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いつもためになる動画ありがとうございます。加藤清正の話がメインですが九州内での動向にそこまで詳しくなかったのでとても勉強になりました。そして、まさかまさかミスターの動画で、庄内の乱、島津家・伊集院家のお話が聴けるなんてとても嬉しかったです。感謝です!
今軍師官兵衛をもう一度見直していますが、関ヶ原の時の九州での清正との噛み合わなさを見ると、本当に如水は九州から天下を狙おうとしてたのかなと思って動画を拝見してました。清正がどう動いていたのか全く知らなかったので非常に興味深かったです。
ありがとうございます!
伊集院忠棟は根白坂の戦いで軍令を無視したり、九州征伐後に島津家家臣から豊臣の独立大名になって秀吉の威を借りて色々してたから、島津家や家臣団からかなり恨み持たれてたんだよなぁ
島津家中で禁止されてた浄土真宗信徒&太閤検地による島津領土の再配分役を一手に担い、古株の北郷氏除外で5万9千石加増で8万石もの大知行持ち(他の家臣らは合計で14万石くらいなのに&義久・義弘は10万石ずつ)+三成による島津家の家督相続介入にも関与(久保後継に忠恒の世子指名)…恨まれ要素役満過ぎる
清正と家康が、互いに二重に縁戚となり関係性を深めていたとは知りませんでした。家康は本当に様々な武将と巧みに縁戚関係となっていますね。こういう背景があるから、単に大大名であるという理由だけでなく、次第次第に反発を受けることなく誰からも重きを置かれるようにもなっていったと感じます。清正は最近の研究では、従来伝えられている人物像とはかなり異なる人だったようですね。典型的な武闘派で、実務とは無縁の人だと思っていましたが、むしろ実務能力の高い官僚であり、初期は主計頭で三成と同じような立場だったそうです。彼には、後世作られた創作話が多いのでしょう。それだけ、軍記物では欠かせない人物として、かなり盛られているようにも思います。東京都港区にもある清正公前という地名も、彼を信仰する教えが全国に広がった影響とのことです。出身地でもないのに、どうしてかなあとずっと不思議に感じていましたが、歴史を深堀りすると見えて来る事象があるのも、歴史研究の面白さですね。家康の天下統一は、武士道さんの言われているように、既に関ヶ原の戦い以前に大勢は決していたと感じます。
いつも素敵な動画ありがとう🎉
確かに熊本城を見れば、心配性なのはわかりますよ🎉🎉新屋敷在住
詳細なご説明、素晴らしく拝聴させて頂いております。ありがとうございます。 🐧(笑
まさかブシドーさんのチャンネルで都城、庄内、と地元の話が出るなんて思いもしなかった…🙏
清正イメージ、情にアツい漢❗
いつも楽しみにしてます。清正と家康は詳しく分かってませんでしたので、知れて良かったです。家康としては、熊本にいてくれたほうが、今いち信頼度低かったので安心できたんですかね。片や心配性の清正城の守り固めて、城造りの清正と言われるようにですか。
当時の清正の複雑な状況がわかりました。常に感情でしか動けず結果豊臣家を守れなかった猪武者と過少評価してました。清正的には徳川の天下は確定だからせめて豊臣家を存続させたかったのかな?ただ平家物語(幼い頼朝を助命したことで清盛は滅ぼされた)に明るかった家康がそれを許すはずもなく幕府に目をつけられた加藤家も早々に断絶してしまった。清正の失態というよりはあまりに状況が悪すぎたと思います。
横浜の長者町に加藤清正が祀られているのはどんな流れ!
もし清正が大坂夏の陣・冬の陣の時まで生きていたら、どっちについていたと皆さんは思いますか?
