【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その3ー文禄の役と梅北一揆~義弘「日本一の大遅参」と島津家を震撼させた事件の勃発
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- Опубліковано 22 лют 2024
- 今回は文禄の役で出陣した義弘がひどい準備不足で渡海せざるをえなかった事情やその後の島津軍の動向、さらに島津家に大きな悲劇をもたらすことになった反乱「梅北一揆」について解説していきます。
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子どもがめっちゃ憧れる戦国武将がどれだけ強く優れてたかを説きまくるカッコいい動画もいいけど、
こう言う真反対の弱点や欠点に溢れた同情を誘うレベルの動画面白い😅
やめられない止まらない😂
人間くさいところも魅力的なんですよね😄😄
ギャグ漫画を見せられてる気分。コントみたいなグダグダ政治を延々と見せつけときながら、戦闘になると大活躍するのはズルい笑
コメントありがとうございます!美味しいところは逃さず持っていくんですよね😅😅
まだ、三成とか最低限は配慮してくれる相手の時になんとかしないから最悪のラスボスが登場してくる事に
コメントありがとうございます!そうなんですよね😥😥
薩摩のNO2の義弘が個人参加みたいになってるの面白い
コメントありがとうございます!やっぱり笑ってしまいますよね
見れば見るほど三成は島津にとって恩人なのによくもまぁ関ヶ原で舐め腐った態度取れたなw
恩を感じていたのが義弘と伊集院忠棟だけなんで。しかも伊集院忠棟は関ヶ原の前年に庄内の乱で粛清されちゃったし。
世界史の教科書にも載るほどの島津氏の内情がこうとは、、、
秀忠「遅刻遅刻ばっか言われるけどこっちの方が酷くね?(秀忠の場合予想以上に早く終わってしまった結果論的な意味合いが強いけど義弘の場合秀吉自らくっそ怒られてる)」
戦果よくネットで伝説になってるけど「はいはい(いつもの吹かし癖ね)すごいすごい()」って相手されてなかった一面あるのか、実際本当に命かけないと結果残さないとあかんという必死さであげれたものなのか…
コメントありがとうございます!戦国武将の強さは結局イメージ先行になってしまってますしね…
これ吉川元春も隠居してるところ強制的に出兵させられて亡くならんかったっけ?しかし歳久の件はどうにも自業自得感が拭えない。
どこが?
@@user-ds9hs4if9l 歳久本人と島津家(義久)の中央からの要請への怠慢の累積の結果だもん。これどっか擁護する要素あるんですかね
コメントありがとうございます!確かにあそこまであからさまに秀吉にケンカを売っておいて無事に済むというのも虫が良すぎるとは思いますね😥😥
次は悪久登場!?たのしみ~♪
2代目家久こと忠恒かー!(24:58)
歳久様は、切腹をされたことで安産の神様と言われてますが
詳細はこういう理由だったんですね。
戦をしたら無双なのに
戦以外の島津は、なんかかわいそうになります。
着色お願いしたい😢
本当に島津4兄弟+豊久大好きです❤
動画ありがとうございました😊
コメントありがとうございます!戦争には強いけどほかはダメという島津も愛嬌があって好きですね😄😄
これなら、九州征伐の前の秀吉の領土案をのんで降伏すれば良かったのに。のんでれば日向と肥後半分は安堵された。
日向南部とか肥後特に相良領は表高以上に米取れる土地柄だから失陥したのめちゃくちゃ痛いですよね。本貫地とか言って薩摩大隅にこだわってるけど、両方とも不毛の地ですからね。
コメントありがとうございます!後悔しても後の祭りなんですが、結局一度痛い目に遭わないと学習しないのかもですね。
薩摩なんて桜島の火山灰が凄くて不毛の土地なのに太閤検地で大隅と合わせて五八万石は絶対おかしいだろっていうね。義弘は豊臣政権に協力的とは言うけど過剰に石高出して国許苦しくなっちゃってるから義弘の言う事聞きたくない家臣のこともわからんくはない。
