”二条城会見&方広寺鐘銘問題”~大坂の陣へのカウントダウン~

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КОМЕНТАРІ • 83

  • @dindon1969
    @dindon1969 9 місяців тому +13

    歴史探偵でも
    「鐘名事件は秀頼からの挑発だったのでは?」
    と言ってましたね。
    淀殿・成人秀頼の人物像を従来から180度変えて
    「本当に挑戦的だったのは淀殿ではなく秀頼のほう」
    という時代劇が見たくなりました。

  • @user-ub7tt4gl8y
    @user-ub7tt4gl8y 9 місяців тому +20

    加藤家と浅野家が「徳川御三家の姻戚」という立場で出席してるという点で、両家は「徳川」側というのを豊臣に可視化させたから家康的にはあまり脅威に感じてなかったんかな?
    当初は方広寺を施工工事した宮大工の中井家の訴え(父は大坂城建築に携わった)が「棟札(建物の建築・修築記念に造る記録札)作ってもらえなかった(武士でいう感状貰えない)」という、給料未払い問題の訴訟から始まり、宗派の席順やらなんやら、そこから調査するたびに問題が次々と発生して極めつけが鐘だったとも

  • @fumiko2884
    @fumiko2884 9 місяців тому +6

    久しぶりに、タイムリーに視聴できました! おかげさまで予習復習、とても興味深く、そして、武士道さんの堅苦しくない解説で、楽しみながら学習できます。今年の大河、始まったころは、どうなるかと思いましたけれど、いつしか身を入れて毎週楽しみになってました。もちろん、武士道さんの解説のおかげでもあります。歴史の深堀、楽しい限りです。ありがとうございます。

  • @user-hy5gn9uz9e
    @user-hy5gn9uz9e 9 місяців тому +16

    豊臣方には発言力、実績の伴った主体的に行動できる人物が不在だったのが痛い。
    経験・見識不足の家臣団と、復権を狙い強気な浪人衆を束ねるのは、未だに母親の御守り付きで実績も経験も無い青年というのが当時の状況。
    当時の豊臣家中では、徳川に天下を譲る論調の話が出来ない空気があったことは容易に想像できる。

    • @dindon1969
      @dindon1969 9 місяців тому +2

      もしかしたら母親自身も
      息子の暴走にものが言えない人だったのかも。
      自分自身秀吉の死後、
      北政所に豊臣家を任されてしまったんですから。
      秀吉の遺言にも淀殿への言及は何もない、という話ですし。

  • @mimulu7658
    @mimulu7658 9 місяців тому +6

    次回のどうする家康に向けて、武士道さんの過去動画を鬼リピして関ヶ原から大坂の陣までの流れを勉強していたので新しい解説動画めちゃくちゃ嬉しいです☺️更に分かりやすかったです!!

  • @user-yc5sv4qz7r
    @user-yc5sv4qz7r 9 місяців тому +6

    今回も解説ありがとうございます。
    片桐且元、取次役が懐柔内応を疑われて失脚出奔って、石川数正と同じ流れですね。単に政治的駆け引きの結果なんでしょうが、家康の時を越えた意趣返しと思ってしまいます。
    且元と言えば、葵徳川三代での秀頼上洛の吉凶の改ざんを思い出します。「凶を吉と書き換えよ、さもなくば汝に凶事有るべし!」と恫喝する姿に、どんなやり方でも豊臣を守る悲壮な決意を感じました。今作ではどうなるかちょっと楽しみです。

  • @user-tx4gb5ph3s
    @user-tx4gb5ph3s 9 місяців тому +4

    毎回わかりやすく面白い解説、ありがとうございます。さて、真田丸で、豊臣秀頼(中川大志さん)と徳川家康(内野聖陽さん)の二条城のシーン、内野さんの演技が『いい感じに成長してやがる、やべぇ』という感じで、『御無沙汰致しております』というセリフと頭を下げる演技もあって、秀頼の成長した姿にビビった逸話を表してましたね😅あの中川秀頼なら確かに自信に満ち溢れた表情で家康が放置できんと思うのもわかる気がします。

