【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その4ー石田三成の策謀に翻弄される義久の後継者問題
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- Опубліковано 29 лют 2024
- 今回は細川幽斎の島津領国改革「幽斎仕置」が義久の抵抗で効果を上げなかったために、朝鮮に在陣する義弘の意向も受ける形で石田三成が義久の後継者問題で主導権を握り、島津に対する干渉を強化していく過程を解説していきます。
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関ヶ原で西軍につきたくない奴が山ほどいる理由が分かる素晴らしい動画。
思ってる以上に義弘が義久を立てて国許に求心力を持ってないのも分かる
現に関ヶ原の時には義弘と三成は戦略を巡って対立して仲違いしてたしね……。
その頃には義弘も三成が悪評まみれで冷酷非道な人間だったってことに気付いたんじゃあ……。
安宅って淡路島の海賊三好と関係あるの?
@@kobayashitommy6521父ちゃんが安宅冬康と言われている
コメントありがとうございます!三成としては職務に忠実であろうとしただけなのかもしれませんが😥
三成がやろうとした事を徳川家の力を使って忠恒が実行してるのが皮肉。三成のやり方は正しいかもしれないけど、早すぎたし、根回しをしてないし敵を作りすぎて関ヶ原で墓穴を掘ってる。三成死後に大阪城に行った三成と不仲の加藤清正が風紀の乱れに三成がいた時はしっかりしてたと嘆いてたって話しを聞いた事がある。
加藤清正と三成が犬猿の仲だったというのは朝鮮の役の人間関係を都合解釈させた後世の創作でしょう。利家死後増田や長束らの妬みによる策略が元で三成は失脚させられたという新説が出てきているし、三成の身から出た錆な感じですがこの状況での豊臣家は凡庸な大名(某毛利輝元等)にすら乗っ取られやすかったと思われますが
余談ながら後に徳川家が伊達政宗、細川忠興、直江兼続といったどう考えても水と油なクセ者どもの相反を纏める役で改易処分にした立花宗茂を仕官させたのは三成のような前例の経験者だからと思われますね、内ゲバはその家を滅ぼしかねないので。
三成も私利私欲でこんな事していた訳ではなく、秀吉がそれを望んでいたから、三成は島津の従属化と領国改革を推し進めた訳だから、全部が全部三成が悪かった訳ではない
(そもそも問題の発端は島津側が生み出したものばかりだし)
ただ、三成は真面目過ぎて融通が効かず多くの反感を買ってしまった印象
秀吉は真面目な三成だけでなく三国志の諸葛瑾の様な、温和で仲を取り持ち、柔軟な対応を取る家臣を三成と一緒につけるべきだった
最もそんな都合の良い家臣が豊臣政権にいたかと言われたら疑問だけどね
コメントありがとうございます!最後の話はいなくなって初めてわかるありがたみですね😢
@@user-th8rx3uq3z 軍目付の福原長堯(三成の妹婿)筆頭に三成の身内が蔚山城の戦いの報告役とかで前線組というわけでもないのに黒田や蜂須賀らを差し置いてどんどん加増(蜂須賀と黒田は福原の報告を聞いた秀吉から叱責を受けてる)されたり三成の筑前・筑後の代官(秀秋が転封で空いたところ)になったりで佐和山の当人の領地+大隅等蔵入地任されてる分も足すと実質約60万石以上の大身にと滅茶苦茶贔屓されてるように見えてるのも周りから嫌われてた印象ですね…
そもそも、仇敵とされる家康ですら三成と案外仲が良くて三成が息子を預けたり、家康も三成の息子達は助命しているから互いに怨恨は無いんだよね
25:11 僕です。九州男児にあるまじき酒の弱さ。ビールコップ半杯でベロベロ
コメントありがとうございます!日本人の半分近くはお酒がダメな体質みたいですね😥
義久の恩を忘れないとか言っているのに彼の娘に非道な仕打ちを・・・
コメントありがとうございます!そこが安定の悪久クオリティですね😨
龍伯公は、意図してか、意図せずかはともかく、ハッキリしない方ですね。
その判りにくさが、豊臣政権から敬遠されたところはあるかも。
その分、惟新公が補う部分もありつつ、一方で対抗馬として義弘公が立てられる、形かな。
でも、惟新公も龍伯公を立て家臣からも一定の支持があったのだから、計り知れない人だったのでしょうね。
もしも久保さんが次期当主になったなら、忠恒さんと似た道を辿ったのか、
少し興味がある話です。
コメントありがとうございます!その掴みどころのなさが義久の政治家としての真骨頂だったんでしょうね。
自分の権威、権力を守る術に優れている。政治家とは玉虫色を実践している。最近はこういう寝業師みたいな政治家おらんね。
@@user-hx9mg1nn1t
そんな判りにくいタイプの政治家は、民主的な投票では受けないと思います。
石田三成ってやっぱり周りに敵を作るってよう分かる。御しやすいと思ってた悪久が徳川派だもんね。
コメントありがとうございます!立場上厳しく接する必要もあるので損な役回りではありますが…
九州征伐の後義久公、義弘公の二人の両殿体制で混乱している状況下で更に忠恒公の登場により島津家は仮面ライダービルドの様に家中が三竦み状態で混沌を極めていくことになります。イメージとして義久公や義弘公は人情味のある殿様でそれに比べると忠恒公は家中統制の為に家臣の粛清も厭わなかった酷薄な殿様と思ってしまいますが戦国大名の殿様でいられた義久公と義弘公に対して江戸時代の幕藩体制下の大名の殿様の忠恒公とでは求められることが違うと思いました。義久公や義弘公の頃からなあなあに流してきた家中の混乱を忠恒公が纏めるには家臣の粛清もしなければ幕府から改易もあり得たのですから
それな。島津が近世大名になったのは2代目家久になってから。
魔理沙が最後に言ってたように権臣の伊集院忠棟は忠恒にブッ殺されてますからね……。
コメントありがとうございます!近世大名に転換するにあたっては強権的ではあれど忠恒は適任だった部分はありますよね。
その改革に失敗し明治維新まで中央集権が出来なかったのが伊達家ですね
織豊系大名も高禄の家臣の統制に苦しみお家騒動起こし改易 と言うのが頻発しているので、強権的だろうが非情だろうが改革を成し遂げた君主は本当偉大ですね
豊臣政権からしたらある程度操縦が可能な義弘に島津家をまとめて欲しいわな…だから義久外しを徹底するのね
コメントありがとうございます!義弘のほうが性格的に御しやすいですしね。
でも義久って以前の解説で紹介されてたけど琉球とのパイプがあったからいくら三成といえども完全に排除することはできなかったんじゃあ……。
あの秀吉ですら琉球のことは義久任せにせざるを得なかったわけだし……。
@@user-is9gx8ij5k むしろ豊臣政権としてはその機能も取り上げたかったんじゃないかなぁ
関ケ原で石田三成の権限がどれだけ有ったかは諸説あるが
カリスマの下でこそ仕事ができる人って感じですね
コメントありがとうございます!ゼークト組織論的な「有能な働き者」の感じですかね。
dqn四天王の一角!参上!
