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もう今夜の2話が楽しみでしょうがないです🙆👍🙏😆💐応援しています👏👏👏👏👏一年間よろしくお願いします、ちなみに私、一回目から涙流してみてました😭😭涙腺弱くなりました😂😂
市橋先生の解釈・解説は説得力ありますね。地道な調査での裏付けもすばらしいです。これまで、歴史の書籍や番組を見ても納得いかなかったことが色々と合理的に説明されていて、とても楽しく視聴させていただいております。
犀ヶ崖付近に住んでますが三方原から犀ヶ崖付近には至るところに戦死した武田軍の慰霊碑が建っております。
武田軍は兵力が少なく、平野への進出はかなり難しい。孫氏の兵法を自ら理解している信玄が慎重なのは当然。本願寺と挟み撃ちにできる状況にならないと前にはいかなかったと思う。
犀ケ崖地元では崖下に竹槍設置してあり落ちた武者が苦しくて唸っていたので恐ろしく魂を弔う為に今でも遠州大念仏という風習が残っています。7/15日に犀ケ崖資料館で大念仏が披露され、受け継ぐ町では今も新盆を迎えた家庭にも招き弔っています。また中区に元亀神社という小さな祠もあり合戦で多くの人が亡くなって幽霊が出るので地元民が慰めたとか。また歴史好きな無亡父の話だと浜名湖に流れ込む都田川上流、フルーツパーク近くには武田軍が陣を張った陣の谷という地名があるので北方からも進軍したと思うし、祝田の農家で信玄が亡くなっているという話があるとか無いとか。井伊家が赤備えになったのも縁があるかもしれませんね。
後、馬は音に非常に敏感だと聞いてますので、鉄砲の一斉射撃で、騎馬隊の馬はかなり暴れたのではないでしょうか?
康政が秀吉を追うの絵を見て三国志中のか馬超曹操追うのを思い出す🤔👍👍‼️‼️
布橋は当時はどうか分かりませんが、今は「ぬのはし」と呼んでますね。二俣〜三方原は徒歩でも3日あれば十分行ける距離ですが、野田城まで2ヶ月はかかりすぎなので、何らかのトラブル等の事情があったと思います。
大樹寺小は寺子屋から始まったと聞いたことがあるのですが、大樹寺小生は榊原康政の後輩にあたるのかな?そうだとしたら光栄だなぁ。
徳川家康に榊原康政という筆の立つ部下がいたように、後の東郷平八郎の下には秋山真之という名文家がいましたね。武力同士のぶつかり合いの中にあって時に筆の力が威力を発揮するという点で、繰り返される歴史の面白さを覚えます。
今回の大河のキャスティングは特に女性が良いと感じました。キャストを無理やり古典キャラにせず現代の姿に近づけ観る側に好感を持てれば尚楽しい。来年も宜しくです☺
呂布が籠城した時に遊撃隊として城外にいた張遼のようですね。
信玄は、足利義昭の上洛指令に応じて西上したのでは?足利義昭を担いで、自らは執権か副将軍のような立場になり、実質的な権力を取ろうとしたのでしょう。浜松城を落としておけばと言うが、二俣城や野田城程度で苦労した武田軍が、浜松城を落とせるとはどうしても思えない。有名な空城の計なんてのは完全に創作で、実際はガチガチに守りを固めていたことだろうし。
結局、織田は武田を三河で長く消耗させてから織田は武田と戦うという戦略ですか。頭いいな信長は。
市橋先生、お疲れ様です‼️今回もビックリしましたヨ‼️まあ色々の説明文からも有るので市橋先生も言っているように色々の説があるから歴史は楽しいのかなぁ‼️笑笑
武田家滅亡の責任は、みんな勝頼の責任にされるけど武田家が、三方ヶ原で大勝してるなら浜松城を落として徳川家を吸収するべきだった
これまでも三方ヶ原の解説は多かったですが、信玄の西上作戦の視点から解説興味深かったです。信玄、徳川を軽く見すぎて初戦から計画が頓挫していたのかもしれないですね。また、最後の康政の言葉は一見素晴らしいけど、彼が亡くなる前後は大坂城に莫大な金銀を蓄えた豊臣が「西の天下様」として存在し、まだまだ徳川支配体制は確立してません。本当に康政がそんなことを言ったのか疑問だし、言ったとすれば詰めが甘いですよね。正信は権勢をふるったといっても終生2万石に過ぎず、自己の利益になることは一切してません。人の陰口も言ってません。それでも康政が正信をあしざまに言うのは、自身の活躍の場が少なくなるのに反し、正信の進言が家康に用いられることが多くなることへの焦り、嫉妬があったためかもしれません。その点から名将言行録の「人品最も高き武将」との家康の言葉もすでに康政を第一線を退いた過去の人とみなしているように見えてきます。
1個目!
