【三国志】正史における諸葛亮孔明の壮絶な人生をまとめてみた【ゆっくり解説】
Вставка
- Опубліковано 15 вер 2024
- 本当は出師の表について書きたかったんだけど、
書ききれなかったのが心残りです・・。
◆引用した作品
【三国志】©横山光輝 Official Web © 光プロダクション 1950- All rights reserved.
◆著作権について
チャンネル内における動画にて使用・掲載している画像・動画などの著作権・肖像権等は
全て各権利所有者様に帰属いたします。
もし何かございましたら下記のGmailにご連絡ください。
sik.sangokusi.sekai@gmail.com
「正史における諸葛亮孔明の壮絶な人生をまとめてみた」って、演義のフィクション一色じゃん。
正史で5回も北伐を行えたという事実が、実は一番の化け物エピソードなんですよねぇ。
人材不足や国力不足という現実もですが、兵站がおっそろしくキツい状態でなんで戦闘では勝ち拾ってるのこの人…。
「天才軍師ではなく政治家」などという揶揄が多い諸葛亮孔明だが、
五丈原という戦場で散っている時点で政治家ではない。
最後の最期まで信念を貫き、戦い続けた人。
江戸時代にも三国志は大人気で、特に講談では鉄板のネタでした。しかしなにしろ話が長いもので、途中からだんだん客足が落ちてそる。そこで「いよいよ孔明登場!」という段になると、小屋の前に『今日より孔明出ず』と特筆した看板を掲げ、新規客を呼び込んだという話。つまり日本人は昔から、諸葛孔明が大好きだった訳ですね♪
中国史は世界でずっと人気あるもんね。
ローマも中国から学んでるし。
徳川家康は読書家だったらしいが、
愛読書の中には三国志演義もあったとか。
三方ヶ原で追い詰められた時の『空城の計』は
三國志から思いついたと言われてる。
前半戦は「呂布」の話で、
後半戦は「孔明」の話だと思っている三国志。w
『泣き虫弱虫諸葛孔明』で
「孔明は飛び抜けた奇人なので、一般的な人の思考が読めずに策略が下手」
「太公望と張良を尊敬していたのは、軍師や政治家としてではなく神仙を目指した先輩として」
とあって、なるほどなあと。
子供の頃NHK人形劇を観てワクワクし、中学生時代吉川英治と横山光輝を読んで、その後土井晩翠の星落秋風五丈原に感じ入って、出師の表に涙した。自分にとって三国志は孔明の死で終わる印象。
声は森本レオでしたね
コーエーの三國志でSLGではなく、
(多少分岐はあるものの)ほぼ一本道のストーリーで進む、
ファイアーエンブレムみたいなユニットを使ったボードゲームみたいなのあった。
第1作が物語前半
(反董卓連合~漢中王辺りで関羽・張飛が死なずに、最後は曹操と戦う)が舞台で主人公が劉備だったが、
第2作は
三顧の礼~五丈原で孔明が死なず、
最後は司馬懿や司馬師・司馬昭と雌雄を決する作品で、主人公が孔明だった。
(ストーリーの進め方によっては孟獲や孟優・祝融が蜀軍に加わる。)
やはり三國志の主人公は
「前半は劉備、
後半は諸葛亮」だよな。
北方三国志では「人を見る目が甘い。自分よりも大きく劣っている人間でも、大きく劣っているとは思わずに少しだけ劣っていると思ってしまう。だから孔明殿に期待された人間は、大きすぎる物を背負いすぎてしまう。」と趙雲に言われてましたね。でも劉備が評価しなかった馬謖を重用して失敗した事を指摘する人は多いけど、劉備が評価しなかった龐統や蒋エンを評価した事を指摘する人は少ない。
あの馬謖の失敗も、山頂に陣取る作戦は悪手とまでは言い切れず、ただ経験のなさによる敗戦。
孔明の失敗と言うなら、人を見る目ではなく人材育成の手腕だと思います。
ホウトウは惜しい
これからと言うときに😆
@@user-qe4vx9jq9e
副将の王平が反対したにも関わらず山頂に陣を引き、最後は大将自ら戦場を放棄して逃げ帰る馬謖を高く買っていたからやはり見る目は無いよ
@@user-py8nq2gc5g
街亭の戦いに限って言えば、孔明の見る目が無かったよりも戦術眼の不足、軍を率いる経験不足が大きいと思います。
本来なら街亭への防衛は経験豊かな将軍を向かわ出るべきところ、経験の浅い馬謖を向かわせています。
歴戦の王平を副将につけたとはいえ、王平は降将の上、当時の蜀の名士と成り上がり(劉巴と張飛等)の関係から馬謖が王平の助言を聞かないのは目に見えていました。
また、街亭への侵攻した魏軍の兵力を読み間違えていたとも思われます。馬謖が作戦通りにしたとしても、善戦はしても敗北は免れなかったと思います。
また、当時の人材不足の蜀にあって馬謖は将来有望な人材であったのは間違いないと思います。本来なら多くの経験を積んだ後で街亭の戦いのような重要な戦いに出すべきでした。
第一、一度の敗北で目が無いとか言うなら、6度(7次は亡くなっているので)も北伐をして、全く成果を出せていない孔明の軍才が無いのに軍を率いざる負えなかった蜀の人材不足が一番の問題だと思います。
@@user-qe4vx9jq9e
結局、その性格も含めて馬謖の重要視してはならないという言葉が理解できず、重要視したことが問題
人材不足は既に分かってること、失敗による被害を数倍にまで膨れ上がらせてしまったのは馬謖を起用した孔明の失敗
変に馬謖の能力を買って抜擢した孔明の人の見る目の無さが浮き彫りになった一件
孔明は下級役人がやるような仕事でも自分でやらなきゃ気が済まない性格だったので
側近の楊顒からは「丞相こんなもん下のもんにやらせときなはれ」と注意されたほど
でもこれが出来なかったから過労死の一因になってしまったと
同じ有能な官吏としての曹操との比較
曹操は人を集めるのが好きで
人を育て、人をうまく使った
孔明は1人で全部やろうとしすぎた
そこに尽きると思う
関羽だけではなく、張飛や馬謖、魏延にも当てはまりますが、使い方が違えば馬脚を露さずに活躍できる人達を無理に抜擢して、向いてない仕事まで任せた結果、あえない最期を迎えているんですよね‥
晩年の諸葛亮はそのことを痛感して、自分で何でもやっていたのではないかと推察しています。
@@dignity9315 さん
それだけ人手不足だってことなんですよね。
高齢化問題もあって若いのを育てないといけないのですが、一番の教育になる実戦経験で大失敗した馬謖がトラウマになっていたのでしょう。
目の前の最高の結果だけを求めたら有能だけに身体壊してでも、周りが全く育たなくてもやらせるのが一番なのですが、
そうは言ってられないのが「人事」ってやつなんですよね。
いわゆるワンマンか
@@コーッケッコ さん
そうですね。
普通であれば、よほどの事がない限り時の皇帝から弑殺されますね…
孔明は軍師と言うより、政治力が他の誰よりも優れてるな。
軍師役は龐統の方が優れていて
実戦経験は劉備はかなり実戦生き抜いた古兵だからな
中国で民間に語り継がれてるうちにいつの間にか内政だけじゃなくて軍事方面も龐統や法正より上の扱いにされてるのがね
