいと思います。縄文と弥生、青銅と鉄を分けた民族が卑弥呼と神武天皇ではと思いますが私にはなんとも考えが及びません。次回、ユーチューブで解説していただければと思います。
神武東征:大阪の戦いの地へ、船を進められる時代限界...縄文海進から観ると、時代が下っても紀元前50年くらいが妥当との説ありますね。 ただ大阪では、戦前戦後の大阪習俗も学び...戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われた湿地帯。民は、丘を除いて小舟で移動していたと...私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2~3m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。 つまり、神武東征は、卑弥呼・台与の邪馬台国時代の後、3~4世紀の頃の話もありかと?
阿岐国の多祁理7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。ここに安住しよとしたけど上手くいかず橿原へ行ったのでは? 本当に東征なら阿岐も吉備支配してるはず。
45歳で出発して途中15年を無駄に過ごした後で60歳で大和に向かうのは無いっすね。出発前の時点で三人の兄を差しおいて立太子されてたのに全て捨てて東征、三人の兄は途中で都合よく死ぬ・・・全部ウソですね。宮崎の田舎者が先進国の北九州に出たけど成功せず、負け組が一発当てるのを狙って出た旅。当時も瀬戸内交易は盛んだったそうなので東にも国があるのは分かってた。吉備で領主に気に入られて兵力を借りて大和奪取・・・みたいな感じでは?力が逆転するまでは吉備の属国だったかもね。
面白い🤣🤣
うぽつです!最初笑いましたw
素晴らしい解説ありがとうございます。私は橿原出身です。江戸時代実家の土地が神武天皇陵となり、曾祖父は御陵長を務めました。時が経ち、菅義偉前総理の秘書を務め、安倍晋三元総理が橿原で逝去されました。運命を感じざるを得ません。神武天皇は実在します。
次は、コオロギ給食! 間違えるとガンやコロと同様 サツされますよ。今年1月2日に富雄のナガスネヒコの根拠地にUA-camの取材に行った。そしたら、偶然にも神様が生駒の富雄丸山古墳から「国宝級の盾形の鏡、最大のダ龍鏡の刀」が発掘されました。それで、17数年ほど前から竹取翁博物館の会員らで調べていた「神武東征」とつながり、物部の根拠地が山代と富雄(生駒)周辺に存在していたことが判明した。ゆえに、神武東征の本を作るべきストーリーがほぼ決定した。現在年内に作り上げるべきために、パソコン5台を調整して徹夜体制で、書き上げることになりました。
古事記の大ファンの僕がいちコメしかし古事記はここからも爆笑が続く🤣🤣🤣
いち返し👍こんなギャグみたいな展開が多々ある神話「今日も日本は平和です」を地で行く世界観、なんて素敵なんだろう。
@@zero-reki こんばんはいつも楽しみに見てます😄日本武尊の話とかもめちゃくちゃ面白いので楽しみに待ってます(p`・ω・´q)
実家の鴨居に頭ぶつけてたらおじいちゃんから「ナガスネヒコか」と言われました。やっと意味わかった
安彦良和「ナムジ」(とその続編)がオモシロイ。
セピアさんの説明非常に理解しやすいです。理にかなっている説明非常に素晴らしい。特に耶馬台国の場所の説明、非常に理にかなっており間違いない。他の学者及び研究者もセピアさんの説明をきかれては。納得しますよ。
セピアさんが紹介していたあおきてつおさんの本読みました。邪馬台国と大和政権がどう繋がるか?古代史最大の謎に なるほど!と思わせる解釈でした。中国の史料の空白である266年から413年の間については今後も様々な議論が見たいですね。神話の中にこそ隠された真実があるというのも納得です。単に荒唐無稽だからと言って全てを無視しては歴史を紐解けませんね。
謎解きが面白い話。男たちの戦い、結婚によっての新たな力が宿る話。神の使いの力。
我が国の神話時代に焦点を当てた動画、大変楽しんで拝聴しました。私は常々、日本だけでなく、世界中の神話には、建国の正当性をアピールするために脚色されているものの、必ずその元となる史実があると考えています。津田左右吉が当時の皇国史観に一石を投じたことには目を見張りますが、その後、神話時代は創作だとして、歴史学から外したことについては、学者として思考停止したもので、残念に感じています。昨今、素戔嗚尊の八岐大蛇退治と草薙の剣についても、当時の斐伊川周辺の製鉄と関連付けられて、史実としてある程度現実的なものであると考えられるようになったこともあり、我が国の歴史学者には、もっとロマンをもって、神話時代に切り込んでいっていただきたいと思います。
神武東征めっちゃ興味あります。八咫烏。もしかしたらこの存在が鍵を握っているかもですよ。だって八咫烏だけは深掘りされてないですもん。一説には八咫烏と象徴される「人」ではなかったのかというのもあります。勿論高天原からの使いで。道案内と称して東征がスムーズに行くようお膳立てしてたかもですよ。じゃあこの辺で!って言い残してニギハヤヒに姿を変えて橿原辺りを先にまとめてはいどうぞ!ってなったかも🤔いや妄想楽しーー😆
当時も東西の瀬戸内交易は盛んだったそうだから、商人だったかも。
津田史学の方が現代では非科学的な分析解釈だということになっているから面白い
九州から四国、四国から和歌山、和歌山から奈良という順番で徐々に移住していったみたいな話を昔NHKでやってたのは見た。
合理的に考えれば、出雲を落とした勢力が日本海経由で巻向までに至ったのかも。大物主は出雲の神で新潟辺りまで勢力があり、その娘らと結婚するのは理にかなってるかと。
この頃の1年、グレゴリオ暦でも和暦の1年ではなのでは。年2回収穫のあったコメの収穫周期を1年としたとの説もある。
早い話九州の一豪族か王族イワレビコが東に逃れて来てニギハヤヒ家に婿入りした後に神武と呼ばれる人物になった。って事ですね。
三輪山のおおものぬしは、出雲の大国主の異名といわれているから国譲り神話と関係があるかもしれないですね。
伝承を馬鹿にすべからず。大地震前に一回海水が引いて行くことはある。
桜井市に朝倉と言う地名がズバリあります。
わりとまともな推理力で安心しました。神武のヤマト到着は西暦285年から300年ごろとみれば後の歴史はつながると思います。
筑紫の日向は福岡県の伊都国の東側、日向峠付近で神武東征は5世紀頃、前方後円墳は神武以前の関西の豪族の墓神武東征は九州の倭国の豪族の東方植民。
UA-camのではキャラクターとしては良いですが、豊葦原の中津国が何故に滋賀なのかな?ニニギノミコトは稲作をもたらした神とされますが日本で最初に稲作が始まった遺跡は九州にあります。またニニギとされる人物が辿り着いた場所は笠沙の岬だと古事記に書かれています。稲作に不向きなこの土地を離れさまよい先住の神々とされる地域の長と縁を結び勢力を友好的に広げて神武東征は稲作が近畿に伝わる2百年間の天孫族の物語を天皇家の外戚である天武が我こそ正当な天皇であるとする為に、創作と史実とを入れ替え並べ替えした記紀を都合良く解釈するのは?ですね八咫烏?カラスが道案内😮神秘的な嘘がま狩り古代ならともかく現代では?ですね、天狗とされる山岳修行する山伏では?物語としては面白いですが、古事記、日本書紀は天武朝の正当性を世の中に示すためのもの、政権、権力が変わる時はこんな事当たり前ですね。昔も今も、物語は物語として、学識者の皆さんにお願いします、ホントの事を史書と史跡と伝わる伝承とを学者らしい緻密な分析を政治的意図に流されずに、近い将来に真実が語られる事を祈ります。長々と失礼🙇♀️
福岡県朝倉市付近と奈良県桜井市付近の似た地名を知りたいと思っています。平群(奈良県生駒郡)とか田原(奈良市)、笠置(京都府相楽郡)と奈良県桜井市は20-30kmくらい離れているので,福岡県の方もそれくらいのエリアで照合したということだと思っています。
こんこん(^○^)。ヒムカは、宮崎県の辺りだとは思っていましたが、ヒムカの高千穂に居を構えていたとはだとは思ってもいませんでした。
12:07 逆光で眩しくて矢が見えないってことなのかな。
ありがとうございます!
