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14:44 元橿原考古学研究所所属の寺沢薫氏が奈良盆地の人口の試算をしているのですが多く見積もって3万5千人、7000戸とのことでした。人口を過剰に記述した理由は呉を牽制するため倭国を取り込みたい魏の権力者の間に大国であるという認識があったという考えでした。ちなみにこの方は関川尚功氏の元同僚で畿内説の立場ですが箸墓古墳と卑弥呼の関連付けには否定的です。
出雲王国や吉備王国が実在するなら九州と近畿は別の王朝なのは当然
丹後あたりも王国もあった(解かんないけど)説有るよねー。実際あちこちあったんやろねとは思うけどね
関東王国もあった
@@日巻やってた 全部がそうじゃないだろうけど、律令国で分割されてる国は大体大きい王権がありそうだよね。じゃなきゃ実際火の国とか熊本と海挟んで長崎当たりだし、そりゃ後から来た統治者は肥前肥後に分けるよなぁって感じだし。吉備(備前美作備中備後)丹波(丹波丹後)筑紫(筑前筑後)毛国(上野下野)火国(肥前肥後)信濃だって最初は諏訪と科野に分けてたのは、諏訪氏のせいもありそう
記紀になぜ神武東征の話があるかを考えると、九州の勢力が大和に入って大和王権を立てたということなので、邪馬台(やまと)国と大和(やまと)が同じ読みになるのは不思議でもなく、記紀に卑弥呼が登場しないことや邪馬台国九州説も至極当然のように思えます。
邪馬台国と大和王権を切り分ける考え方、大賛成です。今の中央集権国家の感覚で当時を見るから事実をねじ曲げねばならい。大和王権が日本を手中に収めるのは考古学的に見ても4世紀〜5世紀に掛けて。それまでは任侠でいうところの兄弟よろしく離合集散していて連続性がないと考える方が自然だと思います。
九州が本家で畿内に移ったのは分家と言う考え方も出来ますよね。先に九州にあったヤマトが滅んで、残った畿内ヤマトが後を継いだ感じ
北部九州には多くの人口を支える遺跡がないと言われているが、平塚川添遺跡には300軒の住居跡があり、吉野ヶ里遺跡に匹敵する大きさです。国指定史跡になったのは30年前で、50ヘクタールの工場団地造成中に発見され、そのうちの10ヘクタールだけが遺跡として残されました。ここは福田台地(一木・小田台地)の西側の、遺跡がないだろうと思われていた低地です。福田台地には多くの集落があって、本格的な発掘調査は行われていません。ここから東へ10キロほど行くと朝倉市山田で、周囲には多くの古墳があり、筑紫平野全体で考えるなら7万戸あってもおかしくない。堤当正寺古墳では韓国・伽耶と共通の鉄製甲冑も見つかっている。長年にわたって朝鮮半島と関係のあったことが明らかです。
僕も福岡県朝倉市平塚川添遺跡が邪馬台国中心部だと思います。あそこから周囲の地形の名称をみると、奈良市からみた周囲の地形の名称と一致します。邪馬台国の人たちが奈良に移住したからだという説を裏付けています。平塚川添遺跡から東方に国東半島がありそこに宇佐八幡宮があります。あそこが卑弥呼の墓です。邪馬台国の東方に太陽の巫女である卑弥呼の墓として祀る事は極めて合理的です。さらに国東を「くにさき」と呼ぶのも邪馬台国の中心からまさに東方のさきにありますから辻褄が合います。畿内説ですと、まったく辻褄が合わないのでダメですね。
全然足りないと思いますよ。まず7万戸の意味をよく考えないと。当時は馬韓国で10万戸、九州と大差ない広さでこれだけあります。奴国に投馬国、そこに邪馬台国を収める場所なんて九州にはあり得ないと思いますよ。
甘木、朝倉の地名と奈良、大和の地名とそっくりだから移ったと思う。環濠集落跡あるし。自分は北九州の何処かと思っていて、この辺りは自分の予想している場所のベスト3に常に入っている。現在なら邪馬台国の比定地の第1位になってきた。
国東半島まで行かなくても、朝倉市山田に卑弥呼の墓に相当する古墳があります。それは魏志倭人伝の径百歩に匹敵する直径145mの円墳で、長田大塚古墳といいます。すぐ近くには斉明天皇のもがりの場所といわれる御陵山、恵蘇宿などがあり、この地に朝倉橘広庭宮があったと思われます。斉明天皇がなぜこの地に来たのか、それはここが卑弥呼の墓と知っていたからです。
朝倉には朝廷が少しの時期ありましたからね、何故朝倉なのか…わかりますよね
邪馬台国が畿内なら、やっぱり記紀に邪馬台国のことが書かれるべきであり、金印や鏡とかも現在の皇室やどっかの神社に残ってないとおかしいわ。
黒塚古墳知りませんか?
逆にかなり欠史八代辺りが怪しいという事です。その中でも畿内から瀬戸内、出雲地方に伝承が多い孝霊天皇や百襲姫もいますからね。
邪馬台国っぽいのはあったと思いますが魏志倭人伝の記述通りにあったかどうかは疑わしいと思いますこの動画にもあったように話し盛り盛りなんだと思いますねなにしろ後の倭国五王だって誰が誰だかはっきりしませんから特に古代の記述なんて怪しい限りです邪馬台国論争で一番不思議に思うのは発掘の証拠がまだ見つからないのになぜか邪馬台国の存在ありきで話を進めてしまうところですね
戸数問題は、実際に見たか訪れた国はある程度正確で、倭人から聞いただけの国の話は大分盛られていたと思ってます。隋書?でも倭人の話は大げさとか信用できないとか書いてあったしねぇ。
確かに伊都国までは現実的だがその他はすごい多いもんねぇ
ちょっと都合よく解釈し過ぎですね、女王卑弥呼は軽蔑して下に見るのに邪馬台国の数字は過大にみるの?
@@トミヤマサキオ 別に軽蔑してる訳では無いと思うのですが…ただ東の果ての国なので蛮族だと思ってはいたでしょうね
魏志倭人伝の記事で特に注目すべきなのは日本には馬がいないという点だと思う。馬はあの卑弥呼の時代より後に大陸から入って来た訳だ。朝鮮半島から船に載せて九州にである。これは馬だけの話ではなく、大陸との接点が多かった九州よりも近畿地方の方が発展していたとしたら不自然すぎるように思う。
ありがとうございます!
ありがとうございます。投げ銭感謝いたしております!
私は神社の御祭神の祀られ方から日本の古代史を考察したりします。というのも、神道においてお祀りされている御祭神は、実在した人物をモデルにされていることがほとんどで、お祀りのされかたで過去にあった出来事を読み取るヒントになっているからです。邪馬台国に関しては、福岡の宗像大社や大分の宇佐神宮が関係していると考えております。宗像大社の辺津宮では、本殿をぐるりと囲むように24もの大小のお社が配置されており、121柱もの神様がお祀りされています。それは本殿にお祀りされています市杵島姫神様が多くの神々を従えている様に見えます。この様な造りの社殿は他には見られません。その在り様は、倭国大乱を治めた女王を連想させます。そして宇佐神宮なのですが、宇佐神宮といえば日本で最も多くお祀りされている八幡神社の総本社なのですが、拝殿の中央にお祀りされているのは、主祭神である八幡大神(応神天皇)ではなく、市杵島姫神様を含む宗像三女神なのです。主祭神を従えてお祀りされている神様の存在は、そこに間違いなく隠された歴史があるのでしょう。
まず邪馬台国と大和朝廷の連続性ですが、壱岐率は対馬壱岐松浦伊都奴国その他の国を監察していた。出先はどこにあったのか、生の松原と小戸の岬付近であっただろう。その機能は太宰帥に受け継がれている。白村江の戦いで敗退した大和朝廷は水城・大野城・基肄城を築いて防衛体制を取ったがどこを守ったのか不明なままであったが、これは斉明天皇の行宮・筑紫の橘の広庭の宮を大本営としていたわけだからここを守っただろう。どこ? 斉明天皇は筑紫で薨去されて橘田の北の山麓に陵がある。ここは伊弉冉尊が禊ぎをした「筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原」を流れ下る急流でもなく淀んでもいない川の北側に当たる。あはきの原は朝倉の地の東詰のどん詰まりにある杷木町である。もし九州邪馬台国説を採ると甘木あさくらを中心として東西南北の地名と奈良・桜井あさくらを中心とした東西南北の地名が一致すると証明した故奥野氏の説明通りになる。橘も小戸もここ、あはきの原に関係する地名である。また魏志倭人伝には「女王国の東、海を渡るに……黒歯国…」とあるがこれはお歯黒を習俗とする国が邪馬台国の東にあると読めないだろうか。ChatGPT等で検討して貰いたい。橘の香り豊かに 若草の萌ゆる。。。
邪馬台国は、沖縄本島で、伊都国は、吉野ヶ里、つまり、倭国は、佐賀県以西の九州と南西諸島だったと思います。沖縄北谷の海底の城と吉野ヶ里遺跡は同年代で同じ構造です。国譲りで、倭国は、出雲大国(葦原の中国)を譲り受け、その後、出雲王国エリアだった、日向の高千穂に天孫降臨。ここから神武東遷で大和まで移動し、その後大和朝廷を設立したと考えています。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 初代神武天皇が橿原神宮で紀元前60年に即位されて以来、奈良県には大和政権があり、都が京都に遷都されるまでの間、歴代天皇がいらっしゃいました。 魏志倭人伝の時代には第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。 又、初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
考古学会の一番えらい人が近畿説って言ったから、学会だとそれを支持しないと生きていけない、とかあるんですかね。今わかっていることだけから状況整理すると、畿内説は無理があるようにしか。
近畿説を主張する研究者は研究費がつきやすいというウワサが。邪馬台国が近畿以外にあると都合が悪い方々がいますからね…
畿内で発掘していて畿内にはなかったと語る人はいるにはいますが、動画の元ネタの関川先生以外は畿内にはなかったって本を何故か定年後に出されるんですよね。仕事していたら忙しくて出せず時間に余裕ができた定年後に出したとも考えられますが、実際の所はどうなんでしょうね。それから畿内説の根拠の年代も不思議な話があって、元々は4世紀と言われていた箸墓古墳や纒向遺跡を3世紀で邪馬台国の時代にした年輪年代法の基礎データが非公開で誰も年代が正しいかどうか検証できない状態が30年以上続いていて、現在公開を求める訴訟中です。公開が前提の研究なのに頑なに非公開にしてるのは不思議だと思いませんか?炭素年代測定法や酸素同位体比年輪年代法も年輪年代法のデータが校正や年代の基準に使われているため年輪年代法がずれていた場合同じようにずれます。年輪年代法で測定すると法隆寺など建立された年代がわかっているものも100年古く出るそうです。
@@NK-pl6no統制国家の支那ですら、第三者機関てある、マックス・プランク人類史科学研究所などを入れて進めている案件もあるのに、、、日本の考古学は「ゴッドハンド」での、日本の考古学の信頼失墜をもう忘れたのだろうか?あれは旧石器だから関係ないと考えているのだろうか?30年も公開を前提にしたものを未だ果たさないのも、ケネディ暗殺事件の情報公開か?ってくらい、意味不明でまた、後ろ暗い事があるのですかね。どちらにしろ、支那の考古学界より自浄作用がないので、内輪ではどうにもならないでしょう。九州の考古学なり、他の地域が率先して第三者機関を入れて事を進めるなどし、その結果をオープンにする事である意味、外圧を掛けなければそのような悪癖は治る見込みは全く無いと思います。つまり、どうしようもなく遅れた業界ということでしょう。
多分そうでしょう。纏向の炭素年代測定法の改ざんなんか呆れます。国立大学の教授(特に京大)の忖度は酷いもんです、畿内でないと日本の出立ちが説明出来なくなりますからね、記紀の時代と何ら変わってないのですよ。
@@mari-od1ym畿内でなければ日本の成り立ちが説明出来無いと言う事はないと考えますが?そのように考える方が多いのですか。そうなると、支那やヨーロッパの多くの国は人種の入れ替えや、キリスト教世界とイスラム世界を行ったり来たりしている地域もあるが、それらの国はどう考えれば良いのでしょう?アメリカ合衆国は、独立宣言以前のその地域の歴史は黒歴史なのだろうか?ラテンアメリカはスペインやポルトガルのコンキスタドールに征服される前の事は、ラテンアメリカの成り立ちに含まれないのでしょうか?そう見てみると、畿内でなければ日本の成り立ちが説明出来無いと言うのは、とても傲慢な思想に思えます。
昔から邪馬台国論争は観光資源としての価値もあるので政治的歴史解釈も含まれている分野なのかなと思います。公的には永遠に決着がつかない感じはしますね。個人的には九州です。
北九州から少しはズレるとしても少なくとも畿内よりは北九州でしょう。でも畿内派って、ありとあらゆる屁理屈を総動員して自説を譲らないんだよね。もう信仰のレベルと言ってもいい。畿内で励んでいた研究者の中からも北九州説が出てきているのに。
畿内説は京都大学派なんですよ。悲しい事に九州大学まで京都大学派の人脈に毒されて、九州説を言えないんですよ。邪馬台国畿内説ですと、宮崎県を進発した神武天皇軍が邪馬台国を攻めて滅ぼした形となり、どうしても辻褄が合わないんです。手塚治虫の「火の鳥」はまさにそう描写していますが、邪馬台国の後継王朝が天皇家だと考えた方が自然であり、天皇家が邪馬台国を滅ぼすなんてヘンなんですよ。幸い東大学派は吸収説を支持しており、京大学派のトンデモ説はあまり相手にされていません。
@@大東亜解放神-d8p 素人がパッと思いついたことなんだけど、九州にあったヤマトから東征した分派がいて、それが機内の大和朝廷になったんじゃない?邪馬台国は男王が統治してた時は荒れてたけど卑弥呼が統治して収まったらしいし、機内ヤマトのルーツはその時の男王?にあるって仮説。神武東征の詳しい時期はwikiにのってなかったから、記紀に書いてるのは「そんなことが昔あったよ」って口伝の可能性高いし、卑弥呼と神武天皇は同時期に存在していてもおかしくはない。追い出されたと仮定するならのちに邪馬台国を滅ぼすのも納得ができる。 あと、この仮説だと邪馬台国は「日向」にあったと言ってるようなもんだけど、魏志倭人伝の邪馬台国の行き方は後半は日数で書かれてるから倭人から聞いた話をそのまま書いただけで魏の人間は邪馬台国に行ってない可能性が高い。となると北九州に邪馬台国があるなら、足を運ぶのに時間がかからないから直接行く可能性が高いわけで、南九州にあったと考えるのが自然。そうすると宮崎のどこかってのが場所的にしっくりくる(古墳いっぱいあるしね) そして「日向」というのも「日が没する国」みたいな意味合いを感じるし、下にみてるけど無下にはしない感覚でつけたのかなと思った
動画主も気付いているのですが、北部九州は奴国(現在の福岡市)と伊都国(現在の糸島市)があまりに圧倒的すぎるんだよね。この両国より強大な勢力は九州では維持できません。伊都国の一大卒だけは外交拠点や九州の反乱を抑えるための鎮西府として邪馬台国、そして大和王権から重視され続けており、時代が下るにつれて内陸に移行して大宰府になります。
畿内は何度聞いても周りの国に無理が出てしまう。あの時代の日本人が畿内、東海まで巻き込んだ政治や戦争をしていたとは全く思えない。せいぜい一地方。北九州から九州中部あたりを皆で争っていたんだろう。魏も呉も調査不足もあって自分たちの一州にも遥かに満たない村の集まりを勘違いしてしまったのは確か。
筑紫平野は人気があるが、ナンセンスだぞ。昔は大阪と同じで平野の多くが海だったんだ。吉野ヶ里のそばまで海。今のイメージで筑紫を見たらダメ。千年以上に渡る干拓によって現在の筑紫平野がある。
それは違います。海だったのは有明海周辺の地域だけで、朝倉地方はずっと陸地です。ただし、有明海の干満の差は当時、11mもあり、大型船が内陸まで入ってきました。実際、661年の遣唐使は朝倉市恵蘇宿に着岸しています。
@@user-Godai_Yoshio朝倉地方は相当な内陸部にある所なんですから、昔から陸地なのは当たり前です。7世紀になっても、大型船が内陸部まで来れたということは、その周囲には広大な農地がないという証明です。太閤検地の時代でも、この地方の石高は高くないのです。江戸期に全国の水利技術の良い所を集めて、土地を改良して現在の筑紫があるのです。
@@ナスカの天上絵 大型船が内陸まで来れたことと、農地のあるなしは関係ないと思います。平塚川添遺跡には、ネズミ返しのある大型倉庫を含む、弥生時代中期から後期にかけての竪穴建物約300棟、掘立柱建物約100棟が見つかり、稲作の先進地域であったことは間違いありません。
海岸線云々は縄文時代の話だね
@@ナスカの天上絵 太閤検地でこの地方の石高はどのくらいあったのでしょうか?