あの状況だと福島正則と同じ江戸留守居役になり間接的に助けるが参戦はしないと思います。戦前は戦にならないように色々動くでしょう、家康も福島(49万石、実高60万石)加藤(52万石、実高79万石)2人揃ってると厄介なので大坂の陣前に難癖つけて無理にでも蟄居や改易に追い込んでるしょう。
島津忠恒…地味だけどなかなか冷酷な武将ですね
黒田如水の読み方が修正されてる!他にも修正入ってるのかな。
清正が庄内の乱で伊集院家を応援したのは梅北の乱(梅北一揆)で島津を憎んでいたからでしょう。梅北の乱は朝鮮出兵に不満を持った島津家家臣による反乱で、首謀者の梅北国兼がなんと清正飛び地だった葦北郡佐敷城を占拠。元々朝鮮出兵のためと称して佐敷の港に停泊していたため城代の安田は何の疑いもなく梅北の軍勢を招待しそのまま占領された という経緯安田の気転もあり無事佐敷城の奪回に成功し、梅北国兼も打ち取ったものの城を奪われた清正は大いに面目を失しましたこれ以降清正は島津に悪印象を持ち関ケ原後に八代城(麦島城)を小大名の持ち城並みに拡張。更に佐敷城を総石垣の城(天守もあったとも)へと大改造します。熊本城から南は宇土城・八代城・佐敷城・水俣城と4つも支城を作り対島津に全力を投じているのが分かります
梅北一揆で清正が身柄を預かってた阿蘇惟光が処刑されて面目丸潰れ、家臣の機転で取り返せたから良かったものの、成功してたら起こっていたであろう第2次肥後一揆の責任を取らされ佐々成政と同じ運命に...気が気でなかったでしょうね。しかも味方のふりして占拠という質の悪い方法を使っていますから、清正が島津に悪感情を持たないほうがおかしい。家康が伊集院殺害を認めたから収まっただけで、取次してた伊集院を殺した時点で大阪の陣のような事態になっててもおかしくない政治状況でした。
【東軍豊臣恩顧】加藤清正福島正則黒田長政池田輝政浅野幸長細川忠興加藤嘉明藤堂高虎京極高次田中吉政山内一豊
この中で本当の意味で豊臣恩顧と言える武将は福島正則と加藤清正しかいないと思う。黒田氏は微妙なライン。
@@和沙-q1m 石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以・小西行長・大谷吉継は豊臣恩顧ですか?
@@佑亮-p3m 石田三成・大谷吉継・増田長盛は最初から秀吉に仕えているので恩顧と言えると思います。
家康も当初は伊集院を支持してたから、忖度していたのもあったのかもしれません。個人的には国元に帰っていたのは「事実上の謹慎」説は怪しいと思っていて、清正の関与は家康の監視外で起きたことなのに監視が届かない肥後に返すのは不自然なこと(大阪や江戸で謹慎させるのが自然だし監視下に置ける)、1年以上前に起きたことなのに怒り続けてるのは不自然なこと、会津征伐の直前に清正と会っているから「事実上の謹慎」など遠回しなことをする必要は無い(その場で拘束、あるいは水野勝成の父親のように討ち果たしてしまえば良い)こと、西軍に属する危険性があったとされるのに、最も兵力が動員できる国元に帰すのは戦略的に有り得ないし謹慎になってないことが理由です。
犬猿の仲の小西行長がいる西軍に清正がつく訳はなく、秀頼の名の元に大坂に呼び寄せて謀殺する気満々なのが見え見えだから流石に清正は行かないよな。だから輝元は・・・。
「いざ関ヶ原、その時◯◯◯◯は…。」をシリーズ化して欲しいです。
各地の東軍、西軍別れた図とかも一緒にお願いしたいです笑
俺もそう思う、是非やって欲しい
キオマサは一瞬名前きくけど、その時だけだったのはそんな歴史何やね。イケイケの時のイメージしか無い人やったし、割りと三成しかり若い時だけの武将多い時
鍋島直茂は西軍派だったんですかね?息子屋の勝茂も西軍についてるし
正室が水野忠重の娘というとあの水野勝成さんの妹という事か
家康は加藤清正を恐れ本戦に出さないようにしたのかな??清正に手柄を出させないようにしてた気もする。以前行った城名が色々出て嬉しかったです。杵築城ではないんですか??😮