“三国志演義”劉備玄徳を主役にした為に、“政治家”孔明を軍師にした。そんな感じ。
@@tif9590 本当は龐統・法正に軍事を任せて自分は政治に専念したかっただろうね。北伐で国を空にすることが多かったから宮中は緩んでいたというし。
蜀は人がいないからなあ
毎年のように北伐をしながら国力を増強するという無茶振りをしながら、
民に恨まれるどころか逆に慕われていた。というとんでもない人。
庶民に落とされた李厳は孔明の死を聞いた時「これで復職することは永久に叶わなくなった」と嘆き悲しみ
陳寿の父親は罪を犯して免官させられたが、恨むどころか「あれほど公明正大な人はいない」と絶賛していた。
晋が天下取って五湖十六国時代という漢民族にとって地獄の時代を作ってしまったから、孔明が天下取って政治をやっていれば漢民族は幸せになれたという思いが三国志演義の孔明を作り上げたと思います。
それは晋、司馬簒奪曹、あなた方日本人は晋をあまり知らないかもしれません
関羽のやらかしがホントに致命的だったよなぁ。
龐統が死んでなければ孔明も関羽から離れて益州攻めに加わらずに済んで
もしかしたら関羽をうまく御せたかもなぁ
法正の死も痛かったですね。
生きていれば、蜀呉同盟は破綻していなかったし、仮に破綻してても修復したでしょうからね。
荊州任せたの関羽じゃなくって趙雲とかなら良かったんじゃそして孔明が一緒に行っていれば。それと龐統の馬がすべての原因かも。
@@koutaroumatumiya8764
趙雲は劉備の親衛隊長みたいな感じでしたし、孔明は劉備が離さないでしょうから、現実的ではないでしょうね。
やはり、龐統の早すぎる死が痛いですね。
せめて、徐庶さえいれば歴史が変わっていたかもしれませんが・・・
@@darkeknigt147 孔明が、孝直が生きていればお諌めできたのに…と嘆いた話が有名ですね。
つくづく法正と龐統が長生きできなかったのが悔やまれますね。
政治の孔明、戦術の龐統そして謀略に長けた法正が揃っていれば
蜀の運命ももう少し違ったのではないかと思ってしまいます
落鳳坡
あと関羽がイキって呉との同盟破棄・呉えの警戒をせずに単独で樊城攻めして荊州を奪われまたイキって単独で荊州奪還しようとしてボロ負けがなければね
この二人が若くして退場したのは孔明自身が一番喜んでたと思う。というのもこの二人の共通点は劉備に劉章への裏切りをけしかけた人物であったということ。劉璋が君主として凡庸だったからだといわれてるけど、だとしたら劉備のいなくなった後に劉禅に対しても同様の裏切りをする可能性がある。この二人はやたら知恵がまわるだけに余計に油断できない。孔明もうれし泣きしてるか、あるいはこの二人を間接的に粛清してるかありそう。
夷陵で蜀の将来を支える人材が軒並みいなくなったのがほんと痛い。
劉備が夷陵の戦いを決行していないか、ほどよいところで和睦していれば後年の諸葛亮の苦労も軽減できたかも。
諸葛亮も「法正がいれば、こんな事は起きなかっただろうし、もし起きたとしても被害を最小限にとどめれただろうに・・・」と言ってますから、恐らく諸葛亮が劉備を御するのは限界だったんでしょうね。
法正の様に自らの身を挺してまではっきりとした物言いができる人物でないと怒りで我を忘れた劉備を止めるのは無理だったんでしょう。
江陵取らないと2方面から魏を攻撃できないからね、荊州閥のためでもあるし。
史実ベースで言うなら孔明は夷陵の戦いに反対はしてないよ。確かに敗戦は痛かったけど元々劉備は部下を信じないワンマン社長で蜀を手に入れるまでに至っているからそこは仕方ない。そもそも荊州名士で形成されている蜀にとって荊州は必須で失陥したら結局人材不足になる。関羽の報復はあくまで士気向上の建前で荊州は絶対に必要だったと言う事。
@@user-jm6pe3xn1i 僕も「関羽の仇討が本当に夷陵の戦い最大の理由だったか?」説には最近「一理あるな…」と
思い始めてます。
「その説」の根拠としてよく言われてるのが
「関羽荊州失陥」から「夷陵の戦い」まで時間が空きすぎてる事です。
荊州は人口多いし、劉表が「文化人・知識人サロン」形成してたので、
テクノクラートの人材供給源だったと思いますし、
人口も多く(兵力・兵糧/金の確保できます)、
長江の上流側だったので、呉に攻め込む際には「地の利」上どうしても
おさえとかなきゃいけない場所でした。
横山さんの三国志は本当に面白いし分かりやすい。
横山三国志は日本人的な解釈と雰囲気が出てますね。
@@flashnewlight1075吉川先生の本を漫画にしただけだと思っていました。
@@atsukoichimori7620
あの作品は多くの場面で横山氏独自の解釈がなされています。三国志は中華(中国)料理ですが、横山三国志は日本人の口に合わせた和風の中華なんですよ。「改訂版 横山光輝「三国志」大百科」などを参考に!
@@flashnewlight1075
参考になりました。
横山先生の作品はバビル2世等好きな作品も多いので機会があれば読んでみたいと思います。
ありがとうございました😊
しかも横山先生は連載始めた当時はまだ日中国交回復前で、活字から想像して描いていたそう。
夷陵の敗北で終わっていた季漢を立て直し、北伐で魏を脅かすまで持っていった諸葛亮は凄い
おそらくは立場に応じて能力を伸ばしていけるタイプだったのだろう
人を見る目については、劉備が優っていたと思う。馬謖について、劉備は認めておらず、重要な役目に就けるなと忠告したが、孔明は逆に高く評価し、第一次北伐失敗の原因になった。魏延も同じ。劉備は魏延を評価し、重要な漢中を任せたが、孔明は魏延を評価しなかった。
仮に伝承通りの天才、名宰相ではなかったとしても
出師の表を残した一点でも後世、史に刻まれるに値する
いや、天才であり名宰相だったのは間違いない。
孔明もすごいが横山光輝が凄すぎるやろ
ある人が孔明の妻を醜女だとからかった時、孔明が言った。
「美人は3日で飽きるが、賢い妻は一生の宝だ」
美女より才女を選んだ。
諸葛亮の妻は荊州の有力者の娘であり、蔡瑁とは義理の兄弟の関係になります。才能で選んだのでなく家柄で選んでいます。
@@lemonsoup1920 これネタやろ
「出師の表」は南宋の文天祥の「正気の歌」と並ぶ名文ですけど、全部引用するとなると本文が長いんですよね
PC88やPC98で信長の野望と三国志をやった世代は知力100の孔明大好きですからね。
孔明が歴史に残るほどの偉大な人物になったのは劉備に仕えたからだと改めて感じるな もし魏や呉だったらその他大勢で終わってた可能性が高い
徐庶が魏に仕えたけれどあまり重要な役職に就かなかったらしいですからねー。🙂
戦いで結果出せる司馬懿のほうが重用されるだろうね
@@user-eigas 曹操は文化人を重用するから、孔明に惹かれない訳が無いし、戦やらせても司馬懿より上だから
@@ベンジャミンメンタルヘルス
戦で司馬懿より上!?
