Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
結果としては、人やモノや金が動くという事で経済には相当貢献したし文化交流もできて今の時代の礎になったことは間違いないです。
街道を中心に日本全土が隅々まで発展した功績は大きい。維新後、たった数十年で日本中に鉄道を敷き詰め、電気、水道を通し文明先進国となり、ロシアを破ったんだから、バブルなんか比較にならん忙しさだったんだろうな。そして令和の今は、地方の山村や漁村を中心に過疎で消滅を避けられないんだから難しいね。
道路や橋などのインフラ整備も進んだことと思います。荷車はあったのだからちょっと工夫すれば乗用のクルマも作れた筈。人力車や馬車でもあれば移動はずいぶんと違った形になつていたでしょうね。
乗り物は身分制度と密接な関係があるので、江戸期には一般向けの馬車は難しいかなぁ。
江戸時代初期を除けば藩主なんてみんな江戸生まれの江戸育ち江戸こそが大名達の生まれ故郷であり、自分の領地に愛着を持たない大名も多かったそれと江戸幕府は何度も派手な大名行列をやめるように規制や御触れを出している記録があり、逆に大名達が聞き入れずに派手さを競ってた
@@hassiymt へ〜。江戸で生まれ育って遊び慣れてからの地方領地赴任は毎日が退屈だったでしょうね。赴任じゃないか、自地なんだし。
そうですね。結構、楽しんでいたような記録も残ってまいすね。昔、月刊「日本歴史」という冊子に、津軽藩だったかな、江戸へ行く藩士に家族・親戚一同が詳細な買い物リストを渡していた記録が載っていました。品物だけでなく買うべき店まで指定されていて、江戸と藩の関係が密接だったのがわかります。参勤交代や江戸出張などがなくなって一番、残念に思ったのは地方の藩士だったかもしれません。
東京転勤になって東京の都会生活に馴染んだのに地方に戻れと言われたらそりゃ嫌なのは一杯いただろう今も昔も一緒
現在のどこかの世襲国会議員も似たようなものですね。彼らは参勤交代をしないから地元(領地)の実情を知らないし、移動も数時間なので世間を知らない。
酔えば勤王 覚めれば佐幕 下手な公武合体より始末が悪いと西郷隆盛に言わせた鯨海酔侯の土佐藩主 山内豊信(山内容堂)は、藩主山内家本家ではなく分家の出で土佐藩城下で生まれてます。明治維新後は東京で生活してますが、酒飲んで芸者遊びを繰り返して、山内家の財政を傾かせた事は有名な話です。なお、山内家現当主は現在も東京在住の会社経営や財団法人理事などしてます。
各地の地方有力者が日本各地でお金を落とすというのは、殿様はつらいかもしれないけど日本中の経済発展には大きく寄与しただろうねぇ。
徳川家光「そ、そう!それが参勤交代作った目的だからね」
@@もふもふ-x4p いえみっちゃん Goodjob!!😃😁😆
勝海舟「その金でインフラを整備しろよ!」
@@TheHaimani 参勤交代でインフラ整備されてたから明治以降の発展があったんでしょ。
宿場町は日本の人口3000万人とは思えん栄っぷりだもんな。無駄なサービス支出のおかげやて。宿場町在住だけどなんなら令和の方が寂れてるw
参勤交代で宿場町で経済活性化になり、商人たちが強くなり大名貸しが登場するなど武家と商人の立場が次第に逆転する!更に大名行列もアウトソーシング化になっていました!参勤交代は莫大な人数や馬など要る為、江戸に着く前に人と馬など揃えて藩邸に行く状態に
参覲交代は交代で江戸城防備の出陣です、だから石高により軍勢が定められています各大名は見栄を競って軍勢を大きくしたので度々徳川将軍家は削減を言い渡しますが各大名は従いませんかつては大名の経済的負担を強いるという説がありましたが今では否定されています大名行列が通る街道筋や道路や橋などのインフラ整備、地方の物産の江戸での宣伝など各大名にもメリットがありました庶民が土下座して行列を見送りのは加賀前田、薩摩島津、岡山鳥取池田などの国持大名以上でした江戸市中では江戸市民が土下座するのは御三家・御三卿だけです(御三卿は参覲交代はしませんが)参覲交代中の大名と仕事中の旗本が出会った場合には問題が起きます旗本が将軍家直々の命令を執行中は大名が道を譲る事になりますが通常は官位の上下により判断します下っ端大名ならば高家には道を譲らなければなりませんが高家に出会う可能性はかなり低いですけど
「経済的負担を強いるという説がありましたが今では否定されています」出典は? あと、その考え方主流なの? ただの歴史修正主義?
東大の入試問題では1983年にはすでに取り上げられていて、現代の教科書の記述等からも幕府が大名の力を削ぐためにというニュアンスは削除されているます。簡単に手に取れる書物でも講談社新書の「参勤交代」なんかがあります。もう少し専門になりますと、岩波講座日本歴史10や京都府立大学の藤本仁文先生の論文や塙書房から出てる著作なども基本的にはそのスタンスです。
@@明智光秀さん 回答ありがとうございます。最近、投稿動画に対して反論コメントするのは良いのですが、出典を記さないので調べようが無かったので助かります。
@@leonhardthird こちらこそお役に立ててよかったです。
実は江戸市中以外でも土下座するのは御三家(水戸徳川家は江戸常駐なのでしないが)と聞いたことがあるが、いったいどうなんだろ。
参勤交代は、旅費もだが江戸で使う金こそが諸藩の藩財政の足かせだった。参勤交代がなければ藩主・家族・藩士が江戸で暮らす理由はないのだから、これこそが最も厄介な問題だった。そして、その金策に走り回ったのは国許でした。国家老にとっては、苦労して徴収した年貢の大半が一方的に江戸藩邸に吸い上げられていくのは、つねに悩みの種だった。その結果は、どの藩も江戸藩邸と国許の間に深刻な確執が出来ました。
藩収の80%を食い物にした極悪非道な政策を260年もやり、更に明治維新から現在までだ。このエリアがなければ日本は隅々までもっと豊かになってた。
むしろ藩主も家族も藩士も東京大好きだったと思うよw
現在の財務真理教と同じ機構やん。
府中宿 (静岡市) から東京の日本橋まで、旧東海道を歩いたことがある。新幹線の駅にして7駅分。昔の人は本当に凄かったのだと実感した。あの箱根の山の中を真冬に歩くのは地獄だったと思う。旧東海道に関しては、安藤広重の東海道五十三次の絵が有名だ。実際に歩いたら、『広重はこの位置あたりから、この絵を描いたんだな』ということが分かり、時空を超えて感動した。
その日本人の体力、玄米に秘密があるのではないかと思うのです。実は私は1年前から玄米食を始めたのですがそれからは「バテる」という感覚が全くと言っていいほどなくなりました。
@@矢田主馬 西洋人が飛脚の脚力に驚嘆して、肉を与えたらもっと凄くなるだろうと思って、肉食させたら途端に走れなくなったそうな。日本古来の食事というのは凄いと思いますよ。
タイムマシーンで事実を見てみたい!
一次資料では参勤交代は大名が自主的に始めたものを、家光の代に正式に制度化したもので大名の財力を削るために始めたというのは誤りらしいです。それと幕府は供の数を減らせ、簡素化しろと繰り返し通達していたものの、大名が見栄を張るために大勢の供を連れていただけだそうです。
自主的に始めたのも他よりも。って言う見栄からくるんでしょうかね。
簡素化しろというのも、武家諸法度で参勤交代の要員を石高によって決めていたため。
逆に幕府は大名が上京した際は大名をもてなしたり、経費を負担したりで幕府側の負担もばかにならなかった大名や武士は、商人や農民を切れば、最悪の場合、お家取りつぶしの危機にあうため、威厳を誇示することもなかったらしい
ほとんどの国は、国内の内乱内戦が当たり前のように起きていた中、平穏さが200年続いた秘訣
それと引き換えに様々な進歩が止まり、世界からおいてけぼりをくった時代。全国的に識字率も高く、数学的思考、医学的思考、学術的価値のあるものを産み出せる民間人が多かったのに、海外留学が出来なかった。だからこそ明治時代にお雇い外国人が幅を効かすことになった。これは徳川幕府の罪。
現代の日本人的性質のほとんどは江戸期に形成された。この辺は各自、各書籍でも読んでいただいて。世界がどうなっていても自分のムラの心配ばかりをしている日本人、ネットのコメント欄そのものですよ。
その事で近代化が遅れたのも事実です。明治維新は革命ではなく、日本が多額の金をロス⭕️ャイルドから借りてしまい、属国への第一歩を踏み出す出来事です。200年の鎖国が、国際社会から取り残され、いい様にされる事態の遠因です。
GJ、面白い👍短時間の中に、面白い要素満点の編集でした👏ありがとうございました。
12:29 宿場間の平均距離が30kmというのは間違っているかと思います。東海道約500kmで宿場が53(区間としては54)ですので、平均距離は9kmちょっとです。
素晴らしい内容。特に「行列の前で土下座」は当たり前に信じていました。目から鱗でした。
おもしろかった🎉
そこっ!!頭が高い!!
