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古くは縄文人でさえ正確に冬至・夏至の日出の位置を認識していました。日の出の位置が全て「東」と認識する程度の知識しかなかったら外洋航海は無理です。大海原では方向感覚は日星に頼るしか無い。ま、対馬海流は潮の流れが速いので真っ直ぐ南に向かって漕ぎ続ければ潮に流されていい具合に目的地に着くかとは思いますが。。。
最後に指摘された、対馬海流説もありかも知れませんね。南に向かって漕いでいって着いた国が、対馬国、と。
@@これはどうでしょう 様、それをわかっていて意図的にそうできるのが航海術かと。。脇を固めるのに良い御本です。「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」「遠澤 葆」著 「成山堂書店」
@@田中健一-s1c さん、私達の考えが、「ネットのど素人のよもやま話」、と言われるのであれば、私達も応答することはできません。また、ご自説の披露であれば、よそでお願いします。このコメント欄で教えて頂いたり、ご批判に対応することで、より真実に近づけるものと信じてやって来ましたが、残念です。田中健一さんへの返信は、勝手ながら終了とさせて頂きました。
@@これはどうでしょう 様、誤解を産んだようなでお詫びします。小生、貴兄のことはきちんとリスペクトしています。実地踏査して文献にもきちんと当たる真摯な姿勢。批判にも丁寧に応える謙虚さ。伏して学ぶべき先達と考えています。誤解を産んだコメントは、どなたかが小生のコメへ別チャンネルの動画を推奨されておりまして、それについて「ネットのど素人・・」のコメントを返したのですがそれがお気に触られたのですね。重ねてお詫びいたします。以後も言を交えていければ幸いにて。
@@田中健一-s1c さん、「どなたかが小生のコメへ別チャンネルの動画を推奨」が、どなたなのかは分からないのですが、あなたのコメントを読み直すと私の誤解であることが認識できました。私も「ネットのど素人」なので、過剰反応してしまいました。申し訳ありませんでした。これからあなたへ返信した拒否コメントの削除作業をして、その後のご指摘への返信文を考えたいと思います(汗)。返信完了するまで、すみませんが新規のご質問、ご指摘はしばし留め置き下さい。今後ともよろしくお願いします。
とても納得できる考察だと思いました。大変勉強になりました。いつか私も自分自身の説を表明できる位の調査と勉強を楽しみながらやって行きたい思います。感謝!
参考にして頂けたようで嬉しいです。そして、今後のご活躍に期待します。
途中の御笠川水系から宝満川水系への移動、感銘を受けました。現代の地図だと難しいように感じますが、船を押さずとも移動できたのではないかと思います。というのも、JR二日市駅周辺は現在でも浸水想定区域であり、当時の海岸線は今よりも上流だったことから、川幅も今より大きかったであろう点を考えると、二つの水系が混在していたことは十分にありえます。加えて、JRで言えば田代駅辺りから二日市駅までの間は、地形的に雨が降りやすいところで、2水系が混在していなくても、当時ならば雨の後などは二つの水系を渡ることは、おそらく容易にできていたのではないかと思います。とても素晴らしい考察を拝見できてよかったです。
ありがとうございます。参考にさせて頂きます。あの辺りが交通の要衝であったことは、護りの要だったとも言える訳ですね。
面白いです、文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。
ありがとうございます。アメリカの方でも興味がある方がいらっしゃるんですね。最近は日本の縄文時代が脚光を浴びてるような紹介もよく目にします。
後に筑紫を統括した筑紫の君・磐井一族の本拠地も同じエリアですね。当時の水運・防衛・水田(≒戸数)などの要素を考えれば、筑後川流域が最も倭人伝の内容に添ってると思います。ただ魏の使者は邪馬台国まで本当に行ったのかは不明ですね。政治・外交拠点だった伊都国までしか到達せず、残りは伝聞だったのかもしれません。もし卑弥呼に本当に会ってたのなら、容姿・服装・振る舞いなどを書き残してたと思います。補佐する弟の名前も残してるはずです。東夷伝を素直に解釈すれば、卑弥呼は名目上の女王であり、政治・外交の実務には関わって無かったように読めます。女王国の30か国連合は九州北部から半島南端を支配してたので、それで伊都国の役割が特別だったような記述になってるのだと理解してます。
筑紫の君にもつながる話として、このあたりの史実をより正確に知りたいところです。魏の使者については、卑弥呼の晩年、帯方郡の大使、張政が邪馬台国に滞在し、壱与とも話していることが記述されているので、邪馬台国へは行っていると思います。
@@これはどうでしょう 倭人伝の一番最後の部分を読み返しました。なるほどですね。たしかに『政等以檄、告喻壹與』の解釈によっては、魏の使者が直接トヨと面会して話をしたとも理解できるかもしれませんね。「檄」は口頭なのか、文書なのかの解釈の違いと思います。直前に書かれてる卑弥呼への告喻の場合は、文書にして託してるので、つい同じような意味で理解してました。ただ卑弥呼の死後に王位に就いた男王では国中が服さず、それで13歳のトヨを新王にしたとも書いてあるので、子供相手に外交・政治上の話をするのも、かなり非現実的な感じもします。卑弥呼の「宗女」が同族を意味するのか、宗教上の弟子を意味するのか、或いは30か国連合内で邪馬台国とは別の国のシャーマンなのかによっては全く解釈が変わってくると思います。一番気になるのは伊都国に関する『郡使往來常所駐』の記述です。外国使者との応対を担当した後世の大宰府のような役割を果たしていたと理解できる表現です。女王国の30か国連合の外交上の窓口は、伊都国だったとも解釈できます。卑弥呼やトヨの名義で帯方郡などに使者を送ってますが、政務・外交に直接関与したような印象を持てない記述内容が多いです。倭人伝が特に強調してるのは、トップが女王であること、鬼道(≒先祖崇拝・占い・呪術)を専門としてた巫女のような存在であった事、そして隠棲して人前に出ないことだと思います。倭の状況は、当時の中国大陸では考えれないような体制だったから記述されたのだと思います。
なるほど、そういう解釈もある訳ですね。私の場合は、このあたりの資料に詳しい方から、張政が20年位邪馬台国に滞在していたと聞いていたので、そのように思っています。(引用もとは知らないのですが)
@@yo2trader539 とても興味のあるお説です。勉強になります。
「自郡至女王國 萬二千餘里」とあるのだから、その円の中に有ると思うのが自然に思います。そして、末盧國 有四千餘戸、伊都國 有千餘戸、奴國 有二萬餘戸、不彌國 有千餘家、投馬國 可五萬餘戸、邪馬壹國 可七萬餘戸という人口を考えると、福岡平野・筑豊?・筑紫平野?とも思えたり。戸数を考えれば現代の市に当てはまるレベルではないような。川を使った輸送網は有ると思う。現代人も駅で乗り換えを普通にやっているのだから、御笠川・朝倉街道で1泊・宝満川と乗り換えてたりして。
そういうことのようですね。近畿には行程は行かないと思います。
邪馬台国までの道程は ピッタリ『甕棺墓』の分布に重なります。北限は糟屋郡、西限は唐津(平戸にも少し) 東限は最盛期に飯塚市 立岩遺跡南限は 熊本宇土半島と熊本市の南 嘉島町の二子塚遺跡です。最も確認されているのは佐賀神埼地区の2951点 次いで小郡、鳥栖地区の2522点春日 福岡地区の1769点と続きます。当たり前ですが墓の埋葬方法は重要です。郡使の上陸が遠賀川流域や宗像あたりでなかった理由だと考えます。航海のスペシャリストを松浦に配置し(後の松浦党?)遠く糸島水道まで見渡せる湊中野遺跡では狼煙跡も見つかっています。次は伊都国です。 方角が違いますが報告書には地図が添付されていたはずで出発点からの方角が東南であったとすれば解決します。(出発点から東北とすると海です)中華では地図は文字より古く殷の時代より存在したと言われています。地図は次回から来倭する郡使が迷う事ない様に文書より雄弁な報告資料です。糸島の古代の王墓は甕棺墓ではありません(木棺など) それは甕棺墓を風習とする種族に征服された可能性が高いと考えます。尚 糸島市では甕棺墓の最終晩まで風習が存続します。(福岡地区は終盤を待たず消滅)では邪馬台国は 南限の『熊本』か?可能性はあると思います。延喜式(927年)肥後(熊本)は税率26%と当時の首都 畿内の国々と比べても人口、生産性から遥かに大国だといえます。熊本平野まで邪馬台国とするなら最大の戸数である倭人伝に合致します。(ただ七万戸は何処にも存在しません)熊本北部には方保田東原遺跡という あの吉野ヶ里遺跡を凌ぐであろう(発掘中)大環濠集落があり同じ菊池川流域では新の貨幣『貨泉』も出土した「うてな遺跡」「小野崎遺跡」大環濠集落「諏訪原遺跡」熊本市北区には方保田東原に匹敵する「五丁中原遺跡群」白川下流域では八島町、道場方、湯ノ原、二本木等大規模集落があります。しかも 方保田東原や二子塚遺跡では鍛冶工房も見つかっておりおびただしい鉄器が発掘されています。南区 城南地区にも塚原古墳群があり国内最大規模を誇りますから大国です。ただ…甕棺墓グループを邪馬台国連合とし 遠賀川流域や、豊前、豊後、阿蘇グループまで連合の同盟国とした場合『強すぎる』んです(汗)熊本だけでも弥生後期の鉄器出土数が国全体の30%。そこに北部九州も加えると…確かに倭人伝には「かたわらの国」に対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国と『阿蘇』を想起させる国名がありますから『製鉄(菱鉄鉱、褐鉄鉱)』していた可能性ある阿蘇グループまで邪馬台国連合。当時 敵う勢力があるでしょうか?ちなみに 熊本北部までが邪馬台国連合と仰る方ありますが北部最大の方保田東原遺跡と熊本市南部 二子塚遺跡では珍しいジョッキ型土器が各々 20個と108個と出土しており交流を否定できません。しかも二子塚遺跡では 免田式土器が1159点出土し 人吉、球磨とも交流が認められます。(免田式の紋様を持つジョッキ型土器まで見つかってます)となると 卑弥呼が 魏に援軍を頼んだ 強い狗奴国は その南 えびの市から鹿児島となります。今の所 鉄器出土が殆どありませんので石器の石鏃でゲリラ的に戦い東に発展の可能性を見ていた邪馬台国を悩ませた?位になりますね(^^)当時の宮崎(日向)はまとまっていた可能性ありますが九州山地がさえぎり 東側からの北上になりますから熊本まで遠すぎます。あと、名前が いかにもな『山都町』は遺跡遺物も無いですし そもそも山間部で平野もなく拠点にはなりません。(熊本住みで何度も訪問しています)倭人伝に 温泉の記述が無い? 道程には湯煙漂う温泉地はありません全て かたわらの国です。丹に関しては 大分市坂ノ市、佐賀嬉野市に丹山があります。もちろん阿蘇のベンガラも。筑肥山地を挟んで 筑後に邪馬台国 熊本北部から狗奴国とした場合鉄器出土数は拮抗します。それでもまだ熊本の勢力は鉄器の充実が凄いといえます。熊本は甕棺の中庸で福岡の須久式甕棺から独自の黒髪式土器の甕棺に移行している事が何を意味するのか? 甕棺墓は最初のⅠ期に筑後と熊本に伝播したことが確認されています。狗奴国の王 卑弥弓呼と卑弥呼は同族?倭国大乱で分裂か?妄想の片隅にでも(^^)
たくさんのご示唆、いつもありがとうございます。以前にも言われていた墓制、重要なキーワードですね。特に北部九州の甕棺墓。私が初めてこれの分布図を見たのは、5年前の福岡市博物館を見学した時でした。その時の写真を改めて見てみると、確かに熊本、佐賀、福岡がその中心域ですね。そしてこの甕棺墓グループを邪馬台国連合とした時には、確かに強すぎる気もする。伊都国博物館での資料も合わせてみると、この一帯の最初の王墓、吉武・高木3号墓と、伊都国最後の王墓、平原1号墓が木棺でした。吉武・高木遺跡では、木棺と甕棺が混在(木棺が王か)してるようでした。その間は(全部かどうかは?ですが)奴国も、(伊都国最初の三雲南小路も)甕棺墓、という認識ですが、合ってますでしょうか。木棺と甕棺の扱い方、考え方が、うまくできていません。一方で、平原1号墓、西谷3号墓、楯築、ホケノ山、黒塚など、墓の形はそれぞれですが、「木棺+施朱」の組み合わせに今一番気を取られています。ただの流行りの移行なのか、どうか?熊本鉄器も凄すぎですね。どこから素材を持って来たかと考えてばかりいましたが、製鉄ができていたと考えるのが一番自然ですね。やっぱり、筑後以北が邪馬台国連合で、肥後・狗奴国。鉄器の攻撃力で、肥後が筑前・筑後を脅かし、最後には・・・と、こちらも妄想になってしまいます(笑)。
@@これはどうでしょう 様次に進もうとしている最中 ムーンウォークのように 戻してスイマセン(^^)縄文の土コウ墓から 木棺はまだしも 土で作った大きな器に遺体を入れて埋葬する。地母神信仰から甕を子宮に見立てたのか? 宗教的ですよね。福岡博物館に分布図が? こりゃ行かないと。はい、南小路と須久岡本の甕棺が同一構造の可能性やら甘木 朝倉と筑後の甕棺に共通性が高い 等 畿内の土器編年のようにモノサシになるのではと思っています。共存している事も意味深ですね。でも遠賀川流域から東には普及していないとか 面白くないですか?九州王朝説の倭本朝と倭東朝でしたっけ?(^^) いくつか真実も隠れてそうなんですよね。まずは積極的同盟国とそれ以外の国々と考える事も必要かなと思っています。しかし、熊本の遺跡の情報は少なくて(汗) 本でもチョロッ遺跡発掘調査報告書を探してやっとです。なので数字は確かです。古代熊本遺跡のキモ 方保田東原も「現状保全を第一に」ですよ福岡と違い 住居も殆ど無く区域の拡がりも確認されているのに…鉄製武器出土日本一の西弥護免遺跡は住宅地に先述の二子塚遺跡は工業団地にと(泣) 立地を確認に行きましたけど小さな案内板だけ。そういう意味では奈良を見習う事も必要ですね。施朱ですか。東北と 九州北中部だけだったのが 一気に伝播しましたよね。その後の装飾古墳も熊本宇土~宮城まで分布して 熊本は29%も。何故?山鹿チブサン古墳とか 見事ですよ。やはり朱を扱う集団の移動は否定出来ないですよね。任せて下さい先輩。僕も同じく 現場主義ですから 鉄の馬に乗って調査してきます。九州山地の険しさは意識して訪れないとわからないです。わかれば高千穂に都が とは言えないのです。隠棲地です。椎葉村の逃げて来た百済王の里と後の平家の落人の共通性 陸の孤島で今でも道の寸断が絶えない道のりはそりゃ厳しいですから。はいッ甕棺と施朱 何かわかれば報告します(^^)
@@これはどうでしょう 様追伸 阿蘇の狩尾遺跡で褐鉄鉱(阿蘇黄土)を原料に。大野川流域では菱鉄鉱(阿蘇の鉄鉱石)由来の製鉄の可能性大だと思います。輸入鉄艇との元素の違いは 専門家が確認済みです。これは 余談ですけど 9,11のツインと連邦ビルの倒壊にテルミットの様な爆薬を使い 鉄骨を溶かした事が原因の意図的な倒壊であると。テルミットとは 酸化鉄とアルミニウムの化合物に点火すると瞬時に2500℃になり溶けた鉄を生成するらしいんです。阿蘇のベンガラは酸化鉄。古代にアルミはありえませんがミョウバンの成分にはアルミが。別府明礬温泉のミョウバンです。2500℃まで必要なく 物質の組み合わせで高温を発する技術を 持ち合わせていたなら?なはは、こんなんゆ~の、僕だけです(^^)
ムーンウォーク(笑)。いえいえ、私も行ったり来たりです。まず大和についての頭の整理ができたのは、坂先生、関川先生のお陰です。そしてそれは、今回の「旅」の到着駅でもあります。出発点の一つは伊都国にあると思っています。そして出発地には広大な甕棺墓の広がる北・中部九州がある・・・そういう意味では、伊都・奴国の中で、平原1号墓は特異な墓かもしれませんね。伊都国最後の王墓、施朱の木棺、超大型の倣製鏡、武器型青銅器の副葬なし・・・と。そして甕棺墓グループの北半分が邪馬台国連合/狗奴国とはもともと同族。という線はあり得そうですね。おっしゃるように、甕棺墓全部だと、邪馬台国側が強すぎる。第1話でお出しした青銅器分布で行くと、弥生中期も後期も配布南限は、山鹿、菊池あたりに見えます。これが大牟田あたりだと、筋立てしやすいんですが。心強い応援有難いです。・・・まだまだ妄想・・追伸の返信へ
阿蘇周辺での製鉄の可能性大としたら、凄いですね。熊本中部の強みは、製鉄の獲得があれば、すんなり裏付けられます。それが北部九州、邪馬台国連合の解体の画期となりえると。阿蘇産の鉄が熊本平野北部まで行き渡っていたとしたら、狗奴国の国境はその北になる、でしょうか?
投馬国は旧筑後国(上下)妻郡、現在の八女市辺りだと思います。
なるほど、「つま」ですか。投馬国は全く当てが無かったのですが、一つの解釈ですね。
@@これはどうでしょう 投馬国五万戸も筑後川沿いの八女市であれば水源の確保も容易でしたでしょう。さらに南にある邪馬壱国は、同様に水源の問題から、今の菊鹿盆地にあったとされる茂賀の浦湖畔にあったのではないかと推測しています。
そういう流れですね。理解できます。では、その後邪馬台国を倒す勢力になる狗奴国はどこでしょう?
@@これはどうでしょう その南にあるとしたら必然的に球磨郡=狗奴国になるでしょうね。邪馬壱国が武力によって追い出されたのか、なんらかの天変地異によって故国を去ることになったのかは定かではありませんが。
人吉市あたりの遺跡に疎いのですが、北部九州一帯+熊本となってくる女王国連合に対抗できる勢力圏の痕跡が、球磨郡あたりにありますでしょうか?
こんにちは。弥生時代の邪馬台国は6カ所あったと思っています。理由は古墳時代の大王の宮は一代ごとに別の場所に建てられていますよね。おそらく弥生時代もそうであったと思うからです。正確な場所は特定できませんが候補がございます。糸島地区、飯塚市、朝倉市、大牟田市とみやま市付近、熊本県嘉島町御舟町山都町と宮崎県高千穂町五ヶ瀬町付近、宮崎市。理由として大牟田市とみやま市の境界付近を流れる川が隈川で、近くに甘木の地名があります。甘木は天城ではないでしょうか。また有明海へのアクセスもよく、南朝への航海路であったと思います。素戔嗚の尊は天神御祖に海原を治めよと言われていますが、これを暗示させます。そしてこの地が狗奴国でもあったと思います。素戔嗚尊の名はカムロキクマノクシミケヌの尊、熊野の大神です。熊の地名はここから熊本県全県、大分県熊野、出雲の熊野、近畿の熊野と東遷しているように見えます。卑弥呼の時代に朝倉のヤマトと大牟田のヤマトが並立していたのではないかと考えています。
一度に書けなくてすいません。甘木の地名は佐賀県飯塚市にもあります。また糸島地区には日向、クシフル岳、近くには小戸の地名もあり糸島から福岡市にかけては古い時代のヤマトであった可能性もあります。熊本県の山都町は古代音韻のヤマトに対応しています。また五ヶ瀬町や高千穂町にはごく初期の前方後円墳があり、特に高千穂町の吾平にあるものは天孫降臨と関係してると思います。宮崎市にはそのものズバリ大和の地名があり、橘、小戸、阿波岐原の地名がセットで残り皇室の発祥地にふさわしいと思っております。このようにヤマトは時代によって移動していると思っています。
地名についての考察ありがとうございます。私もあちこちの旅先で、地名が気になります。クマ、クマノ、ヤマト・・多いですね。アマギもその仲間、ですか!参考にさせて頂きます。
おはようございます、楽しい動画ありがとうございます。邪馬台国をヤマイチ国とも読む方もいるように投馬国も殺馬国(サツマ)と読む説もありますそうすると、タイホウ郡からクヤ韓国まで7000余里対馬海峡を航るのに3000余里細かい数字は置いといて一日で船で進める距離が大体1000余里と考えると(水行一日)タイホウ郡から10日で北九州上陸さらに水行10日で投馬国(サツマ?)だとどうでしょう?なぜ陸行の手段がないかは、当時陸で行くには途中ライバルのクナ国が間にあったからじゃ?なんて妄想を考えてました。
否定出来ない種々の考えがありますね。私は邪馬台国は北部九州だと思いますが、鹿児島・宮崎の位置付けはわからないでいます。色々な推理、楽しいです。
日田に銅鏡じゃなく鉄鏡が出てますよ!レプリカなら展示されてます!魏の曹操が持っていた鉄鏡に類似すると言う発表がありましたよね〜!
その鉄鏡、復元品の写真を見たことが有ります。凄く、きれいでしたね。卑弥呼の鏡では、という説があるんですよね。見てみたいです。
金銀錯ガン珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)ですね。昭和8年 日田市日高町で久大本線建設中に出土。土地の所有者 渡辺氏が 近くの三芳小に寄贈。戦況の悪化もあり 行方不明に。昭和35年 関西の大学考古学教授が 古美術商から買い取る。天理大の調査にて後漢鏡である事が判明し文化庁が買い取り重要文化財に。(渡辺氏が腐食防止にと石炭と一緒に石炭箱に鏡を入れ小学校に寄贈したと。鏡には石炭が付着していた)最近 同時代の金錯鉄帯鈎(きんさくてったいこう)も日田市から買い上げ共に東京国立博物館に。運が悪いですね~。考古学者の手で 地中から出土していない事、古美術商から買い取ったという出自の怪しさが価値を低くしちゃいました。しかも、邪馬台国 畿内説を推す 関西の大学に渡った事も 不運(泣)ただ鉄故に中国でもわずかに残る鏡が 日本の酸性度の高い土壌故に腐食しなかったのは幸運とも言えますね。中華でも皇帝一族しか所有出来ないと言われる 超~ッ 一級品の至宝。必ずや 「国宝」に 指定されるはずです。
・・・日田は、邪馬台国の奥宮でしょうか?日田にまた、行きたかー!
日田は 福岡中部の文化圏にありながら行政区分は 大分県 『豊の国』…焼そばもイイですが 日田駅前 「寳屋」のホルモンチャンポン。水が合うのか コーヒーも美味です。(^_^)
次々にいい情報、ありがとうございます。ホルモンちょんぽん、旨そう!行った時必ず食べます。
方角や里程など原文を一切改定せずに魏志倭人伝を三国志の理論に従って読んでいけば邪馬壹国は北九州になると私は思っています。
私も全くそう思っています。水行10日陸行1月などの記述が誤解を生んでいるだけだと思います。それに対して色々な解釈があるだけで、結論には影響しないと思います。
@@これはどうでしょう QQ was a
山門が邪馬台国とするのに決定的な証明にはならないでしょう。路程はいささか不明確であり、論拠に乏しいと思います。
ロマンとしては畿内説だけど、合理性では九州説かな。卑弥呼のとった外交は、大陸の複雑な情勢(三国の争い、公孫氏と司馬懿の動向)を把握してないと不可能である。卑弥呼が畿内にいたとすると、九州北部か出雲と強いつながりがあった人物だっただろうが、九州北部にいれば朝鮮との交易を通じてそれを把握できる。
なるほど、そうですね。その当時の畿内に、半島や大陸と繋がっていた痕跡は、考古学上ほぼ皆無なので、畿内説には合理性がありませんね。
複数の報告書から合成したと考えると、『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』『自郡至女王國萬二千餘里』と、女王のいる国に至る旅程が二か所記述されてある理由、それぞれが日数と距離、邪馬壹國と女王國と表現方法が違う理由の説明にもなます。
魏志倭人伝は過去の史書を編纂されたものだと言われていますから、それが複数あったと考えることは自然と思います。
@@これはどうでしょう 整理して書かれた感じがしないのは、編纂者も資料を眺めて責任をもって一つの結論で書くことができなかったのだろうなと感じます。
お説に全面的に賛成です。「これはどうでしょう」さんと同じく邪馬台国から大和王権へどのように権力が移っていったのかが最大の関心事です。邪馬台国→九州王朝→大和王権は別の王朝で神話はそれぞれのいいとこ取りをしたものというのが私の妄想です。 (^-^) 古代史探索の旅の続編を楽しみにしています。
今今、Ⅲの第3話まで行っていますので、旅のお供、よろしくお願いします。
唐津から東南は山岳地帯で行けない、との解説ですが、動画の背景地図には、唐津から佐賀方面へ大きな道(国道?)が見えます。なぜ此の道を東南へ進まなかったのですか??
たとえ険しくとも人が通行できる程度の道はあっただろうと思いますが、皇帝から下賜された重要な荷物を封泥されたまま人力で運ぶことは、危険すぎて考えられません。
ギボアイコさんが生きておられたとき、卑弥呼の墓を探す番組企画どっかのテレビ局にして欲しかったなあ
確かに!残念です(笑)。
以前、別の九州説の方にも伺ってみたのですが、邪馬台国の産出物に 青玉 という鉱石があると倭人伝の中にあります。それは九州説的には具体的に何を指すものなのかと尋ねたところ、ハッキリと答えて頂けませんでした。それでぜひup主様のご意見をお聞かせ願いたいと思っています。そしてできればその具体的な産出地もお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。
ご質問ありがとうございます。これは糸魚川産の翡翠のことだろうと思っています。当時から、古くは縄文期から特に日本海側で珍重され流動していたことから、倭人の国の産物として有名だったろうと思います。
@@これはどうでしょう ご返答ありがとうございます。それはつまり当時邪馬台国が糸魚川周辺地域を領土化していたと考えておられるのでしょうか?
交易範囲を領土と考えることは出来ないと思います。糸魚川産の翡翠は縄文期の青森の三内丸山遺跡からも発見されていて、古代から広く流通していました。半島からも出土しています。一方、領土化する、支配するという国々の関係性は、そんなに古代には遡れないと思っています。そこそこの軍勢で攻撃して勝利したとしても支配することにはなりません。権力をそこで維持するには、軍隊の駐屯、兵糧の補給、通信網・・・など色々必要で、古代も現代も一緒の原理だと思います。
@@これはどうでしょう 解説ありがとうございました。では最後に仮定の話をさせて頂きたいのですが、もし 青玉 が翡翠では無かったとすればいったい何がそれに該当(第2候補とて)すると思われますか?
分かりません。今の中国でも玉は翡翠のことをさします。
良いと思います。熊本県菊池市なら、シャーマンが居そうです。
雰囲気でいうとピッタリですね。
5:51宇美町(うみちょう)ではなく(うみまち)と読みます!