信玄公が遠州に侵攻してきたのは冬 一言坂 二俣城 三方原の合戦など1月2月は遠州地方は積雪がある事はなく比較的過ごしやすい温暖な土地。気賀刑部城に入り温暖な土地で情報収集していたのではないか? 2月に愛知県新城や豊田方面まして小牧長久手岐阜関ヶ原方面など積雪で進軍できようもないはずです。
榊原康政が陣取った位置、西島とかいうらしいが、城から随分離れているように見えます。三方ヶ原の合戦のときでもよいので、もう少し、説明して下さい。
市橋先生が戦国時代に生まれておられたら、面白かったでしょうね?好きなように暴れまくる戦国武将だったでしょうか、それとも名僧か?逆にホストのお姉さまがお市、ねね、お江以上の天下を動かす女将で市橋先生が名顧問で使われていたかも。いやはや、お二人とも生まれる時代を間違えたのではないでしょうか。ただ人生は一発勝負の連続で、かなりは運かな。神仏が決められることですがどうなりますか。勝家、お市、ガラシア、鶴姫など精一杯生きて花火のごとく光りかがやき散っていった人たちには、くいはないでしょうね。ここいらの人生観や生き方がその人の値打ちを決めるかに思えます。生きるとは、この世に自分という名で旅をしにきているのに同じですからね。
信玄は駿府に本陣(拠点)を移すべきでした。信長が岐阜に移転したように。甲府を離れられないしがらみが最後まで足を引いたのではないでしょうか。
結局、勝って生き残った側の資料しかないからわからない
を
将棋でもなんでも先に動いた方が負ける。先生さすがだなー将棋も指せるんだ。でもその考えは大山時代の考えよ
10倍以上居るのに、たかが2500は怖くない!単に城攻めで時間を使いたく無かったんやろ!多分、自分が生きてる内に信長を討ちたかったやないか?そもそも徳川とか眼中に無いんよ!信長さえ滅ぼしたら、徳川は降伏するやろしね!それが分かってるから、追い掛けてまで戦ったやろ!
武田信玄の死因は?謙信は上洛してるけど、信玄は上洛してるのかな。
上洛してない
@@Gekitakubaibai なぜ、信玄は上洛しなかった?
@@浅井忠幸 様々な要因があると思うが周囲に喧嘩を売り過ぎてて領国を開けることができなかったのだろう(親父や息子とごたごたやるような人格破綻者)
現在、徳川軍と武田軍とが激突した三方ヶ原の戦いの戦場が判っていません。また、祝田(ほうだ)坂は狭く武田軍の大軍が到底通れるとは思えません。一説には信玄は野田城で鉄砲により狙撃されたという説があります。
大河ドラマどうするジャニーズ😂
あんまり先生の意見には納得できない。まず、犀ヶ崖の戦いが実際にあった話かどうかもはっきりしていないという点。三河物語なんて後に天下人になる家康の事を明らかに判官贔屓して書いた資料だから全く参考にならないという点。酒井の太鼓なんてあったかどうかも分からない話、しかも実際にあったとしてもどうでもいいレベルの話を美談として書いてある点なんかを考えても三河物語は嘘っぱちな資料だと考えざるを得ない点。信玄がもし本気で浜松城を落とす気があったら、三方ヶ原の戦いのあとに浜松城になだれ込んで簡単に浜松城を乗っ取り、家康を殺す事も余裕にできたから、浜松城を落とせなかったというより落とす気がなかったと考える方がよっぽど自然だと思う。榊原康政が浜松城の後ろに陣取っていたとかどうでもいい話。信玄が野田城みたいな小城を落とすのに時間がかかり過ぎていたのは、信玄の具合がかなり悪化していて武田軍の指揮統制がとれていなかったというのが明白だと思う。とにかく信玄の西上作戦に際して、家康側は負けまくっていて褒める点が一つもないから無理やり信玄を動かさなかったとか難癖をつけて無理やり褒めてるとしか思えない。
そうすると、なぜ、落とす気がなかったが気になります。そこが前から不思議なんですよね。浜松城落としてたらかなりその後の戦国地図変わってたはずです。なぜ落とさなかった、落とす気がなかった。落とす気がなかったのになぜ側とおる、って疑問だらけです。結局武田は何が欲しかったんでしょうか。ただ疑問におもっただけです。お応えいただかなくて結構です。