魏志倭人伝に書いてある。邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があると。奈良平野の東には海がなく鈴鹿山地。邪馬台国の南には敵対した狗奴国があると。奈良平野の南には吉野熊野の険しい紀伊山地が。卑弥呼のお墓は大きな円墳だったと。箸墓古墳は前方後円墳では。朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで約12000里だと。北部九州の奴国まですでに10000里。とても畿内の奈良まで行けない。邪馬台国は北部九州の筑後川流域にあったのは間違いない。
指摘は賛成.水行10日陸行30日は?その北の30国とは?12000里は会稽東治から東までの直線距離では?伊都国は大分付近でここから四国にわたるのかな?阿波説がこれだが?南に狗奴国はない!狗奴国で言えば九州南が有力である。だとすれば中九州全体が邪馬台国であり火のみこがいる雰囲気である。これが畿内へ移動するとヤマトになる。
補足すると東に海が有る、九州の関門海峡から豊後水道沿いに至る地域が最有力でしょうそこは豊の国(台与の国)、宇佐神宮がかつて宇佐廟と言われていたことから、卑弥呼か台与、または両方の墓は宇佐神宮上宮で間違いないです
@@いるか好き 割と無視されがちな事実として魏志倭人伝には以下のことが明記されている・女王国の東に海が有る・邪馬台国は女王国の都したがって必ずしも邪馬台国の東に海があるとは限らない
邪馬台国と同時代にあった朝倉の川添遺跡~久留米の高良祇園山遺跡が邪馬台国の中心、その連合国は東の宇佐地方まであった。敵対した南の熊本菊池川流域にあった山鹿の方保田東原遺跡で狗奴国の中心でその南限は城南塚原遺跡群では。当時の古代クニの権力を示す豊かな稲作と製鉄技術、中国朝鮮との交易。畿内奈良平野の遺跡群には鉄ではなく、銅鐸文化の平和な牧歌的文化が中心。鉄の武力が九州勢力にあったのは後年の倭の五王による東征伝説に繋がる。
投馬国5万と邪馬台国7万も九州に入るとはとても思えませんね。魏志倭人伝の同時期資料、韓伝には馬韓国で10万、辰国でも4から5万戸とあるのご存知ですか?ちなみに馬韓国でも九州島くらいの大きさありますからね。普通に考えれば奴国がある北部九州に収まる場所なんて無いのは誰でも理解出来るはず。
箸墓古墳を見て、その逸話を思い出して、いつも思うのは、女性の大事な部分に矢になって突撃した大物主の行いの意味は何だったのかと言うことです。卑弥呼の墓と言うには伝承も不足しているでしょう。言い出した人の研究も気になってしまいます。仮定にすぎないのか結論なのか。不十分な研究が検証されないまま世に広まることもありますからね。当時の近畿と北九州の出土物から、異なる文化圏だろうと予測でき、又大陸との交流がどの程度か推測できる……。今の情報では近畿説では不自然に思えますね。
箸や馬は邪馬台国時代からずっと後に登場したモノ。つまり、それが描かれている「神話」もね?
大和はヤマトではなくてオオヤマトで奈良のオオヤマトはヤマトとは別の国です。ヤマトは倭で倭国はイコクで阿波と讃岐が倭国のヤマトです。ヤマトモモソヒメの祭神神社は讃岐にありますよ。また、ヤマトモモソヒメのお墓も讃岐にあり、箸墓古墳は土師氏のお墓で関係ありません。また、倭大国魂神社が阿波にあるので阿波がヤマトの中心地でここから帯方郡まで北西で丁度12000里(76,5✖️12000=918km)で帯方郡から南東方向で一致します。
魏志倭人伝には壱岐や対馬の事は詳細に記載されているが瀬戸内海の島々、特に淡路島や小豆島について全く記載が無い
戸数についても過大に書かれていると思っています。短里という考え方もあるように魏志倭人伝の距離は過大に書かれていますが、短里を参考にすると5~6倍長く書かれてあります。伊都国まで10500里で残り1500里を魏の1里400mで考えてみると、陸行1月水行10日は後の時代の書物にはなりますが唐六典の移動速度を参考にするとおおよそ妥当な数字といえます。ですが、実際には距離が数倍に書かれているので日数も数倍に書かれていると判断できます。距離が5~6倍なっているのであれば、国の面積は25~36倍に、面積に比例して人口が増えるとすると、7万戸というのは実際の戸数を25~36倍に増やした数だったのではないかと思います。1945~2800戸だと1戸が5~10人とはばをもって見ても当時の人口の範囲に収まりそうですし。他の国を足しても3世紀の北部九州の人口に収まる規模になるのと、こういう推測も出きるのでは?ってくらいで根拠がないのが問題ですが。
短里なんて古代中国にはありません
九州で確定してなかったの?他の説は説得力ないし出土品等見ても九州以外ないのにね
中国の学者が時代毎の漢字の発音を調べることの出来る検索エンジンを作成している。3世紀の魏の時代の漢字が分からないケースもあるが、前後の時代が分かれば推測は可能だ。例えば、「投」という漢字は、魏の時代の発音は不明だが、前後の時代はDouで濁音だ(現代はTou) 。よってDouが正解だ。投馬国は正式には於投馬国(陳寿が魏略から「於」を前置詞と感違いして削除した)だが、これは出雲と解釈出来る。よって畿内説の日本海ルートが正解になる。
魏志倭人伝の里程と日程の取り扱いの問題だけど、後漢書東夷伝と比べれば解決するよ。後漢書東夷伝には倭王のいる邪馬臺国は楽浪郡(帯方郡)から万二千里、倭国の北西の境界である狗邪韓国までは七千里とあって、魏志倭人伝の里程のみと一致している。日程については帯方郡からの総計って説であっているのでしょう。
投馬国は出雲かもしれません。しかし投馬国などの日数文章と伊都国奴国などの里数文章は参考にした文献が別なのだと思います。つまり投馬国の位置と邪馬台国の位置は関係しないということです。
いずものどこにドウの音が入っているのですか?
@@OlegBatov日本語の「いづも」を外国人がidumoと聞き取る訳ではない。例えば、イギリスのLondon(首都)は、日本人は「ロンドン」と発音するが、実際はランダンに近い発音だ。Douの元の日本語はダ行のヅだと思われる。 当時の中国語の発音は、エドゥマァみたいな音だったと思われる。
@@ナスカの天上絵 エに相当する漢字は何ですか?一致するとは限らないと言いながら漢字の音を根拠にする、あなたの説の根拠はあなたによって否定されています。
18:10 フェニキア人のカルタゴのような存在だった可能性はありそう?
ほぼ見解は同じです。これだけ出土品あるのですから、邪馬台国は九州以外はあり得ないと思ってます。筑紫平野あたり特に筑後川周辺と思ってます。ダンワラ古墳の鉄鏡は曹操の鏡と極めて類似してます、卑弥呼が居たのは日田あたりでしょうか?防御にも強く、大分にも出れます。赤村の巨大古墳は発掘予定が無いのも不思議です。距離や7万戸等はクシャーナ朝と対等かそれ以上に見せる為つまり呉に対する抑止力のため。あと、一大卒は魏が置いたと言う考えもありますこれなら互いの交流はスムーズにいけますが、、。
卑弥呼は何処に居たかは、置いておき、台与は、邪馬台国連合首脳部や魏から使者である張政ら軍事顧問団と、一時期は、太宰府 羅城に居たと思います。
気持ちは分かるが、筑紫平野は近すぎてリアリティがない。魏の使者が荷物が多くて1日5kmしか進めなくても、博多湾から歩いて1週間もかからないでしょ。
伝ダンワラ出土鉄鏡は出処や出土経緯、遺構年代など極めて怪しく、資料としてはまともに使えない代物です。
普通に立地良過ぎて邪馬台国が滅んだ後も人が住み続けたから繰り返し取り壊され続けて遺跡として現代まで残ってない説あると思います
北九州のどこかでしょ。あとから大和の人間が中国の文献を取り寄せて読んで辻褄あわせようとした。
九州説論者だと今大河の時代考証で引っ張りだこの倉本先生が九州説激推しですね。とりあえず読んでみてはどうでしょう?
四国と畿内のどちらかに比定すると南九州と朝廷の関係が北九州説以上に不透明になるから、北九州が妥当
倭人伝を読むとき、気をつけなければならないことは、その内容は、中国人が直接見たことと、現地の倭人からの伝聞の二つの内容が、混在してること。環濠や入れ墨は、中国人が北部九州で直接見たことに対し、女王国への方角や距離は、距離や方角を正確に測れなかった倭人から聞いたこと。この二つを混乱すると、すべて九州北部のことと、間違ってしまう。倭国は、縄文時代から、東北から沖縄まで、広いネットワークが存在したことも、知っておかなければならない。
三韓の戸数と、北部九州だけor西日本のどちらの戸数が近くなるのが自然か、って話
倭国大乱の後女王卑弥呼が統治者として選ばれている邪馬台国が九州なら九州大乱が正解ではないだろうか。そもそも倭国とは九州のことかも。
この時代に鉄器の出土が際立ってるのは九州大乱を証明していてる👍️
倭という地域に住む人が倭種倭の中の一定の地域をまとめた連合国として倭国がある倭国はその全体または一部の反対勢力を除いて女王国とも記述されているその女王国の中にある都が邪馬台国なので九州説における倭国はほぼ九州のみという認識で間違いないと思う
奴国と伊都国の間に日本最古の王墓、吉武高木遺跡があるんですが…西新町遺跡、藤崎遺跡、有田遺跡、姪の浜遺跡と海岸線の遺跡が連なる様にあるのはご存知でしょうか?姪の浜遺跡より内陸に最古の王墓があり、人口問題も解決出来そうですが
大和は、阿波から神武東征により大和国が移住してくりまで過疎地だった。
魏志倭人伝に「邪馬台国は伊都国(糸島市)の南で狗奴国(熊本)の北」と書いてあります。だとすると、筑紫平野に在ったことになりますよね。
筑紫平野は伊都国の東になります。南に当たるのは佐賀平野で,そこに在ったことになります。邪馬臺国は吉野ヶ里と確定しました。国宝「翰苑」と広志に「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国」と記載されている。伊邪分国(諫早)との位置関係からも吉野ケ里が女王国と確定した。
そうだと思います。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、を発刊しました。関心があれば、誰読んで下さい
邪馬台国は連合国家の名称ですから北九州に7万戸の都市が無くとも連合国家を構成する30カ国の戸数の合計で良いはずです。私は邪馬台国連合東遷説なので出雲の国譲りや神武東征神話を経て最終的には大陸から遠い大和盆地に首都を建設し、その遺跡が纏向遺跡だと考えています。
完全に個人の主観ですが、邪馬台国の女王卑弥呼は太陽信仰の祭司だったと思っています。それならば、太陽信仰に相応しい場所。例えば地平線が見える場所(可能なら朝、日の出が地平線に見える)に居たのではないかと思っています。奈良は盆地。イメージと違うような気がします。
日本の地理条件を考えれば地平線より水平線では?