呉には諸葛勤がいるから呉にいても活躍出来るでしょ
孔明の真実・・・
「諸葛亮孔明」と、名である”亮”と字(あざな)である”孔明”を並べて表記することは間違っている。
「諸葛亮」或いは「諸葛孔明」のどちらかである。
横山先生の中国歴史はわかりやすく面白い、三国志を掲載中は大学受験の最中で知らないうちに漢文が得意になっていた。大学受験(難関大学)も楽しく乗り切れました。
働き過ぎ(特に北伐時の)に関しては、魏、呉、蜀に関する全ての情報が孔明の元に届けられそこから内政、外交、軍事をどう進めるか判断し、指示を諸将に出すトップダウンに近い体制だったのが災いしたのでは…
と思います
14:26
元ネタになったのは孫権軍の船が多数の矢で射られて片側が重くなり沈没の危険があったので船を反対に向けて反対側にも敵の矢を多数受けたという話のようですね。
横山三国志の孔明の最後のタイトル、秋風五丈原がエモイ
孔明は内政手腕に優れていて、軍事戦略にとっては国家の内政力というのは、すなわち国家の底力であり、非常に重要なステータスになる。
なので、軍事面においても戦略面においてはかなり優れていたと考えられる。
ただ、前線での戦いを決する為の戦術面では、当時は孔明より優れていた軍師は敵味方共にそれなりの数が居た。
蜀は後継者が育たないまま、伝説的武将や軍師を次々に失ってしまうが、メインの敵国である魏は、曹操の人材コレクション癖の関係で、司馬懿をはじめとして大量の人材が居て、人材育成の仕組みも出来上がっていた。何より君主の曹操自身が超人的存在だからね。
そして、何でも自分で面倒を見てしまって過労になる孔明と、万能の曹操の負担を減らそうと頑張る無数の家臣団。現代人から見たらどっちも過労には違いないんだが、この差はやがて戦略的勝敗を生む事は誰の目にも明らかだろう。
劉備の義心までは読み切れなかったんですな
それでも劉備を見限らないあたり孔明も義人なんだな、と思いました
生前に勝ち続けなければ評価されないなんてことはないと
後世が証明していますからね
孔明の勇奮の詩がどれだけ人の心を打ったのかということがよく分かります
劉備とのことを占ったら、相性最悪だったというのは有名なエピソードですよね。荊州を奪うことを幾ら進言しても聞き入れてもらえなかった時に、その意味がわかるわけで、結果念願の漢王室再興は叶わなかったわけですが、劉備の人柄に惚れ込んでいた孔明は後悔していなかったのではないでしょうか。
諸葛亮伝の評価は、治世の手本として欲しいね!刑罰と政治が厳しくとも公平で賞罰が明らかであれば国民は恨んだりしない。その通りだ
呉の孫権に仕えた兄の諸葛瑾と併せて諸葛兄弟は実直な性格で、『敵からも味方からも信頼された人物』なんですね。孔明の才能に惚れ込んだ孫権が
ヘッドハンティング出来ないかと諸葛瑾に尋ねた時、「私が向こうに行かない様に、弟はこちらに来ないでしょう」と答え、孫権が納得した逸話が残っています。
世界史で活躍した人物で『敵からも信頼された』と言う点においては、十字軍遠征で中東にやって来たイギリス王リチャードからも一目置かれた
イスラム側の将軍サラーフ・アッディーン(サラディン)が近いかも知れません。ちょっと贔屓のし過ぎ?
「孔明あんまり凄くない」って言い出すのは、三国志初心者が一度は通る道だからな。
もう少ししたら「孔明すげー」ってまた言い出す。
孔明は優秀な官吏だけど
軍を指揮する能力はそこまで高かったわけではない
まず赤壁だけど同盟で呉と魏が争ってる間に
荊州を平定
北伐も曹真が対応して、
特に前線の郝萌がかなり優秀で孔明の甘い誘いにならんかった
そして補給問題で撤退
基本的に北伐は補給に問題があったからことごとく撤退
司馬懿は戦闘記録をチェックしててそこが弱点って知ってたから牽制だけして無理な戦闘は避けた
しせる孔明いける仲達を走らすにしても
司馬懿は孔明の後の蜀に構うよりは
魏での自分の立場を確保に走っただけとも言える
演義の話を正史の様に説明するのは違うのでは…
そして諸葛亮孔明と姓名字を並べて呼ぶことはないと思うのですごく違和感
政治手腕『だけ』すごい、ってのが正しい気がする。
彼が作った法や書物のほとんどは曹操の書物に注釈(屁理屈に近いものもあったらしい)を加えたもの、魏の法をそのまま書き写しただけ。
戦術も過去の戦法をそのまま使った、演義のような奇策、算術は一切使った記述はない。
それだけ演義の影響力は本当にすごい。
実際、諸葛亮は政治家としては前漢の蕭何と並び称される程超一流だったそうですが、軍師としては並だったそうですね。
むしろ、龐統、徐庶の方が軍師としては優秀だったとか・・・
赤壁の勝利も周瑜の策とそれに見事にこたえた黄蓋、曹操に連環の計を献策して採用させた龐統によるものが大きいですから・・・
面白い!!横山三国志また買おうかな!!
