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浜崎さんの不思議なテンション。だんだんと癖になります。先生の「行ったことありますか?」と言う質問も、いつの間にか「ありません」の答えを期待してしまいます。
相変わらず先生のお話がおもしろい。紫の浜崎さんも素敵です。
浜崎さん、乙女の顔になってる〜❗️🤣
今回もとても衝撃的(大絶賛!)で、感動が止まりません。「徳川実記」を丁寧に読み込んで、再検証や名古屋近海の地図は、本当にショッキングです。やっぱり先生の日頃から、こつこつと原文を読み込み、現場に足を運んで、地勢に詳しい市橋先生ならではですね。次回もとっても楽しみです。
ありがとうございます。励みになります。これからもよろしくお願いします。
市橋先生 偉人 素顔の履歴書 に出演されてましたね❤私は市橋先生が大好きなので他の番組で先生が家康のことを話してくださるのをみて とても嬉しかったです。普段と変わらず笑顔もあり素敵でした🎉
ありがとうございます。21日の同番組にも出させていただきます。何をお話したのかあまり覚えていないんですけど(笑)。またよろしくお願いします。
@@市橋章男 返信ありがとうございます😊とても嬉しいです。21日も勉強させて頂きます。
今年も宜しくお願い致します🙆🤗1回目も泣いて2回目なんて号泣してました😭😭1年間見続けますね、宜しくお願い致します🙇🙇🙏🙏👏👏👍👍💐💐💐💐💐
市橋先生、お疲れ様です‼️新説の桶狭間の合戦超楽しみにしていますよ‼️それと、森繁久彌と言えば歌が名曲が有りますよ、知床旅情‼️
大河も始まりますね。桶狭間の戦いは昭和末からどんどん新説が出て新鮮味が有りますね。市橋先生今年も解説お願い🙏します。
いやー、赤も似合うが青紫もいいね。先生とツッコミの女生徒みたいで面白い。大高がそんなに大事な城だったなんて目から鱗。
市橋先生の解説が一番正確で、かつ楽しいです。ちょっと考えたら、神君家康が狸親父とは呼ばれませんよね。他の人に自慢しよう。先生とゆり姫の岡崎愛も感じられます。これからも楽しみにしてます。
46ですが森繁久彌さん知ってますよ😮
今年もよろしくお願いします。年末に、偉人素顔の履歴書。。。。の加来先生のシリーズにも、市橋先生の更なる解説が ありましたね。興味深く面白かったです。いつか、二人の本当の史実は どうか。 などについて会談してくれることを 期待します。
22:59 頃:南北朝時代か城としての存在価値を有していたと考えられる、、、伊勢湾の重要性と水軍、、、との紹介、ありがとうございます。南北朝時代から大高の水軍は、「下村水軍」であり、現在も「下村水軍」の強い!結束・絆を象徴する「下村講」での「大牡丹餅」が有名で、、、今も大高の主力は「下村水軍」約50家で構成する下村一族です。【関係資料】歴史探偵「戦略家 今川義元」2023.01.04日> 桶狭間の戦いの義元の真の狙いとは!? 熊野水軍に伊勢湾の季節風。> 新説:「桶狭間の戦い」義元のねらいは水軍を使った織田攻略だった!?【根拠】熊野水軍ゆかりの鵜殿氏を、大高城の城代に任命したから!と緑区役所 HomePage|緑区の名所・史跡の紹介|大高周辺のみどころ一覧4■ 下村の神明社通称大浜街道東100メートルほどの丘陵地で丸根砦のすぐ北のところに南向きで石灯籠4基が立っている。延元年間 (1336年から1340年)に伊勢志摩より来た下村九郎兵衛が勧請。祭神は国常立尊で下村神明社とも言い下村氏の氏神とされている。【名古屋神社ガイド|神明社(下村講)】 jinja.nagoya/top/midoriku/simomura-sinmei-sya・社伝に、延元年間(1336-1339年)志摩国小浜の豪族下村九郎兵衛が この大高の里に落ち来たり、神明大明神を本所に勧請奉斎する。 以来下村の氏族一統崇敬あつく年々祭祀怠りなく氏族が代々奉仕し、 今日五十軒に及ぶまで繁栄する。・志摩国小浜は今の三重県鳥羽市小浜町(おはまちょう)で、鳥羽駅のある 中心部の北、小浜半島がそれに当たる。・1336年といえば南北朝時代だ。”大高の里に落ち来たり”という表現を 信じれば勢力争いに敗れてこの地にやってきたということか。【追記】 2022.6.27 鳥羽在住の下村さんによると、下村家の本家筋の方たちは現在も鳥羽在住 とのこと。ということは、大高に移ってきたのは下村家の一部の人で、 その人たちが後にこの社を祀ったと理解していいだろうか。【南北朝時代】延元元年 1337年(1333年説)~1392年・鷲津殿と花井方 南北朝時代、尾張の守護土岐頼康の一族に鷲津殿・萱津殿・島田殿と称した 家があった。鷲津殿のいた所は鷲津山なのである。鷲津殿は宮方に属した。土岐氏の家老の家であった花井・富田の二氏は、尾張に来て守護代を称した。鷲津は、花井方がいた所後に、花井氏は土岐氏との関係から離れて 独立して、この地にて勢力争いを続けた。出典:名古屋市緑区役所|緑区の史跡と文化財 p.31【九鬼水軍】- Wikipedia -九鬼氏の祖: 熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増にさかのぼるという説 紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、 鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大していた。 南北朝時代:志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させた。
