【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その2ー豊臣政権の政策路線へのスタンスで対立が本格化する義久と義弘

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  • Опубліковано 15 лют 2024
  • 今回は豊臣政権に積極的に協力し、特に石田三成との関係を強化して領国支配体制の改革を図る義弘と、それを忌避して従来通りの体制を維持しようとする義久との対立が深刻化していく流れを解説していきます。
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КОМЕНТАРІ • 55

  • @user-lw6gn7uu8r
    @user-lw6gn7uu8r 5 місяців тому +14

    けっこう緊迫した状況のはずなのに義久義弘兄弟のやりとりって笑っていられるのって、「漫才」みたいなやりとりだったからか!!!

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +3

      コメントありがとうございます!当人たちは大真面目なんでしょうけど何か笑ってしまうんですよね😄😄

  • @diopresario
    @diopresario 5 місяців тому +14

    九戸政実の乱のような先例がある事を思えば、地方の守旧的な大名を強引に中央集権化させる事は無理があったのでしょうね。
    豊臣政権に平身低頭して秀吉の不満を逸らす義弘、家臣団の不満の受け皿として地元に君臨する義久、この二頭体勢は確かにグダグダではありますが島津家が存続できた大きな要因でもあったのは否定出来ませんね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +4

      コメントありがとうございます!当人同士の意識はともかくある意味では役割分担ができていたとも言えますよね。

  • @user-nr7qd5vh3l
    @user-nr7qd5vh3l 5 місяців тому +16

    政宗「江戸に詰めると気が弱る」
    お前は散々好き勝手やってただろうが!

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!おまゆうですよね🤨🤨

  • @user-ie4zu2vl8t
    @user-ie4zu2vl8t 5 місяців тому +2

    凄い分かりやすい!

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      ありがとうございます!そう言っていただけるととても嬉しいです😄😄

  • @user-th8rx3uq3z
    @user-th8rx3uq3z 5 місяців тому +4

    動画楽しみにしていました
    旧支配的な統治に不満を抱く義弘ですが
    その義弘もかつては神頼みを使って
    自分達の都合の良い方向に持っていこうとしていたのですから皮肉めいたものを感じますね
    そして個人的に感じたのは石田三成の登場回数の頻度
    恐らくは史実はもっと多くの人達が関与しているとは思いますが
    島津家だけでもこの関わり様
    如何に秀吉から信頼されていたかと同時に三成クラスの人材が豊臣政権で不足していたか伺いしれます
    元々秀吉が成り上がり者なだけあって優秀な人材はかき集めるしかなかったのも背景にあるかもしれませんが
    三成が後々多くの人々から恨みをかったのは国内問題や外国出兵による掛け持ちでのキャパオーバーだったのではないか?
    と勘繰ってしまいます

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +2

      コメントありがとうございます!豊臣政権は官僚組織が未成熟で、三成のような個人の手腕に大きく依存せざるを得なかった事情はありそうですよね。

  • @user-ie4zu2vl8t
    @user-ie4zu2vl8t 5 місяців тому +1

    島津は江戸初期くらいまで?扱うのかなと思いますが、早くも次のお題も期待してしまっています。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!島津編は義久と義弘の死去まで扱う予定です。それ以降になるとさすがに戦国時代と離れてしまいますので😅😅

  • @user-ic9qj9ez2s
    @user-ic9qj9ez2s 5 місяців тому +3

    この時代の島津家の苦労を解説した書籍に山本博文さんの島津義弘の賭け:秀吉と薩摩武士の格闘という労作があります。ゆっくり真実の戦国史さんの解説を聞きながら読むと義久公、義弘公、忠恒公、の苦労が伺えます。どなたも途中でもうやめたと投げ出さずに幕藩体制まで島津家のバトンをつなげたのですから大したものです。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!山本先生のご著書は通説的な島津家のイメージ見直しの先鞭をつけた名著ですよね。

  • @user-mx4wq3yz8t
    @user-mx4wq3yz8t 5 місяців тому +3

    石田三成と義弘は不仲って言われてるけど、そうではないのかな。石田三成は嫌われてたって言われたけど頼られてるのは意外。現実を受け入れて改革しようとする義弘と国元は義久や老中がグダ グダだしゴネてる。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!三成の取次・指南役としての権勢は大きかったですしね。