龐統や法正が生きてたら北伐ももう少し違ってたものになったのかもしれないね
対峙する曹真や司馬懿は孔明と違って戦線だけに集中できてただろうし国力以上に不利だったのかも
劉備の寵愛もあったのだろうけど潔癖な孔明が法正の悪行には何も言えなかったってのも法正が軍才に優れてたのだと思う
法正が付け入られるスキがなかったのも策士として優れていたのだと思います。
「あの孔明すらも何も言えないんだぜ・・・」これだけでも評価は爆上がりだろう。
劉備は孔明とはお洒落なカフェぐらいしか行かないけど、
法正とならカラオケ・キャバクラ・焼肉・回転寿司etc行ってそうなイメージ
一番そうそう!って思いました👍
諸葛亮は奇策を立てるのが苦手だった(第1次北伐の時は奇策を立ててるが)。政治能力、軍を統率するのには優れていたが奇策を立てるのは苦手で奇策を立てるのが上手い龐統のことを信頼していた。入蜀平定戦の時に龐統が流れ矢で死んだのは蜀的にはとても致命的であった。北伐に龐統がいたらどうなってたことか…。
龐統は孫呉のスパイ臭いので長生きしたとしても、蜀漢のためになったかどうか分からないと考えます。蜀漢には人物が少なすぎて、三国志の編者の陳寿が追加した説があるぐらいですからね。
個人的には、法正が長生きしていれば夷陵の大敗もなく、未来が変わっていたかもしれないと思います。
確実に過労死の可能性は減ったかと。
たしか劉禅が不安になったとかで北伐中に前線から呼び戻されたりとか有りましたからね。
前線から帰ってくるのに何日も馬で移動すると言う強行軍を高齢でする事じゃないよねw
恐らくそれが劉備の思い描いた最終陣容かと。
正史では劉備が存命中は孔明自身が軍権を持って軍を率いる事は無かったそうで、入蜀時の援軍も実質の指揮官は張飛や趙雲などの武官のようです。
もし、孔明に演義に書かれた軍才があれば、入蜀時に抜擢されたのは龐統ではなく孔明でしょうね。
少なくとも劉備は諸葛亮の軍事的才能をそこまで信じていなかったんでしょうね
入蜀時は龐統 漢中攻略戦は法正 夷陵は馬良か黄権で諸葛亮を軍事の参謀としては使ってませんね
個人的には蜀で一番痛かったのは私も龐統の戦死だと思います。
龐統が死んでなければ荊州に諸葛亮が残り、兵糧が足りなくなる事もなかっただろうし
呉とも仲違いしなかったとも予想できます
そうなると漢中を落とした後、龐統を軍師として(法正は病死なので)劉備趙雲張飛黄忠(馬超)の面子で北伐ができ、
関羽の襄陽樊城攻略もまた違った物になるのではないかと、夢想してしまいますね
@@user-qe4vx9jq9e さん
そもそも劉備自体が歴戦の傭兵隊長ですからね…
最もしくじったのがあの夷陵の大敗だと個人的には思っています。軍事的な功績を残せていない曹丕にも、あの陣容では恐らく負けるだろうと予見されるぐらいでしたからね…
荊州の失陥も、諸葛亮が荊州にいれば最悪の結果にならなかったとはいえ、孫権にとっては長江流域である荊州南部の確保は最重要課題であったので、いずれ衝突は避けられなかったと思われます。
しょっぱなから劉備に天下三分の大局的な展望を伝えて
さらにそれを実現させただけでもすさまじいんよな
実際の所、劉備は天下三分を受け入れておらず、諸葛亮のプランでは荊州を基盤に孫権と手を結び曹操に対抗する筈だったのですが、曹操自ら軍を率いて荊州に接近すると即座に孫権の下に逃げ込んでいます(もっとも難攻不落の襄樊を奪えという諸葛亮の提案は夢物語にも限度があるのですが)。
しかも周瑜に兵を借りて荊州南部を平定し孫権の義弟として職務を果たしつつあると思われた所、蜀からの裏切りに便乗してこれを占領すると手の平を返して孫権と武力衝突を始めてしまい、そのまま関羽の荊州失陥から夷陵の戦いでの大敗へと続きました。
劉備が諸葛亮を重用した最大の理由は、諸葛亮が劉表や蔡瑁など荊州名士たちと血縁関係にあり、諸葛亮自身も荊州の名士の一人として名高くその人脈から無数の人材発掘が期待できたからでしょう。
天下三分の計は特に珍しい奇策ではなく、当時の勢力分布から知識階層ではごく自然な見方だったようです。
@@user-qe4vx9jq9e 魯粛の「三分して統一しなくていい」までいくと至る所で奇策と言われているので、この魯粛の名声が演義では諸葛亮に奪われた形になっているんですよね。
@@SS-nt9cf
ええ、そのようです。
しかし、魯粛が唱えたのは天下二分の計
ですね。北方は魏に譲り、呉は荊州はじめとした南方を支配下におくというものだったと記憶しています。
孔明は能力よりも、その人格に魅力を感じる人が、多いのではないのでしょうか。
人を見る目がないというか、馬謖にはチャンスを与えてやりたかったんだろうなぁと思う。意外と行動に感情があるところもあるよね。馬謖の斬首も掲げる理想のためにはってところでもあるし。
むしろ魏延とかを立てたりとしっかりやってた劉備がその点では強いって感じがする
とみ新三の漫画で司馬懿が「孔明は劉備によって世に出た。奴は死ぬまで劉備に忠実であり続けるだろう」と言う場面は泣けた。
吉川英治は諸葛亮を秀吉らと比較して「孔明は高潔であったゆえに人につけ込める隙を与えずそれがかえって有能な人士を遠ざけたのではないか」という意味のことを言っている。有能な人は性格的には難のある人も多くただでさえ貴重な人材を(結果的に)ふるいに掛けていては不足するのも無理はない。同時代の曹操の人物評と対照的なのも面白い。
三国志どこを切っても面白いし
奥が深い
この濃い話の後
パリピ孔明みたら
孔明幸せになってほしいと思います。
私の孔明は、真戦で酷使されてますが
やっぱり孔明凄い…
オメーの方が凄えよ。なんたって三国志の真の勝者だかんな
いえいえ、閣下程ではないでしょう。
現実の孔明は、政治の天才で有りながらインテリ特有の悪癖で口の上手い上辺の天才を見抜けなかったり(再三劉備に注意されていた。馬謖以外でも結構煮え湯を飲んでる)、清廉かつ仕事に入れ込みすぎて家に金を入れず、奥さんが食うに困って父親に援助して貰ったりと、結構人間味があるんですよね。出仕初期なんて、金に困った劉備に商人達を紹介して借金させ、借金の連帯保証人になったりしてますし。良く司馬懿がライバルと言われますが、土俵違いでの戦いばかりで、司馬懿と本当の意味では競ったことは無かったように思います。だからこそ、司馬懿は孔明を天下の鬼才と惜しんだのでしょう。
同時代の普通の人から見ても特別な人とは思えなかったみたいですからね。
よその動画でちょっと書いたのですが、それまでの人生で善悪清濁、様々な人間と接してきた経験を持つ劉備と異なり、孔明の場合は劉備に仕える前までは自分のお眼鏡に叶う(=自分の相手ができるだけの資質を備えた)人間以外とは関わり合う必要がない人生を送ってきましたから、人物眼を磨く機会を得られなかった(と言うより自分の相手ができるか否かだけ判断できれば良かった)、と言うのもあったのではないかと思います。
「それまで本物としか接した事がなかった人間は、いきなり偽物を出されても容易に判別できないことが往往にしてある」
ものなのかもしれません。
現代ではすごいお宝も見出すこともあれば、とんでもない偽物をつかまされて「なんでも鑑定団」で笑われるタイプ、と言ったところでしょうね。
魏延を顔で頃しかけてたりもしてますからねw
劉備は人を見る天才
孔明とは人か魔か、待て慌てるなこれは公明の罠だ、げーっ孔明!引け引けそこらじゅうに罠があるぞ、というシーンめっちゃ覚えてる。
陳舜臣氏に言わせると
死せる孔明生ける仲達を走らす は司馬懿がプロパガンダで流行らせたという 司馬懿ほどの人物なら政敵が倒れると簒奪を疑われて処分される事が解っており、司馬懿は孔明に遠く及ばないと周知させて大元勲化させなかったという 確かにこれは有効であり、後に大将軍曹爽を陥れたその手腕からも彼から見れば当然なのだと言えるだろう
「自分をわざと小物扱いさせ、警戒されないようにする」は司馬懿ならやりかねないですね。
曹爽油断させるために、耄碌ジジイのふりまでする奴ですから。
人材が豊富な環境で存分に采配を振るう事ができたら、歴史にどんな偉業をなしとげられただろうか…なんて「たら、れば」レベルの想像が膨らむ人物だよね。
「蜀が天下取れなかった原因を作ったの(戦犯?)は誰か」って話すると、
『劉備』って答え絶対あがるんだよね。
夷陵の戦いで将兵死なせすぎたもん。
荊州は結局取り戻せないし、
一番泣きたいのは孔明じゃね?