そうでしたか。失礼しました。お許し下さい。
ついでに朝倉街道はかいどうやなく、がいどうですw
私も権現塚古墳が卑弥呼の墓だと思います。墓が円墳で大きさ(直径)も記実通りです。考えが同じで安心して最後まで動画を堪能しました。
権現塚古墳が卑弥呼の墓かどうかは異論も多く、なかなか確証は得られません。
超古代のような話だけど、エジプトでは新王国も滅んでプトレマイオス朝も滅んでローマの一部になった後なんだよなぁ…
なるほど、そうですね。ただそれでも、文字資料が残ってないので謎だらけです。
①対馬から壱岐に渡る時に地図上の壱岐がある 南東方向に漕ぎ出したら対馬海流に流されて 日本海方面に行ってしまいます 航海の手段としては南東ではなく南に漕ぎ出す べきでしょう②当時の海岸線に沿って移動するのは困難です 現代と違って堤防や橋はなく葦の生い茂る湿地 であった筈です 当時の移動路は尾根道であると思われます それと現代の地形と当時は大きく異なっており 現在の地図で論ずるのは誤りだと思います③当時の旅程を現代感覚で考えては駄目です 恐らく宗教的行事を伴っていた筈で一日の 行程はかなり短かったと思われます④畿内説を採るとすれば当時の大都会であった 吉備や出雲と思われる記述が魏志倭人伝には 無いです 又記載されている風土は畿内の地理学的条件 からずれているのではないでしょうか 自分も九州説が妥当だと思います
①漕ぎだしは南向き、というのは正解かも知れませんね。②今回の移動区間の中で海岸線を使うところは無いかと思います。③後半の移動日数はやはり、20日+10日+1月かかるのだろう、ということですね。④同感です。以上、ありがとうございました。
末盧国の港は唐津城の辺りではないね。当時は虹ノ松原が無く、玄界灘の荒波が直接打ち寄せていたからね。唐津市内の古墳の所在が、松浦川の東岸に集中していることから見て、松浦川を遡った、現在の唐津インター付近の中原遺跡~JR山本駅近くの久里双水古墳あたりの津(川の港)が適切。そこから倭人条の通り東南陸行500里すれば、多久市経由、佐賀大和町川上の太神宮遺跡付近が伊都国となる。
末盧国の港については、私もそうなのかと思います。ただ、伊都国の所在については、違う見解です。東南陸行500里だけをとらえれば佐賀平野まできてしまう解釈になりますが、他の情報との整合性を考えるとやはり、現在の糸島市にならざるを得ません。そうすると、「東南陸行500里」は一旦末盧国に立ち寄ったあと、そのまま船を進め、加布里あたりに上陸して東南陸行で伊都国に達する、と解釈することができると思うのです。
命を懸けて海を渡る船乗りだぞ、季節で方向を間違えるとか、その程度で外洋に出る船乗りが居てたまるか。何らかの意図を持って方角や距離を改竄したとしか考えられない。
これは一つの推論ですから、他の考え方があっても良いと思います。いくつか考え方がある中で、最も正しいと思う推論を選択すれば良いです。対馬から壱岐にかけては西から東に向かう対馬海流がありますから、対馬から南に向かって漕げば壱岐に着く、という方角でもあると思います。そういう説をとってもいいと思います。伊都国あたりまでは楽浪郡・帯方郡の人々が行き来していたことが考古学資料から分かっていますので、そこまでの位置は隠す必要は無かったと思っています。
投馬(トゥマ)国の所在地のヒントとして 八女市に上妻(こうづま)筑後市に下妻(しもづま)があります 私は地元ですが 以前よりなんで上妻と下妻は数キロ離れているんだろう?と疑問でしたが 古代は八女市と筑後市を含む大きな国 つま国だったのかもしれません 近接した三潴郡(みずまぐん)も「つま」の音が残っていますそして八女市筑後市三潴郡の南にあるのが山門郡です
情報ありがとうございます。ここが投馬(トゥマ)国かもしれませんね。別の方も、もうひと方指摘された方がいらっしゃいました(すみません、お名前忘れちゃいました)。おっしゃるまま調べてみたら、筑後の国には上妻郡、下妻郡、山門郡がありますね。そういうことかも知れません。
@@これはどうでしょう もうひとつ情報です 八女市に童男山古墳というのがあって 徐福の一行の童の墓との伝承がありますが 伝承では徐福一行は有明海から上陸したそうです当時 朝鮮半島~北部九州のルートは唐津付近上陸以外に長崎·島原を迂回し 海路でそのまま有明海 すなわち投馬国あるいは直接邪馬台国へ上陸するルートもあったということじゃないでしょうか当時の道のない陸地より遠回りでも海路を選ぶこともあるかなともし唐津から長崎を迂回して有明海上陸ルートならば水行二十日も当てはまると思うのですが
佐賀県・有明海側に徐福伝説があるのは聞いたことがあります。確かに有明海へ廻るルートもあり得ますね。
なるほどーググったらちょっと川から離れてる気もするけど水行20日で大宰府~久留米あたりまで来たとすると当時はそのあたりまでが「ツマ」だったのかなー
@@pocapamas さん、ですねー。今回、のりのーりさんからは、いい情報を頂きました。
その当時の日本の首都なら、しっかりした道があったはず。陸行一カ月は、かなり遠くに行ける。
しっかりした道があったら、 そうですね。
「しっかりした道」があったか、倭人伝を今一度読み直してみようw草木が繁茂して前を行く人が見えない程だ、と書いてなかったっけ?
そうですね「当時の日本の首都」だったらという前提に「邪馬台国」はあてはまりませんし、今とは治安はもちろん状況がかなり異なりますので、その場合は、という仮定のお話ですね。「しっかりした道」を通って、どこの国からも攻められない平和な状況にあればというお話の場合です。
@@urlinkin55江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km。15日らしい。自分の経験では、 四国八十八か所を徒歩巡礼をしたことがある、だいたい舗装された一般道路より、古くからある歩く道のほうが近かったりします。歩くのが遅いほうでも、一日40キロぐらいは歩いた。
田川に卑弥呼の墓があるというのは本当でしょうか?もし、そうであれば邪馬台国は田川にあってもおかしくないはずです
田川説は逆だと理解しています。田川に邪馬台国があったはずだから、あれが卑弥呼の墓なのだろうと・・・ということではないでしょうか。
興味深く観させていただきました。とてもよく出来た動画ですね。手前味噌になりますが、2014年に出版してその後kindleで出版した私の仮説とも、「奴国」まで一致していまして、納得できました。ただ問題は「不弥国」の位置ですね。末盧国から奴国まで「東南」に行くわけですが、不弥国へは「東」と倭人伝には書かれています。つまり方角はともかく使節団は、不弥国へ行くためには奴国から45度左へ進路をとったわけで、そこは大事な点ではないかと思うのです。となると結論はだいぶ変わってくることになるのですが、いかがお考えでしょう?
お誉めありがとうございます。45度自体の精度はともかく、百里=7km程の位置想定の話ですから、大きな影響はないと考えていました。
これはどうでしょう 早々のお返事ありがとうございます。倭人伝のどこを重視するかで、いろいろ解釈の分岐点があるもので面白く感じました。邪馬台国のロマンはこういうところにもあるのでしょうね。ちなみに私は、伊都国(平原遺跡)から奴国(須玖岡本遺跡)までは、道のりにして26キロ。これを「百里」とするなら、約45度左へ向かい、海岸線を辿って25キロほど行った現在の古賀市辺りに「不弥国」があると考えています。倭人伝の曖昧さは解釈を難しくしますね。ホントに(汗)。
伊都国も奴国も域内の遺跡は多いので、広範囲の国だったことを想定しています。伊都国から奴国へは日向峠を抜けるのに百里。すぐに奴国に入り、またすぐに不弥国があったのではと思っています。ただこのあたりは、他の方々の説に委ねるばかりです。
なるほど、了解しました。クニを点に見立てるのではなく面として広範囲に想定すべき、ということですね?たしかにそのとおり。具体的な場所の是非は諸説ありますが、ここは大事な認識ですね。ありがとうございます。
魏志倭人伝の倭国への旅程の方角と距離は曖昧な箇所があります。その解釈として海流の影響とか使節団の移動速度とか検証できそうもない説も見受けられます。こんな謎解きのようなことをしなくても自明な記載があってしかるべきと思い探したらありました。參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里これの現代文は以下の通りです。「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」倭地となっていますが周囲が五千余里(一里が70mとすると300Km)ですから邪馬台国のことだとすれば、「邪馬台国は他の倭国から絶たれた海の中の島の上に在する」となります。すなわち四国です。特に阿波。以下の記述も四国だとすればしっくり解釈できます。女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」女王国(四国)の東、海を渡ること70Kmでまた倭種の国(近畿・大和)があります。四国説の難点は考古学的な物証が乏しい点でしょうか。この時代九州、近畿(大和)に限らず中国(出雲)・北陸・関東などにも有力な国があったと思われます。その中で魏志倭人伝に記載されていたのが女王国(四国)だったということだと思われます。
引用されている記述は九州島でも当てはまります。何故なら、当時の倭地は南朝鮮もそうだからです。何故四国説がブーム?になっているのか、四国説の三村隆範先生に伺えば本当のことがわかるのではないかと思います。
九州に上陸してそこを転々として再び水行10日の旅程。単純に考えて九州島ではありません。途中から旅程が距離ではなく日数になっているのは魏の国にとって比較的なじみがある北部九州ではなくそこから遠く離れた場所だからでしょう。「絶在海中洲㠀之上」は四国島の山の上と解釈するのが妥当かと思います。「絶在海中洲㠀」とは島国のことでは?水行10日で九州から西四国に渡り陸行1月で東四国の四国山上の邪馬台国にたどりつくと考えると比較的無理がありません。もちろん私たちが習ってきた古代史とは違いますが。四国の獣道を1ケ月も旅をしなければ邪馬台国に到着しないのか?邪馬台国がそんな辺鄙な場所のはずがないだろう。私もそう思います。ただ魏志倭人伝ができるだけ分かり易く邪馬台国への道順を記述しているのであれば東四国山上が邪馬台国になるのではということです。
返信ありがとうございます。ただ、水行10日陸行1月は、決して単純に考えることはできません。何故なら、これをもって過去300年の議論が延々と続いているからです。ここの部分は、「魏志倭人伝ができるだけ分かり易く邪馬台国への道順を記述してい」ないことは確かです。「絶在海中洲㠀之上は四国島の山の上と解釈するのが妥当」とされる根拠も分かりません。九州にも四国にも中国地方にも和歌山にも似たような山々はありますし、四国の山上で何か特別なものが発見された訳でもありません。
どの説も都合のよい解釈や間違いを挿入することで正当化しています。魏志そのもの全体を読み直し、その書き方、事実の認識の仕方を見直さない限り、邪馬台国(台が書き間違いという固定観念が間違いでしょう)の位置確認など無意味です。邪馬壹国に戻してから考え直さないと、不毛の論議になります。専門家という人たちはすべて入り口を間違えています。
ん~、分からなくなって来ました。ごめんなさい。
私的には高木彬光氏の説が一番しっくりとくる。末盧の国は松浦潟ではない。
高木彬光氏の小説は未読ですが、なぜ唐津方面ではないのでしょうか?
酒井正士さんという方が邪馬台国別府(大分)説を唱えられており、最近、本を読みました。それはそれで納得してしまったのですが、いかがでしょうか?
邪馬台国への道のたどり方は幾百もあり、小生動画が入口の一つにでもなれば、という思いです。酒井正士さんの書籍は、ネットでは要旨のみの紹介なので内容不明です。何かトピックスはありましたでしょうか?
邪馬台国は銅製武器しかなかった中国において、魏に鉄製武器を送って他を圧倒する軍事的優位性をもたらしたそうです。ならば、他のコメントにもあるように正確な位置がわからないように敢えてややこしく書いたのかも。私は「100名もの奴婢が卑弥呼と共に埋葬された」という記述からそれに相当する墳墓は宮崎(日向)にあるような気がします。
宮崎の墳墓群も気になりますね。一度調査に行かないと!食べ物もおいしそうだし。
すごいですね。動画公開からわずか1月ですが本家の動画の倍以上のコメント数がwそれらを見てみると、ここまで明確に示されていてもやれ畿内だの四国の山の上wだの史料を著しく無視した「トンデモファンタジー」から脱せない人が多くて人間は難しい生き物だなあと痛感しました。
そうなんです。コメントをたくさん頂いていて、議論の場にもなってる感じでしょうか。私はただの歴史マニアなので、自分が知っている範疇しか発表できないのですが、質問・ご指摘は多岐にわたり、その都度調べた情報を吟味してお答えするようにしています。アドバイスも沢山頂いていて、とても勉強になっている動画発表です(笑)。ご指摘の、人間は・・・、 同感です(笑)。
@@これはどうでしょう わあ、ご返信ありがとうございます。陰ながら応援いたしております。ありがとうございます。
こちらこそ、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
奴国までは里数表記で、その先は日数表記、ただ「帯方郡から邪馬台国までは12,000里」これは魏の船で直行した場合の時間距離です。つまり12日掛かるということ。ノンストップではないですよ。洋上泊まりは無理だし、水や食料の補給も必要。なぜ直行?(1)急ぐ場合(2)陸路は極めて難路(3)狗奴国を迂回する必要がある(4)荷物が多い---など。
なこくは那珂川で不弥国は宇美ではないかな😊
私もそんな感じだろうと思います。
1:37 卑弥弓呼のことは 誰もコメントしない。私はスサノオだと考えますが。あと出雲の近くに350本の銅剣が固まって発掘された場所がありましたね。荒神谷遺跡遺跡でしたね。あれが私には国譲り神話の現実の証拠に思えて仕方ないですが、どなたもそんなご意見を言ってる方はない。銅剣は古代には貴金属で宝物だったはず。日本でこれまで発掘された数以上の銅剣が一気に見つかった。
358本の荒神谷遺跡の銅剣ですね。出雲の博物館で実物を見ましたが、もう圧巻でした!あの銅剣の分析はかなり進んでいて、荒神谷の近くで鋳造され未使用のまま鋳造された順に埋納されたのだろうということが分かっています。
伊都国 官 爾支 (ニキ・ニギ)のことは私を含めて現在まで2人しかコメントしないそれは饒速日・物部氏であろうと一大卒や持衰など、後大和朝廷での物部氏の警察権・検察権・祭祀(宗教)とのマージを彷彿とさせる、というか、そのものにしか見えないそして、末盧国・伊都国・筑紫・筑後川河口デルタと邪馬台国への行程は、当時の物部氏の拠点が有った場所に沿っていると見える。卑弥弓呼はなんとも言えません
倭人伝と同時代の広志に載る邪届伊都、傍連斯馬 の意味をどう理解しておられるのか
素晴らしい見解だと考えます。古代史愛好家の私からすれば限りなく真実に近いかな。登録しときました。今後の動画期待してます。近辺に船曳、船越の地名は無いでしょうか?
お褒めの言葉、ありがたいです。地名について地図をざっと眺めたところ、特に見当たりませんでした。地元の方のご指摘に期待したいところです。
船越ありますよ。船越村だったんですが、今は久留米市田主丸町とうきは市吉井町に編入されて大字として残ってます。船越小学校が今もあると思います。
@@jamescorn8273 さま。1年ぶりに動画再視聴したら、船越村のコメントに気付きました。やはり古代から船の通路だったことを確信いたしました。ありがとうございます。最近は、松浦からの陸路移動がどうにも不自然に感じて、宗像近辺が松浦ではないのかと考えています。
あの〜っ、全くの素人なのですが、質問したいのです。女王 卑弥呼 女王なのに何故卑弥呼なんですか?何故 卑 の字が使われてるのですか?それと卑弥呼は個人の名前ですか?その人だけの名前なんですか?
さあ、どうなんでしょう?私も真実はわかりませんが、中華思想から周辺国をさげすんで名前を記述することが普通だったと言われていますね。個人名かどうかはここにしか登場しない名前なので、分かりません。
お忙しい中ありがとうございました^_^
邪馬台国を越(高志)とする説八俣遠呂智(九州説から変更した人)ua-cam.com/video/F21Knt-2rS0/v-deo.html陸行一月は越から但馬までとある越とする理由には、距離だけでなく水田、鉄、ヒスイなどの考察から比定しています。
この方のUA-camは何本も見たのですが、(何故かお勧め動画に入ってくるので)おかしな根拠が多々あります。コメントは差し上げたのですが、ノーレスです。(肯定コメントには返信してる)この方は何者なんでしょう?
@@これはどうでしょう 動画配信を始めた頃の内容には、神奈川県の図書館で資料を閲覧しているとある。どこかの研究員なのかもしれません。考察(推察)からの比定を覆す根拠を私には見つけられないので、九州説と断言している動画にコメントさせて頂きました。
返信ありがとうございます。変な問いかけをしてしまってすみません。私もこの方の神奈川県の・・・というのは見た記憶はあります。福井の方ではないのに県議会へ発掘の陳情書を出されているのですから、主張されている内容への批判には答える義務があると思っています。
横より失礼します。私もこの方の動画は観ました。邪馬台国があった証拠を大きな淡水湖後に絞って考察していたのが特徴的でしたね。ただこの「越」と言う国名が大陸の春秋時代にあった「越」に関連があるのではないか?と思うような動画がありました。「越」と「呉」は共に長江下流の海岸線にあった国で仲が悪く争いが絶えなかったけど、共に「楚」に滅ぼされ難民は海路にて日本列島に流れ着いたのかも知れません(呉越同舟)どちらも水稲栽培してたし、鉄器も持っていたでしょう。「越」は大国であったかも知れませんが、邪馬台国では無かったように思えますね。
貴方の長浜浩明氏説をヒントにした推定は、おおよその処で賛成します。只数か所で、少し疑問に思われるところや、他説の方が素直に頷ける所があるのでご参考まで述べさせていただけます。 1.伊都国から奴国まで百里と魏志倭人伝には書かれていますが、百里は約8キロぐらいですよね。ならば、今の福岡市西区(早良地区)の吉武(吉武高木遺跡)付近です。そして、2万戸の住居があったのですから、かなり東まで奴国は広がっていたと思われます。したがって、須玖・岡本遺跡よりもう少し東(吉武より百里)の比恵・那珂遺跡が(南へ水行できる御笠川の畔に位置している)が不彌国ではないかと思われます。 2.魏志倭人伝の一番の問題点です。いままで距離で示していた記述がここから先が日数になっているため、投馬や邪馬台国の位置が比定できなくなっているのです。其れはなぜでしょう。それは、郡使が不彌国までしか行けなかったからと考えたら如何でしょう。郡使は倭国を調査に来たのですから、詳しい正確な報告をするはずです、しかし、倭人にとっては逆のはずです。首都である邪馬台国はできるだけ隠しておきたいはずです。だから今までも伊都国に留まらせたのです。だから投馬国や邪馬台国のことは、倭人から聞いたことを記したのではないかと思いますが如何でしょう。それを裏付けるものとして随書に「倭人は里数を知らない只日を以て計算している。」と書に書かれています。3.そこで疑問です。行っていないのにどうして、いきなり邪馬台国まで距離が万二千余里と書いたのでしょうか。それは当時の中国では遠方の国へは、都から万二千余里と記していたようです。実際の距離ではなく、当時の常識、当時の中国人の世界観に基づく信仰的な距離なのです。(東亜古代史研究所 塚田敬章)だから、日数表記も、万二千余里もこだわることなく、邪馬台国の所在地を筑紫平野のどこか(伊都国や奴国と連合するには)に推定してよいと思います。但し文献からではだめで、やはり考古学の発見を待つしかないと思います。
丁寧なご指摘、ありがたいです。さて、1についてホントそうなんです。奴国について最初は私もあなたの言われる説をとりたかった。そうすれば、伊都国からの距離・方角がばっちり。が、吉武高木遺跡を調べてみると(行ったことはないです)、弥生前期~中期とされていて諦めました。また、奴国2万戸、不弥国千戸ですから、広範囲に弥生遺跡が分布している御笠川と那珂川に挟まれた那珂遺跡群~須玖岡本遺跡のあたりを通説通りに奴国としました。比恵那珂遺跡は博多駅方向の遺跡ですよね。ここも奴国に含まれると解釈しました。2についてここが一番の問題点とのご指摘は全くそうと思います。使者が邪馬台国へ行ってない説は、たまにお見受けするのですが、壮大な贈物を持たせている以上、卑弥呼にちゃんと届いたか、そして礼辞の一つも貰ってこい、と言われていたのではないでしょうか(想像です)3についてここは正直よくわかりません。2と合わせて、不弥国から邪馬台国までの距離・方位は分かっているけど、三国志が正史に採用された晋朝時代でもそれは国家機密扱いで伏せたのではないか、それで総計里数を1萬2千余里としたのか、というのが私の解釈です。そして、考古学発見が待たれる・・同感です。
@@これはどうでしょう 吉武高木遺跡へは行った事が無いとのことですが、福岡市が作った吉武高木遺跡(UA-cam)をご覧になりましたか。またはグーグルマップ(航空写真)でご覧になり、ストリートビューで付近の道路から周囲の景色をご覧になれば如何でしょう。付近には野方遺跡などもありいわゆる早良平野地区ですから諦めないでください。近畿説者の様に遺跡があるからと言って、方角を東から南へ勝手に変えるような愚を犯さないでください。更にここから百里東へ行くと南へ水行できる御笠川に行けることは間違いない事実ではありませんか。また御笠川と那珂川に挟まれた地区に7万戸の集落は入らないのではないでしょうか。2について貴方はなぜ里数表示が日数表示になったとお考えでしょうか。3について私は塚田氏説をとっていましたが「測量史研究者の谷本茂氏は、古代中国の数学書『周髀算経』の、8尺の棒を立てて南中の太陽の影の長さを測り、「1寸」長さが違えば「千里」という記載から、1里の長さを76~77mと計算したとあります。」この方法だと影のの長さを計れば、簡単に直線距離が分かりますので、見直さねばと思っています。更に旧唐書に「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、」とあるように前述した信仰的数字ではなさそうです。4現在の考古学の発見からみて一番倭人伝の邪馬台国の情景記述に近いのは吉野ヶ里遺跡ではないでしょうか。
荒木隆祐 さん、色んな知見、アドバイス有難いです。1の続きについて吉武高木遺跡のUA-camを見ました。福岡市作成のものは見つからなかったので、古代史日和さんの動画でした。弥生当時の、国と呼んでもよさそうな広大な遺跡ですね。ただその中の記述でも2000年前に終焉したとありましたので、ここを奴国の中心と置くには少し無理があるのでは無いでしょうか。伊都国からの距離は合うので、ここで奴国に入り那珂遺跡まで進み、それらがみな奴国とすれば収まるように思います。あと、ご指摘の那珂遺跡周辺に7万戸は・・・ですが、奴国2万戸ですので、それ位は想定できると思っています。2について、は、前述した”国家機密だったので”と解釈しています。3の『周髀算経』について興味深いお話です。ここで算出される直線距離は緯度差分のみということでしょうか?76mが1里とすると12000里は912kmになり、帯方郡から南に計ると九州を超えてしまいます。4についてその通りと思います。
福岡平野の中の旧郡が昔の小国だとみれば、それぞれの地域の範囲がイメージしやすいと思います吉武高木遺跡は早良郡で早良川(室見川)流域の国ですね。比恵、那珂遺跡群は那珂郡となります。
@@これはどうでしょう 私もそう考えたこともあります。何しろ奴国は2万戸もあるのですから。しかし、そうなると不彌国へ東に百里とあるのは邪馬台国への順路ではなくなりますね。邪馬台国へは奴国から南へ水行したということでしょうか。
南東500里で吉野ケ里伊都国で糸島は領域国家の一部と考えます 南に水行10日約180キロで薩摩川内邪馬台国で20日黒潮利用で投馬国宮崎と思います
南九州も含む広域・邪馬台国連合、というお考えですね。宮崎、鹿児島については勉強不足で古代のイメージを想像しづらいのですが、今のところの考えでは北部九州とは文化の歩みは同期していない印象です。吉野ケ里=伊都国とお考えの方は他にもいらっしゃるようですが、行程の辻褄以外はあまり合わないのではと思っています。
返信ありがとうございます。7万戸は新田神社の薩摩と大隅があり宮崎にも鉄製作され農具もありますし人口爆発したのではないかと思います
そうですね。宮崎方面が繁栄したのは、4、5世紀以降だろうと思っているのですが、継続調査します(笑)。
前方後円墳は宮崎北部で4,5世紀ごろで宮崎の生目古墳はそれより前と考えられます
あるほど。ありがとうございます。
今の地図でなく、弥生時代の海岸線を再現した地図で見ると、朝倉あたりの川からすぐに海になってますよね。その海岸沿いに南に向かうと山門もあるけど、十日や二十日と書く=実数ではないが虚数的な意味で距離があるという意味の表現だと考えると、熊本くらいまで南下して、そから東に一月(これも虚数。船で一年とか書いちゃうくらいですし)で、東に海があるところまでいくと大分や宮崎も怪しい気はする。あとは筑紫平野、宮崎県あたりにある巨大な古墳群とか未発見の遺跡の調査が進むことを待つしかない。少なくとも『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は九州として読まないと「不弥まであの距離感で細かく書いていたのに、女王国より北以外はよく分からないと書いている記録が、全てすっ飛ばしていきなり遠く東にある畿内に飛ぶ」と考えると、中国や台湾の歴史学者が言うように不正確とはいえ史書として余りにも不自然だと思う。考古学的な調査から山陰山陽や畿内にも大きな勢力があったのも確かだし、畿内のそれが天皇家に連なっていることも確かだけど、『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、投馬国、狗奴国、侏儒国(種子島?)』に限定して考えると、九州以外は不自然すぎる。女王国より北は細かく分かっているとか、東が海になっているとかいう記述も含めて。「水行十日、陸行一月」をそのまま読む人は、船で1年という記述もそのまま日数を信じているんだろうか?筑紫平野、熊本、大分、宮崎あたりをもっと発掘調査して欲しい。
考古学的にみると邪馬台国近畿説がなりたたないことは、長年纏向を発掘調査されてきた関川尚功氏が出版された著書などからも明らかなハズです。ここに論点を置かない考古学者は、エセ〇〇〇〇と言わざるをえません。UA-camでも講演会の内容が見れますので、参考にされてはいかがでしょうか。
ありがとうございます!見てみます!
【南へ水行~邪馬台国に至る】は、総合計の話と解釈できませんか。
そういう解釈も出来ると思います。ただ、この水行10日・・・の記述については過去300年も議論されてきたことなので、ここの解釈は決め手にはならないだろうと思っています。
「魏志倭人伝」のあいまいな記述に惑わされる説は多いですが、帯方郡からの全距離の記述からして邪馬台国は確かに九州にあった。ただ同時に倭国大乱を避けて九州の伊都国の主流が大和に東遷して築いたヤマト王権が勢力を伸ばしていた(崇神・垂仁期)。それに対抗するために卑弥呼は魏に冊封使節を送ったのです。九州勢力はその後も時により中央に反抗しています。私は古代史に興味があり昨年『継体大王異聞』(幻冬舎)を刊行しました。その中に私説ですが、倭の成り立ち、任那とは、神功皇后の伝説、応神天皇の出自、そして継体天皇の謎めいた生涯を創作でまとめてみました。
コメントありがとうございます。伊都国の東遷説も含めて、邪馬台国の時代から継体天皇の時代あたりまでの筋書きが解ければ、日本国の成り立ちのあらましが分かるとも思っています。ただ、この間がジグソーパズルのようで、間違ったピースがあったり、ないピースがあったりと、空白の○○と言われるゆえんですね。古代史マニアはゾクゾクしてる訳ですが(笑)。本を刊行されているとのこと。素晴らしいです。機会あれば読ませて頂きます。
私の本籍は福岡県山門郡大和町字鷹尾でした。
へ~~~~~~、凄い!今は柳川市なんですね。
倭人伝には、邪馬台国は九州倭国から海を合計30日ほど行ったところにあると書いてあります。つまり近畿です。卑弥呼は倭国の女王であり、邪馬台国の女王とは書いてありません。時系列からいって、女王之所都の女王は卑弥呼ではなく、トヨの可能性が高い。
コメントありがとうございます。ただ、その推論からだけでは300年に渡る議論の結論は得られないだろうと、いろいろな人たちが色々な角度から検討、推定しているのだろうと思います。この動画の時点では、ここが最も邪馬台国に近いと思っていましたが、現時点では日田が邪馬台国だったのだろうと考えています。
正しいというより、一番説得力があるように思います。これからまだまだ新しい発見があるかもしれませんが、それはそれで楽しみです。歴史ロマンですね。
私も正直正しいかどうかは分かりません。ただ、考えることは楽しいですね。
確実にわかったら、どのような事になる?
未だにはっきりしない4~5世紀の日本の古代史を紐解く為の、重要な切り口になると思います。
@@これはどうでしょう ありがとうございます!
一生 どこか発表はないけど『熊本県山鹿市』にありました
山鹿に何があるんでしょう?