そんなにたんじゅんだったとはおもわないが、なにかがあったんだろうな。
考察が深くて面白かったです東進ではなく敗走なのは、私も十分可能性があると思っています真ん中の二人が倭国大乱で戦死、なるほど~👍語り方(テンション)がちょっと苦手でしたwもう少し普通で良いかと 笑
かの津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。
打ちてしやまんがこんなに古い言葉だったとは、目からウロコでした近代になって曲解されてしまひ、戦後に死語になってしまった言葉は他にもかなり有りさうな気がします残念ですかういふ経緯があって日本神話が学校教育から排除、低学年の国語の時間に因幡の白ウサギくらい出て来てもいいのにと思ひます私は児童書の古事記物語でなんとなく大きな枠組を知りました
元産業能率大学教授の安本美典さんをご存じでしょうか?この方は、推測統計学を使い記紀の天皇とイワレビコより前の世代の天照大神までの系譜がすべて正しいとしたらという前提で(記紀には、相違が多いが、系譜については完全に一致している)各天皇および神話時代の人々、天照大神までの活躍年代を推定されております。この推定によると、纏向遺跡は、垂仁天皇、景行天皇の都であったので、西暦400年ごろとなるようです。箸墓古墳は、崇神天皇の時代なので、西暦350年あたりになるようです。国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんが箸墓古墳の年代推定を推し進めている中心人物ですが、彼は、巻向邪馬台国論者なので、意図的に年代を古く持って行ってるとの反論も科学的視点から行っております。安本美典さんの著書は、たくさんありますので、一度お読みになると、参考になるかと思います。そのものズバリ「神武東征」という本もあります。
史実ということでは、出身地と、記紀両方に書いてある吉備で知己を得たこと、敵地についてから苦戦したものの内通者を得てなんとか領地を確保して王に収まったくらいかな〜と自分は思います。それ以外は記紀が書かれるまで大和政権成立後300年〜400年は口伝かメモでしょうから、時系列や年数はもちろんルートも怪しいかと。皇族の宮家ごとに伝承がかなり違ったのでは。でも旧家の家伝で「先祖は〇〇から来たらしい」というのは過去帳で本当だったりするので、初代が神武で出身は日向ではあると思います。「日向国」ではなくただの「日向」なので北九州か宮崎かは諸説ありますね。でもニニギが降臨したのも「筑紫の日向の国の襲の高千穂峰」ですし。出身は日向、でも当時は後進地域だから身を立てるために北九州へ出て第二の故郷が朝倉で、しかしうだつは上がらず一発当てるため旅(東征)に出たのが45歳ってとこかなと。45歳で出発して15年を無駄にするとかないですね。
今回も面白かったです。神武東征はなぁ。日本人らしく平定していったように思えます。最大の相手を滅ぼした訳じゃないんですよね。その役目はニギハヤヒにやってもらって、神武自身の徳を下げなかったように見えますなぁ。ニニギもそうですが、ニギって日本語だと「和(にぎ)」なんですよね。この「大和」の地は「にぎ」の国だったのでは?日本の神話からすると、血族というか結婚して「仲間」にしてそれからその中で力を発揮する。血が薄いと力があってもオオキミにはなれないような感じがいたします。欠史八代の時代までずっと奈良で地盤固め(政略結婚)をしてるんだから、実はそのときだと神武が即位したとは思ませんなぁ。たぶん結婚相手の大物主の血脈の方が、オオキミの血脈に見えるなぁ。まあ、西晋の司馬炎も、司馬懿→司馬師→司馬昭まで遡って皇帝にしてるんだから、崇神王朝あたりから遡って、神武が即位したように書いててもおかしくはないよなぁ。
「日向は福岡」説があげられていますが、南九州には神話に関連する場所が多数あります。やはり日向は宮崎かと。私は邪馬台国卑弥呼九州筑後日田説・大和王権宮崎から邪馬台国を避けるように東遷し、橿原で勢力拡大、のちに邪馬台国吸収合併説です。国名は大陸に知られた名前「邪馬台=ヤマト」を拝借し、のちに「ひのもと」と改称したのではないかと空想しています。
邪馬台国を大和政権が征服したなら、記紀に載ってるはず。自分は大和政権が征服する前に滅びた説。
あれ?動画では「神武のふたりの兄は出発前にすでに亡くなってる」と言ってるけど、彼らが亡くなったのって東征中の熊野で暴風雨に遭った時では…?