「司馬仲を走らす」も魏国内での警戒心を和らげる目的でわざと「してやられた~」と吹聴して回ったという説がありますよね。で、息子の代までかけての国盗り物語により三国志最後の勝者。才能を過大も過小もなく一番正確に評価していたのが司馬懿という。
司馬懿も死せる孔明生ける仲達を走らすと都の人々が噂した際に、死人の相手は苦手だと言っているあたり、素直に諸葛亮の力量は認めていたのでしょうね。
@@dignity9315 そうなんですよね。だから無謀な闘いをして自滅なんかしない。自分が絡んだ戦では負けた時も国対国で致命的な負けにならないし、名声を最大限活用して(あの孔明相手ならと)国内的にも負けたことが政治生命にあまり響かない。司馬懿にとって「敵国に居るから役に立つ。同じ国に居られた方が恐ろしい」存在だったのかもしれません。だから孔明の死は「狡兎死して」の危機にもなりまねない事案ですので、噂は死後も孔明の名を利用する上で都合よかったのではないかと思います。
諸葛亮が強ければ強いほど、諸葛亮に勝った司馬懿は凄くなる。諸葛亮を褒めれば蜀の価値も上がる。陳寿と司馬一族にはWin-Winの関係。有能の人物ですが同じ宰相の曹操と比べてどうだったんでしょう。
江戸時代に武田家を持ち上げた徳川家みたいですね
この時代の、最も優れた人物は曹操でしょうか。
正に万能、と言っても良い程の能力の高さは後世の歴史家の言う所です。
しかし、彼には極度の偏頭痛と言う持病があり、後年、それが元で能力を発揮出来なくなっていました。
近年、曹操の墓が発見され彼の偏頭痛の持病が確認されたと同時に、副葬品から彼の人格の高さが証明されました。
陳寿「曹操は超世の傑」
曹操は彼自信が優秀な上に一族含め家臣団が超有能だったので。諸葛亮は主君でもなく後継者(曹操の例で言う家臣団)も夷陵の戦いで多く死んでいて一族も各国に散らばっていた(諸葛謹は呉、諸葛誕は魏)ので比べるのは難しいでしょう
諸葛亮は蕭何みたいな名宰相な政治家なのは間違いないみたいですね。軍略は別として。
一兵も率いた経験のない若者が、最前線に出て縦横無尽に戦術を展開することは難しいと思います。内政はもとより、軍制を整え、兵站を受け持つのが孔明の主な役割で、日本でいえば、石田 三成的な立場。戦術は専ら劉備が担っていたのでは。真面目な君子人というイメージの強い劉備ですが、本当のところは、清水次郎長のような親分肌で、喧嘩慣れしている戦上手ではなかったかと推察します。曹操が警戒し、陶謙や劉表が積極的に迎え入れたのも、その点が高く評価されたからではないでしょうか?
私にとって、孔明の最大の魅力はその生き様ですね。
戦略、戦術、政治…と、高い能力を持った人物は他にも多数いますが、その能力をあくまで君主の悲願の為にフル活用したという点は大きいです。
”実はあまり戦いは上手くなかった”とか、”あまり人物を見る眼はなかった”とか、色々ありますが、善政をしいて弱小国の蜀をよくまとめ上げ、宰相でありながら自らが軍を率いなければならなかったように、決して豊富に人材がいたわけでもない中で、5度に渡る北伐を敢行し、勝てないまでも大きく負けもせずに奮闘し続け、五丈原での自身の死後も見事に軍を撤退を成功せしめた功績は、演義で描かれるようなスーパー孔明でなくても、私の中でもその魅力度はズバ抜けてます。
劉備はじめ主要人物が亡くなっていく中、彼がどの様な思いで国を治め北伐を敢行したのか…を想像すると涙が出てきます。
やはり、孔明は別格です。
史実の孔明は戦略構想や軍事計画なんか見てても蕭何が軍権握ったらこんな感じなんだろうなって印象だわ。
堅実で兵站と国力念頭に計画立てるから、手堅く実行性はあるけど想定を超える大勝ちは難しい地道な戦略方針選んだのは孔明個人の性格や資質もあるんだろうけど、国権預かる宰相って立場の制約もあったんだろうな。
諸葛亮が蜀漢丞相になったのは劉備の入蜀後ではなくもっと後だった気がしますが…。
あと演義のエピソードが盛られすぎてる気がします。
特に赤壁は明代の戦いがモデルになっていますし。
それに諸葛亮が直接軍事に関わるのも劉禅の代になってからですし、正史における諸葛亮の評価は夷陵の敗戦後から出師の表上奏迄の国の立て直し、北伐時の兵站、危機管理、難しいとされる撤退戦で全て語れる気がしますがいかがでしょうか?