大変詳しい説明ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
22:27 頃:静岡大学名誉教授:小和田哲男 先生の「東海王国の夢」の■「大高城を今川水軍の軍事基地化」と■「東海王国の夢」に実現であった!、、、との小和田先生の新説に賛同いただき、感謝申し上げます。最近の研究は、、、更に進み、、、・JR大高駅前の広大な入り江を埋め立てた江戸期の新田開発の遺構や・日明貿易の東端であった国際貿易港の波止場(湊)の遺構や・中国 寧波から大高城の花井備中守の死去の際に、寧波の老仲和尚から送られた弔意の漢詩文の中に、交流の様子や交易の品目の情報が記載されています。さらに、、、・中国 寧波から最新の石塘式干拓技術の遺構「石塘(石塔・石ノ戸)遺跡」と、、、 東・西の「千正坊」9000坪の干拓地と、、、 鳴海にも「最中堤塘」「下拾貫目堤塘」などの干拓堤防の遺構や遺跡が目視できます。以上の1500年代初頭の遺構から、、、二度の京都留学をはたした秀才:雪斎と義元が、、、・室町幕府の官僚が企画・推進した、若狭と畿内を中心とした、西の「近世型都市国家」の動きに対抗して、、、・大高を中心として、三河湾・伊勢湾・木曾三川+静岡県を範囲とする、東の「近世型都市国家」建設の野望に満ちていた事は、、、、、、大高城や鳴海城の城下に点在する遺構や遺跡、文献などの物証で、すでに証明できています。今後も、小和田先生の「東海王国の夢」説を、大高城の城下に今も暮らす、尾張藩家老:志水家の家臣団の一員として、側面から強力に補佐して参りたい!、、、と考えています。
奈良時代の名古屋は、今平野になっている部分は海だったんですね。川が入江になってますからかなり幅があったんでしょう。なるほど、小幡城がどうしてあの場所にあるのか、と思ったら裏手の崖の下は川になっていた訳ですね。
いつも楽しく観ています。大高城の地図について、一宮市一宮耕地整理組合が昭和16年に解散を記念した事業誌に「養老元年と有之由天保二年迄臺千百拾五年に成と」同様の地図発見。自分の曾祖父も載っていたので驚いた。一宮が愛知県の中心であるのか
20:58 頃:おけはざま山|義元本陣、、、と説明された位置は、、、【桶狭間の戦いは、義元本隊が大高城から引き上げる際に起こった!とする説の論客が根拠・証拠とされる「絵図」です。】、、、「おけはざま山」では無く、義元が大高城から引き揚げる途中で、信長の出陣を期待して陣を構えたとする「漆山」です。・北北東に国1の「大高緑地」の信号交差点の接続しています。・道を隔てて西北西にある「神明」の社は、現在の「諏訪社」です。・この道は、中島砦から出て桶狭間からの大高道との交差点に至る「小川道|緒川道」です。、、、このURLを参照し、ご確認ください。jinja.nagoya/top/midoriku/suwayama-suwa-sya
17:16 中島郡も枇杷島もほんとに島だったんだな地図ダウンロードさせてほしい
たまたま見つけたものです。猿投神社のものですが、おそらく書き直しをしているのではないかと思います。正確性はないのですが、当時の人々の地理感覚が感じられます。
奈良時代の名古屋近海の地図、衝撃でした。八事近辺の丘陵地が島になっていて、周辺のエリアは海だったんですね。信長の桶狭間へ至るルートも、その地図と重ねると面白そうですね。
当時の大高城、今の言葉でいうチョークポイントですね。その救援を任された家康は今川義元から信頼されていたと思います。織田弾正忠家が津島などの舟運益で成り上がったことや信長が村木砦の戦いに船を機動力として使ったことなど信長にとっても伊勢湾の舟運・水軍は生命線だし熟知していたからこそ指を加えて籠城なんていう選択肢は無かったのだと思います。
市橋先生の解説は面白く分かりやすくて勉強になります。友里ちやんの笑顔は可愛くて素敵です(*'▽')
勝ち残った側が都合良く後世に残した資料が多いからどれが正しいのか判断するのは大変
家康が初陣を果たしてまもなく参陣した桶狭間の戦いで、2万を超える今川軍に対し、信長が2000の兵で敵の大将・今川義元を討ち果たし、勝利をつかんだ、との報に接したときの驚きと昂奮は、生涯忘れられないものだったに違いありません。ですが、この時の家康はいただけません。感情的に高ぶっている人間には、そもそも冷静な状況判断はできませんでした。桶狭間の義元と三方ヶ原の信玄とでは、武将のタイプが違うのだ、という当たり前のことさえも、判断がつかなくなっていたのでしょう。この敗戦後、家康は人生観が変わるほどの猛省をしています。天才信長のやり方を真似しても、そもそも卓越した才能のない自分には無理であった、ということを骨身に染みて思い知ったのです。「同じ石に2度つまずくな」と、古代ローマの哲学者キケロは言いました。誰でもつまずきはあるもの。問題は最初のつまずきから、いかにしてその後の教訓を得られるかが、人生の分かれ目です。