  • @Nakazawakatsuyoshi79
    @Nakazawakatsuyoshi79 9 місяців тому +12

    3か条について2番目か3番目は比較的選びやすそうだけどなあ

  • @user-ke9ci1gn4m
    @user-ke9ci1gn4m 9 місяців тому +8

    氏姓制度は、日本の律令制における権威の根幹です。
    その意味で「豊臣」は、源平藤橘に並ぶ新しい姓でしたので、織田とか徳川とか羽柴とかの名字とは明らかに歴史的重みが違う存在です。
    なんなら家康は、征夷大将軍になる前・関ヶ原合戦の頃は、本当は「豊臣朝臣羽柴家康」だった訳ですから。
    そう考えると、この新しい姓「豊臣朝臣」をどうするのかという政治課題は、私たちが思う以上に当時の人にとっては難題だったのでは?という疑問が湧き上がってきます☝🏼

    • @user-wk5pq8fn3h
      @user-wk5pq8fn3h 7 місяців тому +1

      ですよね。摂家同格とかチートすぎて家康もさぞかし頭が痛かったことでしょう。
      秀吉の遺言を破ってまで五摂家関白制に戻したのは、容易に最高職である関白に就ける豊臣家という家の箔を警戒してのことではないでしょうか。
      (家康は秀頼の官位が自分より高くならないよう常に朝廷に圧力を掛けてましたし)

  • @user-ii3zx1oo9p
    @user-ii3zx1oo9p 9 місяців тому +10

    秀頼と茶々は秀吉が作った夢を見続けちゃったんだよな
    武家は徳川、公家の豊臣としての道もあったんじゃと思えるが
    関ヶ原以後の浪人の受け皿になっちゃった時点で止められなかったんだろうなと

    • @brave2mvch
      @brave2mvch 9 місяців тому

      この当時はアルマダ海戦で負け、フェリペ2世が破産した上に死んだという、泣きっ面に蜂状態のスペイン帝国が再起をかけるために豊臣家に近付いていただけにネーデルラント(オランダ)が動かざるを得なかったために、止められなかったのかもしれないと今更ながら思い出しました

    • @bchop5751
      @bchop5751 9 місяців тому +2

      ​@@brave2mvchオランダの言う事なんか、そこまで聞かないと思う。

    • @brave2mvch
      @brave2mvch 9 місяців тому

      @@bchop5751 なるほど、確かに。天下を固めたいネーデルランドと徳川の利害が一致したのかもしれませんね

  • @clai47tere1sar
    @clai47tere1sar 9 місяців тому +15

    間に挟まれた片桐且元が哀れすぎる・・

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y 9 місяців тому +4

      関ヶ原以降、豊臣方では片桐と淀殿の親戚勢力(大野や有楽)が台頭してるけど、この中でかつての奉行が担っていた職務を代行する力量があったのは片桐しかいない地獄
      外交も内政も一手に担って権力が集中したせいで木村達若手の嫉妬の対象になってついには一番欠いてはいけない人物を追放してしまい信雄と同じ展開になるという皮肉(君取次に危害加えたね?宣戦布告と捉えて良いね?)

  • @gantetu
    @gantetu 9 місяців тому +29

    織田家や足利家のように天下は諦めて生き残って欲しかったよね。

    • @gwdapwd16766
      @gwdapwd16766 9 місяців тому

      いや、あれでいいのじゃ。
      秀頼公もおかか様も豊富のプライドのために散ったのじゃ。
      亡き太閤殿下の格別な御恩を忘れ私利私欲に走ったたぬき目におめおめと従うなど豊臣の恥晒しじゃ。

  • @ebi-katu
    @ebi-katu 9 місяців тому +4

    12:34 二条城の会見で、秀頼の成長ぶりに家康がビビったというエピソードの出典は、江戸時代の中期に書かれた『明良洪範』なる逸話集ではないでしょうか。
    こちらに「秀頼は愚魯なる人と聞きしに一向に然なく賢き人なり。なかなか人の下知など受くべき様子にあらず」と、会見の後に家康が本多正信に対して語ったという記述があります。
    ただし『明良洪範』は二次史料ですらない、単なる後世の見聞集なので、信憑性は限りなく薄いと思いますが。