  • @user-rk6uq2jh3k
    @user-rk6uq2jh3k 5 місяців тому +3

    これでは、当主が悪久になり暴れるまで、何も解決しなかったのも、、、本人の邪悪さは元々のものかもしれないが、相手が相手なので、意図的にやったのでは無いかとも思えてしまう。義久の娘が悲惨な事になったのも、、、

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!悪久が再評価されるムーブが来てますね😅😅

  • @user-mq5gx3rh6y
    @user-mq5gx3rh6y 5 місяців тому +1

    7:10 義弘作詞「トリセツ」を読むと、普段から義弘が義久をどう見ていたかよくわかりますね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!義弘作詞笑 溜息つきながら書状を書いている義弘の顔が目に浮かびますね😖😖

  • @user-np2qk4mu1p
    @user-np2qk4mu1p 5 місяців тому +1

    源平の頃の後白河法皇の狙いはコレだったのでしょうが、頼朝と義経とは違いますね。
    義久を圧迫し過ぎて、逆ギレさせても豊臣政権としては苦しいし。
    今回の登場人物で全くのストレスフリーの人はいなかったでしょうね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +3

      コメントありがとうございます!秀吉も島津の扱いには頭を悩ませてたんでしょうね。

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 5 місяців тому +1

    義弘が社長で義久が 代表取締役兼CEO
    真田家のように 天下の情勢は どのように転んでも島津家が残れるように 動いていたのかな?

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!そこまで深慮遠謀を働かせていたら大したものなんですが🤔🤔

  • @anana8991
    @anana8991 5 місяців тому +4

    義久は政治力とカリスマで国元を抑えて義弘は中央の声を聞いて外に出るってグダグダな中に理想的な形を見出すのが島津家の強み。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!そうなると結果的に兄弟は役割分担ができていたんですかね😅😅

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 5 місяців тому +2

    三成義弘ラインが生まれたわけだけどこれが良かったのか悪かったのか…

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +2

      コメントありがとうございます!この時点では悪いことではなかったと思うのですが…

  • @saka_pinkticket
    @saka_pinkticket 5 місяців тому +2

    島津ってよく言われる石高57万石の割に官位が立花宗茂とかより低いのが疑問だったんですけど実際はこんなに少なかったんですね……

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +3

      コメントありがとうございます!57万石も相当な無茶ではじき出した数字みたいですしね…

    • @saka_pinkticket
      @saka_pinkticket 5 місяців тому +1

      @@user-ii9wu7fn7p ほかの外様西国大名(毛利・長宗我部など)が過少気味だったのを見ると島津って政権からの印象かなり悪かったんですかね?
      その辺は今後の解説で楽しみにしております!

  • @user-pw1sn2eo9v
    @user-pw1sn2eo9v 5 місяців тому +1

    漫才みたいな感じで大河ドラマやってほしい

    • @user-lw6gn7uu8r
      @user-lw6gn7uu8r 5 місяців тому +1

      この掛け合いを面白おかしく、でも芯は外さずに演出できる人がいたら大河ドラマにしても面白そう!!
      あと義久は腹黒すぎる、義弘は真面目すぎるから、その中間くらいで2人にツッコミ入れれる人がいると良さそう

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +2

      コメントありがとうございます!それはちょっと見てみたいですね😄😄

  • @user-mx4wq3yz8t
    @user-mx4wq3yz8t 5 місяців тому

    石田三成も島津だけじゃなく他の大名からも相談を受けてたし、武断派には働いてないと嫌われてたし、嫌にならないのかな。

  • @user-df2ob1lz5v
    @user-df2ob1lz5v 5 місяців тому

    あれ?戦以外は、グダグダ😅
    金なし、家臣を従えられなくて、少しかわいそう
    私がお手伝いしたいです😊

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!たしかに同情心が沸き起こってきますよね😢😢

  • @user-us9fz7ri5h
    @user-us9fz7ri5h 5 місяців тому +1

    まあ、この状態で良く大友家や宇都宮家の様に改易されなかったものだと思いました
    (大友家も宇都宮家も理由はそれぞれ違うが、小田原の役後に改易された大名家)

