第9話 遂に解明/卑弥呼 共立前夜【古代史探索の旅Ⅲ】

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  • Опубліковано 7 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 71

  • @takedaharuki
    @takedaharuki 2 роки тому +11

    分かりやすい説目とデータで勉強になりました。邪馬台国と言うと三角縁神獣鏡がよく採り上げられますが、私自身は広形銅矛でも見るべきだと考えています。この動画にて、卑弥呼の死の一時代に絞らず、流れ的に甕棺墓・漢鏡・銅矛の分布を重ね合わせて見ることできたので、いろいろ考えることでき、凄く感謝しております。次回も楽しみです。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +4

      お役に立っているようで嬉しいです。
      今回はまだ筋書きまでには行けていませんが、次回にご期待ください。
      一緒に考えていただければ、さらに嬉しいです。

    • @kanrekim
      @kanrekim 2 роки тому +2

      甕棺文化圏の筑紫・肥国。
      甕棺の侵入を拒み続け出雲と婚姻関係がある宗像。
      瀬戸内海を中心に広がる平形銅剣の西端の豊国。
      それらの中間にあって庄内式土器と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出た日田。
      因果関係があるとしか思えません!

    • @takedaharuki
      @takedaharuki 2 роки тому +4

      @@kanrekim それらは必ず影響し合っていると私も思います。どのような関係にあるのか、そのあたり研究者の腕の見せ所かも。弥生時代も終わりになると、東からの影響を受け始め、東九州も筑紫に影響を与えたりしています。このあたり壮大で空想が尽きません。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +1

      @@kanrekim さん、
      推論どんどん進みますね。
      日田ですか? ドキッ!
      宗像も出雲もこれから解明していきたいです。
      ご期待ください(笑)。

    • @kanrekim
      @kanrekim 2 роки тому +1

      @@これはどうでしょう
      楽しみにしています!よろしくお願いします☆

  • @本多初惠
    @本多初惠 2 роки тому +7

    楽しく見ました。甕棺墓の分布図に、佐賀や福岡から離れた島原半島北部に色がついています。昔、高校時代の先生から「戦後間もない頃には雲仙周辺に甕棺がゴロゴロ出ていた」と聞いたのを思い出しました。資料館にないか捜しに行きたいと思います。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +3

      ありがとうございます。
      全部発掘資料になっていたら、凄い地図になっていたかも知れませんね。
      新しい発見があったら、またお知らせ下さい。

  • @nezumichouse9513
    @nezumichouse9513 2 роки тому +3

    いつもわかりやすい解説、楽しく興味深く視聴させていただいています。次回楽しみです。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +2

      早々にありがとうございます。
      次回は自信作の予定です。
      ご期待下さい。
      (笑)。

  • @碁10級
    @碁10級 2 роки тому +4

    とても興味深く視聴しました。感想は後半を観た後で。(^-^)

  • @ueponuepon4063
    @ueponuepon4063 Рік тому +2

    初めて「どうでしょう」さんの動画を拝見させて頂きました。文献や地図、墳墓からアプローチされる方々と比較して、大変説得力があり、勉強になりました。気になったのは、同時期における出雲、吉備、関西方面での出土内容との比較です。自分的には同時期に関西方面でも同じように出土しているのかなと感じています。如何でしょうか?もし、他地域との比較がなされれば、どうでしょうさんの説が古代史の一つの正説となりそうに思いました。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому +1

      ご視聴ありがとうございます。
      大変励みになります。
      考古学資料についての俯瞰した内容としては、このシリーズの第1話、第2話にまとめています。
      お時間あればご覧下さい。

    • @u2bkim
      @u2bkim Рік тому

      有難うございます。飛ばし見ですが、視聴させて頂いてます。「どうでしょう」さんの説を前提に色々調べてますが、今は卑弥呼の死後、軍事・外交機能を北九州に残し、一部の氏族を大和盆地に送った一族が後の大和政権を作ったのではないかと想像してます。でないと、当時の朝鮮半島との緊密な外交や軍事支援はできなかったでしょうし、大和や難波の治水・開発工事も進められなかったのではないか?と。@@これはどうでしょう

  • @The1000SNOW
    @The1000SNOW 2 роки тому +4

    ずっと通してみています。お二人の勉強方法もためになりますし老後はこうありたいとも思います。コメントに失礼がありますが、こういう人も許してあげてください。私は九州と畿内他の関係の推移が知りたいです。大化の改新は九州が現場であったのか否か。畿内の巨大古墳との関係も同じです。今後も期待します。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +1

      ありがとうございます。
      色んな方からコメントを頂いて、それはそれでとても嬉しいです(笑)。
      ご興味の内容、私もそこを本当に知りたいです。
      その為の出発点として、北部九州の状況がここまでの整理である程度スッキリしたつもりなんですが、その先の筋道があれやこれやと浮かんでは消え、未だウロウロしています。
      どうか気長にお待ち頂ければ有難いです。

