【小田城】戦国最弱の武将「小田氏治」の常陸フェニックス伝説!9回も落城した城の様子を紹介します

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 10 чер 2023
  • 皆さんこの方を知っていますか?常陸の国の戦国大名、小田氏治公です。教科書にはきっと出てこないでしょうが、実は城好き歴史好きな方の間ではとても有名な人物なのです。
    氏治公は何故有名なのか。それは「戦に大変弱かった」ということ。数々の戦で負け続け「戦国最弱の武将」と言われています。特筆すべきは、本拠地である小田城を9回も落とされていること。一つの勢力の中心となる城が、こんなに何度も敵に奪われるなんて話はあまり聞いたことがありません。9回もゲームオーバーになっているということなので、もう戦国大名なんてやめちまおうか・なんて考えてもおかしくないわけです。しかし氏治公のすごいところはそこでめげず、その度に小田城を取り戻して城主に返り咲いていること。そのため「常陸のフェニックス」とも呼ばれています。
    小田城が何度も落城した理由の一つ目は「氏治公の戦略ミス」。ある戦いのとき少数の敵が山の上に待ち構えているのを見た家臣が「これは罠ですぞ」と氏治公に進言しました。すると氏治公は「なるほど、そうだな」と納得したような返事をするのですが、その後何も聞かなかったかのように突撃をかけてしまったという話があります。もちろん小田軍は撃破され大敗。そんな氏治公なので、しなくてもいい戦いを何度も仕掛けて城に敵を呼び込んでしまったことがあったのかもしれません。それでも付き従ってきた小田家家臣団ってスゴイですよね。
    二つ目は、「取られても取り返す作戦だった」というもの。城を必死に守り抜けばそれだけ味方の被害も大きくなります。だったら早めに逃げて被害を小さくし、チャンスを待って城を取り戻した方がいい!と考えていたのかもしれません。何度も落城しているのに氏治公が捕まらなかったのは早めの避難が行われていたから。「あそこまで敵が迫ってきたから今回も駄目だな」なんて判断は素晴らしく早く正確に行われたのでしょう。そして小田城はここから攻めればいい!なんてことも氏治公以下小田家家臣団は熟知していたのかもしれませんね。
    そして最後三つめは、これまで見てきた小田城は佐竹氏が改修したもので、氏治公の時代はもっと小さな城だったというもの。小田城は1569年に落城した後氏治公の手から離れ、その後廃城となるまで佐竹氏の城となります。佐竹氏は小田城に手を加えたと考えられており、氏治公が楽しんでいた池の一つはこのとき埋められてしまったようです。小田城がいつ頃大きな城になったのかはわかっておらず、周りのたくさんの曲輪が佐竹氏の手によるものであれば、氏治公の小田城はすぐに落城してしまうようなほんと小さな規模だったのかもしれません。そうであったら氏治公と小田城は戦国最弱だった・・ということになりますね。

КОМЕНТАРІ • 37

  • @46nogama
    @46nogama Місяць тому +1

    昔、まだ筑波鉄道が走っている頃、見に行きました。当時も土塁や堀の跡は、今ほどではないにせよよく分かりました。それなのに鉄道はど真ん中を横切っており、土塁の跡から気動車の通るのがよく見えました。

  • @user-qo4dh2fy4e
    @user-qo4dh2fy4e Рік тому +1

    「常陸のフェニックス」というパワーワード感笑笑。
    なんでしょう、本人達は至って真剣だったはずなのに一つ一つのエピソードも笑えてきますね。
    すごい面白かったです!

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому

      コメントありがとうございます。とにかく生き残る!みたいないろいろな戦略を持った武将たちがいたんですね。

  • @user-hr2db5pc9c
    @user-hr2db5pc9c Рік тому +2

    常陸のフェニックス!
    あだ名が......
    かっけー!!

  • @user-vc2wx1lp7b
    @user-vc2wx1lp7b Рік тому +2

    小田城、思ってた以上にしっかりした城だなー整備もしっかりされてて良い
    関東方面の城めぐりもそろそろしたいなぁ

  • @rp6736
    @rp6736 9 місяців тому +2

    ちょっと先に山が見えるので、山に城を作るという判断には至らんだったのだろうか?