  • @user-wk5pq8fn3h
    @user-wk5pq8fn3h 7 місяців тому +1

    家康が角が立つと考えたのか俗に言う3か条の条件を片桐に言わせた(もしくは片桐が独断で言った)のが運のつきだったと思います。
    豊臣家はそれまで家康の命令には従ってたので、家康から直接三か条を要請されれば呑んでいた可能性が高い。
    江戸城普請。
    堺、伏見、金銀鉱山4つの譲渡。
    財源潰しの神社仏閣再建寄進。
    秀吉の遺言だった豊臣家以外の関白職凍結解除。
    二条城での臣下の礼。
    とくに参勤などはすでに二条城まで出向いて頭を下げてるので、最初は駿府に新年の挨拶→秀忠の官位を秀頼以上にしてから江戸参勤にすれば、容認してたのではないでしょうか。
    方広寺の一件は手打ちにしたので大義名分はないが、家康から直接言われればそれまでも従ってたので、戦は避けれたと思います。
    結局、片桐が主君に人質、国替え、参勤を突きつける形になり、これに激怒した大野らが反発して片桐は追放。
    取り次ぎ役の片桐追放で怒った家康は、その日の内に大阪に出陣命令を下すことになります。
    あえて大蔵卿と片桐の分断を狙って言わなかったというのが通説ですが、個人的には家康は豊臣家を存続させるつもりだったと思うので、この掛け違いがかなり痛かったのではないかと思います。

  • @cancan5892
    @cancan5892 9 місяців тому +8

    小和田先生の動画でも、家康の征夷大将軍就任が豊臣サイドを刺激しないように、直後に秀頼と千姫の婚儀を行ったと言われていました。明らかに世間と豊臣家へのカモフラージュですね。慶長8年には、こういう小細工を弄した彼が、8年後の慶長16年にはパフォーマンスとはいえ、秀頼より自分が格上だと堂々と表明しているのは、面白いです。その間着々と手はずを整え、盤石な態勢を作っていたのでしょうか?!
    確かに、関ヶ原の戦い前は、秀頼の代理として土地分配をしていた家康が、戦後は豊臣直轄領を含む地を分配し、京都、伏見、堺を支配し、豊臣恩顧の大名は西国に領地を与え、江戸と京の間は自身の信頼できる大名の地とすることによって、実質的統治を始めています。こういうやり方を見ていると、慎重に機会を待ち満を持して決行した家康の天下統一は、決して棚ぼた式の”泣くまで待とう、ホトトギス!”ではないことが、よく分かります。

    • @hamham3601
      @hamham3601 9 місяців тому +1

      小牧長久手の戦いの時に秀吉に合戦以外の所で折れるようにされたので
      やる時はありとあらゆる手段を
      使うのだと学んだのではと思います。
      実際問題として言いがかりで
      アレコレやるのは秀吉の常套手段でしたからね。
      (秀吉の家族、親戚など)

  • @giantnioinoba2023
    @giantnioinoba2023 9 місяців тому +2

    葵徳川三代の二条城会見では、津川家康が飲んだ酒の返杯を菊之助秀頼に渡すシーンがあり、梅雀光圀が「主従逆転」のパフォーマンスと解説してましたね。さて、「どう家」では、どうする?

  • @larc26
    @larc26 9 місяців тому +3

    家康側は豊臣家を守りたかったらしいけど、秀忠が豊臣家を滅ぼしてしまった説が流行ってるらしいですね😅

  • @orita3104
    @orita3104 9 місяців тому +39

    少し前までの通説って家康の事悪く描き過ぎだよね

    • @subuya428
      @subuya428 9 місяців тому +5

      征夷大将軍に就任して豊臣を滅ぼしたっていう事実があるから、無理もないけどそこからイメージが先行してるよね。

    • @user-fi8wq5zm4z
      @user-fi8wq5zm4z 9 місяців тому +6

      明治政府が作りあげたというのもありますからねえ。(明治政府としては徳川を悪く書きたかったというか)

    • @user-px2lb6ue5c
      @user-px2lb6ue5c 9 місяців тому +5

      はい、全く皆様方の仰られる通り、明治政府は、徳川を全面否定ですからね。
      だから、今でも上方の人達は家康公が大嫌いなのですよね。
      @orion3104様、そちらのワンちゃんは可愛いですね❣️

    • @tainuke1
      @tainuke1 9 місяців тому +2

      マルクス史観の影響もあるのかな。江戸時代は軍事政権だし、家康は初期からそれなりの地位にいるので、下克上って感じでもないし、

    • @teamilk3596
      @teamilk3596 9 місяців тому

      司馬史観も大きかったのでは。

  • @user-db9nf1hp5b
    @user-db9nf1hp5b 9 місяців тому +1

    ドラマの中では滅びた人間は同じことを言っていますよね
    ロクな調略もせずに、
    「恩を受けたものがこぞってこちらに付く」
    お市も茶々も信雄も・・・・