@@これはどうでしょう 方保田東原遺跡 もう40年くらい前から ずっと全体の2%しか発掘されてません。卑弥呼の神殿は金峰山 不動岩 阿蘇山を点で結んだ中心にありました。丹を産する山=阿蘇山
熊本説の方もたまにいらっしゃいますね。何か根拠が欲しいところです。丹ありだけでは、阿波にかなわない?
筑後川宝満川沿いで考えれば山門町瀬高町菊池市阿蘇山宇佐市臼杵市辺りじゃないでしょうか?まだまだ見つかってない遺跡があるんじゃないでしょうか?
まだまだあるぞ、と期待したいですね。大規模発掘のきっかけは、新幹線や高速道路、というあたりが常道だと思いますが、それ以外でも今後に期待です。
熊本の菊池川流域の方保田東原遺跡はまだまだ全体の2割引ぐらいしか発掘調査されていません。この2割だけでも鉄の出土量が西日本随一です。この遺跡が邪馬台国時代と同じ時期というのも将来の発掘ヘの期待が待たれます。個人的には邪馬台国と対立戦争した狗奴国ではと考えています。故にとても邪馬台国奈良説はあり得ません。ただ国策で奈良集中にしたいだけでは。
+陸行1ヶ月で、宇佐でどうでしょう?
この頃の推定と違って、現時点では宇佐はあると思っています。私の(今の)筋立ては水行10日で宇佐に着き陸行1月で日田に入る、というものです。
旅程が途中から距離ではなく日数になったのは、実際にそれだけの日数を費やしたからに思う。体幹的な距離感(一日50里だとか)を換算して記録しとしたら、同じ換算方法では距離を示せなくなるくらい進行速度に差があったら単純に日数を記録するしかない。ただ私は可能性として複数の報告書を適当に纏めたから単位が変わったと考えもしています。断りもなく単位を変えてしかも2か月分の旅程があるのに日数しか記録しないのは報告書として変ですからね。不弥国は大宰府の辺りで外務省的な渉外対応をする政府の出先機関だったとしたら、外交目的にやってきた魏の役人は首都まで行く必要はない。倭国が楽浪郡や帯方郡までしか訪問しないのと同じ理由です。過去に女王国に行った報告書があり日数で書かれてたものを史書として書き写して済ませたという考えです。この場合近畿説(2か月の旅程なのでもしくは近畿より向こう)になりますが。
そういう考えもありだと思います。ただ、その場合近畿説になる理由が分からないです。
@@これはどうでしょう 二カ月にふさわしいとなると向うの方かなという程度の意味です。
了解しました。近畿よりも向こうの可能性も出てくる、と解釈します。
日本に上陸してから、距離じゃなくて日数になるのって、使節団に対する歓迎行事のせいじゃないですか?公式訪問なら、それ相当のセレモニーがあったと思います単なる紀行文じゃなくて、報告文書なのですから、何日滞在したのかって重要ですよね
コメントありがとうございます。その説は長浜浩明氏の説として聞いたことがあります。そうした矛盾しない解釈も、推定には必要なのだと考えています。
邪馬台国って1箇所なんですかねぇ。現在の日本の都道府県のように各地に都市があるはずだと思いますが、首都と考えると1箇所に限定されるとするべきなんでしょうかねぇ。海外との交流も考えると、攻めこられることも考慮して、あえて大陸の人間に正確な場所を教えなかったという可能性は誰も考えないのでしょうか?
「あえて大陸の人間に正確な場所を教えなかった」という考え方。私も最近考えるようになりました。「水行十日陸行一月」はこの動画の時点では長浜氏の考えにならっていましたが、あえて正確に伝えなかった可能性もありますね。
@@これはどうでしょう さんその可能性も高いですよね。古代だからと軽く観る傾向がある古代史ですが、脳の発達はさほど変わらないはずなので、頭の使い方は、時代が変わろうと現代人に近いはず。違うのは環境と世情ですので、例えば縄文人の子供が現代に現れたとして、私達と同様に成長し、現代人と遜色なく車を運転し、科学に接したでしょう。そう考えるならば、当時の国内の様子だけでなく、大陸の情勢もタイムラグがあるとしても入手しているはず。海外からの脅威は理解しているはずなので、そこに【駆け引き】がうまれるのは必然と考えます。
同感です。現代人は過去からの知識を蓄積しているだけで、個人の本来の能力は大したことないかもですね。
私は、官名からして軍人と目される魏の使者 張政が伊都国や不弥国まで来て、邪馬台国連合が首都を教えないとか地理を教えないと言うのはあり得ないと思う。張政は、卑弥呼からの狗奴国との戦闘が本格化したとの報告に接し、倭国に来た。冊封体制とはいえ軍事同盟であるが、当時の支那の軍船では東シナ海を航海するのは自殺行為だし、コストを掛けたく無かったのかもしれないが、史書を見る限り張政ら軍事顧問団だけ来たのだろう。基本的情報さえ渡さない相手と同盟など組めるかね?もし、仮にそんな事をしたら、撤退するし、同盟も解消だろうし、敵になるだけだ。そんな事をして何のメリットがあるのでしょうか
曖昧と言ってもさすがに近畿までは行かないでしょうと思ってしまいます。曖昧とはいえ、九州付近だと感じるのが自然かと、それよりその後邪馬台国がどうなっていったのが気になります
当時の西日本の国々の状況を想像してみると、畿内に九州が統治されていたと考えることは出来ないですね。おっしゃるように私も邪馬台国のその後には大変興味があります。
セニョール!名推理!写真の倭人伝が20世紀初頭の張元済の百納本と推定できると思いますが?元々断片しか発見されてませんから仕方ないんですけど。(笑)人物伝から推察した場合、本当に親魏倭王の印は製作された文献があるようです。制作制限・禁止されている器具と表現されていますが。正規工房で制作されたようですが、正規のプロセス・魏朝の指示が無いのに作成された可能性があるのかな?なので、文献が正しければ親魏倭王印は、存在するのかも?そんな事できる人は、そうそういませんけど(笑)卑弥呼の動きがあまりにもタイムリーですし、半島から北部九州が整合性高いですね。ただ、この写真の倭人伝は張元済の解釈・追記が入っている可能性があるかも?しれません。
畿内説の方々は、水行10日陸行1月なれば大和だ、と言われますが、往復2か月かけて国の大事を占ってもらっても、「タイムリー」には意思決定出来ないと思いますが、ね。写真の倭人伝は吉野ヶ里で撮影したものです。
@@これはどうでしょう セニョール!同感です。聖徳太子の弟殿下が築紫~斑鳩 間2ヶ月と文献ありますね。魏志は、禅譲の正統性を示す文献。本来は倭人伝は、必要ありません。何故?倭人伝を挿入する必要があったのか?答えは、曹爽のクーデターを阻止して、曹操の子に戻した功労者・司馬懿・司馬師の功績の話を伝える為でしょうね。曹爽は、曹真の子で曹操の兄弟の子。血筋が違います。母丘倹も曹真・曹爽の派閥。曹丕時代に派閥が拡大したんでしょうね。そのクーデターの始まりの時に倭人が来た。司馬師は、環夫人の曹據【曹拠】を後継者に擁立していましたが、曹爽が反対し幼帝・曹叡となります。環夫人の三男・燕王・曹宇と曹叡は、とても中が良かったそうです。曹拠は、魏帝になると考えて独断で金印を造らせ倭人に渡した。魏志の記載を誰かが、変更していますね。裴末之かな?曹爽が曹操の系統で無い事を知らない人が変更した可能性がありますね。司馬懿がクーデターしたように、語る人がほとんどですが、司馬懿・司馬師が曹操の子供達に魏帝の座を戻したんですけどね?この情報知ってれば、倭人伝論争は、新たな局面を迎えるかも?(笑)セニョールに1番目にコメントします。木曜日の夜に到達した話です。
魏の使節団の目的は北部九州(邪馬台国)の文化等を調査する事。行き方の説明は邪馬台国の中心地の不弥国まで投馬国は鹿児島の薩摩魏の使節団は卑弥呼が耳納山地の山奥に居たとして面会出来ない事を理解している
コメントありがとうございます。私も最近、その「耳納山地の山奥」とも言える日田に卑弥呼が居たのではないか、と考えるようになりました。それを古代史の最新話で紹介しています。
訂正します。投馬国は、とうまこく ではなく つまこくですね。不弥国から南下して山門国の間に 投馬国がある訳で現在の久留米市が古来より物流の中心地であり、久留米市の古い地名は、みずぬま~水間~三潴国でした。三潴国を調査団は、みづまから つまこくと聞き取ったのかもしれません
そうかも知れませんね。投馬国については、正直よく分かりません(笑)。
推論は正しいと思います!距離は帯方郡から一万二千里・ぴたりですね・山門の権現塚古墳は丸墳で卑弥呼の墓の可能性が高いですね!南は東の誤りであるなんて信じられない解釈ですね!箸墓は前方後円墳なのでありえないですね
権現塚がそうだったら、ズバリでカッコイイですけどね。
「樫原敏之」という方が、TVにてを用いて、帯方郡の東南への直線距離&揚子江口から真東への直線距離を引用し、各円周の交点を求め「阿波にヤマトがあった」説を裏付けています。各国の配列もそれとなく裏付けています。 「難」があるとすれば「狗奴国」=高知としているのですが、各距離を測る際、高知県の南側を含んで説明している点です。 自身も「旧い記述には誤りが生ずる」と学生の頃思っていましたが、他史の編纂過程を知ると、現代人が思うより「厳密」に踏襲して記述されている(書記という職の責任性)・ということに傾向しました。なので三国志等を編纂する際にも、文字列の記述を安易に誤る可能性は乏しい・と考えます。 また中華には地震計等の進んだ測量技術等もあったようですから、方位・距離も安易に誤るようには思えません。 ●ひとつ気になるのは、当時の地理感自体が誤っていた・ということにあります。 現代地図でも上=北、下=南・・と既存概念を保持していますが、この地図自体が誤っているとすれば、当てはめる情報処理に誤差が生じます。 <<これが今の「?」です。実際中世の朝鮮では「対馬」と「壱岐島」は同等の広さで、×2倍が九州の広さ・かつ南・南・南(安易に真下直行です)となっています。東国も畿内あたりまでは、けっこう細かく載っていますが、以東は小範囲でかつ東北北部も東に位置しています(北-上-に伸びていない)。北海道は(無く)小島群になっています。 土地勘自体があやふやです。こんなふうの情報に、現在の日本地図を当てはめても、ピッタリ・はどうか?と思うのですが・・・【古代史探索の旅Ⅱ】やはり、日本の旧い先人観に着きましたね。 お疲れさまでした。 次「これはどうでしょう」第1話いきます。
古代中国には漢の時代から、渾天儀という大がかりな天体観測機が発明されていて、その土地の緯度・経度を計ることができたのだそうです。以前に阿波説の方とのやりとりの中で勉強した時の知識です。ただこれの計測には正確な時計も必要でもあり、また、根本的に、このような国家として重要な精密計測機を阿波の地まで舶載する許可が出るとは思えません。もしそういう活動が古代にされていれば、先の中世の朝鮮の地図のような事にはならないのだろうと思います。東阿波ケーブルTVの特集には何本か面白い?動画がありました。
水行20日もかかりますかね?川下るのに。
投馬国、邪馬台国、水行、陸行のくだりは難解ですね。長浜さんのように諸国連合に立ち寄る説もあるでしょうし、帯方郡からの総日数という見方もありますね。最後の行程は正確には書かない、という思惑も感じられます。この情報からは位置決め出来ない、というスタンスをとるしかないと思っています。
@@これはどうでしょう このあたりの日数で徳島か四国、または大穴狙いで徳之島にしてます。九州地方の吉野ヶ里公園が邪馬台国ヤマトなのですね。昔、修学旅行で行ったことあります。お城みたいでした。
どうなんでしょうね。
親魏倭王の金印は、どこかの天皇陵墓にあるのかなあ?
確かに卑弥呼の後継一族が東へ向かったとすれば、それもあり得ますね!
南へ水行二十日・・・とあるのは、男王の居る『ヤマト王国』の事を意味しているのだと私は推測しています。
ヤマト王国⇒邪馬台国、ということですね。
ここから何里とかそれは、わざと遠く書いてある!ちなみに、南九州説派です!卑弥呼の時代、金印を貰ったのは、卑弥呼と、大月国(中国のずっと西に1700里?17000里だったかな、、、それよりは邪馬台国を遠くに書かないといけない理由があるから)わざと、大袈裟に書いてあるw皆既日食や入れ墨からして九州説だと思う
根拠はたくさんありますが、九州で間違いないと思います。
現代の地図上の距離(あるいは実測値)と東夷伝記述の里呈記事との間に矛盾がなければここまで数百年間、諸説紛々とはならなかったはずである。今、方位を考えないで純粋に距離だけを現代の地図で観ると直線距離として例えば北京ー平壌が800㎞、平壌ーソウルが200㎞、ソウルー釜山が400㎞、釜山ー対馬110㎞、対馬ー唐津185㎞、唐津ー糸島30㎞、糸島ー博多30㎞、博多ー飯塚35㎞、などとなる。筑紫を糸島とすると現代の地図上では糸島ー釜山は凡そ300㎞である。ところが、帯方郡(ソウル)ー釜山は400㎞であるから帯方郡ー糸島が700㎞、ということになる。糸島から先は女王国の位置がが決まらないと距離は出ないが、投馬国ー邪馬台国のところには方角だけ記していて距離は示していない。さて帯方郡から半島の西側を狗邪韓国まで船で南下したのだが、これには7千余里と記述されている。現代の地図上の直線距離では400㎞を7千余里と記述する感覚と、狗邪韓国(釜山と観て)ー対馬の直線距離11O㎞を千余里と記述しているところに距離的な矛盾を感じざるを得ない。両方とも船で南下したのに変わりないのにである。
ご指摘のように魏志倭人伝の中の里数記述の不正確さで、国々の比定がなかなか解決しないという一面はあると思います。一方で、「そこそこ合ってる」という姿勢で読んでいけば大きな矛盾なく邪馬台国へ行きつけるのでは、というのが今回の動画の大意です。ご指摘の数々の実距離についてのご検討は、直距離だけなのか、経由距離を含むのか一貫しておらずよくわかりません。帯方郡・狗邪韓国間の7千余里は、「郡より海岸に沿って水行し7千余里で狗邪韓国に到る」とあるのでそのまま受け取られればよいかと思います。直距離とは記述されていません。
「陸行一月」と言うのは、陸路を一ヶ月かかって進む“距離”を表しているのではなく、単に「一ヶ月かかった」と解釈すればいいのだと思います。脇目も振らず一ヶ月間行進し続けるなど現実的ではありません。恐らく、各地で接待を受けながら、数日間滞在したりもあったでしょう。現代で言う「1週間旅行に行ってきた」と同じです。世界1周したのかも知れないし、隣町の温泉でずっと滞在したのかも知れないし。「陸行一月」に距離を当てはめるのは意味がないと思います。なので「陸行一月」は無視していいと思います。矛盾ではありません。
なるほど同意です。水行十日陸行一月は、奈良へ連れて行く唯一の根拠ですが、そこが無意味となれば九州から出ることは出来ないですね。
邪馬台国のヤマト国と発音し、奈良県の指しています。 大和政権が形成されていて神武天皇以降から現在の第126代今上天皇に継承されています。
そういう考えもありますね。
素晴らしい動画ですね私もこれが正しいと思います。里で示されていた経路が日で示されることになったのは、邪馬台国側からもてなしを受けながら進んだからだろうと思います。
ありがとうございます。距離を秘匿する為という考え方もあろうかとも思いますし、道中のもてなし説もありえますね。
松浦から東南500里方向は明らかに吉野ケ里を指すと思う。今より海進状態だったはずでそこから水行で有明海を進んだと思う。そうすると熊本中南部の山都町あたりではないか?
そう考えたいところは私もあるんですが、そうすると伊都国、奴国の整合性が付きません。ちなみにですが、熊本県山都町の名前の由来は、公募による命名だと聞いています。
山都町が公募名だということは知りませんでした(;^_^A)。 ただ熊本の中南部ではないかとは考えています。奴国の件は確かにイメージとして位置的に合わないですね。
この時期の熊本県内の隆盛地域は中部と北部の平野部だと思われます。山都町は熊本県中部の山間部になりそうですね。
@@これはどうでしょう そうですね、女王他一部の人の居館(王館)は山間部にあったというイメージがあります。クニとしての支配地は熊本の広い平野部におよんでいたんじゃないかと。
女王達の居館が山間部にあったとのお考えは、私も同意です。ただ、卑弥呼の時代の考古資料を総合すると、福岡平野~糸島平野~唐津平野~筑紫平野を中心とする北部九州一帯の連合と、熊本地方には隔たりがあるように思います。→ua-cam.com/video/GZz0WhT6ouk/v-deo.html
ナレーションの声に騙されそうになります。
久々のご登場ですね。是非騙されてください。第5話でも・・・(笑)。
耶馬渓、山国、英彦山、みやこ町、宇佐神宮などがある様にそちらが邪馬台国であろうと感じています。卑弥呼はそちらより来られヤマトの国を統括した女王であろうと。その女王(役職)は仲哀天皇の后さまです。山門と仮定されたのも大和政権があったのはそこで間違いないと思います。つまり、ヤマトの国と邪馬台国は別けて考える方が頷けるかと。幣立神宮を含む大きな範囲がヤマトの国(山門)でしょうね。ちなみにその時期は海水面が上昇していたと思われますので水行でもう少し遠くに行けると思われますし、内陸の河川の水位も上がっているので船での往来は容易かと思います。ミヤマは、御山であり、御の字は高貴な方にしか用いませんからミヤマは皇族が居た地域ですね。別の話ですが、平家が落ち延び晩年住まれた場所の地名も御(五)が付いています。遠賀川もかつてその時代は御神川であり英彦山より流れる随所に猿田彦が祀られ上流には邇邇芸さま、下流は内海の肥沃な土地がありその周辺は八剱神社が点在しています。もちろんその側に宗像大社もあります。この辺が高天原であると推測しています。大任町には出雲神社がありシジミが有名なのも不思議ですよね。どなたかが言われていた沖縄の話ですがそちらにもルーツがあるのは間違いありません。何故ならその時代航海術に長けたものが必要ですので。山門の話、長年心に痞えていたものがストンと落ちました。ありがとうございました。最後に個人的な希望ですがイフヤサカは飯塚と思っているのですが機会があればその仮説を立証して欲しいです。
私の知識を超えたご見解、なかなか返答できずにおります。なれど、大和の国の生い立ちなる地があるのか否か。興味あるポイントですね。
@@これはどうでしょう こんばんは。以下はあまり言えない話なのですが、一部の九州の神道における宮司さまクラスでは口伝による内容です。宗像三女神はある姉妹のお子さんでありその父は国津神の祖でございます。またその姉妹はいわゆるヨミの国に流された死の国の媛であり、八、九の字を以て現世に残ります。これ以上は此処ではお伝えできませんのでお察しください。ちなみにこの話は稗田阿礼、柿本人麻呂の記述と、私のHNの産土のルーツを探り、兄の建に導かれた気付きです。高天原がどこであろうとヤマトの国が何処であろうと邪馬台国が何処であろうと其れはどうでも良い話かと存じます。人が人でありその祖がある事で今の日本がある事を幸せに思います。本当に良い動画を作られていらっしゃいますね。これからも頑張ってください。応援させていただきます。ただの神さまフェチの戯言ですのでお気になさらず。チャンネル登録させていただきました。失礼します。
私など知ることもできないお話をありがとうございます。これからまた、あちこちを訪問させて頂く時の道しるべとして、記憶させていただきます。それまでにも、自分なりに考えてみたいと思います。
邪馬台国があったのは間違いないですが今、ロマンと言う感情で想うのはどうなのかな、と考えます想うほど大きくはなく、ほぼ朝鮮半島人、九州北部への渡来人コロニーだと思います中華、朝鮮からすると日本列島の入り口、その国の窓口とみなされる地域だとすると最初はその国の全体として見るでしょうが本州には比較にならない人がたくさん勢力が居て、、、と言うことです単に、それ以前に日本にいた人の国とは別の集団であることにより勢力的に弱体し消えた、消されたと自然に考えたほうが全く自然です畿内説、日本の起源とすり合わせるのはナンセンスです歴史的には一瞬のその地域の出来事でしょう歴史を消されたと言う表現は残酷ですがその通りだと思います男系の天皇の一筋を国として固定してきた歴史からして畿内説はナンセンスです列島の九州北部の小さな国があったそれだけです邪馬台国がはっきり分からないのでロマンなんでしょうが歴史的には一瞬の小さな出来事ですそれより大きな勢力が居たので当然統一、統括され無くなったと言う流れでしょう
そのお気持ちは良く理解できます。ロマンは人それぞれですからね。ただ多くの人がこの歴史の謎を解きたいと思うのには理由があります。それはある意味では、「歴史的には一瞬のその地方の出来事」なのかどうかが分からないから、とも言えます。大和朝廷が最初に九州勢と相対したのが6世紀の磐井の乱ならおっしゃる通りなんですが、記紀の記録でもそれ以前に大和と九州の関わり、攻防が多々あり、そもそも大和王権の出自が九州と記されている訳ですから、邪馬台国が北部九州にあり、その後どういう勢力がどうなっていったかは、日本の古い生い立ちの中で大事な視点だと考えます。ちなみに今の私のロマンは、7月から再開されるF1でのホンダの活躍です(笑)。
大変恐縮ですご反応ありがとうございます
私も長浜氏の説が正しいと思います♪
賛成1票、ですね(笑)。
東京大学→九州説、京都大学→畿内説なんて学会の偏屈振りが分かる😂😅全くのナンセンス😮
パリピ・孔明♪でませい\(^o^)/
パリピ孔明いいですね、 ・・知らんけど(笑)。
首都は昔から西から東へ移動してますので…多分ですが…⁇九州北部で間違いは無いと思いますが…邪馬台国を結露づけるのを出土させるのが1番早いと思います。議論はあくまで空想の産物なので、想像より現物だと思います。
その通りですね。期待したいです、いつかの日に。
私も邪馬台国は北九州にあったと思います。当時の中国は短里を採用していたと思います。ただ卑弥呼なきあと、壱与がどうなったかが興味のあるところです。
ありがとうございます。壱与・・そこですね。大きな謎は。記述が多くは無いので、他の観点から攻めて答え合わせをするしかないと思っています。
面白い動画でした。私は卑弥呼は景行天皇の姉妹であった「倭姫」じゃ無いかと考えています。倭姫は「日の巫女」であったし、甥の日本武尊の東征で東海の勢力と戦争していました。そして景行天皇の次々代の仲哀天皇の御代で越より輿入れされた神功皇后と共に北九州、半島南部を平定されたと記紀には記されています。神功皇后も巫女で神託により三韓征伐を行い、魏に使者を送った事も記されています。魏志倭人伝と記紀の内容をすり合わせると個人的にしっくりくるんですね、邪馬台国は畿内の河内の辺りにあったんじゃないかな?って考えています。
勉強不足ですみません。神功皇后が魏に使者を送ったという記述がどこかにあったでしょうか?
@@これはどうでしょう さん日本書記だったと思います。「魏の史書によると」って前書きがありますが。編纂時に大陸の史書を参考にしたとも考えられますが、なんの根拠もなしに国史に書く事も考えられないです。勿論日本書記は大和朝廷側の史書なので、他の王国の功績を横取りした可能性も否めません。もしかしたら九州と本州とで本家合戦してたかも知れません。四国も入って卑弥呼様が3人いて三つ巴やってたかも知れませんね。
神功皇后が魏に使者を送ったという記述だったでしょうか、という質問なんです。
@@これはどうでしょう さんはい、日本書記にはそう記されていますよ。神功皇后摂政39年(239年)魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)神功皇后摂政40年(240年)魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)神功皇后摂政43年(243年)魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)神功皇后摂政66年(266年)是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)wikiからのコピペですけど、こう記されているとの事です。
@@oniwakamarukumano8328 さん了解しました。これの主語は、倭女王ですね。内容は、魏志倭人伝を転記した文面です。
大同江河口からだと水行の記述がぴったり。
そういうこと、ですか!
フミ国から水行30日、そこからさらに徒歩で10日間・・邪馬台国までの距離約90km・・歩いたほうが早くないですか?どんなに遅くても一週間くらいで着きませんかね?逆に考えると、もし90kmの距離を進むのに40日もかかる所に邪馬台国があったなら不便すぎませんかね?大陸から鉄の輸入もしていたと思うんですけど、重い鉄を船で運んだとしたらこの水行ルートで運んだことになります40日かけて・・別のルートで輸入していたら話は変わりますが、そうなると今度はこの水行ルートの仮説が成り立たなくなる気がします。古代の事なので現代とは事情が違うのかもしれませんが、九州北部説ではこの辺がいまいち納得できない感じがします。
「水行20+10日、陸行1月」から、北部九州説は出て来ません。この期間あれば、瀬戸内、近畿、東海、北陸とどこでも行けます。だから第3話で邪馬台国は北部九州にある、と確定した訳です(もちろん私の考えですが)そしてその上でこの「水行1月+陸行1月」は、使節団の遅さ、輿の行進の遅さ、或いは不弥国からではなく帯方郡からの総期間などと解釈している訳です。しかし、別の重要な見方もあると思っています。当時、不弥国までは半島の対岸の、よく往来している国々で、その場所の機密度は高くなかったハズです。一方その先の投馬国、邪馬台国の位置情報は、当時呉と対峙していた魏、西晋にとっては機密情報だったハズで、先のように、「水行20+10日、陸行1月」のような記述にした可能性があることです。まさに、「ミステリー」ですね(笑)。
これはどうでしょう たびたびコメントありがとうございます。なるほど!トップシークレットだったとしたら、曖昧に書いているのも納得です。いろんな方に同じ質問しましたが、初めて納得出来ました。ありがとうございました
耶馬台国には中国の人が実際に行って記録したものではなく、聞いた事を書き止めたものでしょう。マルコポーロが東方見聞録で日本を黄金の国と述べているようにです。
そうかも知れませんね。私もそう思っています。
魏志倭人伝の中に邪馬台国は会稽東冶の真東という記述があります。それからすると南九州の方が当てはまります。また楽浪郡から万二千里と言うのが日時計による緯度差の距離だとすると、それからも南九州の方が当てはまります。さらに、投馬が殺馬(薩摩)の間違いだとすると、不彌国から水行二十日は妥当だと思います。薩摩から水行十日あるいは陸行一月は、西都原遺跡の辺りではないのかという案はいかがでしょう?
早速のコメントありがとうございます。動画中に言っておりますが、北部九州では無いとおっしゃる場合は、是非第3話のご視聴をお願いします。・・「楽浪郡から万二千里と言うのが日時計による緯度差の距離だとすると」についてですが、帯方郡から狗邪韓国を始め、魏志倭人伝の行程に記載されている里程は緯度差ではありませんので、この仮定は成立しません。「○○が○○の間違いだとすると」という仮定は、何がしかの根拠を示すべきと考えます。つれない返答でごめんなさい。
古代中国宮廷の速記者は、草書崩し文字とすると、私も投馬は殺馬ではないかと。現在のサツマ町辺り、怪しくないですか?