土下座するのは将軍や徳川御三家の行列くらいだそうです。しかし、産婆さんは子供が生まれる時には大名行列を横切って良かったそうな。
私達の住んでいる街に大庄屋さんが今でも有るのですが、その大庄屋さんの家の前を殿様が籠で通ると何とお殿様は籠から降りて歩いたそうですよ、今でもその大庄屋さんの家は残っていますが、本当に凄い庄屋さんだったのだと思いますね。
@@アプリ-z9x 殿様みじめーw
本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に
@@けい-h6z4t今はゴルフ用品店やってますね
薩摩藩の参勤交代費用は三億以上かかっている。しかし8代吉宗の時は特に西国大名は大阪まで船で来ていました。ある程度緩くなった
船は風待ちで何十日も待たされることがあるので日程も費用も読めず薩摩は途中から陸行になっています
途中の裏技は、映画の超高速参勤交代思い出しました😊
懐かしい。( *´艸`)
あれ、俺が五年間住んでたいわき市が舞台で、ちゃんと方言も使われてて感激しました。
参勤交代は、徳川幕府により定められた軍役人数を揃える必要がありました。石高によって細かく決められていました。参勤交代に遅れる理由には、天候の不順や川止め等で遅れる場合には宿場役人の発行する書状がありました。行列の人数合わせの人足は、宿場ごとにいました。宿場には宿場役人がいて決まった人数がいるのか見ていましたから。
参勤交代毎に軍兵まで動かすのは非効率ですよね。ずっと江戸屋敷に置いて藩の内規で適当な時期に交代させた方が費用も少なくて済んだのではないでしょうか。それに実際に各藩の軍兵が形だけでも江戸の守り業務をやっていたのでしょうか。それらは直臣の旗本や御家人達がやっていたはず。
参勤交代はいざ鎌倉とか関ヶ原に参陣とかと一緒だから。将軍への軍事奉仕として戦の構えで行く。兵何人とか鉄砲何丁とか弓何張りとか決められた戦力を連れて行く。関ヶ原の戦後処理として固まった領有関係がそのまま凍結保存されたのが幕藩体制であって、300諸侯が城にこもって武装を保持して将軍からの出兵命令を待っているという事が250年続くのだ。参勤交代は兵の備えを怠っていないか閲兵する意味もあった。そうやって国内の平穏を常に守っていますよというのが将軍の勤めで、ずっと戒厳令が続いているからの軍事政権で、その官として代々将軍を任じられてきた意義でもあるのだ。
徒歩で鹿児島から江戸まで、ふつーにいくわけなので、伊能忠敬が徒歩で全国探索も、さもありなんです。すごい健脚ですね・・。
九州の大名達は瀬戸内海を船で行くことはしなかったのでしょうか、費用はともかくずいぶんと楽になりますよね。それとも船は禁じられていたのかしら。
@@sidetonegawa5252 西国の大名たちは船を使いました。もちろん幕府から許可を得るのが条件です。大阪まで船で移動して、そこから東海道を使い江戸まで徒歩で向かいました
投稿主の認識が古い。参勤交代は大名の経済力を削ぐのは目的ではなかった(結果として削ぐことにはなった)幕府は大名行列を質素にせよと何度も触れをだしている。大名が自発的にこぞって行った。江戸へ人質(妻子)を置くのも幕府へ積極的に忠誠を誓うため。2代目以降の大名は必然的に必ず江戸生まれ江戸育ちとなるため食事も文化も生活習慣も言葉も江戸に慣れてしまい、領地へ戻る方が慣れないド田舎への赴任で嫌がった。
それいまの国会議員と一緒やなw ◯◯3区つっても東京の中高大卒でほぼほぼ地方にいたことないというw 400年システム変わってないw
おぉ〜なるほど面白いね😊
まあ諸説ありますわ
明治維新で在国(居住)の自由を認められた元大名達がこぞって東京に居を構えたのも、彼らにとって江戸(東京)こそが生まれ故郷だからですね勿論、在国を続け地元の教育・起業に尽力した元大名も居るには居ましたが極小数ですね
面白そうと思って見たけど、やたらダルい語尾に、すまんけど耐えられなんだ😩
江戸と街道の要衝は栄えただろうけどそこ以外はなぁ〜。まさに東京一極集中の原点だな。この頃から日本て進歩してないんだな。
戦後ですら太平洋ベルトってあってな、成長には選択と集中は必要なんさ。あと、江戸時代は重農国家で、その栄えた要衝もあるが、僻地も過疎になる訳ではない。
「超高速!参勤交代」という映画は、史実に基づいていたものだったんですね。
江戸を繁栄させ、地方との格差を作るすごいシステムですね。よく思いつきましたよね。これは日本だけですか?
途中でお金を落とすので地方にも江戸の様子や経済発展に少しは繋がったのでは?ちなみにその頃今で言う通販も発達したとか。
たしかルイ14世以降のブルボン朝フランスでも貴族がパリやベルサイユに居住しており中央集権化に寄与していたらしいです。王の寵愛や近侍具合によって官職・爵位・領地が決定されていたので貴族たちも必死でした。
痴呆分権の類は、もともと他国を潰すための策略として使われるからなぁ
@@minaffy-peridot 山口組は月一の定例会のみ直参の組長を本部に集めてますね。昨今は暴対法も厳しくシノギが回らずに上納金が払えず御取り潰し(直参降格)になる組もあるようです。
江戸時代の日本は中世ヨーロッパみたいな感じ
参勤交代は徳川家が全国の大名を統一し武力を動員できることを示す役割も大きかったので、大名は一定の武器を持ってくることが通常だったようですが、あまりに大量の武器を持ってこられると江戸でクーデターを起こされかねないので携帯できる武器の量は厳格に決まっていたって習ったことがあります。ソースは知らんけど。
備後福山藩を通る浅野や毛利等西国大名達は幕府が威信かけて築城した福山城の天守閣や縄張りや曲輪に畏敬の念を抱いて参勤したそうです。
どんなシステムにもメリットもデメリットもあるからなぁ中央集権として機能していたからこそ、長期にわたって安定し、他国の侵略にも抗うことが出来てたんだよなそれが、綻び始めたタイミングで、ジャイアンusがやって来たから、一気に江戸幕府も崩壊したけどね
鎖国前は銃の数も随一だし秀吉が狙ってた東アジア支配は厳しくても信長が狙ってた東南アジア支配ぐらいは何とかなるぐらいの国力はあったそれなのに徳川の現状維持で逆に徹底的に国力を削ぎ落として自分達への反乱の目を潰す政策のせいで鎖国中に外国と周回遅れの差が付いてしまったからねアメリカで原住民がウホウホしてた時代から発展して黒船で日本にやってくる期間より長く徳川は狭い日本で発展を阻害してお山の大将をやり続けていたと思うといかに罪深い事か
参勤交代、大変そうな時代だったね、本当に生き地獄だ、結構金取るし。
佐土原藩の知恵の例偽造した書類だが、(本当は死んでいるが)藩主の署名がどうしても必要だった。そこで手が震えて書けないという事にして回避して誤魔化した。
チュウキの症状が激しく・・・
参勤交代。面白いシステム。最初は義務ではなかったらしいですよ。元禄以前は宿場には食事はなかったようで、自前で鍋や釜を持って米、味噌、等も持参し、宿場で料理していたそうでホントに苦労があったようです😅今のように街中に飯屋とかそば屋、魚屋が出来たのは元禄時代からだそうです。宿場で食事が出たのも元禄時代からです😅ちなみに江戸の本妻と地元の妻と二人居たようで😢
行く、楽しみ。帰る、楽しみがあったのですね。
参勤交代により日本の道路整備が発達した結果、明治に入って鎖国が解かれて大量物資の時代になっても流通、物流が滞るコトなく、西洋が驚くぐらいのスピードで発展出来たんでしょうね
街道整備とは名ばかりで、道路舗装がなされていない。しかも河川にかける橋などの交通インフラ整備もない。江戸時代の間、江戸と大坂の間の移動時間は、ほとんど変わっていないのがいい例。
@@田中俊2 全国主要道路のアウトラインは出来てた訳で、それは大きいコトと思いますけど。舗装については人馬の時代にアスファルトひく必要無いし。大げさですけど。インフラが国にとって大切なコトって人民の意識の中に有るか無いかも大きい。例えば朝鮮なんかはソウルの街でさえ道なんか有るのか無いのかヒドい有り様だったらしいですしインフラなんて概念すら無い国がアジアでは殆どだった訳だし。
@@ArnoldBo 約20年前まで日本の道路舗装率は韓国やタイより低かったことを知らんのかな?ヨーロッパで馬車が走る中で、江戸時代は舗装されとらん道を籠で人が運んでいたから、当時の道路事情は日本も韓国もタイもあまり変わらん。そもそもアスファルトだけが舗装ではない。古代ローマの石畳も立派な舗装。雨が降ったら舗装されとらん道がぬかるんで、人馬の移動が大きく滞ることは予想がつかないのか。特に梅雨時期の大名行列の一向は過酷やったやろね。そもそも日本の道路舗装率が上がったのは明治以降。そこから劇的に人や物の移動速度が上がった。つまり江戸時代は平民に優秀な人々がいるのに、徳川幕府が平和ボケして時を止めてしまった時代。これは罪。