日本書紀ではそうなのですが、古事記では「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけで前後の脈絡が無いそうです。
高句麗の紋章が三本脚の烏サンジョゴ(三足烏)だけど、偶然かなぁ🤔
この時代は春秋年を採用してるようなので広島や岡山で過ごしてる期間は半分くらいかもしれませんねそれでも長いと感じる人も多いでしょうが
出発が45歳なんで半年とかかも〜
シニア主婦ですが、面白い!
日本の学校で記紀について教えなくなったのはGHQの命令ですよ、津田某が原因ではありません。それと記紀は明治期以降の国家神道になってから云々ではなく、江戸時代の国学者、本居宣長が「古事記傳」という注釈書を出していますので、それなりに広く認知されていたと思いますよ。当時は記紀や先代旧事本紀などは購入することもできましたので。
第二次大和朝廷の話
海が割れないように人も空からは降りてこられない。神武天皇が神なら、その末裔である今上天皇も神でなければならない。だから「古事記」は全て神話である。
神話に書かれている時代は、日本(倭というべきか)もギリシャのような都市国家があちこちにあったのでしょうか?魏志倭人伝の「百余国・・・」のように。
今日も すばらしく興味深いお話を有難うございました。楽しく視聴させて頂きました。纏向遺跡ですが1998年に行われた桃の種のC14年代測定に於いては4世紀となっているようです。4世紀(西暦300年代)でしたら邪馬台国の東征も考えられると思います。
ちなみに 壱与が朝貢した晋(魏)は 西暦280には呉を滅ぼし中国を統一しております。呉が滅んだ事で 邪馬台国も北九州でのバックアッパーの必要がなくなり、逆に晋のバックアップを受けて 馬を輸入し大和朝廷の礎を築いて行ったと思っております。
ヤフーで調べたら「纒向遺跡出土の桃の種 西暦135~230年のものと判明 奈良・桜井市 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135~230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。2018/05/14」ということでした。ytbupwestさんによれば「4世紀となっているようです」とのことですが、どこで調べられたんですか?
こちらになります。測定結果が4世紀以降のものは除外され、西暦135~230年とされているのでは?畿内に邪馬台国が無いと困る方もおられます。派閥争いのようなものですな。ua-cam.com/video/dA3e14517Ek/v-deo.html
教えていただいた、youtube1を拝見させてもらいました。以前も見たことのあるもので、石野博信先生と一緒に巻向を発掘調査された先生の公演でかなり長い時間のもので、じっくりもう一度見てみましたが、以前見たときと同じかなり違和感がある講演内容でした。 「巻向遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135~230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。」このことは、すでに確定している科学的結果ではないのですか?纒向遺跡あたりでは、後の時代にいくつもの宮が造影されていますからそれらの宮の時代に捨てられた物を調べると4世紀ぐらいの物も出てくると思いますが、、、、
遺跡の最下層からの出土ですので捨てた種とは考え難い。仮に西暦135~230年だったとしても東征の際敵対する先住民が住んでいたので その遺跡の可能性もあります。ちなみに 邪馬台国には海が有ったそうです。①女王國から東に1,000里(70Km)ほど海を渡ればまた倭種(対岸には別の同じ人種)の国がある。②海に潜って魚や貝をとっている。奈良盆地に海は無いので、卑弥呼がいた邪馬台国は九州説が有力と思っております。
阿蘇山の爆発による災害から逃れるために、北九州方面へ移動して、安住の地を求めて関西へ移って行ったのでは?
古代の人も、太陽に「黒点」があることを知っていました。黒点から「カラス」を連想し、太陽につかえる特別な存在と考えるようになった様です。「三本足」は、中国の神話に登場する様で、記紀には「三本」である」との記述はないのですが、後世の人が中国神話の「カラス」と重ねあわせた様です。特別なカラスであるには「2本」よりも「3本」の方がインパクトが大きいですからね。そのことで、さらに後世の人が「三本足」について、様々な意味を新たにつけを加えたので、各地に様々な意味づけがあるようです。「三本足」のカラスは、高句麗の古墳の壁画にも登場しますが、源流は全ては中国からの影響と言えます。
天皇の歳を今にかえたら紀元前40年頃になるんやけどね
国譲りの記述では、九州や宮崎のあたりのことは出てきません。それなのに天孫降臨で日向とか九州の話になるのか、なにか不思議です。宮崎(特に宮崎市とか日向)は少なくとも現在は気候が温暖で、県民性はとても穏やかで闘って土地を広げるような人たちとは考えられません。おそらく北九州の日向のほうが当たっているのでしょう。
想像がずれてるな、卑弥呼より前やて、一緒にしたがる、逃げてきたわあってるかもやね、
「退却」を「転進」とも言いますね。
神武東征の暦年設定は古代史新チャンネルさんが参考になります。ua-cam.com/video/bLs_EcjohYY/v-deo.html
トイレの覗き魔だったのかもしれません😂
オオモノヌシやばい奴すぎるww
鏡や武器を墓に埋めるという文化は九州から来た文化だよね
記紀、そのまんま。
現在ここの歴史が最も正しいと思う。70歳でだから情けないよね。
高千穂のほうにはものすごく古い神社があり、そこには天照大御神を祀っている。
ニニギが降りたのも日向の国の襲の高千穂峰ですしね。
何という国名をつけたのか?