卑弥呼の鬼道と太陽信仰は直接的には結び付かないと思う。ただ後年になって卑弥呼が太陽神に祀り上げられた可能性はあると思う。魏から鑑が送られたことで五行陰陽思想の影響を受けた太陽神と月神の男女神が表裏一体として伝えられたものの倭国では定着せず卑弥呼の死後になって女性の太陽神として神格化されたのが天照大神なのではないかと想像している。
邪馬壹と書いてヤマトと読まないということがあり得るのか、ヤマトというクニが大和でないことがあり得るのか。ニギハヤヒの頃のヤマトの可能性はまだあり得ると思うが。また、卑弥呼がヒメ(ヒミ)とヒコのことであるとすれば、ヒミコという名前を持つ王である必要はないのではないか。そんなことを考えていました。
関川尚功説は現場を発掘した考古学者らしい一番まともな説ですね。70000余戸の答えは10万戸を越えれば良いんですから論理的に文献上にあります。結論、まぁ邪馬台国は北部九州で100%間違いないでしょう。
無理ですね、それ以前に投馬国5万戸もあるのですから。考古学的にみても対中国の流れは東へ向いているのに、北部九州に何故そこまで集中させる意味が判らないですね。
魏志倭人伝の大原則が分かってらっしゃらないようですね。
@@yoshitome6648 そもそも三国志の中の東夷伝、更に一部でしかない倭人伝だけ読むから妙な話しになるのですよ。
旧唐書、魏略を読んでも矛盾しない解釈をしないと、魏志倭人伝は読めません。まぁ四国は何処にも書いてない。大笑
@@yoshitome6648 私は100%畿内説ですからね、四国?勿論邪馬台国ではないです。邪馬台国とはヤマト、矢田丘陵、山城地区を中心とした周辺諸国ですよ。戸数と鬼道を両立出来るのはここだけです。またおっしゃるように魏略は重要です。
古事記・日本書紀に邪馬台国に直接言及した記述が無いという事から考えると大和王権と邪馬台国の関連は薄いかあっても時間の経過とともに重要性が小さくなって忘れ去られたと考えた方が良いと思う。
ヤマト王権が征服した地方豪族の中に邪馬台国が混じってたりしてそうではあります北部九州くらいにそれなりの勢力を持っていたなら、従えと言われてはい従いますとは言わないでしょうし
神武天皇が宮崎(日向 ヒムカ)から出て奈良に入る東遷してるんだから九州確定だろ?!なんで邪馬台国が奈良になるんだ?外国の対応省庁は北九州、首都は南九州の宮崎、東遷後は奈良。古事記の記載とも一致する。
神武東遷は邪馬台国よりずっと前ってことになってるからじゃね?
@@zennin375東征の出発地点がヤマト国じゃ無くなるのかと言えばNOだと思うから、北九州から近畿までの範囲がヤマト国。つまり、紀元前に東征したことと邪馬台国が北九州にあることは矛盾しない。そうなると近畿の方が分家だった可能性が高く、魏志にのって無い理由に納得が出来る
@@zennin375 近畿説支持派?根拠はあるんすか?
@@zennin375 「東征あるし、九州で確定でしょ!何の問題もなくね?」→「東征は紀元前の話って言われてるからじゃない?」→「いや、出発したところもヤマトだから矛盾しないよ」なんかおかしいか?会話として自然だろ「そう言う話はしてない」はこっちのセリフや
@@zennin375 嫌w勝手に返信の趣旨捏造すんなしw俺はコメントの流れに従っただけやぞ。動画の論理とか知らんわ。そんなん考えてんのお前だけな?
卑弥呼の居住した都市は九州、邪馬台国内の辺境から邪馬台国統一戦に勝ち残ったのが大和ってみてるけどね
邪馬台国という国が日本に存在したのは、魏志倭人伝の記述からで唯一の参考資料といっても良い。その中で北に伊都国(現・福岡県糸島市)があると記述されており、畿内は論理的にありえない。これも畿内説論者は書き間違いと逃げるのだろうか?考古学的根拠も吉野ケ里や当時の鉄器発掘量で圧倒的な差をつけている。 畿内説の学者からでさえ倭人伝記述に沿う、具体的根拠は何一つ聞かれません。畿内育ちの人は学校の先生が授業か個人的かは知りませんが、さも畿内説で決まりのようにデマを吹聴していると聞きます。畿内の学校の先生方は自分で考えてください。どんな具体的根拠が畿内説にはあるのですか?畿内説論者の話は自分たちの希望や妄想としか言えず、よく話題にでる前方後円墳も卑弥呼の墓は70m~100m程度の円墳としか判明していません。また、この直径に該当する墓は今まで見つかっていません。ただ、最近よく大分の宇佐八幡宮の名を聞きます。ここには該当する大きさの墓があり、明治時代に一度発掘したようですが、墓を暴くのは不謹慎と言われ埋め戻したようです。興味ある話です。 私は邪馬台国は今のところ、吉野ケ里から大分にかけて存在した複数居住区を言っている気がします。なにしろ30地区の代表ですので、その時々で本拠を決めたのではないでしょうか? なお、時代は少し違えど金印や魏の曹操の鏡はすべて九州で発見されています。さらに魏が来日したのは敵対国を背後から牽制するため、軍事同盟を結ぶのが目的と言われています。当時は圧倒的軍事力(鉄器発見数)を持ち、さらに牽制には最適の近距離です。このように九州説には次々に根拠が出てきます。少なくとも畿内説(奈良)は100パーセントないでしょう。反論ある方は具体的根拠を言ってください。
邪馬台国は元の資料である魏志倭人伝には邪馬壹国と書かれています。ヤマイチです。中国人が耳で聞いた音なのでどの程度正確な音なのかは分かりませんが日本にはヤマウチとかヤマグチとか似たような地名はあちこちにあります。ヤマウチ=山の内側と言えば阿蘇のカルデラがあります。世界一の面積を誇る大カルデラでありあそこなら7万戸という人口も楽勝でしょう。阿蘇なので火山があり、その噴火によって民族大移動があったと考えると、九州から近畿への文化の移動も分かりやすいように思えます。
魏志倭人伝に書かれている当時の日本の風物は興味深いものだ。弓は上が長く下が短いと書かれているがこれは中国の弓ともヨーロッパの弓とも違う日本の弓の独特の形状でこれがあの卑弥呼の大昔から形が確立されていたのが驚きである。虎豹牛羊と並んで馬もいないと書かれている。日本語のウマは明らかに漢語のマーが訛った語なので馬は漢字と共に大陸から入って来たらしい。馬を別の日本語でコマと呼ぶがこのコマとは古い日本語で朝鮮半島の事だ。朝鮮半島から来た生き物だからコマコマ言っていたらしい。魏国から卑弥呼への返礼の贈物はとてつもない量だった。それを運ぶために馬を船に載せて連れて来たのが日本に上陸した馬の第一号だったのかも知れない。
もうとっくの昔に事実上の結論が出てる話題だと思うけど、逆に未だに何が何でも邪馬台国畿内説を推し続けなければいけない方たちの大人の事情を知りたくなってきた。
一時期優勢でしたからね。あまり、調べてない人からしたら、今でも大和説が優勢って思ってるだけではないでしょうか?
さらに明らかに、邪馬臺国は吉野ヶ里と確定。国宝「翰苑」と広志に「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国」とある。
当時は多元王朝が有ったと思うのが自然かと思う。九州も4つのグループがあったのでは?古事記の身一つで顔が4つがそれにあたるような。筑紫国(筑紫平野を中心とし、伊都国・奴国も傘下に置く)、豊国(大分)、肥国(熊本、狗奴国、狗古智卑狗=菊池彦?)、熊襲国(鹿児島・宮崎?)。奴国(福岡平野)2万戸の3.5倍の広さとなると近くには筑紫平野しかない。吉野ヶ里遺跡・平塚川添遺跡・尾迫辻原遺跡がそのエリアに思える。筑後川を水運で使ってたのでは?尾迫辻原遺跡と同一市内には金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したと言われる場所がある。
女真系の国で邪馬台をヤマトと読んでた気がする
自分的には魏志倭人伝自体の信憑性がどうなのか?って疑問が大きいな
奈良盆地の遺跡は平和そのものだから無理が有り過ぎる。倭国大乱はどこへ行ったって話。もはや論点は大和王権が卑弥呼の子孫かどうかしかないと思う。天照大御神の子孫であるとなっている神武初代天皇は、宮崎県の高野原出身ですが「たかまがはら」は古事記にメチャクチャ出てきます。神武初代天皇は、天岩戸神社の近くの高千穂で王位に就いて、その後に東征して奈良の樫原で天皇位に就いたのです。奈良派の学者もそんなことは分かっているのに神武天皇が紀元前の人とするから奈良に持っていくしかないのです。
元は九州から始まって、後に、奈良へ移したんじゃないの?
多分あってる。おそらく卑弥呼の時代より前に、後に神武天皇と呼ばれる人が日向の地を出発して奈良に都を移した。この時日向に残った皇族が収めていたのが魏志倭人伝に出てくる邪馬台国。だから邪馬台国(ヤマト)は当時2つ日本列島に存在してた。当時の日向がどの辺を指すのかわからないけど「邪馬台国の東の海を越えたところにも倭人の国がある」という記述から、地理的に大分県か宮崎県以外あり得ないから信憑性が高い
自分も同じ考え。甘木,朝倉地方から奈良県。
@@爆弾鬼斬り宮崎だと東に海はあるけど、その先に倭人は住んでいないから宮崎は女王国でないかも
動画ありがとうございます。確かにれーしさんのおっしゃる通り、中国、朝鮮半島という文明が進んでいた国々から近い場所であるほうが交流する点でも有利ですよね。私は古代史の専門家でないことはもちろん、あまり詳しいわけではないですけど、地理的な要因ということを指摘されているれーしさんの主張にはそれなりに説得性があると思います。
3世紀の魏の漢字の発音と弥生時代の日本語が研究によって明らかになれば結論は出そう。
私は、長浜浩明「日本の誕生」を推します
関川氏より坂靖氏の方が緻密ですよ。
古事記にも日本書紀にも邪馬台国とか卑弥呼の記述は無いしな。政治的にも血統的にも縁が無かったんだろう。
まぁ大陸から畿内遠いからね。
邪馬台国が桜井市にない。と言っているのは、学者の5%であり「変わった人」で片づけられている。これが全てですよ。
いい動画をありがとうございます。現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書です。古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることないように暴露する暗号書だったのです。これが分かると、考古学や民俗学の成果から編纂者の目的を考えて、歴史書のどこがウソかを見抜いて古代史を推理できますよ。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。失礼しました(;^ω^)
邪馬台国の説明は非常に簡単です。 古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。 それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。 宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。 皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。 宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。12:38 その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。 ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。 邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。 ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。 宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。 全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。 京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。 宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の途中、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。 巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
記紀の中で卑弥呼は女王、比弥王で邪馬臺国は倭国、夜摩苔国、耶麻騰国。卑弥呼と邪馬臺国は大和への差別用語であり、神功皇后の条に引用する魏志にも卑弥呼と邪馬臺国の名前を忌避している。
同じ国でも漢化前の邪馬台国、漢化後の大和国(耶麻騰国)では価値観が全く別だからな。
当時、北九州も邪馬台国を共立した諸国で、魏から見れば邪馬台国の一部。そこまでの距離が12000里であっても、女王がいる場所まで、12000里とは言っていない。魏の使者が、現地の倭人に、女王がいるところまでの距離を聞いたところ、距離の概念がなかった倭人が、水行20日陸行1月と答えた?
