【お城紹介】金沢城の地形に注目「築城理由」と「防御の仕組み」は本丸高石垣と百間堀跡でわかる!前田利家が築いた加賀百万石の城

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 18 сер 2023
  • 北陸の古都金沢。城下町の雰囲気を今なお色濃く残す町です。その中心となるのが金沢城。江戸時代から残る石川門や復元された櫓群など見どころはたくさん。もともと大学や県庁などの公共施設が建ち並んでいましたが、今はその多くが移転し往時の様子がよみがえりつつある注目の観光スポットです。金沢城を築いたのは前田利家。信長に仕えたころは「槍の又左」、豊臣の時代は五大老そして秀頼の傅役(もりやく)として大坂城の実質的主(あるじ)となるなど、非常に力のある人物でした。江戸時代になると前田家は加賀と越中・能登を合わせた「日本で一番大きな大名家」に。「加賀百万石」ですね。そんな前田家の居城「金沢城」なので、とにかくあちこち凝っています。屋根は白く輝く鉛の瓦。櫓や塀は独特のデザインが美しい海鼠塀で統一。ずっと見ていても飽きなそうな金沢城ですが、意外とヘンテコな部分もあるんです。今回は城の「外側」を回って金沢城がどの様な城だったのか、全体的に見てみようと思います。(城内の様子については第二弾の動画で紹介しようと思っています)

КОМЕНТАРІ • 15

  • @muguramatsuba2840
    @muguramatsuba2840 10 місяців тому +2

    正確かつ的確な情報を抑えられてあり感心しました。他の方が寺院群について書かれていますが、浅野川方、犀川方の寺院群の他、兼六園より奥の小立野台地にも寺院群を配しさらに出城のように、天徳院を配していました。小立野の上には塩硝街道という道が遠く五箇山に続いていて途中の土清水あたりに塩硝蔵が設けられていたそうです。五箇山は塩硝を作る里で爆発物であるためその蔵は土塁で囲まれていたそうです。詳細はわかっていませんが、城の南東部もまた厳重な防御が施されていたようです。とても興味深いですね。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому

      寺院群は三ヶ所あったのですね。そして飛騨へのルートも。小立野の先も面白そう!見てみたいです。

  • @TAIRA_TAKAMORI
    @TAIRA_TAKAMORI 10 місяців тому +2

    金沢城UPありがとうございます。
    本丸石垣を積む時に一段の高石垣ではなく、階段状の複数石垣になってしまったことを、藩主が非常に残念がったという話を以前聞きました。積みなおしたときの話だったのですね。ありがとうございました。
    それにしても台地を掘り切って水堀にまでした工事は大変なものだったと思います。他には松江城の北面くらいしか例がないのでは?松江藩はその工事で資金が乏しくなったのか、北面側は石垣も低く、他の側に比べて手薄に見えます。搦手とは思えない堅固な城壁を完成させた前田藩の資金力は「さすが百万石」といったところでしょうか。
    暑い中、取材お疲れさまでした。次回も楽しみにしています。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому

      コメントありがとうございます。どうやら金沢城の石垣は、明治の陸軍の工事などでだいぶ崩れてしまっているようです。石垣の修復って思ったより難しいのですね

  • @machazard
    @machazard 10 місяців тому

    10月末に金沢マラソンに出るので、その時散策してみます。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому

      近くを走るのですか?頑張ってください

  • @user-em9tl4py3z
    @user-em9tl4py3z 10 місяців тому +1

    金沢城も豊臣大阪城や会津若松城や徳川名古屋城と同じで台地の上に築かれていたのですね🙇そして金沢城を守る為に兼六園が築かれたと聞いています。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому +1

      兼六園は砦のはずが戦が起こらなすぎて美しい庭園になっちゃったのかもしれませんね!

    • @user-em9tl4py3z
      @user-em9tl4py3z 10 місяців тому

      @@kainosuke-rekishi さん、確か武家諸法度で城の増改築が認められないけど何か庭園ならば大丈夫だから作ったと聞きましたけど。後金沢城の防衛システムで川の対岸の寺院や武家屋敷が隠れたお城のもう一つの防衛システムみたいですよ🙇

  • @user-ph3ve8xh2p
    @user-ph3ve8xh2p 10 місяців тому

    旧地からの転用とはいえ、大地先端の城、惣構え、大堀切(百軒堀)、寺町風の防御帯、幾多の長屋(多門櫓)からの横矢かがり・・・。秀吉の影響も沢山見られるようですね。幕府に睨まれ痴呆を装うとか徳川からの姫の輿入れによる縁戚構築など、城主の苦労も大変だった事でしょう。金谷出丸は巨大馬出しだったのかな。縄張り解説解りやすかったです。有り難うございます。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому

      ありがとうございます。大藩ゆえに常に幕府の目を気にしていた前田の殿様たちが改修してきた金沢城は、なんだかとても特殊な城のように思えます。資金があったころはそれを何に使ってるのかアピールする必要があったのかもしれませんね。

  • @modering7887
    @modering7887 10 місяців тому +2

    台地の上の寺町台地と浅野川沿いの卯辰山には寺町があり
    ヤバそうになったら、僧兵が詰めて防備を固めるようにしてた。その寺町をつくるために、金沢市の周囲の寺を防衛用に移転させてた

    • @modering7887
      @modering7887 10 місяців тому +1

      また、本当かどうかわかりませんが、寺町のある忍者寺の地下と本丸の地下はなにかあったときの逃亡用トンネルあったという伝説がある

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  10 місяців тому

      そう、お寺がやたら集まっているところがありますね!

    • @TAIRA_TAKAMORI
      @TAIRA_TAKAMORI 10 місяців тому

      台地続き(兼六園の南東方面)側にも寺が多くありますね。慶恩寺の前にある坂道は「二十人坂」といい、この地に鉄砲足軽二十人組の住まいがあったそうです。台地伝い側の防備にも手配していたんですね。