繰り返しになりますが、薩摩は北部九州ではないので、違うと思っています。草書体での間違探しの手法も間違ってはいないと思いますが、間違いを仮定するときには何かの根拠が無いと説得力を持たないのではないでしょうか。
投馬までの水行二十日と邪馬台国までの水行十日あるいは陸行一月をどう捉えるかですよね。これを真面目に捉えると北部九州は近過ぎます。一理を60mで計算すると、楽浪郡から万二千里はほぼ南九州までの緯度差の距離になります。
@@osamakeiko さん、そう言う訳で緯度差ではないと思っているのです。
楽しく拝見させて頂きました。邪馬台国論争、また盛り上がってきましたね。少なくとも方角がおかしい近畿四国はないでしょうね(笑)個人的には歴史都市伝説チャンネルの熊本北部説かなぁと思います。ua-cam.com/video/KG5bq_uRAAw/v-deo.html
コメントありがとうございます。熊本県北部も、比定地としてありうるとは思っていますが、この地は狗奴国に比定するのが最適ではないでしょうか。
糸島市が読みから伊都国っぽいですが、末盧国唐津市から糸島市へ海沿いを陸路で行くのは方角も含め不自然かなと思います。狗奴国は熊本県南部の球磨郡あたりというのが私には腑に落ちました。
伊都国への陸路ルートの不自然さは自覚しています。ただ、伊都国、奴国が残した遺跡、遺物の数々は、この地で疑いようがありません。文献でも古代に怡土(いと)でしたし。一方で人吉辺りが狗奴国だとすると、勢力的に北部九州の邪馬台国連合と対峙することは出来ないと思うのですが。
そもそも、方角を間違えるようでは、旅はできないので、方角誤りはありえない。
台湾の大学教授の論では、途中物忌みの為に休む事も多く、日程イコール距離とは言えないそうです。軽々に日程記事から距離を推定するのは、やめた方が良いかとおもいます。
確かに休みが入る日程もあり得ますね。ところで、日程記事からの距離推定とは、どこをさしておられるのでしょうか?
@@これはどうでしょう 様 言葉足らずで申し訳ありません。これはどうでしょう様のおっしゃった訳ではございません。一般的に日程記事から距離を推定しようとする論考が多いので、付け加えてしまいました。
了解しました。そういうことだったんですね。こちらこそ思慮不足で失礼しました。
四国説が有力だと考えます。辰砂の産出が根拠です。北九州は倭国大乱以前の首都でしょうが、自分が為政者なら外国の勢力が近過ぎて危険だと判断するでしょう。
その山に丹有、は倭国の説明とも言えるので、四国説の根拠にはならないと思います。青玉は越の国でしか採れませんし、真珠も含めて倭国で採れる貴重な品です。中国でも超貴重な丹、青玉が採れる場所を、簡単に魏の使者に教える訳はないと思うのですが。
そのような意味合いだとしたら其山という記述にはならないでしょう。しかも其の地には牛・馬・虎(とら)・豹(ひょう)・羊・鵲(かささぎ)がいないのです。
遠く離れた中国で、何処かの山を限定して「其の山」を記述しているとは到底思えませんし、徳島で青玉が採れた訳でもありません。牛馬・・・はどこも居ません。
到底納得できませ〜ん😆結論から言えば、魏志倭人伝だけで邪馬台の位置を比定することはそもそも無理なんですよ。少なくとも投馬国と邪馬台国の位置は記載されておらず、推測するしかない。そしてこれが論争の原因なんです。動画内の朝倉を有力とするなら、興味があるので次を教えてください。1) 末路国上陸のところ、水行すればいいところわざわざ時間をかけて陸行させる合理的な理由は何ですか?2) 陸行一月で移動できる可行範囲をどのくらいで見積もっているのですか?3) 女王の国は東側が海に面しているのですが、そのことについてどう説明されますか?4) 朝倉のこの邪馬台連邦は、その後どうなったと考えてますか?
推測するしかないので、私のような推論も存在する。おっしゃる通りです。ただ、到底納得できない私に対して、興味があるから教えてくれとは、いかなる御心境なのか計りかねます。また、動画の内容からお分かり頂けるように、私は朝倉を有力地とはしておりません。
@@これはどうでしょう あなたが推論したんでしょ?そう推論するに至った根拠があるんでしょ?私はそれを質しているだけですよ。自分の推論を披露したとき、異なる考えの人から反駁を受けるのは当然のことじゃないですか?それに対してきちんと説明すべきなんじゃないですか?その結果、自分の推論について確信を得てもいいし、修正してもいい。自分で投稿した動画の内容についてですから、説明できないわけないでしょ?むしろ、自分の推論を披露する機会なわけですから得意になってやれるんじゃないですか?では、改めて質問に対する説明をお願いします。
そういうご主旨でしたか。失礼しました。「朝倉を有力とするなら・・・」というところで、誤解しておりました。批判コメントはもちろん歓迎です。おっしゃるように、これで新たな知見に繋がることも多々ありましたので。で、1)~4)についてです。1)一つには、伊都国の所在地が少し内陸部にあった為だろうと思っています。そして伊都国には帯方郡の使者も常駐していたので、ここから輿に乗って日向(ひむか)峠を抜けて奴国に入って行くパレード的な陸行ではなかったかと推察しています。2)陸行1月での移動距離の推定値は私は持っていません。参考にさせて貰っている長浜氏のこの陸行についてのお考えでは、当時の輿付きの使節団の行進の遅さを指摘されています。3)女王連合国は北部九州一帯だと考えているので、当然東側は、周防灘から豊後水道だと思います。4)は、朝倉ではなく邪馬台国連合のその後についてのお尋ねと思いますが、これについて色んなご意見が世の中にある中で自分の意見を持てないでいます。最終的に日本国の朝廷となったヤマト王権の生い立ちの様について、確信を得た上でこの課題を推定したいと思っています。
@@これはどうでしょう ご説明ありがとうございます。以下、所感です。読み捨ててください。1) について1.水行の方が早楽なのに、有明海まで回航しない合理的な理由は何か。貴推論の邪馬台の位置では合理性に欠けると思う。2.末路国、伊都国の位置が疑わしい。魏志倭人伝の記述と地名のよみだけでは特定するだけの根拠が弱い。3.パレードは大勢の人の前で一瞬行うもの。そのために延々と陸行する必然性はない。2) について1.陸行一月は、道悪、輿を加味したとして、楽々300キロは見積もれるであろう。つまり、魏志倭人伝の行程はあてにならない。これを根拠に国の位置を比定すること自体が無謀である。3) について妥当。ただし、女王の国が、邪馬台連邦全体を指すのか、邪馬台国単体を指しているのかがわからない。4) について後段同意。魏志倭人伝のみを根拠に邪馬台国を比定することは無理であり、こじつけにならざるを得ない。日本書紀や纏向遺跡などを含めた総体的な日本建国のストーリーの中で邪馬台国問題を考察するのが適当であろう。以上
私も所感です。読み捨ててください(笑)。1)-1 当時、長崎県西岸地域、海域が邪馬台国連合の統治外だとしたら、そちらの航路は選択できないでしょう。無人地域だったとも思えませんから、航行の便宜は期待できない、という理由です。-2 伊都国は王がいた証のある遺跡も複数残っており、平安時代でも「いと」と言われていた国なので、間違いないでしょう。末盧國は、伊都国の位置と魏志倭人伝記述から推定できます。-3 パレードはオマケのような想像ではありますが、当時の輿の行進のお話を長浜氏があちこちでされています。参考にしてみて下さい。2)-1 陸行1月は国の位置の比定に使えないと思っているので、私も使っていません。3)はその通りです。4)については、少し誤解があるようです。私のその考えは、邪馬台国以降の国内のあり様の話で、邪馬台国自体は北部九州で間違いないと思っています。根拠は、第3話の動画の内容や、コメント欄で回答に書いております。間違っても、纏向に邪馬台国はなかった、と思っています。
私も同じ結論です。卑弥呼のいた国は博多から川を登って久留米方面に出て再度筑後川にいたるどこかだと思ってます。防衛にも交易にも向いていて筑後川の恵みや稲作にも適している好条件。当時の佐賀平野がどうだったか解りませんが佐賀平野まだ入れると広大なマホロバとなります。
ご賛同頂き、嬉しく思います。筑紫平野のどこかであることは、かなり確率高いと思います。おっしゃるような好条件を満たしているところは、日本中では他にあるかもしれませんが、伊都国の南、狗奴国の北に位置する邪馬台国は、ここでしかあり得ない、とも言えると思います。
大阪の者です。よく夢を見るのですが、福岡から南の久留米方面辺りと思います。
漢委奴國王金印出土處,應該是真實可信的!
本物ですね。私もこの目で確かめました(笑)。
「(末盧国から)東南に陸上を五百里行くとイト国に到着する。」末蘆国東南陸行→500里伊都国に到着する。ここで、東に水行して着岸そこから東南で平原遺跡ですか?この時点で、魏志倭人伝の記述の東南・陸行を東・水行に曲解しています。ここで12,000余里ー10,700里=1,300余里ですか?12,000余里ー11300余里=700余里ですね。魏志倭人伝と矛盾があると云われていますね。「南、投馬国に至る。水行二十日なり。」「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。」使節団の進行の遅さで説明など出来ないですね。(長浜浩明説は全くはお話になりませんね。)前段においても、自ら矛盾点を創り出していますね。魏志倭人伝の記述の東南・陸行を東・水行にしています。「帯方郡南、投馬国に至る。水行二十日なり。」「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」と読めばなんの矛盾もないですのに。(ここだけは、水行10日陸行30日基本(速度3/1)陸行の3倍が水行3:1とする)帯方郡から不弥国12,100里で一旦終了。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」で何の矛盾も生じないです。(短里70m-72.3m-76.0m)大差なし。帯方郡から末蘆国11,400里(798km-866.4km)+不弥国700里(49km-53.2km)=12,100km(847km-919.6km)=「郡より女王国に至るは、12,000余里(874km-919.6km)なり。」正解です。
曲解、末蘆国を出て進路を曲げて伊都国に着いているので、正に「曲解」ですね(笑)。冗談はさておき、実際私は、唐津を出た後一旦北東へ水行し、深江か加布里辺りに上陸。その後東もしくは東南に陸行したのだろうと思っていますので、そのことが陳寿にどう伝わったかは分かりませんが、省略されて「東南陸行五百里」となったのだろうと思っています。ここまでの行程記述の方角も距離もざっくりしたものですから、そんな解釈も成り立つだろうと思いますし、遺跡、遺物、地名から想定できる、「伊都国=糸島説」を動かすに値しないと思います。ところでペンちゃんさんは、女王国=不弥国ということだったでしょうか?それはそれで否定も出来ない面白い説だと思いますが、+800里、+600里説以外に根拠は無いですか?
@@これはどうでしょう さんへ。女王国=不弥国ということだったでしょうか?それはそれで否定も出来ない面白い説だと思いますが、+800里、+600里説以外に根拠は無いですか?ですが、女王国=不弥国=邪馬台国の根拠は、①郡より女王国に至るは、12,000余里(840km)なり。」②帯方郡から末蘆国11,400里(798km)+不弥国700里(49km)=12,100km(847km)③「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」帯方郡南→水行10日(1200里*0.07km=84km/d)→陸行1月(30日)(400*0.07=28.0km/d)[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=400里 水行 1 日=40 0里×3=1200里=28.0km×3=84.0km 帯方郡から水行(84.0km/d*10日)松浦国840km+末蘆国から邪馬台国まで700里(49km)/28km/d1.75日もって、帯方郡から南水行10日(840km)陸行1.25日から1.75日(35km-49km)となる。帯方郡南から邪馬台国840km+35-49km=(875-889km)よって、女王国(境界の尽きる所奴国)①(840km)≒不弥国②(847km)≒邪馬台国③(日程なのでやや多め840kmから889km)となる。邪馬台国は、不弥国を中心に半径7kmの847kmから840km=14km程度の範囲である。邪馬台国7,000戸(1/10)の中心付近に、卑弥呼の居住する宮殿・高楼・城柵の内に100余家の侍女千人(1/10)がいて、自律的に仕えている。
@@これはどうでしょう さんへ。前記の追記・・通説・定説で末蘆国を唐津とした場合g魏志倭人伝通り帯方郡から末蘆国(唐津)70,00里+30,00里→東南伊都国500里→東南奴国100里→東不弥国100里→南邪馬台国1,300里としたとしたら、(帯方郡から7000里+末蘆国3000里=10,000里)(短里0.07km)末蘆国(唐津)から邪馬台国は、500里35km+100里7km+100里7km+1,300里91km=2,000余里140kmとなります。末蘆国(唐津)から女王国(邪馬台国)(不弥国)は、2,000余里で140kmとなりザックリと熊本県甲佐町付近となります。これはどうでしょう???狗奴国まで行ってしまいました。不正解ですね。1300里・1400里の謎は、やはり、方可400里対馬国800里・300里一支国600里と記述にある事が証明できました。女王国≒邪馬台国≒不弥国は、末蘆国から700里(49km)圏内にあると云え事になります。あとは、末蘆国の比定地を何処に取るかその後の方角は、魏志倭人伝通り東南500里東南100里東100里で邪馬台国(不弥国)「女王国」に到着します。以上
ご回答ありがとうございます。②については+800里+600里説を容認できないので、残念ながら理解できません。③については、理解がついていきません。陸行400里×30日は計算に入らないのですか?残念ながら私の理解力を超えています。
@@これはどうでしょう さんへ。ご回答ありがとうございました。前記について回答致します。A-1.①-1「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」= ②-1帯方郡から末蘆国11,400里(798km)+不弥国(女王国)700里(49km)=12,100km(847km)であり成立している。②については+800里+600里説を容認できない。は、次による。A-2.邪馬台国を不弥国から水行20日投馬国水行10日・陸行30日を邪馬台国としているからなるべく末蘆国から2,100里(147km)付近に比定地としたいからであり、他に理由がないので、800里+600里=14,00里で末蘆国11,400里とすると、残り700里(49km)となり、邪馬台国の比定出来ない事が理由である1400里と700里の差は、98kmK違いであり、98km/.0.07km/里/d=1,400里であるが、これを水行10日・陸行30日と比較すると、水行だけで、1,400里/日/1,200里/日=1.17日及び2,100里/日/1,200里/日=1.75日であり、陸行は、1400/400・2100/400各々3.5日と5.25日となり、到着してしまい成立しない。当然、水行20日投馬国水行10日・陸行30日は無茶苦茶ですね。中国でのゆっくり陸行各国で歓迎の接待をしたり等(長浜説はそんな事を云っていたら何でもありである。論外である。) の言い訳は、筋が通らない。あくまで、基本は、魏志倭人伝の記述を忠実に邪馬台国を比定するのであれば、対馬国から壱岐国南が少し東に振っているのは、対馬海流が西から東の海流であり、壱岐国から末蘆国(勝浦・宗像)も方角無しであるが、東方向の対馬海流に乗って航行しやすい末蘆国(勝浦・宗像)がより自然である。A-3.「帯方郡から12,000余里+ (仮定不弥国)より南、水行10日・陸行1月(30日)邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。「水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)」なり。」≠「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」で成立しない。A-4.「帯方郡から12,000余里+ (仮定不弥国)より南、投馬国に至る。水行二十日(1200里*20日=24,000里)なり。」+南、水行10日・陸行1月(30日)邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。{水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)}なり。」≠「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」では、成り立たない。③については、理解がついていきません。 陸行400里×30日は計算に入らないのですか? 残念ながら私の理解力を超えています。については、下記による。B. {行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)}なり。」(陸行は水行の1/3で1200里/3=400里/日(28km/d)) 水行10日=陸行30日(1月)であり、(陸行と水行の比率は、1:3であり、陸行は水行の1/3であり、400里/1200里は1/3で1200里/3=400里/日)となる。400里*0.07km/d=28km/Dで末蘆国から邪馬台国を700里とすると、700里/400里(49km/28km/d)=1.75日である。他説2,100里も2,100里/400里(147km/28km/d)=5.25日となり、A-2・A-3・A-4いずれにしても、成立しない事となる。C-1「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」=「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)であるので、次式による。(11,400里(798km)/1200里=(798km)/84.0km=9.5日) ・ ( 700里/400里/日49km/28km/d=1.75日) 11,400里+700里=12,100里(798km+49km=847km)となり成立している。注[一日の水行・陸行距離]陸行速度は、(短里0.07km/里)として、400里/日28km/日/8H/D=50里/H(3.5km/h)・水行は、陸行の3倍400里/日*3=1200里/日84km/日/8H/D=150里/H(10.5km/h)を定数とする。※特に、A-2・B・C-1は注と見比べてよく読んで下さい。
九州は間違いないですね。
本当に間違いない、と思っています。
申し訳ないですが自分は熊本北部だと思います。まず伊都国は佐賀平野の北部あたりだと考えています、それから有明海を南進したのではないかと。
ひと各々の邪馬台国、いいんじゃないでしょうか。
8:30付近の投馬国から邪馬台国へのルートは、これより3000年も前に日本海を行き来していた日本人の行動範囲・速度と比べ小さすぎないでしょうか? それよりも水行20日、水行10日+陸行一月は各々帯方郡からの旅行日数と見た方がスムーズでは。 この時投馬国は沖縄に比定。
水行20日、水行10日陸行1月を、帯方郡からの旅程とする方もいらっしゃいますね。でも残念ながら、そこからは何も導けないのです。
@@これはどうでしょう 帯方郡から末盧国迄水行10日、ここから投馬迄水行10日、邪馬台国まではここから陸行1月。でこれらは倭の国の使者からの伝聞。(倭には測距技術なかったので日数のみ)後に魏の使者は天文測距で1万二千里。
そういう考え方もできますね。ただ、帯方郡の使者は実際に邪馬台国まで行っていますし、魏の使者が大掛かりな渾天儀を邪馬台国に持ち込んだとも、必要な正確な時刻を計れたとも思えません。
@@これはどうでしょう 渾天儀は天体の動きを模擬する者で太陽や北極星等の仰角測定は六分儀でそんなに大きなものではなさそうです。
渾天儀は魏にもあったとされていますが、国家的に重要な装置だと想像できます。大きさと合わせて邪馬台国へ持ち込めるような物とは思えません。そして、時刻も同時に知らないと使えません。六分儀はスコープ等を使いますが、当時あったかどうかは?です。私も専門家ではないので、調べた範疇の話ですが。
楽浪はともかく、帯方郡て場所は確定されてたかな?
確定されていないと思っています。
私は地名などから邪馬台国は九州であろうなと思ってました。総距離などから見てもとても近畿には行かないだろうと思われます。水行○日ってのは水害などにあって旅に出られなかったという可能性もあるのでは?そうするとぬかるみにはまって陸行1ヶ月で邪馬台国ってのもありそうです。もしくは経費水増しのため遠かったよ!と報告したのかも知れませんそれにしても糸島市や太宰府市には住んだことがあるのでとても面白かったです。
コメントありがとうございます。色々な見方があって、楽しいですね。経費水増し・・・なるほど(笑)。
みやま市に女王塚ってあったような?
女山にあった、ということなんでしょうか?
小椋一葉説を取ると、スサノヲが作った邪馬台国ことヤマト国は宇佐神宮から、宮崎県西都市、徳島県神山町に移ったということらしいですね。金印はもっと前の時代でしょうが漢委奴国王ですが、これは糸国なんじゃないかと思います。神山町に移ったのち、スサノヲの息子の大歳こと饒速日が婿に入った奈良の倭国こと和国と合併して大和国ことヤマト国になったんじゃないかということのようです。魏志倭人伝の邪馬台国の場所は宮崎県西都市ではないかと思われます。
コメントありがとうございます。邪馬台国は、色んな分野の方々が色んな材料で色んな推論をされる、歴史テーマ。「これが解けなきゃ日本人が日本の古代の歴史を語る資格は無いヨ」と、中国の古い歴史家たちから言われているようで・・・だから皆さん熱くなるのかも知れません。すみません、小椋一葉氏は読んでないので感想を申し上げられません。
残念ながら西都原からは3世紀の相応な遺物が出ないんですよね。。。。有名な西都原古墳群は主に5世紀のもの。それに先立つ宮崎市生目古墳群も4世紀を遡れない。宮崎説は無いですね。
なるほど、女(王)山に大門(ヤマト)ですか。なんだか神武東征につながるような雰囲気もありますね。いずれにせよ、環濠集落の密集を見れば、邪馬台国は北九州で間違いないと思いますが、どこかのタイミングで瀬戸内を移動して大和政権との関係性を深めた(移動・合併・征服?)したのではと考えるのが妥当だと思います。
山門は置いておいたとしても、そういう風に考えるしかないと思いますね。専門家の方々は多岐にわたる情報をお持ちなので、そうじゃないというご意見も多々頂きますが、自然に考えれば、そういうことだんだな、と。
環濠集落の密集は北部九州に限ったことではありませんよ。ウプ主が他地域の環濠集落の存在に気づいていないだけかと(意図的に?)。出雲、吉備・讃岐、畿内、尾張などなど環濠集落の密集地は他にも沢山あります。
木炭製作可能な森林があり 鉄製農具製作可能なこと 新田開発 二期作可能か 平野 河川 捕鯨を含む漁場が近いことが人口爆発した7万戸の邪馬台国の要件であり気候温暖な南九州が一番適切であり魏の戦略にかなっていると思います
今より気温が高かった当時は、広い地域が温暖だったのではないでしょうか?
倭国大乱の頃から、北半球が全域的に極度の寒冷化に見舞われ、世紀単位で続きました。(水月湖など世界各地のデータからも裏付けられる)邪馬台国時代もです。支那では、後漢末の動乱から三国時代・晋・五胡十六国時代となります。その間、東晋となり、江南に大量の難民が押し寄せました。ローマ帝国も北方の蛮族がヨーロッパを突き抜けてアフリカを目指しました。いづれも、より南方の温暖で大食料基地になり得る、または既になっている地域に大量移住したのです。漢帝国の最盛期は人口6500万人いたようだが、三国時代には1400万人に激減した。人口の上下はあるだろうが、人口が1/3〜1/4になったと言う事である。そしてそれより北の遊牧民族地域は、より危機的状態だろう。そうなると、安定し人口を比較し隔絶して多い時の農耕(定住)民族地域は強力で付け入る隙もないが、気候変動の影響などで、人口が激減し、難民も大量発生し、農耕民族同士でも食料難などで諍いが絶えないなら、遊牧民も必死なので南下政策を取る事は必至だ。そして倭国も、史書で分かる範囲を見ても、大幅な人口減が垣間見るところがある。まずは、生口だ。倭から支那王朝に献上したのは、107年面土國(帥升) →160人239年邪馬台国(卑弥呼)→男4,女6人248年邪馬台国(台与) →30人伊都国の戸数魏略 → 10000戸魏志倭人伝→1000戸伊都国の戸数が1/10になっており、どちらかの記述ミスではないかと考えられるが、伊都国は明らかに、海人族の國であろうから、食料問題・疫病の流行・紛争などで危機的状況になれば舟で移動することは不可能ではない。だから、日本列島だけそうでなかったは無いでしょう。私は、気候の極度の寒冷化の影響ゆえ、また帯方郡・朝鮮半島に日本の本州・四国・九州・北海道で一番近いかつ、一番南の大きな島である温暖な九州島が、邪馬台国である可能性を強く示唆していると思うのです。そして、日本列島には九州以南では大食料基地になり得る位の大きさの島や、平野はない。そして、狗奴国との戦争も究極的には食料問題だと考えています。邪馬台国連合の中の大国である奴國 20000戸投馬国 50000戸邪馬台国70000戸事実の人口に即しているか、疑義はあるだろが、行程上、南に行くほど人口が多い。つまり、それだけの食料基地であるとも言える。そして、狗奴国はさらにその南だ。邪馬台国連合として食料問題を国内で解決することが困難となり、狗奴国に食料の融通の政治・外交交渉をしたが、決裂したのではないでしょうか?余り言われないが、弥生時代の高地性集落は、防衛や監視の為ということになっているが、斜面温暖帯の農業の為もある、というか、そちらのほうが本筋ではないかとも思っています。防衛や監視のためだけに高地性集落を建設・維持するのは余りにもコストパフォーマンスが悪すぎるからです。斜面温暖帯は、麓より2〜3℃気温が高い。その麓で寒冷化で2〜3℃気候が寒くなれば、当時の農業では破滅的・壊滅的な打撃となるだろう。(現在でも大打撃だろう)そして、麓で2〜3℃気温が低くなっても、理屈上は斜面温暖帯では、麓の気温が低くなる前と変わらない気温だ。そんな理屈通りには行かいだろうが、緊急避難的対応としては平野部の農業がダメとなれば、大陸の様に南に温暖で巨大な大地が控えているわけではない。そうなると、立体的に考えるしか無い。そして、斜面温暖帯で緊急避難的に凌ぐ間に、寒さに強い種子を選別したり、根本的に農業のテクノロジーを発展させ、再度、平野部に進出する戦略があるかもしれない。そして、肥の國というは、火の国とか言われることがあるが、本当に、邪馬台国時代としては豊穣の「肥」の國だったのではと思ったりします。一番南の大きな島の九州は他の地域と比較すれば温暖で、さらにそこでの斜面温暖帯農業ならば、寒冷化の対策としては、当時これ以上良い条件は日本列島にあまり無いと思える。そして、肥の國の、肥前國・肥後國は海岸が入り組んだリアス式海岸が多く、斜面温暖帯が出来やすい。そして筑紫國・肥後國は大まかに見ると地勢が西低東高であり、東側に斜面温暖帯が出来やすい。支那からの使者はこのような地理を見聞し、そう報告したのではないかとも思う時があります。これは支那の史書にも合致する。そしてそれらが、邪馬台国の比定地として他の地域、近畿・出雲・高志・吉備・関東などの可能性を著しく低くしていると思います。四国は関わりたくないので不可触とします、、、長くなりましたが以上です。真っ向からの反論になるかもしれませんので、気を悪くされたら申し訳ないです。
宇佐(宇沙)内陸 耶馬渓南だと思うのですが (^^)/昔の地形 事に海岸線 深い入江、即ち陸は歩きにくく海岸線が交通路だったとの仮定では?いずれにしてもロマンですね👍
昔、40年くらい前に耶馬渓を通ったときに、自然とここに邪馬台国があったのかもと思った記憶がよみがえりました。邪馬台国連合国の中に邪馬国もありますし、不思議な感じです。熊野古道に行ってみて思いましたが、入江入江に人々が住みながらも、陸路交通は決して海岸線ではなく、山、半島越えであったり尾根伝いだったようです。海岸線は決っして歩きやすくは無かったようです。
僕も60年前に耶馬渓に行き青の同門を見ました。その後名前からして邪馬台国があったとしたらと思いました。当時は文字や法律を徹底させにくく、国を守るのには良い地形だと思います。また温泉が特に重要ではないかとも言えます。長浜氏は北九州に至る川は当時は入江だったと言う事で耶馬渓近くまで船に乗れたと言えます。また50年前に武漢に製鉄所建設に行き、シナは長浜市の言うような儀式が、各国ごとにある事を経験してきました。長浜氏の考え方には賛同しますが、耶馬渓が卑弥呼のいた所でもイイのではと思います。又は邪馬台国内部を毎年移動したとも考えられるのでは?
コメントありがとうございます。弥生期の耶馬渓だと、入江はまだ先かもしれませんが、山国川を船が上ることは可能かと思います。そしてその辺りも女王連合国で国名が邪馬国だったとしても、何も問題ないと思います。ところで、50年前に武漢に製鉄所建設と聞いて、上川隆也のドラマ「太陽の子」を思い出しました。ご苦労されたことと存じます。
@@これはどうでしょう 耶馬渓という名前は比較的近年につけられた名前なのでまったく関係ないかと・・・WIKIより抜粋。1818年(文政元年)に頼山陽が擲筆峰周辺(耶馬溪町柿坂地区)を訪れ、当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである
@@490526ryu さんそうでしたか。ご教示ありがとうございます。
古くは縄文人でさえ正確に冬至・夏至の日出の位置を認識していました。日の出の位置が全て「東」と認識する程度の知識しかなかったら外洋航海は無理です。大海原では方向感覚は日星に頼るしか無い。ま、対馬海流は潮の流れが速いので真っ直ぐ南に向かって漕ぎ続ければ潮に流されていい具合に目的地に着くかとは思いますが。。。
最後に指摘された、対馬海流説もありかも知れませんね。
南に向かって漕いでいって着いた国が、対馬国、と。
@@これはどうでしょう 様、それをわかっていて意図的にそうできるのが航海術かと。。脇を固めるのに良い御本です。
「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」
「遠澤 葆」著 「成山堂書店」
@@田中健一-s1c さん、
私達の考えが、「ネットのど素人のよもやま話」、と言われるのであれば、私達も応答することはできません。
また、ご自説の披露であれば、よそでお願いします。
このコメント欄で教えて頂いたり、ご批判に対応することで、より真実に近づけるものと信じてやって来ましたが、残念です。
田中健一さんへの返信は、勝手ながら終了とさせて頂きました。
@@これはどうでしょう 様、誤解を産んだようなでお詫びします。
小生、貴兄のことはきちんとリスペクトしています。実地踏査して文献にもきちんと当たる真摯な姿勢。批判にも丁寧に応える謙虚さ。伏して学ぶべき先達と考えています。
誤解を産んだコメントは、どなたかが小生のコメへ別チャンネルの動画を推奨されておりまして、それについて「ネットのど素人・・」のコメントを返したのですがそれがお気に触られたのですね。重ねてお詫びいたします。以後も言を交えていければ幸いにて。
@@田中健一-s1c さん、
「どなたかが小生のコメへ別チャンネルの動画を推奨」が、どなたなのかは分からないのですが、あなたのコメントを読み直すと私の誤解であることが認識できました。
私も「ネットのど素人」なので、過剰反応してしまいました。申し訳ありませんでした。
これからあなたへ返信した拒否コメントの削除作業をして、その後のご指摘への返信文を考えたいと思います(汗)。
返信完了するまで、すみませんが新規のご質問、ご指摘はしばし留め置き下さい。
今後ともよろしくお願いします。
とても納得できる考察だと思いました。大変勉強になりました。いつか私も自分自身の説を表明できる位の調査と勉強を楽しみながらやって行きたい思います。感謝!