イデオロギー色が強い人って批判と攻撃ばかりで他者のリスペクトが出来ないのよね。
そりゃ当時は車も鉄道も飛行機も無く、船だって帆船・自力の時代だしな 人数多ければ莫大な費用がかかるし、人数が少なければ野盗に襲われる可能性だってあるしそれに他領地を通過する時の礼儀やお礼品の気遣いや宿場が他大名と重なった時、官位や地位、立場によっちゃ譲らなけりゃならないし、防衛上の理由で橋も無いとか天候次第で足止め食らう場合もあってその分費用がかかるし、風土になれず病気になる可能性もあるし、本当に大変だったと思うよ
参勤交代考えた人って天才だって思った。何しろ、有事には江戸に来てる大名の軍隊をそのまま動員出来るもんな。
人材派遣のくだり、初めて知りました😂 勉強になりました。
江戸の町には、口入れ屋という商売があって、何かの仕事現場に人を行かせる手配師が居ました。完全に人材派遣ですね。
参勤交代の行列を横切ってはならないのは当然だろうけど、集中する時期や場所によっては開かずの踏切状態になったりしたんだろうか。
街中では、わざと区切って間を空けることもあったそうな。また産婆さんは子供が生まれる時には大名行列を横切っても良かったとか。
5:38 距離はフルマラソン並みだけど。2時間程度じゃないから、そこまで速くはない。1日40キロなら、普通に歩いても7〜8時間くらい。
それが連日だから、そりゃキツイわ
@@sidetonegawa5252 よく読め速くないと言ってるだけで。キツイかどうかを言ってるわけじゃない。確かに、毎日40キロ歩いたらキツイだろうが。
行列に出会えば道を開けて通り過ぎるまでは、武士階級以外は「土下座」というのは常識ですよ。動画にある当時の絵の通り。おっしゃっている立ったままというのは、「下に~」という警蹕の声を止め「避けよ」というのは江戸府内に入ってからのこと。東海道なら品川から六郷の渡しを渡った後。将軍のお膝元の江戸で「下に」という掛け声は失礼だったからですよ。あれが何々のお大名という話をして見物しても咎められなかったのは江戸府内だから。そのため江戸では「武鑑」という大名家の紋所や重臣の名前などを網羅したカタログなどが売られていて、それを手に見物していた。因みに桜田門外の変の時、襲撃者の15人は行列見物者のように見せかけて襲撃のすきを狙っていた。大名の世継ぎですが、継嗣を決めない(正式に幕府に届け出ない=当時子供は幼児期のうちに急死することも多く、幼いうちにはなかなか届けられなかった)うちに急死することも多く、幕閣もそのことは十分に承知していますよ。こういう死後に届け出ることは普通にありました。実際に法度にも定められ、「末期養子」(子がなく、死後に養子を取り継がせる形)などは、減知(領地を減らす)と定められています。それでこれをまけてもらうために老中などに付け届けをしたり、有力大名に口をきいてもらうためにあたふたとしたわけです。改易(取り潰し)は3代家光のころぐらいまでです。例を言えば、徳川吉宗も継いだ兄二人が次々に病死し、慌てて江戸表に出て紀州家を継いでいます。土佐の山内豊信(容堂)も同じで、後を継ぐときに島津斉彬に口利きしてもらってます。もっと面白いのは暗殺された井伊直弼。跡継ぎ決まってなかったんですよ。大騒ぎになっている江戸市中。とりあえず井伊家は登城を「直弼急病により」と届け出ます。そして時間を稼いで持っていかれた「首」を探し回るわけです。病死の形を整える必要があるからですね。直弼を嫌っていた老中たちは意地悪いことに「将軍家よりのお見舞いの使者を出しましょうか」と嫌味を言い、家老たちが「いえ、病室はむさくるしく礼を失するかもしれず」と大汗で言うと、「直弼殿だが聞くところ、重病であるとも...。例えば、首が失われる病とか」とイジメました。ま、そういう感覚ですよ。
詳しい解説を有り難うございます😊
@@TakahiroIwata-vw6qm 井伊藩はその後、様々に苛め抜かれたから、後継ぎはさっさと新政府に寝返っているんだよな。鳥羽伏見の時に兵糧を集めて渡していたらしい。
@@Arthur-en7jm 江戸幕府成立前からずっと尽くしてきて、その扱われ様は気の毒ですね。
@@Arthur-en7jm 後継者は賢明でしたね。
知らない事を知るって楽しいですよね♡
とりあえず殿と老中ぐらいが江戸近郊の宿場町まで籠とか馬で来て、そこでアルバイトの浪人侍を雇って行列風に整えて江戸に向かった藩が多かったと聞くよね
なんで老中が登場するんだよ?
徳川姓(御三家)の行列だけは例外的に土下座させた。
加賀藩の参勤交代と氷行列には別の意味があって最短時間で江戸を攻め落とす軍事演習だったそうです。
それは一つの事実ですが原因と結果を混同してはいけません(笑)
@@れん-c6c まあ藩内でのジョークじゃないかな。でも誰に言ったジョークであれ幕府に知られたらジョークで済まなくなる。下手すれば改易。 ところで氷行列って何ですか?
藩内の右派を納得させるための説明も必要だったんでしょ。為政者たるもの、相手に合わせた答弁があるんですよ。
サラリーマンは通勤交代😢
行列に参加するアルバイトを雇う場合もあったと聞きました。
行列の派遣やアルバイトは良く聞きますね!道中の雨☔とかは行列も大変ですね!😢
天気の件は相当厳しかったでしょうね。日程優先で、豪雨の中歩くのか?1日延泊して日程をずらすのか?宿泊日変更にしても、雨の中飛脚が伝令するのも大変。陸はともかく川を渡るとなれば、水が引くまで動けませんよね。気象衛星も、雨雲(Xバンドレーダー)も無いので、台風の中に突っ込むこともあったでしょう。豪華な衣装もずぶ濡れになって、泥だらけ。大名行列の責任者は大変だっただろうな。
最初は各大名が権力者にごますりの為に我先に参勤していたそうです。が江戸も初期は充実しておらず、また領国経営をさせる為に交代制度にしたそうです👍
現在もそうですが、田舎より都会の方が様々な刺激があります。特に当時の田舎は恐ろしく単調なはずですから、藩主及び藩士ともに江戸勤務と生活を楽しんでいたものと想像します。
藩主が参勤に向かった後、藩主の代理を務めた役職は、城代といいます。赤穂事件の主謀者大石内蔵助の役職は、城代家老でしたので、赤穂藩のNo.2ということになります。なお、建て替え後の大坂城のNO.1は、なぜが城代でした。
細川藩の参勤交代は熊本から直線の道を作り、大分県の飛地の坂ノ市にで、そこから瀬戸内海の船道。熊本-坂ノ市間は兎に角直線、山の中腹を通り、山野を通り、トンネルはなく、直線。
やはり新しい時代の生き方を楽しむことが大切ですね。多分想像以上に綺麗であっても美意識は大事にしたいところ。ノーサイドでよろしいでしょうか。
参勤交代は勿論、部下の給与や各方面の接待などお殿様はとにかく物入りで、もしケチった部分が見つかると他藩のお殿様から見下され面子潰される...浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけたのはそんな原因もあったのかな?と思いながら動画を拝見させて頂きました。
参勤交代、サボれば、当然、お取潰しでしょうな、行列は、藩内の城下町と、品川からだったりしたのね。
江戸時代は品川の人足、生まれ変わって品川Amazon倉庫で働いてる派遣社員絶対いると思うw
東海道なら品川宿あたりに小規模大名向けのエキストラ専門の仕出し屋がいたのが面白い。恐らく、多摩川を渡ったあたりからその事で頭が一杯だったんだろうな。
子が産まれる時に産婆さんを迎えに行く時には大名行列を横切る事を許されたと聞いた事がある!事実かどうかは、わからないです!知っている人教えて?
その通りです。あと飛脚もね❤
と言うより、子供が生まれそうで急いでる産婆が大名行列を横切ってもお咎めなしだったてのが正しいかも実際急いでる産婆を切った大名行列があってその大名家が取り潰された事がありました
それ聞いたことある
@@NEOgoglles.1 足利尊氏の子孫喜連川家の歴史調べたら面白い🤣!10000石以上が大名として制定されてもなお、わずか5000石の大名!徳川家と同等の格式を持っていた橋の下に領主が潜んで諸外国の大名家の参勤交代の行列から通行料を掠め取っていた!橋の下で釣りをしながら頭の上を通れない他国の大名からお金を貰ってどっこいしょと腰を浮かして移動する!この藩明治の廃藩置県まで自国の藩から民の農民一揆が一度も無かったらしい!