神武天皇が即位されたのは紀元前60年です。
現地豪族の姫と結婚して血縁関係になりまくって、その勢力を吸収していった事を伝えてるのかなぁ
年代に、関しては、嘘と観て良いと思うね!史実を探すのは、砂金採掘のようなものでしょうね!!しかし、少しは金は、含んで居ますし、文字で掘るには、其辺しか無いし😅
熊野の、山中を案内したのが、鴨氏で、後に、その功績で、京都の、鴨神社の、宮司となったとの説がありました。ただ、偉大な、神武天皇の道案内が、鴨では、格好がつかないので、時代のどこかで、八咫烏に代えてしまった、と言う事の様です。
私の 母校佐伯鶴城の校歌の一部 大入島にその昔神武の帝東征の御船繋がせ給えりし 巨巌聳えて 今も尚
神武東征?東遷?は史実じゃ無かったけれども、大和が日ノ下という話しは本当らしい!?日のモトのクサカと云うけれども、日の神さまの日の下の日本と云う国号の処は本当に見たけれども!?自分等の王制の先祖が王統の大和の天皇系の和面土地国のヤマト国の男系の直系であることが言われていてその皇室みたいな王統の血統の家が在って、現代の日本の天皇系の子孫の先祖に成っているのだと思うが!?和面土地国の日本の島国の宗主国の王統の血統の皇室みたいなモノが在ってそこから天皇家が出ているみたいな!?卑弥呼も天皇家の皇室の中の一人のお姉さんであってその後継の台与も天皇家の出張所みたいな和面土地国の王統が在って日の下に対して戦っているナガスネヒコみたいな戦闘が在って東の雲出川辺りから太陽を背中にして西に向かったものと思われるのであるが。東の日の下に対して戦っている状態は視たが。ナガスネヒコみたいに戦う武人で戦う戦闘が在ってウチの巧言が在って大和(ヤマト)国と云えばよいと云うような!?ウチの発想も在ったのだが、ウチの発想も在ったのだが。それ位です、その位ですが。イスケヨリ姫が大和の女が美しいからだとか云うニヤニヤしていたこともあるが!?饒速日が天輝国照の神だったと云う神話も在るが。俺が王に成りたいかがは旧約聖書の士師記のギデオンみたいに対応するが。伝統的な武人の王制で善いと云うような。朝倉甘木説でも在るが。邪馬台国のヤマトへの大和(ダイワ)への東遷都?と云い方もある。
出身地のヒント【ッミミ】
邪馬台国は大和とは関係なし、神武天皇は天皇世代を詳しく調べると紀元前90年になります、中国の文書にも東せんの事書かれますよ、
日本人?
騎馬民族征服王朝説、なんてありますよね。
神武天皇とは何者ですか?何処に居たのですか?
神武,發音,似徐福
天孫降臨の歴史とは、天皇一族の祖先は外国人ではないか。もしかして徐福の末裔か。モンゴルの王、(ローマの王)はオオカミを祖先という歴史を唱えているがこれは原住民の英雄を祖先と敬うからでしょう。
そもそも福岡に住んでる人がなぜヤマトの地を目指したのだろう。岡山の王朝を倒せばいいのに。ヤマトいる王朝が岡山より弱かったのかな
セピアさんのファンです。歴史好きで司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいます。話し方はやや軽いのですがそれとは裏腹に内容は正確、詳細、簡潔で分かりやすく量的、質的にきわめてハイレベルとの印象です。どうやって知識を吸収されているのでしょうか?感心してしまいます。すごい知識,量ですね。歴史好きの興味のある部分を、坪をヒットされているのにも感心します。これからも鋭意、我々を楽しませてください。
日本の神話が、ざっくりテンポ良くわかりやすい、ブラボー神解説。
面白いし、勉強になりました。セピアさんの語り口が素晴らしいですね。講談?漫談?のようで時間が経つのを忘れます。👏
何日か前、この番組を知り…今、夢中になつてます。面白い!テンポ、語りのうまさ!最高!
今回も楽しく見せて頂きました♪
これからわかってくる事もあるでしょうね
次回も楽しみに待っています。
素晴らしい解説です!コンパクトに、分かり易く、面白くまとめて頂きました。他の動画も見ますね、ありがとうございました‼️
中国や日本の古代の歴史若いのに良く勉強してありますね、素晴らしいです、ありがとうございました。
なるほど!
セピアさんの講義を聞いて、天皇が何たるか分かったような気がします。
凄く、説得力あります!
津田さんの説は真偽はわからないが、この時代に作り話と言いきった勇気は凄い。
今の時代でも天皇を非難するのはタブーに近いのに。
橿原付近で、2m もある剣が出土したので、また面白いことになりました。あと、ナガスネヒコを祀った神社もあるとかも聞いたような気がします。
確かに物語も半分あるけど、半分は本当だと思うので、学校で教えて欲しい。
投稿ありがとうございます。第一声からすごくインパクトがありますね笑
津田左右吉氏の文章は、読んでみると、ほとんど論拠を示さない津田氏の思い込みの冗長な文章で科学的な証明からはかなり遠いもののように感じます。
敗戦後、GHQの日本統治の方針に合っていたので持ち上げられたのではないかと思います。
配信ありがとうございます。
中国の三国志の時代と倭国大乱の時代は
同時代ですね。ヒッタイトに始まった鉄器文明が極東に来るまでに2百年かかったと
理解しています。加治将一「舞い降りた天皇」の下巻に二大勢力のルーツ図が
書かれていますが,その辺の解説をお願い致します。
原因結果論法がいちばん分かりやすいです。
古文書よりも科学的推論の方が理解しやすいです。
うぽつです
物語だけを見ると、敵を討ったのが主人公ではなくぽっと出の新キャラということで肩透かしを食らったような気分になりますが、その物語が実際にはどのようであったのかまで考えるととっても面白いですね
教科書の歴史でもなく、都市伝説的でもない歴史。
楽しかったです^ ^
お初です。テンション高いので眠くならずに授業受けれていいです。次の授業楽しみにしています。
今回きいてて思ったのが、卑弥呼の前にいた男王って神武天皇ではないでしょうか。
権力とられての逃征であれば、記紀に邪馬台国のらないのもうなづけます。
素人考えの妄
腑に落ちるお話ありがとうございます。
ごく最近になって見始めました。大変面白く見させてただいています。神武東征については大まかなことは知っていましたが、遠征が貫徹していないのに即位したとの指摘にはハッとさせられました。恐らく何らかの史実が反映しているのではないかと思われます。これは日本史の特徴だと思うのですが、日本は専制や嫌われ、代わりに寡頭政治(=少数のボスたちによる政治)が行われます。ボスたちの一種の勢力均衡の下に、よく言えば「話し合い」、悪く言えば「談合」政治が行われます。おそらく、神武天皇も、始皇帝のように政敵のすべてを打倒して即位したのではなく、ボスたちによる「共立」によって即位したのではないかと思うのです。纏向遺跡は、大和政権が他を力で支配していったと言うより、「共立」があったことを示しているように思われます。専制国家でない国で首都が作られる場合、特定の地域が特権的地位を得ることがないように、なるべくどの地域からも等距離の所に新た首都を建設することが行われることが多々あります。例えばアメリカの州のほとんどの州都は州境から等距離にある地域に新たに建設されました。例えばニューヨーク州の最大の都市はニューヨーク市ですが、州都は「オーバニー」と言う内地の田舎都市です。ブラジルやオーストラリアも同様です。纏向は、元々の大和政権の所在地だったと言うより、共立されて成立した新たな政権としての大和政権の所在地として新たに建設されたのではないでしょうか?