参考にして頂けたようで嬉しいです。
そして、今後のご活躍に期待します。
途中の御笠川水系から宝満川水系への移動、感銘を受けました。現代の地図だと難しいように感じますが、船を押さずとも移動できたのではないかと思います。
というのも、JR二日市駅周辺は現在でも浸水想定区域であり、当時の海岸線は今よりも上流だったことから、川幅も今より大きかったであろう点を考えると、二つの水系が混在していたことは十分にありえます。
加えて、JRで言えば田代駅辺りから二日市駅までの間は、地形的に雨が降りやすいところで、2水系が混在していなくても、当時ならば雨の後などは二つの水系を渡ることは、おそらく容易にできていたのではないかと思います。
とても素晴らしい考察を拝見できてよかったです。
ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。
あの辺りが交通の要衝であったことは、護りの要だったとも言える訳ですね。
面白いです、文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。
ありがとうございます。
アメリカの方でも興味がある方がいらっしゃるんですね。
最近は日本の縄文時代が脚光を浴びてるような紹介もよく目にします。
後に筑紫を統括した筑紫の君・磐井一族の本拠地も同じエリアですね。当時の水運・防衛・水田(≒戸数)などの要素を考えれば、筑後川流域が最も倭人伝の内容に添ってると思います。ただ魏の使者は邪馬台国まで本当に行ったのかは不明ですね。政治・外交拠点だった伊都国までしか到達せず、残りは伝聞だったのかもしれません。もし卑弥呼に本当に会ってたのなら、容姿・服装・振る舞いなどを書き残してたと思います。補佐する弟の名前も残してるはずです。東夷伝を素直に解釈すれば、卑弥呼は名目上の女王であり、政治・外交の実務には関わって無かったように読めます。女王国の30か国連合は九州北部から半島南端を支配してたので、それで伊都国の役割が特別だったような記述になってるのだと理解してます。
筑紫の君にもつながる話として、このあたりの史実をより正確に知りたいところです。
魏の使者については、卑弥呼の晩年、帯方郡の大使、張政が邪馬台国に滞在し、壱与とも話していることが記述されているので、邪馬台国へは行っていると思います。
@@これはどうでしょう 倭人伝の一番最後の部分を読み返しました。なるほどですね。たしかに『政等以檄、告喻壹與』の解釈によっては、魏の使者が直接トヨと面会して話をしたとも理解できるかもしれませんね。「檄」は口頭なのか、文書なのかの解釈の違いと思います。直前に書かれてる卑弥呼への告喻の場合は、文書にして託してるので、つい同じような意味で理解してました。
ただ卑弥呼の死後に王位に就いた男王では国中が服さず、それで13歳のトヨを新王にしたとも書いてあるので、子供相手に外交・政治上の話をするのも、かなり非現実的な感じもします。卑弥呼の「宗女」が同族を意味するのか、宗教上の弟子を意味するのか、或いは30か国連合内で邪馬台国とは別の国のシャーマンなのかによっては全く解釈が変わってくると思います。
一番気になるのは伊都国に関する『郡使往來常所駐』の記述です。外国使者との応対を担当した後世の大宰府のような役割を果たしていたと理解できる表現です。女王国の30か国連合の外交上の窓口は、伊都国だったとも解釈できます。卑弥呼やトヨの名義で帯方郡などに使者を送ってますが、政務・外交に直接関与したような印象を持てない記述内容が多いです。倭人伝が特に強調してるのは、トップが女王であること、鬼道(≒先祖崇拝・占い・呪術)を専門としてた巫女のような存在であった事、そして隠棲して人前に出ないことだと思います。倭の状況は、当時の中国大陸では考えれないような体制だったから記述されたのだと思います。
なるほど、そういう解釈もある訳ですね。
私の場合は、このあたりの資料に詳しい方から、張政が20年位邪馬台国に滞在していたと聞いていたので、そのように思っています。
(引用もとは知らないのですが)
@@yo2trader539 とても興味のあるお説です。勉強になります。
「自郡至女王國 萬二千餘里」とあるのだから、その円の中に有ると思うのが自然に思います。そして、末盧國 有四千餘戸、伊都國 有千餘戸、奴國 有二萬餘戸、不彌國 有千餘家、投馬國 可五萬餘戸、邪馬壹國 可七萬餘戸という人口を考えると、福岡平野・筑豊?・筑紫平野?とも思えたり。戸数を考えれば現代の市に当てはまるレベルではないような。川を使った輸送網は有ると思う。現代人も駅で乗り換えを普通にやっているのだから、御笠川・朝倉街道で1泊・宝満川と乗り換えてたりして。
そういうことのようですね。
近畿には行程は行かないと思います。
邪馬台国までの道程は ピッタリ『甕棺墓』の分布に重なります。
北限は糟屋郡、西限は唐津(平戸にも少し) 東限は最盛期に飯塚市 立岩遺跡
南限は 熊本宇土半島と熊本市の南 嘉島町の二子塚遺跡です。
最も確認されているのは佐賀神埼地区の2951点 次いで小郡、鳥栖地区の2522点
春日 福岡地区の1769点と続きます。
当たり前ですが墓の埋葬方法は重要です。
郡使の上陸が遠賀川流域や宗像あたりでなかった理由だと考えます。
航海のスペシャリストを松浦に配置し(後の松浦党?)遠く糸島水道まで見渡せる湊中野遺跡では狼煙跡も見つかっています。
次は伊都国です。 方角が違いますが報告書には地図が添付されていたはずで出発点からの方角が東南であったとすれば解決します。
(出発点から東北とすると海です)
中華では地図は文字より古く殷の時代より存在したと言われています。
地図は次回から来倭する郡使が迷う事ない様に文書より雄弁な報告資料です。
糸島の古代の王墓は甕棺墓ではありません(木棺など) それは甕棺墓を風習とする種族に征服された可能性が高いと考えます。
尚 糸島市では甕棺墓の最終晩まで風習が存続します。(福岡地区は終盤を待たず消滅)
では邪馬台国は 南限の『熊本』か?
可能性はあると思います。
延喜式(927年)肥後(熊本)は税率26%と当時の首都 畿内の国々と比べても人口、生産性から遥かに大国だといえます。
熊本平野まで邪馬台国とするなら最大の戸数である倭人伝に合致します。
(ただ七万戸は何処にも存在しません)
熊本北部には方保田東原遺跡という あの吉野ヶ里遺跡を凌ぐであろう(発掘中)大環濠集落があり
同じ菊池川流域では新の貨幣『貨泉』も出土した「うてな遺跡」「小野崎遺跡」大環濠集落「諏訪原遺跡」
熊本市北区には方保田東原に匹敵する「五丁中原遺跡群」白川下流域では
八島町、道場方、湯ノ原、二本木等大規模集落があります。
しかも 方保田東原や二子塚遺跡では鍛冶工房も見つかっておりおびただしい鉄器が発掘されています。
南区 城南地区にも塚原古墳群があり国内最大規模を誇りますから大国です。
ただ…
甕棺墓グループを邪馬台国連合とし 遠賀川流域や、豊前、豊後、阿蘇グループまで連合の同盟国とした場合
『強すぎる』んです(汗)
熊本だけでも弥生後期の鉄器出土数が国全体の30%。そこに北部九州も加えると…
確かに倭人伝には「かたわらの国」に対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国と『阿蘇』を想起させる国名がありますから
『製鉄(菱鉄鉱、褐鉄鉱)』していた可能性ある阿蘇グループまで邪馬台国連合。当時 敵う勢力があるでしょうか?
ちなみに 熊本北部までが邪馬台国連合と仰る方ありますが
北部最大の方保田東原遺跡と熊本市南部 二子塚遺跡では珍しいジョッキ型土器が
各々 20個と108個と出土しており交流を否定できません。
しかも二子塚遺跡では 免田式土器が1159点出土し 人吉、球磨とも交流が認められます。(免田式の紋様を持つジョッキ型土器まで見つかってます)
となると 卑弥呼が 魏に援軍を頼んだ 強い狗奴国は その南 えびの市から鹿児島となります。
今の所 鉄器出土が殆どありませんので
石器の石鏃でゲリラ的に戦い東に発展の可能性を見ていた邪馬台国を悩ませた?位になりますね(^^)
当時の宮崎(日向)はまとまっていた可能性ありますが九州山地がさえぎり 東側からの北上になりますから熊本まで遠すぎます。
あと、名前が いかにもな『山都町』は遺跡遺物も無いですし そもそも山間部で平野もなく拠点にはなりません。
(熊本住みで何度も訪問しています)
倭人伝に 温泉の記述が無い? 道程には湯煙漂う温泉地はありません
全て かたわらの国です。
丹に関しては 大分市坂ノ市、佐賀嬉野市に丹山があります。もちろん阿蘇のベンガラも。
筑肥山地を挟んで 筑後に邪馬台国 熊本北部から狗奴国とした場合
鉄器出土数は拮抗します。それでもまだ熊本の勢力は鉄器の充実が凄いといえます。
熊本は甕棺の中庸で福岡の須久式甕棺から独自の黒髪式土器の甕棺に移行している事が何を意味するのか?
甕棺墓は最初のⅠ期に筑後と熊本に伝播したことが確認されています。
狗奴国の王 卑弥弓呼と卑弥呼は同族?倭国大乱で分裂か?
妄想の片隅にでも(^^)
たくさんのご示唆、いつもありがとうございます。
以前にも言われていた墓制、重要なキーワードですね。
特に北部九州の甕棺墓。
私が初めてこれの分布図を見たのは、5年前の福岡市博物館を見学した時でした。
その時の写真を改めて見てみると、確かに熊本、佐賀、福岡がその中心域ですね。
そしてこの甕棺墓グループを邪馬台国連合とした時には、確かに強すぎる気もする。
伊都国博物館での資料も合わせてみると、この一帯の最初の王墓、吉武・高木3号墓と、伊都国最後の王墓、平原1号墓が木棺でした。
吉武・高木遺跡では、木棺と甕棺が混在(木棺が王か)してるようでした。
その間は(全部かどうかは?ですが)奴国も、(伊都国最初の三雲南小路も)甕棺墓、という認識ですが、合ってますでしょうか。
木棺と甕棺の扱い方、考え方が、うまくできていません。
一方で、平原1号墓、西谷3号墓、楯築、ホケノ山、黒塚など、墓の形はそれぞれですが、
「木棺+施朱」の組み合わせに今一番気を取られています。ただの流行りの移行なのか、どうか?
熊本鉄器も凄すぎですね。
どこから素材を持って来たかと考えてばかりいましたが、製鉄ができていたと考えるのが一番自然ですね。
やっぱり、筑後以北が邪馬台国連合で、肥後・狗奴国。
鉄器の攻撃力で、肥後が筑前・筑後を脅かし、最後には・・・
と、こちらも妄想になってしまいます(笑)。
@@これはどうでしょう 様
次に進もうとしている最中 ムーンウォークのように 戻してスイマセン(^^)
縄文の土コウ墓から 木棺はまだしも 土で作った大きな器に遺体を入れて埋葬する。
地母神信仰から甕を子宮に見立てたのか? 宗教的ですよね。
福岡博物館に分布図が? こりゃ行かないと。
はい、南小路と須久岡本の甕棺が同一構造の可能性やら
甘木 朝倉と筑後の甕棺に共通性が高い 等 畿内の土器編年のようにモノサシになるのではと思っています。
共存している事も意味深ですね。
でも遠賀川流域から東には普及していないとか 面白くないですか?
九州王朝説の倭本朝と倭東朝でしたっけ?(^^) いくつか真実も隠れてそうなんですよね。
まずは積極的同盟国とそれ以外の国々と考える事も必要かなと思っています。
しかし、熊本の遺跡の情報は少なくて(汗) 本でもチョロッ
遺跡発掘調査報告書を探してやっとです。なので数字は確かです。
古代熊本遺跡のキモ 方保田東原も「現状保全を第一に」ですよ
福岡と違い 住居も殆ど無く区域の拡がりも確認されているのに…
鉄製武器出土日本一の西弥護免遺跡は住宅地に
先述の二子塚遺跡は工業団地にと(泣) 立地を確認に行きましたけど小さな案内板だけ。
そういう意味では奈良を見習う事も必要ですね。
施朱ですか。東北と 九州北中部だけだったのが 一気に伝播しましたよね。
その後の装飾古墳も熊本宇土~宮城まで分布して 熊本は29%も。何故?
山鹿チブサン古墳とか 見事ですよ。
やはり朱を扱う集団の移動は否定出来ないですよね。
任せて下さい先輩。
僕も同じく 現場主義ですから 鉄の馬に乗って調査してきます。
九州山地の険しさは意識して訪れないとわからないです。わかれば高千穂に都が とは言えないのです。隠棲地です。
椎葉村の逃げて来た百済王の里と後の平家の落人の共通性 陸の孤島で今でも道の寸断が絶えない道のりはそりゃ厳しいですから。
はいッ甕棺と施朱 何かわかれば報告します(^^)
@@これはどうでしょう 様
追伸 阿蘇の狩尾遺跡で褐鉄鉱(阿蘇黄土)を原料に。大野川流域では菱鉄鉱(阿蘇の鉄鉱石)由来の製鉄の可能性大だと思います。
輸入鉄艇との元素の違いは 専門家が確認済みです。
これは 余談ですけど 9,11のツインと連邦ビルの倒壊に
テルミットの様な爆薬を使い 鉄骨を溶かした事が原因の意図的な倒壊であると。
テルミットとは 酸化鉄とアルミニウムの化合物に点火すると瞬時に2500℃になり溶けた鉄を生成するらしいんです。
阿蘇のベンガラは酸化鉄。古代にアルミはありえませんが
ミョウバンの成分にはアルミが。別府明礬温泉のミョウバンです。
2500℃まで必要なく 物質の組み合わせで高温を発する技術を 持ち合わせていたなら?
なはは、こんなんゆ~の、僕だけです(^^)
ムーンウォーク(笑)。
いえいえ、私も行ったり来たりです。
まず大和についての頭の整理ができたのは、坂先生、関川先生のお陰です。
そしてそれは、今回の「旅」の到着駅でもあります。
出発点の一つは伊都国にあると思っています。
そして出発地には広大な甕棺墓の広がる北・中部九州がある・・・
そういう意味では、伊都・奴国の中で、平原1号墓は特異な墓かもしれませんね。
伊都国最後の王墓、施朱の木棺、超大型の倣製鏡、武器型青銅器の副葬なし・・・と。
そして甕棺墓グループの北半分が邪馬台国連合/狗奴国とはもともと同族。
という線はあり得そうですね。おっしゃるように、甕棺墓全部だと、邪馬台国側が強すぎる。
第1話でお出しした青銅器分布で行くと、弥生中期も後期も配布南限は、山鹿、菊池あたりに見えます。
これが大牟田あたりだと、筋立てしやすいんですが。
心強い応援有難いです。
・・・まだまだ妄想・・追伸の返信へ
阿蘇周辺での製鉄の可能性大としたら、凄いですね。
熊本中部の強みは、製鉄の獲得があれば、すんなり裏付けられます。
それが北部九州、邪馬台国連合の解体の画期となりえると。
阿蘇産の鉄が熊本平野北部まで行き渡っていたとしたら、狗奴国の国境はその北になる、でしょうか?
投馬国は旧筑後国(上下)妻郡、現在の八女市辺りだと思います。
なるほど、「つま」ですか。
投馬国は全く当てが無かったのですが、一つの解釈ですね。
@@これはどうでしょう
投馬国五万戸も筑後川沿いの八女市であれば水源の確保も容易でしたでしょう。
さらに南にある邪馬壱国は、同様に水源の問題から、今の菊鹿盆地にあったとされる茂賀の浦湖畔にあったのではないかと推測しています。
そういう流れですね。理解できます。
では、その後邪馬台国を倒す勢力になる狗奴国はどこでしょう?
@@これはどうでしょう
その南にあるとしたら必然的に球磨郡=狗奴国になるでしょうね。
邪馬壱国が武力によって追い出されたのか、なんらかの天変地異によって故国を去ることになったのかは定かではありませんが。
人吉市あたりの遺跡に疎いのですが、北部九州一帯+熊本となってくる女王国連合に対抗できる勢力圏の痕跡が、球磨郡あたりにありますでしょうか?
こんにちは。弥生時代の邪馬台国は6カ所あったと思っています。理由は古墳時代の大王の宮は一代ごとに別の場所に建てられていますよね。おそらく弥生時代もそうであったと思うからです。正確な場所は特定できませんが候補がございます。糸島地区、飯塚市、朝倉市、大牟田市とみやま市付近、熊本県嘉島町御舟町山都町と宮崎県高千穂町五ヶ瀬町付近、宮崎市。理由として大牟田市とみやま市の境界付近を流れる川が隈川で、近くに甘木の地名があります。甘木は天城ではないでしょうか。また有明海へのアクセスもよく、南朝への航海路であったと思います。素戔嗚の尊は天神御祖に海原を治めよと言われていますが、これを暗示させます。そしてこの地が狗奴国でもあったと思います。素戔嗚尊の名はカムロキクマノクシミケヌの尊、熊野の大神です。熊の地名はここから熊本県全県、大分県熊野、出雲の熊野、近畿の熊野と東遷しているように見えます。卑弥呼の時代に朝倉のヤマトと大牟田のヤマトが並立していたのではないかと考えています。
一度に書けなくてすいません。甘木の地名は佐賀県飯塚市にもあります。また糸島地区には日向、クシフル岳、近くには小戸の地名もあり糸島から福岡市にかけては古い時代のヤマトであった可能性もあります。熊本県の山都町は古代音韻のヤマトに対応しています。また五ヶ瀬町や高千穂町にはごく初期の前方後円墳があり、特に高千穂町の吾平にあるものは天孫降臨と関係してると思います。宮崎市にはそのものズバリ大和の地名があり、橘、小戸、阿波岐原の地名がセットで残り皇室の発祥地にふさわしいと思っております。このようにヤマトは時代によって移動していると思っています。
地名についての考察ありがとうございます。
私もあちこちの旅先で、地名が気になります。
クマ、クマノ、ヤマト・・多いですね。
アマギもその仲間、ですか!
参考にさせて頂きます。
おはようございます、
楽しい動画ありがとうございます。
邪馬台国をヤマイチ国とも読む方もいるように
投馬国も殺馬国(サツマ)と読む説もあります
そうすると、タイホウ郡からクヤ韓国まで7000余里
対馬海峡を航るのに3000余里
細かい数字は置いといて一日で船で進める距離が
大体1000余里と考えると(水行一日)
タイホウ郡から10日で北九州上陸
さらに水行10日で投馬国(サツマ?)だとどうでしょう?
なぜ陸行の手段がないかは、当時陸で行くには途中
ライバルのクナ国が間にあったからじゃ?
なんて妄想を考えてました。
否定出来ない種々の考えがありますね。
私は邪馬台国は北部九州だと思いますが、鹿児島・宮崎の位置付けはわからないでいます。
色々な推理、楽しいです。
日田に銅鏡じゃなく鉄鏡が出てますよ!レプリカなら展示されてます!
魏の曹操が持っていた鉄鏡に類似すると言う発表がありましたよね〜!
その鉄鏡、復元品の写真を見たことが有ります。
凄く、きれいでしたね。
卑弥呼の鏡では、という説があるんですよね。
見てみたいです。
金銀錯ガン珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)ですね。
昭和8年 日田市日高町で久大本線建設中に出土。
土地の所有者 渡辺氏が 近くの三芳小に寄贈。
戦況の悪化もあり 行方不明に。
昭和35年 関西の大学考古学教授が 古美術商から買い取る。
天理大の調査にて後漢鏡である事が判明し文化庁が買い取り重要文化財に。
(渡辺氏が腐食防止にと石炭と一緒に石炭箱に鏡を入れ小学校に寄贈したと。鏡には石炭が付着していた)
最近 同時代の金錯鉄帯鈎(きんさくてったいこう)も日田市から買い上げ共に東京国立博物館に。
運が悪いですね~。考古学者の手で 地中から出土していない事、古美術商から買い取ったという出自の怪しさが価値を低くしちゃいました。
しかも、邪馬台国 畿内説を推す 関西の大学に渡った事も 不運(泣)
ただ鉄故に中国でもわずかに残る鏡が 日本の酸性度の高い土壌故に腐食しなかったのは幸運とも言えますね。
中華でも皇帝一族しか所有出来ないと言われる
超~ッ 一級品の至宝。
必ずや 「国宝」に 指定されるはずです。
・
・
・
日田は、邪馬台国の奥宮でしょうか?
日田にまた、行きたかー!
日田は 福岡中部の文化圏にありながら
行政区分は 大分県 『豊の国』…
焼そばもイイですが 日田駅前 「寳屋」のホルモンチャンポン。
水が合うのか コーヒーも美味です。(^_^)
次々にいい情報、ありがとうございます。
ホルモンちょんぽん、旨そう!
行った時必ず食べます。
方角や里程など原文を一切改定せずに魏志倭人伝を三国志の理論に従って読んでいけば邪馬壹国は北九州になると私は思っています。
私も全くそう思っています。
水行10日陸行1月などの記述が誤解を生んでいるだけだと思います。
それに対して色々な解釈があるだけで、結論には影響しないと思います。
@@これはどうでしょう QQ was a
山門が邪馬台国とするのに決定的な証明にはならないでしょう。
路程はいささか不明確であり、論拠に乏しいと思います。
ロマンとしては畿内説だけど、合理性では九州説かな。
卑弥呼のとった外交は、大陸の複雑な情勢(三国の争い、公孫氏と司馬懿の動向)を把握してないと不可能である。
卑弥呼が畿内にいたとすると、九州北部か出雲と強いつながりがあった人物だっただろうが、九州北部にいれば朝鮮との交易を通じてそれを把握できる。
なるほど、そうですね。
その当時の畿内に、半島や大陸と繋がっていた痕跡は、考古学上ほぼ皆無なので、畿内説には合理性がありませんね。
複数の報告書から合成したと考えると、『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』『自郡至女王國萬二千餘里』と、女王のいる国に至る旅程が二か所記述されてある理由、それぞれが日数と距離、邪馬壹國と女王國と表現方法が違う理由の説明にもなます。
魏志倭人伝は過去の史書を編纂されたものだと言われていますから、それが複数あったと考えることは自然と思います。
@@これはどうでしょう 整理して書かれた感じがしないのは、編纂者も資料を眺めて責任をもって一つの結論で書くことができなかったのだろうなと感じます。
お説に全面的に賛成です。「これはどうでしょう」さんと同じく邪馬台国から大和王権へどのように権力が移っていったのかが
最大の関心事です。邪馬台国→九州王朝→大和王権は別の王朝で神話はそれぞれのいいとこ取りをしたものというのが私の妄想です。 (^-^) 古代史探索の旅の続編を楽しみにしています。
今今、Ⅲの第3話まで行っていますので、
旅のお供、よろしくお願いします。
唐津から東南は山岳地帯で行けない、との解説ですが、
動画の背景地図には、唐津から佐賀方面へ大きな道(国道?)が見えます。なぜ此の道を東南へ進まなかったのですか??
たとえ険しくとも人が通行できる程度の道はあっただろうと思いますが、皇帝から下賜された重要な荷物を封泥されたまま人力で運ぶことは、危険すぎて考えられません。
ギボアイコさんが生きておられたとき、卑弥呼の墓を探す番組企画どっかのテレビ局にして欲しかったなあ
確かに!
残念です(笑)。
以前、別の九州説の方にも伺ってみたのですが、邪馬台国の産出物に 青玉 という鉱石があると倭人伝の中にあります。それは九州説的には具体的に何を指すものなのかと尋ねたところ、ハッキリと答えて頂けませんでした。それでぜひup主様のご意見をお聞かせ願いたいと思っています。そしてできればその具体的な産出地もお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。
ご質問ありがとうございます。
これは糸魚川産の翡翠のことだろうと思っています。
当時から、古くは縄文期から特に日本海側で珍重され流動していたことから、倭人の国の産物として有名だったろうと思います。
@@これはどうでしょう ご返答ありがとうございます。それはつまり当時邪馬台国が糸魚川周辺地域を領土化していたと考えておられるのでしょうか?
交易範囲を領土と考えることは出来ないと思います。
糸魚川産の翡翠は縄文期の青森の三内丸山遺跡からも発見されていて、古代から広く流通していました。半島からも出土しています。
一方、領土化する、支配するという国々の関係性は、そんなに古代には遡れないと思っています。
そこそこの軍勢で攻撃して勝利したとしても支配することにはなりません。
権力をそこで維持するには、軍隊の駐屯、兵糧の補給、通信網・・・など色々必要で、古代も現代も一緒の原理だと思います。
@@これはどうでしょう 解説ありがとうございました。では最後に仮定の話をさせて頂きたいのですが、もし 青玉 が翡翠では無かったとすればいったい何がそれに該当(第2候補とて)すると思われますか?
分かりません。
今の中国でも玉は翡翠のことをさします。
良いと思います。熊本県菊池市なら、シャーマンが居そうです。
雰囲気でいうとピッタリですね。
5:51
宇美町
(うみちょう)ではなく
(うみまち)と読みます!