許されるとは言っても、いきなり横切ったら斬られちゃいます。ちゃんと声掛けしてからね?礼は必要。そこは現代も昔も一緒だと思うよ。
戦が無い分の忖度だからね。コレ無くなったらホント仕事ないで。
そうなのかもしれません。申し訳ございませんでした。両者が緊張してしまっていた。直ぐ行動できなかったり、その時々の状況を上手く伝えられなかったこと。質素な参勤交代が良好な関係に不可欠ですね。失敗ではなく大事な真実を得られました。貴重な参勤交代。年を重ねて新しい時代になりました。これからの時代を有意義にできるよう願いつつ日々の積み重ねを大切にして参ります。ノーサイドでよろしいでしょうか。
いつの時代も上級階級民は贅沢三昧庶民は納税地獄歴史は何も変わらないのだな
皇居外苑に地元にいたお殿様の上屋敷跡があって、新幹線で1時間半強で移動できるから、年数回皇居ランしたさに通ってるけど、地元のお殿様が今いたらビックリだろうね。
内藤政醇 駕籠に乗ったのがまずかったのでは?走って往復した実績あるんだから そっちのほうが良かったと思うぞ
参勤交代で内乱とかをある程度は防いでたと思うと不思議の国ニッポンすぎる
金を使わせて経済を回す。そして大名に金を貸し付け金融即ち銀行の元である両替商が武士より力をつけた。士農工商の身分制度で商人は一番底辺だった。貸し付け金が回収出来ない大名の資産を差し押さえる事が出来た。ある意味刀より金だったな。
江戸時代のある日「殿、そのままではエコノミークラス症候群になるかと。一度、外の空気でも・・」「わかった・・次回はビジネスクラスで行きたいな」
国替えについての説明もお願いいたします。
見栄の張り合い意地の張り合いなんでしょうね😊
それぞれの大名の国威発揚の場である側面もあるんでしょうね。現代に例えれば万博やオリンピックみたいなもの。
半端ない費用が掛かると聞きました。正直、気が進まないと言うのが本音みたいですね。
では参勤交代の下に〜下に!はドラマ、映画とかの作りなの?
最後の地図が面白い
とにかく尿意をもよおす事で知られており、でちょっと笑ちゃったwこういうエピソードって将軍様に親近感が湧く
見栄とプライドが何より大事なのが今となっては微笑ましい。
すみません。うろ覚えなのですが、参勤交代を定めたのは徳川家光ではなかったですか??
もともとは自主的に行うものだったけど制度化されたのが家光時代
書き込む前にググれ
@@KokonTouzai-Rekisi-Channel わざわざ返信ありがとうございます。期間などを決めて制度化したのが家光なんですね。おかげさまで正しい知識をつける事ができました。
@@ウエイノ-l7l 間違いない
飛行機で飛び新幹線で走る現代とは天地ほどの違い
参勤交代ー軍事力ー軍事訓練?いつもありがとうございます。
最後メリットデメリットの下りでメリット言い忘れてますな
江戸で日本全国の情報を収集して藩政に活かすことが出来たとかなんとか最後の方で言ってましたね。
良い点を言ってはいるけどデメリットの紹介したまま区分無しでメリット紹介までしてるのでそこは文章として分けないといけない部分と言うだけのツッコミです
江戸時代から、行列に並ぶアルバイトのエキストラがいたんですね。
最後の地図は明治時代のモノですね。
通信網や公共交通がなかった時代に、日本全国を均一に統治する仕組みを考えた徳川幕府すごいな。
サラリーマンがぞろぞろ歩くのはこれの影響かぁ😅
サラリーマンは士族ではない
今思ったら近年の増税ラッシュと参勤交代って同じやん
参勤交代が辛いものというのも前時代的なカビの生えた評価。江戸の情報や人脈をつくるために大名側にもかなりメリットはあった。
費用がデメリットすぎる2年交代とかでも3年交代でも知識の交換は可能なのに毎年移動はしかも見栄の張り合い
@@RivusVirtutis 現代ですら2年前の知識なんて使い物にならない。知識というより幕府への陳情・報告や制度の変更、社会変化を知る、藩士の教育の側面が強かったのでは?幕府も「ほどほどにね」とお触れを出しているのに大名側で辞めなかった例もある。
@@datemarugt それはもちろん。ただなんであれ辛いものではあったというだけ。幕府からすれば勝手に見栄を張ってもそれが慣習になればただ辛いだけ。ウェーバーの言う伝統的支配においては慣習の反復こそが芝居の正当性の根源だから先祖が見栄を張って競い合ったばかりに子孫は辛い思いをしたという
大名の経済力を削ぐのが目的だったというのは、学界では否定的見解が主流です。
これもどうだか分からないけどね。日本には日教組など日本文化や歴史をDISる勢力が多いので多くの歴史も悪い方に書き換えられてることも考慮する必要がある。
やることや考えることは現代人に似てるところあるんですね
昔の侍たちは寛大だったんだなぁ
大変なものだ。
最初に引くて数多なのではないでしょうか。とお尋ねした通りでしたね。本当の真実が確認できて良かったです。沢山の方々の幸せの担い手。自信と優越で誰かのことを中傷する方法は残念です。事実を知る為に敢えてサイトに入りました。世界中でご活躍何よりです。こんなに多数の方々のヒーローなのですから。人を弄んでストレス解消できて良かったですね。
参勤交代は軍務
だから大名の宿場を本陣と言うらしいですね。
みんなが江戸へ向かう理由の一つに神宮へ行くこともあったかもしれませんね
13:53 家重やべぇ(笑)
こういうただ支配と管理のためのムダな慣習は現代社会にもあるんだよなあ
国会議員も参勤交代すればいいのに
してるやろ
江戸時代にはまだ飛行機はなかったから、エコノミークラス症候群もなかったはずだ
宿場間の平均距離が30キロというのは間違いでは?東海道で9キロ、よく利用された中山道で8キロくらいですよ。実際歩いたことがないとこのような間違いしますので、実地調査もすることをお勧めします。
動画で言いたかったのは1日に歩く平均距離のことでしょう。
次に逗留する宿場までの距離のことですね、大名行列は1日30~40kmを歩き行程が遅れた場合は一つ宿場を飛ばすことになり多いと約50kmもの距離を歩くことなり更に宿場の宿の手配などの調整が大変だったそうです。(宿場の間隔は指摘の通り8~9kmほどなので40kmの予定の行程だと一つ宿場を飛ばすと約50km歩かされます)
徳川家康の時は、参勤交代は、義務化されていたか?😮😮😮😮😅😅😮
家光が武家諸法度に追加する以前から一部の大名の参勤は行われていました。
制度の基礎は秀吉が作ってる諸大名を大阪に住まわせて1年ごとに所領と往復させた
お付きの方達は茂みでトイレを勝手にしたんだろうなあ。女の人は絵であまり見ないから全くついて行かなかったのかな?
地方の大名が参勤交代で江戸に向かう途中で御三家とか御三卿の行列と出くわしたとかになったら地方の大名は顔が真っ青になるでしょうなあ。
初めて日雇いの話聞いた時( *'ω')ファッ!?ってなったけどよく考えたらずっとそんな人数連れて歩くの無理よねw
歩きか馬くらいしか移動手段がないのに本当にこんなことが出来ていたのなら不思議すぎる。道だってまともになかっただろうに‥。
むしろなぜ不思議に思うのでしょう?動画でも説明されていた通り街道はすでに整備されていましたし、徒歩と馬しかないといっても、同時代のヨーロッパ人は、騎兵歩兵で参勤交代どころか、西はスペイン・ポルトガルから東はロシアまでを股にかけた大戦争を繰り広げてるわけですが...