確かに、薩摩大隅の九州本土だけならね、、、一応その時代でも種屋久からの上がりと奄美諸島の砂糖貿易の利益があったから、58万とはいかなくてもそこそこはあったはず。あと1609年以降は琉球王国からの人頭税も加わるから結構リッチになりますよ
@@unaaabaful 種子島、琉球、奄美、屋久島みたいな離島と、琉球介した日明貿易とか島津家って海洋国家感ありますよね。貴久の弟尚久は薩摩の倭寇を率いたとか言われてますし。
関ヶ原で佐竹氏が領内の南方三十三館の遺臣蜂起を恐れて参戦出来なかったのに重なるけど、対外出兵した隙に領国で謀反や一揆起こるのはアラブの王政と部族社会みたいだなと思う
4:30 多分義弘親子はスワンボートで二人でキコキコ漕ぎながら渡海したんだろうな・・・
文禄の役での島津の兵力不足は、その後の関ヶ原の状況と似たところがありますね。
結局三成と幽斎玄旨が介入しても秀吉死後は義久が国元握って義弘は中央の窓口体制って変わらなかったですもんね。現在では島津義弘実は島津家当主になってないが有力らしいですしね。
島津の場合、この落第生っぷりは敗戦による財政破綻と困窮がそもそもの原因だったので秀吉が強引に介入して収奪を図っても根本的な解決にはならないんですよねぇ…むしろ悪化させるだけという。
現夕張みたいに国家予算の投入と徹底的な質素倹約を主導するなら別ですが。
コメントありがとうございます!結局は軍役確保のためのその場のしのぎの対応だったという感はありますね。
当時の他の大名・武将から見ても島津体制はもしかすると「前時代的」だったかもしれませんね。
しかしそうなると、一時は九州統一の勢いでしたがそれは奇跡的な話で、
仮に豊臣軍が来なくても「平和な占領統治はできず、いずれ島津は内部分裂していた」ということになるのかも?
次回はある意味「島津維新」ですね。
島津に限らず当時の多くの地方大名の実態は"豪族の寄合い世帯"でしたし、制度面で島津が特別陳腐だった訳ではないでしょう。
あくまで構成豪族の独立性が強過ぎる土地柄だったというだけで。
@@diopresario
なるほど。
ということは織田・豊臣政権が他と比べて効率化されてたということかな?
P.S. いや、今川や北条など一部先進的な大名は例外なのかな。
ある意味、島津は属人的(属土豪的?)で、豊臣政権はまだまだその傾向は残しつつもシステム化されつつあった感じがするんですよね〜。
島津って土着しすぎて家臣も皆遠い一族だったりするから本家は島津一族の長で家長的な権威はあるけど、実力的に家臣を押さえつける事ができなかった。本拠の薩摩が不毛の地だし。家康ですら一八松平の家長も脱したのも関東行ってからだし。
近現代の国家と違って、大名国家は合理的な制度を作ることよりも"大名への求心力を維持する"ことの方が生き残りに重要でしたからね。
優れた成文法と組織を誇ったけど君主が求心力を失ったために滅びた大名(朝倉・六角・武田など)が沢山いる一方、島津や信長などはおよそ組織立っているとは言い難いズタボロ体制なのに君主への求心力を失わなかったために生存できた訳です。
ぶっちゃけ戦国大名には優れた制度なんて必須ではないということ。
ちなみにこの"求心力"とは大名権限とは全く異なるものです。言わば国家や家柄の象徴となりうる"権威"と呼ぶべきモノ。政治学において「権威と権限の分離」などの文脈で語られる分野ですね。
@@user-np2qk4mu1p
守護が生き残った稀有な国だし、軍法なんか下手したら元寇以来変わって無い可能性もあるわな
義久、信長の野望の政治力見直さんとあかんやろ…
義久の本当の政治力が見られるのは関ヶ原の戦い以後の対応なんで
反対派を粛清することだけが政治ではありませんよ。むしろ対立意見同士を折衝して妥協点を探る事にこそ政治の本質がある。
そういう意味じゃ朝鮮出兵という決定的な負担が振るわれるまでは困窮家臣の暴走を抑え込めていた義久の手腕は評価するべきでしょう。
過去の政治家を語るにあたって、"起こしたこと、行ったこと"は簡単に評価できますが、"起こさなかったこと、防いでいたこと"を評価することは極めて難しいのです。
コメントありがとうございます!寝業師的な政治家としての能力なら高いかと😅😅
動画投稿お疲れ様です!