元来が小心者で、なにごとにつけても疑い深く、慎重で、軽快な動きが苦手。それでいて、本来は短気で激越家(げきえつか)の家康です。彼に天下を取らせた秘訣(ひけつ)があったとすれば、失敗にも、敵にも、歴史にも学ぼうとした、その貪欲な姿勢ではないでしょうか。過去に学ばない者に、未来は設計できない、ということを、家康ほど心得ていた人間はいなかったと思います。加来 耕三(かく・こうぞう) 歴史家、作家 1958年、大阪市生まれ。日本はアメリカに負けた。正確にはカイロ宣言を受諾して軍隊を解散し、戦争を終結した。だから敗戦ではなく終戦なのである。原爆を投下され、東京大空襲で非戦闘員の日本国民を虐殺されたので終戦に同意した。この非戦闘員の虐殺は国際法で禁じていた。日本は細菌爆弾を開発していたが非戦闘員である国民を殺戮することはしなかった。アメリカの非戦闘員だけでなく世界の非戦闘員を細菌で殺戮することを中止したのである。世界に感染を広めた中国武漢細菌兵器研究所のようにはできなかった。日本の細菌兵器は空気感染の黒死病、炭素菌、などの治療困難な死亡率50%以上で世界人口を半減させる悪魔の兵器である。もし、この細菌兵器を風船に積み込み、アメリカ上空で拡散すれば、アメリカの人口が半減し、されに、世界の人口が半減する。こうなれば戦争どころではない。軍人も住民も消滅する。この大東亜戦争敗戦から日本人は家康のように「失敗にも、敵にも、歴史にも、」学ぼうとしたでしょうか?青山繁晴参議によると陸軍大学優等生が戦争の総責任者には不適切であったという事実であった。これは日本の政治にも言える。東大卒業者が政治家になり、国家公務員に採用すれば日本国は繫栄し、国民は幸せになる、というのは迷信である。日清戦争、日ロ戦争の大勝利は東大卒業生ではない、旧幕臣、侍であった。東大教育と侍教育とは何が異なるのか?賢明な倭的魂のある日本の皆さんに教えていただきたい。
25:30 頃:大高城兵糧入れ異説家康の側室:お亀の方(九男:義直の母)の実家(江戸期:尾張藩の家老職で大高城三ノ丸に館を構えた)、父の志水宗清と弟:志水忠宗 親子の大高城 城下の家臣団には、駿府城内で家康本人が語ったと考えられる「家康公口述筆記」の写しが残っています。永禄ノ初 織田氏ノ驍将 山口左馬助 弘宣 諛ゝヲ蒙リ鳴海中村ヲ以テ叛キ今川氏ニ降ル義元 其計ヲ用ヒ大高沓掛ヲ取リ 其 将鵜殿長持ヲシテ大高ヲ守ラシム 二年義元大擧シテ尾張ヲ攻メントス 信長乃チ鷲津丸根ノ二砦ヲ築キ大高ノ糧道ヲ絶ツ城中食竭キ急ヲ告ク時ニ徳川家康 年甫メテ十八名ヲ元康ト呼ヒ勇武ノ聞エアリ義元 命メ糧ヲ大高ニ納レシム四月九日夜 家康兵千騎許ヲ大高ノ左右ニ備エ敵ノ形勢ヲ窺ヒ間ヲ得テ数百石ノ軍糧ヲ城中ニ納ルゝヲ得タリ三年五月十九日家康已ニ丸根ヲ抜キ、、、・大高城の守備は鵜殿長持 1557 没 1562 没(三河物語)・鳴海城、大高城、沓掛城は今川からの調略戦で降伏。・「大高城兵糧入れ」は、永禄2年の年初から計画され 永禄2年4月9日の夜に実行された。・兵力1000で、数百石の軍糧を搬入した。、、、と、いかにも家康本人の晩年の記憶を書き留めただけのシンプルな内容です。大問題は、「信長公記」からでは理解できない!家康 兵千騎許ヲ 大高ノ左右ニ備エ 敵ノ形勢ヲ窺ヒ 間ヲ得テ 数百石ノ軍糧ヲ 城中ニ納ルゝヲ得タリとあり、、、従来の大高道からの搬入する通説では、、、立証が不可能ですが、、、私は、、、古い絵図を元に、、、家康が「大高ノ左右ニ備エ」とする場所(指揮所)が特定できており、これを紹介する真実の「大高城兵糧入れ」のルートを踏破する「歴史散策会」のガイドを始めました。自宅前に、愛知県大河ドラマ「どうする家康」観光推進協議会の旗を立てています。大高の古老や長老の紹介(指示)を受けて、徳川の正史「朝野舊聞裒藁」と「家康公口述筆記」からの視点から、詳しくガイドします。健脚のみ!での半日コースです。
面白いですよね。お亀の方の史料読みました。兵糧入れについては三説ほどもあり、徳川御実記でも「諸説区々有」と記されています。また研究を進めて下さることを期待しています。
浜崎さん何歳?森繁久彌を知らない?!!ちょっとビックリ!
先生がおっしゃるように森繁久彌を知らないことにびっくり😳‼️この方、おいくつでしょう?…
こんにちわm(__)m。私も森繁さん知りませんが,それは森繁さんの俳優としての偉大さの程度があらわれているだけなのではないでしょうか。浜崎さんはもっと昔の徳川家康公のことは知っているわけですが,徳川家康公は彼の同世代の人がいなくなっていったにもかかわらずその偉大さゆえに語り継がれたり読まれていったために世代を超えて名前が広がっていったということですよね。偉大な人ほど世代や時代を超えて多くの人が知っているということだとおもいます。その俳優の森繁さんという方も今回ここで語り継がれた結果,こうして次世代に知ってる人を増やしているわけですから,偉大であれば技術の進歩で作品もリメイクされたりしていってまだこれから偉大さがはっきりしてくるのではないかとおもいます✨
けっこう知らない方も多いようです。時代は流れていくんですね(笑)。
1981年TBS早坂暁脚本…関が原の家康…を演じた森繁久彌をMC女性が知らない事、数年前私が大学・院生との勉強会で、フーテンの寅さん及び渥美清をだれも知らなかった事、を実感!