@@fw1977 隣町へ行くのと違って山越えするのに道など整備されてないと思いますが‥。現代でもアスファルトの無い山道を歩きで移動など命を捨てるようなものです。
日雇いで行列増やすの笑った
徳川幕府のシャンパンタワー🗼🍾⁇🍀(妻子人質?だし、😥)エコノミー症候群と、当時の人は、おそらく理解してなかったのでしょうね、、😰。
島津忠徹の急死に関するくだりは興味深く、この一連の騒動だけでドラマが出来てしまいそう。
東京一極集中の元凶がこの制度だったような気もします
とんでもな勘違いですよ。江戸は最後まで政治以外の中心地になり得ず京大坂が経済・文化・科学の中心地のままでした。経済力は西日本の方が圧倒的に高く、下りもの あらゆるものが京大坂で作られたものが最先端。特に着物は京大坂の古手(古着)こそが価値が高く江戸周辺で作られた織物は庶民の普段着の地位から脱却できずに居ました。将軍吉宗は江戸(関東域)が消費都市になっているのに頭を悩ませ江戸近郊の殖産興業に力を入れましたが成功したとは言い難いです学問では江戸は幕府の政策で朱子学優先とされたのでそれ以外は大坂や日田、長崎等地方の方が盛ん。科学は西洋の知識が入る長崎を中心に石炭使用で高い火力を使える北部九州が発展していました変わったのが明治維新であらゆる部門の最先端が東京に集められました。ただそれでも戦前は京阪神の経済力は関東に拮抗していました。本格的に変わったのが戦後のGHQ専制。ここで東京(GHQ)にお伺いをたてないと何も出来なくなり戦後の政府もその体勢を引き継いだので一極集中が加速 と言う流れですね
@@toshis3972👀なるほど有り難うございました🙇
ヤドバではなくシュクバでは?😅
結果としては、人やモノや金が動くという事で経済には相当貢献したし文化交流もできて今の時代の礎になったことは間違いないです。
街道を中心に日本全土が隅々まで発展した功績は大きい。
維新後、たった数十年で日本中に鉄道を敷き詰め、電気、水道を通し文明先進国となり、ロシアを破ったんだから、バブルなんか比較にならん忙しさだったんだろうな。
そして令和の今は、地方の山村や漁村を中心に過疎で消滅を避けられないんだから難しいね。
道路や橋などのインフラ整備も進んだことと思います。荷車はあったのだからちょっと工夫すれば乗用のクルマも作れた筈。人力車や馬車でもあれば移動はずいぶんと違った形になつていたでしょうね。
乗り物は身分制度と密接な関係があるので、江戸期には一般向けの馬車は難しいかなぁ。
江戸時代初期を除けば藩主なんてみんな江戸生まれの江戸育ち
江戸こそが大名達の生まれ故郷であり、自分の領地に愛着を持たない大名も多かった
それと江戸幕府は何度も派手な大名行列をやめるように規制や御触れを出している記録があり、逆に大名達が聞き入れずに派手さを競ってた
@@hassiymt へ〜。江戸で生まれ育って遊び慣れてからの地方領地赴任は毎日が退屈だったでしょうね。赴任じゃないか、自地なんだし。
そうですね。結構、楽しんでいたような記録も残ってまいすね。昔、月刊「日本歴史」という冊子に、津軽藩だったかな、江戸へ行く藩士に家族・親戚一同が詳細な買い物リストを渡していた記録が載っていました。品物だけでなく買うべき店まで指定されていて、江戸と藩の関係が密接だったのがわかります。参勤交代や江戸出張などがなくなって一番、残念に思ったのは地方の藩士だったかもしれません。
東京転勤になって東京の都会生活に馴染んだのに地方に戻れと言われたらそりゃ嫌なのは一杯いただろう
今も昔も一緒
現在のどこかの世襲国会議員も似たようなものですね。
彼らは参勤交代をしないから地元(領地)の実情を知らないし、移動も数時間なので世間を知らない。
酔えば勤王 覚めれば佐幕 下手な公武合体より始末が悪いと西郷隆盛に言わせた
鯨海酔侯の土佐藩主 山内豊信(山内容堂)は、藩主山内家本家ではなく分家の出で土佐藩城下で生まれてます。
明治維新後は東京で生活してますが、酒飲んで芸者遊びを繰り返して、山内家の財政を傾かせた事は有名な話です。
なお、山内家現当主は現在も東京在住の会社経営や財団法人理事などしてます。
各地の地方有力者が日本各地でお金を落とすというのは、殿様はつらいかもしれないけど日本中の経済発展には大きく寄与しただろうねぇ。
徳川家光「そ、そう!それが参勤交代作った目的だからね」
@@もふもふ-x4p
いえみっちゃん Goodjob!!😃😁😆
勝海舟「その金でインフラを整備しろよ!」
@@TheHaimani 参勤交代でインフラ整備されてたから明治以降の発展があったんでしょ。
宿場町は日本の人口3000万人とは思えん栄っぷりだもんな。無駄なサービス支出のおかげやて。宿場町在住だけどなんなら令和の方が寂れてるw
参勤交代で宿場町で経済活性化になり、商人たちが強くなり大名貸しが登場するなど武家と商人の立場が次第に逆転する!更に大名行列もアウトソーシング化になっていました!参勤交代は莫大な人数や馬など要る為、江戸に着く前に人と馬など揃えて藩邸に行く状態に
参覲交代は交代で江戸城防備の出陣です、だから石高により軍勢が定められています
各大名は見栄を競って軍勢を大きくしたので度々徳川将軍家は削減を言い渡しますが各大名は従いません
かつては大名の経済的負担を強いるという説がありましたが今では否定されています
大名行列が通る街道筋や道路や橋などのインフラ整備、地方の物産の江戸での宣伝など各大名にもメリットがありました
庶民が土下座して行列を見送りのは加賀前田、薩摩島津、岡山鳥取池田などの国持大名以上でした
江戸市中では江戸市民が土下座するのは御三家・御三卿だけです(御三卿は参覲交代はしませんが)
参覲交代中の大名と仕事中の旗本が出会った場合には問題が起きます
旗本が将軍家直々の命令を執行中は大名が道を譲る事になりますが通常は官位の上下により判断します
下っ端大名ならば高家には道を譲らなければなりませんが高家に出会う可能性はかなり低いですけど
「経済的負担を強いるという説がありましたが今では否定されています」
出典は? あと、その考え方主流なの? ただの歴史修正主義?
東大の入試問題では1983年にはすでに取り上げられていて、現代の教科書の記述等からも幕府が大名の力を削ぐためにというニュアンスは削除されているます。簡単に手に取れる書物でも講談社新書の「参勤交代」なんかがあります。もう少し専門になりますと、岩波講座日本歴史10や京都府立大学の藤本仁文先生の論文や塙書房から出てる著作なども基本的にはそのスタンスです。
@@明智光秀さん 回答ありがとうございます。
最近、投稿動画に対して反論コメントするのは良いのですが、出典を記さないので調べようが無かったので助かります。
@@leonhardthird こちらこそお役に立ててよかったです。
実は江戸市中以外でも土下座するのは御三家(水戸徳川家は江戸常駐なのでしないが)と聞いたことがあるが、いったいどうなんだろ。
参勤交代は、旅費もだが江戸で使う金こそが諸藩の藩財政の足かせだった。
参勤交代がなければ藩主・家族・藩士が江戸で暮らす理由はないのだから、これこそが最も厄介な問題だった。
そして、その金策に走り回ったのは国許でした。
国家老にとっては、苦労して徴収した年貢の大半が一方的に江戸藩邸に吸い上げられていくのは、つねに悩みの種だった。
その結果は、どの藩も江戸藩邸と国許の間に深刻な確執が出来ました。
藩収の80%を食い物にした極悪非道な政策を260年もやり、更に明治維新から現在までだ。このエリアがなければ日本は隅々までもっと豊かになってた。
むしろ藩主も家族も藩士も東京大好きだったと思うよw
現在の財務真理教と同じ機構やん。
府中宿 (静岡市) から東京の日本橋まで、旧東海道を歩いたことがある。新幹線の駅にして7駅分。
昔の人は本当に凄かったのだと実感した。あの箱根の山の中を真冬に歩くのは地獄だったと思う。
旧東海道に関しては、安藤広重の東海道五十三次の絵が有名だ。実際に歩いたら、『広重はこの位置あたりから、この絵を描いたんだな』ということが分かり、時空を超えて感動した。
その日本人の体力、玄米に秘密があるのではないかと思うのです。
実は私は1年前から玄米食を始めたのですがそれからは「バテる」という感覚が全くと言っていいほどなくなりました。
@@矢田主馬
西洋人が飛脚の脚力に驚嘆して、肉を与えたらもっと凄くなるだろうと思って、肉食させたら途端に走れなくなったそうな。
日本古来の食事というのは凄いと思いますよ。
タイムマシーンで事実を見てみたい!
一次資料では参勤交代は大名が自主的に始めたものを、家光の代に正式に制度化したもので大名の財力を削るために始めたというのは誤りらしいです。
それと幕府は供の数を減らせ、簡素化しろと繰り返し通達していたものの、大名が見栄を張るために大勢の供を連れていただけだそうです。
自主的に始めたのも他よりも。
って言う見栄からくるんでしょうかね。
簡素化しろというのも、武家諸法度で参勤交代の要員を石高によって決めていたため。
逆に幕府は大名が上京した際は大名をもてなしたり、経費を負担したりで幕府側の負担もばかにならなかった
大名や武士は、商人や農民を切れば、最悪の場合、お家取りつぶしの危機にあうため、威厳を誇示することもなかったらしい
ほとんどの国は、
国内の内乱内戦が当たり前のように起きていた中、
平穏さが200年続いた秘訣
それと引き換えに様々な進歩が止まり、世界からおいてけぼりをくった時代。全国的に識字率も高く、数学的思考、医学的思考、学術的価値のあるものを産み出せる民間人が多かったのに、海外留学が出来なかった。だからこそ明治時代にお雇い外国人が幅を効かすことになった。これは徳川幕府の罪。
現代の日本人的性質のほとんどは江戸期に形成された。この辺は各自、各書籍でも読んでいただいて。世界がどうなっていても自分のムラの心配ばかりをしている日本人、ネットのコメント欄そのものですよ。
その事で近代化が遅れたのも事実です。
明治維新は革命ではなく、日本が多額の金をロス⭕️ャイルドから借りてしまい、属国への第一歩を踏み出す出来事です。
200年の鎖国が、国際社会から取り残され、いい様にされる事態の遠因です。
GJ、面白い👍
短時間の中に、面白い要素満点の編集でした👏
ありがとうございました。
12:29 宿場間の平均距離が30kmというのは間違っているかと思います。東海道約500kmで宿場が53(区間としては54)ですので、平均距離は9kmちょっとです。
素晴らしい内容。特に「行列の前で土下座」は当たり前に信じていました。目から鱗でした。
おもしろかった🎉
そこっ!!頭が高い!!