誤字訂正:入植→入蜀(本文修正済み)
私も感じました。その内容、かなり演義よりじゃないかと。諸葛亮の生涯と言うなら、もう少し正史よりにして欲しいですね。
孔明が劉備についた初期、孔明は戦の経験はありません。軍を率いる事も出来ないでしょう、しかし孔明には知がある。今後の展開、作戦等を孔明が考えて行ったのでしょう。天下三分の計を図り城も持たない劉備をあそこまで大きくさせたのです。孔明の策略のおかけでしょう。演義での話は盛たれてるでしょうが、孔明が劉備に仕え、蜀を取り天下三分まで持って行ったのは事実です。この時代のこの時に孔明以上の事を成し遂げれる人物はいないでしょう。司馬懿や他の偉人達が孔明に対して称賛の言葉を残してるのもあり、諸葛孔明はそれだけ偉大だったのでしょう。
他にもちょっと突っ込み所がありますね。劉備をいい人とか言ってたり、徐庶が蜀から帰還とかなってたり…
日本では吉川英治三国志と横山光輝三国志が一番読まれてるから、三国志演義寄りの方が受けるのかもしれません
T-Askさんの仰る通り、諸葛亮は劉備存命中は重要な戦に参加すらしてませんね
入蜀は龐統 漢中攻略戦は法正 夷陵は馬良か黄権?です(何にせよ参加はしてません)
諸葛亮が偉大な人物と言うのには異論はないですが、正史寄りの視点も見たいですね
よく見たら正史におけるとか題名に書いてありましたね
そうなるとこの動画は相当ウソっぽいと言うかそんな感じになってしまいますな
@@木村博士 細かくツッコミしていくときりがないので大まかにここをまとめれば良かったのではないか?というポイントを上げました。
あと、劉備の代における諸葛亮の仕事は主に内政と解説していたら印象は違ったかもしれませんね。
司馬懿仲達は戦いに勝ち過ぎても曹操に疑われ、負けても責任を取らされるから難しいいくさをしなければならなかった。
曹躁の長男、曹否とウマがあったことが、命拾い?。
曹操が漢中取った時に「このまま蜀も攻めましょう。まだ劉備が建国して日も浅いです」と献言して却下されたエピソードがありますからね。
曹操に個人的に嫌われたおかげで結果的に劉備が命拾いしたって説もあり、
その時でも司馬懿は将来の英雄と(魏からすれば)危惧される存在だったようです。
曹操は 司馬懿と性格 似てたので
相当警戒してました
軍人としては飛び抜けて有能とはいえないけど政治家としては超有能ワンマンかつ小国で総力戦を何年も継続させるくらいプロパガンダ成功させたやべー奴。
そうしたことが混同されて後世、名軍師として語り継がれるようになったんだと思う
軍事に関してもそれなりの結果も出しているわけだし
@@MyForestStudio 演義孔明のモデルという説のある劉基の影響もあるのかなって思います
@@OHzVnQHGfNVwRepemahbfcCIn 武廟十哲入りした後だから、そこまで大きくはないと思う
軍才に優れていただけでなく、公正明大な政治力も兼ね備えているなんて最高だな!
ナレーションの後ろで使ってる漫画のコマのチョイスが絶妙(笑)
序盤はともかくとして、赤壁以降は演義ベースの孔明贔屓な解説になっていますね。
周瑜が諸葛亮の説得・挑発で反曹操に舵を切った、と動画にはありますが…正史では同盟締結の使者となった。と記載があるだけです。
ちなみに【10万本の矢】は濡須口の孫権の話が元ネタであり、赤壁の孔明の話はフィクションだというのが定説です。【二橋】に関しても“袁術没後に呉郡に送られた”くらいしか正史では記載がないので、未亡人が好きそうな曹操の所業に絡ませたフィクションです。
そもそも呉郡の大都督の周瑜が、名声や実績があるとはいえ根無し草の敗残兵とも言えてしまう傭兵集団の参謀役に嫉妬などするわけがないですし、内外に数多の問題を抱える呉郡の大都督がそんなに暇なわけがありません。
正史ベースの話をするならば、劉備が呉に逃げてきた時には周瑜(と魯粛)は既に反曹で意見を固めています。官渡での勝利後に曹操が孫権に対して、息子を人質に寄こして従属するよう要求してきたことに対して周瑜はこれに強く反発しており、正史では本記載から一貫して周瑜は徹底抗戦派であり、張昭らを説得するのに諸葛亮の口のうまさが一役買った可能性はありますが明確な記載はありません。
とりあえず周瑜サゲは演義の根幹なので気を付けた方がいいと思いました、三国志演義は『周瑜はすごい→諸葛亮はもっとすごい→̪司馬懿はもっともっとすごい』という歴史の勝者を讃えるように阿った節のある文学作品ですからね。諸葛亮と司馬懿まわりの人材は不当に扱き下ろされてることが多いです。他には劉禅、魏延、曹真、王朗、張コウなんかが最たる例でしょうか。
次に夷陵ですが、諸葛亮は止めていません、ちゃんと止めたのは趙雲しかいません。
夷陵の後の嘆きともとれる発言で「彼(法正)がいてくれたら、このようなことにならなかっただろうに。」といった記載があることや呉との和解に尽力したことから、そう妄想する歴史学者さんもいますが“劉備×法正と劉備×諸葛亮の関係性の差”や“夷陵前後の蜀の内情差”を考えると『止めようとは思ったが進言まではしなかった』くらいが諸葛亮の行動としては妥当かな、と個人的には思っています。
蜀の政治家の立場を想像すると、当時の呉は雍闓を援助して後背を脅かし続けている目の上の瘤みたいな存在であり、曹操が没して当代最強の将軍となり漢中王にまで至った現在イケイケの劉備が負ける算段は極めて低いし、孫権にお灸を据えてくれるなら絶好の機会である。といった総意になっていたと思われます、その政治家集団の中にいて漢中征伐に従軍してもいなかった諸葛亮と劉備の関係性を考えると、進言までしたと考えるのは当時の情勢や置かれた立場などを無視した希望的観測に思えてなりません。
最後に北伐ですが、こちらは間違いなどはなかったですが若干浅いと感じたので補足を記載させていただきたく思います。漢王朝再興は劉備や諸葛亮の夢と動画ではあるが、これは蜀の国是(存在意義)ですので、蜀としては劉帝を排して国家簒奪した魏を絶対に許してはいけなかったのが本質です。さすがに主さんは勘違いしてないと思いますが『呉より魏が強大だったから先に打倒しなければならなかった』と視聴者に誤解を生む可能性のある表現だと感じたので今後の動画では気を付けて欲しいかな、と思います。