    • @user-pk4ge2yl9c
      @user-pk4ge2yl9c 7 місяців тому

      城とありますが政務を行う場所的な感じなのかも。
      家臣の城が詰城的に活用していたならあり得るかも。
      甲斐の躑躅ヶ崎館と要害山城みたいな感じで。

  • @user-hr2db5pc9c
    @user-hr2db5pc9c 9 місяців тому +1

    建物跡のところも、建物を復元されないかなぁ
    逆井城みたいにさ

  • @user-lq6mj4ym1m
    @user-lq6mj4ym1m 11 місяців тому

    とてもおもしろかったです!
    映像もみやすくて、
    状況がよくわかりました。
    ありがとうございました~!

  • @wataken8527
    @wataken8527 6 місяців тому +2

    小田城は守城側の負け率が高く縄張りも鎌倉期の舘を大きくした感じで、しかも平坦な地形を好む鉄道線に貫かれている城塞だから違和感ばかりを感じた城でした。
    防御施設は在るにしても、コレは『敵野戦軍を誘って内部で潰す為の』罠城なのか?と疑った程。
    小田氏治は『人呼んで弱い方のオダ』と揶揄されますが、領民・地侍との強固な信頼関係の方を優先していたならば、甲州流軍学の『人は石垣・人は城』を実現していた傑物とも謂えます。
    大体、肖像画に猫を一緒に描かせるなんていうのはこの人くらいだから『勝敗は兵家の常』と飄々としていた性格だったのかも知れません。
    この人は野戦で負け続け、攻城どころか守城にも失敗するから不采配武将・欠格軍人呼ばわりは避けられないでしょうが、泰平な時代での行政官、近代軍でも宣撫士官としてなら超級の優秀者でしょうし、小田城も攻略目標となって内部を荒らされる代わりに領民への乱取り・略奪被害を減らす事が叶ったのなら、まさに地域の為の城とも言えるのでは?と観ています。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  6 місяців тому

      コメントありがとうございます。氏治公は領民にたいそう親しまれていたそうですね。被害を考えて早々に退去したかもしれませんね。

  • @TAIRA_TAKAMORI
    @TAIRA_TAKAMORI Рік тому

    遂に来ましたね!「不死鳥の城」w
    私が登城したときは整備事業が始まったばかりの頃でした。
    動画にもありましたがこの辺りは関東の勢力同士が接触しあうのか、長閑な風景に似合わず合戦が多かった地域。氏治公も苦労されました。
    動画の通り、9回も奪還しあった(つまり18回も落とされた?)とは思えない立派な城郭でした。
    なので私もかいのすけさんの「考え2」だったのではないかとずっと思っていました。戦闘を回避すれば領民に慕われたでしょうし、近江の六角氏も立派な観音寺城を早々に退去して、機を見て奪還するというのがセオリーだったみたいですので。(信長には通用しませんでしたが)
    ただ今回ご説明の「考え3」は私にとっては盲点でした。あり得る話ですね。京都の徳川家二条城と同様に、氏治公は故意に「奪還しやすい規模」にしていたのかもしれません。
    「線路で串刺し」には笑いました。でも線路がなくなった小田城や信州上田城はまだ幸運な方でしょう。小諸城、明石城、長篠城、平城京大極殿など、貫かれたままの例は多いです。特に中央本線と舞鶴通りで「十字」に斬られた甲府城は悲しくなるほどです。
    今回は「不死鳥の城」だったので、次回は筑波山の反対側にある「鬼の城」なのでしょうか?
    楽しみにしています!

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому +1

      コメントありがとうございます。そういえば串刺しになっても復元されているので、これも不死鳥伝説ですね!