土下座するのは将軍や徳川御三家の行列くらいだそうです。
しかし、産婆さんは子供が生まれる時には大名行列を横切って良かったそうな。
私達の住んでいる街に大庄屋さんが今でも有るのですが、その大庄屋さんの家の前を殿様が籠で通ると何と
お殿様は籠から降りて歩いたそうですよ、今でもその大庄屋さんの家は残っていますが、本当に凄い庄屋さんだったのだと思いますね。
@@アプリ-z9x
殿様みじめーw
本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に
@@けい-h6z4t
今はゴルフ用品店やってますね
薩摩藩の参勤交代費用は三億以上かかっている。しかし8代吉宗の時は特に西国大名は大阪まで船で来ていました。ある程度緩くなった
船は風待ちで何十日も待たされることがあるので日程も費用も読めず
薩摩は途中から陸行になっています
途中の裏技は、映画の超高速参勤交代思い出しました😊
懐かしい。( *´艸`)
あれ、俺が五年間住んでたいわき市が舞台で、ちゃんと方言も使われてて感激しました。
参勤交代は、徳川幕府により定められた軍役人数を揃える必要がありました。石高によって細かく決められていました。
参勤交代に遅れる理由には、天候の不順や川止め等で遅れる場合には宿場役人の発行する書状がありました。
行列の人数合わせの人足は、宿場ごとにいました。宿場には宿場役人がいて決まった人数がいるのか見ていましたから。
参勤交代毎に軍兵まで動かすのは非効率ですよね。ずっと江戸屋敷に置いて藩の内規で適当な時期に交代させた方が費用も少なくて済んだのではないでしょうか。それに実際に各藩の軍兵が形だけでも江戸の守り業務をやっていたのでしょうか。それらは直臣の旗本や御家人達がやっていたはず。
参勤交代はいざ鎌倉とか関ヶ原に参陣とかと一緒だから。将軍への軍事奉仕として戦の構えで行く。兵何人とか鉄砲何丁とか弓何張りとか決められた戦力を連れて行く。関ヶ原の戦後処理として固まった領有関係がそのまま凍結保存されたのが幕藩体制であって、300諸侯が城にこもって武装を保持して将軍からの出兵命令を待っているという事が250年続くのだ。参勤交代は兵の備えを怠っていないか閲兵する意味もあった。そうやって国内の平穏を常に守っていますよというのが将軍の勤めで、ずっと戒厳令が続いているからの軍事政権で、その官として代々将軍を任じられてきた意義でもあるのだ。
徒歩で鹿児島から江戸まで、ふつーにいくわけなので、伊能忠敬が徒歩で全国探索も、さもありなんです。すごい健脚ですね・・。
九州の大名達は瀬戸内海を船で行くことはしなかったのでしょうか、費用はともかくずいぶんと楽になりますよね。それとも船は禁じられていたのかしら。
@@sidetonegawa5252 西国の大名たちは船を使いました。もちろん幕府から許可を得るのが条件です。
大阪まで船で移動して、そこから東海道を使い江戸まで徒歩で向かいました
投稿主の認識が古い。参勤交代は大名の経済力を削ぐのは目的ではなかった(結果として削ぐことにはなった)幕府は大名行列を質素にせよと何度も触れをだしている。大名が自発的にこぞって行った。江戸へ人質(妻子)を置くのも幕府へ積極的に忠誠を誓うため。2代目以降の大名は必然的に必ず江戸生まれ江戸育ちとなるため食事も文化も生活習慣も言葉も江戸に慣れてしまい、領地へ戻る方が慣れないド田舎への赴任で嫌がった。
それいまの国会議員と一緒やなw ◯◯3区つっても東京の中高大卒でほぼほぼ地方にいたことないというw 400年システム変わってないw
おぉ〜なるほど
面白いね😊
まあ諸説ありますわ
明治維新で在国(居住)の自由を認められた元大名達がこぞって東京に居を構えたのも、彼らにとって江戸(東京)こそが生まれ故郷だからですね
勿論、在国を続け地元の教育・起業に尽力した元大名も居るには居ましたが極小数ですね
面白そうと思って見たけど、やたらダルい語尾に、すまんけど耐えられなんだ😩
江戸と街道の要衝は栄えただろうけどそこ以外はなぁ〜。まさに東京一極集中の原点だな。この頃から日本て進歩してないんだな。
戦後ですら太平洋ベルトってあってな、
成長には選択と集中は必要なんさ。
あと、江戸時代は重農国家で、その栄えた要衝もあるが、僻地も過疎になる訳ではない。
「超高速!参勤交代」という映画は、史実に基づいていたものだったんですね。
江戸を繁栄させ、地方との格差を作るすごいシステムですね。
よく思いつきましたよね。これは日本だけですか?
途中でお金を落とすので地方にも江戸の様子や経済発展に少しは繋がったのでは?ちなみにその頃今で言う通販も発達したとか。
たしかルイ14世以降のブルボン朝フランスでも貴族がパリやベルサイユに居住しており中央集権化に寄与していたらしいです。王の寵愛や近侍具合によって官職・爵位・領地が決定されていたので貴族たちも必死でした。
痴呆分権の類は、もともと他国を潰すための策略として使われるからなぁ
@@minaffy-peridot 山口組は月一の定例会のみ直参の組長を本部に集めてますね。
昨今は暴対法も厳しくシノギが回らずに上納金が払えず
御取り潰し(直参降格)になる組もあるようです。
江戸時代の日本は中世ヨーロッパみたいな感じ
参勤交代は徳川家が全国の大名を統一し武力を動員できることを示す役割も大きかったので、大名は一定の武器を持ってくることが通常だったようですが、あまりに大量の武器を持ってこられると江戸でクーデターを起こされかねないので携帯できる武器の量は厳格に決まっていたって習ったことがあります。ソースは知らんけど。
備後福山藩を通る浅野や毛利等西国大名達は幕府が威信かけて築城した福山城の天守閣や縄張りや曲輪に畏敬の念を抱いて参勤したそうです。
どんなシステムにもメリットもデメリットもあるからなぁ
中央集権として機能していたからこそ、長期にわたって安定し、他国の侵略にも抗うことが出来てたんだよな
それが、綻び始めたタイミングで、ジャイアンusがやって来たから、一気に江戸幕府も崩壊したけどね
鎖国前は銃の数も随一だし秀吉が狙ってた東アジア支配は厳しくても信長が狙ってた東南アジア支配ぐらいは何とかなるぐらいの国力はあった
それなのに徳川の現状維持で逆に徹底的に国力を削ぎ落として自分達への反乱の目を潰す政策のせいで鎖国中に外国と周回遅れの差が付いてしまったからね
アメリカで原住民がウホウホしてた時代から発展して黒船で日本にやってくる期間より長く徳川は狭い日本で発展を阻害してお山の大将をやり続けていたと思うといかに罪深い事か
参勤交代、大変そうな時代だったね、本当に生き地獄だ、結構金取るし。
佐土原藩の知恵の例
偽造した書類だが、(本当は死んでいるが)藩主の署名がどうしても必要だった。そこで手が震えて書けないという事にして回避して誤魔化した。
チュウキの症状が激しく・・・
参勤交代。面白いシステム。最初は義務ではなかったらしいですよ。
元禄以前は宿場には食事はなかったようで、自前で鍋や釜を持って米、味噌、等も持参し、宿場で料理していたそうでホントに苦労があったようです😅今のように街中に飯屋とかそば屋、魚屋が出来たのは元禄時代からだそうです。宿場で食事が出たのも元禄時代からです😅
ちなみに江戸の本妻と地元の妻と二人居たようで😢
行く、楽しみ。帰る、楽しみがあったのですね。
参勤交代により日本の道路整備が発達した結果、明治に入って鎖国が解かれて大量物資の時代になっても
流通、物流が滞るコトなく、西洋が驚くぐらいのスピードで発展出来たんでしょうね
街道整備とは名ばかりで、道路舗装がなされていない。しかも河川にかける橋などの交通インフラ整備もない。
江戸時代の間、江戸と大坂の間の移動時間は、ほとんど変わっていないのがいい例。
@@田中俊2 全国主要道路のアウトラインは出来てた訳で、それは大きいコトと思いますけど。舗装については人馬の時代にアスファルトひく必要無いし。大げさですけど。インフラが国にとって大切なコトって人民の意識の中に有るか無いかも大きい。
例えば朝鮮なんかはソウルの街でさえ道なんか有るのか無いのかヒドい有り様だったらしいですし
インフラなんて概念すら無い国がアジアでは殆どだった訳だし。
@@ArnoldBo 約20年前まで日本の道路舗装率は韓国やタイより低かったことを知らんのかな?ヨーロッパで馬車が走る中で、江戸時代は舗装されとらん道を籠で人が運んでいたから、当時の道路事情は日本も韓国もタイもあまり変わらん。そもそもアスファルトだけが舗装ではない。古代ローマの石畳も立派な舗装。雨が降ったら舗装されとらん道がぬかるんで、人馬の移動が大きく滞ることは予想がつかないのか。特に梅雨時期の大名行列の一向は過酷やったやろね。そもそも日本の道路舗装率が上がったのは明治以降。そこから劇的に人や物の移動速度が上がった。つまり江戸時代は平民に優秀な人々がいるのに、徳川幕府が平和ボケして時を止めてしまった時代。これは罪。