神武東征が福岡あたりから避難のために東遷した可能性は高いとのお話は納得です(毛沢東の”大西征”も実態は国民党との内戦に敗れての逃走でした)。私は、神武一族は邪馬台国の傘下にあった弱小勢力だったかもしれないと思っています。イングランドのピューリタンが迫害を逃れてアメリカに渡りやがてアメリカの主流になったのとよく似たっことが日本でも起きたのではないかと考えています。注目すべきは、邪馬台国では人々が文身だったのが大和朝廷では文身が行われなかったことです。
奈良県桜井市にはあさくらと言う駅がありますよ。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮のあった場所ですね!
福岡県糸島市(魏志倭人伝の伊都国)に平原遺跡があります。一つのお墓(女王墓)から40面ほどの鏡が出土しており、そのうちの大鏡5面が国宝となっております。そのお墓のちょうど足を向けた先に「日向峠」があります。そこが天孫降臨の地ではないかとも話を聞いたことあります。
事実に基づいたお話が好きなので神話はあまりにも「日本むかし話」みたいで現実離れしてて興味がなく全然知らなかったのですが、セピアさんの楽しいお話のお陰で知られてよかったな〜と思いました。自分1人なら食わず嫌いで一生知らなかったです🤣
講師本人がとても楽しそうです。
分かりやすくて楽しみにしてます
邪馬台国九州説派です 九州人だからです 吉野ヶ里も壮大でした
宇佐神宮の話を見て興味を持ち見始めました。今回の神武東征の話、特に日向は宮崎ではなく福岡というのを出雲口伝と合わせて読み解くと、かなりつじつまが合ってくるのではないかと感じました。是非考察をお願いしたいです。
関裕二という作家が書いた「物部氏の正体」という本で、神武天皇1行はニギハヤヒから祭祀を受け継ぐコトを条件としてヤマトの支配を譲り渡されたと書いてあった❗❗🫡🥰🤗😁👍
先生の話を聞いていると だんだんと 宝の地図のあり ありかのように聞こえてきました 錯覚でしょうか 欲深い 私ですね
オオモノヌシがセヤダタラヒメに結婚を迫る場面の『赤い矢』とは男性器そのもの?
興味深く拝聴しました。だいたいの内容は私も他のユーチューブや本等で知っていました。
私が今一番知りたいことは神武天皇、祖先の海幸山幸や父親時代の王朝?を含めて彼等は何処から来たのか?卑弥呼は天照大神と同一と言われるが何故日本書紀等に卑弥呼が堂々と記述されないのか?等々色々知りたいのですが、その前に私の考えを簡単に記します。
すでに知っておられると思いますが、学研から出ているジョー・マクモニーグルの透視が前提ですが、彼の透視ではヤマト民族が雲南辺りから九州に辿り着いたようです。私が興味を持ったのは、北九州、出雲、四国、奈良大和の鳥見山辺りに進出して卑弥呼は山口県で生まれ、出雲は卑弥呼の大伯父とか、卑弥呼の夏と冬の居城、山口県安徳天皇陵が卑弥呼の墓等色々の驚きや信憑性を感じますが、私はこの時代を弥生時代前期のまだ縄文人が多くを占める頃で、素戔嗚尊や大国主大神、三輪山の大物主神にしても日本各地に神社があって、彼等は縄文人だと思いますが、出雲の神有月と他の神無月の語が残るようにそれなりの緩やかな国家体制があったのではないでしょうか。卑弥呼、豊余はその晩期で神武天皇はもっと遅れて大和を征服したのでは?と思います。卑弥呼のことはすでに記憶が失われていたか滅ぼした相手だから記載しなかった?と思います。そして神武天皇側の民族は朝鮮半島渡来の鉄器使用、いわゆる弥生人だと思います。何故日向から出発したのか?、神武族はすでに勢力を築いていたヤマト民族の北九州を避けて回り道をして日向に住み着いて力を蓄え、東征に向かったのではと推測します。岡田宮に立ち寄ったのはそこで和睦したか脅したか私にはよくわからないですがなんとか抑えて少しずつ進軍したのではと思います。
マクモニーグルの透視を前提して以上ですが、こうした見かたは無理でしょうか?日向にいて何故天照大神神話が造られたのか?伊邪那岐が禊ぎした場所や朝日のただ指す国は北九州にもあり、どちらかと言えば北九州の方が正しいと思います。縄文と弥生、青銅と鉄を分けた民族が卑弥呼と神武天皇ではと思いますが私にはなんとも考えが及びません。次回、ユーチューブで解説していただければと思います。
神武東征:大阪の戦いの地へ、船を進められる時代限界...縄文海進から観ると、時代が下っても紀元前50年くらいが妥当との説ありますね。
ただ大阪では、戦前戦後の大阪習俗も学び...戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われた湿地帯。民は、丘を除いて小舟で移動していたと...私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2~3m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。
つまり、神武東征は、卑弥呼・台与の邪馬台国時代の後、3~4世紀の頃の話もありかと?
阿岐国の多祁理7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
ここに安住しよとしたけど上手くいかず橿原へ行ったのでは?
本当に東征なら阿岐も吉備支配してるはず。
45歳で出発して途中15年を無駄に過ごした後で60歳で大和に向かうのは無いっすね。
出発前の時点で三人の兄を差しおいて立太子されてたのに全て捨てて東征、三人の兄は途中で都合よく死ぬ・・・全部ウソですね。
宮崎の田舎者が先進国の北九州に出たけど成功せず、負け組が一発当てるのを狙って出た旅。
当時も瀬戸内交易は盛んだったそうなので東にも国があるのは分かってた。
吉備で領主に気に入られて兵力を借りて大和奪取・・・みたいな感じでは?
力が逆転するまでは吉備の属国だったかもね。
面白い🤣🤣
うぽつです!