そうでしたか。失礼しました。
お許し下さい。
ついでに朝倉街道はかいどうやなく、がいどうですw
私も権現塚古墳が卑弥呼の墓だと思います。
墓が円墳で大きさ(直径)も記実通りです。
考えが同じで安心して最後まで動画を堪能しました。
権現塚古墳が卑弥呼の墓かどうかは異論も多く、なかなか確証は得られません。
超古代のような話だけど、エジプトでは新王国も滅んでプトレマイオス朝も滅んでローマの一部になった後なんだよなぁ…
なるほど、そうですね。
ただそれでも、文字資料が残ってないので謎だらけです。
①対馬から壱岐に渡る時に地図上の壱岐がある
南東方向に漕ぎ出したら対馬海流に流されて
日本海方面に行ってしまいます
航海の手段としては南東ではなく南に漕ぎ出す
べきでしょう
②当時の海岸線に沿って移動するのは困難です
現代と違って堤防や橋はなく葦の生い茂る湿地
であった筈です
当時の移動路は尾根道であると思われます
それと現代の地形と当時は大きく異なっており
現在の地図で論ずるのは誤りだと思います
③当時の旅程を現代感覚で考えては駄目です
恐らく宗教的行事を伴っていた筈で一日の
行程はかなり短かったと思われます
④畿内説を採るとすれば当時の大都会であった
吉備や出雲と思われる記述が魏志倭人伝には
無いです
又記載されている風土は畿内の地理学的条件
からずれているのではないでしょうか
自分も九州説が妥当だと思います
①漕ぎだしは南向き、というのは正解かも知れませんね。
②今回の移動区間の中で海岸線を使うところは無いかと思います。
③後半の移動日数はやはり、20日+10日+1月かかるのだろう、ということですね。
④同感です。
以上、ありがとうございました。
末盧国の港は唐津城の辺りではないね。当時は虹ノ松原が無く、玄界灘の荒波が直接打ち寄せていたからね。
唐津市内の古墳の所在が、松浦川の東岸に集中していることから見て、
松浦川を遡った、現在の唐津インター付近の中原遺跡~JR山本駅近くの久里双水古墳あたりの津(川の港)が適切。
そこから倭人条の通り東南陸行500里すれば、多久市経由、佐賀大和町川上の太神宮遺跡付近が伊都国となる。
末盧国の港については、私もそうなのかと思います。
ただ、伊都国の所在については、違う見解です。
東南陸行500里だけをとらえれば佐賀平野まできてしまう解釈になりますが、他の情報との整合性を考えるとやはり、現在の糸島市にならざるを得ません。
そうすると、「東南陸行500里」は一旦末盧国に立ち寄ったあと、そのまま船を進め、加布里あたりに上陸して東南陸行で伊都国に達する、と解釈することができると思うのです。
命を懸けて海を渡る船乗りだぞ、季節で方向を間違えるとか、その程度で外洋に出る船乗りが居てたまるか。
何らかの意図を持って方角や距離を改竄したとしか考えられない。
これは一つの推論ですから、他の考え方があっても良いと思います。
いくつか考え方がある中で、最も正しいと思う推論を選択すれば良いです。
対馬から壱岐にかけては西から東に向かう対馬海流がありますから、対馬から南に向かって漕げば壱岐に着く、という方角でもあると思います。
そういう説をとってもいいと思います。
伊都国あたりまでは楽浪郡・帯方郡の人々が行き来していたことが考古学資料から分かっていますので、そこまでの位置は隠す必要は無かったと思っています。
投馬(トゥマ)国の所在地のヒントとして 八女市に上妻(こうづま)筑後市に下妻(しもづま)があります
私は地元ですが 以前よりなんで上妻と下妻は数キロ離れているんだろう?と疑問でしたが 古代は八女市と筑後市を含む大きな国 つま国だったのかもしれません
近接した三潴郡(みずまぐん)も「つま」の音が残っています
そして八女市筑後市三潴郡の南にあるのが山門郡です
情報ありがとうございます。
ここが投馬(トゥマ)国かもしれませんね。
別の方も、もうひと方指摘された方がいらっしゃいました(すみません、お名前忘れちゃいました)。
おっしゃるまま調べてみたら、筑後の国には上妻郡、下妻郡、山門郡がありますね。
そういうことかも知れません。
@@これはどうでしょう
もうひとつ情報です 八女市に童男山古墳というのがあって 徐福の一行の童の墓との伝承がありますが 伝承では徐福一行は有明海から上陸したそうです
当時 朝鮮半島~北部九州のルートは唐津付近上陸以外に長崎·島原を迂回し 海路でそのまま有明海 すなわち投馬国あるいは直接邪馬台国へ上陸するルートもあったということじゃないでしょうか
当時の道のない陸地より遠回りでも海路を選ぶこともあるかなと
もし唐津から長崎を迂回して有明海上陸ルートならば水行二十日も当てはまると思うのですが
佐賀県・有明海側に徐福伝説があるのは聞いたことがあります。
確かに有明海へ廻るルートもあり得ますね。
なるほどー
ググったらちょっと川から離れてる気もするけど
水行20日で大宰府~久留米あたりまで来たとすると
当時はそのあたりまでが「ツマ」だったのかなー
@@pocapamas さん、
ですねー。今回、のりのーりさんからは、いい情報を頂きました。
その当時の日本の首都なら、しっかりした道があったはず。
陸行一カ月は、かなり遠くに行ける。
しっかりした道があったら、 そうですね。
「しっかりした道」があったか、倭人伝を今一度読み直してみようw
草木が繁茂して前を行く人が見えない程だ、と書いてなかったっけ?
そうですね「当時の日本の首都」だったらという前提に「邪馬台国」はあてはまりませんし、今とは治安はもちろん状況がかなり異なりますので、その場合は、という仮定のお話ですね。「しっかりした道」を通って、どこの国からも攻められない平和な状況にあればというお話の場合です。
@@urlinkin55江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km。15日らしい。
自分の経験では、 四国八十八か所を徒歩巡礼をしたことがある、だいたい舗装された一般道路より、古くからある歩く道のほうが近かったりします。
歩くのが遅いほうでも、一日40キロぐらいは歩いた。
田川に卑弥呼の墓があるというのは本当でしょうか?もし、そうであれば邪馬台国は田川にあってもおかしくないはずです
田川説は逆だと理解しています。
田川に邪馬台国があったはずだから、あれが卑弥呼の墓なのだろうと・・・ということではないでしょうか。
興味深く観させていただきました。とてもよく出来た動画ですね。手前味噌になりますが、2014年に出版してその後kindleで出版した私の仮説とも、「奴国」まで一致していまして、納得できました。ただ問題は「不弥国」の位置ですね。末盧国から奴国まで「東南」に行くわけですが、不弥国へは「東」と倭人伝には書かれています。つまり方角はともかく使節団は、不弥国へ行くためには奴国から45度左へ進路をとったわけで、そこは大事な点ではないかと思うのです。となると結論はだいぶ変わってくることになるのですが、いかがお考えでしょう?
お誉めありがとうございます。
45度自体の精度はともかく、百里=7km程の位置想定の話ですから、大きな影響はないと考えていました。
これはどうでしょう 早々のお返事ありがとうございます。倭人伝のどこを重視するかで、いろいろ解釈の分岐点があるもので面白く感じました。邪馬台国のロマンはこういうところにもあるのでしょうね。
ちなみに私は、伊都国(平原遺跡)から奴国(須玖岡本遺跡)までは、道のりにして26キロ。これを「百里」とするなら、約45度左へ向かい、海岸線を辿って25キロほど行った現在の古賀市辺りに「不弥国」があると考えています。倭人伝の曖昧さは解釈を難しくしますね。ホントに(汗)。
伊都国も奴国も域内の遺跡は多いので、広範囲の国だったことを想定しています。
伊都国から奴国へは日向峠を抜けるのに百里。
すぐに奴国に入り、またすぐに不弥国があったのではと思っています。
ただこのあたりは、他の方々の説に委ねるばかりです。
なるほど、了解しました。クニを点に見立てるのではなく面として広範囲に想定すべき、ということですね?
たしかにそのとおり。具体的な場所の是非は諸説ありますが、ここは大事な認識ですね。ありがとうございます。
魏志倭人伝の倭国への旅程の方角と距離は曖昧な箇所があります。その解釈として海流の影響とか使節団の移動速度とか検証できそうもない説も見受けられます。
こんな謎解きのようなことをしなくても自明な記載があってしかるべきと思い探したらありました。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
これの現代文は以下の通りです。
「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」
倭地となっていますが周囲が五千余里(一里が70mとすると300Km)ですから邪馬台国のことだとすれば、「邪馬台国は他の倭国から絶たれた海の中の島の上に在する」となります。
すなわち四国です。特に阿波。
以下の記述も四国だとすればしっくり解釈できます。
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」
女王国(四国)の東、海を渡ること70Kmでまた倭種の国(近畿・大和)があります。
四国説の難点は考古学的な物証が乏しい点でしょうか。この時代九州、近畿(大和)に限らず中国(出雲)・北陸・関東などにも有力な国があったと思われます。
その中で魏志倭人伝に記載されていたのが女王国(四国)だったということだと思われます。
引用されている記述は九州島でも当てはまります。何故なら、当時の倭地は南朝鮮もそうだからです。
何故四国説がブーム?になっているのか、四国説の三村隆範先生に伺えば本当のことがわかるのではないかと思います。
九州に上陸してそこを転々として再び水行10日の旅程。単純に考えて九州島ではありません。途中から旅程が距離ではなく日数になっているのは魏の国にとって比較的なじみがある北部九州ではなくそこから遠く離れた場所だからでしょう。
「絶在海中洲㠀之上」は四国島の山の上と解釈するのが妥当かと思います。「絶在海中洲㠀」とは島国のことでは?
水行10日で九州から西四国に渡り陸行1月で東四国の四国山上の邪馬台国にたどりつくと考えると比較的無理がありません。もちろん私たちが習ってきた古代史とは違いますが。
四国の獣道を1ケ月も旅をしなければ邪馬台国に到着しないのか?邪馬台国がそんな辺鄙な場所のはずがないだろう。
私もそう思います。ただ魏志倭人伝ができるだけ分かり易く邪馬台国への道順を記述しているのであれば東四国山上が邪馬台国になるのではということです。
返信ありがとうございます。
ただ、水行10日陸行1月は、決して単純に考えることはできません。
何故なら、これをもって過去300年の議論が延々と続いているからです。
ここの部分は、「魏志倭人伝ができるだけ分かり易く邪馬台国への道順を記述してい」ないことは確かです。
「絶在海中洲㠀之上は四国島の山の上と解釈するのが妥当」とされる根拠も分かりません。九州にも四国にも中国地方にも和歌山にも似たような山々はありますし、四国の山上で何か特別なものが発見された訳でもありません。
どの説も都合のよい解釈や間違いを挿入することで正当化しています。
魏志そのもの全体を読み直し、その書き方、事実の認識の仕方を見直さない限り、邪馬台国(台が書き間違いという固定観念が間違いでしょう)の位置確認など無意味です。
邪馬壹国に戻してから考え直さないと、不毛の論議になります。
専門家という人たちはすべて入り口を間違えています。
ん~、分からなくなって来ました。
ごめんなさい。
私的には高木彬光氏の説が一番しっくりとくる。末盧の国は松浦潟ではない。
高木彬光氏の小説は未読ですが、なぜ唐津方面ではないのでしょうか?
酒井正士さんという方が邪馬台国別府(大分)説を唱えられており、最近、本を読みました。それはそれで納得してしまったのですが、いかがでしょうか?
邪馬台国への道のたどり方は幾百もあり、小生動画が入口の一つにでもなれば、という思いです。
酒井正士さんの書籍は、ネットでは要旨のみの紹介なので内容不明です。
何かトピックスはありましたでしょうか?
邪馬台国は銅製武器しかなかった中国において、魏に鉄製武器を送って他を圧倒する軍事的優位性をもたらしたそうです。ならば、他のコメントにもあるように正確な位置がわからないように敢えてややこしく書いたのかも。
私は「100名もの奴婢が卑弥呼と共に埋葬された」という記述からそれに相当する墳墓は宮崎(日向)にあるような気がします。
宮崎の墳墓群も気になりますね。
一度調査に行かないと!
食べ物もおいしそうだし。
すごいですね。動画公開からわずか1月ですが本家の動画の倍以上のコメント数がw
それらを見てみると、ここまで明確に示されていてもやれ畿内だの四国の山の上wだの
史料を著しく無視した「トンデモファンタジー」から脱せない人が多くて
人間は難しい生き物だなあと痛感しました。
そうなんです。コメントをたくさん頂いていて、議論の場にもなってる感じでしょうか。
私はただの歴史マニアなので、自分が知っている範疇しか発表できないのですが、質問・ご指摘は多岐にわたり、その都度調べた情報を吟味してお答えするようにしています。
アドバイスも沢山頂いていて、とても勉強になっている動画発表です(笑)。
ご指摘の、人間は・・・、 同感です(笑)。
@@これはどうでしょう わあ、ご返信ありがとうございます。陰ながら応援いたしております。ありがとうございます。
こちらこそ、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
奴国までは里数表記で、その先は日数表記、ただ「帯方郡から邪馬台国までは12,000里」これは魏の船で直行した場合の時間距離です。つまり12日掛かるということ。ノンストップではないですよ。洋上泊まりは無理だし、水や食料の補給も必要。なぜ直行?(1)急ぐ場合(2)陸路は極めて難路(3)狗奴国を迂回する必要がある(4)荷物が多い---など。
なこくは那珂川で不弥国は宇美ではないかな😊
私もそんな感じだろうと思います。
1:37 卑弥弓呼のことは 誰もコメントしない。私はスサノオだと考えますが。
あと出雲の近くに350本の銅剣が固まって発掘された場所がありましたね。荒神谷遺跡遺跡でしたね。
あれが私には国譲り神話の現実の証拠に思えて仕方ないですが、どなたもそんなご意見を言ってる方はない。銅剣は古代には貴金属で宝物だったはず。日本でこれまで発掘された数以上の銅剣が一気に見つかった。
358本の荒神谷遺跡の銅剣ですね。
出雲の博物館で実物を見ましたが、もう圧巻でした!
あの銅剣の分析はかなり進んでいて、荒神谷の近くで鋳造され未使用のまま鋳造された順に埋納されたのだろうということが分かっています。
伊都国 官 爾支 (ニキ・ニギ)のことは
私を含めて現在まで2人しかコメントしない
それは饒速日・物部氏であろうと
一大卒や持衰など、
後大和朝廷での物部氏の警察権・検察権・祭祀(宗教)とのマージを彷彿とさせる、というか、
そのものにしか見えない
そして、末盧国・伊都国・筑紫・筑後川河口デルタと邪馬台国への行程は、当時の物部氏の拠点が有った場所に沿っていると見える。
卑弥弓呼はなんとも言えません
倭人伝と同時代の広志に載る邪届伊都、傍連斯馬 の意味をどう理解しておられるのか
素晴らしい見解だと考えます。
古代史愛好家の私からすれば限りなく真実に近いかな。登録しときました。
今後の動画期待してます。
近辺に船曳、船越の地名は無いでしょうか?
お褒めの言葉、ありがたいです。
地名について地図をざっと眺めたところ、特に見当たりませんでした。
地元の方のご指摘に期待したいところです。
船越ありますよ。船越村だったんですが、今は久留米市田主丸町とうきは市吉井町に編入されて大字として残ってます。船越小学校が今もあると思います。
@@jamescorn8273 さま。
1年ぶりに動画再視聴したら、船越村のコメントに気付きました。やはり古代から船の通路だったことを確信いたしました。ありがとうございます。
最近は、松浦からの陸路移動がどうにも不自然に感じて、宗像近辺が松浦ではないのかと考えています。
あの〜っ、全くの素人なのですが、質問したいのです。女王 卑弥呼 女王なのに何故卑弥呼なんですか?何故 卑 の字が使われてるのですか?それと卑弥呼は個人の名前ですか?
その人だけの名前なんですか?
さあ、どうなんでしょう?
私も真実はわかりませんが、中華思想から周辺国をさげすんで名前を記述することが普通だったと言われていますね。
個人名かどうかはここにしか登場しない名前なので、分かりません。
お忙しい中ありがとうございました^_^
邪馬台国を越(高志)とする説
八俣遠呂智(九州説から変更した人)
ua-cam.com/video/F21Knt-2rS0/v-deo.html
陸行一月は越から但馬までとある
越とする理由には、距離だけでなく水田、鉄、ヒスイなどの考察から比定しています。
この方のUA-camは何本も見たのですが、
(何故かお勧め動画に入ってくるので)
おかしな根拠が多々あります。
コメントは差し上げたのですが、ノーレスです。
(肯定コメントには返信してる)
この方は何者なんでしょう?
@@これはどうでしょう
動画配信を始めた頃の内容には、
神奈川県の図書館で資料を閲覧しているとある。どこかの研究員なのかもしれません。
考察(推察)からの比定を覆す根拠を
私には見つけられないので、
九州説と断言している動画にコメントさせて頂きました。
返信ありがとうございます。
変な問いかけをしてしまってすみません。
私もこの方の神奈川県の・・・というのは見た記憶はあります。
福井の方ではないのに県議会へ発掘の陳情書を出されているのですから、主張されている内容への批判には答える義務があると思っています。
横より失礼します。
私もこの方の動画は観ました。
邪馬台国があった証拠を大きな淡水湖後に絞って考察していたのが特徴的でしたね。
ただこの「越」と言う国名が大陸の春秋時代にあった「越」に関連があるのではないか?と思うような動画がありました。
「越」と「呉」は共に長江下流の海岸線にあった国で仲が悪く争いが絶えなかったけど、共に「楚」に滅ぼされ難民は海路にて日本列島に流れ着いたのかも知れません(呉越同舟)
どちらも水稲栽培してたし、鉄器も持っていたでしょう。
「越」は大国であったかも知れませんが、邪馬台国では無かったように思えますね。
貴方の長浜浩明氏説をヒントにした推定は、おおよその処で賛成します。只数か所で、少し疑問に思われるところや、他説の方が素直に頷ける所があるのでご参考まで述べさせていただけます。 1.伊都国から奴国まで百里と魏志倭人伝には書かれていますが、百里は約8キロぐらいですよね。ならば、今の福岡市西区(早良地区)の吉武(吉武高木遺跡)付近です。そして、2万戸の住居があったのですから、かなり東まで奴国は広がっていたと思われます。したがって、須玖・岡本遺跡よりもう少し東(吉武より百里)の比恵・那珂遺跡が(南へ水行できる御笠川の畔に位置している)が不彌国ではないかと思われます。 2.魏志倭人伝の一番の問題点です。いままで距離で示していた記述がここから先が日数になっているため、投馬や邪馬台国の位置が比定できなくなっているのです。其れはなぜでしょう。それは、郡使が不彌国までしか行けなかったからと考えたら如何でしょう。郡使は倭国を調査に来たのですから、詳しい正確な報告をするはずです、しかし、倭人にとっては逆のはずです。首都である邪馬台国はできるだけ隠しておきたいはずです。だから今までも伊都国に留まらせたのです。だから投馬国や邪馬台国のことは、倭人から聞いたことを記したのではないかと思いますが如何でしょう。それを裏付けるものとして随書に「倭人は里数を知らない只日を以て計算している。」と書に書かれています。
3.そこで疑問です。行っていないのにどうして、いきなり邪馬台国まで距離が万二千余里と書いたのでしょうか。それは当時の中国では遠方の国へは、都から万二千余里と記していたようです。実際の距離ではなく、当時の常識、当時の中国人の世界観に基づく信仰的な距離なのです。(東亜古代史研究所 塚田敬章)だから、日数表記も、万二千余里もこだわることなく、邪馬台国の所在地を筑紫平野のどこか(伊都国や奴国と連合するには)に推定してよいと思います。但し文献からではだめで、やはり考古学の発見を待つしかないと思います。
丁寧なご指摘、ありがたいです。さて、
1について
ホントそうなんです。奴国について最初は私もあなたの言われる説をとりたかった。そうすれば、伊都国からの距離・方角がばっちり。
が、吉武高木遺跡を調べてみると(行ったことはないです)、弥生前期~中期とされていて諦めました。
また、奴国2万戸、不弥国千戸ですから、広範囲に弥生遺跡が分布している御笠川と那珂川に挟まれた那珂遺跡群~須玖岡本遺跡のあたりを通説通りに奴国としました。
比恵那珂遺跡は博多駅方向の遺跡ですよね。ここも奴国に含まれると解釈しました。
2について
ここが一番の問題点とのご指摘は全くそうと思います。
使者が邪馬台国へ行ってない説は、たまにお見受けするのですが、壮大な贈物を持たせている以上、卑弥呼にちゃんと届いたか、そして礼辞の一つも貰ってこい、と言われていたのではないでしょうか(想像です)
3について
ここは正直よくわかりません。
2と合わせて、不弥国から邪馬台国までの距離・方位は分かっているけど、三国志が正史に採用された晋朝時代でもそれは国家機密扱いで伏せたのではないか、それで総計里数を1萬2千余里としたのか、というのが私の解釈です。
そして、考古学発見が待たれる・・同感です。
@@これはどうでしょう 吉武高木遺跡へは行った事が無いとのことですが、福岡市が作った吉武高木遺跡(UA-cam)をご覧になりましたか。またはグーグルマップ(航空写真)でご覧になり、ストリートビューで付近の道路から周囲の景色をご覧になれば如何でしょう。付近には野方遺跡などもありいわゆる早良平野地区ですから諦めないでください。近畿説者の様に遺跡があるからと言って、方角を東から南へ勝手に変えるような愚を犯さないでください。更にここから百里東へ行くと南へ水行できる御笠川に行けることは間違いない事実ではありませんか。また御笠川と那珂川に挟まれた地区に7万戸の集落は入らないのではないでしょうか。
2について貴方はなぜ里数表示が日数表示になったとお考えでしょうか。
3について私は塚田氏説をとっていましたが「測量史研究者の谷本茂氏は、古代中国の数学書『周髀算経』の、8尺の棒を立てて南中の太陽の影の長さを測り、「1寸」長さが違えば「千里」という記載から、1里の長さを76~77mと計算したとあります。」この方法だと影のの長さを計れば、簡単に直線距離が分かりますので、見直さねばと思っています。更に旧唐書に「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、」とあるように前述した信仰的数字ではなさそうです。
4現在の考古学の発見からみて一番倭人伝の邪馬台国の情景記述に近いのは吉野ヶ里遺跡ではないでしょうか。
荒木隆祐 さん、色んな知見、アドバイス有難いです。
1の続きについて
吉武高木遺跡のUA-camを見ました。福岡市作成のものは見つからなかったので、古代史日和さんの動画でした。
弥生当時の、国と呼んでもよさそうな広大な遺跡ですね。
ただその中の記述でも2000年前に終焉したとありましたので、ここを奴国の中心と置くには少し無理があるのでは無いでしょうか。
伊都国からの距離は合うので、ここで奴国に入り那珂遺跡まで進み、それらがみな奴国とすれば収まるように思います。
あと、ご指摘の那珂遺跡周辺に7万戸は・・・ですが、奴国2万戸ですので、それ位は想定できると思っています。
2について、
は、前述した”国家機密だったので”と解釈しています。
3の『周髀算経』について
興味深いお話です。ここで算出される直線距離は緯度差分のみということでしょうか?
76mが1里とすると12000里は912kmになり、帯方郡から南に計ると九州を超えてしまいます。
4について
その通りと思います。
福岡平野の中の旧郡が昔の小国だとみれば、
それぞれの地域の範囲がイメージしやすいと思います
吉武高木遺跡は早良郡で早良川(室見川)流域の国ですね。
比恵、那珂遺跡群は那珂郡となります。
@@これはどうでしょう 私もそう考えたこともあります。何しろ奴国は2万戸もあるのですから。しかし、そうなると不彌国へ東に百里とあるのは邪馬台国への順路ではなくなりますね。邪馬台国へは奴国から南へ水行したということでしょうか。
南東500里で吉野ケ里伊都国で糸島は領域国家の一部と考えます 南に水行10日約180キロで薩摩川内邪馬台国で20日黒潮利用で投馬国宮崎と思います
南九州も含む広域・邪馬台国連合、というお考えですね。
宮崎、鹿児島については勉強不足で古代のイメージを想像しづらいのですが、今のところの考えでは北部九州とは文化の歩みは同期していない印象です。
吉野ケ里=伊都国とお考えの方は他にもいらっしゃるようですが、行程の辻褄以外はあまり合わないのではと思っています。
返信ありがとうございます。7万戸は新田神社の薩摩と大隅があり宮崎にも鉄製作され農具もありますし人口爆発したのではないかと思います
そうですね。
宮崎方面が繁栄したのは、4、5世紀以降だろうと思っているのですが、継続調査します(笑)。
前方後円墳は宮崎北部で4,5世紀ごろで宮崎の生目古墳はそれより前と考えられます
あるほど。
ありがとうございます。
今の地図でなく、弥生時代の海岸線を再現した地図で見ると、朝倉あたりの川からすぐに海になってますよね。
その海岸沿いに南に向かうと山門もあるけど、十日や二十日と書く=実数ではないが虚数的な意味で距離があるという意味の表現だと考えると、熊本くらいまで南下して、そから東に一月(これも虚数。船で一年とか書いちゃうくらいですし)で、東に海があるところまでいくと大分や宮崎も怪しい気はする。
あとは筑紫平野、宮崎県あたりにある巨大な古墳群とか未発見の遺跡の調査が進むことを待つしかない。
少なくとも『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は九州として読まないと「不弥まであの距離感で細かく書いていたのに、女王国より北以外はよく分からないと書いている記録が、全てすっ飛ばしていきなり遠く東にある畿内に飛ぶ」と考えると、中国や台湾の歴史学者が言うように不正確とはいえ史書として余りにも不自然だと思う。
考古学的な調査から山陰山陽や畿内にも大きな勢力があったのも確かだし、畿内のそれが天皇家に連なっていることも確かだけど、『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、投馬国、狗奴国、侏儒国(種子島?)』に限定して考えると、九州以外は不自然すぎる。女王国より北は細かく分かっているとか、東が海になっているとかいう記述も含めて。
「水行十日、陸行一月」をそのまま読む人は、船で1年という記述もそのまま日数を信じているんだろうか?
筑紫平野、熊本、大分、宮崎あたりをもっと発掘調査して欲しい。
考古学的にみると邪馬台国近畿説がなりたたないことは、長年纏向を発掘調査されてきた関川尚功氏が出版された著書などからも明らかなハズです。
ここに論点を置かない考古学者は、エセ〇〇〇〇と言わざるをえません。
UA-camでも講演会の内容が見れますので、参考にされてはいかがでしょうか。
ありがとうございます!見てみます!
【南へ水行~邪馬台国に至る】は、総合計の話と解釈できませんか。
そういう解釈も出来ると思います。
ただ、この水行10日・・・の記述については過去300年も議論されてきたことなので、ここの解釈は決め手にはならないだろうと思っています。
「魏志倭人伝」のあいまいな記述に惑わされる説は多いですが、帯方郡からの全距離の記述からして邪馬台国は確かに九州にあった。ただ同時に倭国大乱を避けて九州の伊都国の主流が大和に東遷して築いたヤマト王権が勢力を伸ばしていた(崇神・垂仁期)。それに対抗するために卑弥呼は魏に冊封使節を送ったのです。九州勢力はその後も時により中央に反抗しています。私は古代史に興味があり昨年『継体大王異聞』(幻冬舎)を刊行しました。その中に私説ですが、倭の成り立ち、任那とは、神功皇后の伝説、応神天皇の出自、そして継体天皇の謎めいた生涯を創作でまとめてみました。
コメントありがとうございます。
伊都国の東遷説も含めて、邪馬台国の時代から継体天皇の時代あたりまでの筋書きが解ければ、日本国の成り立ちのあらましが分かるとも思っています。
ただ、この間がジグソーパズルのようで、間違ったピースがあったり、ないピースがあったりと、空白の○○と言われるゆえんですね。
古代史マニアはゾクゾクしてる訳ですが(笑)。
本を刊行されているとのこと。素晴らしいです。
機会あれば読ませて頂きます。
私の本籍は福岡県山門郡大和町字鷹尾でした。
へ~~~~~~、凄い!
今は柳川市なんですね。
倭人伝には、邪馬台国は九州倭国から海を合計30日ほど行ったところにあると書いてあります。つまり近畿です。卑弥呼は倭国の女王であり、邪馬台国の女王とは書いてありません。時系列からいって、女王之所都の女王は卑弥呼ではなく、トヨの可能性が高い。
コメントありがとうございます。
ただ、その推論からだけでは300年に渡る議論の結論は得られないだろうと、いろいろな人たちが色々な角度から検討、推定しているのだろうと思います。
この動画の時点では、ここが最も邪馬台国に近いと思っていましたが、現時点では日田が邪馬台国だったのだろうと考えています。
正しいというより、一番説得力があるように思います。これからまだまだ新しい発見があるかもしれませんが、それはそれで楽しみです。歴史ロマンですね。
私も正直正しいかどうかは分かりません。
ただ、考えることは楽しいですね。
確実にわかったら、どのような事になる?
未だにはっきりしない4~5世紀の日本の古代史を紐解く為の、重要な切り口になると思います。
@@これはどうでしょう ありがとうございます!
一生 どこか発表はないけど
『熊本県山鹿市』にありました
山鹿に何があるんでしょう?
@@これはどうでしょう
方保田東原遺跡
もう40年くらい前から ずっと全体の2%しか発掘されてません。
卑弥呼の神殿は
金峰山 不動岩 阿蘇山を点で結んだ中心にありました。
丹を産する山=阿蘇山
熊本説の方もたまにいらっしゃいますね。
何か根拠が欲しいところです。
丹ありだけでは、阿波にかなわない?