イデオロギー色が強い人って批判と攻撃ばかりで他者のリスペクトが出来ないのよね。
そりゃ当時は車も鉄道も飛行機も無く、船だって帆船・自力の時代だしな 人数多ければ莫大な費用がかかるし、人数が少なければ野盗に襲われる可能性だってあるし
それに他領地を通過する時の礼儀やお礼品の気遣いや宿場が他大名と重なった時、官位や地位、立場によっちゃ譲らなけりゃならないし、防衛上の理由で橋も無いとか天候次第で足止め食らう場合もあってその分費用がかかるし、風土になれず病気になる可能性もあるし、本当に大変だったと思うよ
参勤交代考えた人って天才だって思った。
何しろ、有事には江戸に来てる大名の軍隊をそのまま動員出来るもんな。
人材派遣のくだり、初めて知りました😂 勉強になりました。
江戸の町には、口入れ屋という商売があって、何かの仕事現場に人を行かせる手配師が居ました。完全に人材派遣ですね。
参勤交代の行列を横切ってはならないのは当然だろうけど、
集中する時期や場所によっては開かずの踏切状態になったりしたんだろうか。
街中では、わざと区切って間を空けることもあったそうな。
また産婆さんは子供が生まれる時には大名行列を横切っても良かったとか。
5:38
距離はフルマラソン並みだけど。
2時間程度じゃないから、そこまで速くはない。
1日40キロなら、普通に歩いても7〜8時間くらい。
それが連日だから、そりゃキツイわ
@@sidetonegawa5252
よく読め
速くないと言ってるだけで。
キツイかどうかを言ってるわけじゃない。
確かに、毎日40キロ歩いたらキツイだろうが。
行列に出会えば道を開けて通り過ぎるまでは、武士階級以外は「土下座」というのは常識ですよ。動画にある当時の絵の通り。おっしゃっている立ったままというのは、「下に~」という警蹕の声を止め「避けよ」というのは江戸府内に入ってからのこと。東海道なら品川から六郷の渡しを渡った後。将軍のお膝元の江戸で「下に」という掛け声は失礼だったからですよ。あれが何々のお大名という話をして見物しても咎められなかったのは江戸府内だから。そのため江戸では「武鑑」という大名家の紋所や重臣の名前などを網羅したカタログなどが売られていて、それを手に見物していた。因みに桜田門外の変の時、襲撃者の15人は行列見物者のように見せかけて襲撃のすきを狙っていた。
大名の世継ぎですが、継嗣を決めない(正式に幕府に届け出ない=当時子供は幼児期のうちに急死することも多く、幼いうちにはなかなか届けられなかった)うちに急死することも多く、幕閣もそのことは十分に承知していますよ。こういう死後に届け出ることは普通にありました。実際に法度にも定められ、「末期養子」(子がなく、死後に養子を取り継がせる形)などは、減知(領地を減らす)と定められています。それでこれをまけてもらうために老中などに付け届けをしたり、有力大名に口をきいてもらうためにあたふたとしたわけです。改易(取り潰し)は3代家光のころぐらいまでです。例を言えば、徳川吉宗も継いだ兄二人が次々に病死し、慌てて江戸表に出て紀州家を継いでいます。土佐の山内豊信(容堂)も同じで、後を継ぐときに島津斉彬に口利きしてもらってます。もっと面白いのは暗殺された井伊直弼。跡継ぎ決まってなかったんですよ。大騒ぎになっている江戸市中。とりあえず井伊家は登城を「直弼急病により」と届け出ます。そして時間を稼いで持っていかれた「首」を探し回るわけです。病死の形を整える必要があるからですね。直弼を嫌っていた老中たちは意地悪いことに「将軍家よりのお見舞いの使者を出しましょうか」と嫌味を言い、家老たちが「いえ、病室はむさくるしく礼を失するかもしれず」と大汗で言うと、「直弼殿だが聞くところ、重病であるとも...。例えば、首が失われる病とか」とイジメました。
ま、そういう感覚ですよ。
詳しい解説を有り難うございます😊
@@TakahiroIwata-vw6qm 井伊藩はその後、様々に苛め抜かれたから、後継ぎはさっさと新政府に寝返っているんだよな。鳥羽伏見の時に兵糧を集めて渡していたらしい。
@@Arthur-en7jm 江戸幕府成立前からずっと尽くしてきて、その扱われ様は気の毒ですね。
@@Arthur-en7jm 後継者は賢明でしたね。
知らない事を知るって楽しいですよね♡
とりあえず殿と老中ぐらいが江戸近郊の宿場町まで籠とか馬で来て、そこでアルバイトの浪人侍を雇って行列風に整えて江戸に向かった藩が多かったと聞くよね
なんで老中が登場するんだよ?
徳川姓(御三家)の行列だけは例外的に土下座させた。
加賀藩の参勤交代と氷行列には別の意味があって最短時間で江戸を攻め落とす軍事演習だったそうです。
それは一つの事実ですが原因と結果を混同してはいけません(笑)
@@れん-c6c まあ藩内でのジョークじゃないかな。でも誰に言ったジョークであれ幕府に知られたらジョークで済まなくなる。下手すれば改易。 ところで氷行列って何ですか?
藩内の右派を納得させるための説明も必要だったんでしょ。為政者たるもの、相手に合わせた答弁があるんですよ。
サラリーマンは通勤交代😢
行列に参加するアルバイトを雇う場合もあったと聞きました。
行列の派遣やアルバイトは良く聞きますね!道中の雨☔とかは行列も大変ですね!😢
天気の件は相当厳しかったでしょうね。日程優先で、豪雨の中歩くのか?1日延泊して日程をずらすのか?
宿泊日変更にしても、雨の中飛脚が伝令するのも大変。陸はともかく川を渡るとなれば、水が引くまで動けませんよね。
気象衛星も、雨雲(Xバンドレーダー)も無いので、台風の中に突っ込むこともあったでしょう。
豪華な衣装もずぶ濡れになって、泥だらけ。大名行列の責任者は大変だっただろうな。
最初は各大名が権力者にごますりの為に我先に参勤していたそうです。
が江戸も初期は充実しておらず、また領国経営をさせる為に交代制度にしたそうです👍
現在もそうですが、田舎より都会の方が様々な刺激があります。
特に当時の田舎は恐ろしく単調なはずですから、藩主及び藩士ともに江戸勤務と生活を楽しんでいたものと想像します。
藩主が参勤に向かった後、藩主の代理を務めた役職は、城代といいます。
赤穂事件の主謀者大石内蔵助の役職は、城代家老でしたので、赤穂藩のNo.2ということになります。
なお、建て替え後の大坂城のNO.1は、なぜが城代でした。
細川藩の参勤交代は熊本から直線の道を作り、大分県の飛地の坂ノ市にで、そこから瀬戸内海の船道。
熊本-坂ノ市間は兎に角直線、山の中腹を通り、山野を通り、トンネルはなく、直線。
やはり新しい時代の生き方を楽しむことが大切ですね。多分想像以上に綺麗であっても美意識は大事にしたいところ。ノーサイドでよろしいでしょうか。
参勤交代は勿論、部下の給与や各方面の接待などお殿様はとにかく物入りで、もしケチった部分が見つかると他藩のお殿様から見下され面子潰される...浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけたのはそんな原因もあったのかな?と思いながら動画を拝見させて頂きました。
参勤交代、サボれば、当然、お取潰しでしょうな、行列は、藩内の城下町と、品川からだったりしたのね。
江戸時代は品川の人足、生まれ変わって品川Amazon倉庫で働いてる派遣社員絶対いると思うw
東海道なら品川宿あたりに小規模大名向けのエキストラ専門の仕出し屋がいたのが面白い。
恐らく、多摩川を渡ったあたりからその事で頭が一杯だったんだろうな。
子が産まれる時に産婆さんを迎えに行く時には大名行列を横切る事を許されたと聞いた事がある!事実かどうかは、わからないです!知っている人教えて?
その通りです。あと飛脚もね❤
と言うより、子供が生まれそうで急いでる産婆が大名行列を横切っても
お咎めなしだったてのが正しいかも
実際急いでる産婆を切った大名行列があって
その大名家が取り潰された事がありました
それ聞いたことある
@@NEOgoglles.1 足利尊氏の子孫喜連川家の歴史調べたら面白い🤣!10000石以上が大名として制定されても
なお、わずか5000石の大名!徳川家と同等の格式を持っていた
橋の下に領主が潜んで諸外国の大名家の参勤交代の行列から通行料を掠め取っていた!
橋の下で釣りをしながら頭の上を通れない他国の大名からお金を貰ってどっこいしょと腰を浮かして移動する!
この藩明治の廃藩置県まで自国の藩から民の農民一揆が一度も無かったらしい!
