【ゆっくり解説】大名級なのに大名ではなかった家!!
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- Опубліковано 16 кві 2024
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ところどころ?な感じですね。御三卿は3家で10万石ではなく、それぞれが10万石相当では?又毛利減封は関ヶ原後であって大阪陣後の事ではありません
御三卿は大名じゃなかったけど、米沢新田藩1万石や土佐新田藩1万3千石なんかは御三卿のように領地もなく米だけもらって家臣も本家から派遣されててもれっきとした大名だったことを考えると面白い
`長州藩の成立は関ケ原の戦い後の1600年、大阪夏の陣は1614年。
毛利家お取りつぶしの危機に対する広家の奔走は1600年の話で、大阪夏の陣は関係ないと思います。
勉強になりました😮
吉川家関連の調査しました?毛利家は関ケ原で減封になったのに大坂の陣まで関連していることになっている。しかも吉川広家は輝元と不和どころか長州藩の執政になっているよ。大坂の陣で毛利秀元が首謀している事に抗議して執政を引退。秀元が変わって長州藩執政になったが独裁体制を築いてしまう。輝元・秀就親子は窮し広家に助けを求めている
広家は息子広正を送り込み多数派工作をして秀元を追放している。広正は一度執政を退くが秀就の懇願で再び執政の座に就いている。初期の長州藩は吉川家を頼りにしている
吉川家と毛利家の中が悪くなったのが吉川家が独立運動を起こした岩国藩4代藩主広紀から
こんだけ世の中に解説動画溢れて史料も無料で読める時代。もう少し調べましょうよ
なるほどっ!
北海道民からすると、日高の静内に流された稲田家(淡路島を統治)もそうですよね。
当時の徳島藩・蜂須賀家との確執や、徳島藩の領土だった淡路島が明治時代に兵庫県に編入される経緯も面白いと思います。
御三卿は幕臣のポスト確保のためとも言われているね。藩にしたら幕臣ではなくなってしまうから幕臣の立場を維持しつつポストを増やすためこういう形にしたらしい。
松平定信も田安出身
清水徳川家からは1910年に代々木練兵場にて、アンリ・ファルマン機で初飛行に成功した徳川好敏が出ている。
明治維新で大名になれなかった没落士族だっけ?
御三卿は将軍家家族の扱いだからある意味大名より上です、だから問題ないですよ、
面白かったよ。
ニートの御三卿😂
知行と領地はイコールではない・・・・ごっちゃに説明してるような・・・
仙台藩伊達家も、領内の各地に1〜2万石の領主(伊達家の分家や戦国時代の重臣の家系が統治していた)がいたけど、大名ではなかった
あくまでも藩主に仕える陪臣に過ぎなかった。
伊達一族なんだけど、独立した大名として認められていたのが、
宇和島伊達家。
陪臣で1万石以上って全国にけっこういましたね
@@user-tq4qo4kl4p 四国の宇和島藩伊達家は10万石あったので完全に独立していましたね
仙台藩内部の伊達家の分家は1〜2万石の領地を持ち、藩内各地に分散していました
宰相殿の空弁当は 輝元の養子 秀元のエピソード 岩国藩の立藩を許可したのは明治新政府 松平定信が抜け落ちていた件と言い 歴史動画を作るならもうちょっと 細部を詰めた方がいいよ
冒頭の信頼できる家臣に土地を与え代わりに支配してもらう。と聞くと代官のような感じもするな。
とはいえ採れた米は、その藩の物で将軍には参勤交代で軍事的奉公やから、やはり諸侯なわけか。
御三卿は各家10万石 徳川宗武公は3男ですね。
御三家の附家老五家、成瀬・竹腰・安藤・水野・中山のケースも有り。
御三卿は「御家族」とも言うね
おもしろかったです。
でも、毛利が山陰・山陽全ては治めていません。
一部、強い影響下にはありましたが、備前と美作、備中半国は宇喜多ですし、播磨は違います。但馬・丹後・丹波も違いますね。
ところどころ字幕との読み違いがあるので、修正希望です。
水戸家は、副将軍で将軍家には、当初ならない家。
越前家、尾張家、紀伊家、駿河家、水戸家の德川一門、加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙臺藩伊達家、、、にも一萬石越える附家老や分家家臣がいた。
岩国の吉川氏は、立藩は毛利家との関係性で出来てない
だけど、幕府からはほぼ藩扱いで参勤交代も領の運営も独自でしてるし特殊な所
家老や分家家臣(完全な陪臣)と単純に比べられないよ・・・この動画の説明が悪いのが原因だけど
一応各藩調べたことがあるけど、30万石以上だと1万石以上の知行を持つ家臣の家がある。それ以下だと確認できず。1万石以上の家臣の家は維新後に男爵になってて華族扱い。