筑後川宝満川沿いで考えれば山門町瀬高町菊池市阿蘇山宇佐市臼杵市辺りじゃないでしょうか?まだまだ見つかってない遺跡があるんじゃないでしょうか?
まだまだあるぞ、と期待したいですね。
大規模発掘のきっかけは、新幹線や高速道路、というあたりが常道だと思いますが、それ以外でも今後に期待です。
熊本の菊池川流域の方保田東原遺跡はまだまだ全体の2割引ぐらいしか発掘調査されていません。この2割だけでも鉄の出土量が西日本随一です。この遺跡が邪馬台国時代と同じ時期というのも将来の発掘ヘの期待が待たれます。個人的には邪馬台国と対立戦争した狗奴国ではと考えています。故にとても邪馬台国奈良説はあり得ません。ただ国策で奈良集中にしたいだけでは。
+陸行1ヶ月で、宇佐でどうでしょう?
この頃の推定と違って、現時点では宇佐はあると思っています。
私の(今の)筋立ては水行10日で宇佐に着き陸行1月で日田に入る、というものです。
旅程が途中から距離ではなく日数になったのは、実際にそれだけの日数を費やしたからに思う。体幹的な距離感(一日50里だとか)を換算して記録しとしたら、同じ換算方法では距離を示せなくなるくらい進行速度に差があったら単純に日数を記録するしかない。ただ私は可能性として複数の報告書を適当に纏めたから単位が変わったと考えもしています。断りもなく単位を変えてしかも2か月分の旅程があるのに日数しか記録しないのは報告書として変ですからね。不弥国は大宰府の辺りで外務省的な渉外対応をする政府の出先機関だったとしたら、外交目的にやってきた魏の役人は首都まで行く必要はない。倭国が楽浪郡や帯方郡までしか訪問しないのと同じ理由です。過去に女王国に行った報告書があり日数で書かれてたものを史書として書き写して済ませたという考えです。この場合近畿説(2か月の旅程なのでもしくは近畿より向こう)になりますが。
そういう考えもありだと思います。
ただ、その場合近畿説になる理由が分からないです。
@@これはどうでしょう 二カ月にふさわしいとなると向うの方かなという程度の意味です。
了解しました。近畿よりも向こうの可能性も出てくる、と解釈します。
日本に上陸してから、距離じゃなくて日数になるのって、使節団に対する歓迎行事のせいじゃないですか?
公式訪問なら、それ相当のセレモニーがあったと思います
単なる紀行文じゃなくて、報告文書なのですから、何日滞在したのかって重要ですよね
コメントありがとうございます。
その説は長浜浩明氏の説として聞いたことがあります。
そうした矛盾しない解釈も、推定には必要なのだと考えています。
邪馬台国って1箇所なんですかねぇ。現在の日本の都道府県のように各地に都市があるはずだと思いますが、首都と考えると1箇所に限定されるとするべきなんでしょうかねぇ。海外との交流も考えると、攻めこられることも考慮して、あえて大陸の人間に正確な場所を教えなかったという可能性は誰も考えないのでしょうか?
「あえて大陸の人間に正確な場所を教えなかった」という考え方。
私も最近考えるようになりました。
「水行十日陸行一月」はこの動画の時点では長浜氏の考えにならっていましたが、あえて正確に伝えなかった可能性もありますね。
@@これはどうでしょう さん
その可能性も高いですよね。古代だからと軽く観る傾向がある古代史ですが、脳の発達はさほど変わらないはずなので、頭の使い方は、時代が変わろうと現代人に近いはず。違うのは環境と世情ですので、例えば縄文人の子供が現代に現れたとして、私達と同様に成長し、現代人と遜色なく車を運転し、科学に接したでしょう。そう考えるならば、当時の国内の様子だけでなく、大陸の情勢もタイムラグがあるとしても入手しているはず。海外からの脅威は理解しているはずなので、そこに【駆け引き】がうまれるのは必然と考えます。
同感です。
現代人は過去からの知識を蓄積しているだけで、個人の本来の能力は大したことないかもですね。
私は、官名からして軍人と目される魏の使者 張政が伊都国や不弥国まで来て、邪馬台国連合が首都を教えないとか地理を教えないと言うのはあり得ないと思う。
張政は、卑弥呼からの狗奴国との戦闘が本格化したとの報告に接し、倭国に来た。
冊封体制とはいえ軍事同盟であるが、当時の支那の軍船では東シナ海を航海するのは自殺行為だし、
コストを掛けたく無かったのかもしれないが、
史書を見る限り
張政ら軍事顧問団だけ来たのだろう。
基本的情報さえ渡さない相手と同盟など組めるかね?
もし、仮にそんな事をしたら、撤退するし、同盟も解消だろうし、敵になるだけだ。
そんな事をして何のメリットがあるのでしょうか
曖昧と言ってもさすがに近畿までは行かないでしょうと思ってしまいます。
曖昧とはいえ、九州付近だと感じるのが自然かと、それよりその後邪馬台国がどうなっていったのが気になります
当時の西日本の国々の状況を想像してみると、畿内に九州が統治されていたと考えることは出来ないですね。
おっしゃるように私も邪馬台国のその後には大変興味があります。
セニョール!名推理!写真の倭人伝が20世紀初頭の張元済の百納本と推定できると思いますが?元々断片しか発見されてませんから仕方ないんですけど。(笑)人物伝から推察した場合、本当に親魏倭王の印は製作された文献があるようです。
制作制限・禁止されている器具と表現されていますが。正規工房で制作されたようですが、正規のプロセス・魏朝の指示が無いのに作成された可能性があるのかな?なので、文献が正しければ親魏倭王印は、存在するのかも?そんな事できる人は、そうそういませんけど(笑)卑弥呼の動きがあまりにもタイムリーですし、半島から北部九州が整合性高いですね。
ただ、この写真の倭人伝は張元済の解釈・追記が入っている可能性があるかも?しれません。
畿内説の方々は、水行10日陸行1月なれば大和だ、と言われますが、往復2か月かけて国の大事を占ってもらっても、「タイムリー」には意思決定出来ないと思いますが、ね。
写真の倭人伝は吉野ヶ里で撮影したものです。
@@これはどうでしょう セニョール!同感です。
聖徳太子の弟殿下が築紫~斑鳩 間2ヶ月と文献ありますね。
魏志は、禅譲の正統性を示す文献。本来は倭人伝は、必要ありません。何故?倭人伝を挿入する必要があったのか?答えは、曹爽のクーデターを阻止して、曹操の子に戻した功労者・司馬懿・司馬師の功績の話を伝える為でしょうね。
曹爽は、曹真の子で曹操の兄弟の子。血筋が違います。母丘倹も曹真・曹爽の派閥。曹丕時代に派閥が拡大したんでしょうね。そのクーデターの始まりの時に倭人が来た。
司馬師は、環夫人の曹據【曹拠】を後継者に擁立していましたが、曹爽が反対し幼帝・曹叡となります。環夫人の三男・燕王・曹宇と曹叡は、とても中が良かったそうです。曹拠は、魏帝になると考えて独断で金印を造らせ倭人に渡した。
魏志の記載を誰かが、変更していますね。裴末之かな?曹爽が曹操の系統で無い事を知らない人が変更した可能性がありますね。司馬懿がクーデターしたように、語る人がほとんどですが、司馬懿・司馬師が曹操の子供達に魏帝の座を戻したんですけどね?
この情報知ってれば、倭人伝論争は、新たな局面を迎えるかも?(笑)
セニョールに1番目にコメントします。木曜日の夜に到達した話です。
魏の使節団の目的は北部九州(邪馬台国)の文化等を調査する事。行き方の説明は邪馬台国の中心地の不弥国まで
投馬国は鹿児島の薩摩
魏の使節団は卑弥呼が耳納山地の山奥に居たとして面会出来ない事を理解している
コメントありがとうございます。
私も最近、その「耳納山地の山奥」とも言える日田に卑弥呼が居たのではないか、と考えるようになりました。
それを古代史の最新話で紹介しています。
訂正します。投馬国は、とうまこく ではなく つまこくですね。不弥国から南下して山門国の間に 投馬国がある訳で現在の久留米市が古来より物流の中心地であり、久留米市の古い地名は、みずぬま~水間~三潴国でした。三潴国を調査団は、みづまから つまこくと聞き取ったのかもしれません
そうかも知れませんね。
投馬国については、正直よく分かりません(笑)。
推論は正しいと思います!距離は帯方郡から一万二千里・ぴたりですね・山門の権現塚古墳は丸墳で卑弥呼の墓の可能性が高いですね!南は東の誤りであるなんて信じられない解釈ですね!箸墓は前方後円墳なのでありえないですね
権現塚がそうだったら、ズバリでカッコイイですけどね。
「樫原敏之」という方が、TVにてを用いて、帯方郡の東南への直線距離&揚子江口から真東への直線距離を引用し、各円周の交点を求め「阿波にヤマトがあった」説を裏付けています。各国の配列もそれとなく裏付けています。 「難」があるとすれば「狗奴国」=高知としているのですが、各距離を測る際、高知県の南側を含んで説明している点です。 自身も「旧い記述には誤りが生ずる」と学生の頃思っていましたが、他史の編纂過程を知ると、現代人が思うより「厳密」に踏襲して記述されている(書記という職の責任性)・ということに傾向しました。なので三国志等を編纂する際にも、文字列の記述を安易に誤る可能性は乏しい・と考えます。 また中華には地震計等の進んだ測量技術等もあったようですから、方位・距離も安易に誤るようには思えません。 ●ひとつ気になるのは、当時の地理感自体が誤っていた・ということにあります。 現代地図でも上=北、下=南・・と既存概念を保持していますが、この地図自体が誤っているとすれば、当てはめる情報処理に誤差が生じます。 <<これが今の「?」です。実際中世の朝鮮では「対馬」と「壱岐島」は同等の広さで、×2倍が九州の広さ・かつ南・南・南(安易に真下直行です)となっています。東国も畿内あたりまでは、けっこう細かく載っていますが、以東は小範囲でかつ東北北部も東に位置しています(北-上-に伸びていない)。北海道は(無く)小島群になっています。 土地勘自体があやふやです。こんなふうの情報に、現在の日本地図を当てはめても、ピッタリ・はどうか?と思うのですが・・・
【古代史探索の旅Ⅱ】やはり、日本の旧い先人観に着きましたね。 お疲れさまでした。
次「これはどうでしょう」第1話いきます。
古代中国には漢の時代から、渾天儀という大がかりな天体観測機が発明されていて、その土地の緯度・経度を計ることができたのだそうです。
以前に阿波説の方とのやりとりの中で勉強した時の知識です。
ただこれの計測には正確な時計も必要でもあり、また、根本的に、このような国家として重要な精密計測機を阿波の地まで舶載する許可が出るとは思えません。
もしそういう活動が古代にされていれば、先の中世の朝鮮の地図のような事にはならないのだろうと思います。
東阿波ケーブルTVの特集には何本か面白い?動画がありました。
水行20日もかかりますかね?川下るのに。
投馬国、邪馬台国、水行、陸行のくだりは難解ですね。
長浜さんのように諸国連合に立ち寄る説もあるでしょうし、帯方郡からの総日数という見方もありますね。
最後の行程は正確には書かない、という思惑も感じられます。
この情報からは位置決め出来ない、というスタンスをとるしかないと思っています。
@@これはどうでしょう このあたりの日数で徳島か四国、または大穴狙いで徳之島にしてます。九州地方の吉野ヶ里公園が邪馬台国ヤマトなのですね。昔、修学旅行で行ったことあります。お城みたいでした。
どうなんでしょうね。
親魏倭王の金印は、どこかの天皇陵墓にあるのかなあ?
確かに卑弥呼の後継一族が東へ向かったとすれば、それもあり得ますね!
南へ水行二十日・・・とあるのは、男王の居る『ヤマト王国』の事を意味しているのだと私は推測しています。
ヤマト王国⇒邪馬台国、ということですね。
ここから何里とかそれは、わざと遠く書いてある!ちなみに、南九州説派です!
卑弥呼の時代、金印を貰ったのは、卑弥呼と、大月国(中国のずっと西に1700里?17000里だったかな、、、それよりは邪馬台国を遠くに書かないといけない理由があるから)
わざと、大袈裟に書いてあるw
皆既日食や入れ墨からして九州説だと思う
根拠はたくさんありますが、九州で間違いないと思います。
現代の地図上の距離(あるいは実測値)と東夷伝記述の里呈記事との間に矛盾がなければここまで数百年間、諸説紛々とはならなかったはずである。今、方位を考えないで純粋に距離だけを現代の地図で観ると直線距離として例えば北京ー平壌が800㎞、平壌ーソウルが200㎞、ソウルー釜山が400㎞、釜山ー対馬110㎞、対馬ー唐津185㎞、唐津ー糸島30㎞、糸島ー博多30㎞、博多ー飯塚35㎞、などとなる。筑紫を糸島とすると現代の地図上では糸島ー釜山は凡そ300㎞である。ところが、帯方郡(ソウル)ー釜山は400㎞であるから帯方郡ー糸島が700㎞、ということになる。糸島から先は女王国の位置がが決まらないと距離は出ないが、投馬国ー邪馬台国のところには方角だけ記していて距離は示していない。さて帯方郡から半島の西側を狗邪韓国まで船で南下したのだが、これには7千余里と記述されている。現代の地図上の直線距離では400㎞を7千余里と記述する感覚と、狗邪韓国(釜山と観て)ー対馬の直線距離11O㎞を千余里と記述しているところに距離的な矛盾を感じざるを得ない。両方とも船で南下したのに変わりないのにである。
ご指摘のように魏志倭人伝の中の里数記述の不正確さで、国々の比定がなかなか解決しないという一面はあると思います。
一方で、「そこそこ合ってる」という姿勢で読んでいけば大きな矛盾なく邪馬台国へ行きつけるのでは、というのが今回の動画の大意です。
ご指摘の数々の実距離についてのご検討は、直距離だけなのか、経由距離を含むのか一貫しておらずよくわかりません。
帯方郡・狗邪韓国間の7千余里は、「郡より海岸に沿って水行し7千余里で狗邪韓国に到る」とあるのでそのまま受け取られればよいかと思います。
直距離とは記述されていません。
「陸行一月」と言うのは、陸路を一ヶ月かかって進む“距離”を表しているのではなく、単に「一ヶ月かかった」と解釈すればいいのだと思います。
脇目も振らず一ヶ月間行進し続けるなど現実的ではありません。
恐らく、各地で接待を受けながら、数日間滞在したりもあったでしょう。
現代で言う「1週間旅行に行ってきた」と同じです。
世界1周したのかも知れないし、隣町の温泉でずっと滞在したのかも知れないし。
「陸行一月」に距離を当てはめるのは意味がないと思います。
なので「陸行一月」は無視していいと思います。矛盾ではありません。
なるほど同意です。
水行十日陸行一月は、奈良へ連れて行く唯一の根拠ですが、そこが無意味となれば九州から出ることは出来ないですね。
邪馬台国のヤマト国と発音し、奈良県の指しています。
大和政権が形成されていて神武天皇以降から現在の第126代今上天皇に継承されています。
そういう考えもありますね。
素晴らしい動画ですね
私もこれが正しいと思います。
里で示されていた経路が日で示されることになったのは、
邪馬台国側からもてなしを受けながら進んだからだろうと思います。
ありがとうございます。
距離を秘匿する為という考え方もあろうかとも思いますし、道中のもてなし説もありえますね。
松浦から東南500里方向は明らかに吉野ケ里を指すと思う。今より海進状態だったはずでそこから水行で有明海を進んだと思う。そうすると熊本中南部の山都町あたりではないか?
そう考えたいところは私もあるんですが、そうすると伊都国、奴国の整合性が付きません。
ちなみにですが、熊本県山都町の名前の由来は、公募による命名だと聞いています。
山都町が公募名だということは知りませんでした(;^_^A)。 ただ熊本の中南部ではないかとは考えています。
奴国の件は確かにイメージとして位置的に合わないですね。
この時期の熊本県内の隆盛地域は中部と北部の平野部だと思われます。
山都町は熊本県中部の山間部になりそうですね。
@@これはどうでしょう そうですね、女王他一部の人の居館(王館)は山間部にあったというイメージがあります。クニとしての支配地は熊本の広い平野部におよんでいたんじゃないかと。
女王達の居館が山間部にあったとのお考えは、私も同意です。
ただ、卑弥呼の時代の考古資料を総合すると、福岡平野~糸島平野~唐津平野~筑紫平野を中心とする北部九州一帯の連合と、熊本地方には隔たりがあるように思います。
→ua-cam.com/video/GZz0WhT6ouk/v-deo.html
ナレーションの声に騙されそうになります。
久々のご登場ですね。
是非騙されてください。第5話でも・・・(笑)。
耶馬渓、山国、英彦山、みやこ町、宇佐神宮などがある様にそちらが邪馬台国であろうと感じています。卑弥呼はそちらより来られヤマトの国を統括した女王であろうと。その女王(役職)は仲哀天皇の后さまです。
山門と仮定されたのも大和政権があったのはそこで間違いないと思います。
つまり、ヤマトの国と邪馬台国は別けて考える方が頷けるかと。幣立神宮を含む大きな範囲がヤマトの国(山門)でしょうね。
ちなみにその時期は海水面が上昇していたと思われますので水行でもう少し遠くに行けると思われますし、内陸の河川の水位も上がっているので船での往来は容易かと思います。
ミヤマは、御山であり、御の字は高貴な方にしか用いませんからミヤマは皇族が居た地域ですね。別の話ですが、平家が落ち延び晩年住まれた場所の地名も御(五)が付いています。
遠賀川もかつてその時代は御神川であり英彦山より流れる随所に猿田彦が祀られ上流には邇邇芸さま、下流は内海の肥沃な土地がありその周辺は八剱神社が点在しています。もちろんその側に宗像大社もあります。この辺が高天原であると推測しています。
大任町には出雲神社がありシジミが有名なのも不思議ですよね。
どなたかが言われていた沖縄の話ですがそちらにもルーツがあるのは間違いありません。
何故ならその時代航海術に長けたものが必要ですので。
山門の話、長年心に痞えていたものがストンと落ちました。ありがとうございました。
最後に個人的な希望ですがイフヤサカは飯塚と思っているのですが機会があればその仮説を立証して欲しいです。
私の知識を超えたご見解、なかなか返答できずにおります。
なれど、大和の国の生い立ちなる地があるのか否か。
興味あるポイントですね。
@@これはどうでしょう こんばんは。以下はあまり言えない話なのですが、一部の九州の神道における宮司さまクラスでは口伝による内容です。
宗像三女神はある姉妹のお子さんでありその父は国津神の祖でございます。
またその姉妹はいわゆるヨミの国に流された死の国の媛であり、八、九の字を以て現世に残ります。
これ以上は此処ではお伝えできませんのでお察しください。
ちなみにこの話は稗田阿礼、柿本人麻呂の記述と、私のHNの産土のルーツを探り、兄の建に導かれた気付きです。
高天原がどこであろうとヤマトの国が何処であろうと邪馬台国が何処であろうと其れはどうでも良い話かと存じます。人が人でありその祖がある事で今の日本がある事を幸せに思います。
本当に良い動画を作られていらっしゃいますね。これからも頑張ってください。応援させていただきます。ただの神さまフェチの戯言ですのでお気になさらず。チャンネル登録させていただきました。失礼します。
私など知ることもできないお話をありがとうございます。
これからまた、あちこちを訪問させて頂く時の道しるべとして、記憶させていただきます。
それまでにも、自分なりに考えてみたいと思います。
邪馬台国があったのは間違いないですが
今、ロマンと言う感情で想うのはどうなのかな、と考えます
想うほど大きくはなく、ほぼ朝鮮半島人、九州北部への渡来人コロニーだと思います
中華、朝鮮からすると日本列島の入り口、その国の窓口とみなされる地域だとすると最初はその国の全体として見るでしょうが
本州には比較にならない人がたくさん勢力が居て、、、と言うことです
単に、それ以前に日本にいた人の国とは別の集団であることにより勢力的に弱体し消えた、消されたと自然に考えたほうが全く自然です
畿内説、日本の起源とすり合わせるのはナンセンスです
歴史的には一瞬のその地域の出来事でしょう
歴史を消されたと言う表現は残酷ですが
その通りだと思います
男系の天皇の一筋を国として固定してきた歴史からして
畿内説はナンセンスです
列島の九州北部の小さな国があった
それだけです
邪馬台国がはっきり分からないのでロマンなんでしょうが
歴史的には一瞬の小さな出来事です
それより大きな勢力が居たので当然統一、統括され無くなった
と言う流れでしょう
そのお気持ちは良く理解できます。
ロマンは人それぞれですからね。
ただ多くの人がこの歴史の謎を解きたいと思うのには理由があります。それはある意味では、
「歴史的には一瞬のその地方の出来事」
なのかどうかが分からないから、とも言えます。
大和朝廷が最初に九州勢と相対したのが6世紀の磐井の乱ならおっしゃる通りなんですが、記紀の記録でもそれ以前に大和と九州の関わり、攻防が多々あり、そもそも大和王権の出自が九州と記されている訳ですから、邪馬台国が北部九州にあり、その後どういう勢力がどうなっていったかは、日本の古い生い立ちの中で大事な視点だと考えます。
ちなみに今の私のロマンは、7月から再開されるF1でのホンダの活躍です(笑)。
大変恐縮です
ご反応ありがとうございます
私も長浜氏の説が正しいと思います♪
賛成1票、ですね(笑)。
東京大学→九州説、京都大学→畿内説なんて学会の偏屈振りが分かる😂😅全くのナンセンス😮
パリピ・孔明♪でませい\(^o^)/
パリピ孔明いいですね、
・・知らんけど(笑)。
首都は昔から西から東へ移動してますので…多分ですが…⁇九州北部で間違いは無いと思いますが…邪馬台国を結露づけるのを出土させるのが1番早いと思います。議論はあくまで空想の産物なので、想像より現物だと思います。
その通りですね。
期待したいです、いつかの日に。
私も邪馬台国は北九州にあったと思います。当時の中国は短里を採用していたと思います。
ただ卑弥呼なきあと、壱与がどうなったかが興味のあるところです。
ありがとうございます。
壱与・・そこですね。大きな謎は。
記述が多くは無いので、他の観点から攻めて答え合わせをするしかないと思っています。
面白い動画でした。
私は卑弥呼は景行天皇の姉妹であった「倭姫」じゃ無いかと考えています。
倭姫は「日の巫女」であったし、甥の日本武尊の東征で東海の勢力と戦争していました。
そして景行天皇の次々代の仲哀天皇の御代で越より輿入れされた神功皇后と共に北九州、半島南部を平定されたと記紀には記されています。
神功皇后も巫女で神託により三韓征伐を行い、魏に使者を送った事も記されています。
魏志倭人伝と記紀の内容をすり合わせると個人的にしっくりくるんですね、
邪馬台国は畿内の河内の辺りにあったんじゃないかな?って考えています。
勉強不足ですみません。
神功皇后が魏に使者を送ったという記述がどこかにあったでしょうか?
@@これはどうでしょう さん
日本書記だったと思います。
「魏の史書によると」って前書きがありますが。
編纂時に大陸の史書を参考にしたとも考えられますが、なんの根拠もなしに国史に書く事も考えられないです。
勿論日本書記は大和朝廷側の史書なので、他の王国の功績を横取りした可能性も否めません。
もしかしたら九州と本州とで本家合戦してたかも知れません。
四国も入って卑弥呼様が3人いて三つ巴やってたかも知れませんね。
神功皇后が魏に使者を送ったという記述だったでしょうか、という質問なんです。
@@これはどうでしょう さん
はい、日本書記にはそう記されていますよ。
神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)
神功皇后摂政40年(240年)
魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」
(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)
神功皇后摂政43年(243年)
魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」
(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)
神功皇后摂政66年(266年)
是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」
(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)
wikiからのコピペですけど、こう記されているとの事です。
@@oniwakamarukumano8328 さん
了解しました。
これの主語は、倭女王ですね。
内容は、魏志倭人伝を転記した文面です。
大同江河口からだと水行の記述がぴったり。
そういうこと、ですか!
フミ国から水行30日、そこからさらに徒歩で10日間・・邪馬台国までの距離約90km・・歩いたほうが早くないですか?どんなに遅くても一週間くらいで着きませんかね?
逆に考えると、もし90kmの距離を進むのに40日もかかる所に邪馬台国があったなら不便すぎませんかね?
大陸から鉄の輸入もしていたと思うんですけど、重い鉄を船で運んだとしたらこの水行ルートで運んだことになります40日かけて・・
別のルートで輸入していたら話は変わりますが、そうなると今度はこの水行ルートの仮説が成り立たなくなる気がします。
古代の事なので現代とは事情が違うのかもしれませんが、九州北部説ではこの辺がいまいち納得できない感じがします。
「水行20+10日、陸行1月」から、北部九州説は出て来ません。
この期間あれば、瀬戸内、近畿、東海、北陸とどこでも行けます。
だから第3話で邪馬台国は北部九州にある、と確定した訳です(もちろん私の考えですが)
そしてその上でこの「水行1月+陸行1月」は、使節団の遅さ、輿の行進の遅さ、或いは不弥国からではなく帯方郡からの総期間などと解釈している訳です。
しかし、別の重要な見方もあると思っています。
当時、不弥国までは半島の対岸の、よく往来している国々で、その場所の機密度は高くなかったハズです。
一方その先の投馬国、邪馬台国の位置情報は、当時呉と対峙していた魏、西晋にとっては機密情報だったハズで、
先のように、「水行20+10日、陸行1月」のような記述にした可能性があることです。
まさに、「ミステリー」ですね(笑)。
これはどうでしょう
たびたびコメントありがとうございます。
なるほど!トップシークレットだったとしたら、曖昧に書いているのも納得です。
いろんな方に同じ質問しましたが、初めて納得出来ました。ありがとうございました
耶馬台国には中国の人が実際に行って記録したものではなく、聞いた事を書き止めたものでしょう。マルコポーロが東方見聞録で日本を黄金の国と述べているようにです。
そうかも知れませんね。
私もそう思っています。
魏志倭人伝の中に邪馬台国は会稽東冶の真東という記述があります。それからすると南九州の方が当てはまります。また楽浪郡から万二千里と言うのが日時計による緯度差の距離だとすると、それからも南九州の方が当てはまります。さらに、投馬が殺馬(薩摩)の間違いだとすると、不彌国から水行二十日は妥当だと思います。薩摩から水行十日あるいは陸行一月は、西都原遺跡の辺りではないのかという案はいかがでしょう?
早速のコメントありがとうございます。
動画中に言っておりますが、北部九州では無いとおっしゃる場合は、是非第3話のご視聴をお願いします。
・・
「楽浪郡から万二千里と言うのが日時計による緯度差の距離だとすると」
についてですが、帯方郡から狗邪韓国を始め、魏志倭人伝の行程に記載されている里程は緯度差ではありませんので、この仮定は成立しません。
「○○が○○の間違いだとすると」という仮定は、何がしかの根拠を示すべきと考えます。
つれない返答でごめんなさい。
古代中国宮廷の速記者は、草書崩し文字とすると、私も投馬は殺馬ではないかと。現在のサツマ町辺り、怪しくないですか?