許されるとは言っても、いきなり横切ったら斬られちゃいます。ちゃんと声掛けしてからね?礼は必要。そこは現代も昔も一緒だと思うよ。
戦が無い分の忖度だからね。
コレ無くなったらホント仕事ないで。
そうなのかもしれません。
申し訳ございませんでした。
両者が緊張してしまっていた。
直ぐ行動できなかったり、その時々の状況を上手く伝えられなかったこと。質素な参勤交代が良好な関係に不可欠ですね。失敗ではなく大事な真実を得られました。貴重な参勤交代。年を重ねて新しい時代になりました。これからの時代を有意義にできるよう願いつつ日々の積み重ねを大切にして参ります。
ノーサイドでよろしいでしょうか。
いつの時代も上級階級民は贅沢三昧
庶民は納税地獄
歴史は何も変わらないのだな
皇居外苑に地元にいたお殿様の上屋敷跡があって、新幹線で1時間半強で移動できるから、年数回皇居ランしたさに通ってるけど、地元のお殿様が今いたらビックリだろうね。
内藤政醇 駕籠に乗ったのがまずかったのでは?
走って往復した実績あるんだから そっちのほうが良かったと思うぞ
参勤交代で内乱とかをある程度は防いでたと思うと不思議の国ニッポンすぎる
金を使わせて経済を回す。そして大名に金を貸し付け金融即ち銀行の元である両替商が武士より力をつけた。
士農工商の身分制度で商人は一番底辺だった。
貸し付け金が回収出来ない大名の資産を差し押さえる事が出来た。ある意味刀より金だったな。
江戸時代のある日
「殿、そのままではエコノミークラス症候群になるかと。一度、外の空気でも・・」
「わかった・・次回はビジネスクラスで行きたいな」
国替えについての説明もお願いいたします。
見栄の張り合い意地の張り合いなんでしょうね😊
それぞれの大名の国威発揚の場である側面もあるんでしょうね。現代に例えれば万博やオリンピックみたいなもの。
半端ない費用が掛かると聞きました。正直、気が進まないと言うのが本音みたいですね。
では参勤交代の下に〜下に!はドラマ、映画とかの作りなの?
最後の地図が面白い
とにかく尿意をもよおす事で知られており、でちょっと笑ちゃったw
こういうエピソードって将軍様に親近感が湧く
見栄とプライドが何より大事なのが今となっては微笑ましい。
すみません。うろ覚えなのですが、参勤交代を定めたのは徳川家光ではなかったですか??
もともとは自主的に行うものだったけど制度化されたのが家光時代
書き込む前にググれ
@@KokonTouzai-Rekisi-Channel
わざわざ返信ありがとうございます。
期間などを決めて制度化したのが家光なんですね。おかげさまで正しい知識をつける事ができました。
@@ウエイノ-l7l 間違いない
飛行機で飛び新幹線で走る現代とは天地ほどの違い
参勤交代ー軍事力ー軍事訓練?
いつもありがとうございます。
最後メリットデメリットの下りでメリット言い忘れてますな
江戸で日本全国の情報を収集して藩政に活かすことが出来たとかなんとか最後の方で言ってましたね。
良い点を言ってはいるけど
デメリットの紹介したまま
区分無しでメリット紹介までしてるので
そこは文章として分けないといけない部分
と言うだけのツッコミです
江戸時代から、行列に並ぶアルバイトのエキストラがいたんですね。
最後の地図は明治時代のモノですね。
通信網や公共交通がなかった時代に、日本全国を均一に統治する仕組みを考えた徳川幕府すごいな。
サラリーマンがぞろぞろ歩くのはこれの影響かぁ😅
サラリーマンは士族ではない
今思ったら近年の増税ラッシュと参勤交代って同じやん
参勤交代が辛いものというのも前時代的なカビの生えた評価。江戸の情報や人脈をつくるために大名側にもかなりメリットはあった。
費用がデメリットすぎる
2年交代とかでも3年交代でも知識の交換は可能なのに毎年移動は
しかも見栄の張り合い
@@RivusVirtutis 現代ですら2年前の知識なんて使い物にならない。知識というより幕府への陳情・報告や制度の変更、社会変化を知る、藩士の教育の側面が強かったのでは?幕府も「ほどほどにね」とお触れを出しているのに大名側で辞めなかった例もある。
@@datemarugt それはもちろん。ただなんであれ辛いものではあったというだけ。幕府からすれば勝手に見栄を張ってもそれが慣習になればただ辛いだけ。ウェーバーの言う伝統的支配においては慣習の反復こそが芝居の正当性の根源だから
先祖が見栄を張って競い合ったばかりに子孫は辛い思いをしたという
大名の経済力を削ぐのが目的だったというのは、学界では否定的見解が主流です。
これもどうだか分からないけどね。日本には日教組など日本文化や歴史をDISる勢力が多いので多くの歴史も悪い方に書き換えられてることも考慮する必要がある。
やることや考えることは現代人に似てるところあるんですね
昔の侍たちは寛大だったんだなぁ
大変なものだ。
最初に引くて数多なのではないでしょうか。とお尋ねした通りでしたね。本当の真実が確認できて良かったです。沢山の方々の幸せの担い手。自信と優越で誰かのことを中傷する方法は残念です。事実を知る為に敢えてサイトに入りました。
世界中でご活躍何よりです。
こんなに多数の方々のヒーローなのですから。人を弄んでストレス解消できて良かったですね。
参勤交代は軍務
だから大名の宿場を本陣と言うらしいですね。
みんなが江戸へ向かう理由の一つに
神宮へ行くこともあったかもしれませんね
13:53 家重やべぇ(笑)
こういうただ支配と管理のためのムダな慣習は現代社会にもあるんだよなあ
国会議員も参勤交代すればいいのに
してるやろ
江戸時代にはまだ飛行機はなかったから、エコノミークラス症候群もなかったはずだ
宿場間の平均距離が30キロというのは間違いでは?東海道で9キロ、よく利用された中山道で8キロくらいですよ。実際歩いたことがないとこのような間違いしますので、実地調査もすることをお勧めします。
動画で言いたかったのは1日に歩く平均距離のことでしょう。
次に逗留する宿場までの距離のことですね、大名行列は1日30~40kmを歩き行程が遅れた場合は一つ宿場を飛ばすことになり多いと約50kmもの距離を歩くことなり更に宿場の宿の手配などの調整が大変だったそうです。(宿場の間隔は指摘の通り8~9kmほどなので40kmの予定の行程だと一つ宿場を飛ばすと約50km歩かされます)
徳川家康の時は、参勤交代は、義務化されていたか?😮😮😮😮😅😅😮
家光が武家諸法度に追加する以前から一部の大名の参勤は行われていました。
制度の基礎は秀吉が作ってる
諸大名を大阪に住まわせて1年ごとに所領と往復させた
お付きの方達は茂みでトイレを勝手にしたんだろうなあ。女の人は絵であまり見ないから全くついて行かなかったのかな?
地方の大名が参勤交代で江戸に向かう途中で御三家とか御三卿の行列と出くわした
とかになったら地方の大名は顔が真っ青になるでしょうなあ。
初めて日雇いの話聞いた時( *'ω')ファッ!?ってなったけどよく考えたらずっとそんな人数連れて歩くの無理よねw
歩きか馬くらいしか移動手段がないのに本当にこんなことが出来ていたのなら不思議すぎる。道だってまともになかっただろうに‥。
むしろなぜ不思議に思うのでしょう?
動画でも説明されていた通り街道はすでに整備されていましたし、徒歩と馬しかないといっても、同時代のヨーロッパ人は、騎兵歩兵で参勤交代どころか、西はスペイン・ポルトガルから東はロシアまでを股にかけた大戦争を繰り広げてるわけですが...
@@fw1977 隣町へ行くのと違って山越えするのに道など整備されてないと思いますが‥。現代でもアスファルトの無い山道を歩きで移動など命を捨てるようなものです。
日雇いで行列増やすの笑った
徳川幕府のシャンパンタワー🗼🍾⁇🍀
(妻子人質?だし、😥)
エコノミー症候群と、当時の人は、おそらく理解してなかったのでしょうね、、😰。
島津忠徹の急死に関するくだりは興味深く、この一連の騒動だけでドラマが出来てしまいそう。
東京一極集中の元凶がこの制度だったような気もします
とんでもな勘違いですよ。江戸は最後まで政治以外の中心地になり得ず京大坂が経済・文化・科学の中心地のままでした。経済力は西日本の方が圧倒的に高く、下りもの あらゆるものが京大坂で作られたものが最先端。特に着物は京大坂の古手(古着)こそが価値が高く江戸周辺で作られた織物は庶民の普段着の地位から脱却できずに居ました。将軍吉宗は江戸(関東域)が消費都市になっているのに頭を悩ませ江戸近郊の殖産興業に力を入れましたが成功したとは言い難いです
学問では江戸は幕府の政策で朱子学優先とされたのでそれ以外は大坂や日田、長崎等地方の方が盛ん。科学は西洋の知識が入る長崎を中心に石炭使用で高い火力を使える北部九州が発展していました
変わったのが明治維新であらゆる部門の最先端が東京に集められました。ただそれでも戦前は京阪神の経済力は関東に拮抗していました。本格的に変わったのが戦後のGHQ専制。ここで東京(GHQ)にお伺いをたてないと何も出来なくなり戦後の政府もその体勢を引き継いだので一極集中が加速 と言う流れですね
@@toshis3972
👀なるほど
有り難うございました🙇
ヤドバではなくシュクバでは?😅