○万戸は適当に書いた気がする
そもそも、魏志倭人伝に、郡より女王国まで、万2000余里としか,かかれていないのに、それが、何故、郡から邪馬台国までが、万2000余里となってしまうのかが分かりません。陳寿は、邪馬台国まで、万2000余里などとは、全く、魏志倭人伝には、書いていないはずなのに、
邪馬台国=ヤマタイコクと呼ばれる国は、ヤマトでは有りません。しかし、所謂、『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国とは、漢王朝時代の最古音での発音では、『ヤマド或はヤマト』になります。
奈良盆地の南...考えるなら和歌山じゃなく吉野、熊野では
邪馬台国の戸数と比定出来る遺跡が未発見の問題、そんなに難しいものじゃないんじゃと思ってる単純に人口が多いと考えるなら、当時から多くの人口を抱える広い平野そしてそんな場所が後の時代で人がいなくなるということはそうそうないわけで、今でもそれなりの規模の都市である可能性はあるところで昭和期以降の都市開発って、途中で遺跡が発見されても見なかったことにして埋め戻したり壊したりしてたのが相当数あるそうですね北部九州に住んでたことありますが、道路を通すために真ん中からぶった切られた古墳が近くにありましたよ
北部九州は仕方ないんじゃないのかな。居住地のどこを掘っても遺跡が出る。笑戸数問題は未発見の遺跡でなく文献的な数字合わせ問題です。
いずれにしても日本列島全体で50万人前後の人口しかなかった時代に一戸平均何人かの問題はあるにしろ女王国だけで15万戸はいくらなんでも盛りすぎなわけで
15万戸は単なるup主の勘違いか編集ミス。10万戸超えてれば良い話ですから。笑
@@yoshitome6648 15万戸は魏志倭人伝に記載されてますよ
記載されて無いよ。出てるのは邪馬台国七万、奴国二万、投馬国五万。
うん、まぁ、普通ですねいくら知名度とお金が絡むといっても、なんでもかんでも邪馬台国に結びつけるのはやめてほしい
東海というか名古屋と伊勢は全然位置が違っていて、伊勢は奈良の南じゃん
・・・には無かった!面白い視点
「気分を害する」のは「近畿説」で食っているお偉いさんだけかも。
卑弥呼の墓は宇佐神宮
邪馬台ではなく邪馬嘉だと自分は考えてます。日本史では土蜘蛛といわれる人々がそれではないかと。風俗や国家体制がそっくりです。
九州の土蜘蛛には〇〇ヒメなどの名前の女性首長が多いですしね。大分県日田市には魏の曹操の墓から出土した物と同じ鉄鏡が出土していて当時九州と中国との結び付きもかなり強く感じられます。
それを言うと、黄金の国ジパングは日本(ジャパン)には無い! って言ってるのと同じですよ。
ほんの数時間差で近畿説を支持する動画に称賛コメントを送っている人が、この動画にも称賛コメントを送っているのが怖い。どういう気持ちなんだろう…。
一定の説得力を示せる意見はすべて称賛に値すると思うのですが、違うのですか?
むしろ優れた考察に賛辞を贈ることができない方がおかしのでは?
優れた考察ではないから、コメントされたのだと思う。敢えて苦言を呈することは、推奨されるべきだと考えます。😊
お、結論ですね。この結論には納得いたします。些細なことまで細かく動画作成された主さまに感謝申し上げます。個人的にはいろいろあるのですが、それは「魏略」「後漢書」の話とかでコメントしたと思うのでここでは止めておきます。第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条以外の文献も考慮すると、また違ったものが見えてきますからね。以下スルー推奨。やはり、「邪馬台国」は「女王国」とは別の概念だったのかと思います。卑弥呼が都とするのが邪馬台国であると書いてあるだけで、卑弥呼が邪馬台国にいるとは書いてない。この部分かなぁと。倭国の首都として「邪馬台国」があるけれど、卑弥呼は「九州」に居たんだと思っております。また、やはり台与の時代になると、「女王国」としては別の場所に遷都しててもおかしくはない。古代の王が変わるたびに都を変えてたし。その時代の人口の多さを考えると、関東地方こそ「首都」があったと考えてもおかしくはないかなぁ。人口7万人を養えるのは関東地方は十分にあり得ますなぁ。ま、ワイとしては、卑弥呼(女王国)は九州にあったほうがわかりやすいと思います。が、倭人の「首都」は九州でなくても大丈夫。それこそ、畿内でも、吉備でも、阿波でも、常陸(日高見)でもあり得るかと。
>>「邪馬台国」は「女王国」とは別>>倭国の首都として「邪馬台国」がある>>>卑弥呼は「九州」に居た>>台与の時代になると、「女王国」としては別の場所に遷都>>関東地方こそ「(女王国の)首都」があった何の物的証拠もない飛躍しまくった憶測だけど、キミが「邪馬台国はどこでも良い説」で「女王国は九州から関東に遷都説」なのは分かった。邪馬台国を確定させたくないない人物だとよく分かった。みんなに報告しておくよ(^^)
>ラッキー純またお前か。データ提供ありがとう。もう十分なんだ。もうお前に興味はない。
@@YO-high キミの正体はみんなにバレバレなのにいつまで上から目線コメントと悪口で邪馬台国チャンネルを荒らすつもり?
ラッキー純ワイはここには4年前くらいからいるけれど、荒らしと言われたのは初めてだ。しかもお前が言ってるだけだ。お前こそ、3か月前の「デマ」の拡散には笑ったわ。あれ、消したから良いのかい?まぁ、動画の趣旨とは違うので、これくらいにしたら? ワイもお前に興味ないし。
大和説は奈良の大先生、先生の研究線上なので、現研究者が科学的分析・研究は不可能と想定され、大和ありきの前提理論。また、倭国内の距離、人口は倭国を大国とする事で、中華皇帝の権威を讃えることを目的、主眼とした数値であり、リサーチを目的としたものでは100%ない。人口を確定するには文字、数字やその周辺文明が必要。当時の倭国にその能力はなかったと推定。
ジャワ台国はジャワ島だよ巴里国バリ島も書かれてあるし、、。出発の地点から間違っているし、方角の北は東北東(到着点の方向と飛行機の最短方向の違いと同じ)。東南アジア諸島は倭人が住む倭国で、日本は委国(金印にも書いてあるよ)、、縄文人は倭人だけど後発の縄文人は弥生人(色々な地域から渡来して来た人、民族の総称)に分類。
そもそも邪馬台国っていうのが無かったというのはないのですかね。
まぁ、これで飯食ってる方々がいる限り真相が分かる事はないと思いますけどね。
騒いでいるのは、そんな学者の説を信じて夢を見ている素人だけ。
四国はもっとないわ笑
近畿よりはるかに、可能性はある。まぁ九州だろう
こんだけ証拠あがってんのに学会では畿内説が有力なのが本当解せないね。学会とかってどうしても若手研究者は先輩の老教授に忖度するからね、東大の偉い教授が畿内だと言ってんだから全力で畿内説を守護せねばという謎の使命感と先輩の業績を覆してはいけないという呪縛が自由な研究を妨げる
無かったと予想するならあったかもしれないとも予想出来ないか?
平塚も吉野ケ里も大規模集落だったけど、政治の中心は大宰府と思うんだけど。九州王朝説、それが倭国でしょ。
太宰府政庁跡の案内看板には、政庁が作られたのは七世紀末と書かれています。邪馬台国の時代にはまだ太宰府はなかったと思います。661年に朝倉橘広庭宮が造られて、2ヶ月後に斉明天皇が亡くなり、その後に太宰府ができたのでしょう。
稗田阿礼の創作だある訳ねー、あったらみつかるわ~
既に小学校中学校の教科書では畿内、大学の考古学の授業でも畿内、研究者の論文さえ畿内を前提に書かれたものが増えてきています。日本中様々な地域を出身とし、異なるバックボーンを持った研究者の大半が、そんなにイデオロギーや飯の種を気にして生きていると思うのですか?そんなことはありえないのです。
ほとんどの地域では畿内説より九州説に傾いています。学校の先生がデマを吹聴しているのは畿内ぐらいです。畿内の学者でさえ具体的根拠が言えていません。UA-camで九州説が大半を占めているのは、論理的、考古学的に誰にでもわかりやすい結果です。あなたは畿内説の具体的根拠を言えますか?テレビの対談番組でも九州説の学者が文献論理・考古学的発掘結果を問い、これに何も反論できない畿内説学者を長年に渡り見てきました。文献論理や考古学的発掘結果は九州説を示しています。 なお、ほとんどの地域が九州説というのは、他の畿内説者が挙げているページにも参考資料として書かれています。倭人伝の記述を自分に都合よく捻じ曲げないように!
『異なるバックボーンを持った研究者の大半が、そんなにイデオロギーや飯の種を気にして生きていると思うのですか?』か。異なるバックボーンを持った多くの研究者が共産イデオロギーにかぶれ、共産史観を持って歴史を表そうとしたのはほんの数十年前の話なのに、それを知らない人もいるんですね。
畿内説の研究者は魏志倭人伝の初歩的解釈もできず異常です。邪馬臺国は吉野ヶ里と確定した。国宝「翰苑」と広志は「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国(野・目達)」と記述する。更に広志は、女王国(倭)の西南海行1日至伊邪分(イヤハ)国(諫早)と記述し,吉野ケ里と諫早との相対位置に合致する。
UA-camでは九州説が大半を占めてるな。
そだよ。長浜さんの本読めや。
出雲、九州東部、九州北部、出雲、畿内の小規模国が連合を形成。出雲には宗教的権威、九州東部は起源、九州北部は名、実権は畿内。そして大きく和する…とすれば辻褄は合いそう。
5+2=7🥸
18:46
邪馬台国と大和政権の関係が・・。
魏志倭人伝・(磯上乃)古事記を正しく解釈出来ていますか? 古事記の正式名称は「磯上乃古事記」でして、「磯上乃」とは「阿波」であると空海は書いています。魏志倭人伝の記載は邪馬台(たい)国(邪馬台国は新井白石が名付けた)でなく、邪馬壹(臺)国(やまと国)であるとご存じですか? 邪馬台国は存在しません。下記にピッタリするのが邪馬壹国で阿波で正解です。九州・近畿等他説はピッタリしますか?--------------------------------------------------------------------- 候補地は魏志倭人伝記載通りに、山から丹(辰砂)がでますか? 真珠青玉(原石:青石)が取れますか?帯方郡から12000里ですか? さらに狗耶韓国から7000里ですか?会稽東治(豫洲・下相城)の真東にあたりますか?壱岐から松慮国迄1000里ありますか? 宗像が松慮国ではないですか? 東に開けた海と山が近くにありますか?1000里隔てた東海の先には別の倭人が住んでいますか?山間部(高天原)にあり周りに21国ありますか? 牛馬はいませんね?卑弥呼および後継者に関する伝承が残っていますか?古事記(倭・やまと)との深い関連が認められますか?古い神社(延喜式神社)や初期古墳等遺跡が多数ありますか?
邪馬台国は九州北部(大分あたりか)にあったと思います。何よりも決定的だと思うのは、邪馬台国の東方海上の向かい側の陸地にも倭人が居たとの魏志倭人伝の記述です。それと、邪馬台国では人々が鯨面(入れ墨)をしていたとの記述です。日本書紀の確か神武記か綏靖記だったかに、ある皇女が鯨面の男を見て驚いている記述があり、それは大和王権の文化圏では入れ墨が行われていなかったことを示しており、もし、邪馬台国が大和朝廷に繋がっているなら、入れ墨をしなくなった理由について何らかの伝承が残るはずで、それが日本書紀や古事記に記載されるはずです。私は、神功皇后は架空の人物だったのではないかと考えています。ただ、大和朝廷と邪馬台国は、4世紀の中頃、婚姻を通じて一体化した(大和朝廷から天皇を出し、邪馬台国側から皇后を出すといったことが取り決められたのではないでしょうか)のではないかと考えます。そしてそのことの象徴として神功皇后という架空の人物の話が作られたのではないかと思うのです。九州の地名と大和の地名によく似たものがあることが指摘されており、それは邪馬台国から多くの人が大和に移住したことをうかがわせます。その意味で邪馬台国は東遷し、大和朝廷と合併し、その一部となったのではないかと思います。邪馬台国連合は、もともと九州北部と朝鮮半島南部が勢力圏だったのではないかと思います。ところが、4世紀にはいるころから、半島南部に誕生した百済や新羅に押されて、半島の権益を失いつつあったのではないでしょうか。そこで、邪馬台国連合は、新たに関西に勃興してきた大国大和朝廷と組んで、朝鮮半島南部での勢力挽回を図ろうとしたのではないかと思うのです(九州征服を優先しようとした夫の仲哀天皇の急死の話も、朝廷内で新たに皇后として加わった邪馬台国勢力と従前からの大和朝廷内の土着勢力の間で、外交方針を巡って権力闘争が生じ、邪馬台国勢力が勝ったことを象徴しているのではないかと感じます。大和朝廷が、4世紀の後半ごろから、半島に盛んに兵を出し関与するようになるのは、邪馬台国の権益と外交政策を引き継いだからではないかと思われます。しかし、6世紀に入り、半島南部とは関係が薄かった継体朝が成立すると、政権が不安定だったこともあって半島の権益維持に急速に関心を失い、任那を奪われることになったのではないでしょうか。その後も約1世紀の間、半島に関与は続けるものの、白村江の戦で最終的に完全に一切の権益を失ったのだと思います。邪馬台国・大和朝廷同一説は、日本書紀や古事記に邪馬台国の話が載っていないのは、邪馬台国が大陸王朝に朝貢していたので都合が悪かったからだと解釈するようですが、そのようなことはいくらでも言い方を工夫すればよく、むしろ、そもそも邪馬台国の歴史は、大和朝廷の歴史ではなかったので、その伝承がなかったからではないかと考える方が自然と思われます。