地元熊本に何故加藤清正が来たんでしょうね!?清正でも良かったのですが他の武将でも良かったのかなぁとは思ったんですけどね😅😆
如水への押さえと考えるのが分かりやすいのでは
清正を信用しきってなくても 如水や島津も家康からは信用できない 毒を以て毒を制すの策
つくづく自称日本国の大都督で家康や輝元と同格以上こと、小西行長の哀れさがな‥‥三成以上に行長がいなければもうちょい武断派が大人しくて豊臣は続いたと思うその小西と癒着した三成が悪いと言えばそうだが
インターネットやSNSの無い時代に、情報ってどうやって伝わってたんだろう…凄く不思議です。人が足を運んで伝達だろうけど、伝わり方が違ってしまったら時代の流れさえ変わってしまいそうな気がする。
ネットがあったって、忖度報道ばかりでまともな理解がかなりしにくい世の中です道具がいくら進化しても、それを使う人次第でしょう
加藤清正😍😍👍👍藤堂高虎😍👍
島津家の当主は義弘ではなく兄の義久ですよ。それだけはお間違いのなく。義弘も井伊に嘆願はあっだろうけど、義久は加藤、立花、細川、黒田、鍋島などに嘆願を出し、徳川の島津制圧が不発に終わったとの説もあります。これは分からないです。島津久義は最近言えには引き籠もり大名として、結果的に薩摩も減封と加増もなく、現状維持ですんだそうです。説明は長くなりますが義久はのらりくらり、この中でよく家康は薩摩現状維持を許したかな?のらりくらり勝ち…?詳しくは関連の動画を…😅幕末薩摩も楽しいですが、戦国薩摩も興味をそそります😊
本多忠勝
息子の代で改易
そうなんですか?!
輝元や三成がもう少し熱心に誘っていたら、清正が西軍に参加していた可能性も充分にあったんだな。清正が西軍に参加していたら、東軍に参加していた豊臣恩顧の大名が逆に西軍に味方していた可能性もあり、そうなると勝敗が逆転していた可能性もあるから、歴史って面白い。
加藤清正の話は、知ってます🐯
理由はともかく端的にまとめりゃ、豊臣を潰した重要人物ですよね。豊臣蔵入地を保持して秀頼を支援していたのも、徳川に隠れて出来ていた訳が無く。それもこの動画が真実だとすれば、細かく家康や秀忠にお伺いを立ててやっていたのでしょう。ちなみに豊国社や高台寺側の一次資料には、高台寺普請の際に福島正則と二人でやってきたこと位しか無かったと記憶してます。動画内の北政所情報はどこから摘んだものなのですか?
清正公は潔癖症で厠に入る際は袴のすそがつかないよう高下駄を履いてたそうですね。最後は、家康の命であずみに暗殺されたけど(笑)
大河ドラマでもあまり出て来ない武将で、ミステリアスな人物ですよね。武将として過大評価されているのか?過小評価されているか分からない。🤔
清正も来ていたら豊臣武断派だけで圧倒的で勝ってしまうからかもw
熊本加藤家、紀州徳川氏と親戚筋にあるでござる、加藤家の娘、八十姫の子、紀州光貞様の母になるでござる、八十姫の孫は、紀州吉宗様、後の八代将軍吉宗様でござる
この時の如水は九州統一くらいは狙っていたのでは、という説ありますよね。関ヶ原がもっと長引くと踏んでいたので1日で終わってしまってガッカリしたことでしょう
チビごまかすために長い兜被っとったやんけ。シークレット兜や。
いつも言ってる冒頭の「嫌〜な、ラッセラッセ」ってどんな意味があるの❓
多分「やあやあ、乱世乱世(らんせらんせ)」だとおもいます
「いやぁ 乱世 乱世」では⁉️まさか それ以外に聞こえるとは思わなかった❗😅
小田和正のフレッシュグッデイネタを思い出しましたw
オフコースの【言葉にできない】( 作詞・作曲 小田和正さん の名曲 ) 😃「♪嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない」「♪フレッシュ グッディ フレッシュ グッディ 言葉にできない」
いつもためになる動画ありがとうございます。加藤清正の話がメインですが九州内での動向にそこまで詳しくなかったのでとても勉強になりました。そして、まさかまさかミスターの動画で、庄内の乱、島津家・伊集院家のお話が聴けるなんてとても嬉しかったです。感謝です!