いつもの島津クォリティもさることながら、こうしてみると豊臣政権の政策も大問題ですね....
過大な軍役と検地による重税....
個人的に秀吉は好きではないのはこういった点と歳久粛清などで見せた傲慢で陰湿な態度ですね。
島津家以外にも負担に苦しんだ大名も多かったはずなので、豊臣政権が早々に崩壊したのも、そういったことのしっぺ返しを食らったのかと思いますね。
仮に無条件降伏後の日本を喩えに使うなら
「北海道と沖縄と東北は割譲してね!
賠償金は毎年タンマリ貰うから覚悟してね!
でも復興はお金かかるし自腹で頑張ってね!
地主と財閥の解体はこれからの近代国家に必要だから絶対自力でやってね!もし地主たちが反乱起こしても自分で解決してね!万が一連合軍に頼ったらヒロヒトを絞首刑に処すから覚悟してね!
あ、ついでに数年後にお隣半島で戦争起こすから最低100万人は動員して先鋒は任せたよ!武器は完全自腹でよろしく!!」
くらいに無茶苦茶な要求ですし。
コメントありがとうございます!秀吉は個人的には本性は陰性だっだと思っています。
歳久のは完全に秀吉の私怨の極みでしたよね……。
というか、晩年の秀吉って自分だけしか信じられなくなってきてますよね
利休も秀次も秀吉の猜疑心の犠牲にされてるし……。
島津家の状況はまさに「内憂外患」という四字熟語のまんまですね……
島津征伐からの急激な領土減&元々の肥後と薩摩が作物が育たない痩地だったがために
家臣団を養う事が出来ず財政破綻寸前
家臣団も少ない給与と限られた作物の利益に固執し統制が取れてない
かといって大規模改革をやれば反乱&一揆祭りが起きかねず、お取り潰しの危機を招く
その結果豊臣政権からの命令を全くこなせず、島津の面目丸潰れが連続……末期も末期ですね
これでも島津が潰されなかったのは、既に豊臣政権からみても南も南の田舎大名扱いだったからでしょうね……
誰も行きたがらないし、治めたくない、地元の有力者が管理していれそれで良い状態
まさに数にすら含まれていない状態
そう考えるのなら関ヶ原での島津の扱いは納得が出来ますね
徳川から見ても島津は「どうでもよい」扱いだった
言語も訛りがキツく、痩地とあって、さながら日本の「従属支配国」といった状態でしょうか
琉球外交という政治カードを最後まで守り抜いたお陰かと思います。その点は義久を誉めるべきでしょう。
秀吉・家康共に琉球ー明という外交ルートを重視していましたし、地政的に対琉球の最重要地点である九州南部を"どうでもいい土地"扱いすることは為政者としてまず有り得ないことです。
@@diopresario
どうでもよい土地というのは言い過ぎましたね……
ただ、そうなると気になるのは琉球王国の価値が何処まであったか?という事何ですよね
朝鮮を通って明国を攻めている計画していた時点で明国と平和的な外交や貿易は捨てている状態
琉球王国を通じて征服前の明国や征服後の支配地域との外交や貿易をしようにも、朝鮮国とは仲違いし戦争からの朝鮮支配に切り替え
こうなると貿易という一点を見ても琉球王国ラインよりも朝鮮ラインの方が良さそうに思える
後々、島津も琉球王国の不誠実な態度に対して琉球王国へ出兵からの支配に入るから、本当に琉球王国の外交に豊臣政権を重要視していたか、分からない
明国まで征服を考えて朝鮮支配もしようとしていた辺り、琉球王国の自立性を何処まで豊臣政権が許していたかも分からない
だからどうしても琉球王国の一件は義久に任せても良い程度の扱いで
義久が琉球王国の外交があったから潰されなかったは些か疑問かな、と
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どうでもよい土地というのは言い過ぎましたね……
ただ、そうなると気になるのは琉球王国の価値が何処まであったか?という事何ですよね
朝鮮を通って明国を攻めている計画していた時点で明国と平和的な外交や貿易は捨てている状態