  • @user-hn8rl2uv3l
    @user-hn8rl2uv3l 9 місяців тому +7

    安達和平「世にも奇怪なこじつけかな。国家は国家、安康は安康でござる!」

    • @gateau304
      @gateau304 9 місяців тому +2

      葵三代の文英清韓役の人ですね。

  • @user-wh7fb4vd3p
    @user-wh7fb4vd3p 9 місяців тому +5

    片桐且元・・大変だったろうな・・こんな立場で仕事したくないわ😅

    • @gwdapwd16766
      @gwdapwd16766 9 місяців тому

      勝手なことして勝手に出ていった裏切り者

  • @toshiiwac8117
    @toshiiwac8117 9 місяців тому +4

    この辺りの大阪城内の情景を「信勝は見た」みたいな雰囲気でドラマ化してほしいな〜w

  • @kwanoudou
    @kwanoudou 9 місяців тому +14

    且元みたいな立場になったことがありますが、やっぱりもうそこを辞める以外に選択肢がなくなっちゃいました。
    家康との戦を止めるため母親を人質に出した秀吉と、母親を人質に出さなかったために家康との戦いを避けられなくなった秀頼。偶然ながら皮肉な対比になってしまいましたね。

  • @user-on9jd4nj9g
    @user-on9jd4nj9g 9 місяців тому +2

    やっぱり豊臣方が強気だったのは、慶長18年に急死した大久保長安を巡る騒動で「徳川は盤石では無い」と見られたのでは・・・

  • @umakara55
    @umakara55 9 місяців тому +2

    両者が決裂した慶長19年(1614年)の時点で家康73歳、秀忠35歳、家光10歳、茶々46歳、秀頼22歳
    秀頼が家康に勝っている点は「若さ」なので、服従を装って家康の病没を待つという手もあるが、家康はそうなる前に手を打っただろうなあ

  • @cancan5892
    @cancan5892 9 місяців тому +9

    家康は、狡猾で先の見通しもあります。そういう相手に接する時、自分の論理を押し通し、上から目線で物事を処そうとしても無理です。受け容れがたい条件でも、その中で選択できる最も抵抗感のないものを選ぶべきであり、片桐且元もおそらくそう説得したでしょう。しかし、淀殿は、自身の家柄、血統に深い自負があり、息子を天下人にすることに固執してしまい、自滅してしまったように感じます。この条件の中では、人質として江戸へ向かうのが、他のものより可能であろうと推察します。誇り高い心が、それを邪魔したのでしょう。淀殿が家康の幼少期の苦難の人質生活を見聞きしていれば、彼自身も順風満帆ではなかったことを知れたのにと感じます。淀殿は巡り合わせが悪いことは確かにありますが、その悪い方へと向かう流れを自ら変えることはできたはずです。大阪冬夏の陣では、もっと早い段階で柔軟に対処していたら息子も死ぬ必要はなかった。運は、待っているだけでなく、掴み取る必要があります。その瞬間を見極める目も大切です。

    • @ks5643
      @ks5643 9 місяців тому

      もし淀殿を人質に出した場合でもそこで終わりになったかどうかですね。
      次に人質を盾に大坂からの転封を命じ応じなければ戦、次に小大名に減封し応じなければ戦と追い込んでいったのではないかと思います。
      それでも殺す事までは難しい様に思いますが、豊臣家から見て殺されず小大名に甘んじ臣従を強いられても我慢出来るでしょうか?
      それ自体侍のメンツに関わる酷い扱いだと思いますが。
      戦に負けた訳でもなく、そこまでの扱いになる位なら死んだほうがましだと考えたのかも知れません。

    • @cancan5892
      @cancan5892 9 місяців тому +1

      @@ks5643 さん 近年の研究では、家康は豊臣を滅ぼすことまでは考えていなかったとされています。それに反し、秀忠はかなり強硬派だったようです。だからもしこの提案に応じても、どんどん要求が重なって行った可能性はあります。しかし、それでもその時最良の選択をした後の結果であれば、やるだけのことはした!という前提の下の結果であり、何も応じず戦になったのとは違います。結果として同じでも、経過が異なるので、それなりに評価できると思うのですが、いかがでしょう?!