今軍師官兵衛をもう一度見直していますが、関ヶ原の時の九州での清正との噛み合わなさを見ると、本当に如水は九州から天下を狙おうとしてたのかなと思って動画を拝見してました。
清正がどう動いていたのか全く知らなかったので非常に興味深かったです。
ありがとうございます!
伊集院忠棟は根白坂の戦いで軍令を無視したり、九州征伐後に島津家家臣から豊臣の独立大名になって秀吉の威を借りて色々してたから、島津家や家臣団からかなり恨み持たれてたんだよなぁ
島津家中で禁止されてた浄土真宗信徒&太閤検地による島津領土の再配分役を一手に担い、古株の北郷氏除外で5万9千石加増で8万石もの大知行持ち(他の家臣らは合計で14万石くらいなのに&義久・義弘は10万石ずつ)+三成による島津家の家督相続介入にも関与(久保後継に忠恒の世子指名)…恨まれ要素役満過ぎる
清正と家康が、互いに二重に縁戚となり関係性を深めていたとは知りませんでした。家康は本当に様々な武将と巧みに縁戚関係となっていますね。こういう背景があるから、単に大大名であるという理由だけでなく、次第次第に反発を受けることなく誰からも重きを置かれるようにもなっていったと感じます。
清正は最近の研究では、従来伝えられている人物像とはかなり異なる人だったようですね。典型的な武闘派で、実務とは無縁の人だと思っていましたが、むしろ実務能力の高い官僚であり、初期は主計頭で三成と同じような立場だったそうです。彼には、後世作られた創作話が多いのでしょう。それだけ、軍記物では欠かせない人物として、かなり盛られているようにも思います。東京都港区にもある清正公前という地名も、彼を信仰する教えが全国に広がった影響とのことです。出身地でもないのに、どうしてかなあとずっと不思議に感じていましたが、歴史を深堀りすると見えて来る事象があるのも、歴史研究の面白さですね。
家康の天下統一は、武士道さんの言われているように、既に関ヶ原の戦い以前に大勢は決していたと感じます。
いつも素敵な動画ありがとう🎉
確かに熊本城を見れば、心配性なのはわかりますよ🎉🎉新屋敷在住
詳細なご説明、素晴らしく拝聴させて頂いております。ありがとうございます。 🐧(笑
まさかブシドーさんのチャンネルで都城、庄内、と地元の話が出るなんて思いもしなかった…🙏
清正イメージ、情にアツい漢❗
いつも楽しみにしてます。
清正と家康は詳しく分かってませんでしたので、知れて良かったです。家康としては、熊本にいてくれたほうが、今いち信頼度低かったので安心できたんですかね。片や心配性の清正城の守り固めて、城造りの清正と言われるようにですか。
当時の清正の複雑な状況がわかりました。常に感情でしか動けず結果豊臣家を守れなかった猪武者と過少評価してました。
清正的には徳川の天下は確定だからせめて豊臣家を存続させたかったのかな?
ただ平家物語(幼い頼朝を助命したことで清盛は滅ぼされた)に明るかった家康がそれを許すはずもなく幕府に目をつけられた加藤家も早々に断絶してしまった。
清正の失態というよりはあまりに状況が悪すぎたと思います。
横浜の長者町に加藤清正が祀られているのはどんな流れ!
もし清正が大坂夏の陣・冬の陣の時まで生きていたら、どっちについていたと皆さんは思いますか?