次に諸葛亮が馬謖を処断したのは、遅滞戦闘を求めていた諸葛亮の真意を理解できずに指示を無視して惨敗したのが理由ではなく、その後の敵前逃亡が理由です。こちらも主さんは勘違いしていないと思いますが、認識を誤っている三国志ファンが多いので意識していただければ、と思います。あと馬謖に関しての補足ですが、南蛮平定の際に孟獲に対して【七縦七擒】をすることになった切欠は馬謖の進言が発端であり、諸葛亮1人が機転を利かせて奇策を実行したわけではないので、こちらも誤解なきよう、よろしくお願いします。
そして丞相を降りたのは“前線指揮官の不足”、“姜維の育成”、“北伐できるだけの内政的事情”、“劉禅の元服を含めた若き家臣団の成熟”など複数の要因が絡んでのもので、それが最善だと判断しただけと考えられており、馬謖任命の責任をとって退いたわけではないというのが定説です。なんだったら周囲は馬謖の処刑について止める人の方が多かった雰囲気が各人の伝記から読み取れるレベルですから。
あと第四次北伐で「いよいよ司馬懿の登場」とあるけど、確かに直接対決こそ初めてだけど、第一次北伐の最重要な初手であった孟達の離反を察知して討伐する、という大活躍を司馬懿はしているんですよね(あれがなければ第一次北伐は成功して一定の戦果を得れた可能性が高く、馬謖も存命していたため【馬氏の五常】といった声望も残って人員不足も多少は改善してたと思われるので、まさに痛恨の一撃だった)。また、第四次では諸葛亮に散々打ち負かされて当代最強クラスの張コウを無謀な追撃を命じて戦死させるなど、天運が味方して退けられはしたもののボロ負けといっていいレベルの戦果だったんですよね。
第五次北伐のところでの『司馬懿が動かない人』っていうのも視聴者に誤った印象を与えるので良くないと思いました、前述のとおり第四次北伐でボロ負けしたために主さんの言うように「諸葛亮とは戦ってはいけない」と司馬懿が判断したって話で合っているのですが。司馬懿本人自体は、孟達や公孫淵の討伐からわかるように即断即決での神速の攻勢がウリの指揮官であり、これほど動かない司馬懿というのは非常に稀であり『動かない指揮官』という認識は誤りですので把握いただければ、と思います。
逆に言えば、それだけ諸葛亮が前線指揮官としても非凡だった証明に他ならないこと証左なので、それは諸葛亮が好きなら強く主張していい部分だと思います。
演義を中心とした文学作品は1人の作者が描くストーリーであることを忘れずに、それぞれの登場人物の立場や情勢も考えながら理由を考えて多角的に情報を集めれば、もう少し理解度が上がると思いますので頑張ってください。
ゲームによっては軍事に関しては徐庶、法政、陳宮とかの方が能力が上だったりしますよね。
個人的には横山三国志の司馬懿が最後に「諸葛孔明…なんと素晴らしき男であったろうか あの世ではゆっくりと教えを乞いたい」というセリフが凄く印象的でした。作品によっては陸遜も諸葛亮を尊敬してたりするので敵のトップにいい評価されるのは凄いですね。
拠点が定まらない劉備が蜀を得たのはなぁ。
司馬懿仲達「過労死するぞ」
部下「過労死しますよ」
劉備「よろしくね」
部下だけでなく、敵からも心配されるとはね・・。
風を吹かす話はNHK人形劇三国志で紳助が『この時期に吹く編成風の事を孔明は知ってたんですよ〜』と解説してました☺️
劉備の人望と人を見る目は諸葛亮よりずっと上だったのか
身も蓋もない言い方したら実戦で鍛え上げられた劉備と、あくまで引きこもりで理屈を優先する諸葛亮だからね
極端に言えば教科書から学べない物については詳しくないのかも
禄に仕事をしていない(ように見える)蔣琬が劉備に斬られそうになったのを必死で説得したり
楊儀のことを才能は優れているが性格は最低レベルだということを見抜いていたりと
決して人を見る目が無かったわけではない。劉備の人材眼が凄いだけ。
@@wonder7397 弟子であった馬謖が可愛すぎて目が曇ったんでしょうかね。
@@sansei9 馬謖はたった一度のあやまちが取り返しがつかないやつだったけど、それまでは基本的に優秀だったからなぁ…
龐統を地方役人にしといてそれは無い笑
正史だと軍事参謀ではないよな。劉備が入蜀の際に随伴した軍師はホウ統だし漢中攻略に伴った軍師も法正だし宰相としては超一流だけど軍才は無いってのが劉備からの評価だろう。対魏戦でも曹真に防がれてるし曹真死後もガチガチ軍人の司馬懿に勝ててない。
遠征の際も行軍の基礎でもある兵站管理に常に悩まされてたのは軍事参謀としては未熟だし。
ただ、魏には曹真や司馬懿といった軍権を任せられる優秀な将軍が多かったけど蜀で遠征軍を任せられる総大将クラスは大体死んでて少なかったからな。趙雲は指揮官というよりは親衛隊長タイプなんで魏の許緒とかのポジションだったし魏延は軍内の将校からの評価は高くても官僚や中央政府からは扱いにくくて敬遠されてたし、呉懿は人望も軍歴もあるけど益州派閥だから野党みたいなもんだしな。消去法で孔明がやらざるをえなかったのが蜀の不運だ
漢の三傑の中で言えば、蕭何なんですよ、孔明は。
しかし、張良の役割を担う龐統や法正が早世。
韓信の役割を期待された関羽が荊州で大ポカ、魏延は劉備崩御後は使いこなせず。
それでも孔明存命中は国内外にほぼ乱れがないのだから、やはり大人物だなぁと思う。
光栄の三國志孔明伝はめっさハマった
わかる、リメイク欲しい
諸葛亮孔明のことを知ったのは実はOVAジャイアントロボの方が先だった自分
孔明のエピソードっていうと赤壁の戦いの前にスイカ割りしたことが好きだな
赤壁や劉備亡き後の呉との交渉は兄の諸葛勤が呉の重鎮になってたことも大きいと思う
特に赤壁は同じ開戦派の重鎮魯粛との仲介役だったが、諸葛兄弟と魯粛は共に少年青年時代に故郷の徐州を曹操に焼かれて復讐心があったろう事もプラスになったと思う
徐州には陶謙から若い頃の劉備軍団や呂布軍団が流れ着いた土地だよな
赤壁の戦いでの東南の風が
今で言う所の「偏西風」なので
そこまで情報を落として欲しかったです。歴史を語るならせめてそれぐらいはと思いました
光栄、横山三國志の影響で神格化されている
正史における とは…
9:00で孔明に会いに行ったのは色々説があるけども身分社会で傭兵という最下層に近い人が今から文官を集めるからと言う話で孔明や周りの文官に指示された説を推します。(劉備と言うやつは3回も文官に頭を下げるほど文官を大切にしますよっていうアピール)。普通に考えて文官居ないのに軍拡張は無理よなぁ。
動画見てて思うのは主さんあんまり正史詳しくないのでは?