吉川家以外でも御三家の附家老家は維新後すぐに大名扱いされてるし、徳川幕府からも一応大名扱いされてた(段々薄れていったという説もあるが)。吉川家と附家老は子爵扱いだったはず。
岩国藩毛利秀元と長州藩毛利秀就は元々義理の兄弟だけど仲が悪かった。
毛利秀元は長府藩ですよ。
もう少ししっかり調べてください。
御三家御附家老や前田家の本多・長家等の八家、吉川家等々、大藩の家臣には3万石クラスの身代が居たが、あくまでも彼らは陪臣でしか過ぎなかった。
但し、吉川家は主家から独立した領土支配権を持ち、当主自身や徳川将軍の代替わりには江戸へ参勤交代を行っている。
皇室も1~3万石の御料地を有していましたよね。もちろん徳川将軍のほうが名目上は臣下なんですけど。
徳川幕府ご三家の付家老()たちも
大名並み。
ちょっと変わった?ところでは
最後の切腹事件となった
徳島藩のお家騒動の元となった
藩主の蜂須賀家と
筆頭家老の
稲田家との関係。
そもそも蜂須賀家は
木曽三川地域の土豪(地侍、国衆)だった
蜂須賀小六を祖とする家。
この蜂須賀小六さんと五分五分の義兄弟の契りを交わして付き従ったのが
稲田某氏。
羽柴(豊臣)秀吉と行動を共にして
出世街道をかけ上った二人。
義兄の蜂須賀小六が大名となる際、
義弟の稲田某氏にも同様に大名へ冊封する打診が当然有りましたが、
義兄弟の信義を押し通して
大名には成らずに
蜂須賀小六に付き従う事を選んだ。
蜂須賀家が阿波国20万石と淡路国6万石余を領する大守、大名となって
稲田家はその信義に報いるため、
筆頭家老の要職に加えて
藩内の最重要な要所(生命線)である
脇町(藍の集積地)と淡路国(淡路島産米は一級~特級をキープした高ブランド(高く売れる)米)の約1万3千石?の知行を与え
須本(洲本)、脇町の城代とした、
稲田家にもたくさんの家臣団が居り、
今の正社員と派遣社員の様に
本藩の家臣団と
家老家の家臣団がほとんど同様の仕事をしていて、
蜂須賀藩の中に
稲田藩がある様な無いような
鬱々とした関係(家老家家臣団は本藩藩士らに卑下された)が燻り続け
幕末迄つづいていた
それに油を注ぎ煽った形となったのが
明治維新となり
廃藩置県の大号令
藩主の家臣(士族)にはわずかながら一時金の配給が保証されたが
藩主の家臣(家老家)の家臣は藩主からすれば陪臣にあたる
卒族とされて
一月程の報祿の雀の涙もない裁定に
稲田家家臣団は
淡路国を分離立藩して
卒族~士族へのグレードアップを企図して
キャンペーンを展開したところ
稲田家老家が押さえている
生命線の脇町と淡路島が無くなる事は
徳島蜂須賀藩の破綻を意味する事や
そもそものプライドが許さない
急進派の一団が洲本城下の
稲田家家臣団らをいきなり襲撃して
120名もの死傷者(稲田家家臣団側はほとんど無抵抗だった)
を出す大惨事となった。
、、、庚午事変
毛利減俸は大坂の陣は関係ないですよね
御三卿は、各家10万石です。その為伯爵になっています。
御三卿が成立したのは、江戸幕府が成立してから100年経って、徳川宗家と御三家との間の血の繋がりが薄れてきたからだ。
因みに御三卿の家老は若年寄の管轄下だった為、御三卿は大名というより、旗本に毛の生えた様な物だった。
因みに御三卿の内、田安家、一橋家が1868年に明治政府から立藩を許されたが、翌年版籍奉還された。
領地は無いから部屋住みの延長みたいな物だし
田安亀之助→徳川家達公爵
喜連川藩は?
あと、万石級の陪臣でも成瀬氏は前田とかの陪臣とは事情が違うから紹介に値する藩だと思います
喜連川藩はむしろ逆では?
1万石に満たないのに大名扱いされていた。
輝元君、大阪城で、こっそりと、悪巧みをやらかしてらしいんだが、
徳川御三家は確かに徳川幕府にとって重要な「親藩大名」であったが同時に「紀伊徳川」「尾張徳川」については西国にあった事から徳川将軍家にとっては滅亡した豊臣氏に変わる「脅威=仮想敵」の存在にもなった。この2家が有力外様大名や京都の朝廷と結ぶ事を怖れたとか。
でも幕府を倒幕に追い込んだのは
水戸学を始めとする尊王思想水戸徳川家という皮肉
関ヶ原の戦いで敗北した西軍の宇喜多秀家が、八丈島に配流され、刑が解かれた後、前田利常から10万石の大名への復帰を打診されるも、これを断って八丈島に留まったと伝わっていたり、山形・庄内には「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」なんて俗謡がある。「大名」なって享受するメリットって一体何か?
旗本も殿様と呼ばれた。
おやおや、ここでいう「殿様」とは、庄内藩酒井氏であることをご存じないとは困ったものだ。「旗本」どころか、れっきとした「譜代大名:徳川氏の家臣団のなかから大名に取り立てられた者」だ。
私の総年収は20石です✨@中小メーカー社員45歳😂
10kg¥5000として150万円?😭