あの状況だと福島正則と同じ江戸留守居役になり間接的に助けるが参戦はしないと思います。
戦前は戦にならないように色々動くでしょう、家康も福島(49万石、実高60万石)加藤(52万石、実高79万石)2人揃ってると厄介なので大坂の陣前に難癖つけて無理にでも蟄居や改易に追い込んでるしょう。
島津忠恒…
地味だけどなかなか冷酷な武将ですね
黒田如水の読み方が修正されてる!
他にも修正入ってるのかな。
清正が庄内の乱で伊集院家を応援したのは梅北の乱(梅北一揆)で島津を憎んでいたからでしょう。梅北の乱は朝鮮出兵に不満を持った島津家家臣による反乱で、首謀者の梅北国兼がなんと清正飛び地だった葦北郡佐敷城を占拠。元々朝鮮出兵のためと称して佐敷の港に停泊していたため城代の安田は何の疑いもなく梅北の軍勢を招待しそのまま占領された という経緯
安田の気転もあり無事佐敷城の奪回に成功し、梅北国兼も打ち取ったものの城を奪われた清正は大いに面目を失しました
これ以降清正は島津に悪印象を持ち関ケ原後に八代城(麦島城)を小大名の持ち城並みに拡張。更に佐敷城を総石垣の城(天守もあったとも)へと大改造します。熊本城から南は宇土城・八代城・佐敷城・水俣城と4つも支城を作り対島津に全力を投じているのが分かります
梅北一揆で清正が身柄を預かってた阿蘇惟光が処刑されて面目丸潰れ、家臣の機転で取り返せたから良かったものの、成功してたら起こっていたであろう第2次肥後一揆の責任を取らされ佐々成政と同じ運命に...気が気でなかったでしょうね。しかも味方のふりして占拠という質の悪い方法を使っていますから、清正が島津に悪感情を持たないほうがおかしい。
家康が伊集院殺害を認めたから収まっただけで、取次してた伊集院を殺した時点で大阪の陣のような事態になっててもおかしくない政治状況でした。
【東軍豊臣恩顧】
加藤清正
福島正則
黒田長政
池田輝政
浅野幸長
細川忠興
加藤嘉明
藤堂高虎
京極高次
田中吉政
山内一豊
この中で本当の意味で豊臣恩顧と言える武将は福島正則と加藤清正しかいないと思う。黒田氏は微妙なライン。
@@和沙-q1m 石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以・小西行長・大谷吉継は豊臣恩顧ですか?
@@佑亮-p3m
石田三成・大谷吉継・増田長盛は最初から秀吉に仕えているので恩顧と言えると思います。
家康も当初は伊集院を支持してたから、忖度していたのもあったのかもしれません。
個人的には国元に帰っていたのは「事実上の謹慎」説は怪しいと思っていて、清正の関与は家康の監視外で起きたことなのに監視が届かない肥後に返すのは不自然なこと(大阪や江戸で謹慎させるのが自然だし監視下に置ける)、1年以上前に起きたことなのに怒り続けてるのは不自然なこと、会津征伐の直前に清正と会っているから「事実上の謹慎」など遠回しなことをする必要は無い(その場で拘束、あるいは水野勝成の父親のように討ち果たしてしまえば良い)こと、西軍に属する危険性があったとされるのに、最も兵力が動員できる国元に帰すのは戦略的に有り得ないし謹慎になってないことが理由です。
犬猿の仲の小西行長がいる西軍に清正がつく訳はなく、秀頼の名の元に大坂に呼び寄せて謀殺する気満々なのが見え見えだから流石に清正は行かないよな。だから輝元は・・・。
「いざ関ヶ原、その時◯◯◯◯は…。」をシリーズ化して欲しいです。
各地の東軍、西軍別れた図とかも一緒にお願いしたいです笑
俺もそう思う、是非やって欲しい
キオマサは一瞬名前きくけど、その時だけだったのはそんな歴史何やね。イケイケの時のイメージしか無い人やったし、割りと三成しかり若い時だけの武将多い時
鍋島直茂は西軍派だったんですかね?息子屋の勝茂も西軍についてるし
正室が水野忠重の娘というと
あの水野勝成さんの妹という事か
家康は加藤清正を恐れ本戦に出さないようにしたのかな??