最初笑いましたw
素晴らしい解説ありがとうございます。
私は橿原出身です。江戸時代実家の土地が神武天皇陵となり、曾祖父は御陵長を務めました。
時が経ち、菅義偉前総理の秘書を務め、安倍晋三元総理が橿原で逝去されました。運命を感じざるを得ません。神武天皇は実在します。
次は、コオロギ給食! 間違えるとガンやコロと同様 サツされますよ。
今年1月2日に富雄のナガスネヒコの根拠地にUA-camの取材に行った。
そしたら、偶然にも神様が生駒の富雄丸山古墳から「国宝級の盾形の鏡、最大のダ龍鏡の刀」が発掘されました。それで、17数年ほど前から竹取翁博物館の会員らで調べていた「神武東征」とつながり、物部の根拠地が山代と富雄(生駒)周辺に存在していたことが判明した。ゆえに、神武東征の本を作るべきストーリーがほぼ決定した。現在年内に作り上げるべきために、パソコン5台を調整して徹夜体制で、書き上げることになりました。
古事記の大ファンの僕がいちコメ
しかし古事記はここからも爆笑が続く🤣🤣🤣
いち返し👍
こんなギャグみたいな展開が多々ある神話
「今日も日本は平和です」を地で行く世界観、なんて素敵なんだろう。
@@zero-reki
こんばんはいつも楽しみに見てます😄
日本武尊の話とかもめちゃくちゃ面白いので楽しみに待ってます(p`・ω・´q)
実家の鴨居に頭ぶつけてたらおじいちゃんから「ナガスネヒコか」と言われました。やっと意味わかった
安彦良和「ナムジ」(とその続編)がオモシロイ。
セピアさんの説明非常に理解しやすいです。理にかなっている説明非常に素晴らしい。特に耶馬台国の場所の説明、非常に理にかなっており間違いない。他の学者及び研究者もセピアさんの説明をきかれては。納得しますよ。
セピアさんが紹介していたあおきてつおさんの本読みました。邪馬台国と大和政権がどう繋がるか?古代史最大の謎に なるほど!と思わせる解釈でした。中国の史料の空白である266年から413年の間については今後も様々な議論が見たいですね。神話の中にこそ隠された真実があるというのも納得です。単に荒唐無稽だからと言って全てを無視しては歴史を紐解けませんね。
謎解きが面白い話。男たちの戦い、結婚によっての新たな力が宿る話。神の使いの力。
我が国の神話時代に焦点を当てた動画、大変楽しんで拝聴しました。
私は常々、日本だけでなく、世界中の神話には、建国の正当性をアピールするために脚色されているものの、必ずその元となる史実があると考えています。
津田左右吉が当時の皇国史観に一石を投じたことには目を見張りますが、その後、神話時代は創作だとして、歴史学から外したことについては、学者として思考停止したもので、残念に感じています。
昨今、素戔嗚尊の八岐大蛇退治と草薙の剣についても、当時の斐伊川周辺の製鉄と関連付けられて、史実としてある程度現実的なものであると考えられるようになったこともあり、我が国の歴史学者には、もっとロマンをもって、神話時代に切り込んでいっていただきたいと思います。
神武東征めっちゃ興味あります。
八咫烏。もしかしたらこの存在が鍵を握っているかもですよ。だって八咫烏だけは深掘りされてないですもん。
一説には八咫烏と象徴される「人」ではなかったのかというのもあります。勿論高天原からの使いで。道案内と称して東征がスムーズに行くようお膳立てしてたかもですよ。じゃあこの辺で!って言い残してニギハヤヒに姿を変えて橿原辺りを先にまとめてはいどうぞ!ってなったかも🤔
いや妄想楽しーー😆
当時も東西の瀬戸内交易は盛んだったそうだから、商人だったかも。
津田史学の方が現代では非科学的な分析解釈だということになっているから面白い
九州から四国、四国から和歌山、和歌山から奈良という順番で徐々に移住していったみたいな話を昔NHKでやってたのは見た。
合理的に考えれば、出雲を落とした勢力が日本海経由で巻向までに至ったのかも。
大物主は出雲の神で新潟辺りまで勢力があり、その娘らと結婚するのは理にかなってるかと。
この頃の1年、グレゴリオ暦でも和暦の1年ではなのでは。年2回収穫のあったコメの収穫周期を1年としたとの説もある。
早い話
九州の一豪族か王族イワレビコが東に逃れて来て
ニギハヤヒ家に婿入りした後に神武と呼ばれる人物になった。って事ですね。
三輪山のおおものぬしは、出雲の大国主の異名といわれているから国譲り神話と関係があるかもしれないですね。
伝承を馬鹿にすべからず。
大地震前に一回海水が引いて行くことはある。
桜井市に朝倉と言う地名がズバリあります。
わりとまともな推理力で安心しました。
神武のヤマト到着は西暦285年から300年ごろとみれば後の歴史はつながると思います。
筑紫の日向は福岡県の伊都国の東側、日向峠付近で神武東征は5世紀頃、前方後円墳は神武以前の関西の豪族の墓
神武東征は九州の倭国の豪族の東方植民。
UA-camのではキャラクターとしては良いですが、豊葦原の中津国が何故に滋賀なのかな?ニニギノミコトは稲作をもたらした神とされますが日本で最初に稲作が始まった遺跡は九州にあります。またニニギとされる人物が辿り着いた場所は笠沙の岬だと古事記に書かれています。稲作に不向きなこの土地を離れさまよい先住の神々とされる地域の長と縁を結び勢力を友好的に広げて神武東征は稲作が近畿に伝わる2百年間の天孫族の物語を天皇家の外戚である天武が我こそ正当な天皇であるとする為に、創作と史実とを入れ替え並べ替えした記紀を都合良く解釈するのは?ですね八咫烏?カラスが道案内😮神秘的な嘘がま狩り古代ならともかく現代では?ですね、天狗とされる山岳修行する山伏では?物語としては面白いですが、古事記、日本書紀は天武朝の正当性を世の中に示すためのもの、政権、権力が変わる時はこんな事当たり前ですね。昔も今も、物語は物語として、学識者の皆さんにお願いします、ホントの事を史書と史跡と伝わる伝承とを学者らしい緻密な分析を政治的意図に流されずに、近い将来に真実が語られる事を祈ります。長々と失礼🙇♀️
福岡県朝倉市付近と奈良県桜井市付近の似た地名を知りたいと思っています。
平群(奈良県生駒郡)とか田原(奈良市)、笠置(京都府相楽郡)と奈良県桜井市は20-30kmくらい離れているので,
福岡県の方もそれくらいのエリアで照合したということだと思っています。
こんこん(^○^)。ヒムカは、宮崎県の辺りだとは思っていましたが、ヒムカの高千穂に居を構えていたとはだとは思ってもいませんでした。
12:07 逆光で眩しくて矢が見えないってことなのかな。
ありがとうございます!
ありがとうございます!