    • @The1000SNOW
      @The1000SNOW 2 роки тому +1

      @@これはどうでしょう ご丁寧な返信ありがとうございます。20分以内にまとめられているのも視聴者にはいいです。福永晋三さんの文献資料の解読や現地特定方法は説得力があります。また系図学者(印章学者)さらに土木工学研究者の古代の治水研究とか「全方位」からの接近もためになっています。私なりに「これはどうでしょう」という物語を作成してみたいですが、まだまだ当分出来そうもありません。いろんな人の仮説を見て、すでに正解はあるような気もします。多数決で決める性質でもなく結局はとりあえず自説を作り、暫時修正補筆していくになるのでしょう。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +2

      正に私もそうですね。
      私も自分なりの推論を語ってはいますが、推論であることには違いありません。
      むしろ、その過程の中で知った色々な情報を皆さんにお伝えしていることの方に、意義を感じているのかも知れません。

    • @The1000SNOW
      @The1000SNOW 2 роки тому +1

      @@これはどうでしょう 有難うございます。推論でこれは動かない事実です。という柱もあるわけで
      その柱をより強固にしていく学びの集積も必要ですね、ここが不明あれも不明という取材動画もきたしています。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +1

      「ここが不明あれも不明という動画」
      それも面白そうですね。
      私の場合、無限にありますが・・・(笑)。
      不明点を共有するのも、有りですね。

  • @なつ-c1z
    @なつ-c1z Рік тому

    広型銅矛は武器ではありません。樫の木棒と銅矛で戦うとどちらが有利ですかね?

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      そうですね。武器ではないですね。
      威信材という物だと思います。
      細型銅鉾なら銅鉾の方が強いのでしょうか。

  • @タルト屋
    @タルト屋 Рік тому

    こんにちは。突然おじゃまします。
    吉田広教授の「弥生青銅器祭祀~」は書籍でしょうか?
    手に入れたいのですが検索できなかったもので…

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      PDFで公開されている文献です。
      そのまま検索すれば出てくると思います。

    • @タルト屋
      @タルト屋 Рік тому

      ありがとうございます。吉田教授の講演内容、話し方が好きで最近動画をよく見ています。良く探してみます。

  • @海底人-v1w
    @海底人-v1w Рік тому

    客観的な考察ありがとうございます。邪馬台国はどんなのか? 当時の地理的な考察だけが、こそが答えのヒントかと?

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      まずは客観的事実をもとに当時のシナリオを描いてみることが先決だと考えています。

  • @MrAirrium
    @MrAirrium 2 роки тому +2

    待ってました!
    いやあ、面白い。時間経過とともに多重な文化圏の変遷がとても分かりやすいです。
    地図も切れているし、宮崎県(日向)の出番はなさそうですね。
    9:44の甕棺III期と10:15の甕棺IV期の間に西暦0年を挟んでいるんですね。
    西暦0年あたりに起こったとされる中南海地震の影響が、なにかしら影響してそうな気配がします。
    次回、正座してお待ちしております。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +2

      ありがとうございます。
      色々調べていく中で、鹿児島、宮崎の内容に行きつかなかったので、地図も省略してしまいました。お許し下さい(笑)。
      そして、次回こそご期待頂きたいところです。
      作画はこれからですが・・・(笑)。

    • @MrAirrium
      @MrAirrium 2 роки тому +1

      宮崎県出身神武さんは、よくある記紀ジョークのひとつという認識なので無問題です(笑)
      鹿児島の曽於の甕棺墓は海幸彦につながるかもしれませんが。
      次回作刮目してお待ちしております。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +1

      記紀ジョーク、面白い表現です。
      筑紫の日向の実体を掴みたいところですが。
      乞うご期待、です(笑)。

    • @MrAirrium
      @MrAirrium 2 роки тому +2

      日向国の名称は天武期に国造制の導入とともに設定されたのがはじまりで、それ以前の名称は不明な土地なんですよね。
      西暦0年ごろの南海トラフ地震の影響が宮崎県沿岸にも及んでいたら、卑弥呼の時代あたりでも回復しきれていなかったかもしれません。
      日向国が筑紫の日向でない理由はいろいろ上げられるのですが、筑紫の日向の実体はなかなか手ごわいですね。楽しみです(笑)。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому +1

      筑紫の日向の実体・・・
      まだ、考えが及びませんねぇ。
      神武の東遷の実体、ということだと思いますが、実際に起きたことだとすれば、崇神天皇のころなのでしょうか?
      まだモヤに包まれたままです(笑)。