@@こてこてめんめん 返信する必要がないのは勿論了解致しましたが、自分も同様の疑問がありましたので敢えてコメントさせて頂きました。自分が前々から思っていた最大の疑問は、信玄の西上作戦の真の目的とは一体何なの??って事です。ただ明らかになっている部分で言える事は、信長を倒す事は一つの目的であったという部分ですね。というのも武田軍の進行が停止した1番の理由は、信玄の病状悪化だと思うんですが、2番目の理由として考えられるのは、信長包囲網の一角だった朝倉義景が冬の寒さを理由に退陣してしまった事に信玄が怒りの書状を送っていて、朝倉義景の再出陣を待っていたという部分もあったのではないかと思います。ですから先生のいう家康が信玄を動かさなかったというのは史実の面から見てもとんだ的外れな意見だと思うんです。まぁそれは置いときまして、もし信玄の体調がよくなり、朝倉義景も再出陣していたら、間違いなく信玄は西上し、信長とのいくさになっていたと考えられますが、一回のいくさだったら信玄なら多分信長にも勝てたと推察できますが、一回のいくさだけで巨大勢力を誇っていた信長を滅ぼす事はかなり難しい事であり、信玄もそんな事は分かりきっていたと思うんです。で、とりあえず信長を一回倒して上洛し、京に武田の旗をたてる事ってあまり意味がないような気がしますし、長い退陣になればなるほど信玄が不利になっていくという事も信玄自身も十分理解していたはずなので、結局信玄の西上作戦って何が目的だったの??という疑問が生じるんですよね。ただ凄く頭の良かった信玄が無意味な行軍をするはずもなく、まだ歴史上には明らかになっていない信玄なりの目的をもった行軍だったのは間違いないと思いますね。
ご返信ありがとうございます。少し考えました。どう考えても武田が本気で上洛しようとしていたとは考えづらいです。いかに力があるとはいえ、上洛するには徳川、織田と総力戦になります。遠征の総力戦で潰すには織田徳川大きすぎると考えます。少なくとも事前に徳川については、外交で味方につける必要あったと思ってしまいます。信玄の体調からあせってスタートして、徳川については、ビビらせて味方につけようと思っていたのではと思えてきました。ただの思いつきです。なんの資料にもあたってません。ご返信いただかなくて結構です。
オイラも、同感です。榊原は、浜松城まで行けなかった。というのが、オイラの想像です。結局、分からないから、歴史はオモロイのだと思います。
@@こてこてめんめん さんはじめまして。浜松城を落とすには2ヶ月かかります。野田城は浜松城への補給の為の城です。野田城を落としたほうが、効率的です。先生の説明にはないですが、信玄公は自分の弱み=病気を臣下にも隠して、孤独な武将でした。三方ヶ原の戦いは血気にはやる兵士が勝手にせめこんで、始まりました。さんざん崩れて、家康さんは「切腹する」と言いましたが、家臣にかばわれて浜松城に帰還できました。家康さんは「切腹する」って口癖みたいですね。信玄公は本願寺から上洛要請があったと何かで読みました。戦には勝ちましたが、自分の寿命を読みきれなかった。消化器の癌だったら、末期ですから、相当しんどかったはずです。それでも行軍したのは、何故でしょうね。
なんで、NHK 追っかけ番組になってしまったのだろう。残念?
元々大河を岡崎に誘致するために活動されてますから
@@Gekitakubaibai 経緯をまったく知りませんでした。そういった原点があったとは。以前の特番?形式の摘まみ食いファンだったもので。ありがとうございました。
これはこれでいいんじゃないですか。私は楽しめてます。大河ドラマについて、資料から解説楽しいです。特に今年は先生ご贔屓の家康さんですから、なおさら密になるかと思ってます。かくいう私目も家康びいきなので、楽しみです。
名将言行録はあまり信憑性がないのでは?