    • @user-wk5pq8fn3h
      @user-wk5pq8fn3h 7 місяців тому

      秀吉は大事な母親を家康に人質に出すことで家康との戦を避けた。
      秀頼も父と同じようにすれば助かっていたのかもしれません。
      (まあ、そもそも秀吉が家康に人質を送らずしっかり滅ぼしていればよかったのですが笑)
      やはり率先して徳川の人質になった前田まつは時世が読めていますね。さすがです。

    • @cancan5892
      @cancan5892 7 місяців тому

      @@user-wk5pq8fn3h さん 確かにまつはその点、潔かったですね。百万石のプライドを捨てられずということはなく、利家死後は世情の変化をちゃんと見抜いていた。昔の利家と秀吉の関係を理由にゴネていない。やはりこういう視点があったからこそ、お家を取り潰されなかったのだと思います。

  • @soshuguma
    @soshuguma 9 місяців тому

    大坂の陣が起きたのは、家康からの要請や提案を断ったりしたためで、どこかで天下人としての家康を認め、豊臣家は公家として生き残るとか別の道を選んでいれば滅びずにすんだのでしょうね。小田原征伐の時、秀吉がいくつもの譲歩案を出しており北条が飲めば戦を避けられたかも知れなかったことと似ていると感じます。秀頼(茶々)は秀吉の行ってきたことから学べなかったのでしょうか。

  • @user-pd4ol2yd6u
    @user-pd4ol2yd6u 9 місяців тому +2

    チェックしてもらうなんて事、通常しないでしょ。結果論ですよね。

  • @user-qe9ec2zg5c
    @user-qe9ec2zg5c 9 місяців тому +1

    非常に分かり易く、かつ文献に従い、とても楽しく拝聴出来ました。 ありがとうございます……🐧(笑

  • @brave2mvch
    @brave2mvch 9 місяців тому +9

    それか、前漢時代の陳平のように呂雉が死ぬまで大人しく待ったように、家康が死ぬまで同じく、大人しく待って一気に徳川を潰すという戦略もあった気がしますね

  • @hogeohoge7113
    @hogeohoge7113 9 місяців тому

    忌み名に対する人々の意識は一昔前(昭和)の方がずっと強かったはずですが、鐘名事件での「忌み名は無礼」説は昭和の時代ではあまり受け入れられていなかったのが不思議です。

  • @i-dream4701
    @i-dream4701 9 місяців тому +1

    解説ありがとうございます。諸説あることは承知の上ですが、金地院崇伝の『本光国師日記』に「金地院崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と片桐且元に双方の親和を示す方策を出すようにとの家康の意向を伝えた」とありますので、「家康が大蔵卿局と片桐且元で対応を変えた」「3カ条は片桐且元の私案であり、家康の意向ではない」というのは信憑性が薄いように思えます。

    • @user-wk5pq8fn3h
      @user-wk5pq8fn3h 7 місяців тому

      3ヶ条が家康による正式な要請で大蔵卿にも伝えられたなら、片桐だけが責任を問われて大野治房や渡辺糺といった側近から家康との内通を疑われるれるのは不自然に感じます。
      ただ取り次ぎ役を努めて家康の条件を伝えただけで、木村重成、渡辺糺、石川貞政、青木一重、薄田兼相らに暗殺されそうになるでしょうか? また新説は、先に出発した片桐より大蔵卿の方が先に家康に面会して方広寺の一件を許された内容を覆してはおらず、まだ定説を否定するほどの説得力はないように思えます。
      家康の2重工作だった可能性は充分あるのではないでしょうか?

  • @inochan1569
    @inochan1569 9 місяців тому

    秀頼に優秀な参謀(教育含めて)が居たら生き残り策を計っていたかもですね。でも家康は締め付けていったのか〜😅

  • @takkason
    @takkason 9 місяців тому +1

    淀殿の最期は、父浅井長政、母お市、養父柴田勝家と同じで
    魂売り渡す位なら、意地を見せて自ら命絶つわ!!
    だなぁといつも思います。

  • @user-yl3xm8ov8d
    @user-yl3xm8ov8d 9 місяців тому

    家康は大坂の周囲にある堺、大和郡山城、伏見城を徳川直轄領とし、秀吉時代の昔からの財源だった但馬生野銀山も徳川直轄領にして、豊臣家をかなり圧迫していました。大坂夏の陣で豊臣軍が堺と大和郡山城を攻めたことに、それまでの圧迫への不満が読み取れます。
    関白と将軍は並立できるとのお話ですが、武家関白と武家将軍の並立は過去にありません。仮の話ですが、秀頼が関白になり、徳川が将軍として武家を統率すると言う二重体制ができても、長続きせずにいずれ破綻すると思います。

  • @user-cv3in1iq3z
    @user-cv3in1iq3z 9 місяців тому +1

    加藤清正が徳川方なら『毒饅頭』も無かったんですかね?