そんなにたんじゅんだったとはおもわないが、なにかがあったんだろうな。
考察が深くて面白かったです
東進ではなく敗走なのは、私も十分可能性があると思っています
真ん中の二人が倭国大乱で戦死、なるほど~👍
語り方(テンション)がちょっと苦手でしたwもう少し普通で良いかと 笑
かの津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。
しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。
以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。
打ちてしやまんがこんなに古い言葉だったとは、目からウロコでした
近代になって曲解されてしまひ、戦後に死語になってしまった言葉は他にもかなり有りさうな気がします
残念です
かういふ経緯があって日本神話が学校教育から排除、
低学年の国語の時間に因幡の白ウサギくらい出て来てもいいのにと思ひます
私は児童書の古事記物語でなんとなく大きな枠組を知りました
元産業能率大学教授の安本美典さんをご存じでしょうか?この方は、推測統計学を使い
記紀の天皇とイワレビコより前の世代の天照大神までの系譜がすべて正しいとしたらという前提で(記紀には、相違が多いが、系譜については完全に一致している)各天皇および神話時代の人々、天照大神までの活躍年代を推定されております。
この推定によると、纏向遺跡は、垂仁天皇、景行天皇の都であったので、西暦400年ごろとなるようです。箸墓古墳は、崇神天皇の時代なので、西暦350年あたりになるようです。
国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんが箸墓古墳の年代推定を推し進めている中心人物ですが、彼は、巻向邪馬台国論者なので、意図的に年代を古く持って行ってるとの反論も科学的視点から行っております。
安本美典さんの著書は、たくさんありますので、一度お読みになると、参考になるかと思います。そのものズバリ「神武東征」という本もあります。
史実ということでは、出身地と、記紀両方に書いてある吉備で知己を得たこと、敵地についてから苦戦したものの内通者を得てなんとか領地を確保して王に収まったくらいかな〜と自分は思います。
それ以外は記紀が書かれるまで大和政権成立後300年〜400年は口伝かメモでしょうから、時系列や年数はもちろんルートも怪しいかと。
皇族の宮家ごとに伝承がかなり違ったのでは。
でも旧家の家伝で「先祖は〇〇から来たらしい」というのは過去帳で本当だったりするので、初代が神武で出身は日向ではあると思います。
「日向国」ではなくただの「日向」なので北九州か宮崎かは諸説ありますね。
でもニニギが降臨したのも「筑紫の日向の国の襲の高千穂峰」ですし。
出身は日向、でも当時は後進地域だから身を立てるために北九州へ出て第二の故郷が朝倉で、しかしうだつは上がらず一発当てるため旅(東征)に出たのが45歳ってとこかなと。
45歳で出発して15年を無駄にするとかないですね。
今回も面白かったです。
神武東征はなぁ。日本人らしく平定していったように思えます。最大の相手を滅ぼした訳じゃないんですよね。
その役目はニギハヤヒにやってもらって、神武自身の徳を下げなかったように見えますなぁ。
ニニギもそうですが、ニギって日本語だと「和(にぎ)」なんですよね。この「大和」の地は「にぎ」の国だったのでは?
日本の神話からすると、血族というか結婚して「仲間」にしてそれからその中で力を発揮する。血が薄いと力があってもオオキミにはなれないような感じがいたします。欠史八代の時代までずっと奈良で地盤固め(政略結婚)をしてるんだから、実はそのときだと神武が即位したとは思ませんなぁ。たぶん結婚相手の大物主の血脈の方が、オオキミの血脈に見えるなぁ。
まあ、西晋の司馬炎も、司馬懿→司馬師→司馬昭まで遡って皇帝にしてるんだから、崇神王朝あたりから遡って、神武が即位したように書いててもおかしくはないよなぁ。
「日向は福岡」説があげられていますが、南九州には神話に関連する場所が多数あります。やはり日向は宮崎かと。私は邪馬台国卑弥呼九州筑後日田説・大和王権宮崎から邪馬台国を避けるように東遷し、橿原で勢力拡大、のちに邪馬台国吸収合併説です。国名は大陸に知られた名前「邪馬台=ヤマト」を拝借し、のちに「ひのもと」と改称したのではないかと空想しています。
邪馬台国を大和政権が征服したなら、記紀に載ってるはず。
自分は大和政権が征服する前に滅びた説。
あれ?動画では「神武のふたりの兄は出発前にすでに亡くなってる」と言ってるけど、
彼らが亡くなったのって東征中の熊野で暴風雨に遭った時では…?
日本書紀ではそうなのですが、古事記では「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけで前後の脈絡が無いそうです。
高句麗の紋章が三本脚の烏サンジョゴ(三足烏)だけど、偶然かなぁ🤔
この時代は春秋年を採用してるようなので広島や岡山で過ごしてる期間は半分くらいかもしれませんね
それでも長いと感じる人も多いでしょうが
出発が45歳なんで半年とかかも〜
シニア主婦ですが、面白い!
日本の学校で記紀について教えなくなったのはGHQの命令ですよ、津田某が原因ではありません。
それと記紀は明治期以降の国家神道になってから云々ではなく、江戸時代の国学者、本居宣長が「古事記傳」という注釈書を出していますので、それなりに広く認知されていたと思いますよ。当時は記紀や先代旧事本紀などは購入することもできましたので。
第二次大和朝廷の話
海が割れないように人も空からは降りてこられない。神武天皇が神なら、その末裔である今上天皇も神でなければならない。だから「古事記」は全て神話である。
神話に書かれている時代は、日本(倭というべきか)もギリシャのような都市国家があちこちにあったのでしょうか?
魏志倭人伝の「百余国・・・」のように。
今日も すばらしく興味深いお話を有難うございました。楽しく視聴させて頂きました。
纏向遺跡ですが1998年に行われた桃の種のC14年代測定に於いては4世紀となっているようです。
4世紀(西暦300年代)でしたら邪馬台国の東征も考えられると思います。
ちなみに 壱与が朝貢した晋(魏)は 西暦280には呉を滅ぼし中国を統一しております。呉が滅んだ事で 邪馬台国も北九州でのバックアッパーの必要がなくなり、逆に晋のバックアップを受けて 馬を輸入し大和朝廷の礎を築いて行ったと思っております。
ヤフーで調べたら「纒向遺跡出土の桃の種 西暦135~230年のものと判明 奈良・桜井市 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135~230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。2018/05/14」ということでした。ytbupwestさんによれば「4世紀となっているようです」とのことですが、どこで調べられたんですか?
こちらになります。測定結果が4世紀以降のものは除外され、西暦135~230年とされているのでは?