  • @佐伯教授ブラックジャズ

    なるほど、そうかも

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect Рік тому

    九州の状況よく理解できました。ありがとうございます。
    研究では、7,000前に海を渡り半島に進出した倭人は、遼東(現 沈阳?)で混血し秦の時代から徐々に南下していくようです。魏志の東夷伝も馬韓の倭語を話す倭語や、辰韓人は倭人から土地をもらった徐州人と書かれています。この秦朝の徐州人と後漢朝の徐州の通訳のミスで247年に韓族(半島南部の倭人)の乱につながるようですが、銅鏡の流れは、東アジアは徐州から平壌に伝承されていく調査がありましたよ。韓伝の描写も甕棺でできます。言語学も4.000年以上前に倭語が分岐したとの事。
     九州の歴史が見えれば、高句麗伝からの繋がりを考察できますね。方2.000の楽浪郡の中の南部に公孫氏が帯方郡を新設。(平壌?)と仮定。242年高句麗は遼東に進出する時、楽浪太守・帯方太守を滅ぼしました。247年にはウラジオストクに逃げる訳ですが。この時新任の太守が任命されますが、徐州・平壌の考古学から後漢から魏の徐州人を移動させるようです。
    辰韓の人も帯方郡に編入させようとしましたが、秦朝時代の徐州人を同じ民族と誤訳したようです。帯方郡のピンポイントの歴史。247年に張政が訪問する訳ですが、247年頃の韓族の反乱で帯方郡は陥落していますから要注意箇所では?普通に解釈したら整合性はありません。帯方郡が魏の出先の郡として活動してるのは、239-242年と247年の限定期間。半島南部と北部九州を当時舟で渡れるのは5-9月。半島の滿汐の最大高低差は局地的に10メートル・どう考察するかが楽しみですね。
     畿内のピンポイントは前回までにコメントしましたので、全国的には、単位面積当たりの人口密度は変わりなく?富士山の噴火での移民は瀬戸内・讃岐のようです。五斗長の民が、御上神社の孝元朝に鍛冶が伝わった民族の事をさしてるのか、遺跡調査で発見されている但馬の半島南部の王族が伝播させたのか?九州から東海の歴史。混沌?結局抜きんでたのは、畿内・大君家は不変なんですけど。300-400年との整合性を考えるのが200-300年の考察ですよね。

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      詳しいご教示ありがとうございます。
      まだまだ理解できてない部分がありますが、
      300-400年と200-300年の整合性ですね。
      了解しました。
      (わかってんのか?・・笑)

    • @trinitydisconnect
      @trinitydisconnect Рік тому

      @@これはどうでしょう 様1.800年前の数十年のタイムラグ判断難しいです。遺跡調査では、但馬には半島系の王墓は確認されているようです。鎌倉・室町・江戸の遠隔統治の概念は、この頃から?各大名は、京都や江戸、に館もってましたし。
       東近江の竹内宿禰の長男の羽田神社は、伊達政宗の飛び地だそうです。?どうゆう事?仙台?だったような?全てが古代史のヒントになるのかも?(笑)

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      あ~難し。
      全てのヒントをAIに入れたら答えを出してくれるかも。
      楽しみを奪われるだけですね!
      前言撤回(笑)。

  • @高橋邦雄-z2u
    @高橋邦雄-z2u Рік тому

    甕棺Ⅰ型で奴国が福岡でなく久留米周辺であることが分かるような気がする 伊都国吉野ケ里で伊都国は領域国家の一部です

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      甕棺Ⅰ期の時期は、まだ福岡平野も十分に発展しておらず、また奴国もなかった時代だろうと思います。
      奴国・・・と記述があるのは1世紀ですね。

  • @mizugamef6161
    @mizugamef6161 Рік тому

    素晴らしいレポですが筑紫をチクシと発声しているのがきになります。筑紫はチクシと発声するのでは?

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  Рік тому

      そうですね。
      調べると正式には「つくしへいや」ですね。
      昔は「ちくしへいや」と言ってたので、混乱してました。

  • @小川幸彦-h2u
    @小川幸彦-h2u Рік тому +1

    BGMがあわただしすぎる。見る人をなぜそんなに焦らせたい?内容が興味深いだけに残念。

  • @ももか1
    @ももか1 Рік тому +2

    やはり九州でしょう。👏👏👏

  • @愛は地球を救う-z6k
    @愛は地球を救う-z6k Рік тому +1

    卑弥呼は赤村らへんにいたんでしょうね

  • @yoshitome6648
    @yoshitome6648 2 роки тому +1

    委奴国王金印AD57、倭国王帥升107年。
    伊都国王金印238年、卑弥呼没248年
    台与朝貢266年。
    図の位置はちょうど使役の通じる30ヵ国
    邪馬台国の場所と一致すると思いませんか?

  • @user-be6mn6kp1u
    @user-be6mn6kp1u 2 роки тому +1

    조선반도와. 열도는. 인구의. 유출입이 반복된. 형제의 나라다.

  • @hiroshiendo8
    @hiroshiendo8 2 роки тому +1

    語りが下手過ぎるからだれかうまい人を使うべき

    • @これはどうでしょう
      @これはどうでしょう  2 роки тому

      そうなんです(笑)。
      中々上手くならないので、是非やってくれませんか?