  • @user-vc6ps5tg1d
    @user-vc6ps5tg1d 9 місяців тому +3

    記録によると秀頼はかなりの巨漢であり、現役時代の宮城野親方(元横綱白鵬)より大きかったというので、対面した家康が圧倒されるのも無理もない感じがします。物理的に。

  • @user-qy5po3ij4w
    @user-qy5po3ij4w 9 місяців тому +1

    秀頼、淀の方はまだ最強だと思ってたんだなあ😢

  • @WearstFaker
    @WearstFaker 9 місяців тому +4

    方広寺鐘銘事件 って普通に徳川家康の主張の方が正しかった。
    まず自分の知ってる説だと下書きはあったけど、「国家安康」「君臣豊楽」ではなかった。なのに途中で、書き換えた。
    だから徳川方は「なんで?」となった。というか、そもそも鐘銘を書くこと自体普通ではない時代だったのになぜ書いたの?って話。何らかの「意図」が確実にあった。
    そして、文字が書いてある位置。博物館学を学んでいるからわかるけど、上の方に書く方が偉い・・・。立場が上なんよ。君臣豊楽の位置を見ればわかるけど上に書かれてて、国家安康はそれより下に書いてある。
    これはつまり、徳川家康は豊臣秀吉より格が下。ってことになる。
    例えるなら・・・会長:徳川家康。社長:徳川秀忠。役員:豊臣秀頼で、役員が会社の金を使って会長を貶めるモニュメントを作った感じ。しかも一見するとわかりづらいように作ってあるからより陰湿。
    気づかなかったら会長は間〇抜けだと思われるし、「これおかしくね?」と指摘したら「言いがかりだ」といえるようにしてある。
    徳川家康も、「ははぁなるほどな。そうかそうか・・・」って。なるだろうな。

    • @ks5643
      @ks5643 9 місяців тому

      たかが鐘の文言を理由に武力を行使し、左大臣、かつての主君である人物を滅ぼしにかかるのはどう考えても行き過ぎだと思います。
      また、豊臣方から見れば徳川家から仕掛けさせるのは非常に危険で、史実通り滅ぼされる未来は見えたと思います。
      動くなら変な言葉遊びをする位なら家康の死を待つべきだったでしょう。

  • @masanobuokuda5837
    @masanobuokuda5837 9 місяців тому +1

    3か条についてですが、片桐且元がなかなか帰ってこないので大野治長の母、大蔵卿の局が交渉に行ったら好意的な返事を得たので安心した、ところが後から戻った且元の報告がまったく違ったので、且元に徳川と内通の疑いがかかった、ではなかったでしたっけ?
    真実はわかりませんが、二人の使者に正反対の返事をして仲間割れを起こさせる、いかにも狡猾な家康のやりそうなことだと思います。

  • @user-nj2pc5ux4m
    @user-nj2pc5ux4m 9 місяців тому

    確かに残る敵は朝廷だけ 豊臣がいては対抗できない

  • @shinymarchestar
    @shinymarchestar 9 місяців тому

    こうやって振り返って見ると茶々の強気な性格が豊臣家を滅ぼした……といっても過言ではないのかもしれませんね………(どちらにしても後世には徳川は豊臣を滅ぼしたかもしれませんが……)

  • @user-kd9mz5ov7s
    @user-kd9mz5ov7s 9 місяців тому +3

    家康が秀吉に臣従した時、秀吉の経済力・軍事力は家康を上回っていたはず。それがなぜ逆転したのか、何時逆転したのか教えて欲しい。朝鮮出兵が原因か、関ケ原の戦いが原因か。うーん。

  • @user-wn7rf9mf4r
    @user-wn7rf9mf4r 9 місяців тому +1

    二条城で家康が秀頼に脅威を感じたって司馬遼太郎の小説『城塞』の設定では?

  • @kwskkws
    @kwskkws 9 місяців тому +3

    3箇条、ごくごく普通の内容ですよね。大名として当たり前のことをしろと言ってるだけ

  • @silverz8873
    @silverz8873 9 місяців тому

    年号に西暦も添えてくれると嬉しいです

  • @user-ln8lv7ut2u
    @user-ln8lv7ut2u 9 місяців тому

    そもそも放光寺の修復作業は責任者は誰ですか?もしかして茶々のせいで豊臣家と徳川家の亀裂の原因を作ったのでは?