邪馬台国って、名前からしてヤマトだと思ってましたが、違ったのですかね。
邪馬台国は大和国で、元々は九州にあったものが畿内まで東遷してきた。卑弥呼は役職名であり、魏志倭人伝に出てくる女王卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命。真相は知りませんが自分はもうそういうことにしています。
いやホント、なんで記紀に神武の東征が大々的に記述されてるのか。大和の卑弥呼が九州勢に滅ぼされたってこと?じゃ箸墓古墳は?意味わからん
記紀の神武東征は皇族のルーツが九州にあるという逸話に過ぎないと思います。なぜそんな逸話があったかといえば、当時の支配者層に九州から移住した者の子孫が多かったこと九州は当時の先進地域でそこの王族出身ていうのが尊敬を集めやすい効果があったなどが考えられます。
当時の人は邪馬台国が九州にあったと考えていたからこそ自らの権力の正当性を主張するために九州から東遷したと書き記したのだろう。
14:44 元橿原考古学研究所所属の寺沢薫氏が奈良盆地の人口の試算をしているのですが多く見積もって3万5千人、7000戸とのことでした。
人口を過剰に記述した理由は呉を牽制するため倭国を取り込みたい魏の権力者の間に大国であるという認識があったという考えでした。
ちなみにこの方は関川尚功氏の元同僚で畿内説の立場ですが箸墓古墳と卑弥呼の関連付けには否定的です。
出雲王国や吉備王国が実在するなら九州と近畿は別の王朝なのは当然
丹後あたりも王国もあった(解かんないけど)説有るよねー。実際あちこちあったんやろねとは思うけどね
関東王国もあった
@@日巻やってた
全部がそうじゃないだろうけど、律令国で分割されてる国は大体大きい王権がありそうだよね。
じゃなきゃ実際火の国とか熊本と海挟んで長崎当たりだし、そりゃ後から来た統治者は肥前肥後に分けるよなぁって感じだし。
吉備(備前美作備中備後)丹波(丹波丹後)筑紫(筑前筑後)毛国(上野下野)火国(肥前肥後)
信濃だって最初は諏訪と科野に分けてたのは、諏訪氏のせいもありそう
記紀になぜ神武東征の話があるかを考えると、九州の勢力が大和に入って大和王権を立てたということなので、邪馬台(やまと)国と大和(やまと)が同じ読みになるのは不思議でもなく、記紀に卑弥呼が登場しないことや邪馬台国九州説も至極当然のように思えます。
邪馬台国と大和王権を切り分ける考え方、大賛成です。
今の中央集権国家の感覚で当時を見るから事実をねじ曲げねばならい。
大和王権が日本を手中に収めるのは考古学的に見ても4世紀〜5世紀に掛けて。
それまでは任侠でいうところの兄弟よろしく離合集散していて連続性がないと考える方が自然だと思います。
九州が本家で畿内に移ったのは分家と言う考え方も出来ますよね。先に九州にあったヤマトが滅んで、残った畿内ヤマトが後を継いだ感じ
北部九州には多くの人口を支える遺跡がないと言われているが、平塚川添遺跡には300軒の住居跡があり、吉野ヶ里遺跡に匹敵する大きさです。国指定史跡になったのは30年前で、50ヘクタールの工場団地造成中に発見され、そのうちの10ヘクタールだけが遺跡として残されました。ここは福田台地(一木・小田台地)の西側の、遺跡がないだろうと思われていた低地です。福田台地には多くの集落があって、本格的な発掘調査は行われていません。ここから東へ10キロほど行くと朝倉市山田で、周囲には多くの古墳があり、筑紫平野全体で考えるなら7万戸あってもおかしくない。堤当正寺古墳では韓国・伽耶と共通の鉄製甲冑も見つかっている。長年にわたって朝鮮半島と関係のあったことが明らかです。
僕も福岡県朝倉市平塚川添遺跡が邪馬台国中心部だと思います。
あそこから周囲の地形の名称をみると、奈良市からみた周囲の地形の名称と一致します。
邪馬台国の人たちが奈良に移住したからだという説を裏付けています。
平塚川添遺跡から東方に国東半島がありそこに宇佐八幡宮があります。
あそこが卑弥呼の墓です。
邪馬台国の東方に太陽の巫女である卑弥呼の墓として祀る事は極めて合理的です。
さらに国東を「くにさき」と呼ぶのも邪馬台国の中心からまさに東方のさきにありますから辻褄が合います。
畿内説ですと、まったく辻褄が合わないのでダメですね。
全然足りないと思いますよ。まず7万戸の意味をよく考えないと。当時は馬韓国で10万戸、九州と大差ない広さでこれだけあります。
奴国に投馬国、そこに邪馬台国を収める場所なんて九州にはあり得ないと思いますよ。
甘木、朝倉の地名と奈良、大和の地名とそっくりだから移ったと思う。環濠集落跡あるし。自分は北九州の何処かと思っていて、この辺りは自分の予想している場所のベスト3に常に入っている。現在なら邪馬台国の比定地の第1位になってきた。
国東半島まで行かなくても、朝倉市山田に卑弥呼の墓に相当する古墳があります。それは魏志倭人伝の径百歩に匹敵する直径145mの円墳で、長田大塚古墳といいます。すぐ近くには斉明天皇のもがりの場所といわれる御陵山、恵蘇宿などがあり、この地に朝倉橘広庭宮があったと思われます。斉明天皇がなぜこの地に来たのか、それはここが卑弥呼の墓と知っていたからです。
朝倉には朝廷が少しの時期ありましたからね、何故朝倉なのか…わかりますよね
邪馬台国が畿内なら、やっぱり記紀に邪馬台国のことが書かれるべきであり、金印や鏡とかも現在の皇室やどっかの神社に残ってないとおかしいわ。
黒塚古墳知りませんか?
逆にかなり欠史八代辺りが怪しいという事です。その中でも畿内から瀬戸内、出雲地方に伝承が多い孝霊天皇や百襲姫もいますからね。
邪馬台国っぽいのはあったと思いますが魏志倭人伝の記述通りにあったかどうかは疑わしいと思います
この動画にもあったように話し盛り盛りなんだと思いますね
なにしろ後の倭国五王だって誰が誰だかはっきりしませんから特に古代の記述なんて怪しい限りです
邪馬台国論争で一番不思議に思うのは発掘の証拠がまだ見つからないのになぜか邪馬台国の存在ありきで
話を進めてしまうところですね
戸数問題は、実際に見たか訪れた国はある程度正確で、倭人から聞いただけの国の話は大分盛られていたと思ってます。
隋書?でも倭人の話は大げさとか信用できないとか書いてあったしねぇ。
確かに伊都国までは現実的だがその他はすごい多いもんねぇ
ちょっと都合よく解釈し過ぎですね、女王卑弥呼は軽蔑して下に見るのに邪馬台国の数字は過大にみるの?
@@トミヤマサキオ 別に軽蔑してる訳では無いと思うのですが…ただ東の果ての国なので蛮族だと思ってはいたでしょうね
魏志倭人伝の記事で特に注目すべきなのは日本には馬がいないという点だと思う。馬はあの卑弥呼の時代より後に大陸から入って来た訳だ。朝鮮半島から船に載せて九州にである。これは馬だけの話ではなく、大陸との接点が多かった九州よりも近畿地方の方が発展していたとしたら不自然すぎるように思う。
ありがとうございます!
ありがとうございます。投げ銭感謝いたしております!
私は神社の御祭神の祀られ方から日本の古代史を考察したりします。
というのも、神道においてお祀りされている御祭神は、実在した人物をモデルにされていることがほとんどで、お祀りのされかたで過去にあった出来事を読み取るヒントになっているからです。
邪馬台国に関しては、福岡の宗像大社や大分の宇佐神宮が関係していると考えております。
宗像大社の辺津宮では、本殿をぐるりと囲むように24もの大小のお社が配置されており、121柱もの神様がお祀りされています。
それは本殿にお祀りされています市杵島姫神様が多くの神々を従えている様に見えます。
この様な造りの社殿は他には見られません。
その在り様は、倭国大乱を治めた女王を連想させます。
そして宇佐神宮なのですが、宇佐神宮といえば日本で最も多くお祀りされている八幡神社の総本社なのですが、拝殿の中央にお祀りされているのは、主祭神である八幡大神(応神天皇)ではなく、市杵島姫神様を含む宗像三女神なのです。主祭神を従えてお祀りされている神様の存在は、そこに間違いなく隠された歴史があるのでしょう。
まず邪馬台国と大和朝廷の連続性ですが、壱岐率は対馬壱岐松浦伊都奴国その他の国を監察していた。出先はどこにあったのか、生の松原と小戸の岬付近であっただろう。その機能は太宰帥に受け継がれている。白村江の戦いで敗退した大和朝廷は水城・大野城・基肄城を築いて防衛体制を取ったがどこを守ったのか不明なままであったが、これは斉明天皇の行宮・筑紫の橘の広庭の宮を大本営としていたわけだからここを守っただろう。どこ? 斉明天皇は筑紫で薨去されて橘田の北の山麓に陵がある。ここは伊弉冉尊が禊ぎをした「筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原」を流れ下る急流でもなく淀んでもいない川の北側に当たる。あはきの原は朝倉の地の東詰のどん詰まりにある杷木町である。もし九州邪馬台国説を採ると甘木あさくらを中心として東西南北の地名と奈良・桜井あさくらを中心とした東西南北の地名が一致すると証明した故奥野氏の説明通りになる。橘も小戸もここ、あはきの原に関係する地名である。また魏志倭人伝には「女王国の東、海を渡るに……黒歯国…」とあるがこれはお歯黒を習俗とする国が邪馬台国の東にあると読めないだろうか。ChatGPT等で検討して貰いたい。橘の香り豊かに 若草の萌ゆる。。。
邪馬台国は、沖縄本島で、伊都国は、吉野ヶ里、つまり、倭国は、佐賀県以西の九州と南西諸島だったと思います。沖縄北谷の海底の城と吉野ヶ里遺跡は同年代で同じ構造です。
国譲りで、倭国は、出雲大国(葦原の中国)を譲り受け、その後、出雲王国エリアだった、日向の高千穂に天孫降臨。
ここから神武東遷で大和まで移動し、その後大和朝廷を設立したと考えています。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
初代神武天皇が橿原神宮で紀元前60年に即位されて以来、奈良県には大和政権があり、都が京都に遷都されるまでの間、歴代天皇がいらっしゃいました。
魏志倭人伝の時代には第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。
又、初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
考古学会の一番えらい人が近畿説って言ったから、学会だとそれを支持しないと生きていけない、とかあるんですかね。
今わかっていることだけから状況整理すると、畿内説は無理があるようにしか。
近畿説を主張する研究者は研究費がつきやすいというウワサが。
邪馬台国が近畿以外にあると都合が悪い方々がいますからね…
畿内で発掘していて畿内にはなかったと語る人はいるにはいますが、動画の元ネタの関川先生以外は畿内にはなかったって本を何故か定年後に出されるんですよね。
仕事していたら忙しくて出せず時間に余裕ができた定年後に出したとも考えられますが、実際の所はどうなんでしょうね。
それから畿内説の根拠の年代も不思議な話があって、元々は4世紀と言われていた箸墓古墳や纒向遺跡を3世紀で邪馬台国の時代にした年輪年代法の基礎データが非公開で誰も年代が正しいかどうか検証できない状態が30年以上続いていて、現在公開を求める訴訟中です。公開が前提の研究なのに頑なに非公開にしてるのは不思議だと思いませんか?
炭素年代測定法や酸素同位体比年輪年代法も年輪年代法のデータが校正や年代の基準に使われているため年輪年代法がずれていた場合同じようにずれます。
年輪年代法で測定すると法隆寺など建立された年代がわかっているものも100年古く出るそうです。
@@NK-pl6no
統制国家の支那ですら、
第三者機関てある、
マックス・プランク人類史科学研究所
などを入れて進めている案件もあるのに、、、
日本の考古学は「ゴッドハンド」での、日本の考古学の信頼失墜をもう忘れたのだろうか?
あれは旧石器だから関係ないと考えているのだろうか?
30年も公開を前提にしたものを未だ果たさないのも、
ケネディ暗殺事件の情報公開か?
ってくらい、意味不明で
また、後ろ暗い事があるのですかね。
どちらにしろ、
支那の考古学界より自浄作用がないので、内輪ではどうにもならないでしょう。
九州の考古学なり、他の地域が率先して第三者機関を入れて事を進めるなどし、
その結果をオープンにする事で
ある意味、外圧を掛けなければ
そのような悪癖は治る見込みは全く無いと思います。
つまり、どうしようもなく遅れた業界ということでしょう。
多分そうでしょう。纏向の炭素年代測定法の改ざんなんか呆れます。国立大学の教授(特に京大)の忖度は酷いもんです、畿内でないと日本の出立ちが説明出来なくなりますからね、記紀の時代と何ら変わってないのですよ。
@@mari-od1ym
畿内でなければ日本の成り立ちが説明出来無いと言う事はないと考えますが?
そのように考える方が多いのですか。
そうなると、支那やヨーロッパの多くの国は人種の入れ替えや、
キリスト教世界とイスラム世界を行ったり来たりしている地域もあるが、
それらの国はどう考えれば良いのでしょう?
アメリカ合衆国は、独立宣言以前のその地域の歴史は黒歴史なのだろうか?
ラテンアメリカはスペインやポルトガルのコンキスタドールに征服される前の事は、ラテンアメリカの成り立ちに含まれないのでしょうか?