そのドラマ今見てます良いですね
是非ともキンドル版もご検討お願いいたします。海外にいるものですから。いつも愉しみにしております。
桶狭間の戦い、のちにコレがきっかけで家康が今川氏から独立する。最初は家康も息子の氏真に弔い合戦を勧めるけど、遂行しようとしない氏真に見切りつけて、織田氏と同盟する。コレが家康の一つの分岐点実際の桶狭間は少し奥まった田楽狭間で行われた。実際に田楽狭間を地図で見ると盆地凹地盆地なんだよね、今川氏の軍勢は25000〜30000位、対する織田氏の兵はせいぜい2500〜3000位普通にやったら織田氏負けるが地形や天候も絡んで、今川氏は負け戦〜軍師の雪斎長老が生きていれば、桶狭間の戦いは今川氏は負けてなかったとも言われているし、又コレが天気が良く、見通しが良い平地なら今川氏は負けて無かった。織田信長のサクセストーリー後世に伝わるようなことは無かった。今川氏は本来なら朝廷や室町幕府を警護する今で言う皇宮警察の家柄、名門中の名門です。
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。森繫久彌さんって男はつらいよでも出てましたよね?
森繁さんは、もののけ姫の祟り神になるイノシシのオッコトヌシの声の方です。
出来れば徳川家康の賤ヶ岳の7武将でなく9武将でしてほしいです。是非お願いいたします。
あけましておめでとうございます。本年も楽しませていただきたいと思っております。しかし、先生 本売り切れちゃってますー。再販してくださるんでしょうか?
こちらで購入できます。よろしくお願いします。◆正文館書店 岡崎www5a.biglobe.ne.jp/~bookhal/shiru.html
事務局の方で書店のサイトを紹介してくださいました。ぜひよろしくお願いします。
こんばんは。わざわざサイトを載せていただいてありがとうございます!早速注文するか走ります!
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。桶狭間はどうですか?今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。当時の地形は実際、どうなっているのですか。今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?しかし衛星写真を見ると。そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?思い込みですか?それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?山地戦?平押し戦のような感じも?そのあたり。単なる思い込みだとおもうのですが。よろしくおねがいします。
「信長公記」では「おけはざま山」とあります。現在の桜花学園隣の山に比定されているようですが、異説もあるようですね。
すみません!Amazonで欠品中になってます!どうしたらいいでしょうか?
ごめんなさい。事務局の方で書店のサイトを紹介してくださいました。ぜひよろしくお願いします。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。古地図と現在の地図を参考にこの時代は海抜何メートルまで海が。1500年代ですか。そうなると関東は、関西は、中部地方は?ここまで海岸線が。その時代の日本の姿はこうだった。日本全土は海岸線がこうなっていた。現代の地図に重ね合わせると。こうなる。江戸城周辺は。大阪城周辺は。桶狭間は。そういう事を書いた資料はありませんか?年代毎にそのような地図があれば。もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。その地図をもとに。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。家康にはそれが多かった。その差で2代目以降に政権が引き継げた。といった話を聞いたことが。あやふやなので。家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?教えて下さい。それと今川の人質?となった時の松平家の地位は?地方豪族程度ーーーということは?それなら地方豪族の子弟を集めて寺子屋で。他にも似たような立ち位置の者はいたのですか?それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。その兵数と主な武将の名を教えて下さい。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?その時の将軍は足利義輝ですか?もしそうならその後の織田との関係は?このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。信長が上洛する際は伊勢を。信玄が上洛する際は信濃を。ということはーーーないですか。勝手な思い込みです。それとこれも思い込みですが。"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?義元は大髙城へ向っていたようですが。織田に横腹を突かれたーーーということですか?
義元は上洛を目指していたわけではなく、三河の支配権を確立することと、尾張に圧力をかけること、そのために水軍を利用できる場所を確保することが目的だったと考えています。
今日は、桶狭間ですね。ua-cam.com/video/kJKpQO3qC20/v-deo.html
浜崎さん、森繁さん知らないって?!ショック。81年TBSドラマ「関ケ原」で森繫さんは、とぼけた狸おやじでありながら、しっかり人物を見極める貫禄ある天下人家康を演じてますよ。おそらく津川家康は森繫家康が原点です。徳川実記は自分の先祖に関わる部分(家綱~吉宗時代)を中心に読みましたが、幕閣についても結構公平というか、中立な視点で書かれてる部分が多かったと思いました。また、松潤さんの家康は若々しいから晩年の貫禄が出るかな~、と思ったら、83年大河「徳川家康」の滝田栄さんは当時33歳で、現在松潤さんより5歳も若かった。また市橋先生、TBS・BS11の「偉人素顔の履歴書」徳川家康編にインタビュー出演なさるんですね。次回はゲスト出演して加来耕三さんとのやり取りがあるといいな~。取り止めが無くてすみません。
BS11の「偉人素顔の履歴書」。断片的ではありましたけど(笑)、出させていただきました。加来耕三さんとは全国歴史研究会の場で一度ご一緒しましたが、ユニークな歴史観をお持ちの方ですね。次回は同番組で21日に出ます。酒井忠次についてのコメントです。またよろしかったらご覧ください。
@@市橋章男 ありがとうございます。忠次編も楽しみにしてます。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。それを大義名分に尾張侵攻を。考えすぎですか。尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。上洛というのは道を開けてくれるようですし。桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。何もないのに上洛、上洛というのも。尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。信長の時は伊勢。信玄には信濃ですか、三河ですか。まあ勝手な思い込みです。その時の将軍は足利義輝ですか?もしそうならその後の織田との関係は?このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。信長が上洛する際は伊勢を。信玄が上洛する際は信濃を。ということはーーーないですか。勝手な思い込みです。それとこれも思い込みですが。"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?義元は大髙城へ向っていたようですが。織田に横腹を突かれたーーーということですか?