  • @user-ponkotsukakumei
    @user-ponkotsukakumei Рік тому +3

    まぁネタとしては兎も角
    あの佐竹義重に勝った事がある武将が最弱はさすがに無いですわなw

  • @user-un4le7sl2e
    @user-un4le7sl2e Рік тому

    規模は違えども近江の六角氏と居城の観音寺城のイメージと少し重なります。敵対してきた周辺大名との力差を考えて居城の防衛には、余り拘らない戦略だったのもかも知れませんね

  • @fusako9452
    @fusako9452 6 місяців тому

    三原城も新幹線の駅ができて貫かれて(覆われて)ますね😢

  • @user-kazenodrone23
    @user-kazenodrone23 Рік тому

    小田氏治氏ははじめてききました。

  • @user-hr2db5pc9c
    @user-hr2db5pc9c Рік тому +2

    訪問お疲れさまでした
    小田城案内所には、筑波鉄道ホーム跡がありますね
    私の地元、茨城町長岡には、水戸電気鉄道線常陸長岡駅ホーム跡が残っています。史跡指定されていませんが。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому

      きっと廃線跡好きの方にはたまらない場所ですね!私は城好きですが。

  • @user-er4uw7pg1o
    @user-er4uw7pg1o 6 місяців тому +1

    桜川の水運を活用していたのかなとも思いますが、どうしてすぐ北に位置する宝篋山に城を構えなかったのか、実際に行った時に不思議に思いました。四方が開けすぎていて、如何にも攻めやすい地勢に感じられる場所でした。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  6 місяців тому +1

      確かに近くに山があります。開け過ぎた土地で戦いには不利に見えますね。

    • @455jj3
      @455jj3 Місяць тому

      ​@@kainosuke-rekishi
      筑波山は筑波神社の御神体なのでそこにお城を築くのは・・・。

  • @user-hr2db5pc9c
    @user-hr2db5pc9c 7 місяців тому

    近くの龍勝寺の山門は、小田城城門を移築したものらしいですよ

  • @user-sc8sj1lx1r
    @user-sc8sj1lx1r Рік тому

    以前歴史館の方に復元されたのは三楽齋が奪取する前か後か聞いたら、後だと教えて下さったので復元された小田城は恐らく佐竹氏による改修後の姿だと思います。

  • @MrYoshichan
    @MrYoshichan Рік тому +3

    失った城を何度も取り返しているので、氏治が最弱かどうかは微妙でしょうね。まあ小田城は守備側が何度も負けており、この城は戦国最弱の可能性は高いと思いますが。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому +1

      確かに!氏治公の勝率は5割くらいかもしれません。小田城は平城だったから弱かったのでしょうか・・。

    • @user-pm9yi4vc7r
      @user-pm9yi4vc7r Рік тому

      クルマで茨城南西部を走ると、小田城は筑波山のふもとだから、小田城の場所はポツンとした山を目標にすれば丸わかりで、兵力を集中させやすい場所にあるため、だと私は考えてます。水戸方面からだとわかりづらい。

  • @mitsukirei
    @mitsukirei Рік тому

    改札出たらすぐ玄関?な松代城もありますしw

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому

      駅舎とレール?がありましたね!今はバスターミナルでしょうか

  • @user-pm9yi4vc7r
    @user-pm9yi4vc7r Рік тому +1

    肖像画からして脇にタカを描くのではなく(武田?像)、脇に猫だもんな

  • @user-ov9ox8im5h
    @user-ov9ox8im5h Рік тому

    岐阜城なども何回も落城してますね

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  Рік тому +1

      そうですね、岐阜城は関ヶ原の前哨戦でも落城していますね。小田城の落城回数と肩を並べるくらいですが、立地が良すぎたのでしょうか。

  • @user-hr2db5pc9c
    @user-hr2db5pc9c 9 місяців тому

    小田城跡歴史ひろば案内所では、小田城の御城印を販売しています
    通常版、不死鳥版、愛猫家版の3種類です
    一枚300円

  • @user-eh2sq6fz1m
    @user-eh2sq6fz1m 16 днів тому

    30年位前まで 土塁の上にとても りつぱな欅が在り 如何にも 古城跡を思わせる 雰囲気で なぜ跡形もなく 無くしたのか 残念で なりません。