榊原康政、三河武士らしいですよね。地味ながら様々な面に配慮出来る武将で家康にとっては有り難かったでしょうね。武田四名臣と徳川四天王は好きですね。康政の戦歴で唯一の失点は、秀忠に付いて真田昌幸に翻弄されて関ヶ原に遅参してしまった事だけですかね…。
もう今夜の2話が楽しみでしょうがないです🙆👍🙏😆💐応援しています👏👏👏👏👏一年間よろしくお願いします、ちなみに私、一回目から涙流してみてました😭😭涙腺弱くなりました😂😂
市橋先生の解釈・解説は説得力ありますね。地道な調査での裏付けもすばらしいです。これまで、歴史の書籍や番組を見ても納得いかなかったことが色々と合理的に説明されていて、とても楽しく視聴させていただいております。
犀ヶ崖付近に住んでますが三方原から犀ヶ崖付近には至るところに戦死した武田軍の慰霊碑が建っております。
武田軍は兵力が少なく、平野への進出はかなり難しい。
孫氏の兵法を自ら理解している信玄が慎重なのは当然。
本願寺と挟み撃ちにできる状況にならないと前にはいかなかったと思う。
犀ケ崖地元では崖下に竹槍設置してあり落ちた武者が苦しくて唸っていたので恐ろしく魂を弔う為に今でも遠州大念仏という風習が残っています。7/15日に犀ケ崖資料館で大念仏が披露され、受け継ぐ町では今も新盆を迎えた家庭にも招き弔っています。また中区に元亀神社という小さな祠もあり合戦で多くの人が亡くなって幽霊が出るので地元民が慰めたとか。
また歴史好きな無亡父の話だと浜名湖に流れ込む都田川上流、フルーツパーク近くには武田軍が陣を張った陣の谷という地名があるので北方からも進軍したと思うし、祝田の農家で信玄が亡くなっているという話があるとか無いとか。井伊家が赤備えになったのも縁があるかもしれませんね。
後、馬は音に非常に敏感だと聞いてますので、鉄砲の一斉射撃で、騎馬隊の馬はかなり暴れたのではないでしょうか?
康政が秀吉を追うの絵を見て三国志中のか馬超曹操追うのを思い出す🤔👍👍‼️‼️
布橋は当時はどうか分かりませんが、今は「ぬのはし」と呼んでますね。
二俣〜三方原は徒歩でも3日あれば十分行ける距離ですが、野田城まで2ヶ月はかかりすぎなので、何らかのトラブル等の事情があったと思います。
大樹寺小は寺子屋から始まったと聞いたことがあるのですが、大樹寺小生は榊原康政の後輩にあたるのかな?そうだとしたら光栄だなぁ。
徳川家康に榊原康政という筆の立つ部下がいたように、後の東郷平八郎の下には秋山真之という名文家がいましたね。
武力同士のぶつかり合いの中にあって時に筆の力が威力を発揮するという点で、繰り返される歴史の面白さを覚えます。
今回の大河のキャスティングは特に女性が良いと感じました。
キャストを無理やり古典キャラにせず現代の姿に近づけ観る側に好感を持てれば尚楽しい。来年も宜しくです☺
呂布が籠城した時に遊撃隊として城外にいた張遼のようですね。
信玄は、足利義昭の上洛指令に応じて西上したのでは?足利義昭を担いで、自らは執権か副将軍のような立場になり、実質的な権力を取ろうとしたのでしょう。
浜松城を落としておけばと言うが、二俣城や野田城程度で苦労した武田軍が、浜松城を落とせるとはどうしても思えない。有名な空城の計なんてのは完全に創作で、実際はガチガチに守りを固めていたことだろうし。
結局、織田は武田を三河で長く消耗させてから織田は武田と戦うという戦略ですか。頭いいな信長は。
市橋先生、お疲れ様です‼️今回もビックリしましたヨ‼️まあ色々の説明文からも有るので市橋先生も言っているように色々の説があるから歴史は楽しいのかなぁ‼️笑笑
武田家滅亡の責任は、みんな勝頼の責任にされるけど
武田家が、三方ヶ原で大勝してるなら浜松城を落として徳川家を吸収するべきだった
これまでも三方ヶ原の解説は多かったですが、信玄の西上作戦の視点から解説興味深かったです。
信玄、徳川を軽く見すぎて初戦から計画が頓挫していたのかもしれないですね。
また、最後の康政の言葉は一見素晴らしいけど、彼が亡くなる前後は大坂城に莫大な金銀を蓄えた豊臣が「西の天下様」として存在し、まだまだ徳川支配体制は確立してません。本当に康政がそんなことを言ったのか疑問だし、言ったとすれば詰めが甘いですよね。
正信は権勢をふるったといっても終生2万石に過ぎず、自己の利益になることは一切してません。人の陰口も言ってません。それでも康政が正信をあしざまに言うのは、自身の活躍の場が少なくなるのに反し、正信の進言が家康に用いられることが多くなることへの焦り、嫉妬があったためかもしれません。
その点から名将言行録の「人品最も高き武将」との家康の言葉もすでに康政を第一線を退いた過去の人とみなしているように見えてきます。
1個目!