ua-cam.com/video/rFGgo_hmQAU/v-deo.html徳川家康すり替え説。宇野正美。
浜崎さんの不思議なテンション。だんだんと癖になります。
先生の「行ったことありますか?」と言う質問も、いつの間にか「ありません」の答えを期待してしまいます。
相変わらず先生のお話がおもしろい。
紫の浜崎さんも素敵です。
浜崎さん、乙女の顔になってる〜❗️🤣
今回もとても衝撃的(大絶賛!)で、感動が止まりません。「徳川実記」を丁寧に読み込んで、再検証や名古屋近海の地図は、本当にショッキングです。やっぱり先生の日頃から、こつこつと原文を読み込み、現場に足を運んで、地勢に詳しい市橋先生ならではですね。次回もとっても楽しみです。
ありがとうございます。励みになります。これからもよろしくお願いします。
市橋先生 偉人 素顔の履歴書 に出演されてましたね❤私は市橋先生が大好きなので他の番組で先生が家康のことを話してくださるのをみて とても嬉しかったです。普段と変わらず笑顔もあり素敵でした🎉
ありがとうございます。21日の同番組にも出させていただきます。何をお話したのかあまり覚えていないんですけど(笑)。またよろしくお願いします。
@@市橋章男
返信ありがとうございます😊とても嬉しいです。21日も勉強させて頂きます。
今年も宜しくお願い致します🙆🤗1回目も泣いて2回目なんて号泣してました😭😭1年間見続けますね、宜しくお願い致します🙇🙇🙏🙏👏👏👍👍💐💐💐💐💐
市橋先生、お疲れ様です‼️新説の桶狭間の合戦超楽しみにしていますよ‼️それと、森繁久彌と言えば歌が名曲が有りますよ、知床旅情‼️
大河も始まりますね。
桶狭間の戦いは昭和末からどんどん新説が出て新鮮味が有りますね。
市橋先生今年も解説お願い🙏します。
いやー、赤も似合うが青紫もいいね。先生とツッコミの女生徒みたいで面白い。大高がそんなに大事な城だったなんて目から鱗。
市橋先生の解説が一番正確で、かつ楽しいです。ちょっと考えたら、神君家康が狸親父とは呼ばれませんよね。他の人に自慢しよう。先生とゆり姫の岡崎愛も感じられます。
これからも楽しみにしてます。
46ですが森繁久彌さん知ってますよ😮
今年もよろしくお願いします。年末に、偉人素顔の履歴書。。。。の加来先生のシリーズにも、市橋先生の更なる解説が ありましたね。興味深く面白かったです。いつか、二人の本当の史実は どうか。 などについて会談してくれることを 期待します。
22:59 頃:南北朝時代か城としての存在価値を有していたと考えられる、、、伊勢湾の重要性と水軍
、、、との紹介、ありがとうございます。
南北朝時代から大高の水軍は、「下村水軍」であり、現在も「下村水軍」の強い!結束・絆を象徴する
「下村講」での「大牡丹餅」が有名で、、、今も大高の主力は「下村水軍」約50家で構成する下村一族です。
【関係資料】
歴史探偵「戦略家 今川義元」2023.01.04日
> 桶狭間の戦いの義元の真の狙いとは!? 熊野水軍に伊勢湾の季節風。
> 新説:「桶狭間の戦い」義元のねらいは水軍を使った織田攻略だった!?
【根拠】熊野水軍ゆかりの鵜殿氏を、大高城の城代に任命したから!と
緑区役所 HomePage|緑区の名所・史跡の紹介|大高周辺のみどころ一覧4
■ 下村の神明社
通称大浜街道東100メートルほどの丘陵地で丸根砦のすぐ北のところに
南向きで石灯籠4基が立っている。延元年間 (1336年から1340年)に
伊勢志摩より来た下村九郎兵衛が勧請。
祭神は国常立尊で下村神明社とも言い下村氏の氏神とされている。
【名古屋神社ガイド|神明社(下村講)】
jinja.nagoya/top/midoriku/simomura-sinmei-sya
・社伝に、延元年間(1336-1339年)志摩国小浜の豪族下村九郎兵衛が
この大高の里に落ち来たり、神明大明神を本所に勧請奉斎する。
以来下村の氏族一統崇敬あつく年々祭祀怠りなく氏族が代々奉仕し、
今日五十軒に及ぶまで繁栄する。
・志摩国小浜は今の三重県鳥羽市小浜町(おはまちょう)で、鳥羽駅のある
中心部の北、小浜半島がそれに当たる。
・1336年といえば南北朝時代だ。”大高の里に落ち来たり”という表現を
信じれば勢力争いに敗れてこの地にやってきたということか。
【追記】 2022.6.27
鳥羽在住の下村さんによると、下村家の本家筋の方たちは現在も鳥羽在住
とのこと。ということは、大高に移ってきたのは下村家の一部の人で、
その人たちが後にこの社を祀ったと理解していいだろうか。
【南北朝時代】延元元年 1337年(1333年説)~1392年
・鷲津殿と花井方
南北朝時代、尾張の守護土岐頼康の一族に鷲津殿・萱津殿・島田殿と称した
家があった。鷲津殿のいた所は鷲津山なのである。鷲津殿は宮方に属した。
土岐氏の家老の家であった花井・富田の二氏は、尾張に来て守護代を称した。
鷲津は、花井方がいた所後に、花井氏は土岐氏との関係から離れて
独立して、この地にて勢力争いを続けた。
出典:名古屋市緑区役所|緑区の史跡と文化財 p.31
【九鬼水軍】- Wikipedia -
九鬼氏の祖: 熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増にさかのぼるという説
紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、
鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大していた。
南北朝時代:志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させた。
大変詳しい説明ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
22:27 頃:静岡大学名誉教授:小和田哲男 先生の「東海王国の夢」の
■「大高城を今川水軍の軍事基地化」と
■「東海王国の夢」に実現であった!、、、との小和田先生の新説に賛同いただき、感謝申し上げます。
最近の研究は、、、更に進み、、、
・JR大高駅前の広大な入り江を埋め立てた江戸期の新田開発の遺構や
・日明貿易の東端であった国際貿易港の波止場(湊)の遺構や
・中国 寧波から大高城の花井備中守の死去の際に、寧波の老仲和尚から送られた弔意の漢詩文の中に、交流の様子や交易の品目の情報が記載されています。
さらに、、、
・中国 寧波から最新の石塘式干拓技術の遺構「石塘(石塔・石ノ戸)遺跡」と、、、
東・西の「千正坊」9000坪の干拓地と、、、
鳴海にも「最中堤塘」「下拾貫目堤塘」などの干拓堤防の遺構や遺跡が目視できます。
以上の1500年代初頭の遺構から、、、二度の京都留学をはたした秀才:雪斎と義元が、、、
・室町幕府の官僚が企画・推進した、若狭と畿内を中心とした、西の「近世型都市国家」の動きに対抗して、、、
・大高を中心として、三河湾・伊勢湾・木曾三川+静岡県を範囲とする、東の「近世型都市国家」建設の野望に満ちていた事は、、、
、、、大高城や鳴海城の城下に点在する遺構や遺跡、文献などの物証で、すでに証明できています。
今後も、小和田先生の「東海王国の夢」説を、大高城の城下に今も暮らす、尾張藩家老:志水家の家臣団の一員として、側面から強力に補佐して参りたい!、、、と考えています。
奈良時代の名古屋は、今平野になっている部分は海だったんですね。
川が入江になってますからかなり幅があったんでしょう。
なるほど、小幡城がどうしてあの場所にあるのか、と思ったら裏手の崖の下は川になっていた訳ですね。
いつも楽しく観ています。大高城の地図について、一宮市一宮耕地整理組合が昭和16年に解散を記念した事業誌に「養老元年と有之由天保二年迄臺千百拾五年に成と」同様の地図発見。自分の曾祖父も載っていたので驚いた。一宮が愛知県の中心であるのか
20:58 頃:おけはざま山|義元本陣
、、、と説明された位置は、、、
【桶狭間の戦いは、義元本隊が大高城から引き上げる際に起こった!とする説の論客が根拠・証拠とされる「絵図」です。】
、、、「おけはざま山」では無く、義元が大高城から引き揚げる途中で、信長の出陣を期待して陣を構えたとする「漆山」です。
・北北東に国1の「大高緑地」の信号交差点の接続しています。
・道を隔てて西北西にある「神明」の社は、現在の「諏訪社」です。
・この道は、中島砦から出て桶狭間からの大高道との交差点に至る「小川道|緒川道」です。
、、、このURLを参照し、ご確認ください。jinja.nagoya/top/midoriku/suwayama-suwa-sya
17:16 中島郡も枇杷島もほんとに島だったんだな
地図ダウンロードさせてほしい
たまたま見つけたものです。猿投神社のものですが、おそらく書き直しをしているのではないかと思います。正確性はないのですが、当時の人々の地理感覚が感じられます。
奈良時代の名古屋近海の地図、衝撃でした。八事近辺の丘陵地が島になっていて、周辺のエリアは海だったんですね。
信長の桶狭間へ至るルートも、その地図と重ねると面白そうですね。
当時の大高城、今の言葉でいうチョークポイントですね。その救援を任された家康は今川義元から信頼されていたと思います。
織田弾正忠家が津島などの舟運益で成り上がったことや信長が村木砦の戦いに船を機動力として使ったことなど信長にとっても伊勢湾の舟運・水軍は生命線だし熟知していたからこそ指を加えて籠城なんていう選択肢は無かったのだと思います。
市橋先生の解説は面白く分かりやすくて勉強になります。
友里ちやんの笑顔は可愛くて素敵です(*'▽')
勝ち残った側が都合良く後世に残した資料が多いからどれが正しいのか判断するのは大変
家康が初陣を果たしてまもなく参陣した桶狭間の戦いで、2万を超える今川軍に対し、信長が2000の兵で敵の大将・今川義元を討ち果たし、勝利をつかんだ、との報に接したときの驚きと昂奮は、生涯忘れられないものだったに違いありません。ですが、この時の家康はいただけません。感情的に高ぶっている人間には、そもそも冷静な状況判断はできませんでした。桶狭間の義元と三方ヶ原の信玄とでは、武将のタイプが違うのだ、という当たり前のことさえも、判断がつかなくなっていたのでしょう。
この敗戦後、家康は人生観が変わるほどの猛省をしています。天才信長のやり方を真似しても、そもそも卓越した才能のない自分には無理であった、ということを骨身に染みて思い知ったのです。「同じ石に2度つまずくな」と、古代ローマの哲学者キケロは言いました。誰でもつまずきはあるもの。問題は最初のつまずきから、いかにしてその後の教訓を得られるかが、人生の分かれ目です。元来が小心者で、なにごとにつけても疑い深く、慎重で、軽快な動きが苦手。それでいて、本来は短気で激越家(げきえつか)の家康です。彼に天下を取らせた秘訣(ひけつ)があったとすれば、失敗にも、敵にも、歴史にも学ぼうとした、その貪欲な姿勢ではないでしょうか。過去に学ばない者に、未来は設計できない、ということを、家康ほど心得ていた人間はいなかったと思います。