繰り返しになりますが、薩摩は北部九州ではないので、違うと思っています。
草書体での間違探しの手法も間違ってはいないと思いますが、間違いを仮定するときには何かの根拠が無いと説得力を持たないのではないでしょうか。
投馬までの水行二十日と邪馬台国までの水行十日あるいは陸行一月をどう捉えるかですよね。これを真面目に捉えると北部九州は近過ぎます。一理を60mで計算すると、楽浪郡から万二千里はほぼ南九州までの緯度差の距離になります。
@@osamakeiko さん、
そう言う訳で緯度差ではないと思っているのです。
楽しく拝見させて頂きました。
邪馬台国論争、また盛り上がってきましたね。
少なくとも方角がおかしい近畿四国はないでしょうね(笑)
個人的には歴史都市伝説チャンネルの熊本北部説かなぁと思います。
ua-cam.com/video/KG5bq_uRAAw/v-deo.html
コメントありがとうございます。
熊本県北部も、比定地としてありうるとは思っていますが、この地は狗奴国に比定するのが最適ではないでしょうか。
糸島市が読みから伊都国っぽいですが、末盧国唐津市から糸島市へ海沿いを陸路で行くのは方角も含め不自然かなと思います。狗奴国は熊本県南部の球磨郡あたりというのが私には腑に落ちました。
伊都国への陸路ルートの不自然さは自覚しています。
ただ、伊都国、奴国が残した遺跡、遺物の数々は、この地で疑いようがありません。
文献でも古代に怡土(いと)でしたし。
一方で人吉辺りが狗奴国だとすると、勢力的に北部九州の邪馬台国連合と対峙することは出来ないと思うのですが。
そもそも、方角を間違えるようでは、旅はできないので、方角誤りはありえない。
台湾の大学教授の論では、途中物忌みの為に休む事も多く、日程イコール距離とは言えないそうです。軽々に日程記事から距離を推定するのは、やめた方が良いかとおもいます。
確かに休みが入る日程もあり得ますね。
ところで、日程記事からの距離推定とは、どこをさしておられるのでしょうか?
@@これはどうでしょう 様 言葉足らずで申し訳ありません。これはどうでしょう様のおっしゃった訳ではございません。一般的に日程記事から距離を推定しようとする論考が多いので、付け加えてしまいました。
了解しました。
そういうことだったんですね。
こちらこそ思慮不足で失礼しました。
四国説が有力だと考えます。辰砂の産出が根拠です。北九州は倭国大乱以前の首都でしょうが、自分が為政者なら外国の勢力が近過ぎて危険だと判断するでしょう。
その山に丹有、は倭国の説明とも言えるので、四国説の根拠にはならないと思います。
青玉は越の国でしか採れませんし、真珠も含めて倭国で採れる貴重な品です。
中国でも超貴重な丹、青玉が採れる場所を、簡単に魏の使者に教える訳はないと思うのですが。
そのような意味合いだとしたら其山という記述にはならないでしょう。
しかも其の地には牛・馬・虎(とら)・豹(ひょう)・羊・鵲(かささぎ)がいないのです。
遠く離れた中国で、何処かの山を限定して「其の山」を記述しているとは到底思えませんし、徳島で青玉が採れた訳でもありません。
牛馬・・・はどこも居ません。
到底納得できませ〜ん😆
結論から言えば、魏志倭人伝だけで邪馬台の位置を比定することはそもそも無理なんですよ。少なくとも投馬国と邪馬台国の位置は記載されておらず、推測するしかない。そしてこれが論争の原因なんです。
動画内の朝倉を有力とするなら、興味があるので次を教えてください。
1) 末路国上陸のところ、水行すればいいところわざわざ時間をかけて陸行させる合理的な理由は何ですか?
2) 陸行一月で移動できる可行範囲をどのくらいで見積もっているのですか?
3) 女王の国は東側が海に面しているのですが、そのことについてどう説明されますか?
4) 朝倉のこの邪馬台連邦は、その後どうなったと考えてますか?
推測するしかないので、私のような推論も存在する。
おっしゃる通りです。
ただ、到底納得できない私に対して、興味があるから教えてくれとは、いかなる御心境なのか計りかねます。
また、動画の内容からお分かり頂けるように、私は朝倉を有力地とはしておりません。
@@これはどうでしょう
あなたが推論したんでしょ?そう推論するに至った根拠があるんでしょ?
私はそれを質しているだけですよ。自分の推論を披露したとき、異なる考えの人から反駁を受けるのは当然のことじゃないですか?それに対してきちんと説明すべきなんじゃないですか?その結果、自分の推論について確信を得てもいいし、修正してもいい。
自分で投稿した動画の内容についてですから、説明できないわけないでしょ?むしろ、自分の推論を披露する機会なわけですから得意になってやれるんじゃないですか?
では、改めて質問に対する説明をお願いします。
そういうご主旨でしたか。失礼しました。
「朝倉を有力とするなら・・・」というところで、誤解しておりました。
批判コメントはもちろん歓迎です。おっしゃるように、これで新たな知見に繋がることも多々ありましたので。
で、1)~4)についてです。
1)一つには、伊都国の所在地が少し内陸部にあった為だろうと思っています。
そして伊都国には帯方郡の使者も常駐していたので、ここから輿に乗って日向(ひむか)峠を抜けて奴国に入って行くパレード的な陸行ではなかったかと推察しています。
2)陸行1月での移動距離の推定値は私は持っていません。参考にさせて貰っている長浜氏のこの陸行についてのお考えでは、当時の輿付きの使節団の行進の遅さを指摘されています。
3)女王連合国は北部九州一帯だと考えているので、当然東側は、周防灘から豊後水道だと思います。
4)は、朝倉ではなく邪馬台国連合のその後についてのお尋ねと思いますが、これについて色んなご意見が世の中にある中で自分の意見を持てないでいます。
最終的に日本国の朝廷となったヤマト王権の生い立ちの様について、確信を得た上でこの課題を推定したいと思っています。
@@これはどうでしょう
ご説明ありがとうございます。以下、所感です。読み捨ててください。
1) について
1.水行の方が早楽なのに、有明海まで回航しない合理的な理由は何か。貴推論の邪馬台の位置では合理性に欠けると思う。
2.末路国、伊都国の位置が疑わしい。魏志倭人伝の記述と地名のよみだけでは特定するだけの根拠が弱い。
3.パレードは大勢の人の前で一瞬行うもの。そのために延々と陸行する必然性はない。
2) について
1.陸行一月は、道悪、輿を加味したとして、楽々300キロは見積もれるであろう。つまり、魏志倭人伝の行程はあてにならない。これを根拠に国の位置を比定すること自体が無謀である。
3) について
妥当。ただし、女王の国が、邪馬台連邦全体を指すのか、邪馬台国単体を指しているのかがわからない。
4) について
後段同意。魏志倭人伝のみを根拠に邪馬台国を比定することは無理であり、こじつけにならざるを得ない。日本書紀や纏向遺跡などを含めた総体的な日本建国のストーリーの中で邪馬台国問題を考察するのが適当であろう。
以上
私も所感です。読み捨ててください(笑)。
1)-1 当時、長崎県西岸地域、海域が邪馬台国連合の統治外だとしたら、そちらの航路は選択できないでしょう。
無人地域だったとも思えませんから、航行の便宜は期待できない、という理由です。
-2 伊都国は王がいた証のある遺跡も複数残っており、平安時代でも「いと」と言われていた国なので、間違いないでしょう。
末盧國は、伊都国の位置と魏志倭人伝記述から推定できます。
-3 パレードはオマケのような想像ではありますが、当時の輿の行進のお話を長浜氏があちこちでされています。
参考にしてみて下さい。
2)-1 陸行1月は国の位置の比定に使えないと思っているので、私も使っていません。
3)はその通りです。
4)については、少し誤解があるようです。
私のその考えは、邪馬台国以降の国内のあり様の話で、邪馬台国自体は北部九州で間違いないと思っています。
根拠は、第3話の動画の内容や、コメント欄で回答に書いております。
間違っても、纏向に邪馬台国はなかった、と思っています。
私も同じ結論です。
卑弥呼のいた国は博多から川を登って久留米方面に出て再度筑後川にいたるどこかだと思ってます。
防衛にも交易にも向いていて筑後川の恵みや稲作にも適している好条件。
当時の佐賀平野がどうだったか解りませんが佐賀平野まだ入れると広大なマホロバとなります。
ご賛同頂き、嬉しく思います。
筑紫平野のどこかであることは、かなり確率高いと思います。
おっしゃるような好条件を満たしているところは、日本中では他にあるかもしれませんが、伊都国の南、狗奴国の北に位置する邪馬台国は、ここでしかあり得ない、とも言えると思います。
大阪の者です。よく夢を見るのですが、福岡から南の久留米方面辺りと思います。
漢委奴國王金印出土處,應該是真實可信的!
本物ですね。
私もこの目で確かめました(笑)。
「(末盧国から)東南に陸上を五百里行くとイト国に到着する。」末蘆国東南陸行→500里伊都国に到着する。ここで、東に水行して着岸そこから東南で平原遺跡ですか?この時点で、魏志倭人伝の記述の東南・陸行を東・水行に曲解しています。ここで12,000余里ー10,700里=1,300余里ですか?12,000余里ー11300余里=700余里ですね。魏志倭人伝と矛盾があると云われていますね。「南、投馬国に至る。水行二十日なり。」「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。」使節団の進行の遅さで説明など出来ないですね。(長浜浩明説は全くはお話になりませんね。)前段においても、自ら矛盾点を創り出していますね。魏志倭人伝の記述の東南・陸行を東・水行にしています。「帯方郡南、投馬国に至る。水行二十日なり。」「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」と読めばなんの矛盾もないですのに。(ここだけは、水行10日陸行30日基本(速度3/1)陸行の3倍が水行3:1とする)帯方郡から不弥国12,100里で一旦終了。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」で何の矛盾も生じないです。(短里70m-72.3m-76.0m)大差なし。帯方郡から末蘆国11,400里(798km-866.4km)+不弥国700里(49km-53.2km)=12,100km(847km-919.6km)=「郡より女王国に至るは、12,000余里(874km-919.6km)なり。」正解です。
曲解、末蘆国を出て進路を曲げて伊都国に着いているので、正に「曲解」ですね(笑)。
冗談はさておき、実際私は、唐津を出た後一旦北東へ水行し、深江か加布里辺りに上陸。その後東もしくは東南に陸行したのだろうと思っていますので、そのことが陳寿にどう伝わったかは分かりませんが、省略されて「東南陸行五百里」となったのだろうと思っています。
ここまでの行程記述の方角も距離もざっくりしたものですから、そんな解釈も成り立つだろうと思いますし、遺跡、遺物、地名から想定できる、「伊都国=糸島説」を動かすに値しないと思います。
ところでペンちゃんさんは、女王国=不弥国ということだったでしょうか?
それはそれで否定も出来ない面白い説だと思いますが、+800里、+600里説以外に根拠は無いですか?
@@これはどうでしょう さんへ。女王国=不弥国ということだったでしょうか?
それはそれで否定も出来ない面白い説だと思いますが、+800里、+600里説以外に根拠は無いですか?ですが、女王国=不弥国=邪馬台国の根拠は、①郡より女王国に至るは、12,000余里(840km)なり。」②帯方郡から末蘆国11,400里(798km)+不弥国700里(49km)=12,100km(847km)③「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」帯方郡南→水行10日(1200里*0.07km=84km/d)→陸行1月(30日)(400*0.07=28.0km/d)[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=400里 水行 1 日=40 0里×3=1200里=28.0km×3=84.0km 帯方郡から水行(84.0km/d*10日)松浦国840km+末蘆国から邪馬台国まで700里(49km)/28km/d1.75日もって、帯方郡から南水行10日(840km)陸行1.25日から1.75日(35km-49km)となる。帯方郡南から邪馬台国840km+35-49km=(875-889km)
よって、女王国(境界の尽きる所奴国)①(840km)≒不弥国②(847km)≒邪馬台国③(日程なのでやや多め840kmから889km)となる。
邪馬台国は、不弥国を中心に半径7kmの847kmから840km=14km程度の範囲である。邪馬台国7,000戸(1/10)の中心付近に、卑弥呼の居住する宮殿・高楼・城柵の内に100余家の侍女千人(1/10)がいて、自律的に仕えている。
@@これはどうでしょう さんへ。前記の追記・・通説・定説で末蘆国を唐津とした場合g魏志倭人伝通り帯方郡から末蘆国(唐津)70,00里+30,00里→東南伊都国500里→東南奴国100里→東不弥国100里→南邪馬台国1,300里としたとしたら、(帯方郡から7000里+末蘆国3000里=10,000里)(短里0.07km)末蘆国(唐津)から邪馬台国は、500里35km+100里7km+100里7km+1,300里91km=2,000余里140kmとなります。末蘆国(唐津)から女王国(邪馬台国)(不弥国)は、2,000余里で140kmとなりザックリと熊本県甲佐町付近となります。これはどうでしょう???狗奴国まで行ってしまいました。不正解ですね。1300里・1400里の謎は、やはり、方可400里対馬国800里・300里一支国600里と記述にある事が証明できました。女王国≒邪馬台国≒不弥国は、末蘆国から700里(49km)圏内にあると云え事になります。あとは、末蘆国の比定地を何処に取るかその後の方角は、魏志倭人伝通り東南500里東南100里東100里で邪馬台国(不弥国)「女王国」に到着します。以上
ご回答ありがとうございます。
②については+800里+600里説を容認できないので、残念ながら理解できません。
③については、理解がついていきません。
陸行400里×30日は計算に入らないのですか?
残念ながら私の理解力を超えています。
@@これはどうでしょう さんへ。ご回答ありがとうございました。前記について回答致します。A-1.①-1「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」= ②-1帯方郡から末蘆国11,400里(798km)+不弥国(女王国)700里(49km)=12,100km(847km)
であり成立している。
②については+800里+600里説を容認できない。は、次による。
A-2.邪馬台国を不弥国から水行20日投馬国水行10日・陸行30日を邪馬台国としているからなるべく末蘆国から2,100里(147km)付近に比定地としたいからであり、他に理由がないので、800里+600里=14,00里で末蘆国11,400里とすると、残り700里(49km)となり、邪馬台国の比定出来ない事が理由である1400里と700里の差は、98kmK違いであり、98km/.0.07km/里/d=1,400里であるが、これを水行10日・陸行30日と比較すると、水行だけで、1,400里/日/1,200里/日=1.17日及び2,100里/日/1,200里/日=1.75日であり、陸行は、1400/400・2100/400各々3.5日と5.25日となり、到着してしまい成立しない。
当然、水行20日投馬国水行10日・陸行30日は無茶苦茶ですね。中国でのゆっくり陸行各国で歓迎の接待をしたり等(長浜説はそんな事を云っていたら何でもありである。論外である。) の言い訳は、筋が通らない。あくまで、基本は、魏志倭人伝の記述を忠実に邪馬台国を比定するのであれば、対馬国から壱岐国南が少し東に振っているのは、対馬海流が西から東の海流であり、壱岐国から末蘆国(勝浦・宗像)も方角無しであるが、東方向の対馬海流に乗って航行しやすい末蘆国(勝浦・宗像)がより自然である。
A-3.「帯方郡から12,000余里+ (仮定不弥国)より南、水行10日・陸行1月(30日)邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。「水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)」なり。」≠「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」で成立しない。
A-4.「帯方郡から12,000余里+ (仮定不弥国)より南、投馬国に至る。水行二十日(1200里*20日=24,000里)なり。」+南、水行10日・陸行1月(30日)邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。{水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)}なり。」≠「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」では、成り立たない。
③については、理解がついていきません。 陸行400里×30日は計算に入らないのですか? 残念ながら私の理解力を超えています。については、下記による。
B. {行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)}
なり。」(陸行は水行の1/3で1200里/3=400里/日(28km/d)) 水行10日=陸行30日(1月)であり、(陸行と水行の比率は、1:3であり、陸行は水行の1/3であり、400里/1200里は1/3で1200里/3=400里/日)となる。
400里*0.07km/d=28km/Dで末蘆国から邪馬台国を700里とすると、
700里/400里(49km/28km/d)=1.75日である。他説2,100里も2,100里/400里(147km/28km/d)=5.25日となり、A-2・A-3・A-4いずれにしても、成立しない事となる。
C-1「郡より女王国に至るは、12,000余里(840余km)なり。」=「帯方郡南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月(30日)なり。」
水行十日(1,200里*10日=12,000里) = 陸行一月(400里*30日=12,000里)であるので、次式による。(11,400里(798km)/1200里=(798km)/84.0km=9.5日) ・ ( 700里/400里/日49km/28km/d=1.75日) 11,400里+700里=12,100里
(798km+49km=847km)となり成立している。
注[一日の水行・陸行距離]陸行速度は、(短里0.07km/里)として、400里/日28km/日/8H/D=50里/H(3.5km/h)・水行は、陸行の3倍400里/日*3=1200里/日84km/日/8H/D=150里/H(10.5km/h)を定数とする。
※特に、A-2・B・C-1は注と見比べてよく読んで下さい。
九州は間違いないですね。
本当に間違いない、と思っています。
申し訳ないですが自分は熊本北部だと思います。まず伊都国は佐賀平野の北部あたりだと考えています、それから有明海を南進したのではないかと。
ひと各々の邪馬台国、
いいんじゃないでしょうか。
8:30付近の投馬国から邪馬台国へのルートは、これより3000年も前に日本海を行き来していた日本人の行動範囲・速度と比べ小さすぎないでしょうか? それよりも水行20日、水行
10日+陸行一月は各々帯方郡からの旅行日数と見た方がスムーズでは。 この時投馬国は
沖縄に比定。
水行20日、水行
10日陸行1月を、帯方郡からの旅程とする方もいらっしゃいますね。
でも残念ながら、そこからは何も導けないのです。
@@これはどうでしょう 帯方郡から末盧国迄水行10日、ここから投馬迄水行10日、邪馬台国まではここから陸行1月。で
これらは倭の国の使者からの伝聞。(倭には測距技術なかったので日数のみ)後に
魏の使者は天文測距で1万二千里。
そういう考え方もできますね。
ただ、帯方郡の使者は実際に邪馬台国まで行っていますし、魏の使者が大掛かりな渾天儀を邪馬台国に持ち込んだとも、必要な正確な時刻を計れたとも思えません。
@@これはどうでしょう 渾天儀は天体の動きを模擬する者で太陽や北極星等の仰角測定は六分儀でそんなに大きなものではなさそうです。
渾天儀は魏にもあったとされていますが、国家的に重要な装置だと想像できます。大きさと合わせて邪馬台国へ持ち込めるような物とは思えません。そして、時刻も同時に知らないと使えません。
六分儀はスコープ等を使いますが、当時あったかどうかは?です。
私も専門家ではないので、調べた範疇の話ですが。
楽浪はともかく、帯方郡て場所は確定されてたかな?
確定されていないと思っています。
私は地名などから邪馬台国は九州であろうなと思ってました。
総距離などから見てもとても近畿には行かないだろうと思われます。
水行○日ってのは水害などにあって旅に出られなかったという可能性もあるのでは?
そうするとぬかるみにはまって陸行1ヶ月で邪馬台国ってのもありそうです。
もしくは経費水増しのため遠かったよ!と報告したのかも知れません
それにしても糸島市や太宰府市には住んだことがあるのでとても面白かったです。
コメントありがとうございます。
色々な見方があって、楽しいですね。
経費水増し・・・なるほど(笑)。
みやま市に女王塚ってあったような?
女山にあった、ということなんでしょうか?
小椋一葉説を取ると、スサノヲが作った邪馬台国ことヤマト国は宇佐神宮から、宮崎県西都市、徳島県神山町に移ったということらしいですね。金印はもっと前の時代でしょうが漢委奴国王ですが、これは糸国なんじゃないかと思います。神山町に移ったのち、スサノヲの息子の大歳こと饒速日が婿に入った奈良の倭国こと和国と合併して大和国ことヤマト国になったんじゃないかということのようです。魏志倭人伝の邪馬台国の場所は宮崎県西都市ではないかと思われます。
コメントありがとうございます。
邪馬台国は、色んな分野の方々が色んな材料で色んな推論をされる、歴史テーマ。
「これが解けなきゃ日本人が日本の古代の歴史を語る資格は無いヨ」
と、中国の古い歴史家たちから言われているようで・・・
だから皆さん熱くなるのかも知れません。
すみません、小椋一葉氏は読んでないので感想を申し上げられません。
残念ながら西都原からは3世紀の相応な遺物が出ないんですよね。。。。有名な西都原古墳群は主に5世紀のもの。それに先立つ宮崎市生目古墳群も4世紀を遡れない。宮崎説は無いですね。
なるほど、女(王)山に大門(ヤマト)ですか。
なんだか神武東征につながるような雰囲気もありますね。
いずれにせよ、環濠集落の密集を見れば、邪馬台国は北九州で間違いないと思いますが、どこかのタイミングで瀬戸内を移動して大和政権との関係性を深めた(移動・合併・征服?)したのではと考えるのが妥当だと思います。
山門は置いておいたとしても、そういう風に考えるしかないと思いますね。
専門家の方々は多岐にわたる情報をお持ちなので、そうじゃないというご意見も多々頂きますが、自然に考えれば、そういうことだんだな、と。
環濠集落の密集は北部九州に限ったことではありませんよ。ウプ主が他地域の環濠集落の存在に気づいていないだけかと(意図的に?)。出雲、吉備・讃岐、畿内、尾張などなど環濠集落の密集地は他にも沢山あります。
木炭製作可能な森林があり 鉄製農具製作可能なこと 新田開発 二期作可能か 平野 河川 捕鯨を含む漁場が近いことが人口爆発した7万戸の邪馬台国の要件であり気候温暖な南九州が一番適切であり魏の戦略にかなっていると思います
今より気温が高かった当時は、広い地域が温暖だったのではないでしょうか?
倭国大乱の頃から、北半球が全域的に極度の寒冷化に見舞われ、世紀単位で続きました。
(水月湖など世界各地のデータからも裏付けられる)
邪馬台国時代もです。
支那では、後漢末の動乱から三国時代・晋・五胡十六国時代となります。
その間、東晋となり、
江南に大量の難民が押し寄せました。
ローマ帝国も北方の蛮族がヨーロッパを突き抜けてアフリカを目指しました。
いづれも、より南方の温暖で大食料基地になり得る、または既になっている地域に大量移住したのです。
漢帝国の最盛期は人口6500万人いたようだが、三国時代には1400万人に激減した。
人口の上下はあるだろうが、人口が1/3〜1/4になったと言う事である。
そしてそれより北の遊牧民族地域は、より危機的状態だろう。
そうなると、安定し人口を比較し隔絶して多い時の農耕(定住)民族地域は強力で付け入る隙もないが、
気候変動の影響などで、人口が激減し、難民も大量発生し、農耕民族同士でも食料難などで諍いが絶えないなら、遊牧民も必死なので南下政策を取る事は必至だ。
そして倭国も、史書で分かる範囲を見ても、大幅な人口減が垣間見るところがある。
まずは、生口だ。
倭から支那王朝に献上したのは、
107年面土國(帥升) →160人
239年邪馬台国(卑弥呼)→男4,女6人
248年邪馬台国(台与) →30人
伊都国の戸数
魏略 → 10000戸
魏志倭人伝→1000戸
伊都国の戸数が1/10になっており、どちらかの記述ミスではないかと考えられるが、
伊都国は明らかに、海人族の國であろうから、食料問題・疫病の流行・紛争などで危機的状況になれば舟で移動することは不可能ではない。
だから、
日本列島だけそうでなかったは
無いでしょう。
私は、気候の極度の寒冷化の影響ゆえ、また
帯方郡・朝鮮半島に
日本の本州・四国・九州・北海道
で一番近い
かつ、一番南の大きな島である温暖な九州島が、邪馬台国である可能性を強く示唆していると思うのです。
そして、日本列島には九州以南では大食料基地になり得る位の大きさの島や、平野はない。
そして、狗奴国との戦争も究極的には食料問題だと考えています。
邪馬台国連合の中の大国である
奴國 20000戸
投馬国 50000戸
邪馬台国70000戸
事実の人口に即しているか、疑義はあるだろが、行程上、南に行くほど人口が多い。
つまり、それだけの食料基地であるとも言える。
そして、狗奴国はさらにその南だ。
邪馬台国連合として食料問題を国内で解決することが困難となり、
狗奴国に食料の融通の政治・外交交渉をしたが、
決裂したのではないでしょうか?
余り言われないが、
弥生時代の高地性集落は、防衛や監視の為ということになっているが、
斜面温暖帯の農業の為もある、というか、そちらのほうが本筋ではないかとも思っています。
防衛や監視のためだけに高地性集落を建設・維持するのは余りにもコストパフォーマンスが悪すぎるからです。
斜面温暖帯は、麓より2〜3℃気温が高い。
その麓で寒冷化で2〜3℃気候が寒くなれば、当時の農業では破滅的・壊滅的な打撃となるだろう。
(現在でも大打撃だろう)
そして、麓で2〜3℃気温が低くなっても、理屈上は斜面温暖帯では、麓の気温が低くなる前と変わらない気温だ。
そんな理屈通りには行かいだろうが、
緊急避難的対応としては平野部の農業がダメとなれば、大陸の様に南に温暖で巨大な大地が控えているわけではない。
そうなると、立体的に考えるしか無い。
そして、斜面温暖帯で緊急避難的に凌ぐ間に、寒さに強い種子を選別したり、根本的に農業のテクノロジーを発展させ、
再度、平野部に進出する戦略があるかもしれない。
そして、肥の國というは、火の国とか言われることがあるが、本当に、邪馬台国時代としては豊穣の「肥」の國だったのではと思ったりします。
一番南の大きな島の九州は他の地域と比較すれば温暖で、
さらにそこでの斜面温暖帯農業ならば、寒冷化の対策としては、当時これ以上良い条件は日本列島にあまり無いと思える。
そして、肥の國の、肥前國・肥後國は海岸が入り組んだリアス式海岸が多く、斜面温暖帯が出来やすい。
そして筑紫國・肥後國は大まかに見ると地勢が西低東高であり、東側に斜面温暖帯が出来やすい。
支那からの使者はこのような地理を見聞し、そう報告したのではないかとも思う時があります。
これは支那の史書にも合致する。
そしてそれらが、邪馬台国の比定地として他の地域、近畿・出雲・高志・吉備・関東などの可能性を著しく低くしていると思います。
四国は関わりたくないので
不可触とします、、、
長くなりましたが以上です。
真っ向からの反論になるかもしれませんので、気を悪くされたら申し訳ないです。
宇佐(宇沙)内陸 耶馬渓南だと思うのですが (^^)/
昔の地形 事に海岸線 深い入江、即ち陸は歩きにくく海岸線が交通路だったとの仮定では?
いずれにしてもロマンですね👍
昔、40年くらい前に耶馬渓を通ったときに、自然とここに邪馬台国があったのかもと思った記憶がよみがえりました。
邪馬台国連合国の中に邪馬国もありますし、不思議な感じです。
熊野古道に行ってみて思いましたが、入江入江に人々が住みながらも、陸路交通は決して海岸線ではなく、山、半島越えであったり尾根伝いだったようです。
海岸線は決っして歩きやすくは無かったようです。
僕も60年前に耶馬渓に行き青の同門を見ました。その後名前からして邪馬台国があったとしたらと思いました。当時は文字や法律を徹底させにくく、国を守るのには良い地形だと思います。また温泉が特に重要ではないかとも言えます。長浜氏は北九州に至る川は当時は入江だったと言う事で耶馬渓近くまで船に乗れたと言えます。また50年前に武漢に製鉄所建設に行き、シナは長浜市の言うような儀式が、各国ごとにある事を経験してきました。長浜氏の考え方には賛同しますが、耶馬渓が卑弥呼のいた所でもイイのではと思います。又は邪馬台国内部を毎年移動したとも考えられるのでは?
コメントありがとうございます。
弥生期の耶馬渓だと、入江はまだ先かもしれませんが、山国川を船が上ることは可能かと思います。
そしてその辺りも女王連合国で国名が邪馬国だったとしても、何も問題ないと思います。
ところで、50年前に武漢に製鉄所建設と聞いて、上川隆也のドラマ「太陽の子」を思い出しました。ご苦労されたことと存じます。
@@これはどうでしょう
耶馬渓という名前は比較的近年につけられた名前なのでまったく関係ないかと・・・
WIKIより抜粋。
1818年(文政元年)に頼山陽が擲筆峰周辺(耶馬溪町柿坂地区)を訪れ、当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである
@@490526ryu さん
そうでしたか。
ご教示ありがとうございます。