そう見てみると、畿内でなければ日本の成り立ちが説明出来無いと言うのは、
とても傲慢な思想に思えます。
昔から邪馬台国論争は観光資源としての価値もあるので政治的歴史解釈も含まれている分野なのかなと思います。公的には永遠に決着がつかない感じはしますね。個人的には九州です。
北九州から少しはズレるとしても少なくとも畿内よりは北九州でしょう。でも畿内派って、ありとあらゆる屁理屈を総動員して自説を譲らないんだよね。もう信仰のレベルと言ってもいい。畿内で励んでいた研究者の中からも北九州説が出てきているのに。
畿内説は京都大学派なんですよ。
悲しい事に九州大学まで京都大学派の人脈に毒されて、九州説を言えないんですよ。
邪馬台国畿内説ですと、宮崎県を進発した神武天皇軍が邪馬台国を攻めて滅ぼした形となり、どうしても辻褄が合わないんです。
手塚治虫の「火の鳥」はまさにそう描写していますが、邪馬台国の後継王朝が天皇家だと考えた方が自然であり、天皇家が邪馬台国を滅ぼすなんてヘンなんですよ。
幸い東大学派は吸収説を支持しており、京大学派のトンデモ説はあまり相手にされていません。
@@大東亜解放神-d8p 素人がパッと思いついたことなんだけど、九州にあったヤマトから東征した分派がいて、それが機内の大和朝廷になったんじゃない?邪馬台国は男王が統治してた時は荒れてたけど卑弥呼が統治して収まったらしいし、機内ヤマトのルーツはその時の男王?にあるって仮説。神武東征の詳しい時期はwikiにのってなかったから、記紀に書いてるのは「そんなことが昔あったよ」って口伝の可能性高いし、卑弥呼と神武天皇は同時期に存在していてもおかしくはない。追い出されたと仮定するならのちに邪馬台国を滅ぼすのも納得ができる。
あと、この仮説だと邪馬台国は「日向」にあったと言ってるようなもんだけど、魏志倭人伝の邪馬台国の行き方は後半は日数で書かれてるから倭人から聞いた話をそのまま書いただけで魏の人間は邪馬台国に行ってない可能性が高い。となると北九州に邪馬台国があるなら、足を運ぶのに時間がかからないから直接行く可能性が高いわけで、南九州にあったと考えるのが自然。そうすると宮崎のどこかってのが場所的にしっくりくる(古墳いっぱいあるしね)
そして「日向」というのも「日が没する国」みたいな意味合いを感じるし、下にみてるけど無下にはしない感覚でつけたのかなと思った
動画主も気付いているのですが、北部九州は奴国(現在の福岡市)と伊都国(現在の糸島市)があまりに圧倒的すぎるんだよね。この両国より強大な勢力は九州では維持できません。伊都国の一大卒だけは外交拠点や九州の反乱を抑えるための鎮西府として邪馬台国、そして大和王権から重視され続けており、時代が下るにつれて内陸に移行して大宰府になります。
畿内は何度聞いても周りの国に無理が出てしまう。
あの時代の日本人が畿内、東海まで巻き込んだ政治や戦争をしていたとは全く思えない。
せいぜい一地方。
北九州から九州中部あたりを皆で争っていたんだろう。
魏も呉も調査不足もあって自分たちの一州にも遥かに満たない村の集まりを勘違いしてしまったのは確か。
筑紫平野は人気があるが、ナンセンスだぞ。昔は大阪と同じで平野の多くが海だったんだ。吉野ヶ里のそばまで海。今のイメージで筑紫を見たらダメ。千年以上に渡る干拓によって現在の筑紫平野がある。
それは違います。海だったのは有明海周辺の地域だけで、朝倉地方はずっと陸地です。ただし、有明海の干満の差は当時、11mもあり、大型船が内陸まで入ってきました。実際、661年の遣唐使は朝倉市恵蘇宿に着岸しています。
@@user-Godai_Yoshio
朝倉地方は相当な内陸部にある所なんですから、昔から陸地なのは当たり前です。7世紀になっても、大型船が内陸部まで来れたということは、その周囲には広大な農地がないという証明です。太閤検地の時代でも、この地方の石高は高くないのです。江戸期に全国の水利技術の良い所を集めて、土地を改良して現在の筑紫があるのです。
@@ナスカの天上絵 大型船が内陸まで来れたことと、農地のあるなしは関係ないと思います。平塚川添遺跡には、ネズミ返しのある大型倉庫を含む、弥生時代中期から後期にかけての竪穴建物約300棟、掘立柱建物約100棟が見つかり、稲作の先進地域であったことは間違いありません。
海岸線云々は縄文時代の話だね
@@ナスカの天上絵 太閤検地でこの地方の石高はどのくらいあったのでしょうか?
魏志倭人伝に書いてある。邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があると。奈良平野の東には海がなく鈴鹿山地。邪馬台国の南には敵対した狗奴国があると。奈良平野の南には吉野熊野の険しい紀伊山地が。卑弥呼のお墓は大きな円墳だったと。箸墓古墳は前方後円墳では。朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで約12000里だと。北部九州の奴国まですでに10000里。とても畿内の奈良まで行けない。邪馬台国は北部九州の筑後川流域にあったのは間違いない。
指摘は賛成.水行10日陸行30日は?その北の30国とは?12000里は会稽東治から東までの直線距離では?伊都国は大分付近でここから四国にわたるのかな?阿波説がこれだが?南に狗奴国はない!狗奴国で言えば九州南が有力である。だとすれば中九州全体が邪馬台国であり火のみこがいる雰囲気である。これが畿内へ移動するとヤマトになる。
補足すると
東に海が有る、九州の関門海峡から豊後水道沿いに至る地域が最有力でしょう
そこは豊の国(台与の国)、宇佐神宮がかつて宇佐廟と言われていたことから、
卑弥呼か台与、または両方の墓は宇佐神宮上宮で間違いないです
@@いるか好き 割と無視されがちな事実として魏志倭人伝には以下のことが明記されている
・女王国の東に海が有る
・邪馬台国は女王国の都
したがって必ずしも邪馬台国の東に海があるとは限らない
邪馬台国と同時代にあった朝倉の川添遺跡~久留米の高良祇園山遺跡が邪馬台国の中心、その連合国は東の宇佐地方まであった。敵対した南の熊本菊池川流域にあった山鹿の方保田東原遺跡で狗奴国の中心でその南限は城南塚原遺跡群では。当時の古代クニの権力を示す豊かな稲作と製鉄技術、中国朝鮮との交易。畿内奈良平野の遺跡群には鉄ではなく、銅鐸文化の平和な牧歌的文化が中心。鉄の武力が九州勢力にあったのは後年の倭の五王による東征伝説に繋がる。
投馬国5万と邪馬台国7万も九州に入るとはとても思えませんね。魏志倭人伝の同時期資料、韓伝には馬韓国で10万、辰国でも4から5万戸とあるのご存知ですか?
ちなみに馬韓国でも九州島くらいの大きさありますからね。普通に考えれば奴国がある北部九州に収まる場所なんて無いのは誰でも理解出来るはず。
箸墓古墳を見て、その逸話を思い出して、いつも思うのは、女性の大事な部分に矢になって突撃した大物主の行いの意味は何だったのかと言うことです。卑弥呼の墓と言うには伝承も不足しているでしょう。言い出した人の研究も気になってしまいます。仮定にすぎないのか結論なのか。不十分な研究が検証されないまま世に広まることもありますからね。
当時の近畿と北九州の出土物から、異なる文化圏だろうと予測でき、又大陸との交流がどの程度か推測できる……。今の情報では近畿説では不自然に思えますね。
箸や馬は邪馬台国時代からずっと後に登場したモノ。
つまり、それが描かれている「神話」もね?
大和はヤマトではなくてオオヤマトで奈良のオオヤマトはヤマトとは別の国です。ヤマトは倭で倭国はイコクで阿波と讃岐が倭国のヤマトです。ヤマトモモソヒメの祭神神社は讃岐にありますよ。また、ヤマトモモソヒメのお墓も讃岐にあり、箸墓古墳は土師氏のお墓で関係ありません。また、倭大国魂神社が阿波にあるので阿波がヤマトの中心地でここから帯方郡まで北西で丁度12000里(76,5✖️12000=918km)で帯方郡から南東方向で一致します。
魏志倭人伝には壱岐や対馬の事は詳細に記載されているが瀬戸内海の島々、特に淡路島や小豆島
について全く記載が無い
戸数についても過大に書かれていると思っています。短里という考え方もあるように魏志倭人伝の距離は過大に書かれていますが、短里を参考にすると5~6倍長く書かれてあります。伊都国まで10500里で残り1500里を魏の1里400mで考えてみると、陸行1月水行10日は後の時代の書物にはなりますが唐六典の移動速度を参考にするとおおよそ妥当な数字といえます。
ですが、実際には距離が数倍に書かれているので日数も数倍に書かれていると判断できます。
距離が5~6倍なっているのであれば、国の面積は25~36倍に、面積に比例して人口が増えるとすると、7万戸というのは実際の戸数を25~36倍に増やした数だったのではないかと思います。1945~2800戸だと1戸が5~10人とはばをもって見ても当時の人口の範囲に収まりそうですし。
他の国を足しても3世紀の北部九州の人口に収まる規模になるのと、こういう推測も出きるのでは?ってくらいで根拠がないのが問題ですが。
短里なんて古代中国にはありません
九州で確定してなかったの?
他の説は説得力ないし出土品等見ても九州以外ないのにね
中国の学者が時代毎の漢字の発音を調べることの出来る検索エンジンを作成している。3世紀の魏の時代の漢字が分からないケースもあるが、前後の時代が分かれば推測は可能だ。例えば、「投」という漢字は、魏の時代の発音は不明だが、前後の時代はDouで濁音だ(現代はTou) 。よってDouが正解だ。投馬国は正式には於投馬国(陳寿が魏略から「於」を前置詞と感違いして削除した)だが、これは出雲と解釈出来る。よって畿内説の日本海ルートが正解になる。
魏志倭人伝の里程と日程の取り扱いの問題だけど、後漢書東夷伝と比べれば解決するよ。
後漢書東夷伝には倭王のいる邪馬臺国は楽浪郡(帯方郡)から万二千里、倭国の北西の境界である狗邪韓国までは七千里とあって、魏志倭人伝の里程のみと一致している。
日程については帯方郡からの総計って説であっているのでしょう。
投馬国は出雲かもしれません。
しかし投馬国などの日数文章と伊都国奴国などの里数文章は参考にした文献が別なのだと思います。
つまり投馬国の位置と邪馬台国の位置は関係しないということです。
いずものどこにドウの音が入っているのですか?
@@OlegBatov
日本語の「いづも」を外国人がidumoと聞き取る訳ではない。例えば、イギリスのLondon(首都)は、日本人は「ロンドン」と発音するが、実際はランダンに近い発音だ。Douの元の日本語はダ行のヅだと思われる。 当時の中国語の発音は、エドゥマァみたいな音だったと思われる。
@@ナスカの天上絵 エに相当する漢字は何ですか?
一致するとは限らないと言いながら漢字の音を根拠にする、あなたの説の根拠はあなたによって否定されています。
18:10 フェニキア人のカルタゴのような存在だった可能性はありそう?
ほぼ見解は同じです。これだけ出土品あるのですから、邪馬台国は九州以外はあり得ないと思ってます。筑紫平野あたり特に筑後川周辺と思ってます。ダンワラ古墳の鉄鏡は曹操の鏡と極めて類似してます、卑弥呼が居たのは日田あたりでしょうか?防御にも強く、大分にも出れます。
赤村の巨大古墳は発掘予定が無いのも不思議です。距離や7万戸等はクシャーナ朝と対等かそれ以上に見せる為つまり呉に対する抑止力のため。あと、一大卒は魏が置いたと言う考えもありますこれなら互いの交流はスムーズにいけますが、、。
卑弥呼は何処に居たかは、置いておき、
台与は、邪馬台国連合首脳部や
魏から使者である張政ら軍事顧問団と、
一時期は、太宰府 羅城に居たと
思います。
気持ちは分かるが、筑紫平野は近すぎてリアリティがない。魏の使者が荷物が多くて1日5kmしか進めなくても、博多湾から歩いて1週間もかからないでしょ。
伝ダンワラ出土鉄鏡は出処や出土経緯、遺構年代など極めて怪しく、
資料としてはまともに使えない代物です。
普通に立地良過ぎて邪馬台国が滅んだ後も人が住み続けたから繰り返し取り壊され続けて遺跡として現代まで残ってない説あると思います
北九州のどこかでしょ。あとから大和の人間が中国の文献を取り寄せて読んで辻褄あわせようとした。
九州説論者だと今大河の時代考証で引っ張りだこの倉本先生が九州説激推しですね。
とりあえず読んでみてはどうでしょう?
四国と畿内のどちらかに比定すると南九州と朝廷の関係が北九州説以上に不透明になるから、北九州が妥当
倭人伝を読むとき、気をつけなければならないことは、その内容は、中国人が直接見たことと、現地の倭人からの伝聞の二つの内容が、混在してること。環濠や入れ墨は、中国人が北部九州で直接見たことに対し、女王国への方角や距離は、距離や方角を正確に測れなかった倭人から聞いたこと。この二つを混乱すると、すべて九州北部のことと、間違ってしまう。倭国は、縄文時代から、東北から沖縄まで、広いネットワークが存在したことも、知っておかなければならない。
三韓の戸数と、北部九州だけor西日本のどちらの戸数が近くなるのが自然か、って話
倭国大乱の後女王卑弥呼が統治者として選ばれている邪馬台国が九州なら九州大乱が正解ではないだろうか。そもそも倭国とは九州のことかも。
この時代に鉄器の出土が際立ってるのは九州大乱を証明していてる👍️
倭という地域に住む人が倭種
倭の中の一定の地域をまとめた連合国として倭国がある
倭国はその全体または一部の反対勢力を除いて女王国とも記述されている
その女王国の中にある都が邪馬台国
なので九州説における倭国はほぼ九州のみという認識で間違いないと思う
奴国と伊都国の間に日本最古の王墓、吉武高木遺跡があるんですが…西新町遺跡、藤崎遺跡、有田遺跡、姪の浜遺跡と海岸線の遺跡が連なる様にあるのはご存知でしょうか?
姪の浜遺跡より内陸に最古の王墓があり、人口問題も解決出来そうですが
大和は、阿波から神武東征により大和国が移住してくりまで過疎地だった。
魏志倭人伝に「邪馬台国は伊都国(糸島市)の南で狗奴国(熊本)の北」と書いてあります。
だとすると、筑紫平野に在ったことになりますよね。
筑紫平野は伊都国の東になります。南に当たるのは佐賀平野で,そこに在ったことになります。邪馬臺国は吉野ヶ里と確定しました。国宝「翰苑」と広志に「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国」と記載されている。伊邪分国(諫早)との位置関係からも吉野ケ里が女王国と確定した。
そうだと思います。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、を発刊しました。関心があれば、誰読んで下さい
邪馬台国は連合国家の名称ですから北九州に7万戸の都市が無くとも連合国家を構成する30カ国の戸数の合計で良いはずです。
私は邪馬台国連合東遷説なので出雲の国譲りや神武東征神話を経て最終的には大陸から遠い大和盆地に首都を建設し、その遺跡が纏向遺跡だと考えています。
完全に個人の主観ですが、
邪馬台国の女王卑弥呼は太陽信仰の祭司だったと思っています。
それならば、太陽信仰に相応しい場所。例えば地平線が見える場所(可能なら朝、日の出が地平線に見える)に居たのではないかと思っています。
奈良は盆地。イメージと違うような気がします。
日本の地理条件を考えれば地平線より水平線では?