畿内に邪馬台国が無いと困る方もおられます。派閥争いのようなものですな。
ua-cam.com/video/dA3e14517Ek/v-deo.html
教えていただいた、youtube1を拝見させてもらいました。以前も見たことのあるもので、石野博信先生と一緒に巻向を発掘調査された先生の公演でかなり長い時間のもので、じっくりもう一度見てみましたが、
以前見たときと同じかなり違和感がある講演内容でした。
「巻向遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135~230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。」このことは、すでに確定している科学的結果ではないのですか?
纒向遺跡あたりでは、後の時代にいくつもの宮が造影されていますからそれらの宮の時代に捨てられた物を調べると4世紀ぐらいの物も出てくると思いますが、、、、
遺跡の最下層からの出土ですので捨てた種とは考え難い。
仮に西暦135~230年だったとしても東征の際敵対する先住民が住んでいたので その遺跡の可能性もあります。
ちなみに 邪馬台国には海が有ったそうです。
①女王國から東に1,000里(70Km)ほど海を渡ればまた倭種(対岸には別の同じ人種)の国がある。
②海に潜って魚や貝をとっている。
奈良盆地に海は無いので、卑弥呼がいた邪馬台国は九州説が有力と思っております。
阿蘇山の爆発による災害から逃れるために、北九州方面へ移動して、安住の地を求めて関西へ移って行ったのでは?
古代の人も、太陽に「黒点」があることを知っていました。黒点から「カラス」を連想し、太陽につかえる特別な存在と考えるようになった様です。「三本足」は、中国の神話に登場する様で、記紀には「三本」である」との記述はないのですが、後世の人が中国神話の「カラス」と重ねあわせた様です。特別なカラスであるには「2本」よりも「3本」の方がインパクトが大きいですからね。
そのことで、さらに後世の人が「三本足」について、様々な意味を新たにつけを加えたので、各地に様々な意味づけがあるようです。「三本足」のカラスは、高句麗の古墳の壁画にも登場しますが、源流は全ては中国からの影響と言えます。
天皇の歳を今にかえたら紀元前40年頃になるんやけどね
国譲りの記述では、九州や宮崎のあたりのことは出てきません。それなのに天孫降臨で日向とか九州の話になるのか、なにか不思議です。宮崎(特に宮崎市とか日向)は少なくとも現在は気候が温暖で、県民性はとても穏やかで闘って土地を広げるような人たちとは考えられません。おそらく北九州の日向のほうが当たっているのでしょう。
想像がずれてるな、卑弥呼より前やて、一緒にしたがる、逃げてきたわあってるかもやね、
「退却」を「転進」とも言いますね。
神武東征の暦年設定は古代史新チャンネルさんが参考になります。ua-cam.com/video/bLs_EcjohYY/v-deo.html
トイレの覗き魔だったのかもしれません😂
オオモノヌシやばい奴すぎるww
鏡や武器を墓に埋めるという文化は九州から来た文化だよね
記紀、そのまんま。
現在ここの歴史が最も正しいと思う。70歳でだから情けないよね。
高千穂のほうにはものすごく古い神社があり、そこには天照大御神を祀っている。
ニニギが降りたのも日向の国の襲の高千穂峰ですしね。
何という国名をつけたのか?
神武天皇が即位されたのは紀元前60年です。
現地豪族の姫と結婚して血縁関係になりまくって、その勢力を吸収していった事を伝えてるのかなぁ
年代に、関しては、嘘と観て良いと思うね!
史実を探すのは、砂金採掘のようなものでしょうね!!
しかし、少しは金は、含んで居ますし、文字で掘るには、其辺しか無いし😅
熊野の、山中を案内したのが、鴨氏で、後に、その功績で、京都の、鴨神社の、宮司となったとの説がありました。ただ、偉大な、神武天皇の道案内が、鴨では、格好がつかないので、時代のどこかで、八咫烏に代えてしまった、と言う事の様です。
私の 母校佐伯鶴城の校歌の一部 大入島にその昔神武の帝東征の御船繋がせ給えりし 巨巌聳えて 今も尚
神武東征?東遷?は史実じゃ無かったけれども、大和が日ノ下という話しは本当らしい!?日のモトのクサカと云うけれども、日の神さまの日の下の日本と云う国号の処は本当に見たけれども!?自分等の王制の先祖が王統の大和の天皇系の和面土地国のヤマト国の男系の直系であることが言われていてその皇室みたいな王統の血統の家が在って、現代の日本の天皇系の子孫の先祖に成っているのだと思うが!?和面土地国の日本の島国の宗主国の王統の血統の皇室みたいなモノが在ってそこから天皇家が出ているみたいな!?卑弥呼も天皇家の皇室の中の一人のお姉さんであってその後継の台与も天皇家の出張所みたいな和面土地国の王統が在って日の下に対して戦っているナガスネヒコみたいな戦闘が在って東の雲出川辺りから太陽を背中にして西に向かったものと思われるのであるが。東の日の下に対して戦っている状態は視たが。ナガスネヒコみたいに戦う武人で戦う戦闘が在ってウチの巧言が在って大和(ヤマト)国と云えばよいと云うような!?ウチの発想も在ったのだが、ウチの発想も在ったのだが。それ位です、その位ですが。イスケヨリ姫が大和の女が美しいからだとか云うニヤニヤしていたこともあるが!?饒速日が天輝国照の神だったと云う神話も在るが。俺が王に成りたいかがは旧約聖書の士師記のギデオンみたいに対応するが。伝統的な武人の王制で善いと云うような。朝倉甘木説でも在るが。邪馬台国のヤマトへの大和(ダイワ)への東遷都?と云い方もある。
出身地のヒント【ッミミ】
邪馬台国は大和とは関係なし、神武天皇は天皇世代を詳しく調べると紀元前90年になります、中国の文書にも東せんの事書かれますよ、
日本人?
騎馬民族征服王朝説、なんてありますよね。
神武天皇とは何者ですか?何処に居たのですか?
神武,發音,似徐福
天孫降臨の歴史とは、天皇一族の祖先は外国人ではないか。
もしかして徐福の末裔か。
モンゴルの王、(ローマの王)はオオカミを祖先という歴史を唱えているがこれは原住民の英雄を祖先と敬うからでしょう。
そもそも福岡に住んでる人がなぜヤマトの地を目指したのだろう。岡山の王朝を倒せばいいのに。ヤマトいる王朝が岡山より弱かったのかな