信玄公が遠州に侵攻してきたのは冬 一言坂 二俣城 三方原の合戦など1月2月は遠州地方は積雪がある事はなく比較的過ごしやすい温暖な土地。気賀刑部城に入り温暖な土地で情報収集していたのではないか? 2月に愛知県新城や豊田方面まして小牧長久手岐阜関ヶ原方面など積雪で進軍できようもないはずです。
榊原康政が陣取った位置、西島とかいうらしいが、城から随分離れているように見えます。三方ヶ原の合戦のときでもよいので、もう少し、説明して下さい。
市橋先生が戦国時代に生まれておられたら、面白かったでしょうね?好きなように暴れまくる戦国武将だったでしょうか、それとも名僧か?逆にホストのお姉さまがお市、ねね、お江以上の天下を動かす女将で市橋先生が名顧問で使われていたかも。いやはや、お二人とも生まれる時代を間違えたのではないでしょうか。ただ人生は一発勝負の連続で、かなりは運かな。神仏が決められることですがどうなりますか。勝家、お市、ガラシア、鶴姫など精一杯生きて花火のごとく光りかがやき散っていった人たちには、くいはないでしょうね。ここいらの人生観や生き方がその人の値打ちを決めるかに思えます。生きるとは、この世に自分という名で旅をしにきているのに同じですからね。
信玄は駿府に本陣(拠点)を移すべきでした。信長が岐阜に移転したように。甲府を離れられないしがらみが最後まで足を引いたのではないでしょうか。
結局、勝って生き残った側の資料しかないからわからない
を
将棋でもなんでも先に動いた方が負ける。
先生さすがだなー将棋も指せるんだ。
でもその考えは大山時代の考えよ
10倍以上居るのに、たかが2500は怖くない!
単に城攻めで時間を使いたく無かったんやろ!
多分、自分が生きてる内に信長を討ちたかったやないか?
そもそも徳川とか眼中に無いんよ!
信長さえ滅ぼしたら、徳川は降伏するやろしね!
それが分かってるから、追い掛けてまで戦ったやろ!
武田信玄の死因は?
謙信は上洛してるけど、信玄は上洛してるのかな。
上洛してない
@@Gekitakubaibai なぜ、信玄は上洛しなかった?
@@浅井忠幸
様々な要因があると思うが
周囲に喧嘩を売り過ぎてて領国を開けることができなかったのだろう(親父や息子とごたごたやるような人格破綻者)
現在、徳川軍と武田軍とが激突した三方ヶ原の戦いの戦場が判っていません。また、祝田(ほうだ)坂は狭く武田軍の大軍が到底通れるとは思えません。
一説には信玄は野田城で鉄砲により狙撃されたという説があります。
大河ドラマ
どうするジャニーズ😂
あんまり先生の意見には納得できない。まず、犀ヶ崖の戦いが実際にあった話かどうかもはっきりしていないという点。三河物語なんて後に天下人になる家康の事を明らかに判官贔屓して書いた資料だから全く参考にならないという点。酒井の太鼓なんてあったかどうかも分からない話、しかも実際にあったとしてもどうでもいいレベルの話を美談として書いてある点なんかを考えても三河物語は嘘っぱちな資料だと考えざるを得ない点。信玄がもし本気で浜松城を落とす気があったら、三方ヶ原の戦いのあとに浜松城になだれ込んで簡単に浜松城を乗っ取り、家康を殺す事も余裕にできたから、浜松城を落とせなかったというより落とす気がなかったと考える方がよっぽど自然だと思う。榊原康政が浜松城の後ろに陣取っていたとかどうでもいい話。信玄が野田城みたいな小城を落とすのに時間がかかり過ぎていたのは、信玄の具合がかなり悪化していて武田軍の指揮統制がとれていなかったというのが明白だと思う。とにかく信玄の西上作戦に際して、家康側は負けまくっていて褒める点が一つもないから無理やり信玄を動かさなかったとか難癖をつけて無理やり褒めてるとしか思えない。
そうすると、なぜ、落とす気がなかったが気になります。そこが前から不思議なんですよね。浜松城落としてたらかなりその後の戦国地図変わってたはずです。なぜ落とさなかった、落とす気がなかった。落とす気がなかったのになぜ側とおる、って疑問だらけです。結局武田は何が欲しかったんでしょうか。ただ疑問におもっただけです。お応えいただかなくて結構です。