琉球王国を通じて征服前の明国や征服後の支配地域との外交や貿易をしようにも、朝鮮国とは仲違いし戦争からの朝鮮支配に切り替え
こうなると貿易という一点を見ても琉球王国ラインよりも朝鮮ラインの方が良さそうに思える
後々、島津も琉球王国の不誠実な態度に対して琉球王国へ出兵からの支配に入るから、本当に琉球王国の外交に豊臣政権を重要視していたか、分からない
明国まで征服を考えて朝鮮支配もしようとしていた辺り、琉球王国の自立性を何処まで豊臣政権が許していたかも分からない
だからどうしても琉球王国の一件は義久に任せても良い程度の扱いで
義久が琉球王国の外交があったから潰されなかったは些か疑問かな、と
土地柄て、今も昔も変わりませんね、、、、
コメントありがとうございます!戦国時代のあたりが今の日本の政治・社会構造の淵源になっているという話もありますしね。
島津のダメさがクローズアップされ?けど、地方の実情を無視して頭ごなしに中央集権化+外征を押し付ける秀吉もどうなんだと思った。
それは思った
ただその「実情」というのも多分に島津方の責任が大きそうで結局は……って感じでもある
その実情をどうにかするのが島津のお仕事ですから
できないと思われてたら降伏なぞ許される訳ないし。
コメントありがとうございます!中央とローカルの事情の擦り合わせは今でも難問ですしね😓😓
義久をはじめとして 島津家全体が秀吉と豊臣政権のこと甘く考え歳久の粛清という手痛すぎるしっぺ返しを受けた形ですね
晩年の秀吉は霊夢が言ってたように「陰惨でエゲツないやり口」(24:03)が目立ってきてるよね
良くも悪くも豊臣政権の良心で歯止め役的存在だった弟の秀長が死んだこと(天正19年)で歯止めが効かなくなり、利休を切腹させたり、淀(茶々)が秀頼を産んだことで邪魔者になった秀次とその一族郎党を皆殺しにしてるし……。
好意的に解釈するなら、検地などの近世化改革を公権力による強制(秀吉の直接介入)という形で行うことが出来たお陰で、島津宗家への家臣の反感や求心力低下を防ぎつつ領国体制にテコ入れが出来たってところでしょうか??
当時全国で頻発していた大小の一揆から分かるように、東国や九州などの地方大名が近世化を成し遂げるには自助努力だけではどうにもならなかったというのが実情なのです。
上杉や徳川ですら移封という公権力の介入に頼らざるを得なかった訳ですし。
ふー
1コメ
楽しみにしておりました♪
ありがとうございます😄😄
歳久の粛清だけど、表向きには秀吉の上意だけど、裏では三成が1枚噛んでるんだろって、事の経緯を知らない島津家中が思い込んでて、豊臣政権への怨嗟(24:20)以上に秀吉を自分の操り人形として利用する三成許すまじって意識が芽生えたとしてもおかしくないよな……。
指南役という立場を利用して散々内政干渉かましてたし……。
現に関ヶ原の時に義弘は三成と度々戦略を巡って対立した挙げ句、本戦でも三成から再三出撃要請を受けても拒否して最後には敵中突破かましてたし……。
ってか歳久粛清の時に家康や最古参メンバーの前田利家あたりが「歳久の言い分を聞いてみたらどうか?」って取り成しとかしてたらどうなってたんかな?
三成は指南役だからキツい事も言わなきゃいけないから職務上嫌われるし、関ヶ原で島津は参戦しなかった。三成は嫌われてたけど、徳川家でも本多正信が同じような役職でやはり嫌われてた。石田三成や本多正信みたいな役割がいないと組織は成り立たないのかな。
コメントありがとうございます!三成も職務に忠実であろうとして島津のお家事情に介入していたんでしょうけど、損な役回りですね😥😥
義弘は万夫不当の豪傑だから・・・1万人の兵に換算!
義弘はヒッキーな兄の尻拭いに追われてるなあ
歳久はこの件のお陰で2階級特進で存在感の割に・・・おっといけない🤐
義弘の武勇は兵一万人に当たる…って三国志で似たようなこと言ってた人がいたような🙄🙄