正史における…と言いつつ演義の話ばかりでなんだかなぁ…横山先生は俺も大好きだけどさ
装甲猫とか試験に出る三国志の方が史実の掘り下げがしっかりしてて面白いと思う
蜀の人手不足は今の日本にも通じますね。パリピみたいに現代に転生して欲しいものです。
小さい頃横山三国志を読んで孔明は凄く嫌いだった
その後中学生になってから図書館で孔明について調べ始めたら、その正義感や心配りと心労、背負った重圧などを知って嫌いだった負い目もあって一転して尊敬する人物になった
学問のために学問をするのであればまだ救いようがある
いい会社、大学などの肩書のために学問を利用すること
家族ぐるみでそれをすることは言語道断
孔明さんは近代国家のあたりまえを古代においてちゃくちゃくとこなした先見性のある人物
劉備と孔明って初対面のころは現代に例えたらだいたい60歳と40歳ぐらいって言われている。
互いに人生焦っていた時期に来た好機だなって思う。
本当は法正が軍事を担当する予定だったんだっけ
法正も過労死みたいなものですし、蜀は人手不足に泣かされますね
「監督が無名の新人に自ら挨拶に行く」すっごいわかりやすくて感動したw
そりゃ「この人に一生ついて行こう」って無名の新人も思うわな。
諸葛亮、 演技ではダヴィンチやオマル・ハイヤーム、アリストテレス、アルキメデス等に匹敵するような大賢者、哲学者として描かれている他クロスボウを初めて取り入れたり火薬や気球のルーツを作ったというふうに描かれていたが。
でも横山版孔明の頼りになって絶対負けない感は俺強え系主人公の好例って感じで好き。
だからこそあと一歩のところで司馬懿を打てないのが時代には選ばれなかったって無常感あっていい。
孔明が内政で蜀を纏めて、龐統や法正が軍監として前線に出るのが
理想だったんだろうなあ。
蜀は政治家が優秀な人物は何人かいたが、圧倒的な武力をもつ武将がいないってイメージ
赤壁における諸葛亮の東南の風は、荊州育ちならではの利点を活かした良いエピソードですよね。
劉琦にはしごを外されて困ってる場面も好きですが。
軍才がなかったと言うより当時の蜀の事情もあって堅実な戦術しかとれなかっただけかと。大敗が蜀の滅亡につながりかねないので大敗しないよう軍をうごかしていた
しょっちゅう横山三国志が出てくるけどホントに正史の話なのか?
法正、徐庶、龐統が抜けなければ諸葛亮も過労死ラインを行かなくても大丈夫だったんだが。諸葛亮の本領は丞相として内政に力を発揮するタイプで軍事も何とか出来るタイプだったとは聞いた事はある。
まぁ劉備死後に法正と上手くやれるのかって問題がね
@@matukawatositane もし法孝直が生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められたはずだ。仮に止められなくとも、今回のような大敗はしなかったろうに
と諸葛亮が言ってるくらいなのでもしかしたら夷陵の戦いは起きずに劉備も多少は延命し蜀の滅亡はさらに延びていた可能性もありますね。
@@Hiroro630
それなら、馬謖も孔明の補佐で物品、資金管理に集中できて上手く回ったかも
@@Hiroro630 たらればを言ってしまえば龐統も死ななければなあってのもありますね。
史実通り入蜀して漢中を落とせれば、北伐ルートを劉備を大将 法正を軍師として攻め上り
襄陽樊城攻略を大将関羽 軍師龐統で同時に攻められれば結構面白い結果に鳴ったかも…と思ったりしますね
兵糧の管理や後ろの守りも孔明がいれば何とかなった様な気もします
三国志面白いですね。馬謖の失敗は焦り、孟獲のも馬謖の進言だったとも
孔明には人を見る目は無かったな。
それを持ってたのは劉備だった。
人を見る目とか、カリスマとか、武力とか、それらを持ってた仲間の英雄たちを次々と失っていった孔明の寂しさはいかほどのものだったのだろうか…?
勇者パーティーに最後に賢者として招聘され、勇者も戦士も武闘家も死んで賢者だけで魔王を倒しに行かなければならなくなった状況。魔王は死んだけど、真のボスが出てきてるのだ。
普通なら絶望しててもおかしくないのだ…
まぁガチレズすると、賢者の里を呉に奪われたのが負けフラグだったんだと思われるかなぁ…
なんだかんだ言って、結局、孔明は死ぬまで蜀のために尽くすのだ。初期の関羽や張飛の心配など関係無かった。
武官を見る目は劉備の方があっただけで(馬謖も参謀ではなく将軍として起用したのがまずかった)、文官を見る目は諸葛亮の方があったよ
諸葛亮が抜擢した文官達がいたから北伐出来たわけだし
何よりも人心掌握術に長けてたんだろうなぁ。
関羽が樊城で敗北しなければ、連鎖的に劉備、張飛が連鎖的に没することはなかっでしょうね。
それでも国力的に蜀漢が勝利するのは不可能だったでしょうが浪漫はある。
孔明が劉備に示した方針は天下を三分して治めることではなくて、まずは三分して、その後曹魏を滅ぼして漢王朝を復興しようというもの
天下三分の計では益州と荊州を治め、信頼できる将軍と益州荊州から同時に中原へ侵攻するというもの
時期はともかく関羽が北上したのも、結果失った荊州を劉備が取り返そうとしたのも天下三分の計に則った行動とは言えます
1990年代後半の中国ドラマ「三国演義」は日本でも大ヒットして、孔明役の俳優の来日イベントが横浜であったなぁ。ちゃんと孔明の格好してた。ちなみにその年の中国のアカデミーの主演男優賞は曹操役の俳優だった。めちゃ演技うまかったからね。
あの孔明好きでした。見るからに謙虚。関羽・張飛の両名を極力立てている所も好きでした。
吹き替えの安原義人さんの声も正にはまり役でした。スリキンの孔明は少し偉そうな感じがカチンと来ます。
魏に比べて圧倒的に人材不足だったらしいのは何となく想像つきますね。😑人の出来ることはしれていると知っていたはずなのに限界まで頑張ったのは哀れすら感じます。
陳寿が孔明オタすぎて「劉備が言うこと聞かなかった」「馬謖が言うこと聞かなかった」
「李厳が言うこと聞かなかった」など周囲が全員悪かったように書いてしまった、
みたいなイメージを個人的には持ってる
諸葛亮に妹っていましたか?下の姉が龐統の一族の龐山民に嫁いだと龐統伝の注にあるので二人以上姉がいたとはされていますが、妹は聞いたことないです。
赤壁の戦いは周瑜が主役。レッドクリフが正しい。
劉備の遺言はずる過ぎるよなあ。
そんな事言われたら絶対簒奪出来ないじゃん。
まあ孔明は劉備にぞっこんだったからそもそもだが。