@@こてこてめんめん 返信する必要がないのは勿論了解致しましたが、自分も同様の疑問がありましたので敢えてコメントさせて頂きました。自分が前々から思っていた最大の疑問は、信玄の西上作戦の真の目的とは一体何なの??って事です。ただ明らかになっている部分で言える事は、信長を倒す事は一つの目的であったという部分ですね。というのも武田軍の進行が停止した1番の理由は、信玄の病状悪化だと思うんですが、2番目の理由として考えられるのは、信長包囲網の一角だった朝倉義景が冬の寒さを理由に退陣してしまった事に信玄が怒りの書状を送っていて、朝倉義景の再出陣を待っていたという部分もあったのではないかと思います。ですから先生のいう家康が信玄を動かさなかったというのは史実の面から見てもとんだ的外れな意見だと思うんです。まぁそれは置いときまして、もし信玄の体調がよくなり、朝倉義景も再出陣していたら、間違いなく信玄は西上し、信長とのいくさになっていたと考えられますが、一回のいくさだったら信玄なら多分信長にも勝てたと推察できますが、一回のいくさだけで巨大勢力を誇っていた信長を滅ぼす事はかなり難しい事であり、信玄もそんな事は分かりきっていたと思うんです。で、とりあえず信長を一回倒して上洛し、京に武田の旗をたてる事ってあまり意味がないような気がしますし、長い退陣になればなるほど信玄が不利になっていくという事も信玄自身も十分理解していたはずなので、結局信玄の西上作戦って何が目的だったの??という疑問が生じるんですよね。ただ凄く頭の良かった信玄が無意味な行軍をするはずもなく、まだ歴史上には明らかになっていない信玄なりの目的をもった行軍だったのは間違いないと思いますね。
ご返信ありがとうございます。少し考えました。どう考えても武田が本気で上洛しようとしていたとは考えづらいです。いかに力があるとはいえ、上洛するには徳川、織田と総力戦になります。遠征の総力戦で潰すには織田徳川大きすぎると考えます。少なくとも事前に徳川については、外交で味方につける必要あったと思ってしまいます。信玄の体調からあせってスタートして、徳川については、ビビらせて味方につけようと思っていたのではと思えてきました。ただの思いつきです。なんの資料にもあたってません。ご返信いただかなくて結構です。
オイラも、同感です。榊原は、浜松城まで行けなかった。というのが、オイラの想像です。結局、分からないから、歴史はオモロイのだと思います。
@@こてこてめんめん さん
はじめまして。浜松城を落とすには2ヶ月かかります。野田城は浜松城への補給の為の城です。
野田城を落としたほうが、効率的です。
先生の説明にはないですが、信玄公は自分の弱み=病気を臣下にも隠して、孤独な武将でした。
三方ヶ原の戦いは血気にはやる兵士が勝手にせめこんで、始まりました。さんざん崩れて、家康さんは「切腹する」と言いましたが、家臣にかばわれて浜松城に帰還できました。家康さんは「切腹する」って口癖みたいですね。
信玄公は本願寺から上洛要請があったと何かで読みました。戦には勝ちましたが、自分の寿命を読みきれなかった。消化器の癌だったら、末期ですから、相当しんどかったはずです。それでも行軍したのは、何故でしょうね。
なんで、NHK 追っかけ番組になってしまったのだろう。残念?
元々大河を岡崎に誘致するために活動されてますから
@@Gekitakubaibai 経緯をまったく知りませんでした。そういった原点があったとは。以前の特番?形式の摘まみ食いファンだったもので。ありがとうございました。
これはこれでいいんじゃないですか。私は楽しめてます。大河ドラマについて、資料から解説楽しいです。特に今年は先生ご贔屓の家康さんですから、なおさら密になるかと思ってます。かくいう私目も家康びいきなので、楽しみです。
名将言行録はあまり信憑性がないのでは?
榊原康政、三河武士らしいですよね。地味ながら様々な面に配慮出来る武将で家康にとっては有り難かったでしょうね。武田四名臣と徳川四天王は好きですね。
康政の戦歴で唯一の失点は、秀忠に付いて真田昌幸に翻弄されて関ヶ原に遅参してしまった事だけですかね…。