清正に手柄を出させないようにしてた気もする。
以前行った城名が色々出て嬉しかったです。
杵築城ではないんですか??😮
地元熊本に何故加藤清正が来たんでしょうね!?
清正でも良かったのですが他の武将でも良かったのかなぁとは思ったんですけどね😅😆
如水への押さえと考えるのが分かりやすいのでは
清正を信用しきってなくても 如水や島津も家康からは信用できない 毒を以て毒を制すの策
つくづく自称日本国の大都督で家康や輝元と同格以上こと、小西行長の哀れさがな‥‥
三成以上に行長がいなければもうちょい武断派が大人しくて豊臣は続いたと思う
その小西と癒着した三成が悪いと言えばそうだが
インターネットやSNSの無い時代に、情報ってどうやって伝わってたんだろう…凄く不思議です。人が足を運んで伝達だろうけど、伝わり方が違ってしまったら時代の流れさえ変わってしまいそうな気がする。
ネットがあったって、忖度報道ばかりでまともな理解がかなりしにくい世の中です
道具がいくら進化しても、それを使う人次第でしょう
加藤清正😍😍👍👍藤堂高虎😍👍
島津家の当主は義弘ではなく兄の義久ですよ。
それだけはお間違いのなく。
義弘も井伊に嘆願はあっだろうけど、
義久は加藤、立花、細川、黒田、鍋島などに嘆願を出し、徳川の島津制圧が不発に終わったとの説もあります。
これは分からないです。
島津久義は最近言えには引き籠もり大名として、結果的に薩摩も減封と加増もなく、現状維持ですんだそうです。
説明は長くなりますが義久はのらりくらり、この中でよく家康は薩摩現状維持を許したかな?
のらりくらり勝ち…?
詳しくは関連の動画を…😅
幕末薩摩も楽しいですが、
戦国薩摩も興味をそそります😊
本多忠勝
息子の代で改易
そうなんですか?!
輝元や三成がもう少し熱心に誘っていたら、清正が西軍に参加していた可能性も充分にあったんだな。清正が西軍に参加していたら、東軍に参加していた豊臣恩顧の大名が逆に西軍に味方していた可能性もあり、そうなると勝敗が逆転していた可能性もあるから、歴史って面白い。
加藤清正の話は、知ってます🐯
理由はともかく端的にまとめりゃ、豊臣を潰した重要人物ですよね。
豊臣蔵入地を保持して秀頼を支援していたのも、徳川に隠れて出来ていた訳が無く。それもこの動画が真実だとすれば、細かく家康や秀忠にお伺いを立ててやっていたのでしょう。
ちなみに豊国社や高台寺側の一次資料には、高台寺普請の際に福島正則と二人でやってきたこと位しか無かったと記憶してます。動画内の北政所情報はどこから摘んだものなのですか?
清正公は潔癖症で厠に入る際は袴のすそがつかないよう高下駄を履いてたそうですね。最後は、家康の命であずみに暗殺されたけど(笑)
大河ドラマでもあまり出て来ない武将で、ミステリアスな人物ですよね。
武将として過大評価されているのか?過小評価されているか分からない。🤔
清正も来ていたら豊臣武断派だけで圧倒的で勝ってしまうからかもw
熊本加藤家、紀州徳川氏と親戚筋にあるでござる、加藤家の娘、八十姫の子、紀州光貞様の母になるでござる、八十姫の孫は、紀州吉宗様、後の八代将軍吉宗様でござる
この時の如水は九州統一くらいは狙っていたのでは、という説ありますよね。関ヶ原がもっと長引くと踏んでいたので1日で終わってしまってガッカリしたことでしょう
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いつも言ってる冒頭の「嫌〜な、ラッセラッセ」ってどんな意味があるの❓
多分「やあやあ、乱世乱世(らんせらんせ)」だとおもいます
「いやぁ 乱世 乱世」では⁉️
まさか それ以外に聞こえるとは思わなかった❗😅
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「♪嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない」
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