  • @bchop5751
    @bchop5751 9 місяців тому +1

    豊臣滅亡は藤原系の摂関家が後押ししたのではとも思えてくる。
    秀頼は「ぬくぬく」というより、貴公子として周りから「豊臣が偉いのだ」という教育されて育てられればそうなるのでは?しかし城攻めには3倍の兵力が必要と言われるのに、通常の城よりデカくて難攻な大坂城に徳川側の半分になる兵力が集まったと言うから豊臣側の強気も解らんでもない様な。巷には浪人が溢れてたとも言うし。

  • @okehazama
    @okehazama 9 місяців тому +2

    鐘銘は今も消されずに残ってるってことは徳川側も本当はどうでもよかったことなんでしょう

  • @user-hy3xt9lv2o
    @user-hy3xt9lv2o 9 місяців тому +1

    ほうこうじとりつぎ事件話は、初耳です。

  • @yu_ichiro_1108
    @yu_ichiro_1108 9 місяців тому +3

    両雄並び立たずですね。。

  • @user-pu7qu7sc7p
    @user-pu7qu7sc7p 9 місяців тому

    茶々がダメだな。何も分かってない。関ケ原で負けた時点で安泰な所を狙えば良かったのに。

  • @user-nj1ss3wv6z
    @user-nj1ss3wv6z 9 місяців тому +1

    前田利家が亡くなった後に前田利長が継いだが、徳川家康は前田家に対して謀反の疑いをかけた。これでっち上げなのだが、まつ殿は自ら徳川家の人質となり前田家を守りました。現在でも続いてますよ加賀前田家。つい最近、当主が代替わりしました!淀君(茶々)も意地を張らないで豊臣家を残す事を考えれば。
    因みに真田家は分裂した事で後世に残りました。同級生に真田姓がいたので。

  • @user-nj2pc5ux4m
    @user-nj2pc5ux4m 9 місяців тому +2

    織田 浅井の血をひく貴種 豊臣はいらん

  • @Extra-hot-1483
    @Extra-hot-1483 9 місяців тому +3

    この動画を批判するわけでは無く、説に対する反論だけど
    家康を離すよりも豊臣を逆さにする方が罰当たりというか失礼な気がするんだけどどうなんだろう??
    中華屋のゲン担ぎ的なのに逆さにした福の字とかあるけど、逆さにするってのは失礼じゃないんかな
    福はまだしも人の苗字、しかも源平藤橘並ぶ豊臣を逆さにするって
    かなりやばいと思うけど
    家康は1人に対してだけど、豊臣は秀吉とかも含めて家の名前だし

    • @user-wk5pq8fn3h
      @user-wk5pq8fn3h 7 місяців тому

      諱の方が基本、使うのも無礼だった思われます。
      ただ関西では普通に諱を使ってたとも言われ、文言を書いた和尚も最後まで祝いだったと主張しています。

  • @gwdapwd16766
    @gwdapwd16766 9 місяців тому +2

    ずいぶん徳川家が残した文献を読み込んだんだと思います。
    徳川家康は戦で1回しか負けたことがないとかも嘘だともうバレています。
    加藤清正や浅野幸長、福島正則が豊富のために尽力したのは一次資料で残っています。
    そもそも二条城の会見を淀殿は断ろうとしていましたがそれを説得したのがこの3人です。
    福島正則は最後まで反対していましたし、加藤が福島を見舞った手紙も風邪で欠席したことの信ぴょう性を出すためにあえて送った説もあります。
    それから片桐且元が三ヶ条の条件を送ったのは且元が勝手にやったことです。
    且元は家康に会えていないのでそれをそのまま報告できずに方便をしたのが有力です。
    徳川幕府を安泰させるためにいくつもの家康を神格化させるための書籍を作っていますが、いまの歴史学ではようやくそれが嘘だと一次資料で分かっています。
    いつもと違って今日の内容はちょっと古いネタだなと思います。
    参考文献
    「本当は誤解だらけの戦国合戦史 信長・秀吉・家康は凡将だった(海上知明著)」
    「豊臣秀頼(福田千鶴著)」
    「悲劇のヒーロー 豊臣秀頼(森田恭二著)」
    「大阪の陣と豊臣秀頼(曽根勇二著)」
    他多数