卑弥呼の鬼道と太陽信仰は直接的には結び付かないと思う。
ただ後年になって卑弥呼が太陽神に祀り上げられた可能性はあると思う。
魏から鑑が送られたことで五行陰陽思想の影響を受けた太陽神と月神の男女神が表裏一体として伝えられたものの倭国では定着せず
卑弥呼の死後になって女性の太陽神として神格化されたのが天照大神なのではないかと想像している。
邪馬壹と書いてヤマトと読まないということがあり得るのか、ヤマトというクニが大和でないことがあり得るのか。ニギハヤヒの頃のヤマトの可能性はまだあり得ると思うが。
また、卑弥呼がヒメ(ヒミ)とヒコのことであるとすれば、ヒミコという名前を持つ王である必要はないのではないか。
そんなことを考えていました。
関川尚功説は現場を発掘した考古学者らしい一番まともな説ですね。
70000余戸の答えは10万戸を越えれば良いんですから論理的に文献上にあります。
結論、まぁ邪馬台国は北部九州で100%間違いないでしょう。
無理ですね、それ以前に投馬国5万戸もあるのですから。考古学的にみても対中国の流れは東へ向いているのに、北部九州に何故そこまで集中させる意味が判らないですね。
魏志倭人伝の大原則が分かってらっしゃらないようですね。
@@yoshitome6648 そもそも三国志の中の東夷伝、更に一部でしかない倭人伝だけ読むから妙な話しになるのですよ。
旧唐書、魏略を読んでも矛盾しない解釈をしないと、魏志倭人伝は読めません。
まぁ四国は何処にも書いてない。大笑
@@yoshitome6648 私は100%畿内説ですからね、四国?勿論邪馬台国ではないです。邪馬台国とはヤマト、矢田丘陵、山城地区を中心とした周辺諸国ですよ。
戸数と鬼道を両立出来るのはここだけです。
またおっしゃるように魏略は重要です。
古事記・日本書紀に邪馬台国に直接言及した記述が無いという事から考えると大和王権と邪馬台国の関連は薄いかあっても時間の経過とともに重要性が小さくなって忘れ去られたと考えた方が良いと思う。
ヤマト王権が征服した地方豪族の中に邪馬台国が混じってたりしてそうではあります
北部九州くらいにそれなりの勢力を持っていたなら、従えと言われてはい従いますとは言わないでしょうし
神武天皇が宮崎(日向 ヒムカ)から出て奈良に入る東遷してるんだから九州確定だろ?!
なんで邪馬台国が奈良になるんだ?外国の対応省庁は北九州、首都は南九州の宮崎、東遷後は奈良。古事記の記載とも一致する。
神武東遷は邪馬台国よりずっと前ってことになってるからじゃね?
@@zennin375東征の出発地点がヤマト国じゃ無くなるのかと言えばNOだと思うから、北九州から近畿までの範囲がヤマト国。つまり、紀元前に東征したことと邪馬台国が北九州にあることは矛盾しない。そうなると近畿の方が分家だった可能性が高く、魏志にのって無い理由に納得が出来る
@@zennin375 近畿説支持派?根拠はあるんすか?
@@zennin375 「東征あるし、九州で確定でしょ!何の問題もなくね?」→「東征は紀元前の話って言われてるからじゃない?」→「いや、出発したところもヤマトだから矛盾しないよ」
なんかおかしいか?会話として自然だろ
「そう言う話はしてない」はこっちのセリフや
@@zennin375 嫌w勝手に返信の趣旨捏造すんなしw俺はコメントの流れに従っただけやぞ。動画の論理とか知らんわ。そんなん考えてんのお前だけな?
卑弥呼の居住した都市は九州、邪馬台国内の辺境から邪馬台国統一戦に勝ち残ったのが大和ってみてるけどね
邪馬台国という国が日本に存在したのは、魏志倭人伝の記述からで唯一の参考資料といっても良い。その中で北に伊都国(現・福岡県糸島市)があると記述されており、
畿内は論理的にありえない。これも畿内説論者は書き間違いと逃げるのだろうか?考古学的根拠も吉野ケ里や当時の鉄器発掘量で圧倒的な差をつけている。
畿内説の学者からでさえ倭人伝記述に沿う、具体的根拠は何一つ聞かれません。畿内育ちの人は学校の先生が授業か個人的かは知りませんが、さも
畿内説で決まりのようにデマを吹聴していると聞きます。畿内の学校の先生方は自分で考えてください。どんな具体的根拠が畿内説にはあるのですか?
畿内説論者の話は自分たちの希望や妄想としか言えず、よく話題にでる前方後円墳も卑弥呼の墓は70m~100m程度の円墳としか判明していません。
また、この直径に該当する墓は今まで見つかっていません。ただ、最近よく大分の宇佐八幡宮の名を聞きます。ここには該当する大きさの墓があり、
明治時代に一度発掘したようですが、墓を暴くのは不謹慎と言われ埋め戻したようです。興味ある話です。
私は邪馬台国は今のところ、吉野ケ里から大分にかけて存在した複数居住区を言っている気がします。なにしろ30地区の代表ですので、その時々で
本拠を決めたのではないでしょうか? なお、時代は少し違えど金印や魏の曹操の鏡はすべて九州で発見されています。さらに魏が来日したのは
敵対国を背後から牽制するため、軍事同盟を結ぶのが目的と言われています。当時は圧倒的軍事力(鉄器発見数)を持ち、さらに牽制には最適の近距離です。
このように九州説には次々に根拠が出てきます。少なくとも畿内説(奈良)は100パーセントないでしょう。反論ある方は具体的根拠を言ってください。
邪馬台国は元の資料である魏志倭人伝には邪馬壹国と書かれています。ヤマイチです。中国人が耳で聞いた音なのでどの程度正確な音なのかは分かりませんが日本にはヤマウチとかヤマグチとか似たような地名はあちこちにあります。ヤマウチ=山の内側と言えば阿蘇のカルデラがあります。世界一の面積を誇る大カルデラでありあそこなら7万戸という人口も楽勝でしょう。阿蘇なので火山があり、その噴火によって民族大移動があったと考えると、九州から近畿への文化の移動も分かりやすいように思えます。
魏志倭人伝に書かれている当時の日本の風物は興味深いものだ。弓は上が長く下が短いと書かれているがこれは中国の弓ともヨーロッパの弓とも違う日本の弓の独特の形状でこれがあの卑弥呼の大昔から形が確立されていたのが驚きである。
虎豹牛羊と並んで馬もいないと書かれている。日本語のウマは明らかに漢語のマーが訛った語なので馬は漢字と共に大陸から入って来たらしい。馬を別の日本語でコマと呼ぶがこのコマとは古い日本語で朝鮮半島の事だ。朝鮮半島から来た生き物だからコマコマ言っていたらしい。
魏国から卑弥呼への返礼の贈物はとてつもない量だった。それを運ぶために馬を船に載せて連れて来たのが日本に上陸した馬の第一号だったのかも知れない。
もうとっくの昔に事実上の結論が出てる話題だと思うけど、逆に未だに何が何でも邪馬台国畿内説を推し続けなければいけない方たちの大人の事情を知りたくなってきた。
一時期優勢でしたからね。
あまり、調べてない人からしたら、今でも大和説が優勢って思ってるだけではないでしょうか?
さらに明らかに、邪馬臺国は吉野ヶ里と確定。国宝「翰苑」と広志に「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国」とある。
当時は多元王朝が有ったと思うのが自然かと思う。九州も4つのグループがあったのでは?古事記の身一つで顔が4つがそれにあたるような。筑紫国(筑紫平野を中心とし、伊都国・奴国も傘下に置く)、豊国(大分)、肥国(熊本、狗奴国、狗古智卑狗=菊池彦?)、熊襲国(鹿児島・宮崎?)。奴国(福岡平野)2万戸の3.5倍の広さとなると近くには筑紫平野しかない。吉野ヶ里遺跡・平塚川添遺跡・尾迫辻原遺跡がそのエリアに思える。筑後川を水運で使ってたのでは?尾迫辻原遺跡と同一市内には金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したと言われる場所がある。
女真系の国で邪馬台をヤマトと読んでた気がする
自分的には魏志倭人伝自体の信憑性がどうなのか?って疑問が大きいな
奈良盆地の遺跡は平和そのものだから無理が有り過ぎる。倭国大乱はどこへ行ったって話。もはや論点は大和王権が卑弥呼の子孫かどうかしかないと思う。
天照大御神の子孫であるとなっている神武初代天皇は、宮崎県の高野原出身ですが「たかまがはら」は古事記にメチャクチャ出てきます。神武初代天皇は、天岩戸神社の近くの高千穂で王位に就いて、その後に東征して奈良の樫原で天皇位に就いたのです。奈良派の学者もそんなことは分かっているのに神武天皇が紀元前の人とするから奈良に持っていくしかないのです。
元は九州から始まって、後に、奈良へ移したんじゃないの?
多分あってる。おそらく卑弥呼の時代より前に、後に神武天皇と呼ばれる人が日向の地を出発して奈良に都を移した。この時日向に残った皇族が収めていたのが魏志倭人伝に出てくる邪馬台国。だから邪馬台国(ヤマト)は当時2つ日本列島に存在してた。当時の日向がどの辺を指すのかわからないけど「邪馬台国の東の海を越えたところにも倭人の国がある」という記述から、地理的に大分県か宮崎県以外あり得ないから信憑性が高い
自分も同じ考え。甘木,朝倉地方から奈良県。
@@爆弾鬼斬り宮崎だと東に海はあるけど、その先に倭人は住んでいないから宮崎は女王国でないかも
動画ありがとうございます。
確かにれーしさんのおっしゃる通り、中国、朝鮮半島という文明が進んでいた国々から近い場所であるほうが交流する点でも有利ですよね。
私は古代史の専門家でないことはもちろん、あまり詳しいわけではないですけど、地理的な要因ということを指摘されているれーしさんの主張にはそれなりに説得性があると思います。
3世紀の魏の漢字の発音と弥生時代の日本語が研究によって明らかになれば結論は出そう。
私は、長浜浩明「日本の誕生」を推します
関川氏より坂靖氏の方が緻密ですよ。
古事記にも日本書紀にも邪馬台国とか卑弥呼の記述は無いしな。政治的にも血統的にも縁が無かったんだろう。
まぁ大陸から畿内遠いからね。
邪馬台国が桜井市にない。と言っているのは、学者の5%であり「変わった人」で片づけられている。これが全てですよ。
いい動画をありがとうございます。現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書です。古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることないように暴露する暗号書だったのです。これが分かると、考古学や民俗学の成果から編纂者の目的を考えて、歴史書のどこがウソかを見抜いて古代史を推理できますよ。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。失礼しました(;^ω^)
邪馬台国の説明は非常に簡単です。
古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。
それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。
日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。
その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。
宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。
皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。
宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)
ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。
12:38
その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。
ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。
邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。
ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。
宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。
全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。
京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。
宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の途中、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。
巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
記紀の中で卑弥呼は女王、比弥王で邪馬臺国は倭国、夜摩苔国、耶麻騰国。
卑弥呼と邪馬臺国は大和への差別用語であり、神功皇后の条に引用する魏志にも卑弥呼と邪馬臺国の名前を忌避している。
同じ国でも漢化前の邪馬台国、漢化後の大和国(耶麻騰国)では価値観が全く別だからな。
当時、北九州も邪馬台国を共立した諸国で、魏から見れば邪馬台国の一部。そこまでの距離が12000里であっても、女王がいる場所まで、12000里とは言っていない。魏の使者が、現地の倭人に、女王がいるところまでの距離を聞いたところ、距離の概念がなかった倭人が、水行20日陸行1月と答えた?
○万戸は適当に書いた気がする
そもそも、魏志倭人伝に、郡より女王国まで、万2000余里としか,かかれていないのに、それが、何故、郡から邪馬台国までが、万2000余里となってしまうのかが分かりません。陳寿は、邪馬台国まで、万2000余里などとは、全く、魏志倭人伝には、書いていないはずなのに、
邪馬台国=ヤマタイコクと呼ばれる国は、ヤマトでは有りません。しかし、所謂、『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国とは、漢王朝時代の最古音での発音では、『ヤマド或はヤマト』になります。
奈良盆地の南...