加来 耕三(かく・こうぞう) 歴史家、作家 1958年、大阪市生まれ。
日本はアメリカに負けた。正確にはカイロ宣言を受諾して軍隊を解散し、戦争を終結した。だから敗戦ではなく終戦なのである。原爆を投下され、東京大空襲で非戦闘員の日本国民を虐殺されたので終戦に同意した。この非戦闘員の虐殺は国際法で禁じていた。日本は細菌爆弾を開発していたが非戦闘員である国民を殺戮することはしなかった。アメリカの非戦闘員だけでなく世界の非戦闘員を細菌で殺戮することを中止したのである。世界に感染を広めた中国武漢細菌兵器研究所のようにはできなかった。日本の細菌兵器は空気感染の黒死病、炭素菌、などの治療困難な死亡率50%以上で世界人口を半減させる悪魔の兵器である。もし、この細菌兵器を風船に積み込み、アメリカ上空で拡散すれば、アメリカの人口が半減し、されに、世界の人口が半減する。こうなれば戦争どころではない。軍人も住民も消滅する。この大東亜戦争敗戦から日本人は家康のように「失敗にも、敵にも、歴史にも、」学ぼうとしたでしょうか?青山繁晴参議によると陸軍大学優等生が戦争の総責任者には不適切であったという事実であった。これは日本の政治にも言える。東大卒業者が政治家になり、国家公務員に採用すれば日本国は繫栄し、国民は幸せになる、というのは迷信である。日清戦争、日ロ戦争の大勝利は東大卒業生ではない、旧幕臣、侍であった。東大教育と侍教育とは何が異なるのか?賢明な倭的魂のある日本の皆さんに教えていただきたい。
25:30 頃:大高城兵糧入れ異説
家康の側室:お亀の方(九男:義直の母)の実家(江戸期:尾張藩の家老職で大高城三ノ丸に館を構えた)、父の志水宗清と弟:志水忠宗 親子の大高城 城下の家臣団には、駿府城内で家康本人が語ったと考えられる「家康公口述筆記」の写しが残っています。
永禄ノ初 織田氏ノ驍将 山口左馬助 弘宣 諛ゝ
ヲ蒙リ鳴海中村ヲ以テ叛キ今川氏ニ降ル義元 其
計ヲ用ヒ大高沓掛ヲ取リ 其 将鵜殿長持ヲシテ
大高ヲ守ラシム 二年義元大擧シテ尾張ヲ攻
メントス 信長乃チ鷲津丸根ノ二砦ヲ築キ大高
ノ糧道ヲ絶ツ城中食竭キ急ヲ告ク時ニ徳川家
康 年甫メテ十八名ヲ元康ト呼ヒ勇武ノ聞エアリ
義元 命メ糧ヲ大高ニ納レシム四月九日夜 家康
兵千騎許ヲ大高ノ左右ニ備エ敵ノ形勢ヲ窺ヒ
間ヲ得テ数百石ノ軍糧ヲ城中ニ納ルゝヲ得タリ
三年五月十九日家康已ニ丸根ヲ抜キ、、、
・大高城の守備は鵜殿長持 1557 没 1562 没(三河物語)
・鳴海城、大高城、沓掛城は今川からの調略戦で降伏。
・「大高城兵糧入れ」は、永禄2年の年初から計画され
永禄2年4月9日の夜に実行された。
・兵力1000で、数百石の軍糧を搬入した。
、、、と、いかにも家康本人の晩年の記憶を書き留めただけのシンプルな内容です。
大問題は、「信長公記」からでは理解できない!
家康 兵千騎許ヲ 大高ノ左右ニ備エ 敵ノ形勢ヲ窺ヒ 間ヲ得テ 数百石ノ軍糧ヲ 城中ニ納ルゝヲ得タリ
とあり、、、従来の大高道からの搬入する通説では、、、立証が不可能ですが、、、
私は、、、古い絵図を元に、、、家康が「大高ノ左右ニ備エ」とする場所(指揮所)が特定できており、
これを紹介する真実の「大高城兵糧入れ」のルートを踏破する「歴史散策会」のガイドを始めました。
自宅前に、愛知県大河ドラマ「どうする家康」観光推進協議会の旗を立てています。
大高の古老や長老の紹介(指示)を受けて、徳川の正史「朝野舊聞裒藁」と
「家康公口述筆記」からの視点から、詳しくガイドします。健脚のみ!での半日コースです。
面白いですよね。お亀の方の史料読みました。兵糧入れについては三説ほどもあり、徳川御実記でも「諸説区々有」と記されています。また研究を進めて下さることを期待しています。
浜崎さん何歳?
森繁久彌を知らない?!!
ちょっとビックリ!
先生がおっしゃるように森繁久彌を知らないことにびっくり😳‼️
この方、おいくつでしょう?…
こんにちわm(__)m。私も森繁さん知りませんが,それは森繁さんの俳優としての偉大さの程度があらわれているだけなのではないでしょうか。浜崎さんはもっと昔の徳川家康公のことは知っているわけですが,徳川家康公は彼の同世代の人がいなくなっていったにもかかわらずその偉大さゆえに語り継がれたり読まれていったために世代を超えて名前が広がっていったということですよね。偉大な人ほど世代や時代を超えて多くの人が知っているということだとおもいます。その俳優の森繁さんという方も今回ここで語り継がれた結果,こうして次世代に知ってる人を増やしているわけですから,偉大であれば技術の進歩で作品もリメイクされたりしていってまだこれから偉大さがはっきりしてくるのではないかとおもいます✨
けっこう知らない方も多いようです。時代は流れていくんですね(笑)。
1981年TBS早坂暁脚本…関が原の家康…を演じた森繁久彌をMC女性が知らない事、数年前私が大学・院生との勉強会で、フーテンの寅さん及び渥美清をだれも知らなかった事、を実感!