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!琉球外交で使い道があった点で命拾いしたのかもですね。

    • @diopresario
      @diopresario 5 місяців тому

      タヌキな義久は琉球とのコネを中央政権との交渉カードとして最大限活用していたように見えますね。
      少なくとも琉球の権益を自身の手の内に置き続けられた義久の政治手腕は並大抵ではない。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu 5 місяців тому

    義弘と三成・・・ゴクリ

  • @user-is9gx8ij5k
    @user-is9gx8ij5k 5 місяців тому +1

    薩摩って後年は77万石領してたはずだけど……。
    義久・義弘兄弟の時代は何十万石持ってたの?
    魔理沙が「多くの所領持ってるはずなのに……。」(14:41)って言ってたけど……。
    あと、薩摩領国での検地(5:30)って、以前の動画(四兄弟九州統一戦争編最終話)で検地への抵抗勢力の頭目になりえそうな存在とされた三弟の歳久が家臣の暴走を口実に処分された話とリンクしてましたよね
    あとは三成が色々と内政干渉してるけどこうした三成の振る舞いが後年「三成悪玉論」を形成していくんだよね……。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +2

      コメントありがとうございます!後年の太閤検地だと約58万石になっていますね。三成の介入は正直島津の責任が大きい感が…

  • @ryotaroukujo3870
    @ryotaroukujo3870 5 місяців тому

    島津の57万石って指出検地ですらなかったのですね!知りませんでした。事実上の追徴課税(笑)みたいなもんだったのですね。毛利や黒田、長宗我部は指出検地で実質税制優遇処置なのと逆ですな。
    こんな無茶苦茶な経営だったから、結局領内の農民から搾取しないと存続できなかったのですね(泣)
    中央官僚の立場から見ると、構造改革が出来ない田舎のダメ会社って感じだったんでしょうな。彼らから見ると腹がたつでしょうな。「こんなに最新のマネジメント技術を指南しているのに何もしない。(現代の感覚で言うと)本社ビルの建て替え工事費まで公共の予算で工面してやったのに、義弘以外は申し訳ないと思っている形跡がない。しかも敗戦国の分際で!!」って感じですかな。
    義久もずるい人間ですなあ。本当の無能ではなく、意図した無能。のらりくらりとしてわざと対応を遅らせている感じですね。
    大友や宇都宮が名家なのにあっさりと潰されているのに島津が残されたのは、やはり琉球とのチャンネルなのでしょうか?

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!言うことは聞かないけど琉球との外交チャンネルというカードがあるので取り潰せない、タチの悪い存在ですよね。

  • @user-mj2vy1rn4g
    @user-mj2vy1rn4g 5 місяців тому

    虫気ってなんだろ?

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому +1

      コメントありがとうございます!虫気は内臓疾患系の腹痛みたいですね。

  • @user-ik8yc9qq9s
    @user-ik8yc9qq9s 5 місяців тому

    だから義弘は西軍に付いた。

  • @user-ub7tt4gl8y
    @user-ub7tt4gl8y 5 місяців тому

    薩摩は上井覚兼日記とか見るにとにかく酒飲みまくる話が多いし(ザビエル来訪辺りから既に焼酎の概念はあったらしい)、毛利元就の父・兄みたいによく酒害で亡くならなかったよね
    確定申告サボる癖に中央の役人や上京してる弟らの介護してもらってるのにいざ額が決まったら増税猿(秀吉)め!はちょっと現実見えてなさすぎる…→薩摩の老中たち
    大抵の大名は国衆重臣らの支持ありきだから身内切りできない弊害に苦しんでそれが秀吉~秀忠・家光期までに脱却できない大名は「改易」で脱落していくんだなって

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!酒浸りになってた義久が79まで生きたのは意外ですね。確定申告サボったせいで結局強制査察が入る破目になりましたしねえ😥😥

  • @user-og8kx4ih7c
    @user-og8kx4ih7c 5 місяців тому

    やはり朝鮮と日本は似てる・・・w

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  5 місяців тому

      コメントありがとうございます!日本と一番近い隣国ですしね。