コメントありがとうございます!ついに初お目見えです😅
おお性格最悪 能力 最高の悪久君の登場だ
島津家と伊集院家の未来は明るいぞ(白目)
😨😰
安宅って本来なら自分よりはるかに上の地位の者にも高圧的に話すなあ。やっぱ上司に似るのかな。
まあ、安宅も三成も官僚としては言っていることが正しいし有能ですね。
人間性はともかく。
済州島あたりは占領できたやろ
出来ても維持できたかどうかですね。日本と朝鮮半島の力関係は結構変わっていますが 対馬は日本 済州島は朝鮮半島 と言うのが一切変わっていません
日本からすると半島からが圧倒的に近く対馬海流に逆らって向かわないと直接には行けない。維持は不可能でしょうね
安宅がしゃしゃり出てたってこと(12:25)を薩摩本国の家臣たちが知ったならそれこそ歳久粛清事件(11:44)で反豊臣感情を募らせてた上に三成家臣が虎の威を借る狐同然の行為をするなんぞ言語道断だって怒りのボルテージが高まって誰かを血祭りにあげて溜飲を下げそうだなこりゃ……。(←後で魔理沙が言ってた(25:50)権臣の伊集院忠棟が2代目家久こと忠恒にブッ殺された件とか)
それでなくても三成が生み出した文治政治はあまりにも稚拙で加藤清正ら古参組とも揉めてて、清正なんて三成の讒言のせいで一時期蟄居させられたこともあって三成を恨んでたし……。
ってか、義久は三成の圧迫に押されまくりだけど、ここいらで家康とか前田利家あたりに助力を頼んで三成の影響力の排除を画策してた方がよかったんじゃないかな?
それこそ、島津領の検地担当を家康か前田利家に差し替えてくれって要求するとかさ……。
コメントありがとうございます!豊臣政権は官僚組織が未熟で恣意的な政策も目立ちますから、三成はその責任を押し付けられた感もありますね。
大名が取次役を行なう時は基本領国から近いところや縁戚関係が中心でした。家康関東、前田は北陸、蒲生が東北。西は毛利が中国と筑紫
で、それ以外は縁戚を除き豊臣政権の奉行衆が担当しており、全く縁も地域性もない大名に取次を頼むのはそれこそ秀吉の上意が無いと無理だったでしょう
なお利家も家康も検地は厳密にやる方で地域の有力者を武力で排除するのを厭いません。彼らに頼んだ方がより悲惨になるかと
@@toshis3972
でも家康はこの時点で関東丸々もらって徳川勢力圏にしてるから取次をやるような地域がほぼない状態なんですよね……。
しかも家康の石高は秀吉よりも30万石ほど多い260万石近くあるので島津領国の検地を余裕で代行できそうなんですが……。
石田三成は有能なんでしょうね。加藤清正に任せたてたなら・・・。朝鮮どころではなさそうだし、結果的に良かったかも(笑)
コメントありがとうございます!責任感が強くて職務に忠実なんだけどそれゆえに周囲からウザがられてしまう人間ですよね😥
忠恒のことを「悪久」「悪久」と連呼されるのは見ていて気分が悪い
地元の鹿児島だと「家久」は基本的に初代薩摩藩主の中納言家久(忠恒とはほとんど呼ばれない)を指すからねー
@@user-ih2we4ud3e
まあ鹿児島で忠恒について語る時は、忠恒時代より江戸時代入ってからの藩主家久時代ばかりだからね。
あとそもそも地元鹿児島じゃあ中書家久や四兄弟の知名度なんてほとんど無いからね(義弘すら妙円寺詣りの人って言わないと通じないし…)。
そしたら暴れん坊の初代家久が浮かばれないでしょ
九州統一戦争編で紹介されてた沖田畷で龍造寺隆信の首を挙げたり戸次川で豊臣軍をボコボコにした功績が死後には忘却の彼方になっちゃってるし……。
後は秀吉の私怨の犠牲にさせられた歳久もまた然り
この件で島津家中に秀吉への怨嗟がはびこってた上に口うるさい三成一党が傍若無人な振る舞いをしてたからさ……。