そのドラマ今見てます
良いですね
是非ともキンドル版もご検討お願いいたします。海外にいるものですから。いつも愉しみにしております。
桶狭間の戦い、のちにコレがきっかけで家康が今川氏から独立する。最初は家康も息子の
氏真に弔い合戦を勧めるけど、遂行しようとしない氏真に見切りつけて、織田氏と同盟する。コレが家康の一つの分岐点
実際の桶狭間は少し奥まった田楽狭間で行われた。実際に田楽狭間を地図で見ると盆地凹地盆地なんだよね、
今川氏の軍勢は25000〜30000位、対する織田氏の兵はせいぜい2500〜3000位
普通にやったら織田氏負けるが地形や天候も絡んで、今川氏は負け戦〜軍師の雪斎長老が生きていれば、桶狭間の戦いは
今川氏は負けてなかったとも言われているし、又コレが天気が良く、見通しが良い平地なら
今川氏は負けて無かった。織田信長のサクセストーリー後世に伝わるようなことは無かった。
今川氏は本来なら朝廷や室町幕府を警護する今で言う皇宮警察の家柄、名門中の名門です。
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
森繫久彌さんって男はつらいよでも出てましたよね?
森繁さんは、もののけ姫の祟り神になるイノシシのオッコトヌシの声の方です。
出来れば徳川家康の賤ヶ岳の7武将でなく9武将でしてほしいです。
是非お願いいたします。
あけましておめでとうございます。
本年も楽しませていただきたいと思っております。
しかし、先生 本売り切れちゃってますー。再販してくださるんでしょうか?
こちらで購入できます。よろしくお願いします。
◆正文館書店 岡崎
www5a.biglobe.ne.jp/~bookhal/shiru.html
事務局の方で書店のサイトを紹介してくださいました。ぜひよろしくお願いします。
こんばんは。
わざわざサイトを載せていただいてありがとうございます!早速注文するか走ります!
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。
桶狭間はどうですか?
今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。
当時の地形は実際、どうなっているのですか。
今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。
三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?
しかし衛星写真を見ると。
そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?
思い込みですか?
それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?
山地戦?
平押し戦のような感じも?
そのあたり。
単なる思い込みだとおもうのですが。
よろしくおねがいします。
「信長公記」では「おけはざま山」とあります。現在の桜花学園隣の山に比定されているようですが、異説もあるようですね。
すみません!
Amazonで欠品中になってます!
どうしたらいいでしょうか?
こちらで購入できます。よろしくお願いします。
◆正文館書店 岡崎
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ごめんなさい。事務局の方で書店のサイトを紹介してくださいました。ぜひよろしくお願いします。
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。
古地図と現在の地図を参考に
この時代は海抜何メートルまで海が。
1500年代ですか。
そうなると関東は、関西は、中部地方は?
ここまで海岸線が。
その時代の日本の姿はこうだった。
日本全土は海岸線がこうなっていた。
現代の地図に重ね合わせると。
こうなる。
江戸城周辺は。
大阪城周辺は。
桶狭間は。
そういう事を書いた資料はありませんか?
年代毎にそのような地図があれば。
もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。
その地図をもとに。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。
家康にはそれが多かった。
その差で2代目以降に政権が引き継げた。
といった話を聞いたことが。
あやふやなので。
家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?
教えて下さい。
それと今川の人質?となった時の松平家の地位は?
地方豪族程度ーーーということは?
それなら地方豪族の子弟を集めて寺子屋で。
他にも似たような立ち位置の者はいたのですか?
それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。
その兵数と主な武将の名を教えて下さい。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?
その時の将軍は足利義輝ですか?
もしそうならその後の織田との関係は?
このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。
信長が上洛する際は伊勢を。
信玄が上洛する際は信濃を。
ということはーーーないですか。
勝手な思い込みです。
それとこれも思い込みですが。
"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?
義元は大髙城へ向っていたようですが。
織田に横腹を突かれたーーーということですか?
義元は上洛を目指していたわけではなく、三河の支配権を確立することと、尾張に圧力をかけること、そのために水軍を利用できる場所を確保することが目的だったと考えています。
今日は、桶狭間ですね。ua-cam.com/video/kJKpQO3qC20/v-deo.html
浜崎さん、森繁さん知らないって?!ショック。
81年TBSドラマ「関ケ原」で森繫さんは、とぼけた狸おやじでありながら、しっかり人物を見極める貫禄ある天下人家康を演じてますよ。おそらく津川家康は森繫家康が原点です。
徳川実記は自分の先祖に関わる部分(家綱~吉宗時代)を中心に読みましたが、幕閣についても結構公平というか、中立な視点で書かれてる部分が多かったと思いました。
また、松潤さんの家康は若々しいから晩年の貫禄が出るかな~、と思ったら、83年大河「徳川家康」の滝田栄さんは当時33歳で、現在松潤さんより5歳も若かった。
また市橋先生、TBS・BS11の「偉人素顔の履歴書」徳川家康編にインタビュー出演なさるんですね。次回はゲスト出演して加来耕三さんとのやり取りがあるといいな~。
取り止めが無くてすみません。
BS11の「偉人素顔の履歴書」。断片的ではありましたけど(笑)、出させていただきました。加来耕三さんとは全国歴史研究会の場で一度ご一緒しましたが、ユニークな歴史観をお持ちの方ですね。次回は同番組で21日に出ます。酒井忠次についてのコメントです。またよろしかったらご覧ください。
@@市橋章男 ありがとうございます。忠次編も楽しみにしてます。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?
上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。
それを大義名分に尾張侵攻を。
考えすぎですか。
尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。
上洛というのは道を開けてくれるようですし。
桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。
何もないのに上洛、上洛というのも。
尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。
信長の時は伊勢。
信玄には信濃ですか、三河ですか。
まあ勝手な思い込みです。
その時の将軍は足利義輝ですか?
もしそうならその後の織田との関係は?
このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。
信長が上洛する際は伊勢を。
信玄が上洛する際は信濃を。
ということはーーーないですか。
勝手な思い込みです。
それとこれも思い込みですが。
"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?
義元は大髙城へ向っていたようですが。
織田に横腹を突かれたーーーということですか?
ua-cam.com/video/rFGgo_hmQAU/v-deo.html
徳川家康すり替え説。宇野正美。