考えるなら和歌山じゃなく吉野、熊野では
邪馬台国の戸数と比定出来る遺跡が未発見の問題、そんなに難しいものじゃないんじゃと思ってる
単純に人口が多いと考えるなら、当時から多くの人口を抱える広い平野
そしてそんな場所が後の時代で人がいなくなるということはそうそうないわけで、今でもそれなりの規模の都市である可能性はある
ところで昭和期以降の都市開発って、途中で遺跡が発見されても見なかったことにして埋め戻したり壊したりしてたのが相当数あるそうですね
北部九州に住んでたことありますが、道路を通すために真ん中からぶった切られた古墳が近くにありましたよ
北部九州は仕方ないんじゃないのかな。居住地のどこを掘っても遺跡が出る。笑
戸数問題は未発見の遺跡でなく文献的な数字合わせ問題です。
いずれにしても日本列島全体で50万人前後の人口しかなかった時代に一戸平均何人かの問題はあるにしろ女王国だけで15万戸はいくらなんでも盛りすぎなわけで
15万戸は単なるup主の勘違いか編集ミス。
10万戸超えてれば良い話ですから。笑
@@yoshitome6648 15万戸は魏志倭人伝に記載されてますよ
記載されて無いよ。
出てるのは邪馬台国七万、奴国二万、投馬国五万。
うん、まぁ、普通ですね
いくら知名度とお金が絡むといっても、なんでもかんでも邪馬台国に結びつけるのはやめてほしい
東海というか名古屋と伊勢は全然位置が違っていて、伊勢は奈良の南じゃん
・・・には無かった!
面白い視点
「気分を害する」のは「近畿説」で食っているお偉いさんだけかも。
卑弥呼の墓は宇佐神宮
邪馬台ではなく邪馬嘉だと自分は考えてます。
日本史では土蜘蛛といわれる人々がそれではないかと。
風俗や国家体制がそっくりです。
九州の土蜘蛛には〇〇ヒメなどの名前の女性首長が多いですしね。
大分県日田市には魏の曹操の墓から出土した物と同じ鉄鏡が出土していて当時九州と中国との結び付きもかなり強く感じられます。
それを言うと、黄金の国ジパングは日本(ジャパン)には無い! って言ってるのと同じですよ。
ほんの数時間差で近畿説を支持する動画に称賛コメントを送っている人が、この動画にも称賛コメントを送っているのが怖い。どういう気持ちなんだろう…。
一定の説得力を示せる意見はすべて称賛に値すると思うのですが、
違うのですか?
むしろ優れた考察に賛辞を贈ることができない方がおかしのでは?
優れた考察ではないから、コメントされたのだと思う。敢えて苦言を呈することは、推奨されるべきだと考えます。😊
お、結論ですね。この結論には納得いたします。
些細なことまで細かく動画作成された主さまに感謝申し上げます。
個人的にはいろいろあるのですが、それは「魏略」「後漢書」の話とかでコメントしたと思うのでここでは止めておきます。
第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条以外の文献も考慮すると、また違ったものが見えてきますからね。
以下スルー推奨。
やはり、「邪馬台国」は「女王国」とは別の概念だったのかと思います。
卑弥呼が都とするのが邪馬台国であると書いてあるだけで、卑弥呼が邪馬台国にいるとは書いてない。この部分かなぁと。
倭国の首都として「邪馬台国」があるけれど、卑弥呼は「九州」に居たんだと思っております。
また、やはり台与の時代になると、「女王国」としては別の場所に遷都しててもおかしくはない。古代の王が変わるたびに都を変えてたし。
その時代の人口の多さを考えると、関東地方こそ「首都」があったと考えてもおかしくはないかなぁ。
人口7万人を養えるのは関東地方は十分にあり得ますなぁ。
ま、ワイとしては、卑弥呼(女王国)は九州にあったほうがわかりやすいと思います。が、倭人の「首都」は九州でなくても大丈夫。
それこそ、畿内でも、吉備でも、阿波でも、常陸(日高見)でもあり得るかと。
>>「邪馬台国」は「女王国」とは別
>>倭国の首都として「邪馬台国」がある
>>>卑弥呼は「九州」に居た
>>台与の時代になると、「女王国」としては別の場所に遷都
>>関東地方こそ「(女王国の)首都」があった
何の物的証拠もない飛躍しまくった憶測だけど、キミが「邪馬台国はどこでも良い説」で「女王国は九州から関東に遷都説」なのは分かった。
邪馬台国を確定させたくないない人物だとよく分かった。
みんなに報告しておくよ(^^)
>ラッキー純
またお前か。
データ提供ありがとう。もう十分なんだ。もうお前に興味はない。
@@YO-high
キミの正体はみんなにバレバレなのにいつまで上から目線コメントと悪口で邪馬台国チャンネルを荒らすつもり?
ラッキー純
ワイはここには4年前くらいからいるけれど、荒らしと言われたのは初めてだ。しかもお前が言ってるだけだ。
お前こそ、3か月前の「デマ」の拡散には笑ったわ。あれ、消したから良いのかい?
まぁ、動画の趣旨とは違うので、これくらいにしたら? ワイもお前に興味ないし。
大和説は奈良の大先生、先生の研究線上なので、現研究者が科学的分析・研究は不可能と想定され、大和ありきの前提理論。また、倭国内の距離、人口は倭国を大国とする事で、中華皇帝の権威を讃えることを目的、主眼とした数値であり、リサーチを目的としたものでは100%ない。
人口を確定するには文字、数字やその周辺文明が必要。当時の倭国にその能力はなかったと推定。
ジャワ台国はジャワ島だよ巴里国バリ島も書かれてあるし、、。出発の地点から間違っているし、方角の北は東北東(到着点の方向と飛行機の最短方向の違いと同じ)。東南アジア諸島は倭人が住む倭国で、日本は委国(金印にも書いてあるよ)、、縄文人は倭人だけど後発の縄文人は弥生人(色々な地域から渡来して来た人、民族の総称)に分類。
そもそも邪馬台国っていうのが無かったというのはないのですかね。
まぁ、これで飯食ってる方々がいる限り真相が分かる事はないと思いますけどね。
騒いでいるのは、そんな学者の説を信じて夢を見ている素人だけ。
四国はもっとないわ笑
近畿よりはるかに、可能性はある。まぁ九州だろう
こんだけ証拠あがってんのに学会では畿内説が有力なのが本当解せないね。学会とかってどうしても若手研究者は先輩の老教授に忖度するからね、東大の偉い教授が畿内だと言ってんだから全力で畿内説を守護せねばという謎の使命感と先輩の業績を覆してはいけないという呪縛が自由な研究を妨げる
無かったと予想するならあったかもしれないとも予想出来ないか?
平塚も吉野ケ里も大規模集落だったけど、政治の中心は大宰府と思うんだけど。九州王朝説、それが倭国でしょ。
太宰府政庁跡の案内看板には、政庁が作られたのは七世紀末と書かれています。邪馬台国の時代にはまだ太宰府はなかったと思います。661年に朝倉橘広庭宮が造られて、2ヶ月後に斉明天皇が亡くなり、その後に太宰府ができたのでしょう。
稗田阿礼の創作だある訳ねー、あったらみつかるわ~
既に小学校中学校の教科書では畿内、大学の考古学の授業でも畿内、研究者の論文さえ畿内を前提に書かれたものが増えてきています。日本中様々な地域を出身とし、異なるバックボーンを持った研究者の大半が、そんなにイデオロギーや飯の種を気にして生きていると思うのですか?そんなことはありえないのです。
ほとんどの地域では畿内説より九州説に傾いています。学校の先生がデマを吹聴しているのは畿内ぐらいです。畿内の学者でさえ具体的根拠が言えていません。
UA-camで九州説が大半を占めているのは、論理的、考古学的に誰にでもわかりやすい結果です。あなたは畿内説の具体的根拠を言えますか?テレビの対談番組でも
九州説の学者が文献論理・考古学的発掘結果を問い、これに何も反論できない畿内説学者を長年に渡り見てきました。文献論理や考古学的発掘結果は九州説を示しています。
なお、ほとんどの地域が九州説というのは、他の畿内説者が挙げているページにも参考資料として書かれています。倭人伝の記述を自分に都合よく捻じ曲げないように!
『異なるバックボーンを持った研究者の大半が、そんなにイデオロギーや飯の種を気にして生きていると思うのですか?』か。
異なるバックボーンを持った多くの研究者が共産イデオロギーにかぶれ、共産史観を持って歴史を表そうとしたのはほんの数十年前の話なのに、それを知らない人もいるんですね。
畿内説の研究者は魏志倭人伝の初歩的解釈もできず異常です。邪馬臺国は吉野ヶ里と確定した。
国宝「翰苑」と広志は「伊都国に接し南に位置する邪・馬臺国(野・目達)」と記述する。更に広志は、女王国(倭)の西南海行1日至伊邪分(イヤハ)国(諫早)と記述し,吉野ケ里と諫早との相対位置に合致する。
UA-camでは九州説が大半を占めてるな。
そだよ。長浜さんの本読めや。
出雲、九州東部、九州北部、出雲、畿内の小規模国が連合を形成。
出雲には宗教的権威、九州東部は起源、九州北部は名、実権は畿内。
そして大きく和する…とすれば辻褄は合いそう。
5+2=7🥸
18:46
邪馬台国と大和政権の関係が・・。
魏志倭人伝・(磯上乃)古事記を正しく解釈出来ていますか? 古事記の正式名称は「磯上乃古事記」でして、「磯上乃」とは「阿波」であると空海は書いています。
魏志倭人伝の記載は邪馬台(たい)国(邪馬台国は新井白石が名付けた)でなく、邪馬壹(臺)国(やまと国)であるとご存じですか? 邪馬台国は存在しません。
下記にピッタリするのが邪馬壹国で阿波で正解です。九州・近畿等他説はピッタリしますか?
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候補地は魏志倭人伝記載通りに、山から丹(辰砂)がでますか? 真珠青玉(原石:青石)が取れますか?
帯方郡から12000里ですか? さらに狗耶韓国から7000里ですか?
会稽東治(豫洲・下相城)の真東にあたりますか?
壱岐から松慮国迄1000里ありますか? 宗像が松慮国ではないですか?
東に開けた海と山が近くにありますか?
1000里隔てた東海の先には別の倭人が住んでいますか?
山間部(高天原)にあり周りに21国ありますか? 牛馬はいませんね?
卑弥呼および後継者に関する伝承が残っていますか?
古事記(倭・やまと)との深い関連が認められますか?
古い神社(延喜式神社)や初期古墳等遺跡が多数ありますか?
邪馬台国は九州北部(大分あたりか)にあったと思います。何よりも決定的だと思うのは、邪馬台国の東方海上の向かい側の陸地にも倭人が居たとの魏志倭人伝の記述です。それと、邪馬台国では人々が鯨面(入れ墨)をしていたとの記述です。日本書紀の確か神武記か綏靖記だったかに、ある皇女が鯨面の男を見て驚いている記述があり、それは大和王権の文化圏では入れ墨が行われていなかったことを示しており、もし、邪馬台国が大和朝廷に繋がっているなら、入れ墨をしなくなった理由について何らかの伝承が残るはずで、それが日本書紀や古事記に記載されるはずです。
私は、神功皇后は架空の人物だったのではないかと考えています。ただ、大和朝廷と邪馬台国は、4世紀の中頃、婚姻を通じて一体化した(大和朝廷から天皇を出し、邪馬台国側から皇后を出すといったことが取り決められたのではないでしょうか)のではないかと考えます。そしてそのことの象徴として神功皇后という架空の人物の話が作られたのではないかと思うのです。九州の地名と大和の地名によく似たものがあることが指摘されており、それは邪馬台国から多くの人が大和に移住したことをうかがわせます。その意味で邪馬台国は東遷し、大和朝廷と合併し、その一部となったのではないかと思います。邪馬台国連合は、もともと九州北部と朝鮮半島南部が勢力圏だったのではないかと思います。ところが、4世紀にはいるころから、半島南部に誕生した百済や新羅に押されて、半島の権益を失いつつあったのではないでしょうか。そこで、邪馬台国連合は、新たに関西に勃興してきた大国大和朝廷と組んで、朝鮮半島南部での勢力挽回を図ろうとしたのではないかと思うのです(九州征服を優先しようとした夫の仲哀天皇の急死の話も、朝廷内で新たに皇后として加わった邪馬台国勢力と従前からの大和朝廷内の土着勢力の間で、外交方針を巡って権力闘争が生じ、邪馬台国勢力が勝ったことを象徴しているのではないかと感じます。
大和朝廷が、4世紀の後半ごろから、半島に盛んに兵を出し関与するようになるのは、邪馬台国の権益と外交政策を引き継いだからではないかと思われます。しかし、6世紀に入り、半島南部とは関係が薄かった継体朝が成立すると、政権が不安定だったこともあって半島の権益維持に急速に関心を失い、任那を奪われることになったのではないでしょうか。その後も約1世紀の間、半島に関与は続けるものの、白村江の戦で最終的に完全に一切の権益を失ったのだと思います。邪馬台国・大和朝廷同一説は、日本書紀や古事記に邪馬台国の話が載っていないのは、邪馬台国が大陸王朝に朝貢していたので都合が悪かったからだと解釈するようですが、そのようなことはいくらでも言い方を工夫すればよく、むしろ、そもそも邪馬台国の歴史は、大和朝廷の歴史ではなかったので、その伝承がなかったからではないかと考える方が自然と思われます。
邪馬台国って、名前からしてヤマトだと思ってましたが、違ったのですかね。
邪馬台国は大和国で、元々は九州にあったものが畿内まで東遷してきた。
卑弥呼は役職名であり、魏志倭人伝に出てくる女王卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命。
真相は知りませんが自分はもうそういうことにしています。
いやホント、なんで記紀に神武の東征が大々的に記述されてるのか。大和の卑弥呼が九州勢に滅ぼされたってこと?じゃ箸墓古墳は?意味わからん
記紀の神武東征は皇族のルーツが九州にあるという逸話に過ぎないと思います。
なぜそんな逸話があったかといえば、
当時の支配者層に九州から移住した者の子孫が多かったこと
九州は当時の先進地域でそこの王族出身ていうのが尊敬を集めやすい効果があった
などが考えられます。
当時の人は邪馬台国が九州にあったと考えていたからこそ自らの権力の正当性を主張するために九州から東遷したと書き記したのだろう。